あのとき言えなかった六つのこと 「もしもし」


 夏休みという虚無があった。

 僕は田舎の花火を、人気のない社でひとり、見上げていた。


 世界は問題なく回っていく。

 僕がいなくても、君がいなくても。

 まるで――この一年が嘘だったように。


 僕は手の中にあるスマートフォンを見る。

 電波はきっと、簡単に君との間を繋げてくれるだろう。

 去年のように、そうすることは、たぶん簡単なことだった。

 でも、僕にはできなかったんだ。

 もう君は、電波が届かないくらい遠くに、行ってしまっている気がした。


 ――願わくば、嘘にしてほしい。

 この一年を。君との時間を。

 終わりが来るなんてこと、知りたくはなかったんだ。






◆ 伊理戸結女 ◆


 各クラスの出し物が決定し、文化祭の準備が本格的に始まった。

 クラスが大正ロマン喫茶の内装を作ったり、メニューを調理する練習をしたりしているのを後目に、私と水斗は実行委員会のほうに出入りしている。

 文実は各クラスと運営委員会とのパイプ役であることの他に、招待状や広報用ポスターの準備、近隣住民の根回しなど、文化祭全体に関わる雑務が仕事なのだ。だから、せっかく自分たちで通した企画だけれど、クラスの準備にはあまり関われないのだった。


「(――調子はどうかな?)」

「わっ!?」


 私がノートPCに向かって黙々と仕事をしていると、急に耳元で涼やかな声がして、びくりと腰を浮かせた。

 そんな私を見て、囁き声の主――生徒会副会長であり、文実の委員長でもある紅鈴理先輩が、からかうようにくつくつと笑った。


「せ、先輩……いきなり何をするんですか……?」

「失敬。他のみんなの邪魔にならないように、と思ってね」


 絶対嘘だ。からかって遊んでるんだ。

 学校史上最高の天才と呼ばれ、そのカリスマ性で三年生すら顎で使っている紅先輩だけれど、その実は意外とフレンドリーだった。プレゼンで目立ったからか、私には特別よく話しかけてくれる……ような気がする。誰にでも砕けた感じで接しているから、私の自意識過剰かもしれないけど。

 紅先輩は腰を曲げて、私が作業しているPCの画面を覗き込む。


「どうかな? テストのほうは。上手くいっているかい?」

「あ、はい……今のところ。目立ったバグは出てません」


 私が今やっているのは、プレゼンで提案したトラブル防止システムの実験だった。

 何人か容姿に特徴を持たせた生徒を校内に放ち、それを実行委員が見つけて写真に撮り、すぐにデータベースに記録する。そして、そのデータベースを元に、生徒の行動を予測する。鬼ごっこのような実験だけれど、データベースのプログラムに問題がないかどうか、実際に効果があるかどうかを見るにはちょうどよかった。

 私はパソコンには慣れていないんだけど、言い出しっぺということでデータベースの挙動をデバッグする役に選ばれてしまった。近くの机で水斗も無言で同じ仕事をしている。

 紅先輩は画面を見ながら肯いて、


「うん、良さそうだね。まあジョーが用意したシステムだから、心配はしてなかったけど」

「ジョー……?」

「ウチの会計だよ。影は薄いが、あれでなかなか有能でね。コンピュータに強いんだ」


 紅先輩が振り返ったほうを見ると、ホワイトボード前に置かれた長机の端っこで、天パ気味で野暮ったい眼鏡をかけた男子が、無言でカタカタとキーボードを叩いていた。

 見てやっと思い出した。会計の羽場丈児先輩。

『ジョー』って呼んでるんだ。言われてみるといつも一緒にいる気がするし、もしかして仲がいいんだろうか。


「仲はいいと思うよ?」

「えっ?」


 心読まれた!

 紅先輩はまたくつくつと笑って、


「キミは顔がわかりやすくて面白いね。ちなみに、残念ながらまだ男女の仲ではないよ」

「先輩が鋭すぎるだけじゃ――」


 ん?

 今……『残念ながら』って。『まだ』って。

 え? 嘘? そういう感じ?


「さてね?」


 紅先輩はどこか胡散臭い笑みを浮かべて片目を瞑ると、「それじゃあ引き続き頼むよ」と言って、他の委員のところに去っていった。

 いや……どっち? 結局どっち!?

 私は存在感に反比例して華奢な先輩の背中を、思わず見つめてしまう。本当だとしたらものすごく意外なカップルだし、だけどからかわれただけのような気も……わかんない!


 私がやきもきさせられていると、「なあ」と声をかけられた。

 振り返ると、いつの間にか水斗が傍に立っていた。


「なっ……何?」

「二つ目のタブなんだが、他よりも誤入力が多くないか?」

「えっ……? うーん、言われてみればそうかも……。そそっかしい人なのかな」

「人によってはUIがわかりにくいのかもしれない。もっと過剰なくらいわかりやすくしてもいいかもな」

「うん、わかった。データ取って報告する」


 水斗は肯いて、自分の席に戻っていった。

 ……相も変わらず高スペックではあるけれど、今のところ水斗は、他の文実と交流している様子がない。話すのは私とばっかりで、強いて言えば紅先輩がよく話しかけてるかなーってくらい。

 水斗が周りに馴染まないのはいつものことではあるけど……せっかくプレゼンであんなに認めてもらえたのに、ちょっともったいないわよね。






◆ 川波小暮 ◆


「はい、こーくん。あーん♪」

「あぐ」


 甘ったるい声と共にオレンジを一切れ口に突っ込まれ、オレは吟味する。

 暁月はスプーンを持ったまま小首を傾げ、


「どう?」

「うう~~~ん……ちょっと甘すぎねえ?」

「そんなん好みじゃん!」

「好み以外でどう判定しろってんだよ!」


 模擬店で出す予定のメニューを試食しているところだった。

 大正時代の洋食といえばカレー、コロッケ、トンカツらしいが、模擬店じゃ油はおろか火を使うことも制限されてる。そういうわけで、缶詰から出した果物を炭酸水とかに突っ込むだけのフルーツポンチとか、あらかじめ用意したハムとレタスとスクランブルエッグを挟んだだけのサンドイッチとか、簡単な軽食を中心にメニューを構成する予定だった。

 オレは暁月が作ってきたフルーツポンチを眺めながら、


「これだけ食っても仕方ねーんじゃねーの? 喫茶店って、どっちかっつーと紅茶とかコーヒーが主役だろ」

「そりゃそうなんだけどさ。そっちは今、木根ちゃんが拘り始めちゃってさあ。家庭科室で一生豆挽いてるよ」

「豆からかよ……。さすがは茶道部っつーか、コーヒーってお茶に入んのか?」


 どこにでもいるもんだ、凝り性な奴ってのは。

 オレは教室を見渡した。大正ロマンがコンセプトなら教室の壁が剥き出しなのは良くねーってことで、カフェ風の壁紙を貼る予定だ。が、一口にカフェ風っつってもいろいろなバリエーションがあるもんで、今も木目派とレンガ派で議論が巻き起こっていた。

 前方に目を向ければ、黒板を使って席の配置について話し合っている。伊理戸さんの調べによれば、大正時代に初めてできたカフェは文化人が集まるサロンだったらしい。そっちに寄せるか、それとも普通の喫茶店に寄せるか、調整が続いていた。

 教室を舞台にマインクラフトでもやってるみたいで、なかなか悪くねー雰囲気だ。まあオレの場合、恋愛と同じで、そこに混ざるよりも傍から見てたほうがおもしれーんだが。

 試作フルーツポンチをパクついて合法的にサボっていると、暁月が「あ」と声を上げた。


「東頭さん?」

「ん?」


 振り向くと、教室の入口からひょこっと、顔を覗かせている女がいた。

 誰あろう東頭いさなだ。きょろきょろと首を回して、誰か探しているらしい。ま、誰を探してるかなんて明らかだけどよ。

 オレたちは東頭に近付いて、


「伊理戸ならいねーぞ」

「なっ、なぜわかったんですか!」

「東頭さんがウチのクラスに来る理由なんてそれしかないじゃん」


 東頭は少し背伸びをして、暁月の頭越しに教室を覗き込む。


「水斗君はいずこへ……このままでは、わたしが文化祭の空気に押し潰されて死んでしまいますよ!」

「何を自信満々に言ってんの。クラスの準備手伝えばいいじゃん」

「そうだ。お前、クラスはどうしたんだよ?」

「ふふ……このわたしに、仕事なんて割り振られると思いますか」


 要するに、クラスに居場所がねーから伊理戸に構ってもらいに来たらしい。

 オレは呆れながら、


「伊理戸は文実のほうだ。オレらより忙しいからな。邪魔すんなよ」

「……そうですかー……。残念ですけど、迷惑はかけられませんね……」


 東頭は肩を落としてあからさまにシュンとする。何だか少し可哀想になってきたが、まあクラスで友達を作らなかったのはこいつの自業自得だ。文化祭なんざ、クラスメイトとの距離を詰める絶好の機会なんだから、逃げてこなけりゃいいのにな。


「あ、そうだ。東頭さん、フルーツポンチ食べる? 模擬店で出すの試作したんだけど」

「え。いいんですか……?」

「いいよいいよ! こいつの意見、参考になんなくてさあ」

「でしょうね」

「お前、オレにだけ強気なのなんなんだよ」


 暁月が東頭を教室に招き入れようとしたそのときだ。


「……ん? いさな?」

「あ! 水斗君!」


 伊理戸水斗が廊下の向こうから現れて、東頭が飼い主を見つけた犬のように振り向いた。

 東頭はタタっと伊理戸に駆け寄って、


「文実じゃなかったんですか?」

「今日の仕事は終わった。教室の様子を見てから君を迎えに行くつもりだったんだが」

「おお。奇遇ですね。わたしもちょうど、教室に居場所がなくて居た堪れなくなってきたところだったんです!」

「それは悪かったな。出迎えが遅れて」


 尻尾を振ってるのが目に見えるようだ。ほんっと懐いてるよな。あの教室での告白事件以来、周りの目さえ気にしなくなりやがったし。

 オレは伊理戸に軽く手を挙げて、


「よお。伊理戸さんはどうした?」

「さあ。まだ何か作業が残ってるんじゃないか」


 興味なさげな答えに、オレは『ん?』と思った。

 その間にも、伊理戸は東頭の肩に手を置いて、


「作業がないなら一緒に帰ろう。図書館……はもう閉まるから、僕の家でも行こうか」

「いいですねー! 荷物取ってきますね!」

「ついていくよ」


 東頭と一緒に背を向けて、それから思い出したように、オレたちを振り向いた。


「じゃあな、川波。南さん」

「おう……お疲れ」

「お疲れー、伊理戸くん」


 肯いて、伊理戸は東頭と一緒に、騒がしい廊下の雑踏に消えていった。

 それを見送ってから、オレは何とはなしに、暁月と目を合わせる。


「なんか……」

「うん……」


 二人とも文実に入れることで、二人の距離を縮める計画だった。

 けど……なんでだ?

 今はむしろ、二人の距離が遠ざかっているような気がする。






◆ 東頭いさな ◆


 水斗君の部屋に入ると、わたしはばふっとベッドにお尻を下ろし、靴下をぽいぽいっと脱ぎました。

 わたしのそんな勝手知ったる態度にも、水斗君はもう動じません。鞄をハンガーに引っかけて、ネクタイを雑に緩めます。


「ふう……。やっと肩の力を抜けるな」

「文化祭実行委員、そんなに忙しいんですか?」

「仕事は大したことないけど、副会長が妙に絡んできてな……。その相手が面倒臭い」

「え? 副会長? 生徒会のですか?」

「ああ。悪い人じゃないんだろうけど、どうにも苦手でさ」


 水斗君がこんな風に言うなんて、珍しいですね。基本的に、結女さん以外のことは視界にも入ってないような感じなのに。


「それは大変でしたねえ。わたしは何にも仕事がなくて暇だったので、元気いっぱいですよ?」

「威張って言うな。多少はしておかないと、逆にストレスだぞ」

「そうなんですよね……。みんな働いてるのに罪悪感が……」

「何にもしてないのにクラスTシャツを着る気まずさったらないぞ」

「うわ~~~! やっぱりあるんですか? クラスTシャツとかいう文化~~~! 進学校だから大丈夫だと思ったのに~~~!!」

「進学校といえども所詮は高校だよ。各クラスの予算で作られるから、料金を徴収されることがないのが救いだけどな」

「水斗君も好きじゃない感じですか? クラスTシャツ」

「そりゃそうだろう。あんな同調圧力の具現化みたいなもの」

「わかります! こちとらクラスに所属している認識すら希薄だというのに!」

「形だけ仲間みたいな雰囲気を出されてもな……」


 はあ、と水斗君は小さく嘆息しました。むむむ……これは本当に疲労が窺えますね。


「水斗君、水斗君。お疲れならば、このわたしがエネルギーを分けてあげましょうか?」

「は? どうやって?」

「こちらへどうぞ」


 水斗君をベッドの傍まで呼ぶと、背中を向けさせて、わたしの前に座ってもらいます。

 そしてわたしは、水斗君の肩に手を置き、指に力を入れました。


「もみもみ~」

「……何かと思えば、ただのマッサージか」

「どうですか?」

「んん……そうだな……」

「頭の後ろにあるおっぱいが当たりそうで気になりませんか?」

「そっちかよ。今更だろ」

「ほほう。わたしのおっぱいにはもう飽きたと」

「ネタに飽きたっていう意味ではその通りだな」


 やれやれ。贅沢な人ですね。一回くらい触れてみたくならないんでしょうか。告白したときには、魅力を感じてないわけじゃないって言ってくれたのに。

 大人しく肩を揉まれる水斗君に、わたしは適当に思いついた話題を振ります。


「水斗君、文化祭でコスプレ喫茶やるんですって?」


 南さんから聞きました。プレゼン勝負で勝ち取ったそうです。

 水斗君はリラックスした姿勢で、


「僕がやるわけじゃない。僕が所属しているクラスがやるんだ」

「写真見ましたよ~。すごく似合ってますね、書生」

「あんなの疲れるだけだよ……」


 本当に疲れた声です。相当ちやほやされたと見ました。


「いいですねえ、面白そうな出し物で。ウチのクラスは全体的にやる気微妙でつまんないですよ」

「一番やる気ない奴が言うなよ」

「まあそうなんですけど。あんな可愛いコスプレだったら、わたしも興味あるんですけどね~……」

「君が? 人前で? コスプレ? 自分にできることとできないことをちゃんと考えたほうがいいぞ」

「確かに、大勢の前で、しかも接客とか、完全に無理ゲーですね。……ふむ」


 ちょっと考えてみます。わたしにできること、できないこと。


「……水斗君」


 少し身を乗り出して、頭上から水斗君の顔を覗き込みました。

 水斗君は「ん?」と顔を上げて、間近でわたしと目を合わせます。


「ここでやってみてもいいですか? コスプレ」

「ここで? ……どんなだよ。衣装はこの部屋にはないぞ」

「いえいえ。ちょっとタンスの中身を拝借するだけで充分ですので」

「はあ? タンスの中身? 嫌に決まってるだろ変態」

「変なものは触りませんよう! これを貸してくれるだけでいいですから! これ!」


 と言って、わたしはちょいちょいと水斗君が着ているシャツを引っ張りました。

 水斗君はますます怪訝そうな顔をしました。


「これ? ……まあ確かに、予備がタンスの中にあるが……」

「前から着てみたいなーって思ってたんですよ。水斗君の服!」

「シンプルな性欲を感じてキモいんだが……」

「そうじゃないですよ! 彼シャツです彼シャツ! 憧れじゃないですか!」


 性欲のためだったら、いま水斗君が着てるほうのシャツを着ますよ! 匂いがいっぱい付いてますし! ……うわっ、我ながらキモいですね。


「彼シャツって、着替えがないときに仕方なくするもんだろう……」

「だって、例えば急な雨に降られてびしょ濡れになったとしましょう。そのとき、水斗君はわたしを何に着替えさせますか?」

「そりゃあ……、…………、……結女の服を借りて着せるだろうな」

「でしょう!? こうでもしないと機会がないんですよ!」


 曲がりなりにも男子の部屋に通っているので、ほのかに期待してたんですよ! 微妙な天気の日にあえて傘を持っていかなかったりして! でも、よく考えたら成立しないんですよ! 詰んでるんですよ!


「そういうわけで、この際、正々堂々とコスプレしようと」

「情緒の欠片もないな。……まあ、少しなら別にいいけどさ。いったん外に出るから、好きに着替え――」

「いえ、別にいいですよ? あっち向いといてくれれば」

「は?」


 部屋の主を追い出すのは気が引けますしね。それに、自分で言うのもなんですが、わたしは性欲が旺盛なので、一人きりにされると何をするかわかりません。


「では失礼して……」


 わたしはいったん水斗君の肩揉みを切り上げると、ベッドを降りて、タンスの一番上の段を開けました。大当たりです。きっちり畳まれたカッターシャツがありました。

 わたしはそれを持ってベッドに戻り……自分のシャツのボタンに、手を掛けます。


「じゃあ、着替えますから……こっち、見ないでくださいね? 絶対に見ないでくださいね?」

「丁寧な振ってくれたところ申し訳ないが、本当に見ないよ」


 水斗君は呆れ混じりに言いながら、一度立ち上がって鞄の中から読みかけの本を出し、ベッドの傍に戻って、それを開きました。本当に興味なさそうな挙動で、ちょっと腹が立ちます。それでも高校生男子ですか。JKの生着替えASMRを食らうがいい!


 しゅるりとネクタイを取ってから、ぷちぷちとシャツのボタンを外していきます。

 ……あー。うわー。い、意外とドキドキしますね……。すぐ傍に男の子がいる状況で、服を脱ぐの……。夏休みには、寝惚けて生チチを晒しかけたこともあるっていうのに、今は水斗君の死角でブラジャーを晒しているってだけで……下品なんですが……フフ……。

 袖から両腕を抜いて、脱いだシャツをぺいっと横に投げ捨てます。……あーっ! 水斗君のベッドに! 脱ぎ捨てられた女のシャツ! これはえっち! えっちですよ!

 できることならブラも一緒に雑な感じで置いてみたいですが、さすがにそれはやめておきましょう……。危ない危ない。水斗君が部屋の外にいたらやってました。おっぱいモロ出しでぷるんぷるんさせながら何もないベッドを撮影しているアホな姿を、水斗君に目撃されてしまうところでした。

 さて、次はスカートです。わたしはプリーツに隠れたジッパーに指を掛けて――


 そのとき、天才的な閃きがわたしに舞い降りました。


 ちらりと水斗君の様子を窺います。水斗君は本当に、こちらのことは一顧だにせず、ぺらりと本のページをめくっていました。実は聞き耳を立てていて読書が進んでない、みたいなことも一切なし。いくら恋人じゃないとはいえ、ちょっとくらい女のプライドってやつを満たしてくれてもいいんじゃないでしょうか。

 と、いうわけで……。

 ずり、とお尻をズラして、水斗君の耳にスカートのジッパーを近付けて――


 ジイイ――――ッ……。


「……おい。なんでわざわざ近付けた」

「へぁ? ……な、何のことやら~……」

「…………まあいいか」


 何とか誤魔化せました。ちょっとわざとらしすぎたみたいです。

 スカートを脱いで、わたしは完全に下着姿に。うわ~お……。ちょっと水斗君の後ろでエロいポーズとかしてみたくなりますけど、かろうじて自制心が勝ちました。やるならもっとエッチいデザインの下着のときがいいです。

 持ってきた水斗君のカッターシャツの袖に、腕を通します。

 ……思った通り、ちょっと袖が余りました。えへへ。ぶかぶか~♪ ……あっ、これ口に出してやんないといけないやつだ。


「え、えへへ。ぶかぶか~……♪」

「……………………」


 無視!

 塩対応の水斗君もいいですけど、たまには甘くなってくれてもいいんですよ?

 ボタンを留めていって、胸のところで迷います。どこまで留めるべきか……。第一ボタンまでピッチリ留めるのは論外ですけど、ブラが見えちゃうのも微妙というか。うーん、鏡がないとわかりにくいですね。

 わたしは手鏡代わりのスマホを求めて、ベッド脇にある鞄に手を伸ばしました。ちょうど水斗君が座っているところのすぐ隣に――


「えっ? おい!」


 急に水斗君が焦った声を出して、こちらを見ました。

 そう、こちらを見ました。

 あれ?

 ……わたし、自分から水斗君の視界に入っちゃってません?


 わたしは鞄に手を伸ばした姿勢のまま固まって、そうっと自分の胸元を見下ろしました。

 ギリギリ下着が隠れているかどうか、スマホのカメラでチェックしようとした矢先だったので……開いた第三ボタンの隙間から、ピンク色のシンプルなブラの端が……。


「あうっ」


 わたしは慌ててシャツを掻き寄せました。

 ……すると、今度は裾のほうが上がってしまって、


「んにゃあ!?」


 太腿をピッタリと閉じて、おパンツ様を守ります。

 す、すごい……。なんて紙耐久なんでしょう、この装備は。こんなの、抱かれてもいいと思ってる相手の前でしか絶対無理ですよ!


「一人で騒がしい奴だな……。君が自分で勝手にそんな格好になったんだぞ?」

「だ、だってぇ……今日は、その、下着があんまり可愛くないんですよぉ……」

「やたら可愛いのを着けられてるほうが困るよ」


 困らせたかったんですけど!

 確かにわたしはフラれてますし、結女さんとのことを応援してもいますけど、それはそれとして水斗君を困らせられるチャンスはいくらでも欲しいんですけど!

 わたしはもう一つボタンを留めて、安全な姿勢を探し出すと、改めて水斗君に尋ねます。


「どうですか?」


 袖の余った両腕を軽く上げて、華奢アピール。

 裾の長さも確保できたので、太腿の防御をちょっと緩めてみたりして。

 そんなわたしを、水斗君は寝起きにニュース番組を見るときのような目で眺め、


「まあ、可愛いよ」

「おおっ!? 褒められました!」

「言うと調子に乗るから言わないようにしてるだけで、僕は割と、君のことを可愛い奴だと思ってるよ」


 と言いながら、本に目を戻す水斗君。

 ……あれえ? 言葉と行動が噛み合ってませんけど?

 わたしは四つん這いで水斗君に近付いて、


「あのう……その『可愛い』って、もしかして、犬とか猫の『可愛い』じゃないですか?」

「そうだけど」

「心外です! そういうのじゃなくて、もっとこう……ムラムラしてほしいんですよ!」

「してもいいのか?」


 水斗君がくるりと振り返って、わたしの目を見つめてきました。

 じっ……と。一瞬も動かずに。見定めるような瞳が、わたしの顔を覗いてきて。


「やっ……あの、その……じゅ、準備もしてませんし……」


 思わずわたしが目を逸らして後ずさりすると、水斗君は「ふっ」と小馬鹿にしたように笑いました。


「ヘタレが」


 え? ……ヘタレ?


「一番心外なんですけど!! わけわかんない理由で人の告白断って、据え膳無視し続けてる人に言われたくないんですけど!!」

「わけわかんない理由って言うなよ。その通りだけどさ」


 もう! この調子じゃ、結女さんとの仲だって一生進展しないんですからね!






◆ 伊理戸結女 ◆


 文化祭の準備は着々と進んでいた。

 本番が近付くごとに、校内は常ならぬ雰囲気を濃くしていく。いつもは粛々と授業を受けるだけの場所が、どんどん華やかに、鮮やかに色づいていく光景は、私の気持ちまで飾り立ててくれる気がした。

 今日は、文実にとってある意味最大の仕事とも言える、入口のアーチを作る作業だった。いつも作業場にしている会議室の机をどけ、床いっぱいに広げた段ボールに委員総出でぺたぺたと絵の具を塗りつけていく。

 床に座り込んで作業をしていると、だんだん腰が痛くなってくる。私はキリのいいところで「んーっ」と腰を伸ばすと、休憩ついでにトイレに行くことにした。


 文実の作業を通じて少し話すようになった他のクラスの女の子に一言告げて、私は会議室を出る。

 校舎は放課後とは思えないほど賑やかだ。廊下には当日使う看板などが立てかけてあり、教室の中からはたくさんの話し声が渾然一体となって響いてくる。中にはなぜかカラオケ大会になっているクラスもあった。空気にあてられて変なことになってる……。

 中庭でダンスの練習をしている人たちを窓越しに見下ろしながら、私は近場の女子トイレに入った。すると、


「やあ」

「あ……お疲れ様です、先輩」


 紅鈴理先輩が、洗面スペースにいた。

 カウンターにはメイクポーチが置かれ、コンセントにはヘアアイロンのコードが繋がっている。化粧直しだろうか。

 どこか浮世離れした空気のある紅先輩だけど、普通の女子みたいなこともするんだな……。当たり前のことを意外に感じつつ、私は個室に入って用を足す。


 それから洗面スペースに戻ると、先輩はまだ同じ場所にいた。そんなに長い時間をかけないといけないようなメイクには見えないけど……。ちょっと疑問に思いつつ、隣の洗面台で手を洗う。ついでに鏡を見ると、作業のために結んでいた髪が少しほつれているように見えたので、一度ヘアゴムを取って結び直すことにした。


「使うかい?」


 隣の先輩が、不意に櫛を差し出してくる。

 私はちょっと驚いたけど、すぐに気を取り直して、


「ありがとうございます」


 と、櫛を受け取った。

 そして私が自分の髪を櫛で梳き始めると、先輩はおもむろに口を開く。


「委員会には馴染めているみたいだね」

「あっ、はい。……私、人見知りなんですけど、皆さんが気さくに話しかけてくれるおかげで」

「それは良かった。……願わくばもう一人のほうも、もっと馴染んでくれるといいのだけどね」

「もう一人のほう……」


 と言うと。


「……水斗のことですか?」

「そうそう。君の……えーっと、お兄さんかな?」

「弟です」


 前ほどの拒否反応はないけれど、あの男の妹になるなんてやっぱり御免だ。……『お兄ちゃん』とか、二度と無理……! 限界! 心臓壊れちゃう!


「その弟君と交友を深めようと、しきりに話しかけてみているんだけどね。これがどうにも難しいんだよ」

「え? ……あ、あの、交友を深めるって……?」


 思わず櫛を止めた私に、紅先輩はくつくつと忍び笑いを漏らし、


「もちろん、次期生徒会長としてね。彼のような優秀な生徒は、実に得難いものだ」

「そ……そうですか」


 び、びっくりしたぁ……。何かにつけて思わせぶりなんだから、この人!


「どうにも彼は、周囲に壁を作っているというか、他人に興味がない感じがするね。……その感覚自体は、ぼくも至極共感するところだが……」

「え?」

「周囲とのコミュニケーションは仕事を円滑にする。結女くん、ぜひキミがかすがいとなって、彼を輪に入れてあげてくれたまえ」


 そう言って、先輩は手を差し出してくる。私もちょうど、髪を梳き終わったところだった。


「綺麗な髪だね。羨ましい限りだ」


 先輩は私から櫛を受け取ると、メイクポーチを持って女子トイレを出ていった。

 私はその背中を見送りながら、さっきの言葉を思い返す。

 他人に興味がない――確かに水斗は、そういう空気をまとっているけれど。私みたいな見ず知らずの後輩にまで積極的に話しかけてくる紅先輩が、それに共感できるって……?

 ……また思わせぶりかな。どうにも掴みどころのない先輩だった。


 水斗を輪に、か……。

 きっとあの男は鬱陶しがるだろうけれど、東頭さんとつるんでいる姿を見る限り、人付き合いすべてを嫌がっているわけでもない。


 それに――私は覚えている。

 人気のない外れの社で、一人きりで夜空を見上げていた、彼の姿を。


 孤独というのか。孤高というのか。どうしようもなく魂に刻まれたその在り方は、水斗が望んで得たものじゃない。

 だったら――この文化祭を通じて、少しでもそれから解放されるなら、それはいいことなんじゃないかと思う。


「……よし」


 これもきっと姉の役目だ。まったく、世話が焼けるわね。






「結女ちゃーん! 今ひまー?」


 アーチの色付けがひと段落した頃、ちょうど一人の先輩が声をかけてきた。

 安田先輩だ。背の高い女子の二年生で、明るく快活な、どこか暁月さんを思わせる先輩である。何かにつけて気の利く人で、私にも先輩として気さくに話しかけてくれる。ちなみに一〇分話したら友達認定で、友達のことは遠慮なく下の名前で呼ぶタイプ。


「はい、暇ですけど……何か御用ですか?」

「掲示板にポスター貼りに行くんだけど、手伝ってくれるー? わしゃあもう足腰がつらくてのう」

「ふふっ。いいですよ――」


 安田先輩のわざとらしいお婆さん声に笑いながら、はたと気が付いた。

 これはチャンスでは。

 振り返ると、水斗もちょうど色付け作業から解放されたところで、荷物を置いた窓際に向かおうとしていた。うわ! あの男帰るつもりだ!


「あー……だったら先輩、男手も必要じゃないですか?」

「そうなんだけど、ウチの衆は出払っててさー」


 私は急いで水斗に近付くと、軽く肩を叩いた。


「……なんだ?」


 仏頂面が振り返る。今更この程度で怯む私ではない。


「作業終わった?」

「終わったから帰ろうと思ったんだが」

「手伝ってほしいことがあるの。もうちょっと残れるでしょ?」


 水斗は時計に目をやり、時間を気にする素振りをしたけれど、そんなのただのポーズだって私にはわかっている。特に用なんてなくて、ただ早く帰りたいだけだ。

 私が引く素振りを見せないのがわかると、水斗はすぐに諦めた。


「……わかったよ。予定してた分の作業は、想定より早く終わったからな」

「ありがと。来て」


 水斗の二の腕を掴んで、安田先輩のところに戻る。


「男手確保しました。細っこくてすみませんけど」

「おっ、噂の弟くんか。初めましてだよね? 安田だよー、よろしく!」


 にこりと笑って、安田先輩は手を差し出す。

 あっと私は思った。これはマズい。この人間嫌いが、初対面の先輩と握手なんかするわけない。これはフォローする用意を――


「一年七組の伊理戸です。よろしくお願いします、安田先輩」


 予想外の光景に、私は静かに驚いた。

 安田先輩みたいに笑ってみせたわけじゃない。けれど、充分柔らかい調子で名乗り返し、あまつさえ相手の名前を呼んで、握手に応じてみせたのだ――あの水斗が!

 親戚の円香さんにさえ、ほとんど無視の塩対応なのに……。


 予想外は、さらに続いた。

 安田先輩が固く握手をしながら、急に水斗に顔を近付けたのだ。

 ああっ、領空侵犯!

 水斗のパーソナルスペースは半径1.5メートルくらいあるのだ。スーパーのレジに並ぶのさえちょっと嫌な顔をするこの男が、こんな気安い接近を疎まないはずがない!


「話には聞いてたけど、よく見るとホント可愛い顔してんね。モテるんじゃないの~?」


 うわあーっ! そのからかい方はマズいです先輩! 水斗が一番嫌いなやつです!

 水斗を文実の輪に入れるにしても、まずはその無愛想にめげない人から始めるのがいいと思ったんだけど、まさかこんなに一瞬で距離を詰めていくとは思わなかった。これは逆効果かもしれない。水斗がますます頑なに――


「そんなことないですよ」


 柔らかに言って、水斗はほのかに微笑んだ。

 ほのかに微笑んだ。

 ……ほのかに微笑んだぁ?


「口下手なので、友人もほとんどいないくらいです。彼女なんて夢のまた夢ですよ」

「え~? でもさぁ、噂で聞いたよ? いつも彼女と一緒で、すっごい仲がいいって」

「周りが勝手に言っているだけですよ。そいつは僕の数少ない友人です。そこにいる姉が証言してくれますよ」


 談笑している。

 あの水斗が、和やかに談笑している。

 それがあまりに衝撃すぎて、「噂の子、本当に彼女じゃないの? 結女ちゃん、あたしにだけホントのこと教えてよ!」という安田先輩の言葉にも、「まあ、たぶん……」というおざなりな返事しかできなかった。


 なんということだ。

 意外とぐいぐい来るタイプのほうが、水斗的には話しやすかったりするのだろうか。考えてみれば、東頭さんも水斗に対してはすごくぐいぐい行くものね……。それに、出会ったばかりの頃の私も、私にしては積極的に話しかけていたような……。

 円香さんのことを初恋相手だと勘違いした前科があるから、私の分析はまったく信用できないけれど、とにかく安田先輩のファーストインプレッションは上々だと言えた。先輩は文実のムードメーカーだから、この人に気に入られた時点で脱ぼっちは約束されたようなものだ。


 あまりにも簡単な成功に拍子抜けしつつ、私たちはポスターの束を持って会議室を出る。学校のあちこちにある掲示板に、このポスターを貼って回るのだ。

 その間も安田先輩は、しきりに水斗に話しかけていた。


「伊理戸くん、成績いいんでしょ? どうやって勉強してるの~?」

「一夜漬けですよ。普段はノートを取ってるだけなので」

「一夜漬けで学年二位かぁ~。頭の出来が違ぇや」


 最初こそオープンな情報をネタに表面的な話をしていたけれど、だんだん深いところにも切り込んでくる。


「ねえねえ! 結女ちゃんとは血繋がってないんでしょ? 最初どう思った? こんな可愛い子と家族になるって!」

「驚きましたね。急な話だったので。その後は、お互い新しい生活に慣れるのに精一杯で、色っぽいことは特にありませんでしたよ」

「ホントに~? まあ現実なんてそんなもんかぁ」


 私より世間話が上手い。

 今でこそ慣れたけど、私なんて最初の頃、同居関係の話題を振られるたびに返答に困ってたのに。この男はさらりと返してみせる。

 コミュ力がないってわけじゃないのよね。交流する気がないだけで。

 付き合っていた頃は、その高いコミュ力に何度も助けられた。だから考えてみれば、初対面の先輩と和やかに会話するくらい、意外でも何でもないのかもしれない。

 実際、お母さんとも初対面のときから、上手く話してたしなあ……。

 能力は備わっているのだから、機会さえあれば簡単だったんだろう。こんなことなら、もっと早くにタイミングを作ってあげたら良かった。

 …………ん? でも紅先輩は、『どうにも難しい』って言ってなかったっけ……?


「もうちょっと右ー」

「ここですか?」

「そうそう。オッケー!」


 頭の隅に小さなトゲのように突き刺さった違和感に首を捻っているうちにも、ポスター貼りは円滑に進んでいく。

 二ヶ所を終えたところで、安田先輩がこっそりと声をかけてきた。


「(結女ちゃん、結女ちゃん)」

「(はい?)」

「(弟くん、いつもそそくさ帰るから気難しいのかと思ってたけど、話してみたら全然いい子だね? 知らなかったなー。なんでいつもすぐ帰っちゃうんだろ?)」

「(帰りが早いのは……たぶん、あの例の女友達がすごく人見知りで、文化祭モードのクラスに居場所があんまりないみたいで……)」

「(彼女が寂しがらないよう一緒にいてあげてるってこと!? うわー! 超優しいじゃん! 好感度うなぎ登り!)」


 ……彼女じゃなくて女友達って言ったんだけど。

 うう……そうよね、誰でもそう思うわよね……。


「(それなら早く解放してあげないとね! さっさと終わらせちゃおう!)」

「(はい……)」


 無力感に打ちひしがれる私をよそに、水斗はスマホの画面を眺めていた。






「お疲れー! また明日ー!」


 ポスター貼りを終えて、いったん会議室で荷物を回収し、他の文実メンバー共々、安田先輩とお別れした。

 三々五々に散っていく文実メンバーに紛れながら、私は水斗の顔を覗き込む。


「お疲れ様。安田先輩とずいぶん上手く話せてたわね? いつ失礼なことを言うかって、気が気じゃなかったんだから」


 水斗はちらりと私の顔を見て、


「どこかの誰かと違ってちくちく嫌味を言ったりしないから、ずいぶんと楽だったよ」

「……もしかして、そういう話し方するの、私だけだったりして?」

「川波もだ」


 そういえばそっか。……なんだ。ちょっと期待したのに。


「録画しておきたかったわ、あなたが和やかに世間話してるところ。東頭さん辺りにでも見せたら大爆笑でしょうね」

「やめろ。一生ネタにしてくるか、コンプレックスを刺激されて引きずるかのどっちかだ。面倒なんだぞあいつは」

「あなたほどじゃないでしょ」

「どうやら知らないらしいな。コミュ力のない奴が遠慮をなくしたらどうなるか」


 あー、はいはい。私のことも言ってるわけね。

 にやつくのを我慢するのに苦労した。私だけの特別じゃない、なんて主張しているけど……一度別れなければありえなかったこんな会話が、今の私には心地いい。


「やっぱり録画しておくべきだったわね。ヘソを曲げたときのあなたは、東頭さんの比じゃないくらい――」

「――悪い。ちょっといいか」


 水斗がスマホを軽く振って、私に示した。

 何か急ぎの用があるらしい。水斗が連絡する相手なんて――


「東頭さん?」

「ああ。言ってた時間より少し遅れたから――」


 言いながら水斗はスマホを操作し、耳に当てる。

 手の陰になって、その横顔が見えなくなる。

 だからもちろん、私はさっきの軽口を続けることができなかった。

 遅れたなら……うん、仕方ないわよね。そっちが優先。

 しばらくして、東頭さんが応答したのか、水斗が口を開く。


――」


 私は黙って、水斗が東頭さんと話しているのを聞いていた。

 ほんの、一〇秒程度のことだった。


「ああ。うん。すぐ行く」


 水斗はスマホを耳から離して、通話を切る。

 それから私に顔を向けて、


「じゃあな。僕は少し寄り道してから帰る」

「あ……うん。遅くならないようにね。日も短くなってきたから……」

「ああ。わかってる」


 短く告げて、水斗はすたすたと早足で歩き出した。きっと図書室に行くのだろう。あそこは文化祭とは無関係で、東頭さんにとっては過ごしやすい。

 先に家に帰ってしばらく待てば、水斗とはすぐにまた会える。

 話し足りないことがあるなら、そのときに話せばいい。

 そのはず、なのに――


「ねえ!」


 私は呼び止めた。

 水斗は足を止めて、首だけ振り返った。


「どうした?」

「えっと……その……」


 どうして呼び止めたのか。

 自分でさえわからないまま、言えることを探して、


「く……クラスTシャツ! 明日届くはずだから……!」


 横ざまに射す夕日が、水斗の顔を半分だけ赤く染めて、もう半分を黒い影で覆う。



 それだけ答えて、水斗は去っていった。

 私は水斗が消えていった階段を、しばらくの間、見つめていた。


 ずっと前からこうだった。

 仲が悪くなって、冷戦みたいな状態になって、私たちはずっと、腹を探り合うような嫌味を応酬して――そういう接し方を続けてきた。


 それが今の私たちで。

 そんな今が好きになって。


 なのに――なんでだろう。


 いつも通りなのに。

 私の好きな、私たちだったはずなのに。


 どうして、今――水斗との間に、壁を感じたんだろう。

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