煩悩戦争③ 攻撃
◆ 伊理戸水斗 ◆
――絶対……逃がさないから
結女のあの宣言から、一日が経った。
あの目に宿った決意、あの声に滲んだ覚悟、すべてが鮮烈で、今も瞼の裏に焼き付いている。その反面、あれから家に帰った後も何もしてくる様子はなく、今日は午前から生徒会で学校に行ってしまって、僕は何だか宙ぶらりんの状態だった。
その状態で僕は、今日もいさなの部屋にいる。
「また描けたので見てください!」
そう言われて呼び出されたのだ。イラストを見るくらいスマホでもできるが、東頭としては間近で僕の反応を見るのが楽しいらしい。
「それにしても早いな。前の絵が描けてから、まだ二日くらいだろ?」
「へへー。テストが終わった解放感でつい……。三枚も描いちゃいました」
「三枚!?」
一日に一枚半描いたってことか? 勢い余るにも程があるだろ。しかも全部カラーイラストだという。物理的に可能なのか、そんなこと。
とにかく僕は、散らかった床に胡座をかき、受け取ったタブレットを見た。
一枚目は、朝の支度をしている女の子の絵。髪を結びながらこちらを振り返っている。自分を参考資料にしているからか巨乳を描くことが多い東頭だが、この子は珍しく胸の大きさが大人しめだ。猫か何かの視点か? かなりのローアングルで、ハーフパンツの裾から下着がチラ見えしていた。
二枚目は、着替え中のセーラー服の女子を捉えたイラスト。下はすでに体操服のハーフパンツに穿き替えていて、上はブラウスを首までずり上げた状態。細かく描き込まれた白いブラジャーが露わになっていた。
三枚目は、下着姿の女子がベッドでうつ伏せになり、スマホをいじっているイラスト。制服が床に脱ぎらかしてあることから、着替え途中でめんどくさくなったものと思われる。ブラジャーもショーツも、やっぱり描き込みがすごい。ここだけ見たらプロ並だ。
「どうですかー? みんな可愛いでしょー」
にこにこして訊いてくるいさなに、僕はこくりと肯いた。
「そうだな。君がテスト中、途轍もなくムラムラしていたのがよくわかる」
「はうあっ!?」
なぜわかった、という様子で、いさなは顔を赤くした。
僕は半眼で彼女を見て、
「最初はパンチラに抑えてたのに、どんどん我慢が利かなくなっていっただろ」
「だ、だってぇ~……せっかく描いたのに服で隠すのが勿体なくて……」
いさなはキャラクターを描くとき、まず裸の状態で描いて、次に下着、それから服を着せる、という描き方をする。
これ自体はまったく不自然ではなく、むしろ基本的な人体の描き方だと言えるが、いさなの場合はたまに、公開しない全裸状態を異様に描き込んでいることがある。自分が女子だけあってリアルな上、僕に見せてニヤニヤしてくるので始末が悪い。
今回はどうにか下着状態で我慢できた、というわけらしい……。この絵もイラストアプリで開いて『下着』のレイヤーを消したら、モザイクも黒ノリもない違法イラストに早変わりするんだろうな……。
「……まあ、リビドーを作品にぶつけられるのは才能だ、って慶光院さんも言ってたしな。それに君、下着を描くのが急に上手くなってないか?」
「自分のやつとにらめっこして描きました! 細かい模様はペン先に登録したので、三枚目のときはすぐに描けましたよ~」
……自分のやつって。
僕は二枚目の、華やかな花柄のブラジャーを見る。
こういうの着けてるってことか? 今更だが、恥ずかしくないのかコイツ。
「個人的にはパンツのしわに注目してほしいですね! 三枚目のお尻のとこなんか、実際に同じ格好したのを頑張って写真に撮って――」
「あーあーもういいから! 下着描くのが上手くなったのはわかった!」
夢中になると羞恥心がどっかに行くこの感じ。思えばこいつは最初からクリエイター気質だったのかもしれない。
しかしまあ、同じ格好をしているいさなが目に浮かんでくるのを除けば、この三枚目の下着女子の絵には独特の味がある。
「この絵、下着姿の割にはエロくないな」
「えっ? そうですか?」
「エロいエロくない以前に、生活感を感じるっていうか……。『美少女キャラ』っていうより『女子』のイラストって感じがする。生々しいというのか……」
「そりゃまあ、わたしが実際、こんな感じですからね、学校帰り。制服脱ぎ捨てて下着姿でゴロゴロしてます」
「自分がモデルかよ」
「わたしの場合は下着の上下の色が不揃いだったりしますけど。そこは揃ってるほうが嬉しいので揃えておきました! でも揃ってないのもそれはそれでアリなんですよね~……悩ましいです……」
自分をモデルにできるっていうのは、女性作家の大きなメリットだ。そう考えると、男オタクみたいなメンタルを持ちながら女子でもあるいさなは、美少女イラストを描くに当たっては最強の資質を備えていると言えるかもしれない。
「君ってさ、男はちゃんと描けるのか? 今のところ全部美少女のイラストだが」
「え? 描きませんよ?」
描けませんじゃなく描きませんと来たか。
「あんまりイケメンがいっぱい出てくる作品にハマったことがないので……。もし描くとなったら、何かしら見本が必要ですねえ」
「見本って……」
いさなはにやにやしながら僕を指差した。
「人体の構造をよく理解するには、ヌードデッサンが不可欠ですよねえ」
「やるかアホ! 大体、僕みたいな貧相な身体をモデルにしても仕方ないだろ」
「むしろ逆にいいんですよ。普通の高校生のはずの主人公の身体が、なぜかすごい細マッチョだったりするのを避けられます」
「いいだろ、別に細マッチョで……。ヒロインが理由なくスリムなのと同じだ」
「いいじゃないですか! まだ〆切守ったご褒美もらってないんですから!」
くっ……そういえばあったな、そんな話……。
「いずれ結女さんに許可取りますから、そのときはお願いします!」
「なんで僕の身体の所有権があいつにあるみたいになってるんだ……」
「何なら結女さんにも立ち会ってもらいましょうか? ……あ、やっぱり無理かもですね。ヌードモデルって反応しちゃったらダメらしいので」
「反応ってなんだ。はっきり言ってみろエロ女」
「そりゃあもう……うぇへへ。見せてもらえるなら願ったり叶ったりですけどぉ……」
「きっしょ……」
性別が逆だったら、職を失うレベルのセクハラ発言だぞ。
大体、元カノと八ヶ月以上も同居している僕が、そんな簡単に失態を見せるはずないだろうが。ナメやがって。
◆ 伊理戸水斗 ◆
夕方頃に家に帰ると、リビングの炬燵に、制服姿の結女がいた。
「おかえり」
「……ただいま」
当たり前みたいに挨拶しているけど、昨日のことはどういうつもりなんだ。
自分からは言わない、と結女は言った。その意図するところは明確だった。いつから? 思い返せば明らかだ。帰省先での、花火のとき――
なのに、何事もなかったかのようにぬくぬくと炬燵で暖まっている。今の結女がどういう心境でいるのか、まったく掴めなかった。
「なんで制服のままなんだ?」
探りを入れるように訊くと、結女は蜜柑を手に取りながら、
「部屋が寒くて。エアコンが効くまで……って思ってたら、抜け出せなくなっちゃった」
「優等生らしからぬ発言だな」
「私だって着替えるのがめんどくさくなることくらいあるわ」
着替えるのが、めんどくさく……。
さっき見た、下着姿の女の子のイラストを思い返してしまった。
「あなたも入る?」
そう言って、結女は自分の脚を覆っている布団をぴらりと持ち上げた。スカートから伸びる脚にいつも穿いているタイツはなく、白い太腿が垣間見える。探してみれば、タイツは後ろのソファーに、乱雑に脱ぎ捨てられていた。
「……いいよ」
いつもはきちんとしてるくせに、今日はいやに無防備だ……。
「僕は着替える必要ないし」
「部屋着の概念がないものね」
「いさなの家に行くのに何のコーデがいるんだよ。向こうは酷いときシャツ一枚だぞ」
「私も似たような格好してることはあるわよ。部屋の中では」
……嘘だろ? こいつが、いさなと似たような格好……?
結女は意味ありげに、くすりと笑った。
「見に来る?」
「……行ったら行ったで怒るくせに」
やり返したつもりだったが、結女の笑みは崩れなかった。
「別にいいわよ? あなたなら」
――これは罠だ。
何だかわからないが、絶対に罠だ。
「……炬燵で寝るなよ。前みたいに」
僕は戦略的撤退を選んだ。
リビングを出て階段を上り、自分の部屋に向かう。
なんなんだ、あいつの様子は。
物怖じを感じない。ブレーキを踏んでない。自意識をどこかに捨ててきたかのようだ。
これが、昨日言っていた『逃がさない』の意味か?
……いいや、落ち着け。どうせいつもと同じだ。こんなことはこの八ヶ月間、いくらでもあった――結局はただの誘惑ごっこ。あいつに僕を籠絡するような根性も技術もないってことは、誰よりも僕が一番知っている。
けど――なんで。
なんでこんなに、胸がざわつくんだ――
◆ 伊理戸水斗 ◆
夕飯を終えると、僕は部屋のパソコンでいさなのツイッターをチェックした。早速、三枚のうち一枚目――朝の支度をしている女の子――のイラストをアップしたんだが、今までより数字の伸びがいい。特に『いいね』の数が……もう100個を超えている。フォロワーも目に見えて増えていた。
エロは強いな、やっぱり……。いさなのモチベ的にも向いているのは確かだが、本格的にやろうと思ったら、年齢的にあと二年ほど待つ必要があるからな。
この調子だと、三枚目をアップした頃にはかなりフォロワーが増えているかもしれない。その増えた数字に対して、どうアプローチを仕掛けていくのか……。エモか、エロか。需要に応えるならエロなんだが、本人の性格に反して、いさなはエモーショナルなイラストが一番センスを出せる気もするんだよな――需要と資質。悩ましい問題だ……。
などと考えているとき、スマホに着信が入った。
誰だろう。いさなか?
手に取ってみると、結女だった。
……んん? あいつは今、風呂に入ってるはずじゃ……。
「はい、もしもし」
『遅い』
声が響いていた。
なんで風呂の中からかけてるんだ、こいつ?
「何の用だ?」
『リンスが切れてて……。新しいの持ってきてくれない?』
「なんで僕に? 由仁さんがいるんだからそっちに頼めば――」
『いいから!』
そう言って、結女は一方的に通話を切った。
なんなんだ、一体……。わざわざかけ直して断るのも面倒だし、持っていってやるか。
僕は一階に降りると、脱衣所の棚の中から結女が使っているリンスを見つけ出した。あのクソ長い髪を手入れするのには大量に必要みたいで、とにかくたくさんあるもんだから、場所は以前から目に付いていた。
それを僕は、浴場の磨りガラスのドアの手前に置く。
「ここに置いとくぞー」
浴場の中にそう呼びかけ、さあさっさと退散しよう、と思ったそのときだった。
ガラリと、浴場のドアが開いた。
ほんの10センチほど。
そしてその隙間から、結女が顔を覗かせたのだ。
濡れた髪が、水滴の付いた肩に張り付いている。肩から下はドアの向こうに隠していて、磨りガラスに曲線的なシルエットだけを映していた。
思わず口を開けてしまった僕を見上げて、結女は言う。
「ありがと」
濡れた手を隙間から伸ばしてリンスのボトルを回収すると、ピシャリとドアは閉められた。結女のシルエットが遠ざかって輪郭が淡くなり、シャワーの水音が響き始める。
バクバクと心臓が鳴っていた。
あまりにも不意打ちで、ともすると、入浴中に突入されたときよりも、鼓動がうるさいかもしれなかった。
◆ 伊理戸水斗 ◆
『気を付けろォ―――ッ!! これは敵のスタンド攻撃だァ―――ッ!!』
いさなから勧められたアニメで、男が切迫した表情で叫んでいる。
まさに、これは攻撃だった。
明白ではない。確定ではない。あくまでさりげなく、はっきりそれとはわからない形で、僕は攻撃を受けている。
まったくもって小賢しい。
元カノが同じ屋根の下にいるという、この異常な環境で、僕がどんなに理性的に過ごしてきたと思ってるんだ。今更、思わせぶりなことを一つ二つされた程度で揺らぐ僕ではない。だから珍しく自主的にアニメなど見ているのは、決して小説の文章が頭に入ってこないからではないのだ。
僕は――結女を、幸せにはできない。
結女だけじゃない。根本的に、僕は恋愛に不向きなんじゃないかと思う。
中学生の頃はまだよかった。
程よく無分別で、程よく未成熟で、余計なことを考えずに恋愛感情に夢中になっていられた。
しかし、今の僕は、恋愛よりも遥かに面白いことを知ってしまっている。
そのために、他の自分の感情を簡単に捨ててしまえる人種である自覚が明確に存在する。
せめて、義理のきょうだいでなければ――高校生には荷が勝ちすぎる、将来のことなんか、考えずに済んだ。
だけど、現実に僕たちは家族だ。
好きだからといって、それをやめるつもりもない。
それはいずれ、僕たちの関係を父さんたちに明かすという意味でもあり、そしてそれがゆえに、僕たちは普通の高校生みたいに、簡単に別れることはできない。肌の合わなかった夫婦のように、離婚するという選択肢さえない。
僕たちの関係は、父さんや由仁さんのことも、否応なしに巻き込んでしまうから。
もう一度そうなるというのなら、覚悟が必要なんだ。
教会での誓いよりも強く、プロポーズよりもすべてを懸けた、一生を共にする覚悟が。
そう考えたら、……僕は、自分を信用できない。
伊理戸水斗に、伊理戸結女は任せられない――
「――起きてる?」
ドアがノックされて、物思いから浮上した。
とっくに次話になっていたアニメを止めて振り返る。
「起きてる……けど?」
「入っていい?」
「いや、夜は――」
「入るから」
結局、結女は勝手にドアを開けた。
今となっては見慣れた寝間着姿だ。夕方に言っていたいさなみたいな格好は、当然ながらしていなかった。
室内に入って、ぱたりと後ろ手にドアを閉める結女を、僕は椅子に座ったまま警戒の目で見やる。
「……夜は部屋を訪ねないってルールじゃなかったか?」
「大丈夫。お母さんには言ってきた」
ぺらりと、数枚の紙を僕に見せてくる。
「『水斗くんと期末の復習する』って。『家族に同級生がいるって便利ねー』って言ってた」
……呑気な……。
それだけ、僕への信頼が厚いってことなんだろうけど。
結女はにっこりと優等生スマイルを浮かべた。
「いいでしょ? 学年首席と復習できるんだから」
「はいはい。二位で悪かったな」
いさなに教えていたのもあって、今回は割と勉強できている気でいたが、僕はまたしても二位に甘んじた。
もはや首席を奪りに行こうという気概はあまりないが、たまにこうしてマウントを取られると少しムカつく。
「国語科目で間違えた問題があって。あなたって今回、国語系は満点だったんでしょ? ちょっと教えてよ」
「学年首席様が教えてくれるんじゃなかったのかよ……」
何かしら企んでいそうではあったが、穏便に追い返せる大義名分が思い当たらなかった。
「仕方ないな」
「やった」
小さく言って、結女はひょいひょいと本の塔を避けて、ぼすっとビーズクッションにお尻を落とした。誕生日に僕がもらったアレだ。
それから、身体をクッションの端に寄せ、空いたスペースをぽんぽんと叩く。
「ほら、早く」
「……僕も座れと?」
「あなたがテストの問題用紙をすぐ出せるんなら、そこから教えてくれてもいいけど?」
…………確かに、もうどこに行ったかわからない。
「じゃあ後ろから見ればいいだろ」
とはいえ、今の結女はどんな攻撃をしてくるかわからない。
僕は椅子から立ち上がると、結女が埋もれるように座る大きなビーズクッションの後ろ側に回ろうとした。
だが、
「えい」
「うあっ?」
近寄った瞬間、手を強く引っ張られ、ビーズクッションの上に引き摺り込まれた。
かろうじて結女の上に倒れることは避けたが、空けられたスペースにすっぽりと収まる。結女は僕を捕まえるように肩に手を回して、勝ち誇るように微笑んだ。
「ひ弱」
「……うるさいな」
逃がすつもりはないらしい。
僕は諦めて、引っ張られた腕を戻し、姿勢を正そうとした。
そのとき、本当に意図していなかったんだが、曲げた肘が結女の胸にふにりと柔らかにめり込んだ。
「…………!」
その感触に、僕は凍りつく。
こいつ……下着つけてなくないか……?
寝間着だからか? いや、夜には夜用のブラがあるっていさなが言ってたぞ? いさなじゃあるまいし、その辺りはしっかりしているタイプだと思ってたが……。
「ね、ここなんだけど……」
結女は僕の驚愕にも、肘が胸に触れたことにも気付いていないかのように、ぐっと肩を触れ合わせながら、テストの問題用紙を見せてくる。
僕は意思力を振り絞り、テストのほうに意識をフォーカスさせた。
「この現代語訳、どこが間違ってるの?」
「古文か……。ここはたぶん――」
我ながら、よくこうも頭と舌が回るものだと思った。
今も現在進行形で、視界の隅にチラつく膨らみが気になり続けているというのに。
今日の結女の寝間着は、襟ぐりが少し緩かった。そのせいで、僕の視点からだと、寝間着の中に隠された谷間がはっきりと覗けてしまう。
いさなが大きすぎるせいで目立たないが、結女も一般的には結構でかいほうなのだ。本当に付き合っていた頃とは比べ物にならない。第二次性徴の神秘だった。
水着を買いに行ったときに得た情報によると、確か胸のサイズはCかDカップで――いや、それだと少し小さかったんだっけか。とすると、D……いや、Eカップ……?
それが身体を傾けることで少し横に流れ、下着に締めつけられることもなくひとりでに深い谷間を作っているんだから、さしもの僕も気にならないわけがなかった。
――何なら結女さんにも立ち会ってもらいましょうか? ……あ、やっぱり無理かもですね。ヌードモデルって反応しちゃったらダメらしいので
しない。しないぞ。絶対にしない。
くそ……。これよりもさらにでかい奴と普段からつるんでいるのに、どうして結女ってだけでこんなに掻き乱されなきゃいけないんだ……。
「そういう訳になるんだ……。なんでそんな簡単に答えられるの?」
「古文なんて古いだけの日本語だろ。なんとなく読めないか?」
「読めないからテストになってるんだけど」
結女は半眼で見つめてくる。
「それじゃあ、次はそっちの番ね。どこ間違えた? 数学とか?」
「あー……確か、何度計算しても変な答えになった問題があったかな……」
「ふふっ。数学のテストあるあるね。分母がとんでもない数字になったり」
どれ? と、結女は数学の問題用紙を見せてくる。
その際、身を寄せてきたせいで、また胸が腕に当たりそうになった。
それを避けるべく少しだけ身を反らし、これ、と該当の問題を指差す。
「あー、これはね――」
結女は寄せた身体を、元の位置に戻さなかった。
僕は身を反らしたまま、結女の説明を聞かざるを得なかった。
「――っていう感じ。わかった?」
吐息が首筋をくすぐる。
それに耐えながら、僕は何とか平静に返す。
「わかった……」
「ん。……お互い、数えるほどしか間違えてないから、あんまり復習するところないわね」
結女はようやく姿勢を元に戻し、ぺらぺらと問題用紙をめくっていく。
僕が胸を撫で下ろした、まさにその瞬間だった。
チラッと、結女が横目で僕の顔を窺った。
反射的に、マズい、と思った。
今までどうにかポーカーフェイスを保ってきたのに、今の一瞬だけ気を抜いた――その瞬間を、ものの見事に見られてしまった。
にやりと、結女の口角が上がる。
「それじゃあ、まあ――」
不意に。
結女が唇を、僕の耳に寄せる。
「(――今日は、このくらいにしといてあげる)」
息を吹きかけるような囁き声に、甘い痺れが脳髄を駆けた。
それを置き土産とするように、結女は「よっと」とクッションから立ち上がり、
「それじゃあ」
座った僕の目線に合わせて、中腰になる。
「おやすみっ♥」
それは、緩んだ襟の中を見せつけるようなポーズだった。
無防備に見えた胸元は、しかし鋭く尖った兵器でもあったのだ。
すたすたと軽やかに、結女は僕の部屋を去っていく。
この場には、ビーズクッションから立てないでいる僕と、彼女が座っていた温もりだけが残っていた。
――攻撃を受けている。
間違いなく、僕は攻撃を受けている。
◆ 伊理戸結女 ◆
「はああ~……」
ナイトブラを着けると、私は深々と溜め息をついた。
ばふっとベッドに倒れ込み、枕に顔を押し付ける。
……恥ずかしかったあ~~~~っ!!
ノーブラの寝間着で水斗の前に出ることさえ一大事なのに、あんなに密着して! 胸が当たるたびに顔から火が噴き出そうだった! 胸元は見せつつも全部は見えきらない角度を練習しておいてよかったあ~っ!!
何よりも重畳だったのは、今が冬だったことだ。冬物の生地厚めの寝間着だったおかげで、ノーブラでも、その……トップのほうが、浮き出ずに済んだ。
さすがにそこまで見せるのは私の羞恥心が保たない。……あー、こんなことを考えてるから日和っちゃうんだろうなあ。東頭さんを応援していた頃、暁月さんが男口説くときは恥を忘れろ、みたいなことを言っていたような気が。
羞恥心の限界は、徐々に突破していこう。
恥は忘れる。
清楚な優等生は、水斗の前でだけ終了だ。私は一匹のメスとなる。目当てのオスを籠絡するまで、求愛行動をやめることはない。
効いてたはずだ。絶対に効いてたはずだ。
この調子で続ければ、あの澄まし顔から煩悩が溢れ出す。
もしかしたら今頃、私の胸元や感触や台詞を、何度も反芻しているのかも。
「……ふふ」
除夜の鐘まで、残り半月――消される前に、108個全部私にしてやる。
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