あのとき言えなかった六つのこと 「そうかもな」


 僕だってわかっていた。

 綾井には悪気なんてなかった。あったのは、僕のくだらない意地と嫉妬だけ。

 それでも――耐えられなかったんだ。

 君にそういう風に見られているかもしれないと思うと、どうしても許せなくなったんだ。


 ――あのね、伊理戸くん

 ――クラスにね、本を読む子がいてね。その子に伊理戸くんのこと話したら――


 勘弁してくれ。

 君は怒ったじゃないか。僕が他の女子と、少し義務的な会話をしただけで。

 その君が、どうしてそんなことを言う?

 憐んでいるっていうのか? 自分に友達ができた、その途端に?

 君も僕を――可哀想だって言うのかよ。


 ――やめてくれ

 ――僕は、君の友達になんか、興味ないんだ


 わかっている。わかっている。

 言い方というものがあったんだ。

 たとえどんなに裏切られた気持ちでも。君にだけはそんな風に接してほしくなかったって、そう思っていても。

 綾井なりに、考えてくれたんだ。

 仲がおかしくなるきっかけが友達なら、その輪に僕も入れてしまえば、きっと改善することがあるだろうと。


 わかっている。わかっている。

 わかっていたんだ。

 僕は、自分を殺して、適当に誤魔化すべきだった。

 言葉を選ぶべきだったんだ。


 そんなの――頭では、わかっていたんだよ。






◆ 伊理戸水斗 ◆


 初めて入る会議室には、各クラスから選抜されてきた文化祭実行委員が、学年ごとに分かれてずらりと席に座っていた。

 ざわざわと会話がさざめき立ち、知り合いらしい者同士がクラスや学年を越えて集まっている光景も見受けられる。休み時間の教室と、さほど雰囲気は変わらなかった。

 僕と結女は、その弛緩した空気に紛れるように会議室に入り、ホワイトボードで席順を確認しながら、一年七組の席に座った。


「(……なんか、意外と緩いわね)」

「(まあ、委員会と言っても、実際はジャンケンの敗北者の集まりだろうからな)」

「(言い方)」


 文実なんて、進んでなるようなものじゃない。士気が低くて当然のことだ。特に今は教師の姿も見受けられない。下手をすると、委員会が始まってからも、このグダついた空気が続くのかもしれない――


 ――そう思っていたのは、が現れるまでのことだった。


 戸が開いた。

 そして、先陣を切って、小柄な少女が会議室に入ってくる。

 その瞬間だ。二年、三年の会話が一瞬で凪ぎ、それに釣られて、一年生のエリアも静まり返ったのだ。

 急速に緊張した会議室に、続いて男子が一人、教師が一人、足を踏み入れてくる。最初の少女を含めたその三人は、ホワイトボード前に用意された長机に腰を落ち着けた。


 中心に座ったのは、先陣を切った少女である。

 少女少女と言っているが、その理由はあどけない容姿にある。背丈は結女より低く、南さんよりは高いくらいか。ブレザーではなく、学校指定のカーディガンを着ていることと、左右で長さの違うアシンメトリーな髪型が印象的だった。

 しかし、何より。

 彼女の印象を決定づけるのは、小柄な体格には見合わない、圧倒的な存在感だった。もし仮に、目の前に太宰治やアレクサンドル・デュマのような大天才がいたとしたら、こんな風に感じるのかもしれない――根拠もなくそう考えてしまうほどの、迸らん限りのオーラがあった。


 カチリ。

 ホワイトボードの上の時計が、実行委員会の開始時刻を指す。瞬間、彼女が告げた。


「時間だ。座りたまえ」


 鈴の転がるような少女の声なのに、それは凛としたたかに室内に響き渡り、立ちっぱなしだった生徒たちを、まるで軍隊のように素早く着席させた。

 いい子だ、とでも言うかのように、彼女は微笑む。

 それから、薄い唇を開けた。


「まずは自己紹介をしよう。ぼくは二年七組のくれない鈴理すずり。生徒会副会長を務めている。こちらは会計の羽場はば丈児じょうじ。そして生徒会顧問の荒草あらくさ教諭だ」


 彼女――紅鈴理副会長の左に座る男子が小さく会釈をし、右に座る荒草先生が「よろしく」と太い声で言った。

 会計と紹介された男子――羽場丈児、だったか? この短い間で名前を忘れてしまいそうになるくらい、存在感のない生徒だった。天パっぽい髪と野暮ったい眼鏡だけが、ギリギリ意識に引っかかる。副会長とはまるで逆だった。


「まず始めに説明しておこうか。我らが洛楼らくろう高校生徒会は、例年、文化祭が任期中最後の仕事となる。そのため、引き継ぎの意味合いを込めて、現職生徒会長は裏方に徹し、役員の中から指名された者が実行委員会を仕切る習わしとなっている。まあ――早い話が、一ヶ月後にはぼくが生徒会長になっているわけだ。覚えをめでたくしておいて損はないよ?」


 次期生徒会長の軽口には、しかし誰も反応しなかった。

 それよりも一同――特に一年生がざわついているのは、


「……ぼく……」「ぼく?」「ぼくって言った……」


 一人称が、『ぼく』の女子。

 自意識が迷走していた頃の結女を除けば、初めての遭遇だった。

 紅鈴理の顔が、ゆるりと一年生のほうを向いた。それだけでざわめきは治まったが、副会長はくすりと微笑んで、


「ぼくが女だからと遠慮することはない。そんなものは、ただの染色体の違いでしかないのだからね。男子も、女子も、それ以外も、気兼ねなく話しかけてくれたまえ」


 堂々としたものだった。コンプレックスも自意識も、少しも滲ませない。自分は当然のものとしてここにいて、誰に憚ることもないと、佇まいだけで宣言していた。

 明らかに只者ではない……。そう思っていた僕に、隣の結女がこっそりと言う。


「(紅先輩は、二年のぶっちぎりの首席らしいわ。二年どころか、歴代全部含めてもぶっちぎり一位の成績だって)」

「(歴代って……ウチの卒業生って、確か政治家とか有名な学者とかがごろごろいるんだろう?)」

「(現時点ですでに東大も京大もA判定だとか)」


 なんだそりゃ。下手な冗談みたいだな。

 ……本物の天才、か。

 あの人にご足労願えたら、いさなに下手な小説を読ませる必要はなかったかもしれないな。


「さて。自己紹介も済んだところで、早速だが本日の議題に移ろう。先日、諸君に提出してもらった出し物希望についてだが――」


 副会長が話し始めると、最初のグダついた空気は一片も残らず消えた。

 その威風堂々とした居住まいに、僕はどうしようもなく遠いものを感じたけれど……隣の結女は、その姿を見る目に、どこか憧れを含ませているように見えた。






「やっぱり被ったかぁー」


 教室に戻り、僕たちは南さんと委員会の内容を共有した。

 南さんとは、出し物が他クラスと競合したときに発生するプレゼンで、発表者をやってもらう約束になっている。……そう、彼女の出番が来ることが確定したのだ。

 コスプレ喫茶は五クラス競合。文化祭実行委員長であり、運営委員の一員でもある紅鈴理副会長は、これをプレゼンによって二クラスに絞ると宣言したのだった。

 予想されていたことなので、特に驚きはない。けれど告げられた日程が思ったよりもタイトだったので、急いでプレゼンの内容を詰めなければならない。


「プレゼンって、あたしは原稿読むだけでいいんだよねー?」

「一応、内容はこっちで決めるつもりでいたけど……。そうよね?」

「面倒だけど、そのほうが早そうだ」


 クラスの人気を一身に集めている誰かさんに、もう少し頼りがいがあればいいんだけどな。


「どういうとこを推せばいいのかなー? 結女ちゃんがすっごい可愛いです! とかー?」

「暁月さん……それはちょっと……」

「そもそも当日は文実の仕事でクラスにはそんなにいないだろ。虚偽広告になる」

「じゃあどうすんのさ!」

「まあ普通に考えたら、まずは企画のインパクト。……だけど、それ以上に重要なのは、模擬店を適切に運営できるかどうかだろうな。運営委員会からしたら、無謀なことをやろうとしてトラブルを起こされるのが一番嫌だろうし」

「それもそうよね……。それじゃあ、メニューを簡単なのに設定するとか?」

「もちろんそれも必要だろうけど、単に手抜きにしてるだけとも取れる。だから、押し出すべきはトラブル対策の徹底だろうな」


 南さんがことりと首を傾げ、


「トラブルって、例えば?」

「そりゃいろいろあるだろうし、飲食店勤務の経験がない僕たちじゃ想定にも限界があるだろうが……一番ありそうなのは、ナンパじゃないか?」

「うわ、ありそー。招待制だけど外の人も来るし。……よし、『ナンパしたら殺す!』って貼り紙を教室中に貼っとこう」

「それだと店内の雰囲気を損ねるぞ。それに『ナンパじゃなくて話しかけてるだけ』みたいな言い逃れを許す可能性もある」

「そんな言い訳をする馬鹿は、女子全員で取り囲んで圧をかければ!」

「それを説明するのか? 生徒会とPTAのお歴々の前で?」

「うあーっ! めんどいーっ!」


 実際、模擬店内はこっちのホームグラウンドだ。数の利を用いて悪質なナンパを追っ払うという手もナシではないだろう。問題はそれで運営委員の心証を良くできるかどうかだ。

 うーん、と三人で雁首揃えて悩み込む。やっぱり経験がないと難しいな……。


「とりあえずシミュレーションしてみたらどうだ?」


 急に口を挟んできたのは、別のところにいた川波小暮だった。

 僕たちの話を盗み聞きしていたのか。まあ今更驚くようなことじゃないが。

 その軽薄な顔を見て、僕は言う。


「なんだ、シミュレーションって」

「実際ナンパに遭ったらどう対応するか。演技でも実際にやってみたら、何かいい案が思い浮かぶかもしれねーじゃねーか」

「は? ナンパの演技って――」

「いいねー! それっ!」


 食い気味に南さんが乗ってきた。

 なんだ? いつもは川波の言うことには、二言目には文句をつけるのに――


「練習は必要だよ! 結女ちゃん、ナンパなんかされたことないでしょ? 事前に身内で練習しておけば、本当にされたときも安心だよっ!」

「え? え? 身内って……」

「おー、そうだぜ。身内で練習しとけ。それなら気楽にやれるもんな。なあ伊理戸?」


 川波に水を向けられ、結女の目がちらりとこっちを向く。

 なんか妙なことになってきた。

 流れを止められないでいるうちに、南さんがぐいぐい押してくる。


「ほら、伊理戸くんっ! やってみて! 適当でいいから!」

「適当でって――」


 演技とはいえ、ナンパなんてどうすればいいんだ。

 戸惑っているうちに、結女は待ち構える態勢になっていた。僕に正対して、膝の上で手をぎゅっと握っている……。ええい、乗せられやすい奴め! こうなったら僕だけボイコットするわけにはいかない。

 くそ……。ナンパ? どんな風に話しかけるんだ? 漫画やライトノベルでは大概、ナンパといえば軽くて馴れ馴れしくて失礼な話し方をするイメージだが、実際に街中で見かけたことのあるナンパは、普通に敬語を使って話しかけてたような気がするな……。


「……行くぞ?」

「ど、どうぞ?」


 むやみに緊張しつつ、僕は頭の中で構築したナンパを開始した。


「どこから来られたんですか?」

「え、えぁーっと……」

「ご趣味は?」

「そ、その……」

「今日のお召し物は――」

「お見合いか!!」


 南さんが勢い良く割って入った。

 なんだ。せっかく望み通り演技してやってたのに。


「そんな微妙な距離感のナンパがあるかあ! 何!? 『どこから来られたんですか?』って! 面接!?」

「ナンパと言えば『どこ住み?』じゃないのか?」

「丁寧にするな! 結女ちゃんもこのくらいでキョドっちゃダメ!!」

「だ、だって……! そんなに言うなら暁月さんがやってみてよー!!」

「えー? あたし?」

「それもそうだ。文句を言うくらい一家言あるなら、自分でやったほうが早いだろ。だよな、川波?」

「オレが男役かよー……」


 当たり前だ。言い出しっぺの法則というやつを知らないのか。


「やれやれ……。仕方ないなあ。じゃあお手本を見せてあげるよ。参考にしてね? ほら、川波!」

「はいはい……」


 川波は面倒そうに返事した直後、くるりと表情を変えた。


「なあなあ君! めっちゃ可愛くね? 良かったら連絡先教えてくんねーかな?」

「ん~、どうしよっかな~。既読無視とかしない?」

「しないしない。オレ即レスだからマジで」

「え~? 即って何秒?」

「2秒とか?」

「2秒? 2秒だね? 2秒って言ったよね? 聞いたからねあたし。2秒以内に返してね? ご飯中でもトイレ中でもお風呂中でも2秒以上かかったらダメだよ?」

「え、いや」

「返してくれるまで送るからね? いつまでも何度でもいつまでも何度でも絶対に絶対に絶対にやめないからね? わかってるよね? 嘘つかないよね? 裏切らないよね――?」

「――おぶ」


 調子のいい軽薄な笑顔が次第に青くなっていき、川波はついに手で口を押さえた。


「おい、大丈夫か?」

「……ちょっとトイレ……」


 そして退散していくナンパ男、もとい川波小暮。

 南さんはその背中を唇を尖らせて見送り、


「相手する気もないくせにナンパすんなバーカ!」

「……私、既読無視しないようにしよ……」

「実際、有効ではありそうだな……」


 代わりに別のコンセプトの喫茶店になりそうだが。






「もしナンパされたとしたらどう切り抜ける?」


 放課後。図書室のいつもの場所で合流したいさな(この呼び方、まだ慣れないな)に、僕はとりあえず質問してみた。

 いさなは本から顔を上げると、きょとんと目を丸くして、


「え? ナンパ? 食べられるんですか、それ?」

「平和な世界で生きているようで安心するよ」

「冗談はともかく――まあ、逃げますね。たぶん」


 だろうな。無言でわたわたした後、ピューッと逃げ去っていく姿が目に浮かぶようだ。


「ある意味、一番真っ当な対応だな。でも、接客中に逃げるわけには――いや……?」


 女子が厄介な客に当たったら、すかさず男子に交代するというのは悪くない手だ。が、どっちにせよ、いったんは穏便に逃げる必要があるが……。ベストはナンパそのものを予防することなんだよな。


「ラノベや漫画だと主人公が颯爽と助けに来てくれるんですけどねー。生憎とわたしの人生は主人公不在なので」

「僕はあれ、あんまり好きじゃないけどな。主人公を立てるためだけに世界が陳腐にされてる感じで」

「手軽に王子様とお姫様気分になるにはちょうどいいイベントじゃないですか。水斗君はそういうご都合主義っぽいところ気にするタイプですよね」

「ストーリーを盛り上げるためのご都合主義なら別にいいけど、ナンパイベントはいろんなところで見すぎてまったく盛り上がらない」

「厳しいですねえ。ラブコメのイベントなんて、いいものは何度擦ってもいいんですけどね。それじゃあ水斗君的には、どういうナンパが陳腐じゃないんですか?」

「……、これは、あれか? 実際にやってみる流れか?」

「うぇへへ。なんか漫才の導入みたいですね」


 一日に二回もこんな真似をすることになるとは。

 丁寧に行くとお見合いかと突っ込まれた。確かに物腰柔らかな相手ならそもそもトラブルにはならない。この場合、想定すべきは相手の迷惑を考えない、ぐいぐい来るタイプのナンパなのだろう。とすると……。


「なあ」

「あ、はい。始まりました?」

「お前、一人で暇そうだな。ちょっとついてこい」

「え~……別に暇じゃないですしぃ……」

「知らん。僕に口答えをするな」

「えっ……まさかのオレ様系……?」

「僕の誘いに乗れないって言うのか?」

「あ、あのう……ちょ、ちょっと都合が、その、まずいというか……」

「何がまずい? 言ってみろ」

「……あ! これ違います! オレ様系じゃなくてパワハラ上司です!」


 満更でもなさそうに挙動不審になっていたいさなが、急速に我に返ってしまった。

 僕も精一杯出してみたオラついた空気を引っ込めて、


「難しいもんだな……」

「いやいや才能ありますよ水斗君! 今度は手首を掴んで、こう、ぐいっとしてみてください! 恋愛映画の予告でよく見る感じに! 早く! 早く!」

「君が厄介客になってどうするんだ」


 自分からぐいぐい来るいさなを押しのけながら、僕は嘆息する。


「本物の厄介客は、こんな程度じゃないんだろうな……」

「厄介な男になりきれない辺り、根っこのところで人がいいんだろうなって感じて、わたし的にはポイント高かったですよ?」

「そりゃどうも」

「本物はもっとセクハラじみたことを言ったりするんじゃないですかねー。『おっぱい超でかくない? 揉んでいい?』みたいな」

「それは君が僕に言われてみたいだけだろ」

「で、できればお家に行ってから……」

「脳内で勝手に会話を進めるな」


 セクハラか。まあ確かに、それも想定されるトラブルの一つではある。


「ところで、なんでナンパ対策なんて考えてるんです? 結女さんとデートでもするんですか?」

「違う。模擬店のトラブル対策だよ。できれば事前に予防するのがベストなんだが」

「ふぇえ~。なんだか難しいことを考えてますね」

「いさな。君は今まで、世の中のいろんなことを回避して生きてきたと思うが……」

「なんですかその決めつけは! 何を知ってるんですか何を! そうですけど!」

「いつ、どこから来るかわからないトラブルを避けようと思うとき、まず何をする?」

「そんなの決まってますよ」

「ん?」

「攻略ウィキを見ます」

「…………ゲームの話じゃないんだが?」

「ゲームくらいでしかエンカウントしませんよ! そんなトラブルなんて! わたしの人生経験の薄さを舐めないでください!」


 訊いた相手が悪かったか。攻略ウィキというと、ユーザーがゲームの攻略情報を持ち寄って作るサイトのことだろう? 現実にはそんなもの――


「――……いや……?」


 不可能じゃないんじゃないか……? 文化祭という限定条件下ならば……。


「……いさな。君は僕にとってのお助けキャラだ」

「あんまり褒められてる気がしないんですけど!」

「お礼にさっき言ってたやつをやってやろう」

「えっ?」

「ぐいっ」

「ひゃうわっ!? あうあうあうあうああ~……!!」


 アイデアは出た。あとは防御を固めるだけだ。






『よう、伊理戸。ご所望のもん手に入れたぜ。写真に撮ってLINEで送った』

「助かる。一応明日、実物も見せてくれ」

『いいけどよ。何に使うんだ、こんなもん?』


 僕は川波との通話を繋いだまま、送られてきた画像をチェックする。

 写真に撮られているのは、去年の文化祭の一般入場者用の招待状。そして入場者名簿だ。

 前者は去年、文化祭に入場した外部の人間なら誰でも持っているが、後者は学校が管理しているもののはず……。頼んだのは僕だが、よく手に入ったな。


「一般入場者は、入口の受付で招待状を提示して、入場者名簿に記名する決まり。そうだな、川波?」

『おう。言っとくが、名簿に記名された名前すべてを調べるってのは無理だぜ? この画像だって、余った用紙をたまたま持ってる先輩がいたから手に入っただけでよ』

「いや、大丈夫だ」


 重要なのは記名された名前ではなく、用紙上部に記載された注意書きである。

 校内で起こしたトラブルは自己責任であることや、学校の広報や適切な管理運営を目的として校内の撮影を行っていることなどが記述されている。この紙に記名することで、これらに同意することになるわけだ。

 招待状の側にも同じ記載がある。今年になって急にこの文面が変わることはないだろう。


「問題なさそうだな……」

『何を企んでんだよ、伊理戸?』

「別に」


 僕は読みかけの本を手に取った。


「面倒なタスクを、一つ片付けただけだ」






 一冊本を読み終えると、もう深夜になっていた。

 そろそろ歯を磨いて寝るかと部屋を出る。父さんも由仁さんも、そして結女も、いつもならとっくに寝静まっている頃合いだ。だから音を立てないよう、静かに階段を降りようと思ったんだが――


 光が漏れていた。

 隣の、結女の部屋のドアが、少しだけ開いて……室内の光を、廊下に漏れさせていた。


 誘われるようにして、僕はドアの隙間に視線を滑り込ませる。

 結女が、机に向かっているのが見えた。

 真剣な顔で、教科書でも小説でもない本を覗き込み、ノートに何かメモを取っているのが見えた。

 ……資料集めだ、とすぐにピンと来る。


 僕がトラブル対策を担当している一方で、結女は企画の詰めを担当している。メニューや内装に大正時代らしい要素を付加すれば、大正ロマン喫茶はより魅力的な企画になるだろうと、当時の風俗について調べることになったのだ。

 図書室から参考になりそうな本を見繕っていたのは知っていた。

 けれど、……ほぼ押し付けられたに等しい仕事のために、こんな深夜まで根を詰めているとは――知らなかった。


 ……一見、美談のようだけれど、そうじゃない。

 寝ないことで結果を出そうとするのは旧時代のやり方だ。無理をして失敗したことなんて何度もあるくせに、この期に及んで同じ轍を踏もうだなんて、見過ごせはしない。

 僕は隙間の空いたドアを完全に開くと、コンコンとそれをノックした。


「――あ」


 結女は気付いて、こちらを見て、


「……起きてたの?」

「そっちこそな」


 まるで自覚のない様子に、僕は内心呆れつつ、


「真面目なのはいいが、睡眠時間を削るのは控えろ。前にそれで倒れたのを忘れたのか」


 最大限に嫌味っぽく言ってやったはずだが、結女はくすりと薄い笑みを返してきた。


「心配してくれるの?」

「誰が尻拭いすると思ってる?」

「あなたの手間を増やせるのなら、倒れるのもアリかもね」


 そんな身体を張った嫌がらせがあるか。

 結女はくすくすとおかしそうに笑う。


「大丈夫。もう寝るから。キリのいいところまでできそうだし」

「そうかい」

「あなたは? トラブル対策のほう、進んでる?」

「もう終わった」

「え?」


 驚いてぱちくりと目を瞬く結女から、僕はなんとなく視線を外した。


「材料は揃った。あとは原稿に起こすだけだ」

「テスト勉強のときといい……羨ましいわ。その思い切りのいい性格」

「学校のことにばかりかかずらっていられるほど、僕は暇じゃないんだ」

「それって普通、逆じゃない?」

「逆じゃない。僕はな」


 僕の生活は、学校が中心じゃない。本を読んでいる時間が中心なんだ。君と違ってな。


「ふうん。……まあ、仕事が早いのはいいことよね。内容も、どうせ変なアイデアなんでしょう? 文実の人たち、どんなリアクションをするかしら?」

「どうでもいいよ」


 心の底から。

 もう用はあるまいと、僕は階段のほうに足を向けた。……が、その前に一つだけ、言っておかなければならないことがあったのを思い出した。


「なあ」

「ん? 何?」

「トラブル対策の話。もし好評だったら、君が考えたってことにしといてくれ」

「……、は?」


 また驚いて、結女は目を瞬く。

 けれど今度は、驚きの質が違う気がした。

 怪訝――そして、反感。

 僕はそれに気付きながらも、結女の部屋を離れる。


「ちょ――ちょっと待って! どういうこと!?」


 僕は階段を二段ほど降りると、振り返って唇の前に人差し指を立てた。一階では父さんたちが眠っている。

 結女は慌てて口を閉じて、今度は抑えた声で、


「(……どういうこと? なんであなたの功績を私に――)」

「(めんどくさいからだよ)」


 それだけ言って、僕は階段を降りていく。

 寝ている父さんたちを気遣って、結女は追いかけてこられない。

 だから僕は安心して、真っ暗な一階に潜っていくことができたのだった。






 プレゼンの日。授業を終えた後、僕と結女は円香さん経由で借りた衣装に着替え、南さんを伴って教室から視聴覚室へと移動していた。


「いやー、大好評だったね! これなら余裕でいけるよ!」

「……ちょっと持ち上げられすぎて、逆に現実感ない……」

「ホントに可愛いって! 自信持って! 持たないと怒るよ!」

「なんで怒るの……」

「まあ、結女ちゃんだけじゃなくてね。伊理戸くんもね。この出来だから。素直に褒めるのはちょっと複雑だけど!」

「どうも」


 あまり騒がないでほしいものだ。袴で校内を闊歩するというだけでも注目を浴びてしまうんだから。不幸中の幸いは、すでに放課後ゆえに人気が少ないことだけだ。

 ……僕はともかくとして、実際、結女の出来は悪くない。客観的に見て、長い黒髪や落ち着いた面立ち、華奢な体格が、和風の衣装にマッチしている……と思う。まあ、クラスの女子全員がこのレベルで似合うわけではないから、誇大広告じみているとは思うが、インパクトでは及第点だろう。あとは――


「(――南さん)」


 僕はさりげなく南さんに耳打ちする。「ん?」と南さんが振り返った。


「(一つ、お願いがある)」

「(え? 何? 珍しいね)」

「(トラブル対策の発案者について訊かれたら、僕じゃなくて結女だと答えてくれ)」

「(……ええ?)」


 結女と同じ反応だ。怪訝そうに眉をひそめる南さんに、僕は説明を付け加える。


「(感触が良かったときだけでいい。悪かったときは、僕に責任を被せてくれ)」

「(何それ? 有能なのを隠して俺ツエーってやつ?)」

「(ことさらに威張りたくないだけだ。面倒も増えるだろ。結女にも話は通してある)」


 話が少し聞こえたのか、結女がちらりとこっちを振り返る。

 まあ、通してあるというか、一方的に話しただけだけどな。どうも結女は不満そうに見えるが、僕はとにかく、功績を公に残したくないのだ。


「(……ま、いいけどさ、あたしは。訊かれたらでいいんだよね?)」

「(ああ。頼んだ)」


 これでよし。気楽に傍観者としてプレゼンに臨むことができそうだ。


 視聴覚室に到着する。

 扉を開けると、薄暗い室内は、なかなか異様な雰囲気に包まれていた。

 他のクラスも、当日使うつもりだろう衣装を纏って集結していたのだ。お化け屋敷を希望するクラスはゾンビを模したメイクをしてるし、脱出ゲーム希望のクラスはムンクの叫びのようなおどろおどろしい仮面を被っている。まず見た目でインパクトを――考えることはみんな同じか。

 コスプレ喫茶を希望する他の四クラスも同じだった。その姿を見れば、競合相手がどういう企画を持ってきたのかわかる。四クラス中、二クラスがメイドと執事の格好をしている。予想通り、ここは被った。残りの二クラスは、ファンタジーアニメっぽい格好と……もう一つは、なんだ? ドラキュラ? トマトジュースしか出てこなさそうな喫茶店だな。

 予想外のクラスもあったが――問題ない。


 華やかな大正ロマン衣装に身を包んだ結女が入ってきた途端、視線が一気に集まったのがわかった。

 やっぱり、この衣装は目に明らかな華がある。男女問わずにこうも視線を集めるんだから、企画選びに関しては正解を引いたと言っていいだろうな。


「(……見られてるの、私だけじゃないんだけどね……)」

「(伊理戸くんって、自分に関してめちゃくちゃ無頓着だよね)」


 注目を集めながら、割り振られた席に移動する。

 ざっと見回した感じ、審査員である生徒会やPTAの面々はまだ来ていないようだ――

 と、思っているうちに、入口の戸が開く。

 先頭を歩くのは、やはり生徒会副会長・紅鈴理だ。

 その圧倒的な存在感に、場の空気が引き締まる――だけでは、済まなかった。


 誰もが、息を呑む。

 紅鈴理。見た目だけなら小柄な少女でしかないその姿に、視線という視線が奪われた。


 コスプレだ。

 紅鈴理は、軍服風のコスチュームに身を包んで現れたのだ。

 軍服のジャケットを模したデザインのゴスロリワンピース――それは、威風堂々たるカリスマ性とフェミニンな魅力を兼ね備えた彼女には、まさに誂えたように似合っていた。


「(可愛い……)」


 結女が思わず呟く横で、僕は『食えない人だな』とこっそり思う。

 つまりあれは、こういうことだろう?


 ――このくらいは超えてくれないと困るよ、諸君。


 他の審査員を最前の席に座らせ、紅副会長だけが、スクリーン前の演台に立った。


「さて、諸君」


 手にしていたステッキを、カッ、と演台に打ちつける。まるで本物の軍人のようだった。


「文化祭は、当校が重要視する教育行事の一環である。その目的はひとえに、キミたちの能力を養うことにある。能力とは何か? 答えは簡単だ。なりたい何かになる技術――理想に手を伸ばす力。それをこそ、人間の能力と呼ぶのだとぼくは思う」


 堂に入った演説が、静かな視聴覚室に響き渡る。


「完璧でなくてもいい。理想を見せてくれたまえ。キミたちが求めるものがどんなに素晴らしいか。どうやってそこに辿り着くつもりなのか。キミたちが思い描く理想を見せてくれさえすれば、当校は惜しみのない支援を約束する」


 およそ高校二年生とは思えない、超然とした微笑みを湛えて、副会長は宣言した。


「――では、早速始めようか」






「この分野には明るくなく、素人質問で恐縮なのだが」


 プレゼン一組目――メイド喫茶のクラスのプレゼンが終わると、早速副会長がマイクを取った。


「メイド喫茶と一口に言うが、これはどのメイドを志向した喫茶店なんだい?」

「え?」

「メイドと言ってもクラシカルなものからアキバ系まで様々だ。店内の内装の説明から察するにアキバ系をイメージしているようだが、衣装はスカートが長く装飾の少ないヴィクトリアンスタイル。少々ちぐはぐな印象は否めない。これはPTAウケを気にしてとりあえずスカートを長くした……と考えて結構かな?」


 矢継ぎ早に飛び出した攻撃に、プレゼンターはしどろもどろになることしかできなかった。

 うわー、と南さんが呻く。僕としても、この展開は意外だった。まさかこんなに深く突っ込んでくるとは。


「(ね、ねえ伊理戸くん……! あたし怖くなってきたんだけど! 大丈夫だよね!? 原稿通りに喋ればいいんだよね!?)」

「(……大丈夫だ。あのくらいの質問なら)」


 とは答えるものの……あの副会長は相当の曲者だ。こっちの想定を見抜いて、あえて予想外の質問を放ってくる可能性もある――

 続いて二クラスの発表が、やはり副会長の質問連打でボロボロにされ、ついに僕たちの番がやってくる。






「――このように、喫茶店という空間を通じて、現代に通ずる大正時代の文化に触れていただくことをコンセプトにしています」


 序盤は順調だった。

 さっきあんなに騒いでいた割には南さんの発表は落ち着いていて、早すぎず遅すぎず、聞き取りやすい発音でお手本のようだ。審査員はみんな――胡散臭い笑顔を浮かべる副会長と、存在感のない会計以外――鹿爪らしい顔でメモを取っている。


 僕は結女と共にモデルとして脇に控えながら、手応えを感じていた。

 結女が夜遅くまでやっていた時代考証は、企画の精度を何段階も上げた。大正ロマン喫茶がいかに文化祭という行事に相応しいかをアピールする強力な武器となった。空回りしがちなこの女のマメさが、珍しく功を奏したと言えよう。

 他のクラスのプレゼンと比べても、圧倒的に『ちゃんとした』企画だ。傍から見ても、僕らの企画が通るのが正当だと思えるくらいには。


 何も問題がなければ、審査員は僕らの企画を採用するだろう。

 そう――何も問題がなければ、だ。

 それを潰すのが、今回の僕の仕事だった。


「次に――模擬店の運営に際して発生すると思われる、トラブルの対策について、お話ししたいと思います」


 南さんがそう告げ、スクリーンのスライドが変わった途端、審査員の表情が変わった。

 トラブル対策。

 ここまでのプレゼンでは、そこまで踏み込んだものはなかったからだ。


「当日は一般の方も来場されるため、接客中の当クラス生徒に対して、過度なお声がけをされる事案が発生する可能性があります。基本的に、このような入場者様には、アルバイトでの接客経験があるスタッフが対応して参ります――問題は、このような入場者様を事前に把握することが難しい、という点です。そこで私たちは、こちらのシステムを提案します」


 スライドが変わる。

 それを見た瞬間、審査員のみならず、プレゼンに出るため集まった生徒たちまでもがざわつき始めた。


「文化祭期間中、当校内でトラブルを起こした入場者様の風体を、クラウドでリアルタイムに共有し、各クラスでの素早い対応に役立てる、というものです。こうすることで、事後的な対応になることなく、トラブルの発生そのものを抑止できるものと思われます」


 まさしく、攻略ウィキだ。

 厄介な入場客がどんな姿で、どこにいて、どうすれば大人しくなるか。現代のIT技術と、今や誰でも持っているスマートフォンを使えば、無料で簡単にそれらのデータベースを構築することができる。個人ではなく、クラスでもなく、全校が協力して個々のトラブルメイカーに対処できる――これがいさなからヒントを得て着想したトラブル対策だった。

 もちろん、瑕疵のあるアイデアだ。

 だが、むしろ、そこでどれだけ戦えるかが、このプレゼンの成否を決める。


「私たちの発表は以上です。ご質問はありますでしょうか?」


 南さんがそう告げると――やはり、すぐに動いた。

 生徒会副会長、紅鈴理。

 当校きっての天才がマイクを取り、壇上の南さんに向かって口を開く。


「トラブルメイカーを全校でリアルタイム共有し、トラブルの発生を未然に防ぐ――なるほど素晴らしい案だが、運用面で二、三、不安があるとぼくは思う」

「なんでしょうか?」


 南さんはすぐに切り返した。大丈夫だ。彼女は原稿を読むだけでいい。


「まず、接客に遅滞が生じるのではないかという不安がある。入場者が問題ある人物かどうか、チェックしてから接客をすることになるのだろう? タスクが一つ増える分、現場の負担も増えることになる。元より練度の低い模擬店で、そこまでのオペレーションを求めていいものかどうか、少々躊躇うものがある」

「えーっと……」


 南さんはぺらぺらと原稿をめくった。僕が作った質疑応答リストから答えを探しているのだ。隣の結女は、はらはらした不安そうな顔でそれを見守っていた。


「……あ。その点には対策を設けています!」

「というと?」

「席数を少し絞ります。そうすることでスタッフの負担を減らせます」

「ふむ。妥当な対策だが、それでは入場者が殺到した場合、長い待機列を作ってしまう。その点については?」

「待機列は、

「……あえて?」

「待機列を作ることで、事前に要警戒人物をチェックすることが可能です。待機列が一定を超えた際には、入場時間に制限を設け、回転を早めます」

「一石二鳥――いや、一石三鳥というわけか。行列は人を呼ぶというからね。客をあえて待たせるという点にはリスクがあるが、なかなかクレバーな案ではある……」


 審査員が唸る。

 しかし、副会長の攻勢は止まらなかった。


「では次の懸念点を言おう。この案では、一番最初のトラブルを防げないのではないかな? トラブルを起こした者をマークして警戒する、という方法である以上、必ず最初に一人は人柱が生まれてしまう。その点については許容する、という理解でいいのかな?」


 そこまで突いてくるか。それは仕方がない、と妥協することもできるが、


「……いいえ。それについても対策があります」

「ふうん?」

「例年、一般入場者は正門の受付で招待状をチェックし、名簿に記名をしていただく決まりになっていたかと思います。その受付で、空気に当てられて浮ついている方や、受付担当者に対して横柄に接する方などを事前にマークします」

「ふむ。よく調べているね。確かに、招待状をチェックする受付は毎年設けている。不可能ではないと思うが――その基準だと、大量の人物が要注意対象として挙げられることになる。そのすべての容姿・特徴を、現場の生徒に覚えさせるというのかい? データベースへの記入の手間も膨大になると思うけど?」

「いえ、覚える必要も、記入する必要もありません」

「うん?」

「全員、写真に撮ります。当校の文化祭を訪れた記念として」

「……ほう」


 副会長の目つきが鋭くなり、口の端が微かに吊り上がった。

 まるで、獲物を見つけたかのような。

 南さんはそれに気付かず、僕が用意した返答を読み上げ続ける。


「受付で入場者全員の写真を撮り、素行に問題がありそうな方は、髪型や体格などで分けてデータベース化します。これにより迅速な選別が可能です」

「それはつまり、まだ何の罪もない入場者を騙してブラックリストを作るという意味でいいのかな?」

「騙すことにはなりません」

「なぜだい?」

「元から、当校の広報や適切な管理運営を目的として、文化祭中の校内は撮影されています。一般入場者も、名簿にサインすることでそれに同意しています。これは学校新聞やホームページ上で使用することはもちろん、カメラの存在を意識させることでトラブルの発生を抑止する方策であると、私たちは考えています。私たちの提案は、あくまでその延長線上にあるものでしかありません」


 副会長と会計以外の審査員は、その答えに目を丸くした。

 川波を通じて去年の招待状と名簿を手に入れたのは、それを確認するためだ。人の風体を共有するのに一番手っ取り早いのは写真。だが勝手に撮るのは問題になるから、許可を取っていると見做せる理屈が欲しかった。

 ホームページを見れば素顔が思いっきり写っている写真がいくらでもあったから、どこかで言質を取っているのはわかっていたものの、それは飽くまで広報の話。風紀の維持に写真を使う大義名分を与えるものじゃない。

 その問題を解決してくれたのが、入場者名簿の『適切な管理運営』というワードだった――それを見た瞬間、僕はこのアイデアが少なくとも理屈としては成立することを確信したのだった。


「ふふ。……詭弁めいたことを言うじゃないか」


 だが、筋は通っている。

 副会長の鋭い視線に射抜かれても、南さんは堂々としていた。肝が据わっている。プレゼンターを結女にしなくて本当によかったな。


「話はわかった。なるほど、瑕疵は潰してあるようだね――けれど、これは一クラスだけで構築できるシステムじゃない。どちらかといえば運営委員会の領分だ――学校側がゴーを出すかはわからないが、飽くまで一案として受け取っておこう」

「ありがとうございます」


 充分だ。実際にこのシステムが採用されるかどうかは問題ではない。僕たちがトラブルに対して、ここまで考えているのだと伝えることが重要なのだ。

 どうやら、山場は越えたみたいだな……。

 僕は小さく息をつく。考えすぎるくらい考えておいてよかった。あの奇妙な副会長なら、普通突っ込まないところまで突っ込んでくるんじゃないかという気が、なんとなくしていたんだ……。


「最後に一つだけ訊きたいのだが――」


 そのとき僕は、副会長がまだマイクを手放していないことに気が付いた。


「――この対策案を考えたのは、誰なのかな?」

「あ、それは――」


 南さんが結女に視線を振り向ける。彼女の名前を言うために。

 そうだ。その質問も、僕は予期していた。だから先に潰しておいたんだ。

 僕にとっては、余計な光は、ただ鬱陶しいだけ。

 僕は影に紛れる準備をした。結女に当たる大きな光の、その影に。その影の中こそ、僕にとっての安寧の地だった。

 南さんが、結女の名を告げる――

 寸前に、




「伊理戸水斗です!」




 結女が身を乗り出しながら叫んだ。

 僕は唖然として、隣の結女を見た。そんな僕の背を、結女が軽く押し出した。


「彼が――考えました」


 なっ、何を……何を考えてるんだこの女!

 南さんが『ほらね』と言わんばかりに苦笑する。わかっていたのか、こうなることが。なんで……? なんでだ? せっかく自分の功績になるのに――


 否定する時間はなかった。

 副会長の目が僕に向いた。


「キミかい?」


 こうなったら……観念するしかない。


「……思いついただけですが」

「ぼくには好きな言葉があってね」


 不意に始まった話に、僕は軽く眉根を寄せる。


「『マリオ』の産みの親として知られる、任天堂の宮本茂氏の言葉なんだが――曰く、『アイデアとは、複数の問題を一気に解決するものである』。実に明快な定義だとは思わないかい?」


 ……何が言いたいんだ?

 意図を図りかねる僕に、副会長は続ける。


「キミの案は、『スタッフの練度の低さ』『集客手段』『トラブル対策』、これら三つの問題を一気に解決するものだ。有効かどうかは検証が必要だが――これは、紛れもなく『アイデア』だ。……知っているかな? 英語の『Idea』を形容詞の『Ideal』にすると、『理想の』という意味になるんだよ」


 ……理想……。


「ありがとう。キミの理想を、見せてもらった」


 そう言って、副会長は拍手をした。

 それに釣られて、他の審査員たち、順番待ちの生徒たちも拍手を始めた。

 誰もが――僕に向かって。


 結女と南さんが、手を取り合って喜んでいる。ああ、そうだな。プレゼンは成功したも同然だ。喜ぶのも当然だろう。

 だけど――だけど。


 僕には、響かない。

 どれだけ拍手を送られても、この胸には少しも響かない。


 理想、理想――理想、か。

 僕には、そんなもの――少しも見えちゃいませんよ、副会長。






 コスプレ喫茶の出店を許されたのは、僕たち一年七組と、その後に発表したもう一つのメイド喫茶に決まった。

 どうやらクラスに恐るべきメイドオタクがいたらしく、文化史におけるメイドの立ち位置を滔々と語り、メイド喫茶がいかに文化祭に相応しい出し物であるかを熱弁したのだった。


「ぃよっしゃあーっ!」「マジナイスすぎ!」「上級生に勝ったの!?」「すげー!」


 教室に結果を持ち帰ると、同級生たちは僕たちを称賛した。

 結女と南さんははにかみながらそれを受け入れ、一緒に喜んでいる。僕が副会長に褒められたという話もなぜか伝わっていて、「やるじゃん!」「さすが!」といった褒め言葉の濁流に、僕は押し流された。


 同じ目的のために団結し、成功すれば手を取り合って喜び、功労者を労う。

 これが、俗に言う青春ってやつなのだろうか。

 だとしたら――


 褒め言葉の攻勢が一通り済んだところで、結女がそれとなく近付いてくる。

 そして、言うのだ。

 秘密を打ち明け合うように微笑みながら。


「たまには悪くないでしょ、こういうのも」


 そのとき、僕が思い出したのは、過去のことだった。

 仲がギクシャクしていた頃、君が歩み寄ろうとしてくれて、僕は棘のある返事をしてしまって。

 だから――


「……


 僕は、まったく心にもないことを言った。

 そのくらいには、成長できていたのだ。






 校舎を脱出してふらふらと校門に向かうと、柱に寄りかかっていた女子が背中を離し、胸の横辺りで小さく手を振った。

 東頭いさなだった。

 約束した覚えはないんだが……? 不思議に思いつつ近寄っていくと、いさなはにやつきながら僕の顔を覗き込んできた。


「お疲れ様です、水斗君」

「……今日は先に帰っていいって言わなかったっけか?」

「言われましたけど、待ってました。……ふふふ。彼女っぽくないですか?」

「現在進行形で僕を他の女とくっつけようとしている奴の言うこととは思えないな……」


 川波の危惧は、案外的外れじゃないんじゃないかと思えてくる。

 まあシチュエーションをどう楽しもうが自由だ。

 僕が歩き出すと、いさなも隣に並んでくる。まさしく彼女めいた距離感だが、僕たちにとってはこれが平常だ。お互い慣れた歩調で、見飽きた通学路を行く。

 いつもならこのまま直近の新刊の話でもするところだったが、


「聞きましたよ、水斗君。プレゼンで大活躍だったんですって?」


 いさなが切り出したのは、いつもとは違う話題だった。

 瞬間、僕は少しだけ落胆している自分を発見した。

 いさなは、文化祭とは無関係だと思っていたんだけどな。……学校中があの雰囲気じゃ、どうやったって逃げられないのか……。


「誰から聞いたんだ、それ?」

「結女さんからです! 自分の功績を隠して黒幕に徹しようとしたんですってー?」

「……まあな。失敗したけど」


 自嘲的に言ってみる。

 けれど、もう何度も繰り返した。人間の社交性というやつは、こんな風に言うと『そんなことないよ』という台詞を引っ張り出す。まるでそういうロボットのように。

 ――でも。


「ぷふーっ」


 東頭いさなは、これ見よがしに吹き出した。

 いつものように。調子に乗った風に。


「実力を隠そうとしたのにミスってる(笑) ラノベ主人公未遂(笑) ダサっ(笑)」

「……おい。あまりイキるなよ。反動が来るぞ」

「イキってたのはそっち――うにゃあーっ!? こめかみ! こめかみぐりぐりしないでくださいっ! 古いっ! お仕置きの仕方が古いーっ!」


 ああ――僕は本当に、どうしようもないな。

 クラスメイトに褒めちぎられるより、こいつに煽られてるほうが、ずっとずっと居心地よく感じるなんて。

 どうしようもない――青春不適合者だ。


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