煩悩戦争④ お邪魔します
◆ 伊理戸水斗 ◆
強靭な精神を手に入れなければならない。
今度の結女は今までとは違う。じゃれ合いで留めておくためのブレーキを踏んでいない。そう感じた僕はその猛攻を凌ぐため、アマゾンの奥地へ――もとい、川波の家へと飛んだ。
理由の一つは、今の結女と四六時中同じ家にいたら身が保たないため。
もう一つは、自身の精神を強化するヒントを得るためだ。
川波小暮は、僕の知る限り、一番僕と似た立場に置かれている人間だ。しかも女子と近い距離で暮らしている歴では、明らかにあいつのほうが長い――あいつの生活からなら、何かしらヒントを得られるんじゃないかと思ったのだ。
そうして向かった川波家で僕が目撃したのは、想像を絶する光景だった。
「おっ? 伊理戸くんじゃーん」
川波家の玄関で僕を出迎えたのは、南暁月だった。
パーカーとハーフパンツのラフな格好の南さんを見て、僕は思わず部屋番号を確認した。
「……川波の家、だよな……?」
「そだよ?」
きょとりと首を傾げる南さんの背後から、慌てた様子で川波が顔を出す。
「おい! なに勝手に出てんだよ!」
「あんたがトイレ行ってたから代わりに出てあげたんじゃん。いつもと一緒でしょ?」
「伊理戸が来るから帰っとけって言ったよなあ!?」
「あたしがどこで休日を過ごそうがあたしの勝手だし」
「勝手じゃねーんだよここは他人の家だ!」
慣れた様子で言い合いをする部屋着の二人は、まるで同棲しているカップルだった。
いや、まるで――というか、そのまんまだ。
知らないところで徐々に関係が改善している気配は感じていたが、しばらく見ない間にこれほどまでになっていたとは……。
「まあまあ、とりあえず上がってよ伊理戸くん。ちょうどお菓子切らしてるから何のお構いもできないけど」
「お前がばくばく食うからだろーが。太るぞ」
「残念! あたしは基礎代謝が高いのだ!」
「……とりあえず、お邪魔します」
こんなにも心から言った『お邪魔します』は初めてかもしれなかった。
玄関からリビングに移動すると、南さんはテーブルに置いてあったゲーム機を手に取り、ごろんとソファーに寝転がった。まるっきり自分の家のくつろぎ方だ。というか、正真正銘自分の家にいる結女ですら、こんなくつろぎ方はしない。
「……もしかして、いつもここにいるのか? 南さんは」
「遊びに行ってねー休みの日はいつもこうだぜ。こいつ、自分の飯作んの面倒臭がってよ、いつもオレにたかりに来んだ」
「あたしも作ってあげてんじゃん。たまにだけどー」
「下手すりゃ帰るのめんどくせーとか言って泊まってくからな。隣同士で泊まりってなんだよ」
半同棲どころか九割同棲なわけだ。
しかも、お互いに両親が家を空けていることが多いとかで、実質二人暮らし。
僕は少し声を抑えて、川波に言う。
「(……気が休まらなくないか?)」
「(……休まるわけねーだろ)」
こそこそと話していると、南さんがゲームをしながら、
「川波ぃー。お茶くらい出したら? 冷蔵庫にまだ残ってるよー」
「言われなくてもわかってるっつの。……伊理戸、先に部屋行っといてくれ」
そう言い残してキッチンのほうに行く川波。僕は「わかった」と答えて、何度目かの川波の部屋に移動した。
パタン、と扉を閉めた、そのときだ。
僕が去ったリビングから声が聞こえてきた。
「……気が休まらないんだ?」
「は? おまっ、聞こえて――」
「どんな風に? どんな風に気が休まんないの? こんな風に?」
「おい馬鹿っ、お茶溢れるって――!」
好奇心に駆られて少しだけドアに隙間を開けると、キッチンで南さんが川波の首にぶら下がるようにして抱きついているのが見えた。
……お邪魔してます。
僕は再び、心の底からそう思った。
「最近、男と連んでると安心してるオレがいるんだよ」
コップに注いだお茶を飲み干して、川波はそう言った。
「他の奴に言ったらぜってー贅沢な悩みだってからかわれるんだろうけどよ、女子に絡まれてばっかってのも実際気疲れするぜ。あんたもそうだろ?」
「君は僕が結女に絡まれてるほうが嬉しいんじゃないのか?」
「ちっげーよ。東頭のほうだよ」
「ああ、そっちか……。最初はさすがに気になったけど、もうだいぶ慣れたよ」
「すげーな、あんた……。寺で修行でもしてきたのか?」
だったとしたら、今こんなに困ってはいなかっただろうな。
「実際、君の環境のほうが特別だろ。僕と結女には両親の目があるから一定の規律があるし、いさなにしたって、会うのは学校や天下の往来だ」
最近、頻繁に東頭家に出入りしていることは言わないでおこう。
「その点、君たちは家の中で、しかも親の目がないんだろう? 僕からすると、あんな状態で普通に日常生活を送れてるのが不思議に思えるよ」
付き合っていたなら、むしろ健全だったのだろうが。二人の発言から察する限り、どうやら付き合ってはいないようだ。
そうなると、むやみに刺激される本能を抑えつけなくてはならないわけで――
「……コツはな、こっちから手を出さねーことだ」
神妙な調子で、川波は言った。
「一度自分を許したらタガが外れる。そしたら向こうの思う壺だろ?」
「……実体験か?」
少し潜めた声で訊くと、川波は鼻をかいて誤魔化した。
どうやらあったらしい。タガが外れていた時期が。
僕はリビングに続く扉を眺めながら、
「君の場合、別によりを戻したっていいと思うけどな。南さんも反省してるんだろう? 昔にやったことは」
「そうだけどな、簡単じゃねーよ」
難しげに言ってから、川波は真剣な雰囲気でこっちを見る。
「知ってるか、伊理戸? 世の中には、別れて何ヶ月も経った元カノに、急に連絡を取ってくる男がいるらしいぜ。なんでだと思う?」
「新しい彼女と別れたとか?」
「そう。要は性欲100パーセントなんだよ。オレはそんな男にだけはなりたくないね」
「……まったくもって同感だ」
初めて付き合うときはシンプルだ。好きかどうかだけでいい。
でも、よりを戻すとなったら複雑だ。一度は別れると決断した自分たちに、どうケジメをつけるべきか考えなくてはならなくなる。
そうでなければ、ただつがいがいないと落ち着かないだけの猿になってしまう。
川波は不意ににやりと下世話な笑みを浮かべた。
「ま、そういう欲は健全に発散するに限るぜ。なあ?」
「……僕に言うなよ」
「あんたって苦手だよな、こういう話題」
「明け透けに話すほうがおかしいだろ」
川波は頬杖をついて、
「実際問題、付き合ってもない女子が家にいると、なかなか難しくねーか? いろいろと」
「結女は別に詮索しないよ。南さんはヤバそうだが」
「やべーんだよ……。何回PCのパスワードを突破されたか……」
ハッカーかよ。何者だ、南さん。
「そもそも、十八歳にもなってないくせに、なんでそういう画像を持ってるんだ?」
「年齢詐称はしてねーぜ? ただ親切な奴が、LINEとかディスコとかで熱心な布教活動をしてるだけで」
したり顔で言う川波。男子高校生っていうのは、やっぱりそういうものなのか。自分も同じはずなのに、どうしてなのか縁遠い世界に感じる。僕の場合、熱心な布教活動をしてくるのが女子だからかな……。
「そういや、伊理戸とはしたことねーよなあ、そういう話」
川波は「よし」と言って、またにやりと笑った。
「いい機会だし、オレも布教活動してみっか!」
止める間もなく立ち上がり、川波はデスクのほうに向かった。その棚に置かれた辞書を取り出すと、ページの間から次々と、小さく折り畳んだ紙を抜き取ってくる。
「なんだそれ?」
「雑誌の切り抜き。の、コピー」
折り畳まれた紙をテーブルの上で広げる。それには、際どい水着を着たグラビアアイドルが大写しになっていた。
「スマホやPCに注意を向けておいて、あえて紙で保存しておく作戦だぜ。エロ本なんて時代遅れだって言われるが、ゲームでも何でも、メタってのは回っていくもんだからな」
「しょうもない攻防だな……」
「こいつは普通の漫画雑誌の切り抜きだから、まだ健全なほうだぜ。もっとすげーやつは、もっとわかりにくいところに隠してある」
そこまではさすがに教えてやれねーな、と川波は不敵な笑みを浮かべた。別にカッコ良くないぞ。
「それで? あんたはどういうのが好みだ? やっぱこの子とか?」
そう言って川波が見せてきたのは、長い黒髪のグラビアアイドルだった。白い水着で、胸を寄せたポーズをしている。
「伊理戸さんと同じ清楚系だろ?」
そう言って川波はにやにや笑うが、僕はちっとも興味が湧かなかった。
結女のほうが可愛い。
比べるべくもない。
「反応悪りぃな……。ま、そこらのグラドルよりも、東頭の奴のほうがやべー身体してるからな。このくらいの刺激じゃピクリともしねーってか?」
「別にいさなのこともそういう目では見てないよ」
「見上げたジェントルマンだが、性欲は飼い慣らすもんだぜ? 押さえつけるもんじゃねえ。無理に誤魔化し続けると、逆にやべー気がするけどな」
……別に、無理をしているつもりはないんだけどな。
「うーん……じゃ、二次元ならどうだ? エロい異世界もの漫画とか――」
僕と下ネタ会話ができることが嬉しいのか、川波は嬉々として蔵書を開陳した。
次から次へと、絶妙に年齢制限をすり抜けたエロコンテンツをリコメンドしてきては反応を探ってくる。そのすべてに対し、僕は無反応を貫いた。そのせいか、川波のほうも徐々にエスカレートし、R15からR18の領域へと近づいていく。
「見ろ! この裏垢女子を! オレが見つけた中でも最強の美巨乳――」
「うわー、おっぱいでっか!」
エスカレートしすぎたのだろう。
僕もまた、無反応を貫くことに意地を張りすぎた。
だから二人とも、いつの間にか背後に迫っていた存在に、気付かなかった。
音もなく部屋に侵入していた南さんを見て、川波の顔がさあっと青くなった。
「み……みな……」
「今日は巨乳の気分なんだ?」
南さんはにこにこ笑顔でそう言って、すすっと素早く川波にしなだれかかる。
「別にいいけどね? でも、前にあたしがあげた画像はどうしたの?」
「……あげた画像……?」
まさか、南さん自身の……?
「いっ、いかがわしいもんじゃねーぞ!? いや、いかがわしいもんなんだが、こいつじゃねーから! こいつじゃ! おい誤解されること言うなよ!」
うひひ、と南さんは楽しげに笑った。なんだびっくりした……。
「伊理戸くん、結女ちゃんの代わりを探そうったって無駄だよ?」
南さんは捕まえるように川波の首に腕を巻きつけたまま、僕のほうを見る。
「だって、グラドルや漫画より、リアルの結女ちゃんのほうが可愛くてエッチだからね!」
……重々承知してるよ。
「据え膳食わぬは男の恥ってやつなんじゃない? ね、川波?」
「地獄に満漢全席があったら警戒するんだよ、普通は!」
「んー? 地獄? 天国の間違いかなー? あむあむ」
「んぎゃあああ!!」
耳の先端を甘噛みされて、川波は悶絶しながら横倒しになった。
南さんはその腹に跨ってマウントを取りつつ、
「ま、伊理戸くん。その顔色からして、結女ちゃんが何かやってるんだろうけど、真面目に受け止めてあげてよ。おふざけができる子じゃないって知ってるでしょ?」
知っている。だから厄介なのだ。
南さんは僕のほうに振り返り、迫力のある笑みを浮かべる。
「結女ちゃんを傷つけるようなことがあったら――あたし、許さないからね! それだけ覚えといてっ!」
「……肝に銘じておくよ」
そう答えると、南さんはテーブル上の川波蔵書を掻き集め、「エロ画像最強ランキング作ってよー」と恐ろしいことを言い始めた。
……僕はそろそろお暇するか。本格的にお邪魔のようだし。
立ち上がって部屋のドアに向かい、ノブに手をかけたところで、僕は振り返った。
「忠告のお礼に言っておくけど、南さん」
「んー?」
「読解を間違えてるぞ。君が例えられたのは、地獄じゃなくて、満漢全席のほうだ」
言った瞬間、川波の顔が赤くなる。
「……へえー?」
南さんは口角を吊り上げて、川波の顔を見下ろした。
「あたしのこと……ご馳走に見えてるんだ?」
「いやっ、ちがっ、それは言葉のあや――」
「じゃあな、川波」
「おい伊理戸ぉ! 行くなあああああああっ!!」
お幸せに、と願いながら、僕は川波家を辞した。
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