あのとき言えなかった六つのこと 「ありがとう」


 中学最後の文化祭、君は友達と楽しそうに笑っていた。

 僕は逃げるように屋上に出る。喧騒が遠ざかり、賑わう祭りを見下ろして、ようやく胸のざわめきが治まった。


 これでいい。

 僕はこれでいい。

 僕たちはこれでいい。


 今までのことは何かの間違いだ。アヒルと白鳥の子が、子供であるがゆえに一緒にいられた、ただそれだけのこと。

 ああ、もちろん白鳥は僕のほうだ。君は自分だと言うだろうけど。


 だからこそ、これでいい。

 美しささえ共有できない僕たちが、どうして一緒にいられるっていうんだよ?


 ……ごめんな、綾井。本当にごめん。

 僕には、心の中で謝ることしかできない。

 本当はきっと、もっと別の言葉を、君に贈るべきだとわかっているのに。






 一年前から今までずっと、僕は僕の定義付けを試みていた。

 僕と彼女には隔たりがあると知っていたのに、どうして結局、別れるのを卒業まで引っ張ったのか。

 以前は好きだったはずの言葉が、仕草が、どうしていきなり、何もかも疎ましく感じるようになったのか。


 きっと僕の中には、好意と嫌悪が共存していたのだ。

 君が好きだったのは真実で、君が嫌いになったのも真実で、矛盾するのに、両方とも間違っていない。

 それが苦しかった。痛かった。悲しかった。

 矛盾が生み出す軋轢が、ずっと僕の精神を軋ませていた……。


 だから、ようやく別れを切り出したあのとき、あんなにも晴れやかだったのだ。

 もう、恋人でないのなら。

 僕は彼女のことが、嫌いなんだということだろう。


 矛盾が消え、軋轢が消えた。


 だから、義理のきょうだいになったときも、別れる前よりかは楽だった。

 別に、家族であることと嫌いであることは矛盾しない。

『嫌いになったから別れた』。僕がつけたその決着に、何ら疑義を呈するものじゃない。

 ……そのはずだったのに。




 あの夏の日に、すべてが狂ったのだ。

 花火に照らされた君の顔が、僕の定義を歪ませたのだ。




 すべて嘘だと言ってくれ。ただの夢だと言ってくれ。

 でなければ僕たちは、何のために別れたんだ?

 あの苦しみは、痛みは、悲しみは、いったい何だったんだっていうんだ?


 嫌いになったから別れた、そのはずなのに。

 どうしてこんなに、君の顔が焼き付くんだ――






◆ 川波小暮 ◆


『――これにて、今年度の洛楼高校文化祭を終了します。ご来場ありがとうございました』


 校内放送を聞きながら、オレは「はあー……」と深い溜め息をついた。

 食材が尽き、茶葉が尽き、豆が尽き、そして時間が尽き、忙しかった文化祭もようやく終わりだ。

 まるでバイトでもやってるみたいだったな。ま、やかましい上司や先輩がいないってだけで、働くのも悪くなかったけどよ。


「お疲れ」


 客のいないテーブル席でぼーっとしていると、ぴたりと冷たい缶が頬に当てられた。

 振り向くと、クラT姿の暁月がいた。

 チビ女は、オレの対面に腰掛けると自分の缶ジュースを開ける。オレンジジュース。オレに渡されたのはコーヒーだった。


「……豆から挽いたコーヒーを一日中運んでたってのに、自分で飲むのは缶コーヒーか」

「飲みたくなってる頃かなって思ってさ」

「サンキュー」


 業腹ながら、よくわかってやがる。オレは缶コーヒーのプルタブを開けた。

 高級とは言いがたい苦味と酸味を舌で転がしながら、周囲の喧騒に身を浸す。暁月や伊理戸さんとよくつるんでる坂水が、コンビニ袋をジュースやお菓子でパンパンにして登場し、クラスメイトに配っているところだった。この缶コーヒーも、あの物資の一部だろう。


「どうだった? 文化祭」


 元気にテンションをブチ上げているクラスメイトの声に混じって、暁月の声が届いた。

 幼い頃から聞いてきた幼馴染みの声は、どんな環境でも不思議と響く。


「楽しかったぜ。特に二年の脱出ゲームは傑作だったな」

「あ、あれ行ったんだ? あたしも麻希ちゃんと行ったー。途中でタイムアップになっちゃったけど」

「はッ。背丈だけじゃなくて脳味噌まで小っちぇーな。オレたちはクリアしたぜ」

「何それ小顔って意味? そっちは五人でこっちは二人なんだから仕方ないじゃん」

「……ん? 五人で回ったって言ったっけか?」

「あ」


 暁月は気まずそうに目を逸らした。どこかですれ違ってたんかね。


「回ったっていやあ、伊理戸たちはどうなったんだろうな。模擬店の準備が忙しすぎて、あんまり口出せてねーけど」

「あんたが口なんか出さなくたって、ちゃんとデートしてるよ。……東頭さんも一緒だったけど」

「はあ? 何してんだあの女。それじゃデートじゃねーじゃねーか!」

「仕方ないじゃん。あの過保護な伊理戸くんが、東頭さん一人だけ放っておくわけないし」

「そりゃそうだが……」

「文実の見回りで二人きりの時間はあったみたいだし、いいんじゃない?」


 まったくもって焦れってーな。そういうもだもだも、恋愛の醍醐味なんだろうけどよ。


「……まあ、まだ後夜祭もあるしな。東頭の奴は、どうせとっとと帰るんだろうし」

「そうだねー。文実の仕事だってもうほとんどないだろうし……」


 ……後夜祭か。

 オレは、どうすっかな――


「――ねえ」


 ふと過ぎった思考を目に見ていたかのように、暁月は言った。


「後夜祭……誰かと、約束してる?」

「……別に?」

「自称モテるんでしょ? 誘われてないの? ……西村さんとか」

「喧嘩売ってんのかてめえ。んな告白紛いのことされたら、今頃保健室で寝込んでるっつーの」

「それじゃあ……あたしと行こうよ」


 暁月は――あーちゃんは。

 窓から射し込む夕日を背負いながら、そう言った。

 逆光で薄い影に覆われた瞳が、窺うようにオレの顔を見つめていた。

 ぞくりと、腕の皮がざわつく。

 告白紛いの――


「そしたら、あんたもゲロ吐かずに済むでしょ?」

「……あ?」

「幼馴染みのよしみで、女除けになってあげるって言ってんの。まあ一応、その体質はあたしが原因だし、そのくらいの責任は取ってあげるよ。……あれ?」


 頭が置き去りにされたオレを見て、暁月はことりと首を傾げて、にやりと口の端を吊り上げた。


「もしかして、告られたと思った?」

「……んなわけねーだろ」

「マジ自意識過剰。きも」

「んなわけねーっつってんだろ!」


 くっくっく、と暁月は勝ち誇るように笑う。

 ……自意識過剰はどっちだっての。くそっ。






◆ 伊理戸結女 ◆


『――これにて、今年度の洛楼高校文化祭を終了します。ご来場ありがとうございました』


 夕空に放送が響き、一般来場者が正門から流れ出ていく。

 スマホを見れば通知があり、〈そろそろ帰るね! 楽しかった~!〉と円香さんからLINEが来ていた。


 それを後目に、後夜祭の準備が賑やかに進んだ。

 一部の屋台を撤去して、校庭に場所を空けて、大きな木材を積み上げて。

 水斗も、決して中心ではないけれど、その中に混じっていて、……けれど、その笑みが本物ではないことを、私だけが知っている。


 思い上がっていたのかもしれない。

 夏休みの田舎で、少しわかった気になって。……だから、私なら彼を助けられるんだって、驕ってしまった。

 彼は別に、助けなんか求めちゃいないんだって、気付けなかった。

 それはただの……私の、願望でしかないんだって、気付けなかった……。


 私はただ、自分の好きな人が、自分の家族が、自分の元カレが、人に認められることが気持ち良かっただけ……。くだらない承認欲求を、彼を使って満たしていただけ。

 今の今に至るまで、彼はそれに付き合ってくれていたんだ。

 私の顔を立てて、文実で波風を立てないようにしてくれていた。私のために、自分を押し殺してくれていた。


 今ならわかる。

 作業を早めに終わらせていた理由。忙しいのに、それでも東頭さんに会いに行っていた理由。あれは、居場所のない東頭さんに気を遣っていたわけじゃない。


 東頭さんの前なら、素の自分でいられるからだ。

 誰にも気を遣わなくていいからだ。


 ……家族であるはずの、私ですら。……水斗にとっては、もう、仮面を被らなければ話せない相手なのだ……。


 自分の愚かさに吐き気がした。涙を流すことすら、おこがましい気がした。

 こんなにも遠い。

 一度は届いたと感じた彼が、こんなにも遠い。

 恋焦がれることすら無謀だと、感じられるくらいに――






◆ 伊理戸水斗 ◆


「大恥を掻きました……」


 後夜祭の準備後に合流したいさなは、なぜか顔を赤くして、ぷるぷると震えていた。

 その胸には紙袋を抱き締めている。格好が制服に戻っているから、おそらく南さんに着せられたディアンドルが入っているのだろう――って。


「……まさか、あの格好のまま教室に戻ったのか……?」

「忘れてたんですーっ! クラスの人に言われて気付いて……『可愛い』とか『似合ってる』とか『彼氏の趣味?』とか、散々からかわれて……」

「それは単純に褒められて――いや待て。僕に飛び火してないか、それ」


 この大SNS時代にまた余計な噂を――ああもう、いいや。

 いさなは紙袋を押し付けてくる。


「この服は結女さんに返しておいてください……。洗って返そうと思いましたけど、洗い方がわからないので……」

「ああ、わかった」

「匂いを嗅ぐのはほどほどにしておいてくださいね」

「嗅ぐか。僕は君とは違う」

「ひうっ。……な、何のことやら~……」


 人の枕にあれだけぐりぐり顔を埋めておいて、今更何をとぼけるつもりなんだ。


「それじゃあ行くか」

「はい~。キャンプファイヤーなんて初めてかもです。……やっぱり踊るんですか?」

「そういう奴もいるだろうな。君じゃないが、でかい火を眺めるだけでも案外見応えはあるだろう。お焚き上げみたいなものだ」

「ですよね~! でかい火ってテンション上がりますよね~!」

「……君に炎系の能力は与えないほうが良さそうだな」


 では早速行きましょう、と昇降口に足を向けたいさなの二の腕を、僕は掴んだ。


「待った。そっちじゃない」

「ふぇ? ……校庭に行くんじゃないんですか?」

「僕らには、もっといい場所がある」


 ぱちくりと瞬きをするいさなに、僕はにやっと笑ってみせた。

 あれだけ働いたんだ。このくらいの報酬はもらわないとな。






◆ 伊理戸結女 ◆


「では、委員長として一言――お疲れ様!」

「「「お疲れーっ!!」」」


 紅先輩の音頭で、グラスを打ち合わせる音が響いた。

 文実のメイン拠点として使われていた会議室に、上級生の先輩たちが買ってきたお菓子やジュースが広げられている。打ち上げとしては可愛いものに見えるけれど、後夜祭が終わった後にお店を借り切って二次会をやる予定だそうだ。つまりこれはただの前座。


「いやー、結女ちゃーん! 行ったよ大正ロマン喫茶ー! めっちゃよかったー!」

「あ、ありがとうございます」

「あれ? 弟くんはどうしたのー?」

「えっと……ちょっと、他に用があるとかで」

「えー? そっかぁ。残念だなぁ……。もうちょっと話したかったのにー」


 安田先輩を中心に女子が話しかけてくれて、壁の花にはならずに済んだけれど、私の胸にはぽっかりと穴が空いたようだった。

 一年前の私なら、こんな風に打ち上げで先輩と話すことなんてできなかった。身の置きどころを探して右往左往するのが精一杯だっただろう。


 これは、成長のはずだ。

 私は強くなった。上手くなった。人間として生きることが……上達した。


 ……そのはずなのに、どうしてこんなに虚しいのかな。

 こんなにたくさんの人に囲まれているのに、たった一人の空白が、どこまでも大きい。


「やあ、結女くん。お疲れ様」

「あっ……委員長。お疲れ様です」


 紅先輩がやってきて、私の隣の席に座ってきた。急のことで、私は緊張する。

 他に話す人がいくらでもいるだろうに、なんで私の隣に?

 先輩は目の前のお菓子には目もくれずに、私をまっすぐに見て微笑む。


「『委員長』も、そろそろおしまいだけどね」

「あー……じゃあ、『副会長』ですか?」

「それも、そろそろおしまいだ。そのうち『会長』と呼んでくれたまえ」


 紅鈴理次期生徒会長は、冗談めかしてそう言った。

 すごいなあ……。自分が会長になることに、少しも気後れしていない。こんな風に自信を持てる人間に、私もなりたかった……。付け焼き刃じゃあ、とてもこの人のようにはなれない。

 文実が終わったら、紅先輩とも接点がなくなるんだろうな。私は彼女を仰ぎ見る一人の生徒になる。そう思うと名残惜しかった。


「そういえば、弟君が来ていないみたいだね」


 私の隣を見て、紅先輩が言った。


「あ、はい。彼は――」


 私は幾度となく繰り返してきた説明をしようと口を開き、


「――やっぱり、彼はそっちのタイプだったか」


 先輩の独り言のような呟きに、口を噤む。

 え? そっちのタイプ……って。


「これはすまないことをしたかな。一応、その可能性も考えてはいたんだけど――どっちにしろ、放置しておくよりはマシだと思ってね」

「ちょ、ちょっと待ってください。話が見えないんですけど……」

「ああ、ごめんごめん。彼を輪に入れてあげてくれと君に頼んだ件だよ」


 事もなげに、先輩は言う。


「プレゼンのときの様子から、どうやら彼は集団に馴染むことを好まないタイプだということはわかっていた。とはいえ、没交渉では効率に支障をきたすからね。彼ほど有能な人材を浮かせておくわけにはいかないから、キミにパイプ役を頼んだんだ――実は寂しがりだという可能性もあったけれど、大方の予想通り、大勢に囲まれるのがストレスになるタイプのようだね。給料があるわけでもないのに合わない環境を強いて、悪いことをした」

「先輩は……わかっていたんですか? 最初から……」


 私は……気付いてなかった。内心寂しがりなんだって、都合のいい風にしか考えてなかった……。なのに、先輩は――


「いや、違うよ。ぼくじゃない」

「え?」


 紅先輩は、自嘲的に口の端を上げた。


「どうもぼくは、少々傲慢なタチらしくてね。いまいち他人の長所がわからないというか――何でもかんでも『自分でやったほうが早い』と思ってしまうタイプなんだ。自覚はしていても、これがなかなか直らなくてね」

「はあ……」

「だから、その辺りはジョーに任せているんだよ。さっきの弟君の分析も、ぼくじゃなくてジョーの仕事だ」


 ジョー……って、会計の羽場先輩?

 異常に存在感のない副会長の片腕は、今は会議室の隅で、一人ちびちびとジュースを飲んでいた。

 そっちに視線を向けながら、紅先輩は続ける。


「彼の会話能力はおよそ文明人とは思えないくらい退化しているが、代わりに目が良くてね。人間観察の達人なのさ。他人のいいところ探しをさせれば、彼の右に出る者はいない」


 何だか、ちょっと口調が自慢げだ。

 私が相槌を挟む暇もないくらい、紅先輩は流暢に語り続ける。


「それゆえか、極端に自己評価が低いのが玉に瑕でね。伊理戸水斗くんについても、『自分の上位互換を見てるみたいでムカつきます』などと評していたよ。ぼくは決してそうは思わないのだけどね」


 いや絶対水斗のほうがカッコいい。

 と反射的に思ったけれど、口には出さないでおいた。これが社交性。


「もしかしたら、だから彼を他の文実と仲良くさせろ、なんて言ってきたのかもね。ジョーはまさに『実は寂しがり』なタイプだし、内心シンパシーを感じていたのかもしれない。ジョーが対応を誤るなんて珍しいと思っていたけど、彼のことを自分と同じタイプだと考えていたなら――」


 話を聞いていて、もしかして、と思った。

 私を通じて、他の文実と水斗を仲良くさせようとしたのは、羽場先輩だった。それが羽場先輩には珍しい失敗だったとすると――


「あの……もしかして」

「うん?」

「引き離したかったんじゃないですか……? 紅先輩、ずいぶん水斗に話しかけてたから」

「……うん?」


 紅先輩はきょとんとした顔で、首を傾げた。こんな顔初めて見た。


「引き離したかった……? 誰と誰を?」

「水斗と、先輩を……だと、思いますけど……」

「んん???」


 こ、これ以上詳しく説明させないでほしいんだけど……!


「ですから……羽場先輩は、水斗のことを自分の上位互換みたいだって言っていたんでしょう? そんな男子が突然現れて、しかも紅先輩が積極的に絡みに行くもんだから、不安になったんじゃないかって……」

「不安に? ジョーが? なぜ?」

「や、ヤキモチを焼いたからですよ!」


 ああもう! こっちが恥ずかしくなる!

 紅先輩は首を傾げたまま、


「ヤキモチ……嫉妬……?」

「は、はい」

「ジョーが……ぼくに?」

「そうだと思います……」

「…………いやあ、ははは。まさかそんなバカな」


 焦れったいなあもおおおお――――っ!!


「絶対ヤキモチですって! 確かに羽場先輩、あんまり感情を表に出すタイプじゃありませんけど、あの空き教室のときはちゃんと耳赤くなってたじゃないですか!」

「――ん? ……ちょ、ちょっと待ってくれ」

「え? はい」

「キミ……見てたのかい? 空き教室でのこと……」

「……あ」


 しまった。うっかり……!


「す、すみません……! 教室を出た後、お二人の話し声が聞こえたので……!」


 紅先輩はふいっと顔を背けて、私から隠す。


「……いや、気にしなくていいよ。元はといえば隠れていたぼくたちが悪いんだし」


 そして、普段通りの声で言う――けれど、私は気付いていた。あのときの羽場先輩と同じように、耳が赤くなっていることに。


「言っておくけれどね! 本来、あんなにはしたない女ではないからね、ぼくは! ……ただ、ジョーが打っても打っても響かないものだから……」


 ……女の子なんだなあ……。

 いや、当たり前のことなんだけど、これほど頭のいい、天才なんて呼ばれている人でも、恥ずかしいことがあれば赤くなるんだ――というか、あの空き教室での羽場先輩とのやり取りを、恥ずかしいものだって認識しているんだ。

 ……ってことは、羽場先輩の前でだけ、そういうキャラを演じてるってこと?


「あの……差支えなければでいいんですけど」

「……え?」

「どうして、羽場先輩のことが好きなんですか?」


 まだほのかに赤い顔で、紅先輩は振り返った。


「……べつに、好きだなんて言っていないのだけど?」

「えーっと……じゃあ、一緒にいるようになった切っ掛けとかでも」


 いや、空き教室で『惚れた』って言ってたじゃん普通に、と思ったけれど、ここは踏み込まないのが吉だ。

 あの空き教室では、理想がどうこうなんて説明していた。

 けれど、あれが羽場先輩用のキャラであるなら、……もっと真に迫った、本当の理由があるはずだ。

 現実逃避がしたいのかな。……今は、他の人のそういう話が、無性に聞きたかった。

 先輩は、溶けかけた氷の入ったグラスを軽く揺らす。


「……切っ掛けなんて、大層なものはなかったさ。ただ、一人の存在感のない少年がいた。少年の有能さに、たまたま気付いた女がいた。その『たまたま』に、未熟で傲慢な女が惑わされた。それだけの話だよ」


 ……未熟で、傲慢。

 まるで、今の私みたいだ。


「ぼくは中学時代、大きな失敗をしてね。その原因は、ぼくがぼく自身を、完璧で正しいと思い込んでいたことにあった。まあ、思春期によくある、自意識の肥大というやつさ。だからぼくは、その欠点を補完してくれる存在を探していた。そんな折に……たまたま気に掛けていたぼっちの陰キャが、このぼくにこんな風に言い放ちやがったんだよ」


 ――あなたはてんでダメです。俺はそっとしておくべき存在なんだと、あなた以外の全員がわかっていますよ。勉強はできるくせに、どうしてその程度のことがわからないんですか?


「『ぼくだけはわかっている』と思っていたのに、逆に『ぼくだけがわかってない』って言われてしまったんだよ。ショックだった……。何より、ショックを受けたことそれ自体がショックだった。自分の、心の深いところにある、柔らかな部分に突き刺さった気がしたんだ……」

「……それでも、距離を取ったりは、しなかったんですか?」

「当然だよ。腹が立つじゃないか! まともに人と話せもしないくせに、このぼくに楯突くなんて! ……同時に、この同級生こそがぼくが探していた存在だって、わかってしまった。だから色仕掛けでも何でもして手に入れてやろうとして……」


 すいっと、紅先輩の目が動いた。

 存在感のない羽場先輩は、こういう大勢が集まる場では、すぐに見失ってしまう。

 けれど、紅先輩は迷わない。探さない。

 今まで何度もそうしてきたように、一瞬で見つけ出すのだ。

 幾百幾千と人間がいようと、決して紛れることのない、その顔を。


「……本当に、腹が立つよ。ぼくの視線にこんなに気が付かないのは、アイツだけだ」


 拗ねたような言葉に、私はくすりと微笑んだ。

 そこにいるのは先輩ではなく、天才でもなく、ただの一人の、初恋に戸惑う少女だった。


「ああもう! 後輩の前でこっ恥ずかしい話をしてしまった!」


 手元のジュースをぐびぐびと飲み始めた先輩に、私は言う。


「恥ずかしくなんてないですよ。どこの誰にでも、あることですから」

「……だとしたら、ぼくは全人類を尊敬するよ」


 本当に、まったく。

 こんなに頭のいい人でもままならないのだから――完全に上手くできる人なんて、きっとこの世に一人だっていないのだろう。

 たとえ相手が、一度は付き合えた人でも。


「おっ! そろそろ始まるぞー!」


 窓の外を見て誰かが言った。それを切っ掛けに窓際に人が集まり、あるいは足早に会議室を出ていった。

 校庭に面した窓が、ほのかに赤く照らされている。キャンプファイアーが灯されたのだ。

 それを見やりながら、私は先輩に、


「先輩も羽場先輩と一緒に行ったらどうですか? 『実は寂しがり』……なんでしょう?」

「……結女くん。キミ、急にぼくのことを下に見始めていないかい?」

「親しみを覚え始めたと言ってほしいです」


 はあ、と溜め息をついて、紅先輩は立ち上がる。


「まあ……そういう後輩が、一人くらいいてもいいか」

「はい?」

「ぼくはね、こんな恋バナもどきをするために、キミに話しかけたわけじゃないんだよ」


 座ったままの私を真剣な目で見据えて、先輩は告げた。


「結女くん――次期生徒会長であるぼくからキミに、頼みたいことがある」


 その『頼み』を聞いて、私は自分の『運命』が、とっくに変わっていたことを知った。






◆ 伊理戸水斗 ◆


「おお~……」


 扉を抜けるなり、いさなはぐるりと辺りを一望した後、夜になった空を仰いだ。

 秋の夜風が静かに吹き抜ける。喧騒も灯りも、人の息吹も遠い場所。

 校舎の屋上だった。


「屋上、初めて来ました。あったんですね~」

「普段は閉まってるらしいからな。けど、今は文実だけ出入りできるようになってる。今朝、なんとなく来てみたら、ここからでもキャンプファイヤーが見えそうだと思ってさ」


 落下防止の金網に近付けば、校庭の真ん中に設置された大きな焚き火が見下ろせた。

 ちょうど火が灯り始めた頃だ。パキパキと弾ける音を立て、組まれた木材の中で赤い炎が瞬いていた。


「間近で見るよりは小さいかもしれないけど、ここも静かでいいだろ? それに、余計な噂の的にならなくて済むしな」

「そうですねー。わたしはこっちのほうが落ち着きます。ふふふ! 人がゴミのようだ!」

「興奮してるじゃないか」


 静かなのはいいが、肌寒いのが玉に瑕だ。僕は「ほら」と、自販機で買ってきたホットミルクティーをいさなに渡してやる。いさなは「ありがとうございます」と言って、プルタブを開けた。缶を手で覆うようにして、ちびちびと飲み始める。

 僕も自分の缶コーヒーを開けて、口を付けながら校庭を見下ろす。キャンプファイヤーの周りに人だかりができていた。ゴミのよう……ではないけど、ここからじゃあ見分けはつかない。


「文化祭、結構楽しかったですね。こんなにちゃんと楽しめたのは初めてかもです」

「ちゃんと楽しめた、って?」

「なんていうんですかねえ。こういう空気感を外から眺めているだけでも、それはそれで結構面白いじゃないですか。出し物に参加したりしなくても」

「……本当に気が合うな、君は」


 僕も、連帯感を強制されたりしなければ、別に文化祭は嫌いじゃないのだ。非日常感に浮ついた学校を眺めるのは、それだけでそれなりに面白い。どうにも傍観者的というか、動物を見るような感覚になってしまっているのは、世間的には決して褒められたことじゃあないんだろうが。


「君は中学だと、文化祭はどんな風に過ごしてたんだ?」

「基本的に、教室でラノベ読んでましたね。水斗君は?」

「僕も教室で小説を読んでたよ。夢野久作だったかな」

「わたしは去年だと、書籍化してないなろう小説でしたね」

「君的にはそれもラノベなんだな」

「そうですねー。文化祭って、読んだことないやつより好きな小説を読み返したくなるんですよね。なんででしょう?」

「……さあな。文化祭という環境の中で、自分を見失わないようにするため、とか」

「それと、ちょっとエッジの利いた、マイナーめのやつを読みたくなるんです。なんでだと思います?」

「知るか。それが君のささやかな自己主張なんじゃないか?」

「スマホでウェブ小説を読んでても、傍目には何をしてるかさえわからないのに、変ですよねー……」


 僕は記憶を掘り起こす。文化祭で夢野久作を読んでいたのはいつだっただろう。

 去年は、違う。何せ、著者名の読みが悪すぎる。

 あんな状況で……『ユメ』なんて字、きっと意識したくもなかっただろうから。

 だから、そう、そのさらに一年前。

 中2のとき――あの女と、付き合い始めてすぐの頃だ。


 付き合っていることを周囲に隠すと決めた僕たちは、当然、文化祭を一緒に回ろうなんて考えもしなかった。

 けれど……初めての恋人と過ごす文化祭に、期待していなかったと言えば嘘になる。

 きっと内心では、憧れていたのだ。

 だから、もしかすると……ささやかな、自己主張だったのかもしれない。

 野久作と、表紙に印字された本を、これ見よがしに広げていたのは――


「――ところで、水斗君」


 いさなの声と視線に、僕は物思いを打ち切られ、


「結女さんは、いつ来るんですか?」


 続いた質問に、凍りつくような思いをした。

 どうしてかは、わからない。……ああ、ああそうだ。いさなからすれば、決しておかしな質問じゃない。僕は二人きりだなんて言っていないし、文化祭を回った流れで、結女も一緒だと考えるのは当然のことだ。

 なのに、どうして、痛いところを突かれたかのように思ったんだ?


「……言い忘れてたな。あいつは来ないよ。文実の打ち上げがあるからな」

「そうなんですか。……んー……」


 いさなはミルクティーの缶を見下ろして、何か言いたげに唸ったが、……結局、そのまま口を噤んだ。

 僕には何を飲み込んだのか、手に取るようにわかった。


「今……なんでお前は打ち上げに出ないんだって言おうとしなかったか?」

「しましたけど……わたしが水斗君の立場だったら出ないな、と思って。別に面白くなさそうですし」


 ……やっぱり、こいつはよくわかってるな。

 本当に、ありがたいと思う。この学校にいさながいて、クラスが違うにもかかわらず知り合えたのは、きっと僕にとって、最大級の幸運だ――


「……でも」


 ――そして、同時に。


「結女さんは、寂しいんじゃないですか?」


 最大級の、試練でもある。

 誰よりも僕を理解し、誰よりも僕に共感する、彼女だけは。……僕自身が誤魔化し、ひた隠しにしていることさえ、簡単に抉り出してしまうのだから。

 少し前の彼女なら、ここまでは踏み込まなかったかもしれない。

 けれど、ついこの間、僕自身が証明してしまった。僕も君も、大して変わりはしないと。だから、遠慮する必要はないのだと。


「結女さんのことだから、きっと文実でも上手くやっているんでしょうね。だから打ち上げでも、きっと楽しい時間を過ごせるんでしょうね。……けど、本当に一緒にいたい人がいなかったら、きっと寂しいですよ」

「……それが、僕だって?」

「わかっているんじゃないですか? ただ認められないだけで」


 そうかもしれない。

 そうじゃないかもしれない。

 でも。


「だから、僕が行きたくもない集まりに行けって言うのか。君を一人で帰して?」

「それは……嫌ですか?」

「当たり前だ。言っておくが、僕は君のことを、結構大切にしているんだよ」

「……へへ。それは、嬉しいです」


 いさなはミルクティーの缶に、唇を触れさせる。


「でも……結女さんは、この数週間、一緒に頑張ってきた水斗君と、一緒にいたかったんじゃないかなあって……思うんですよね。ただの、想像ですけど」

「……もし、そうだとしても」


 夜空の黒が、炎の赤に、ぼんやりと照らされた。


「その寂しさを……乗り越えるべきなんだよ、きっと」






◆ 伊理戸結女 ◆


 文実の流れに乗るようにして、私は一人で校庭に出た。

 赤々とした炎が、校庭の真ん中から立ち上り、星のように煌めく火の粉を夜空へと舞い上げている。

 人だかりの後ろから黙ってそれを見上げていると、視界の端に知り合いの顔が映った。

 暁月さんだ。

 私は声をかけようと口を開いた。


「あ――」


 けれど、すぐに気付く。

 その隣に、川波くんがいることに。


 二人は何か話しながら、隣同士に立っていた。手を繋ぐでもない、ただ息遣いや体温をほのかに感じられる程度の距離で。

 話すときに、お互いに目を向ける。それが終わると、炎に目を戻す。


 でも、傍から見ている私だけが気付いた。


 川波くんが炎を見ているとき、暁月さんは川波くんを見ていた。

 暁月さんが炎を見ているとき、川波くんは暁月さんを見ていた。

 炎に照らされた、お互いの横顔を。






◆ 伊理戸水斗 ◆


「それが結女さんのためになると、水斗君は思っているんですか?」


 直截ないさなの物言いに、僕は逃げ場もなく、素直に肯く他にはなかった。


「僕とあいつは、根本的に違う人間なんだ」


 舞い上がる火の粉が消えていくのを眺めながら、


「合っているように見えたのは、いつも表面だけだった。本好きと一口に言っても好みは全然違ったし、一人が好きだった僕とは違って、あいつは一人になるしかないだけだった。スキルが伴えば、違うコミュニティに離れていくのは必然だ。僕たちはたまたま、偶然、一時的に、同じ場所にいたことがあるだけの人間だったんだ」


 そんなことは、きっと一年前にはわかっていたんだ。

 認めたくなかった。足掻きたかった。

 けれど僕は、どんなにつらくても、自分を変えるつもりにはなれなかった。


「小説には、成長する主人公がいるよな。ぼっちに大勢友達ができて、無能と蔑まれた人間が頂点に立つ。僕はいつも、そんな主人公に共感できなかったよ。だって、彼らが成長と呼ぶそれは、紛うことなき自己破壊だ。自分を壊してまで友達が欲しいのか? 頂点に立ちたいのか? そんなのが成長だっていうのなら、友達がいないのに満足している僕はなんなんだ。底辺に甘んじても気にならない僕はなんなんだ。――人間って、そんなに『成長』しなくちゃダメなのか?」


 僕には破壊できる自分がない。

 成長すべきステータスがない。

 いつも思う。僕には理想がない。こうじゃないという違和感ばかりで、こうすべきだという理想がない。こんなに小説を読んでいるのに、じゃあこんなのを書いてみたいと欲が湧いてくることもない。自分から生まれいずるものが何もない。


 全部、継ぎ接ぎだ。

 読んできた小説から、他人の人生から盗んできた、人間の継ぎ接ぎ。


 レベルを持たない人間は、レベルアップすることはない。成長を描く多くの小説は、けれど決して描かないのだ。を、そもそも持ち合わせない人間を。

 誰でもこんな風になれると言いながら。

 その『誰でも』に含まれない人間もいると、わかってはくれないのだ。


「僕は元来、そういう人間だったんだ。上達はできても成長はできない。どうあっても自分を変えることはできない。。自分がそういう風に生まれたってことを、半年もかけて理解したんだ……」


 誕生日も、クリスマスも、バレンタインも。

 何もせずにいて、それでも平気でいられる自分を見つけたとき、……憑き物が落ちたように理解した。

 僕と綾井は、違う人間だと。


「悪いとは思わない。劣っているとも思わない。。……君にならわかるだろう、いさな? そういう人間もいるってことが。そして、そういう人間は、そうじゃない人間とは、根本的にはわかり合えないってことがさ」

「……はい。わかります」


 いさなは迷わずに肯いた。そのことが、僕にとっては大きな救いだった。


「わたしも、ずいぶん傷付きました。『違う』ということに……『違う』ということを、わかってもらえないことに。水斗君に出会うまで……」

「だろ。だから――」

「でも。……でもですよ?」


 いさなは僕の瞳に、じっと視線を注ぎ込む。

 言葉が、決して、漏れないように。


「確かに、水斗君と結女さんは『違う』人だと思います。考え方が、生き方が、捉え方が、何もかも根本的に違うと思います。合う人間と結婚すべきだっていうお母さんの言葉に従うなら、二人は結婚すべきじゃないんだと思います。……ですけど、そういう人を、好きになっちゃいけないってことはないんじゃないですか?」

「……なんでだ?」

「もし水斗君が、あるいは結女さんが、違う人のことを理解できない排他的な性格の人だったら、成立しないでしょう。でも、例えば異性愛の人と同性愛の人でも、友達として一緒にいることはできます。お互いに共感はできないかもしれないけど、理解を示すことはできます。そうですよね?」

「…………そう、だな」


 例えば――僕は、結女ほどに推理小説が好きじゃない。

 けれど、結女が語る推理小説の話を、聞くことはできる。彼女が感じた面白さのすべてに共感することはできない――けれど。でも。その時間は、決して……。


「生まれた場所や育った環境、考え方や生き方が全然違う人同士が好き合うなんてこと、調べればいくらでもあるでしょう? 水斗君が読んできた小説にだって、いくらでもあったでしょう? なのに、なんで自分にはできないって思うんですか?」

「……………………」


 ああ、いさな――君の言うことは正しいよ。

 確かにあの凪虎さんの娘だと、そう実感する程度には――君の言うことは、痛いくらいに正論だ。

 でも、……だからこそ、理解する。

 自分という人間が、筋道の立った正論では納得できないくらい、ねじくれていることが。


「――なあ、いさな。『好き』ってなんだ?」


 それは、きっと、僕が僕自身から隠していた疑問。


「違う人間でも好きになれると、君は言うが――それは、『好き』ってことがわからない人間も、同じなのか?」






◆ 伊理戸結女 ◆


 キャンプファイヤーの周囲で、思い思いの時間を過ごす生徒たちを、私は校庭の端にあるベンチから眺めていた。


 暁月さんと川波くんがいた。

 紅先輩と羽場先輩もいた。


 騒ぎながら、話しながら、彼らは見つめている。

 立ち昇る炎を。

 隣に立つ人を。






◆ 伊理戸水斗 ◆


 嘘じゃない。

 綾井と過ごした時間。彼女に抱いた感情。そのすべては、きっと嘘じゃないはずだった。


 けれど……充分だった。

 わからなくなるには、充分だった。


 好きだったはずの人にイラついて。顔を合わせることさえ苦痛になって。

 そんな半年間は……かつては確かに知っていたはずのその感情を、すっかりわからなくしてしまうには、充分だったんだ。


 僕は金網越しに、燃え盛る焚き火を見下ろす。

 その周囲に集う、生徒たちを見下ろす。


「……こればかりは、君にもわからないだろうな。馬鹿みたいに思えたんだよ。今までしてきたことはなんだったんだって……心底、くだらない気がしたんだ。そうなったが最後、もう手遅れなんだ。まともには捉えられない。疑うしかないんだ。この感情は本物なのかって――単なる、気の迷いなんじゃないかって」


 考えれば考えるほどわからない。

 繰り返せば繰り返すほどわからない。

 理解するとかされるとか、そういう話じゃあないんだ。

 僕が、僕を、理解できてないんだ。


「君には答えられるのか、いさな……? 巷の人間がぺらぺらと口にする『好き』ってヤツが、一体全体どういうものなのか――説明できるのか?」


 できるわけがない、と言外に言ったつもりだった。

 けれど、いさなは夜空を仰ぎ、「んー」と唸った。

 僕は、忘れていたんだろう。

 こいつと僕は、同類ではあれ、……決して、同一ではないってことを。


「それじゃあ、わたしの話をしましょう」

「……、は?」

「わたしが、水斗君のことを好きだと、理解したときの話です。……ちなみに、結構恥ずかしいので、あまり訊き返したりしないように」


 言われて、僕は口を噤んだ。

 いさなは夜空を仰いだまま、淡々と語り始めた。


「実のところ、はっきりと気付いたのは、結女さんや南さんに指摘されたときなんです。あー、言われてみれば、水斗君とデートしたりエッチしたりしたいなあって。……でも、よくよく考えてみるとそのとき、わたしの脳裏に過ぎったものがあるんです」

「……………………」

「それは……顔でした。水斗君の、横顔。図書室で一緒に本を読んでるとき――一緒に学校から帰ってるとき――自分でも驚くくらい、わたしは水斗君の横顔を知っていたんです。そのくらい、視線を向けられてもいない水斗君の顔を、見ていたんです」


 ――よく似合った大正ロマン衣装で、緊張した顔でスマホのレンズを見ていた

 ――クラスの企画のために、深夜まで机に向かって資料を調べていた


「だから……単純かもしれないんですけど」


 ――真剣な顔をして、データが上がってくるPCを睨んでいた

 ――ポスターを抱えて、砕けた様子で先輩と話していた

 ――お化け屋敷で恋人繋ぎをして、からかうようにくすりと笑っていた

 ――足を止めた一瞬だけ、少しだけ痛そうに、顔を歪めていた


「好きな人っていうのは、きっと、一番たくさん横顔を見た人のことなんだと、思います」






◆ 伊理戸結女 ◆


 ――何をするでもなく、金網越しに校庭を見下ろしていた

 ――暗くて見えづらかったけど、抱き合った余韻のように、耳に朱が差していた


 一つ一つ、思い出す。

 今日、見ることができた水斗の横顔を。


 ――淡々とした様子で、私の靴擦れした足を診ていた

 ――普段が嘘のような営業スマイルで、接客をこなしていた


 何もかも、正解ではなかったかもしれない。

 けれど、今日という日には、これだけのことがあった。

 だったら――


 ――円香さんに絡まれて、少しだけ眉をひそめていた

 ――東頭さんのコスプレを見て、なぜか少し悔しそうだった

 ――脱出ゲームの問題を見ながら、涼しげな顔で考えていた






◆ 伊理戸水斗 ◆


 ――いっぱいいっぱいになりながら、真面目に接客をこなしていた

 ――円香さんが連れてきた竹真に、本当の姉のような眼差しを向けていた

 ――脱出ゲームの問題を睨みながら、難しげに眉根を寄せていた


 怒涛のように湧き出る記憶。

 覚えている。覚えている。覚えている。

 覚えようとしたわけでもないのに、覚えている。


 見られたわけでもないのに、僕は見ていた。

 勝手に。一方的に。不必要に。

 僕は――こんなに、彼女のことを見ていたんだ。


 くらくらした。

 視界が暗くなった。


 どうしよう。

 ああ――どうしよう。どうしよう。どうしよう。


 どうしたらいいか、わからない。


 だって、だって、そうじゃないか。

 僕は……何もしてなかったんだ。


「ところで水斗君……実はさっき、訊きそびれたことがあるんですけど」


 いさなが背を金網に預けながら不意に言った。


「中学のときって、水斗君と結女さんの、どっちから告白したんですか?」


 僕は自嘲的に笑う。


「……僕が告白なんかするように見えるか?」

「じゃあ初デートを誘ったのは?」

「……あっちだよ」

「初キスは?」

「…………雰囲気を作ったのは、あっちだ」

「初エッ――」

「してないって言っただろうが」


 正確には――しようとしたことはあったけど、失敗した。

 そのときに状況を用意して、結局何もしなかったのは、……僕だ。


「……僕は、終始受け身だったんだ」


 口からこぼれたそれは、懺悔だった。


「僕からは、何もしてなかった。ただ、あいつの頑張りを享受していただけだった。降って湧いた状況を楽しんでいただけだった。仲が悪くなったときも、あいつはギリギリまでどうにかしようとしてたけど、……僕には、何もできなかったんだ」


 長い長い自傷行為。

 こんな自分が認められなくて。こんな自分が許されることが許せなくて。その自己嫌悪に、彼女を巻き込んでしまっているのが、さらに許せなくて。


 今にして思えば、甘えていたんだ。


 彼女の頑張りに甘えていた。彼女の優しさに甘えていた。だから――ただの友達といえども、それが他人に向いていることが、受け入れられなかったのかもしれない。

 綾井結女の彼氏であった一年半の間――僕は、何一つとして、成し遂げてはいなかったんだ。


「うーん……じゃあすみません、もう一つだけいいですか?」


 ドラマの刑事みたいに、いさなは言う。




「初めて話しかけたのは――どっちなんですか?」




 ――推理小説、君も好きなの?


 覚えている。

 忘れるはずがない。


「……っぅ、ぐ……」


 僕にとって、最も忌々しい記憶であり――最も捨てがたい記憶。

 神様が仕掛けたトラップ。

 すなわち運命が牙を剥いた瞬間であり――夢を見せてきた瞬間。


「…………っく、ぅう…………!」


 そうだ。

 そうだ。

 そうだ。

 たとえ偶然ではあれど、すべてを始めたのは――――




「――――…………僕だ…………」




 それは……僕だったんだ。

 それだけは……僕が、したことだったんだ。

 何もできなかった僕でも、それだけは……。


「うぇへへ……一緒だったんですね、わたしのときと」


 いさなはなぜか嬉しそうにはにかむ。


「じゃあ惜しかったですねえ。もし先に結女さんと出会ってなかったら、わたしと付き合ってたかもしれませんね」


 僕は、喉の奥からせり上がるものを噛み締める。

 ずっと――ずっと、ずっと、ずっと、失敗だと思っていた。

 あの一年半は、どうしようもない、僕の失敗だと思っていた。

 勇気を出した結女の告白を。成長を。幸福を。……僕が、くだらない独占欲で台無しにした、そういう失敗でしかないと、ずっと……。


 けど。

 あの一言がなければ、今はなかった。


 この学校に入ることもなく、いさなと出会うこともなく。

 お互いのことを大して知らないまま、あいつと義理のきょうだいになっていた。

 そうならなかったのは。

 今、こんなにも友人の優しさに触れ、こんなにも彼女の横顔を思い出し、こんなにも嬉しくて嬉しくてしょうがないのは。

 僕が――彼女に、話しかけたから。




 それだけは、僕にもできたんだ。




 押し寄せる感情を飲み下しながら、金網越しに、僕は見る。

 総勢で幾百になるだろう。見分けなんてつくはずもない、大勢の生徒の中に。

 この世で一番よく知っている――横顔を見つけた。


「……いさな」


 僕は、一番の親友に、だからこそ言う。


「埋め合わせは、今度する」

「へへ~♪ 楽しみにしてますね!」


 そして僕は、屋上を後にした。

 あのとき言えなかった――じゃない。

 今、僕から彼女に、伝えるべき言葉を伝えるために。






◆ 伊理戸結女 ◆


 あれだけ大きかった炎も、ついに燃え尽きようとしていた。

 これで、文化祭が終わる。

 準備に追われたこの数週間が、本当に終わる。

 思えば、こんなにも大掛かりな仕事を成し遂げたのは、生まれて初めてかもしれない。……そう思うと、張っていた気が抜けていくような心地がした。

 明日には後片付けがあるし、この後には打ち上げの二次会もあるのにね。達成感に浸るには、まだ早いのに……。


 さて、と気持ちを切り替える。

 これ以上ここに一人でいても、身体が冷えるばかりだ。集合時間に遅れないうちに、みんなのところに――


 そう思ったとき、……足音が、聞こえた。

 ゆっくりとしたそれは、私のすぐ隣で立ち止まり、……そして、私と同じベンチに、手のひら二つ分ほどの距離を開けて座る。


 その隙間を埋めるように、彼が手を置いた。

 私もまた、その隣に自分の手を置いた。


 お互いに手を伸ばせば、重ねることができるだろう。けど、伸ばさなければ、冷たい座面に触れるだけ。

 思えば私たちは、ずっとこんな距離を保ってきた。

 これから先、ずっとこのまま過ごすのだろうと思っていた。

 けれど――けれど。


 ほんの、小指の先だ。

 体温を感じるにも小さすぎる、ほんのわずかな接触だ。

 それでも――私たちは、どちらが逃げるでもなく、確かに指先を、触れさせていた。


「……遅かったわね。火、もう消えるけど?」


 燃え尽きつつある焚き火を見やったまま、私は言う。


「火なんて見ても、別に面白くないよ。……ただ、宿題を片付けに来たんだ」


 いつも通りぶっきらぼうに、彼は言う。

 それも、私に忖度して作った、仮面なのだろうか。

 そうだとしたら……それは、あまりにも下手くそだった。



 水斗は告げた。

 いつもだったら、決して素直には言わない台詞を。


「……何が?」

「いろいろだ。、いろいろ。文実で気を遣ってくれたり、家でも気を遣うことが多いだろうし――それに、由仁さんに言われたからな」

「お母さんに?」

「僕が風邪を引いたとき。看病してもらったお礼を言えって」


 私は目を瞬いて、思わず隣に目を向けた。

 水斗の横顔は、再び広がりつつ夜闇に覆われていた。


「それって……もう一ヶ月以上前じゃない?」

「悪いか」

「どれだけ私にお礼言いたくなかったのよ……」


 たった一言。たった五文字。

 ……それだけのことを言うのに、どんなに覚悟が必要なんだか。


「文実で気を遣ったのは、鬱陶しかったんじゃないの?」

「結果がどうあれとりあえず、ってことだよ。……思えば僕は今まであまりにも、この言葉を言い損ねていたんじゃないかって、……そう思ったんだ」


 裏を返せば。

 一ヶ月以上、タイミングを逃し続けるほどの言葉を、それでも口にしてくれた。

 覚悟を決めて、言いに来てくれた。

 それだけで――うん。喜ぶに値することじゃないだろうか。


「こっちこそ、ありがと。文実では、私もいっぱい助けられたし……風邪だって、私も一学期にひいたしね。おあいこでしょ?」

「ああ……だから……ここから先は、言い損ねたことじゃない」


 そのとき。……私だから気付いた。

 たくさんの水斗の横顔を知っている、私だから気付いた。

 ほんの少し、唇を強張らせて――あの水斗が、緊張していることに。


「一つだけ……我が儘を言ってもいいか?」


 少しだけ、小指の先が重なった。


「うん。……何?」

「この後……」


 そこで水斗は、喉がつっかえたように唾を飲んで、渇いた唇を舐めた。

 それから少し俯いて、……絞り出すように言う。




「……この後、二次会に行かずに――僕と、一緒に帰ってくれ」




 私は思わず、唇を綻ばせた。

 どうしてなのか、正確にはわからない。

 けれど、これは、すごく喜ぶべきことだと思った。

 本当はおっきく歓声を上げたいくらい、大変なことなんだと思った。


 でも、そう、……今の私は、分別の付いた大人だから。

 唇の綻びを、余裕ぶった笑みに塗り替える。


「仕方ないわね。今回だけよ?」


 すると、水斗は小さく息をついた。

 硬かった唇を、安心したように緩ませて。

 そして、初めて私の顔を見返して、再び、口にするのだ。


「……


 今日は、学校の文化祭だけの日じゃない。

 もっと他の、名前を付けることも難しい、すごくすごく特別な、記念日なんじゃないかと思った。






◆ 伊理戸水斗 ◆


 通り過ぎる車のライトに、二人分の影が伸びる。

 歩き慣れた通学路は、夜になるだけで別物だった。……あるいは、別の原因だろうか。まったくありきたりな現象だ。見るものすべてが新しく見える、なんて。


「大変だったけど、楽しかったわね」


 満腹になった後につく息のように、結女はぽつりと呟いた。


「みんなで協力して、作業して……なんだかんだで入らなかったけど、部活ってあんな感じなのかしら?」

「さあな。僕はただただ疲れただけだ」

「お疲れ様。今日から思う存分、お一人様を楽しんでね?」


 くすくすと笑ってからかう結女の顔を、僕は横から見る。

 こめかみから垂れた髪が、頬に影を作っていた。一日中働いた後だっていうのに、顔色に疲れは窺えない。


 その横顔を、僕はいつしか、遠くから覗き見るものだと思っていた。

 ありもしない壁を、その横顔との間に作っていた。

 だけど。

 今は――手を伸ばせば届くと、もう知っている。


「――んえっ?」


 結女は急なことに驚いて、自分の左手を見下ろした。

 僕の右手に掴まれた、左手を。


「えっ? えっ? ……な、何?」

「……もう暗いからな。迷子になるかと思って」

「人混みのときのやつでしょ、それは!」


 そう言いながらも、結女は手を振りほどこうとはしない。

 たったそれだけだ。

 ほんの些細な、それだけのことで、……僕は声を上げたいくらい、安心している。


 うんざりするよな、僕という人間には。まさか、こんなに弱っちい奴だったなんて。

 けれど――もう恐れはしない。

 そんな自分と戦う覚悟が、固まったのだ。


「……ねえ」

「ん?」


 手を繋いだまま、しばらく歩いて。

 結女が、窺うような視線を寄越しながら言った。


「一つ、相談してもいい?」

「……なんだ?」

「あのね……紅先輩に、頼み事をされたの」

「頼み事?」

「うん」


 何でもなさそうな声色に、けれど決意のようなものを感じて、僕は結女の言葉に耳を傾けた。

 結女は見慣れた夜空を見上げながら、僕たちが『違う』ことを証明する、決定的な事実を告げる。




「――生徒会に入ってくれないか、って」




 ……ああ。

 意外なほどに、僕は納得していた。

 現行の生徒会は、この文化祭で終わる。副会長である紅先輩が文化祭の実行委員長だったのは、次期会長としての研修みたいなものだったと聞く。

 であれば、……文実の中から、新たな生徒会役員となる者を品定めしていたとしても、不思議はない。

 その眼鏡に、結女が適うことも、だ。


「……どう思う?」


 こちらに向いた結女の瞳には、もう答えが書いてあった。

 だったら、僕はただ、後押しするだけだ。


「やってみたいんだろ?」


 結女は少し間を空けた。


「……うん」

「なら、やればいい。迷う必要なんてない」

「うん……」


 結女は視線をそっと前に戻す。


「ちなみに……そっちも誘われてたりは?」

「しないよ。僕には向かない」


 何せ、すでにあの紅先輩がいる。……あの人は、上手く隠しているだけで、絶対僕やいさなと同じタイプだ。きっと自分の後継は、自分とは違うタイプにしたいと思っているんだろうな。


「そっか……」


 溜め息をつくような声で、僕は少しだけ嬉しくなった。

 彼女も、僕と似たような悩みを抱えてくれていたのかもしれないと、……勘違いではあるかもしれないけど、そういう風に思えたんだ。

 だから、僕は彼女の手を握り締めたまま言う。


「僕がいないと不安か?」


 笑って、からかいながら。

 あの祭りの日から、彼女がするようになったように。

 結女はこっちをちらりと見て、拗ねるように唇を尖らせる。


「……子供扱いしないでよ。確かに文実では初めてのことばかりで勝手がわからなかったけど、もう大丈夫だから」

「ふうん。そうだといいけどな」

「大丈夫だからっ!」


 そう、大丈夫だ。

 だって、手を伸ばせば届くと知っている。

 握れば握り返してくれると知っている。

 たとえ僕たちが、考え方も、生き方も、捉え方も、何もかも違う人間で、全然違う方向に人生を歩んだとしても。


 僕は、握ったこの手を放さない。

 放したくない。

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