あなたの顔を赤くしたい⑥ あなたの顔を赤くしたい

◆ 伊理戸水斗


 一通り筋トレをして、通話を解散すると、僕は汗を流すために風呂に入ることにした。

 裸になって浴室に入ると、腹筋に力を入れて軽くつついてみたりする。硬く……なっているような、なっていないような。筋トレを始めてそんなに時も経っていないし、そうそう目に見える変化があるわけもないか。


 掛け湯をして汗を流すと、湯船に入って身体を温める。首まで湯に浸かり、筋肉の疲労が取れていくのを感じていると、脱衣所のほうから人の気配を感じた。誰かが洗面台を使っているんだろう。

 二分ほどでさっさと湯船から出て、身体を洗うことにした。僕はあまり長湯を楽しめるタイプじゃない。風呂はできるだけ素早く済ませることにしているのだ。


 が。

 今日、この日ばかりは、そうもいかなかった。

 なぜなら、僕が石鹸を取ろうとしたその瞬間――ガラリと、浴室の扉が開いたからだ。


「――はっ?」


 振り返った僕の目に映ったのは、裸身に白いバスタオルを巻いた同居人だった。

 伊理戸結女だった。

 え? あ? は? なんで?

 混乱しながら、僕はちょうど手にしていたタオルで股間を隠し、異常事態にもかかわらず澄ました顔をしている義妹に言う。


「ちょっ……は、入ってるぞ?」

「知ってる」


 ガラガラピシャン。

 結女は後ろ手に扉を閉めた。

 それは偶発的な侵入じゃない。意図的な侵攻だった。


「なっ……な、何やってる!?」

「べつに? たまには背中でも流してあげようかなって」


 薄く笑みさえ浮かべながら、結女は言った。


「こういうのもいいでしょ? 家族なんだし」


 ――いいか、伊理戸……男は誘惑に乗ったら負けだ


 川波の言葉が蘇る。絶対に下心を見せるな。鉄の意思をもって耐え忍べ。不慣れな筋肉トレーニングと共に刻みつけられた言葉が、全身に巡っていく。

 バスタオルの上からでもわかる胸と腰の曲線。腕や肩、太腿の輝くような艶やかさ。目に入ってくるそれらを意識から閉め出していく。

 そうだ、屈するな。あんな女に生まれた時点でついてくるようなものに。頭の中でいさなが怒ったが、それもいったん外に閉め出す。そして、


「ふうん……」


 僕は言った。


「いいんじゃないか? たまには。家族なんだし」


 ぴくっ、と結女の頬がひくついた気がした。

 反応しない。僕は決して反応しない。君が期待するような反応は一切しない。

 これは男の戦いだ。






「どう? 加減は」

「もうちょっと強いほうがいいかな」

「ん。おっけ」


 背中を洗われている。

 ボディーソープをつけたタオルで、結女のしなやかな手が、わしわしと僕の背中を洗っている。

 その現実感のない状況を、しかし正面の鏡が現実として、しっかりと映し出していた。股間にタオルを乗せ、猫背になって椅子に座っている僕。その後ろで膝立ちになって、僕の背中を上下に擦るバスタオル姿の結女。

 それだけでも頭がバグりそうなのに、結女はさらに責め立ててくるのだ。


「……ふふ。思ったよりたくましいのね? もっとガリガリかと思ってた」


 いや、そんなはずはない。そんなにすぐに筋トレの成果が出るものか。

 と、理屈ではわかっているのに――くすぐったいような感触が、僕の心臓を撫でていく。

 落ち着け。落ち着け。反応するな。冷静に返すんだ。


「そうか? 普通にガリガリだと思うけどな」

「そんなことないわよ? この肩甲骨の辺りとか――」


 んぐーっ!? 直接触るなあ!


「腰とかも、やっぱり女子よりゴツゴツしてる」

「くっ……すぐったいぞ」

「ああ、ごめんなさい? つい……触りたくなっちゃって」


 くそっ、表情を変えるな! 鏡越しに見られているぞ!


「くくく……」

「ふふふ……」


 不敵な笑みで危機を乗り越えているうちに、ついに結女はシャワーを手に取った。僕の背中についた石鹸を流していく。

 その間に、僕はすかさず言った。


「前は自分で洗うよ」

「そう? 遠慮しなくていいのに」


 助かった。タッチ以上の攻撃をしてこなかった。もし漫画やライトノベルのそういうシーンみたいに、手以外の……その、身体の部分を使ってこられたりしたら、いくら僕でも完全に平静を装うのは難しかったかもしれない。

 結女からボディーソープ付きタオルを受け取り、いったんの平穏を得た僕は、つい、束の間、油断してしまった。

 その油断に、結女は付け込んできた。


「それじゃあ、頭を洗ってあげる」


 は?


「気持ちいいでしょ? 人に頭を洗ってもらうのって。ほら、こっち向いて」

「いやっ、ちょっ――」

「い・い・か・ら!」


 身体をぐるりと一八〇度回転させられて、正面にバスタオル姿の結女が来る。

 結女は、僕の顔を見てくすりと笑い、


「はい、目を閉じてね」

「ぶあっ!?」


 シャワーを頭っから僕に被せた。

 そうして髪を充分に濡らすと、今度は、


「シャンプー取るから、ちょっとどいて」


 閉じていた瞼を薄く開ける。

 と、結女が僕の体の左横を通り抜けるように、身を乗り出してきていた。


「よいしょっ……」


 右に身体を傾けてそれを避けた僕からは、シャンプーに手を伸ばす結女の背中やお尻が丸見えだった。加えて、僕の左脚は結女のお腹の下――すなわち、胸の膨らみと太腿の間に挟まる形になっていて、結女が少しでもバランスを崩せば、何もかもが触れ合ってしまう状態だった。

 反応するな。反応するな。

 バスタオル越しでもわかる腰の細さやお尻の丸みなんてどうでもいい。僕の左脚のすぐ横にぶら下がる脂肪の塊なんてどうでもいい。ひたすら身体を固くし、石像と化すことでこの窮地を乗り越えろ!


「取れた取れた。はい、じゃあ頭下げてー」


 シャンプーを手にひらに取った結女は正面に身体を戻し、僕を項垂れるような姿勢にさせて、僕の頭でシャンプーを泡立て始める。

 普通、他人に頭を洗われるというのは心地よく、どこか安心感を覚えるものだが、このときの僕は安心とは無縁だった。

 何せ、俯けた視界の、垂れた前髪の隙間から見えるものが。


「痒いところはございませんかー?」


 気付いているのだろうか。わかってやっているのだろうか。

 僕が、少し眼球を上に向ける、それだけで――バスタオルからはみ出した胸元が、覗けてしまうということを、知っているのだろうか。


 ……大きい。

 普段、いさなと一緒にいるから、感覚がおかしくなっていたのかもしれない。

 こうも間近で、改めて見てみると、これはかなり大きい部類だとわかる。

 二つの膨らみの間でしっかり谷間ができているし、何よりバスタオルに押さえつけられているにもかかわらず、腕を動かすたびに、少し……ふるふると、揺れているような気が、する。


 それに形も綺麗だった。ブラジャーの支えがないにもかかわらず、しっかり前に張り出したお椀型で――いや?

 ブラジャーの支えがない? ……本当にそうか?

 思い出せ。少し前にあったことを。今日のようにバスタオル姿でからかってきて、その実は下着をつけていた、ということがあったばかりじゃないか。

 今日はそうじゃないとなぜ言える?

 こいつの目的は、たぶん僕をからかうことだ。ならばオチを用意している可能性は大いにある。『裸じゃないのに何を意識してんの? ぷぷー』というオチだ。


 見切った。


 であれば、恐れることなど何もない。下着や水着を着ているとしても、今、目の前に結女の胸元があることは変わらないが、恐れることなど何もない。ないのだ。

 平静を装う――ではない。

 僕は平静になれたのだ。


「どうだった? 私に洗ってもらえた感想は」


 どこか勝ち誇った雰囲気を滲ませる結女に、僕は水滴の滴る前髪を掻き上げて答える。


「ああ、たまには悪くないな。腕を動かさなくていいから楽だ」

「……それだけ?」

「それだけだが? ……それより、そろそろ君も温まったらどうだ? 風呂場とはいえ、湯にも入らずにそんな格好でいたら寒いんじゃないか?」

「えっ」


 僕はにやりとほくそ笑む。


「一応言っておくけど、を湯に入れるなよ。衛生的に問題があるからな」


 布。

 バスタオルはもちろん、下着や水着も含む。


「服を着直すのも面倒だろ? ついでだから君も身体を洗ってしまえよ」


 できまい。なぜならそのバスタオルの下には、下着や水着があるのだから。その事実を明かしたくなければ、君はすごすごと風呂場から退散する以外にないのだ。

 たじろいだ様子の結女を見て、僕はチェックメイトを察する。どうやら僕が一枚上手だったようだな。まあ精進することだ! わはははは!


「……そう……ね」


 勝ちを確信していると、結女が躊躇いがちに、バスタオルの結び目に触れた。


「確かに、面倒だし……入っちゃおうかな」


 ん? ……なんだと?

 呆けた僕を後目に、結女は立ち上がり、湯船に両足を入れて、縁にお尻を下ろした。

 まさか、それで『入った』と言い逃れる気じゃないだろうな?


 そんな予想は、またも外れる。

 湯船の縁に腰掛けて、僕に背中を向けた結女が――しゅるりと、バスタオルを両脇に広げたのだ。


 僕からは見えない。

 広がったバスタオルに遮られて、何も目に入ることはない。

 ただ、黒髪から覗いた結女の耳が、真っ赤になっていることだけが見えていて――


「……あんまり、見ないでよ……」


 か細い声に我を取り戻し、慌てて視線を外した。

 まさか……バスタオルの下は、本当に全裸?

 僕らは今、お互いに全裸の状態で、狭い密室に居合わせているのか?

 今更といえば今更な疑問に、脳髄が痺れていく。


 湯船の側面に身体を寄せれば、胸から下は大体隠せるだろう。しかし、それにしても不完全で。僕が少し立ち上がり、上から湯船を覗き込むだけで、一糸纏わぬ結女の身体が目に入ってしまうわけで。そんなことに……もしそんなことになったら――


 ぱさり、とバスタオルが落ちる音がした。

 ちゃぷちゃぷ……と、湯に身を浸していく水音がして。

 そして――


 ――ざばっ! と、何か大量の粉のようなものが落ちる音。


「は?」


 目を上げると、結女は首までお湯に浸かっていた。


「ふー……」


 そう――首まで。

 白く濁ったお湯に。


「気持ちいー……。買ってくれたお母さんに感謝……」


 にゅ――入浴剤!

 窓際に置いてあったやつ! あれをお湯にぶち込んだのか! これじゃあ結女がお湯に浸かっている限り、その肌が露わになることはない――バスタオルよりも強固な防壁だ!


「あれ? どうかした? 水斗?」


 結女は湯船の縁に両腕を出し、その上に顎を置いて悪戯っぽく笑った。


「何か……期待外れ、みたいな顔してるけど?」


 ……おのれぇ、この女……!


「いや……入浴剤って、あんまり使ったことないからさ。物珍しくて見てただけだ」

「そう? それじゃあ――」


 結女はことりと小首を傾げ、


「――一緒に入る?」


 ……調子に乗りやがってっ……!


「い、いや……それは、さすがに……」

「そう。残念。チャンスだったのに」


 平然と言いながら、結女はゆったりと肩を白いお湯に沈める。

 それから、ざぶん、と足の先をお湯から出して、


「あーあ。惜しかったな~。楽ぅ~に私の裸が見られるチャンスだったのにな~」


 ざぶん、ざぶん、ざぶん。

 温泉で遊ぶ子供みたいに、ゆっくりとバタ足をする結女。


「まあ、もし本当に見たかったら……今度は、自分の力で見られるように頑張ってね?」


 ……用意してきやがったな、その台詞。

 自分の力ってなんだよ。脱がしてみろってことか? 舐めやがって……!

 結女はくすくすと笑いながら、上機嫌にざぶんざぶんとお湯を蹴る。


「まあ? あなたも思春期だし? 女の子の裸には興味津々だと思うけど? そう都合良く簡単には見られないってことね。勉強になってよかったんじゃない?」


 ちくしょう、起死回生の策だと思ったのに……。最初から想定済みだったってわけか。これは、準備の量が勝敗を分けた――悔しいが、ここは敗北を認めざるを得ない。


「言っとくけど、私は東頭さんほど無防備じゃないからね。今日が特別だっただけで、普段は下着の一枚だって――」


 ――ズポンッ。

 ……ん?

 今……何か抜けた音が……。


「それにしても、大人しい顔して本当にスケベよね? 普段は女の子になんか何にも興味ありませんーって顔しといて、いざとなったらこれなんだから――」


 結女は機嫌よくくっちゃべっていて、気付いていない。

 気付いていない、が――しかし、確実に。

 結女の身体を覆い隠す、白く濁ったお湯が――減っていっている!


「お、おい! お湯!」

「へ?」


 慌てて指摘したときにはすでに、結女の胸の上半分が露わになっていた。

 ほ、本当に何も着けてない……。


「えっ!? な、なんで……あっ、栓が!」


 膨らみの頂点が見えようとした寸前、結女は慌てて片腕でそれを覆い隠し、もう片方の手で湯船の底を探り始めた。

 たぶん、ざぶんざぶんと湯船の中ではしゃいでいたものだから、手だか足だかが排水口の栓の鎖に引っかかり、勢いそのまま引き抜いてしまったのだ。

 それを元に戻せばお湯の減りは止まる。だけど、


「み、見えない……。栓……栓どこ!?」


 自分がぶちまけた入浴剤のせいで、栓がどこに行ったのかわからなくなったようだった。

 そうしているうちに、湯面はさらに下がっていく。細い腰と小さなへそが露わになり、このままでは、そのさらに下――股間とお尻が見えてしまうのも、時間の問題だった。


 冷静に考えれば。

 この時点で、僕が出ていけばよかったのだろう。僕の視線さえなかったら、お湯がなくなったところで何も問題はなかったのだから。


 しかし、僕もテンパっていたのだ。

 頭が茹だっていたのだ。

 まるでのぼせたかのように。


「馬鹿! 鎖を手繰り寄せろっ!」


 だから思わず、腰を浮かせた。

 湯船の内側に手を伸ばして、その内壁から垂れ下がった栓の鎖を掴んだ。

 身を乗り出して。

 自分の股間を、タオルで覆っているのも忘れて。


「――ぇあっ?」


 瞬間、結女が目を丸くした。

 同時、下半身が涼しくなったことに気付いた。




 そして、時が止まった。




「……………………」

「……………………」


 ジュゴゴゴ、と濁ったお湯が排水口に消えていく。

 結女の胸は、結女自身の手のひらと腕で覆い隠され――露わになった腰回りもまた、きっちり閉じた太腿で致命的な部分を防御していた。

 しかし、椅子から浮かせた、僕の腰回りは。


「――……~~~~っ!!」


 結女は目を逸らすなんて気を利かせたことはせず、見開いた目で思いっきりガン見しながら、茹でたエビのように顔を真っ赤にした。


 それとは真逆に血の気の引いた僕ができたことは、ただひとつ。

 落ちたタオルを拾い。

 それで股間を隠しながら。

 ……背中を丸めて、足早に浴室から離脱することだけ。


 空になった湯船と、丸裸の結女だけを残して、僕は浴室の扉を閉めた。

 そして、機械的にバスタオルで身体を拭きながら、意味もなく天井の換気扇を見上げる。


 ――思い返すのは、結女の姿。

 柔らかな肉に食い込んだ、細い指の隙間。胸を押し潰すようにして隠していた、腕の肉の間隙。そして、ぴっちりと閉じた、太腿の合間の闇――


 それらの記憶を精査して、精査して、精査して。

 結果。

 見えて――


 ――なかった。


 ……僕は、完全に見られたのに。


「…………逆だろ、普通…………」


 漫画のように悲鳴をあげるのは難しいってことを、僕は初めて知った。






◆ 伊理戸結女 ◆


「…………見ちゃった…………」


 お風呂場を出て、寝間着に着替え、自分の部屋に戻り。

 ベッドに身を投げ出して、枕を胸の中に抱き締めながら、私は反芻した。

 目に焼きついた光景。

 はらりと落ちたタオルの向こうから現れた、水斗の――


「見ちゃった、見ちゃった、見ちゃった、見ちゃった、見ちゃった、見ちゃった見ちゃった見ちゃった見ちゃった見ちゃった見ちゃった見ちゃったあ~~っ……――っ!!」


 あれが……あれが、水斗の。

 あんな可愛い顔して。あんな大人しい顔して。あんなクールぶって。あんな……あんなぁ~っ……!

 ベッドの上でごろごろしながら、足をじたばたさせる。

 なんか……なんか、すごい。世界が変わった気がする。だって、だって私、お母さんと二人暮らしだったし。お父さんとは、お風呂とか入った記憶ないし。本当に……本当に初めてだったんだもん。生まれて初めて見たのが、水斗ので……。


「……うぇへ。うへへ」


 あ、まずいまずい。私、今かなりキモい。東頭さんみたいになっている。

 そっかぁ。水斗はああいう感じなんだぁ。え~? 私、大丈夫かなあ? いざそういうことになったとき、ちゃんとできるかなあ? え、え? そういえば付き合ってた頃、一回だけそういうことの寸前まで行ったことがあるけど……あいつ、中学生の私にあんなのを、その、ああするつもりだったわけ? こわっ! 超怖い!


「……はあ~っ……」


 熱い溜め息をついて、このテンションの上がりっぷりを省みる。

 暁月さんもすごいスケベだし、東頭さんは言わずもがなだけど……私も案外、エロいらしい。

 そう。エロいのは男子だけではない。女子もエロいのだ。エロエロな妄想をすることだってあるし、エロいものを見たらテンションが上がってしまうのだ。

 人類皆エロい。

 明日葉院さん辺りには、理解できないんだろうけど。


「(……水斗のエッチ。スケベ)」


 枕に口を当てて、もごもごと呟いて、一人でにへへとにやついた。

 エッチ。スケベ。私といっしょ。

 これから先、あなたがどんなに平静を装っても……私にはもう、通じないからね?

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