あのとき言えなかった六つのこと 「ごめんな」


 夏休み明け、いつもの場所に行くと、君はきちんと待っていた。

 それは、嘘ではなかったということ。

 君と僕が恋人になったことも、些細なことで食い違ったことも、夏休みに一度も会わなかったことも――一年前のこの日、この胸に満ちていたはずの気持ちが、ひどく薄れてしまっていることも、全部、嘘ではなかったということ。


 ――……おはよう、伊理戸くん

 ――……うん。おはよう


 どうせなら、嘘であればよかった。

 何もかも僕の妄想で、幻想で、……現実では、なかったのなら。……僕はまだ、こんな自分自身に、耐えることができたはずだ。

 けれど、君はここにいた。

 一月以上も会わなかった僕に、『おはよう』と声をかけた。

 君にはわからないのか?

 これ以上の絶望はないって――わかってくれないのか。


 ――……えっと。宿題……終わった?


 ここでもまだ、ギリギリ戻れたはずだと思う。

 何もなかった夏休みを、本当になかったことにして。その以前の関係に戻ることは、きっと可能だったはずだと思う。……可能にする言葉が、何かあったと思う。


 けれど、僕は許せなかった。

 僕を許せなかった。

 だから。


 ――うん。用事がなくて、暇だったからね


 君は少しだけ固まった。

 それから、長い長い自傷行為が始まった。






AM06:03■文化祭の朝


 カーテン越しに射す朝の光に目を細めながら、私はゆっくりとベッドから起き上がった。

 自分の部屋じゃない。学校の仮眠室だ。

 パチパチと目を瞬きながら、時計を見る。朝の6時。久しぶりの早起きだ。


 室内を見回せば、八つほど並んだベッドで、それぞれ文実の女子たちが静かな寝息を立てている。昨日、作業の追い込みで泊まり込むことになったとき、先輩たちが下級生の女子を慮ってくれた結果だった。同じ一年なのに寝袋で雑魚寝になった男子たちはブーイングしていたけど。

 時間はもう少しあるけれど、二度寝する気にはなれなかった。今日は文化祭の本番。文化祭実行委員が一番忙しい日だ。気合いを入れていかないと。


 とりあえず顔を洗ってこよう。寝間着代わりのジャージのまま、静かに仮眠室を出る。

 トイレに行く前に、すぐ隣にある会議室を廊下から覗き込んだ。寝袋に包まった委員たちが、大きく男子と女子に分かれて雑魚寝している。会議室は教室よりずっと広いけど、それでも窮屈そうな人口密度だった。男女混じって雑魚寝なんて、なんとなく憧れないでもないけれど、落ち着いて寝られる自信はないなあ……。


「……あれ」


 昨日、みんな結構遅くまで騒いでいたのもあって、まだほとんど誰も起きていない。けれど一つだけ、抜け殻になっている寝袋があった。あそこに寝ていたのは、確か……。

 気に留めながらも、私はトイレの洗面台で顔を洗った。顔色は悪くない。慣れない環境で寝たからちょっと不安だったけど、体調は問題なさそう。


 しんと静まり返った廊下に戻ると、不思議な心地がした。あと四時間もすれば、校内は人でごった返し、喧騒で溢れ返るだろう。なのに今は、私の足音しかしない……。

 嵐の前の静けさ。その中を少し探検したくなって、私は校舎をそぞろ歩くことにした。

 ひんやりと冷えた廊下を歩きながら、教室の中を覗いたり、窓から外を覗いたり。

 階段に辿り着くと、なんとなく上へ昇るほうに足をかけた。外に出るつもりはなかったし、普段、あまり行かないエリアだったからだ。


 踊り場で折り返してさらに階段を上がると、ドアがある。

 屋上に出るためのドアだった。

 確か、普段は閉まってるんだっけ。でも今は、垂れ幕を下ろしたりするのに使うから、特別に解放されているって、先輩の誰かが言っていた。

 今しか入れないなら、せっかくだし……。

 冷たいノブを握って捻ると、ドアは簡単に開いた。


「……………………」


 直後、私の視線を奪ったのは、解放的な空間でも、一面に広がる青空でもなかった。

 高い金網の手前にポツンと座っている、見慣れた彼の姿だった。


「……水斗?」


 ジャージ姿の水斗は、金網に背を預けながら座り込んで、首だけ捻って地上を見下ろしている。

 私に気付いてこっちを見ると、「君か……」と呟いて、また金網の向こうに目を戻した。

 ドアを閉めてから近付いて、話しかける。


「こんなところで何してるの? 寒くない?」

「そうだな……。上着を持ってくれば良かった」

「……いつからここにいたの?」

「三〇分くらい前だよ。早くに目が覚めてさ……」


 夜型人間のこの男が、珍しい……。やっぱり雑魚寝だとゆっくり寝られなかったのかな。


「大丈夫……? よく寝れなかったなら、私が寝てたベッド使ってもいいけど……」

「君が寝てたベッドを?」


 水斗は小馬鹿にするように薄く笑った。


「成長したもんだな。羞恥心を克服したのか?」

「べ、べつにいいじゃない! 仮眠室のベッドは公共物なんだから! ……それに、あなたなら、そのくらい、今更というか……」


 正直言って、何も考えてなかった。さっきまで自分が寝てたベッドでこの男を寝かせようなんて、何考えてるの、私~……!


「遠慮するよ。女子が寝てる部屋に男一人で寝るくらいなら、寝袋のほうがマシだ」

「そ、そう……。それもそうね」


 私は誤魔化すように、水斗の視線の先を追う。

 特に、何もない。まだ誰もいない屋台が並んでいるだけだ。


「……別に、一度帰っても良かったんだ」


 水斗が急に、呟くように言った。


「でも、さすがに気が引けてさ……ここで休憩してた。一人のほうが、落ち着くからな」


 ――こんなところで何してるの?

 さっきの質問の答えであることに、私はようやく気が付いた。

 休憩、か。確かに、元々個人主義のこの男が、急に泊まり込みで文化祭の準備なんていう青春ド真ん中のイベントに放り込まれたのだ。少しは一人の時間もないと落ち着かないのかもしれない。

 それじゃあ、私も気を遣って、とっとと退散――

 ――じゃない!

 これ、チャンスでしょ! 文化祭一緒に回ろうって約束を取り付けるのよ! まあどっちにしても文実の仕事で一緒にいるし……なんて言い訳して今まで先送りにしてたけど、これ以上のシチュエーションなんて他にないじゃない。


「ね……ねえ」


 座り込んだ水斗の隣に立って、ちらちら様子を窺いながら、私は言う。


「文化祭……東頭さんとかと、一緒に回る約束、してたりする?」

「いや、特に。あいつはどうせ居場所がないだろうから、暇を見つけて構ってやろうとは思ってるけど」


 よ、よし……。どうやら文化祭デートをする気はないらしい。


「そっ、それじゃあ……ええっと、午後から! 文実の見回りと、模擬店のシフトが終わったら! ……私と、回らない? 文化祭……! ――あっ、なんなら東頭さんも一緒でいいし!」


 日和ったぁ!

 東頭さんの相手をすることを理由に断られる光景が脳裏を過ぎって、最後で日和った!

 で、でも……まあ良し! 誘えないよりは良し! ポジティブに考えよう!

 水斗はちらりと私を見て、


「……そうだな。いさなも、僕が文実なのに自分が文化祭何もしてないとなると、また変に卑屈になりそうだし。君がいたほうがいいかもな。僕らだけだと図書室に引きこもることになりそうだし」

「容易に想像できるわね……」


 水斗と東頭さんが二人きりで文化祭の模擬店を回っている姿、全然想像できない。


「それじゃあ……約束ね?」

「ああ……」


 やった! 想像してたのとはちょっと違うけど、やった!

 肩の荷が降りた気分になった途端、私の身体がぶるりと震えた。ちょっと冷えてきたかも。


「ねえ、そろそろ戻らない? ここ、思ったより寒いでしょ?」

「君は戻ったほうがいいな。ひ弱だから」

「ちゅ、中学の頃ほどじゃないし……! じゃなくて、あなたは?」

「僕はまだ大丈夫だ。心配しなくても、風邪をひく前に戻るよ」

「そう……」


 少し迷いながらも、私は水斗を一人残して、屋内に戻った。

 ドアを閉める寸前まで、水斗は何をするでもなく、金網越しに学校を見下ろしていた。






AM09:18■いつもより大人っぽく見える君


「おおー」


 ばつの悪そうな川波の前で、あたしは小さく拍手した。

 着物に袴の書生姿。明るめの髪色も遊んでる髪先もそのままだけど、意外とそんなに悪くない。伊理戸くんとはまた違い、ちょっと落ちこぼれ感があって――ま、好きな人は好きなんじゃない?


「割といいじゃん。丸坊主にせずに済んでよかったね」

「似合ってなかったら坊主にする気だったのかよ!」

「だって書生でしょ? なんか頭良さそうな男のことでしょ? あんたと真逆じゃん」

「坊主にしてもどうにもなんねーよ、それは!」

「そりゃそうか。それだけで頭良くなるなら試験のたびにスキンヘッドになってるもんね」

「くっ……言い返せねえ……」


 あたしはけらけらと笑うと、袖を指で軽く掴んで持ち上げ、川波に自分の姿を見せた。


「それで? あたしの感想はー?」


 もちろんあたしも、袴ブーツのハイカラさんだ。

 ニヤニヤして答えを待つあたしに、川波はしらけた目を向けて、


「いや、試着で見たし。今更別に……」

「何度でも褒めろや!」

「んだお前。彼女ヅラか?」

「彼女じゃなくても何度でも褒めろ! そのチャラい顔は飾りか!」

「飾りなんだよ。残念ながらな!」


 川波は顰めっ面で首を傾げ、あたしの頭の辺りに目を向けた。

 いつも通りの高い位置でのポニーテールに、今日はちょっとアレンジをしてある。


「……お前、いつもとリボン違くね?」

「可愛いでしょー? この服に合わせて和風なんだー♪」

「なんか和菓子の袋みてえ――痛てっ! おいやめろ! ブーツで蹴るな!」

「もう二度と! 女の扱い慣れてますみたいなツラをするな!」

「お前こそ女と思われようとしてんじゃねーよボケ!」


 げしげしローキックを繰り返していると、スタッフ用にカーテンで仕切ったスペースから、友達の麻希ちゃんが「おーい」と顔を出した。


「そこの夫婦ー。そろそろ開場時間だからさぁ、漫才やめて準備してくれよなー」

「だぁれが夫婦じゃー!」

「悲しいよわたしは。伊理戸さんはモテモテだし、あっきーは夫婦漫才してるし、ついには奈須華にまで彼氏ができてさぁ。なんかわたしだけ寂しい奴みたいじゃん! おーいおいおい……」

「大丈夫だよ、麻希ちゃんは。背高くてカッコいいし」

「女子にモテても意味ねえんだよなあ!」


 バスケ部の麻希ちゃんはスラリとした長身で、袴姿もバチッと決まっていた。もちろんのこと女子から大好評。こういう子に限って同性には興味なかったりするんだよねえ。


「わたしも彼氏ほし~! 今日ナンパとかされんかなぁ?」

「ナンパは禁止だろうがよ」


 川波が呆れたように言う。


「大体、そんなのに引っ掛かったらロクなことになんねーだろ。焦って自分を雑に扱うんじゃねーぞ」

「えっ……?」


 麻希ちゃんが目を大きく開けて川波を見つめ、自分の胸を押さえた。

 ……あー?


「え? やば。ちょっとトゥンク来ちゃった。なんだよ川波ぃ! やっぱ見た目通りチャラいじゃん! 嫁さんに怒られっぞ~!」

「嫁? いるように見えるか?」

「出た~! 独身を装う不倫男~!」

「……………………」


 麻希ちゃんと二人してゲラゲラ笑う不倫男を、あたしは無言で睨めつける。

 ……何? あたしのコスプレを褒めてもくれないくせに、麻希ちゃんには優しいことを言うわけ? ふ~ん……へえ~……そう……。


「(……逆ナンに引っかかって吐き散らかせ)」


 絶対助けてやんない。怪人ゲロ男として未来永劫語り継がれればいいんだ。

 ふいっと顔を背けてスタッフエリアに入ろうとすると、


「ナンパといえば、お前も一応気を付けとけよ」


 川波が急に、少し柔らかい声音であたしに言った。


「顔だけは整ってるんだからよ。それにコスプレ効果で心なしか大人っぽく見えるし――」

「え? あたしが? 大人っぽく……?」

「――何せ、ブーツの分、背が高くなってるからな」

「……………………」

「痛てえ! 踏むな! ブーツで! 潰れる潰れる!」


 潰れろ!






AM09:45■大正から来た救世主


 ついに文化祭が始まってしまいました。

 我がクラス、一年三組は微妙にみんなやる気がなく、自分たちの出し物は最低限の準備と人員で用意できる写真展示で済ませ、他のクラスで遊び回って文化祭をエンジョイする方向性でした。

 そのおかげであまり仕事をしてなくても咎められることはなかったのですが、当日、つまり今日、遊びに行く当てのないわたしとしては、退屈な自分の教室でぼーっとする以外やることがなく……するとどうでしょう、暇を持て余した店番の女子たちが、面白いオモチャがいるとばかりに寄ってくるではありませんか。


「ねえねえ、東頭さんは遊びに行かないの?」

「え、えー……まあ……」

「彼氏を待ってるんだよねー? 伊理戸くんって確か文実だから、見回りとかで時間あんまりないんじゃない?」

「あー、そっかー。ねえねえ、東頭さんの彼氏ってどんな感じ? あたし見たことないんだよねー」

「んー、ちょっとなよなよした感じの……カッコいいって言う子もいるけど、私はもっとガッシリしてるほうが好みかなぁ」

「オメーの好みは聞いてねえよっ! ごめんね東頭さん! こいつ筋肉フェチで!」

「なにおう! あんただって筋肉好きでしょうが!」

「あ……あははー……」


 誰かー! 助けてー! 名前も覚えてない人たちに、単なる会話のネタとして消費されてるんですー! 楽しそうなのはこの人たちだけで、わたしは愛想笑いしかできないんですー!


 と、わたしの心からの願いが届いたんでしょうか。

 賑やかな廊下とは真反対に閑散としていて、実質ただの休憩所と化している我らがクラスに、来訪者が現れました。


 和服の。

 袴の。

 マントを羽織り、学帽を被った。

 書生風の格好の――


 ――それは、水斗君でした。


「……ひょぇ」「ぃうっ……」


 黒いマントを靡かせて水斗君が入ってきた途端、賑やかに話していたお二方が、隙間風のような声を最後に静止しました。

 わたしも同じでした。

 話には……話には、聞いていたんです。写真も、見せてもらってたんです。で、ですけど……ですけど……!


 ――なんですかこの完成度はぁーっ!?


 完全に良家の嫡男じゃないですか! 親に決められた許嫁じゃないですか! 結婚相手を勝手に決められるなんて、と反感を抱いていたわたしと、正式に紹介される前にひょんなことから出会い、許嫁と知らずにキュンとして『この人が婚約者だったら良かったのに……』と思ってたら本当にそうだった! やつ! やつの、アレ!


 び、びっくりしました……。びっくりしすぎて夢女子になってしまいました。

 水斗君はさっと教室の中を見回すと、すぐにわたしのことを見つけて、すたすたと静かに近寄ってきます。……あれ? 夢じゃないんですけど。本当にわたしのほう来るんですけど。あ! そういえばこの人、わたしの男友達でした!


「いさな」


 しかもこの間から、下の名前で呼ばれてるんでした!


「ちょっと様子を見に来た。……取り込み中だったか?」

「……あうあうあう……」「……はうはうぁ……」


 涼やかな目を向けられて、さっきまでキャッキャしてたお二人がわたし並のコミュ障になりました。

 その様子に水斗君は軽く首を傾げて、わたしに目を戻します。


「これから見回りだから、昼にまた迎えに来るよ。……この服も宣伝にって着せられたけど、さっさと脱いでしまいたいしな」

「「「とんでもない!!」」」


 全員の声が揃いました。

 さっきまで愛想笑いしかしていなかったわたしでさえも、ぴったりハモっていました。

 急に団結したわたしたちに、水斗君は目を白黒させながらも、


「まあ、とにかく、様子を見に来ただけだから。思ったより困ってなさそうで何よりだ。それじゃあ」


 そう言って、水斗君はあっさりと教室を出ていってしまいました。

 名前も知らないお二人は、ぼーっとその後ろ姿を見送って、


「……知的なのもいいかも……」

「……ね……」


 ほんの一目で性癖を捻じ曲げるとは……恐るべしです、水斗君。






AM10:05■心臓は口よりも物を言う


「見て見て。ハイカラさんだー」「わっ、ほんとだ。かわいー!」


 そんな声がまた聞こえて、私は少し顔が熱くなるのを感じた。

 文化祭中はあちこちコスプレだらけだから、袴ブーツで廊下を歩いても大して目立たないだろうと思っていたけど甘かった。目立つからこの衣装にしたんだというのに。


「もー……! これなら接客してたほうがマシ……」

「できもしないことを言うもんじゃないぞ」

「んなっ……! で、できるわよ! 接客くらい!」


 書生姿の水斗に抗議する。いきなり刺してきておいて、何その澄ました顔!

 マントを羽織った水斗の背中には、『1年7組 大正ロマン喫茶!』と書かれたプラカードが掛かっている。実行委員の見回りに行く前に寄った教室で、暁月さんに掛けられたのだ。正直衣装よりも恥ずかしいので、私と水斗とで定期的に交換している。


「シフトの時間が来たらよく見ておくことね。私はやればできる子なのよ!」

「知ってるよ。夜な夜な練習してたの聞こえてたからな」

「ひぐぅ……! き、聞き耳立てないでよ……!」

「君の声が大きいのが悪いんだ」


 これだから、同居というのはいいことばかりじゃない。バレンタインとかどうするの? 私、どこでチョコ作ればいいの?

 文化祭中、文実が最も多くの時間を割く仕事が、この校内の見回りだ。トラブルがあれば解決し、迷子がいれば案内し、人見知りをしている暇さえない。

 文化祭を回る約束を東頭さん参加でも可とした理由も、この見回りにある。だってこんなの実質デートでしょ! 先輩によると、文実きっかけで付き合い始めた人もいるらしい。

 私は腕時計を見て、


「あ……ね、ねえ。そろそろ行かないと」

「ん? ……ああ、お化け屋敷のチェックか」

「そう! 遅れたら迷惑だから! ね!」


 出し物の安全チェックも、文化祭実行委員の仕事だ。

 そう、お化け屋敷は視界も悪く、トラブルの起きやすい場所だから、事前に実行委員が入って安全かどうか確認するのだ。

 これは仕事。決して私の私利私欲によるものではない。仕事で! 仕方なく! 水斗と二人きりで、お化け屋敷に入るのだ……!


「あっ、来たんじゃない?」「文実の人ですかー?」「うわ! 衣装綺麗ですねー!」


 私たちの担当クラスに行くと、おどろおどろしい雰囲気に様変わりした教室の前で、受付担当の人たちが待っていた。

 このクラスは準備がギリギリ間に合わなかったらしく、だから文化祭が始まって少ししたこの時間にチェックすることになったんだけど……さすが、ギリギリまで作り込んでるだけあって、見るからに手が込んでる……。

 ちょっと怖くなってきた私をよそに、水斗が業務用の物腰で話しかける。


「チェックさせていただいてもよろしいですか?」

「どうぞどうぞー!」「お二人でご一緒にお入りくださーい!」「足元に気を付けて、道なりに進んでね!」「……ちなみに、中はとても暗いので、ちょっとくらいくっついてもバレませんよ?」


 うわっ! 煽ってくる! カップル用だ、このお化け屋敷……!


「……、行くぞ」


 判断に困る微妙な間を空けて、水斗は入口を塞ぐ黒いカーテンに手をかけた。


「ちょ、ちょっと待って……!」


 私は慌ててそれを追いかけて、カーテンを抜ける。

 中は本当に暗かった。とても昼間とは思えない。洞窟みたいだ。ただ、奥に誘導用らしき光が人魂のように、ぼうっ……と輝いている。あの光、何? どうやって作ってるの?


「道はちゃんとわかるように作られてるな……」


 仕事モードで冷静に検分する水斗。この男、ホラーは大丈夫なんだっけ? あーもう、付き合ってるときに一回くらい行っておけばよかった、お化け屋敷!

 私は静かに深呼吸をすると、意を決して口を開いた。


「……ねえ……手、繋いでも、いい……?」

「は? なんで?」


 こっちが『なんで?』よ! せっかく人が可愛く言ってるのにそんな反応があるか!

 私はめげずに攻める。


「ほら、暗いし、袴だし、もしこけたりして物を壊したら迷惑じゃない? だからお互い、万一を考えて……ね?」

「……まあ、いいよ。わかった」


 聞くや否や、私はするりと水斗の手に自分のを絡ませた。

 細くて華奢な手。でも男だってわかる、ほのかなゴツゴツ感。……中学生の頃より、ちょっと大きくなったかな。

 しれっと恋人繋ぎにしてみると、ちらりと水斗がこっちを見た。でも私は知らんぷり。何にも意識してないですよ? あなたの自意識過剰なんじゃない? すると、視線はスッと逃げていく。ふふふ。


 そうして、お化け屋敷デートがスタートした。

 ぴちょん……と、どこからともなく響いてくる水音を聞きながら、暗闇の細道を歩いていく。すると――誘導用だと思っていたぼんやりとした光から、第一の刺客が現れた。


「ひあっ!?」


 私は打算なく、本当に天然で、思わず水斗の腕にしがみつく。

 ぼんやり光るカーテンに、明らかに人ではない、異形の影が横切ったのだ。

 お化け屋敷といえば、襖から青白い手がバーン! みたいなのを予想していた私は、何にもない場所なら安全だろうとたかを括っていた。早速、その油断を突かれたのだった。


「……おい……」


 驚きと、少しの悔しさに固まっていると、ほのかに震えを帯びた呟きを耳元に聞いた。


「いつまでくっついてるんだ……」

「あ……ご、ごめ――」


 いや、待て。ここで引くから、私はいつまでもヘタレなんだ。こんな絶好なシチュエーション、押さなくてどうするんだ!


「も……もうしばらく、このままでいい……? その……怖くて……」

「…………普段、バラバラ死体が出てくるような本を読み漁ってる奴が何言ってんだ」

「み、ミステリとホラーは全然違うでしょ!」


 私は意地を張って、尚更ぎゅっと水斗の腕を抱き締めた。それから三秒――ようやく、自分が胸を思いっきり押しつけていることに気付いたけれど、すでに退路は失っていた。うぁああうう……恥ずかしいけど、ここで逃げたら無理してるのがバレる……。


 ――ドクン……ドクン……ドクン――


 鼓動が速くなってる。この音、腕越しに伝わってるかな。あなたとくっついてるからだってわかってくれる? それとも、お化け屋敷に怖がってるだけだって思う?


「…………、さっさと行こう。そんなに長くはないはずだ」


 答えは教えてくれないまま、水斗は私を引っ張って歩き出した。

 その後も、手の込んだビックリトラップは続いた。お化けが急に飛び出してくる、なんていうのは序の口で、気付かないうちに誰かが後ろをついてきてたり、バタバタバタ! と大きな足音だけが通り過ぎていったり、変化球の仕掛けが本当に怖くて、私はもう誘惑どころじゃなくなっていった。


 そろそろ終わりかな、と思ったところで、前に扉が現れた。

 教室の引き戸だ。ここを抜けたら外だ。

 だけど――その希望の出口には、覗き窓を塞ぐ形で、こんな張り紙がしてあった。


『純粋なる人の愛の前に怪物は敗れ、扉にかけた呪いを解くだろう。口付けを交わすべし。無理だったら抱き締め合うべし』

「……………………」

「……………………」


 何これ!?

 キスしないと出られないってこと!? どんなお化け屋敷よ!

 ちょっと悪い予感はしてたのよねー……。だって、私たちが中に入るとき、なんかみんな妙にニヤニヤしてたんだもん……。

 私はこそっと水斗に耳打ちする。


「(ど、どうする……?)」

「(できるわけないだろ。キスが条件ってことは、どこかから見られてるってことだぞ)」


 そ、そっか。そうよね。よくよく考えてみれば、世間的には水斗は東頭さんと付き合ってることになってるんだし、ここで私が、たとえフリであってもキスなんてしたら、どこかからその情報が漏れて水斗が浮気をしたことに……。


「それじゃあ……仕方ない。うん、出られないんじゃ仕方ないわね!」


 私は大きめの声で言った。あくまで仕方なく嫌々ですよーとポーズして――


 ――ぎゅうっ。


 と、水斗を正面から抱き締める。

 無理だったらハグでもいいと書いてある。キスができないんだからこうするしかない。選択肢はないのだ。そうでしょ?


「おっ、おい――」

「ほら。早く。抱き締め合わないといけないんだから……そっちも」

「…………おのれ……」


 私はちょっと笑った。本気で『おのれ』って言う人、初めて見た――


 ――ぎゅうっ。


 肩の両側から背中にかけて覆われて、私は水斗の腕の中に収まる。水斗の温かさを全身に感じて、ほわほわとした幸せな気持ちが胸に満ちた。興奮するような、安心するような……ああ、もしかしたら別れてからは、こんな風に抱き締められたの、初めてかも――


 ――ドクッ、ドクッ、ドクッ――


 合わせた胸に、私とは少し違うリズムの鼓動が伝わってくる。そして、これはきっと気のせいじゃないと思うんだけど、それは時間を経るごとに少しずつ速くなっていた。


 くすっ、と思わず笑う。

 それから、急速にむくむくと膨らんだ悪戯心を止められなかった。

 そっと頬を触れ合わせるようにして、唇を水斗の耳に近付ける。


「(久しぶりね。気持ちいい?)」


 ――ドクンッ、と鼓動が一瞬跳ねた。

 顔はどんなに澄ましていても、心臓は素直だ。ここのところ、文実の仕事を冷静に片付けている姿しか見てなかったから、その乱れた鼓動は尚更可愛らしく感じた。


 けど、そんなサービスタイムも長くは続かず、カチッ、と扉の鍵が開く音が響く。

 瞬間、素早く水斗が私の身体を引き剥がした。私は彼の顔を覗き込もうとしたけれど、暗い上にすぐに顔を背けられてしまったので、確認できなかった。

 まあ……私の顔も人のことは言えないだろうから、見られなくて助かったけど。

 あ゛あ゛~! 何さっきの台詞! なんかちょっとエッチになってなかった!?


「お疲れ様でしたー!」


 扉を開けて明るい廊下に出ていく頃には、私たちはお互いに微妙に目を逸らして、何とも言えない気まずい空気になっていた。


「どうでしたか!? ウチのお化け屋敷!」「よくできてたでしょ! こりゃカップルの聖地になっちゃいますよ!」


 口々に自クラスの出し物を誇る彼女たちに対して、私は文化祭実行委員として、判断を下さなければならなかった。


「……基本的には大丈夫ですが、最後の張り紙は風紀を乱すので撤去してください」

「「「ええ~!!」」」


 女子たちが不満げに悲鳴を上げる一方で、男子たちが『そりゃそうだろ』という顔をしていた。うん。それはそう。

 お化け屋敷クラスに別れを告げて、私と水斗は見回りに戻るべく歩き出す。

 しばらくすると、沈黙していた水斗が不意に呟いた。


「……さっきのは……」

「え?」

「さっきのは……あのお化け屋敷が、意外と本格的な作りで、驚いてただけだ」


 ……鼓動、速くなったの、私を抱き締めてからよね?

 なんて無粋なことは言わずに、


「怖いの、我慢してくれてたんだ? 私のために?」

「違うだろ! 僕は驚いてただけで――」

「実は頑張って耐えてたんだ? 可愛い~!」

「違っ……ああもう!」


 本当、素直なのは心臓だけよね?






AM10:56■君にだけじゃダメなのか?


 お化け屋敷で些細な(ほんの些細な)失態を演じて以降、調子に乗った結女を適当にいなしながら、僕たちは見回りを続けた。

 僕は今まで、三大欲求を一つ消し去れるとしたら睡眠欲を消したいと思っていた。睡眠に使う時間を、読書など別の時間に充てられるからだ。だが、今は性欲を消したい。あんな程度の接触で動揺するなんて……初めてでもあるまいに、一生の恥だ。


 僕は文化祭の喧騒の中を歩きながら、けれど別のことに意識を浮遊させる。

 いさなは暇にしてないだろうか。さっき様子を見に行ったときは、クラスの女子に話しかけられて困っていそうだったが――まあ、あいつは一人で時間を潰すことにかけてはプロだから心配いらないんだろうけど、できれば早めに迎えに行ってやりたいもんだな。


「……っ」


 時間を確認しようとスマホを取り出しかけたとき、結女が一瞬、足を止めた。……今、顔も少しだけ痛そうに歪めてなかったか?


「どうした?」

「うっ……ううん。なんでもない。ちょっとつまづいただけ……」


 その空っぽな笑い方を見て、字面通りの捉え方をするほど、僕は彼女を知らないわけじゃない。

 僕はブーツを履いた結女の足を見下ろして、少し考えた。


「……靴擦れか?」

「えっ? な、なんで――」

「慣れない靴で一時間も歩き回ってるんだ。当然考慮すべき可能性だろ」


 本当は、最初に考えておくべきだったんだけどな。そこまで頭が回ってなかった……。


「保健室……は、ちょっと遠いか」

「だ、大丈夫だってば!」

「やかましい。それを確認するためにもとりあえず診せろ。近くに空き教室があったはずだ。行くぞ」


 結女の手首を掴んで、腕を引く。結女もさほどの抵抗をせずについてきた。

 空き教室の前の廊下は、あたかもエアポケットのように閑散としていた。これだけの喧騒に包まれた校舎なのに、この一帯だけは自分の足音が響くほどだ。

 戸を開けて中を覗いてみるが、人の姿はなかった。例年、こういう空き教室に屯して文化祭をサボっている生徒がいると聞くが、ここは空いているらしい。


「誰もいないな。ちょうどいい。ちょっとそこの椅子に座れ」

「別に、ときどき少し痛むくらいなんだけど……」

「痛む時点で良くないだろうが。もし君が動けなくなったら、僕の仕事が増えることになるんだぞ?」

「……自分の心配?」

「だったら悪いか」

「……べつに……」


 僕は椅子に座らせた結女の前に屈むと、「どっちだ?」と訊いた。結女は「右……」と答えたので、右足のブーツの紐を緩める。

 ブーツを脱がせて、次は靴下だ。ソックスのゴムに指をかけると、「ちょ、ちょっと……!」と結女が焦る素振りを見せたが、こちとらいさなのおかげで、女子の靴下を脱がせたり穿かせたりは日常茶飯事である。大体、この女だって僕にニーハイ穿かせたことあるだろ。今更純情ぶるな。

 するすると靴下を脱がせて、白い足を露わにした。足裏を支えるようにしてそっと手に取ると、「んぅっ……」と結女がくすぐったそうな声を漏らす。


「……内側のくるぶしと、親指の付け根の辺りが少し赤くなってるな……。今のところ、そんなに酷くはなさそうだが」

「で、でしょ? 大丈夫よ」

「今のところはって言っただろ。この後にクラスのシフトも入ってるんだ。君の性格上、仕事中に靴擦れが酷くなっても自分から言えずに我慢するのは目に見えてる」

「……ん、…………」


 結女は少し恥ずかしそうに黙り込んだ。

 こうして赤くなっている以上、何かしらの処置はしたほうがいいだろうな。一番いいのは履き慣れた靴に変えることだが、今は手元にないし……。


「……あ、そうだ」


 思い出して、僕は袴のポケットをごそごそと探り、あるものを取り出した。

 結女は軽く眉を上げて、


「……絆創膏? そんなの持ってたの?」

「一応、子供の来場者がこけたりしたとき用に。とりあえずこれを貼っておけば、多少はマシになるだろう」


 赤くなっているところを覆うように、絆創膏を貼り付けていく。

 結女はその作業を見下ろしながら、独り言のように呟いた。


「あなたって……意外と、人のこと考えてるわよね」

「……そうでもないよ。これだって、泣いてる子供が苦手だから、真っ先にその対策を考えただけだ」

「本当は、優しいのに。……それを知ってるの、私と東頭さんくらいなんじゃない?」


 僕は、絆創膏を貼り終わった結女の素足を見つめたまま、靴下を手に取った。


「仮に、そうだとしても。……何が悪いんだ? それの」

「みんなともっと、仲良くなれるかもしれないのに。あなた、取っ付きにくいと思われてるわよ? 文実の人たちに」

「その通りなんだから仕方ないだろう」


 顔を上げないまま、結女の顔を見ないまま、ブーツを彼女の足に履かせていく。


「取っ付きやすいと思われても面倒だよ。人と会話をするのは、疲れる」

「私と話すのも?」

「とびっきり疲れる」

「仮にも家族なのに、酷いこと言わないでよ」


 そんな風に言いながらも、結女はくすりと笑った。

 ……僕には、必要ないんだよ。

 僕は、『みんな』が不要な人間なんだよ。

 君とは違う。……どうしようもなく、違うんだ。

 ブーツの紐を結んで、僕は立ち上がった。結女も椅子から腰を上げる。


「どうだ?」


 結女は絆創膏を貼った右足を見ながら、机の隙間をしばし歩き回った。


「……ん。平気かも。痛くなくなった」

「無理はするな。また診るのも面倒だ」

「もっと素直に優しくしなさいよ」


 結女はおかしそうに軽く笑って、


「ありがと」


 脳裏に、結女に看病されたときのことが蘇った。

 お礼は本人に言えと、由仁さんに言われてしまった。けれど――僕は未だに、その言葉を告げられていない。

 君はこんなに簡単に、口にできるのに。


「…………、ああ」


 僕は短く答えて、教室の戸口に足を向ける。

 この喉から溢れるのは、中身のない虚無ばかりだ。






AM11:06■天才すぎる同級生がなぜか俺の貞操を狙っている


 ――ギシッ……。

 水斗と一緒に空き教室を出て、離れようとした瞬間、背後から軋むような物音がした。


「(ちょ、ちょっと待って!)」

「ん?」


 抑えながらも鋭く水斗を呼び止めて、私はそうっと、今し方出てきたばかりの空き教室を振り返った。


「(さっきの教室……誰か、いない?)」

「は……?」


 怪訝そうに水斗が眉をひそめたその瞬間、またギシッという音がした。

 私たちは顔を見合わせる。

 そして、そろそろと足を忍ばせ、ついさっき自分たちで閉めた戸に近付いて、覗き窓を覗き込んだ。

 そして――目撃する。


「――いやあ、ははは。なかなかハラハラしたね」

「……勘弁してくださいよ、紅さん……」


 二人の男女が、教卓の下から、這い出てくる瞬間を。


「「…………!?」」


 隠れてたの!?

 ずっと、教卓の下に……私が水斗に足を差し出して、ベタベタ触らせてる間!?

 しかもその男女は、とても見覚えのある二人だった。

 女子のほうは、アシンメトリーな髪型が特徴の、紅鈴理副会長。

 男子のほうは、いつも彼女に随伴している、天パに眼鏡の羽場丈児会計。

 あの二人が……私たちが教室にいる間……狭い教卓の下で、くんずほぐれつ……?


「(え? え? どういうこと? あの二人、なんで隠れて……?)」

「(それは……見つかったらマズいからじゃないか……?)」


 え? 見つかったらマズいことをしてたってこと? 男女が二人っきりで? 誰もいない空き教室で……?

 紅先輩はパパッとスカートのお尻を叩くと、窓際の机に腰掛け、悠然と足を組んだ。

 先輩は全体的に小柄で、バストも小振りだけど、身体のラインはかなり女性的だ。つまり……まあ、言葉を選ぶんだけど……安産型、というか。意外と肉感的な太腿を、短いスカートにもかかわらず組んでしまうものだから、目のやり場に困ってしまう。実際、羽場先輩はそれとなく顔を逸らしたし、私は水斗の顔を掴んで横に逸らさせた。

 羽場先輩を煽るように、紅先輩は無防備に後ろに手を突く。


「さて、ジョー。たっぷりぼくの匂いを吸い込んだところで、続きをしようか?」

「吸い込んでませんし、続きはしません」


 羽場先輩ははっきりと言った。こんなに喋ってるの、初めて見たかも……。というか、続きって何……? 何の続き?

 紅先輩はくつくつと笑う。


「嘘は良くないよ? 体勢を崩してぼくの胸に顔を埋めていたとき、鼻の穴が二ミリほど広がっていたじゃないか。すまなかったね。あの状況を見越して、あらかじめノーブラになっておくべきだった」

「超要らない気遣いです……。俺なんかを誘惑して、何がそんなに楽しいんですか」

「理解に苦しむ質問だね。惚れた男性を誘惑するのが楽しくないはずないだろう?」


 惚れっ……!? 惚れたって言った! 言ったわよね、今!?

 紅先輩は焦らすように首元のリボンに指をかける。


「それとも、ぼくの処女ではキミの童貞に値しないかな?」


 どうてッ――!?


「(……おい。見てていいやつなのか、これ)」

「(も、もうちょっとだけ! もうちょっとだけ!)」


 ここからだと羽場先輩は背を向けていて、その顔はほとんど見えなかったけれど、耳が赤く染まっているのだけはかろうじてわかった。


「……何度も言ってます。値しないのは俺のほうです。何の気まぐれか知りませんが、俺程度では紅さんに釣り合いません」

「人の初恋を気まぐれとは言ってくれる。何度も言うように、キミはキミが思うほど小さい人間じゃあない。何せ、このぼくが認めているんだよ?」

「ですから、俺は少し機械に強いだけで、他には何の取り柄もない――」

「人は誰しも、理想の自分を持っている」


 不意に、紅先輩が告げた。

 それは不思議と、距離を隔てていてさえ耳に染み入ってくる、力強い響きを持っていた。


「自覚があるかどうかにかかわらずね。人の美しさとは、その理想を尊ぶ態度に宿るものだと、ぼくは思っているんだ。ジョー、理想のキミは美しい。だから現実の自分は大したことがないと思い込んでいる。己の理想を尊ぶからこそ、己の現実を過小評価するのさ。その態度をこそ、ぼくは美しいと言っているんだよ」


 羽場先輩は黙り込み、隣の水斗も呼吸を止めた。

 理想の、自分……。

 私にも、ある。だからこそ髪を伸ばしたし、だからこそ人見知りを直したし、だからこそ友達を作ったし――だからこそ、告白をした。

 水斗にも、あるんだろうか。

 中学時代は、何でもできるヒーローだと思っていた。今も妙に高スペックで、人の助けなんかほとんど必要としなさそうな彼にも――届きたい理想と、届かない現実が。


「……だとしても」


 羽場先輩が、普段は滅多に発しない声を、けれど力強く絞り出す。


「理想の俺は、頭はいいのに品のない同級生の下手っクソな誘惑に負けて、みんなが頑張って働いている中ケダモノになるような奴じゃありませんよ」

「……、なるほど」


 紅先輩は緩めたリボンを締め直し、あっさりと机から降りた。


「みんなが働いている間に享楽に耽ると燃える、と参考資料にあったのだが、どうやらハズレだったようだね」

「その参考資料は即刻捨ててください」

「やれやれ。また新しいシチュエーションを考えることにするよ。理想の高い男に惚れると大変だね」

「変な女に気に入られるほうが大変だって早く気付いてください」


 あ、ヤバい。こっち来る!

 私たちは気配を殺しつつその場を離れた。充分に距離を取り、文化祭の喧騒に紛れると、ようやく息をつく。


「びっくりした……。あの二人、いつも一緒にいると思ってたけど、やっぱりそういう仲だったのね……」

「『そういう仲』って、一言ではまとめられない感じはしたけどな……」


 確かに。さすがは紅先輩というか、恋愛面も一線を画している。……というか、若干ポンコツっぽい気も。


「……同情するよ、羽場先輩には」


 水斗がぽつりと呟いた。


「え? どうして? 紅先輩って確かに変人っぽいけど、可愛らしくて素敵じゃない」

「素敵すぎるのも困り物だって話だよ」


 そう言って、水斗はすたすたと歩き出した。

 高嶺の花すぎるってこと? 確かに存在感は雲泥の違いだし、本人もそんな風に言っていたけど……。

 ……別に、関係ないと思うけどなあ。

 かつての私も、全然釣り合わないと思っていたあなたと、恋人同士になれたんだから。






AM11:34■彼がモテるのは嬉しいけどそれはそれとして嫉妬はする


「あ……! 来た来た!」


 教室の前で待っていると、ようやく結女ちゃんと伊理戸くんが雑踏の中から姿を現した。

 あたしがちょいちょいと手招きすると、二人は後ろ側のドア――お客さん用の入口のほうを見ながら駆け寄ってくる。


「ごめんなさい。ちょっと遅れちゃった。……ねえ、物凄く並んでない?」

「待機列が隣のクラスの前を横切ってないか……?」

「そーなんだよー! 思ってたより並ばせちゃって……時間制限かけて、急遽席も増やしたんだけど、それでも追っつかなくてさあー」


 隣のクラスが出し物に教室を使ってなくて助かった。もしそうじゃなかったら、今頃列が混ざっちゃってめちゃくちゃになってたところだよ。


「な、なんでこんなに人気なの……?」

「なんか口コミで広がってるみたい。木根ちゃんが作ったコーヒーが文化祭レベルの出来じゃなくてさ――あと、あちこち歩き回ってる二人がすっごい好評で大拡散中」


 スマホを軽く振って見せると、結女ちゃんは「え、ええー……」って、困惑げだけどちょっと嬉しそうに呻いた。伊理戸くんは嫌そうに眉をひそめてるけど。


「とにかく手伝って! もう人手が全然足んないんだから!」

「わ、わかった!」


 結女ちゃんと伊理戸くんの手を引いて、教室の中に連れ込む。すると、


「あっ、さっきの人……!」「うわ~! やっぱクソ似合ってる~~~!!」


 店内が不意にざわついて、結女ちゃんは目を白黒させた。

 ふふふ。やっぱ自己評価低すぎるよね、結女ちゃん。自覚しろ~。自分が超絶可愛いって自覚しろ~。


 そして、もちろんというか、注目の的は結女ちゃんだけじゃない。

 書生姿の伊理戸くんを見て、店内の七割以上を占める女性客が、ひそひそ囁き合ったり小さく歓声を上げたり、はたまた無言で口を覆ってぷるぷるしたりしている。

 当の伊理戸くん本人は、澄まし顔でそういう反応を無視していた。伊理戸くんが己のスペックの高さを自覚するのはウザいけど、知らんぷりされるのもそれはそれで釈然としないなあ。

 カーテンで仕切ったスタッフスペースに入ると、結女ちゃんはまだ状況を飲み込めていない様子だった。


「ええっ……と……その、意外と女性が多いのね?」

「そうそう。女子中心に口コミが広がってるからさ。おかげで店内が女子寄りの空間になって、心配してたナンパとかは今のところぜーんぜんナシ」


 そもそも入場は招待制だし、例のシステムで共有されてくる情報も思ったより多くない。結果的には伊理戸くんの取り越し苦労で終わりそうだった。


「――やっと来たか、伊理戸ぉ……!」


 怨嗟の滲んだ声を漏らしながら、スタッフスペースに男子たちが入ってきた。伊理戸くんと同じ書生姿で接客をしていたホールスタッフだ。


「お前を見て来た女子たちが、俺たちを見てひそひそ言うんだよ……! 『完成度微妙じゃね?』『さっき見た人のほうが良かったよね』ってなぁ……!」

「当たり前なんだよ! 普通の男子高校生は書生になれねえんだよ!」

「責任を取れ! お前の存在感で俺たちの影を薄くしろ! これ以上心に傷を負う前に!」


 哀れな……。

 あたしら女子みたいに色彩の華やかさで誤魔化せない分、男子は大変らしい。本来は知り合いだけが来て身内ノリで盛り上がれるはずだったのに、伊理戸きょうだいという広告塔が優秀すぎたせいで会ったこともないお客さんが来るようになった弊害だった。

 伊理戸くんに詰め寄る男子たちの後ろから、絶妙な軽薄さで人気を得つつある川波がニヤニヤしながら言う。


「お客がドキドキしながら待ってるぜ。とっととファンサしてこいよ、伊理戸」

「……はぁ……」


 伊理戸くんは物憂げに溜め息をつく。

 それすら様になるんだから、なるほどこれはズルい。


「わかったよ。マニュアル通りの接客しかできないけど」

「充分だぜ。あんたなら余裕だろ」


 川波が伊理戸くんに道を開ける。

 あたしも結女ちゃんの背中を押して、


「結女ちゃんも! ミスってもフォローするから安心して!」

「が、頑張る……!」


 緊張の面持ちの結女ちゃんと、学帽を目深に被った伊理戸くんとを、同時にホールに押し出した。

 と同時、


「はいはいはーい!」「オーダーお願いしまーす!」「こっちおかわりー!」


 お客さんたちが一斉に手を挙げた。

 うわーお。これ、絶対ほとんど悪ノリ。

 いきなりキャパをぶっちぎったオーダーの嵐に、結女ちゃんはあわあわする。


「ど、ど、どうすれば……!?」

「近くから行って、近くから! 残りはあたしたちがやるから! はいこれ伝票!」


 伝票を渡して、結女ちゃんを近くのテーブルに送り出す。三人組の女子客だ。男子や大人のお客さんよりはやりやすいだろうと思ってたけど、


「わー! 近くで見ても綺麗!」「髪どうなってんのそれ! 手入れガチすぎる!」「ね、写真撮っていい!? ストーリーに上げたいんだけど!」

「え、あ、いや、あの……」

「はいはーい! お客様ー! とっととオーダーしてくださーい! チェキは一〇万円になりまーす!」


 女子特有の飽和攻撃に結女ちゃんが一瞬で限界になってしまったので助けに入る。女子たちは「高っ!」「アコギだ!」「まけろー!」などと言いながらけらけら笑った。本当のお店じゃないんだから、接客もこのくらいのノリでいいのだ。


「あ、暁月さん、ありがと~……!」

「どういたしまして。本当のお店でバイトしてるわけじゃないんだから気楽に行こ! しばらくはあたしがフォローしてあげるから!」

「うう、不甲斐ない……」


 真面目だなあ。そういうところが可愛い!

 一方、伊理戸くんのほうはと言うと――


「カフェオレがお一つ、アイスティーのストレートがお一つで間違いありませんか?」

「お、お間違いありません……」「あ、あの、お写真などは……」

「申し訳ありません。当店ではお断りしておりまして……」


 困ったようにはにかんで見せながらそう言って、「はうっ……!」「い、いえ、大丈夫ですぅ……」と女子客を限界にさせていた。

 意外だ。てっきり無表情で機械のような接客をすると思ってたのに、まさか営業スマイルを使いこなすとは。


「伊理戸くん、やればできるじゃん。いつもの冷たい対応は逆になんだったのって感じ」

「仕事になると、対人スキルのスイッチが入るみたい。文実でも割とあんな感じだし……」

「……どしたの?」


 ふと結女ちゃんの顔を見ると、口の端を緩ませながらもちょっと唇を尖らせるという、複雑な顔をしていた。

 結女ちゃんは恥ずかしげに伝票で口元を隠しながら、


「……水斗が他の人に認められてるのは嬉しいけど……他の女の子に笑いかけてるのは、ちょっと、やだ……」

「……………………」


 何この子可愛いんだけど!!


「おおーい! 伊理戸! ちょっと来い!」


 近くにいた川波が、急に伊理戸くんを呼びつける。

 伊理戸くんが怪訝そうな顔でやってくると、川波は据わった目で、


「お前……もっと冷徹に接客しろ」

「どんな指導だよ」

「うるせえ! 笑顔の安売りはすんなって研修で習わなかったのか!」

「闇堕ちしたマクドナルドかよ」


 伊理戸くんの冷静なツッコミに、結女ちゃんが「くふっ」と小さく吹き出した。






AM11:55■働いてる友達がいつもと全然違う


 ひょっこり。

 やってきました、東頭いさなです。

 この時間から水斗君や結女さんがシフトに入っていると聞きまして、一年七組、噂の大正ロマン喫茶に来てみたわけなんですが……。


「すごい人気です……」


 入口から長蛇の列がずらーっ! セールのときのミスドみたいになってます。

 まあ、元々一人で入る勇気なんてありませんし、ましてや喫茶店なんて無理ゲーもいいとこなんですけど。まさかこれほどの人気とは。

 ちょっと失礼して、窓から中を覗いてみましょうか。他にも行列を見て興味を持ったらしい人たちが覗いてますし、その中に紛れ込みまして……。


「……あ……」


 水斗君と結女さん発見!

 さっき水斗君は見ましたけど、結女さんもすごく似合ってます……。はー……。あの二人が中学の頃、付き合ってたんですよね……。うわー、なんかドキドキします。

 接客中の姿はまた一味違いますね。さっき水斗君と会ったときは、やっぱり『ただ衣装を着てるだけ』という感じでしたけど、働いている姿を見ると、なんとなく本物っぽく感じるというか……いえ、本物の書生は喫茶店で働かないと思いますけど。


「ご注文は以上でよろしいでしょうか」

「は、はい……!」「以上で! はい! ありがとうございます!」

「ごゆっくりお楽しみください」


 ……というか。

 なんか……水斗君の雰囲気が、いつもより柔らかいというか。優しいというか。

 なんですか? あのにこやかな顔は! わたしがどんなにベタベタしても眉一つ動かさない塩対応の水斗君はどこに行ったんですか! お客さんにだけあんないい顔して! ずるいです!

 きっと頼んでもやってくれないんでしょうねー……。お店に入る勇気もなければ、払うお金もありませんし、覗き見ながらほぞを噛むばかりです。見てください。これが巷で水斗君の彼女と噂されている女の実態ですよ。


「――あれ? 東頭さん?」

「うにゃっ!」


 急にひょこっと目の前に、南さんが顔を出してきました。わたしはびっくりして仰け反ります。

 南さんも結女さんと同じく袴姿で、ポニーテールに和風の大きなリボンをあしらっていました。おお、リボンの柄が違うだけで、結構雰囲気変わるもんですね。


「こんなとこで何してんの? 中に入んないの?」

「そ、そんな勇気ありません……。列もすごいですし……」

「ははーん……。一人じゃ入りにくいから、そうして窓から伊理戸くんを覗いてるんだ? どうよ? 感想は?」

「……水斗君じゃないみたいで、見てるだけでドキドキします……」

「おお、いい反応。東頭さん、まだ意外と乙女なとこ残ってるんだね」

「残ってますよう。毎日ときめきを浴びて限界化しながら女友達やってるんですよ!」

「それは彼女と何が違うのかね……」


 半眼になって呆れ気味に言う南さん。水斗君のほうが一ミリもときめいてなさそうなのが違いですよ。


「とりあえず中入る? 友達特権で入れてあげるよ?」

「い、いいですいいです! 並んでる人たちに悪いですし!」

「そっかぁ。んー……あ、そうだ。この後ヒマ?」

「え? あ、はい。水斗君たちのお仕事が終わるまでは……」

「じゅーぶんじゅーぶん。あたし、そろそろシフト終わって自由時間なんだよねー。ちょっと付き合ってよ! ……協力してほしいことがあるからさ?」

「はあ……。別にいいですけど……」


 協力してほしいこと? クラスの展示にさえ協力しなかったこのわたしに?


「んじゃ、ちょっと待っててね東頭さん。着替えてこないといけないからさっ」


 ぬふふと怪しい笑みを浮かべながら、南さんは離れていきました。結女さんに近付いて「ねえ、あれ借りるよ」などと話しかけています。結女さんは「え? ……ああ、なるほどね。任せたわ」と、わたしのほうを見て、やはり謎の怪しい笑みを浮かべました。

 ええ……? なんですか? 何の企みですか……?

 と、当惑するわたしをよそに、周囲から密やかな声が漏れ聞こえてきました。


「東頭って……」「ほら、噂の、伊理戸くんの……」「あ! あの子が……!」


 ……ううーん。

 周りは気にしないと決めましたけれど、それはそれとして、居心地というものがあります。これ以上目立つと死んでしまうので、わたしは名残惜しくも窓を離れ、七組の教室から少し距離を取りました。

 南さん、何をするつもりなんでしょう……? 不安が止まらないんですけど!






PM12:16■人は忘れても因果は巡る


 昼休みが近くなってきて、列をいったん打ち切った。いま並んでる分を捌いたらようやく休憩だ。そして午後は結女やいさなと一緒に文化祭を回る約束がある。不慣れな営業スマイルからついに解放されるというわけだ。

 ……が。

 よりによって最後の最後に、厄介な刺客が現れた。


「おい、伊理戸。なんか呼ばれてんぞ」


 スタッフエリアにいた僕を、川波が怪訝そうな顔で呼びに来た。


「呼ばれてる? 誰に?」

「さあ? 小学生を連れた、なんかすげー綺麗なお姉さん。呼べばわかるっつーんだけど……どういう関係だよ?」


 お姉さん。

 僕の知り合いの中に、そう呼ばれそうな人間は一人しかいない。


「……わかった。行ってくる……」

「めちゃくちゃ面倒そうな顔してんぞ」

「当たり前だろ――もしバイト先に親戚が来たら、君だってこういう顔になる」

「……ああー……」


 川波は納得しつつも不憫そうな顔になって、「頑張れ」と僕の肩を軽く叩いた。

 さっきまでに比べたらだいぶ落ち着いたホールに出ると、すでに結女が、先にあの人に捕まっていた。


「――ほら、竹真。結女お姉ちゃんに何か言うことあるでしょー?」

「ぇ、ぁ、うう……」

「円香さん。そんな無理やり言わせなくてもいいですから……。ごめんね、竹真くん? 気を遣わなくていいからね?」


 案の定、円香さんだった。

 来ると言っていたし、結女が自分の分の招待状を送ってもいたが、厄介にも本当に来たらしい。しかもなぜか弟の竹真まで引き連れていた。可哀想に。ただでさえ人見知りなのに、高校の文化祭なんて居心地が悪いんじゃないか?

 女子高生と女子大生が顔を赤くした男子小学生を囲んでいる現場に不承不承ながら合流すると、円香さんが「おっ!」とこっちを見た。


「みーずーとくん! 評判は聞いてるよー? この店のナンバーワンなんだってー?」

「格付けをした覚えはありませんし、僕は今だけの非常勤です。文実なので」

「またまたー。見てたよー? 女子にキャーキャー言われてるの! にひひ。お姉ちゃんとして鼻が高いよ」


 まともに取り合うと面倒そうなので、僕は目を逸らして結女に水を向けた。


「あんまり長いことサボるなよ。まだ他にも客がいるんだから」

「ホントに無愛想ね。円香さんにも対人スイッチ入れなさいよ。……ごめんなさい、円香さん。思ったよりもお客さんがいっぱいで……」

「いーよいーよ。わたしたちはここで眺めてるから! 仕事しててー」


 結女が頭を下げて円香さんたちの席を離れる。竹真がその背中を、ちらちらと目で追っていた。……まあ、一般論として、突然あんな親戚ができたら憧れるのも無理はない。一般論としてな。

 僕も席を離れ、順番待ちをしている客のところに向かった。ちょうど今、席が一つ空いたところだ。


「何名様ですか?」

「あ、二人ですー!」


 中学生だろうか。それも一年生に見える。まだ背丈が伸びきっていない感じの、二人組の女子だ。片方は人懐っこそうだが、もう片方は常に斜め下を向いていて気難しそうだ。これが午前の最後の客かな。

 雰囲気作りの一環として壁に貼ってある大正時代の新聞や、当時の文士の作品を収めた本棚などを物珍しげに見る女子中学生たちを、席に案内する。

 中学生の客は結構多い。兄姉や先輩から招待状を得て、オープンキャンパス気分で学校を見物しにくるのだ。つまり未来の後輩候補――だけど、この子たちが高校生になる頃には、僕はもう卒業しているだろうな。

 席に着くと、人懐っこそうなほうが、印象の通りニコニコ話しかけてくる。


「お兄さん、すごいカッコいいですねー! 超似合ってるー! ねっ、そう思わん!?」

「……………………」


 話を振られた気難しそうなほうが、なぜか僕の顔をガン見していた。

 この格好をしているうちに視線には慣れたが、いや、それにしてもこの見方は、まるで顔面にザリガニでもくっついているかのような注目だ。

 なんだ?

 不審に思った矢先、


「……あの……」


 その女子中学生は、眉根を寄せて僕の顔をガン見しながら、ゆっくりと口を開いた。


「どこかで……会ったことが、ありませんか?」

「は?」


 思わず営業モードが崩れて、素が出てしまった。

 会ったことがあるか? そう訊かれたのか?

 改めて、その女子中学生の顔を見る。ツーサイドアップというのか、ロングとツインテールを合体したような髪型で、あどけない顔は造作こそ整っているものの、ツリ目気味でキツそうな印象を受ける。

 元より人の顔を覚えるのは得意じゃないが、このくらい年下になると、もうほとんど判別がつかなくなるんだよな。どうして人って成長すると子供の顔が区別できなくなるんだろう。


「すみませんが……覚えがありません」

「そう、ですか……」


 どこか残念そうに俯く少女に、もう一人の人懐っこそうな少女が、


「えー? 珍しいじゃん! あんたが男の人に興味持つなんて! いつもクラスの男子にゴミを見るような目ぇ向けてんのにさー!」

「べつに……ちょっと勘違いしただけだから」

「聞いてくださいよお兄さん! 実はこの子ねー、小5の頃に、年上の……中学生くらいだっけ? のカップルがチューしてるのを見ちゃったんですってー! それが変にトラウマ? になっちゃって、男子が苦手なんですよ!」

「ちょっと……! 喋りすぎ!」


 なるほど。じゃあ今のガン見は警戒の視線だったんだろうか。……だとしても、さっきの質問は腑に落ちないが……。


「では、次は女子のスタッフが伺います。よろしいでしょうか?」

「あ……ありがとうございます」


 とは言うものの、男嫌いの女子中学生は、オーダーする間も僕の顔を睨み続けていた。

 注文を取ってスタッフエリアに戻っていくと、結女がしらっとした目を僕に向けていた。


「……なんか、ずいぶん長く話してなかった?」

「向こうがお喋りだっただけだよ。ま、客足も落ち着いたし、多少時間を使っても大丈夫だろう?」

「ふうーん……」


 結女はちらりと、さっきの女子中学生二人組を見やり、


「……一年生かしら」

「そのくらいだろうな」

「ちっちゃいわね」

「中1ならあんなもんだろう」

「…………中学生が好きなの?」

「ぶん殴るぞ」


 確かに僕はかつて中学生と付き合っていたが、当時は僕自身も中学生だったんだよ。

 妙な勘繰りに付き合っている時間はない。僕は半ば強引に話を仕事に戻す。


「あの中学生、髪の長いほうが男子苦手らしい。料理を出すときは君が行ってくれ」

「ふうーん……男嫌いの子にまで話しかけられたんだ……」

「もういいよそれは」


 にっひっひ、という笑い声に振り向けば、円香さんがこっちを見て何やらニヤニヤ笑っていた。あっちもこっちも……大人しく紅茶をふーふー冷ましている竹真を見習ってほしい。

 と思っていると、


「――あっ」


 カップに口をつけようとした竹真が、肘を机にぶつけた。

 ソーサーが机から滑り落ち、けたたましい音と共に砕け散る――ことを想像した直後、


「うあっと」


 横から素早く手が伸びてきて、ソーサーをキャッチした。

 近くの席にいた、さっきの男嫌いの女子中学生だ。

 彼女はほっと息をついて、ソーサーを竹真に差し出す。


「はい、これ。気を付けなさい」

「ぁ……」


 竹真はか細く声をこぼしながら受け取った。それを見て円香さんが「ごめんなさーい! ありがとうねー! ほら竹真も!」と言うと、竹真は失態の恥からか耳まで赤くした顔で、女子中学生の顔を見上げる。


「……ありがと、ございます……」

「――――うっ」


 女子中学生は何やらたじろいだものの、「……べつに」と冷たく呟いて、席に戻った。

 うーん。歳下にすらあの態度となると、本当に男が苦手なんだろうな。

 小5の頃に、カップルがキスしてるのを目撃して――か。今が中1とすると、二年前の話になるが――


 ――二年前――カップル――キス――小学生――


「……んん?」


 何か……頭に引っかかるような?


「二番できたよ! 持ってって持ってってー!」


 キッチン担当が張り上げた声で、違和感はどこかに消えてしまった。なんだったんだ?






PM12:48■女友達の容姿を褒めるのはなんとなく負けた気分がする


「暁月さんが?」


 昼休みに入り、模擬店はいったん閉店となった。キッチンスタッフが食材の枯渇っぷりに悲鳴を上げ、近場のスーパーで買い揃えるために飛び出していく中、僕と結女は衣装を脱ぐため、指定の更衣室に向かっていた。

 その途中、僕のスマホに謎のメッセージが届いたのだ。

 結女は横から僕のスマホ画面を覗き込んで、


「『東頭さんは預かった。返してほしくば校庭のステージ横にある自動手相占い機のところまで来られたし』……こういうの好きね、暁月さん」

「どっちにせよいさなとは合流する予定だったし、ちょうどいいけどな。というか、自動手相占い機ってなんだ……?」


 意味あるのか、それ? というか、模擬店を自動で済ませてるクラスがあるってことか。

 とりあえず僕たちは更衣室に行き、そこでようやく袴姿から解放された。

 僕が制服を着て男子更衣室を出ると、少し時間を置いて、女子更衣室から結女が出てくる。下は制服のプリーツスカートだが、上は黄色を基調としたクラスTシャツだった。

 結女は僕の姿を見て首を傾げる。


「クラTはどうしたの?」

「……下に着てるよ」


 僕はカッターシャツの襟元を軽く引っ張り、中に着ているTシャツを見せた。

 以前にいさなとも話した通り、このクラスTシャツというやつはやっぱりあまり好きになれない。とはいえ機能性は悪くないし、今みたいに結女がうるさいから黙って着ているんだが――これから僕よりもクラTを憎んでいる節のある奴と会いに行く都合上、インナーにして隠しておくのが無難だった。


 脱いだ衣装をクラスに返してから、南さんに指定された場所に移動する。

 校庭には模擬店の屋台が整然と並んでおり、それを抜けた先にイベント用のステージがある。演劇やバンド演奏などの出し物は、ここと体育館とに振り分けて行われていた。

 だが、今は昼休みなので、ステージには誰もいない。閑散とした観客用エリアを横断してステージの真横まで回っていくと、確かに見落としそうなほど端っこに、自動手相占い機の屋台があった。

 そのすぐ横、植わった木の影に紛れるようにして、クラT姿の南さんと、何やら背中を丸めているいさながいた。


「お待たせ、暁月さん。東頭さんも。……何してるの?」

「……うう……わたしじゃないんです……南さんがいきなりぃ……」


 いさなは木の洞に向かってか細い声で呟きながら、肩をぷるぷる震わせていた。

 僕は眉をひそめて、南さんを睨みつける。


「……何をしたんだ?」

「怖っ! 怒んないでよ、ちょっと着替えてもらっただけだって! あたし信頼なさすぎでしょっ!」


 逆に、信頼できるようなことを一度でもしたのかと問いたい。

 言われてみれば、いさなの格好は制服ではなかった。上半身は黒っぽいケープで半分以上隠しているが、スカートは抹茶のような深緑で、その上に前掛けらしきものを着けている。どう見ても制服ではなく、どっちかといえばウエイトレスのような……。


「ほらほらっ、東頭さん! せっかく着替えたんだからちゃんと見てもらいな! だーいじょうぶだって! めっちゃ似合ってるから! 結女ちゃんの目に狂いなしっ!」

「ひゃうああ!? ちょっ、ちょっと心の準備がぁあぁぁ……!」


 いさなが南さんに強引に前を向かされると、「おーっ!」と結女が手を合わせた。


「よかった! サイズ合ったんだ!」

「ばーっちりよ! 胸元が不安だったんだけどねー!」


 ウエイトレスのよう、と連想したのは、大筋では外れではなかった。

 ケープで胸周りが覆われているが、どうやら白いブラウスの上に胸の部分が空いたエプロンのような服を重ね着しているようだった。

 一見で強くヨーロッパを思わせるその服に、僕は見覚えがあった。


「……ディアンドル……だったか?」


 大学で衣装を物色したとき、円香さんが結女に着せようとしていた服だ。

 確か、胸元が大きく開きすぎていたから僕が止め……て……。


「…………ああ、それでケープか」

「こんなので外出歩くなんて無理ですよおっ! ドイツ人はどうかしてます!」


 ケープの前を掻き寄せながら、いさなは叫ぶ。それで胸元を隠しているわけだ。

 南さんが「いひひ」と怪しく笑いながら、いさなの肩を後ろから掴む。


「大丈夫だよぉ……露出度で言えば、水着のほうがすごいんだからさぁ……自信持ちなよぉ……もう半端じゃなくエロ――じゃなくて、可愛いんだからさぁ……」

「エロいって言ってますもん! 言ってますもん!」

「そんなこと言って――伊理戸くんには、見てもらいたいんじゃないの?」

「うっ」

「もう目覚めちゃったもんねぇ? 好きな人に可愛いって言われる楽しさに! ただの友達だっていうならさぁ、変な遠慮もなく素直に褒めてもらえるんじゃないのかなぁ~~~」

「うううっ……」

「唆し方が堂に入ってるわね……」


 結女が苦笑いしながら評する。本当にいらないことしかしないな、この人は。

 僕は呆れ気味に、助けに入ることにする。


「無理強いをするな。たとえ同性でもセクハラに――」

「――ちょ、ちょっとだけなら……」


 いさながチラチラ僕を見ながら、か細い声で言った。


「水斗君だけに……ほんのちょびっとだけなら……ま、まあ? よく考えたら、夏休み中はタンクトップとかで遊びに行ってましたし? 大して変わりませんよ……ね?」

「僕に訊くなよ……」


 確かにその通りだが。この前の彼シャツに比べたら遥かにちゃんとした服装ではあるが。

 いさながちょいちょいと僕を手招きする。どうやら付き合わないと進まないようなので、いさなに近付こうとすると、結女がくいっと僕の制服の袖を引いた。


「(ちゃんと褒めてあげないとダメよ? ……あんまりまじまじ見るのもダメよ?)」


 どっちなんだよ。……本当に、どっちなんだよ。

 結女が手を離したので、改めていさなに近付く。譲るかのように南さんが離れると、真昼の太陽がくっきりと落とす木陰の中には、僕といさなだけが残された。

 いさなはケープに手を掛けたまま左右に目を泳がせ、それからようやく、上目遣いに僕の顔を見上げる。


「そ……それでは、失礼します……」


 しゅるり、といさながケープの紐をほどく。……そう厳かにされると、さすがの僕も緊張する。なんなんだこの時間は。真っ昼間の校庭の端で何をやっているんだ、僕たちは。

 答えのない問いを虚空に投げているうちに、いさなはケープの前を、開けた。


「……………………」

「……………………」


 …………これ、は…………。

 わかっていた、はずだった。ディアンドルは、胸元や肩が大きく露出したデザインだということは。けれど……高校生離れしたスタイルのいさなが着ると、こんな風になるのか。

 フリルで縁取られた白のブラウスを自称Gカップの膨らみが大きく持ち上げ、胸の谷間をすっかり露わにしていた。ブラウスとの間に小さな隙間ができていて、そこに指を突っ込んでずり下げたら簡単に脱げてしまいそうだ。

 それだけなら、夏休みのときの油断しまくりの格好とさして変わりはしなかった。けれど、漫画ではファンタジーの村娘などがよく着ているディアンドルは、素朴な容姿のいさなによく似合っていて――


「ど……どうですか……?」


 不安げな目をして、いさなが訊いてくる。

 今、僕の心にあるのは、たった一つの想いだった。

 なんか――悔しい。

 いつも雑を極めた格好をして、からかうのも下手くそないさなに、こんな感想を抱くなんて――何だか負けた気分がしてならなかった。

 だけど……いさなとしては、ちゃんと言ってやらないと、着せられ損だよな。

 僕は数秒、言葉を探したけれど、文才なき身では無駄な抵抗だった。


「…………かなり似合ってる。可愛いと思うよ」

「うえっ?」


 いさなは驚きに目を瞠り、しきりに瞬きをして、徐々に顔を赤らめていった。


「ほ……ホントですか?」

「社交辞令は苦手だよ。知ってるだろ?」

「犬とか猫の『可愛い』じゃ――」

「ない」

「……ち、ちなみに……どの辺りが……?」

「全体的にだよ。細々と語ったら気持ち悪いだろ」

「…………うぇへ。うぇへへ。うぇへへへ…………」


 いさなは照れて、はにかみとオタク笑いの中間みたいなのを繰り返す。

 僕は謎の敗北感で目を逸らした。喜んでいただけて恐縮だよ。


「えへ。そんなに水斗君の性癖に刺さるなら、しばらくケープも取っておきますかねえ。えへへ! 仕方ないですね。水斗君の趣味なので! えへへへ!」

「……ちなみに、訊いておくが」

「はい?」


 あっという間に調子に乗ったいさなに、僕は現実を突きつける。


「下着は……どうなってるんだ、それ?」


 どう見ても……ブラジャーがあるべき位置に、布が見えないんだが。

 いさなは照れ笑いのまましばらく固まって――すすす、とケープの前を閉じた。


「……やっぱりこうしておきます……」

「そうしろ。生徒指導室行きになりたくなければな」


 やれやれ。……円香さんを止めておいてよかったな、本当に。






PM01:05■複雑な少女たち


「良かったの、結女ちゃん? 仕掛けたあたしが言うのもなんだけどさ」


 我に返ってケープを着直した東頭さんと、呆れながらも笑みを滲ませる水斗を眺めていると、暁月さんがこっそり訊いてきた。

 私は曖昧な笑みを浮かべる。


「いいんじゃない? あの二人にはこのくらいのこと、もう今更だろうし」

「まーねぇ。好感度だけはお互いにマックスだしね」


 今までに幾度となく味わった、不思議で複雑な感情だ。

 嬉しそうにする東頭さんを見て、私も嬉しくなる。……それと同時に、そこで笑っているのが自分だったならと、嫉妬にも似た羨望がずくずくと胸を衝くのだ……。

 まだ気持ちが定まらず、自分の立ち位置がふわふわしていた頃なら、それは不快なものだった。……けれど、自分の欲しいものがはっきりした今ならば、その複雑な感情も受け入れられた。だってそれは、私がまた、はっきりと彼のことが好きになったんだっていう、証だから。


「……成長したねえ、結女ちゃん。伊理戸くんの名前呼びに動揺して泣きついてきた子とは思えないよ」

「いや、まあ、不安なのは不安なんですけど」


 その不安に引っ張られすぎない術を覚えたというだけでして。大丈夫大丈夫って自分に言い聞かせてるだけでして。

 例えば今で言うと、ほら、私も可愛いって言われてますし? 大正ロマン衣装、水斗の性癖にガン刺さりでしたし? だから大丈夫大丈夫。互角互角。


「それじゃ、ここから先は一人でできるかな?」


 暁月さんはからかいの笑みを浮かべて、小さな子に話しかけるように言った。

 自分のほうが子供みたいな身長なのに――という言葉は飲み込んで、私は肯く。


「うん、大丈夫。……だから、暁月さんも川波くんのところ行ったら?」

「なーんでそうなるか! どうせあの陽キャは他の友達と遊んでるよっ!」


 仕返しにからかってみたら、見事に意地っ張りで拗ねた答えが返ってきた。保護者ぶるくせに、自分のこととなると弱いなあ……。


「頑張って。文化祭はまだまだこれからだし」

「何を頑張るの。……まあ、たまたま会ったらちょっかいかけるくらいはするかもね」


 ふいっと顔を逸らして、暁月さんはポニーテールを犬の尻尾みたいに振った。






PM01:10■天然小悪魔コピー不可


 暁月さんを見送って三人になった私たちは、ひとまずお昼ご飯を食べることにした。


「私たちはいったん閉めちゃったけど、屋台系は今もやってるわよね?」

「そうだな……。コスパは悪いが仕方ないか。今日は弁当もないし」

「あっ……! じゃ、じゃあいいですか? いいですか!? たこ焼き食べたいです!」


 東頭さんは意外と屋台が好きらしい。でも人見知りだから、一人では回れないんでしょうね……。わかるー……。

 たこ焼き屋さんに行って、一人一つずつ購入する。冷凍食品に比べたら割高だけど、今日の分の軍資金はもらってるから、むしろちゃんと使わないとね。


「熱いわよ。気を付けてね」

「はい! ふー、ふー……はふはふ」


 東頭さんは私よりちょっと背が高いんだけど、たこ焼きを熱そうに頬張る姿は、何だかリスみたいで可愛かった。

 こういう可愛げが足りないんだろうなー、今の私には……。よーし……。


「……はふっ!」


 あえて冷まし切らないままたこ焼きを頬張ると、当然ながら普通に熱くて、私は口を手で覆った。

 水斗が呆れた目でこっちを見てくる。


「人に言っておいて世話ないな」

「ぁふっ……お、思ったより熱かったの!」


 意外と抜けてるアピール――のつもりだったけど、本当に熱くてそれどころじゃなかった。口の中火傷したかも。

 東頭さんはもぐもぐごくんとたこ焼きを飲み込むと、「う~……」と口に手を当てながら何やら唸る。


「ベロ火傷しちゃったかもです……」

「おいおい。大丈夫か?」

「見てください~……」


 んべっ、と。

 東頭さんはいきなり、口を開けてピンク色の舌を水斗に見せた。

 ええっ!? そっ、それは……! え? 恥ずかしくないの!?

 驚いているのは私だけだった。水斗は平然とした顔で東頭さんの舌を覗き込んで、


「確かにちょっと荒れてるな。冷たいジュースか何かで冷やすか」

「お願いしまふ~……」


 た、確かに可愛げはあるけど……。ドキッともするかもしれないけど……。し、舌……舌かぁ……。


「み、水斗……」

「ん?」


 私は水斗の制服の裾をくいくいと引く。

 あとは口を開けて、舌を出すだけ……。んべっと……舌を……。


「……な、何でもない……」

「そうか? じゃあ飲み物買ってくるから、これ持っててくれ」


 水斗はたこ焼きのトレイを私に渡して、近場の飲み物屋台に向かう。

 私は両手にトレイを持った格好で、静かに落胆した。

 ……無理だぁ……。私は東頭さんにはなれない……。


「どうしたんですか、結女さん? はふはふ」

「東頭さん……人ってどうやったらそんな恥知らずになれるの?」

「あれ? もしかしてわたし、痛烈な批判を受けてませんか?」






PM01:18■あたしには全然まったく関係ないし


「あーあ、つまんねー」


 賑わう廊下を歩きながら、麻希ちゃんが不貞腐れたように言った。


「わたしらの友情はどこに行ったって言うのさ! 伊理戸さんは仕事だから仕方がないとしても、奈須華の奴、彼氏なんか優先しやがってさーあー!」

「仕方ないよー。付き合いたてなんだからさ。一番楽しい時期を邪魔しちゃ悪いよ」

「本人は一ミリも楽しそうじゃなかったが!?」


 確かに、彼氏に会いに行くという奈須華ちゃんは、普段とまったく変わりのない無表情だったけど。


「でも、無表情に見えて実は内心そわそわしてたら可愛いよね」

「うガーッ! 甘酸っぺぇことを言うなあーッ!! 彼氏が欲しくなるだろうがーッ!!」

「どうどう。鎮まりたまえ、あたしが付き合ってあげるから」

「ううっ、やったぁ……彼氏はできないけど彼女ができたぁ……。二人でイチャイチャしようね、あっきー……」

「はいはい。いちゃいちゃ」


 大型犬みたいに抱きついてくる麻希ちゃんを撫で撫でして慰める。友達を取られて寂しい気持ちは、あたしにもわかる。まあでも、奈須華ちゃんは――それに結女ちゃんも、彼氏ができたからって友達のことを忘れちゃうような子じゃないから、我が儘言わずに応援してあげないとね。

 なんてやりながら、文化祭を回っていく。屋台で売っていたフランクフルトをもがもがとやけ食いする麻希ちゃんを見てひとしきり笑うと、バンド演奏や演劇をやっている体育館に移動した。


「バスケ部の先輩がバンド組んで出るんだよねー」

「好きなの?」

「別にー? でも周りがキャーキャー言ってるから、一応見とかないと置いてけぼりじゃん?」

「あー、なるほどー。さぞおモテになられるイケメンなんでしょうなあ」

「いや、女の先輩だけど」

「おうふ」


 バスケ部でバンドって、どんなモテ要素のキメラかと思いきや、さらに上を行かれた。

 体育館の中は薄暗く、ステージだけが煌びやかに輝いていた。薄闇の中に、大勢の観客がすし詰めになっている。


「うぬぬ……見えない……」

「抱っこしてあげよっかー?」


 あたしが頑張って背伸びをしていると、麻希ちゃんが了解も取らずに抱きかかえてきた。おのれー……自分が背高いからって! けどおかげでステージが見えた。どこかのクラスだか部活だかがダンスしている。

 と、


「……ん?」


 観客の海の中に、見慣れた頭があった気がした。

 ……いや、見間違いじゃない。あの毛先の遊び方……川波の頭だ。

 そして、その隣には――


「……………………」


 いや、関係ないし。

 あたしには、まったく、関係ないし。

 あいつが、クラスでよくつるんでる西村さんと、二人でそこにいるからって、何にも関係ないしどうでもいいし。


「あー、腕疲れてきた! 下ろすよー」


 麻希ちゃんがあたしを床に下ろし、顔を覗き込んできた。


「どしたん? 不機嫌そうな顔して」

「……べつに、何でもないよ」

「もしかして、勝手に高い高いしたの怒った? だったらごめん! あっきーが背ぇ小っちゃいの気にしてるの知ってるのに! でも小柄なのも可愛いと思う!」

「勝手に慰めるなあ! 別に気にしとらんわーっ!」


 確かに、西村さんがあいつに気がありそうなのは、なんとなくわかってた。

 だってあいつ、西村さんと話してる途中でよくトイレ行ってるし。……感じてるってことだ、彼女の好意を。で、例のアレルギーを発症してる。

 普通、嫌にならないの? 話してるだけで蕁麻疹出ちゃうような相手。あたしだったらうんざりする。だから、あたしはちゃんと、気を遣ってあげてるのに、さあ――


 音楽が終わり、観客の一部がばらけて出口に動いた。「うおっと、避けよ避けよ」と、麻希ちゃんに引っ張られて、出ていく人に道を開ける。

 外に流れ出ていく人波――その中に、さっき見た頭が混ざっていた。


「あれ? 川波――と、西村?」


 川波が何か話すと、西村さんが肩を揺らして笑った。また、くだらないことを喋っているんだろう。あたしに言うのと、同じような――


「うわー、仲良いとは思ってたけど、まさかいつの間に――」

「……………………」

「――ひぇっ!? ……あ、あっきー? なんか怖いんだけど……?」

「……そんなことないよ」

「そんなことあるってぇ!」


 あたしには関係ないし。あいつがモテるなんて元から知ってるし。……嘘つきなのも、大昔から知ってるし。

 だから、恋愛はするものじゃなくて見るものだーなんて言いながら、しれっと文化祭デートしてたって、全然意外じゃないし。


「人少なくなったよ、麻希ちゃん。今のうちに前行こ」

「え、ええー……この流れで先輩のバンドにキャーキャー言うのは無理なんだけど……」


 麻希ちゃんの手を引いて、ステージの近くに移動しようとした――寸前。

 体育館の外から、声が聞こえた。


「あ、いたいた! 川波ぃー!」

「おー、お前ら! ったく、はぐれんなよなー」

「あんな人混みじゃしょうがないじゃんかぁ!」


 振り返ると、体育館の出入り口のすぐ近くで、川波と西村さんを含めた五人くらいの同級生が集まっていた。

 男女入り混じったそのグループは、騒がしくふざけ合いながら体育館を離れていく。


「……あっきー?」


 同じようにそれを見ていた麻希ちゃんが、あたしの顔を覗き込みながら、


「良かったじゃん。デートじゃなくて」

「…………関係ないし」

「あーあー、結局わたしだけかよー、アオハルしてねーのはー」

「だから関係ないってばっ!」






PM02:35■過去と現在


「いやー、無事に脱出できてよかったですねえ。面白かったですー!」

「ね。今までの答えが最後の謎解きのヒントになってるって気付いたときは、本気でびっくりしちゃった」

「まあよくある構成じゃああるんだろうが、よく考えられるもんだよな、あんなの」


 謎解き脱出ゲームのクラスから出て、僕たちは感想を言い合いながら歩いていた。三人でいろいろと回ったが、あの脱出ゲームは出色の出来だ。僕たちの好みに合っていたのもあるが、文化祭特有の内輪ノリに甘えず、エンタメとして細かいところまで考えられていて、ストレートに遊びごたえのある作品だった。


「水斗君と結女さんがいて本当によかったです! 一人じゃ絶対入れてませんでしたから」

「まったくだ。僕も文化祭のことを見くびってた。まさかあんな出来のいいモノを作るクラスがあるとは思わなかったよ」

「ねー! 陽の者がしょうもない出し物をテンションだけで誤魔化して内輪ウケだけしてるイベントだと思ってましたよねー!」

「いや、文化祭への認識ひどくない?」


 普通だと思うが。

 なんとなく歩いていると、中庭に出た。ちょうど三年生がパフォーマンス中で、女子が勇壮な声色で何かのアニメの主題歌を熱唱していた。それをBGMにしながら、結女が文化祭のパンフレットを開く。


「次はどこに行く? 午後の部が始まってるクラスも多いけど」


 いさなは首を傾げながら空中を見上げる。


「んー……さっきのでちょっと燃え尽き症候群というか……」

「そうだな。少し休憩を入れてもいいんじゃないか?」

「そっか。確かにずっと歩き回ってたし……あ、だったら私、トイレ行っておこうかな。東頭さんは大丈夫?」

「だいじょぶですー。行ってらっしゃーい」

「すぐ戻ってくるから、この辺りで待っててね」


 結女が校舎の中に戻っていく。それを見送ると、僕たちは渡り廊下の柱に背をもたせかけて、熱唱する三年生を眺めた。

 していると、


「水斗君、水斗君」

「ん?」


 振り向いた瞬間だった。


「ちらっ」


 いさなが胸周りを覆うケープの襟元をくいっと引っ張って、大きく露出したディアンドルの胸元をチラ見せしてきたのだった。


「……ハマったのか、それ?」

「エロくないですか? 大勢の人がいる公共の空間で、水斗君にだけ見せちゃうんです」

「余計な性癖を開拓してしまったようだな……」


 安易に褒めたりしなきゃ良かった。

 誘惑というよりシチュエーションを楽しんでいるらしいいさなは、「くふふ」と口を押さえて密やかに笑う。


「水斗君も真似していいですよ。結女さん相手に」

「残念ながら見せるものがないんだよ、男には」

「いやいや、わかってませんね水斗君は。胸見て興奮するのは女子も男子も一緒ですよ?」

「僕は興奮してないが」

「ふふふ。そういうことにしておきましょう。友達のよしみで」


 調子に乗ると本当に鬱陶しいなこいつは。


「まあ、それはしないにしてもですね、ちょっとアプローチが少ないんじゃないですか? せっかくの文化祭だっていうのに。結女さんをオトす気がないんですか?」

「元々ないよ、そんな気は。……文実が思ったより忙しくてさ。特にあいつは、どうやら委員長に気に入られたみたいで……だから、あんまり邪魔はしたくないんだよ」

「言い訳……じゃ、ないみたいですね。結女さんは邪魔だとは思わないと思いますけど?」

「当人がどう思ってるかは関係ない」


 今、何を重視すべきなのか。……それを決めるのは、本人の感情じゃない。


「むう」


 いさながじっと僕の顔を見つめて、怒ったように唇を尖らせた。


「水斗君、また何か面倒くさいことを考えてませんか?」

「この前の君ほどじゃないと思うけどな」

「超面倒臭いわたしのことを正確に理解できるってことは、それ以上に面倒な性格をしてるってことなんですよ!」


 ……正直、反論しがたいな、それは。


「水斗君は頭がいいので、周りのこととかいろいろ含めて考えちゃうんでしょうけど、まずは自分のことじゃないですか? それ以外のことは後回しでいいじゃないですか」

「そうなんだろうな。……たぶん、正しいよ、君の言うことは」


 けれど、……それは、自分というものがある人間のやり方だ。

 自分というものを信じられる人間のやり方だ。

 僕は、僕の中にある、郷愁めいたこの感情に、従う気にはなれない。

 だって――そうだろう?

 これは、どうしようもないくらいの、失敗の記憶なのだから。


「なあ、いさな。これは、冗談として聞いてほしいんだが」

「はい」

「僕は本当は、君の告白を受けるべきだったのかもしれない――って言ったら」

「怒ります」

「……だよな」


 僕は自嘲気味に口の端を上げた。そんな虫のいい話が通るはずもない――


「でも」


 いさなはまだ、じっと僕の目を見つめていた。


「改めて、水斗君から告白してくれるなら、喜んでOKします」


 僕は意外さに目を開いて、いさなの目を見つめ返した。


「それは……どういう違いがあるんだ?」

「そうですね……。たぶん、過去か現在かの違いじゃないですか?」

「……過去か、現在か?」

「過去の選択を悔やんで、今までのことをなかったことにするようなセーブ&ロードをされるのと、今現在のわたしを見てくれた上で新たに選択肢を選ぶかの違い――ですかね。きっと」


 ……ああ、なるほど。

 やっぱりこいつの言葉は理路整然としていて、わかりやすい。


「わたしはですね、水斗君と出会ってから、結構変わっているんですよ? そして、水斗君に出会ってからの自分のほうが、わたしは好きなのです。なので、そのわたしを選んでくれるなら、彼女でも嫁でも喜んでなりますし、その日のうちにお家に連れ込んでえっちなことをします」

「性欲が前面に出過ぎなんだよ」

「わたし的には重要なのです。水斗君的には違うんですか?」


 違う。

 僕にとって、重要なのは――


 ――ああ、まただ。

 違うということだけはわかるのに、じゃあなんだと考えると、……何もない。


「んー……水斗君、そういえば――」

「――失礼」


 いさなが何か訊こうとした瞬間、低い声が割って入ってきた。

 前を見ると、ジャケット姿の男性が立っていた。四十代くらいだろうか……やり手の実業家っぽい雰囲気が漂っている。誰かの親か?


「道を尋ねたいんだけど……大丈夫かな?」

「ああ、はい」


 僕は二の腕に文実の腕章を付けている。それを見て話しかけてきたのだろう。

 急速に存在感を薄くするいさなをよそに、実業家風の男性は言う。


「一年七組はどこにあるのかな?」


 ウチのクラス?

 意外に思いつつも、僕は委員として粛々と答える。


「あちらの校舎の二階です。階段を上がって三つ目の教室です」

「そうか。ありがとう。助かったよ」


 それから、男性は僕の隣で身を縮めているいさなを見て微笑んだ。


「素敵な彼女だね。大切にしてあげるといい」

「ひうっ」


 急に水を向けられてビビったのか、いさなは小さく悲鳴をあげて僕の服を掴んだ。


「それじゃあ。本当にありがとう」


 男性は校舎の中に消えていった。

 ウチのクラスの誰かの父親だったのだろうか。ずいぶん気さくな人だったが。


「……えへ。えへへ……。素敵な彼女らしいですよ、水斗君!」

「そうだったら良かったな」

「はい! ……って、水斗君だけは言っちゃダメな台詞なんですけど!」


 むくれるいさなを、犬のようにあやして宥める。

 ……大切にしてあげるといい、ね。

 言葉にするほど、簡単じゃあないんだよ。






PM03:45■この世には二種類の人間がいる


 トイレ休憩を挟んだ後、水斗と東頭さんと一緒に出し物をいくつか回った。

 体育館でバンド演奏を見たり、プレゼンで争った本格的メイド喫茶に行ったりしていると、あっという間に時間が過ぎた。

 いつもなら授業が終わっている時刻になっているのに気付いて、私は水斗に言う。


「そろそろ後夜祭の準備に行かなきゃじゃない?」

「ああ――もうこんな時間か」


 水斗もスマホで時間を見て呟く。

 後夜祭。キャンプファイヤーだ。後片付けは明日だから、それの準備が、今日の文化祭実行委員としての最後の活動となる。

 それを聞いて、東頭さんはあからさまにしゅんとした。


「そうですか……。お仕事なら仕方ないですね……」

「東頭さんはこの後、どうするの? クラスの打ち上げとか?」

「ウチのクラスはそういうのないと思いますし、あったとしても絶対行きませんよ」


 絶対って。自信満々に言うことなの?


「うーん……後夜祭は自由参加ですよね? でっかい火は見てみたい気もしますけど……」


 キャンプファイヤーをでっかい火って。


「せっかくだし最後まで見ていったら? 別に踊らなきゃいけないってわけでもないし」

「でも、水斗君たちがいないなら、別に面白くなさそうですし……たぶん八割くらいの確率で帰っちゃいそうですね」

「だったら僕が付き合おうか」


 その水斗の発言に、私は「えっ?」と振り返った。

 東頭さんはパッと顔を明るくして、


「本当ですか?」

「準備が終わったら、もう仕事は何もないしな」

「だったら帰らないでおきます! あとで連絡してくださいねー!」


 嬉しそうにそう言って、東頭さんは自分のクラスへと戻っていった。

 平然とした顔でそれを見送った水斗に、私は困惑の視線を向ける。


「なんであんな約束しちゃったの……?」

「何がだ?」

「だって――後夜祭の間は、文実の打ち上げがあるじゃない!」


 そう。後夜祭の時間は、文化祭が無事に終了したことを祝う打ち上げがあると、最初から決まっているのだ。この数週間、苦楽を共にした委員たちが互いを労い合う、文化祭実行委員としての、本当の最後のイベントだ。

 水斗がそれを知らないはずがない。だって、私が伝えて、『わかった』と肯いた。打ち上げに来てくれる程度には馴染めたんだって安心した。なのに――


「文実の後はクラスの打ち上げもあるし……あなたはトップクラスの功労者なんだから、出ないわけには――」

「それは仕事か?」


 虚無だった。

 感情のない、空っぽな虚無の瞳で、水斗は私を見ていた。


「その打ち上げとやらは、仕事なのか?」

「え……いや……別に、仕事ってわけじゃ……」

「だったら、自由だろう」

「で、でも!」


 私は気付くと、水斗の制服を掴んでいた。

 引き留めるように。

 捕まえるように。


「お世話になった先輩もいるし……ちゃんと最後の挨拶も、必要でしょ……?」

「それは明日、後片付けが終わって解散のときで充分だろう」

「せ……せっかく少し馴染めたのに、水の泡になっちゃうわよ? 付き合いの悪い奴だって、また思われちゃうわよ? それでもいいの……!?」

「何か問題があるか?」


 少しも、揺れなかった。

 水斗の瞳には――ほんの少しも、感情が揺り動かされた様子はなかった。


「文実の仕事も終わる。どう思われたところで支障はないだろう?」

「そんな……仕事のためだけに仲良くしてたみたいな……」

「いや、その通りだろ、普通に。多少は愛想を見せないとできる仕事もできなくなるってことくらい、経験のない僕にだってわかるよ」


 何を言ってるんだこいつは。

 そんな言葉が透けて見えるくらい、水斗は怪訝そうに、眉をひそめた。


「服、……離してくれ。時間、ないんだろ」

「……うん。ごめん」


 水斗の服から手を離す。

 それと同時に、彼という存在そのものが、離れていってしまったような気がした。

 家に帰れば顔を合わせる。毎日同じ教室で授業を受ける。

 だけど今夜、私は文実の打ち上げに出て、彼は東頭さんと一緒に過ごす。

 たったそれだけで――終わってしまう気がした。

 私と彼の間に、どうしようもない壁が、築かれてしまう気がした。


「……服といえば」


 水斗が制服の襟元を引っ張って、中に着た、黄色いクラスTシャツを見下ろした。


「このTシャツ、どこに返せばいいんだ?」

「…………持って帰るのよ」


 思い出として。……普通は。


「ああ……そうだったのか」


 私は、今になって、今更に、理解する。

 この世には二種類の人間がいる。

 文化祭を思い出として大切にする人間と、面倒な行事としてやり過ごす人間だ。

 私と彼は――違う人間だったのだ。


「……


 そんな声が聞こえた気がした。

 きっと幻聴だと思う。

 その後、私たちは無言で、粛々と、仕事をこなすために歩いた。

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