きっとあなたが見守っているから③ 好きな人っていうのは、きっと

◆ 伊理戸水斗 ◆


『ふにゃ……』


 五分割されたパソコンの画面の一つで、いさながこっくりこっくりと船を漕いでいた。

 それに気付いた僕は、数学の教科書から顔を上げて、


「いさな」

『ふぁっ……? 起きてまふ……はふー』

「眠いなら寝てもいいぞ。無理して勉強したって、どうせ頭に入らない」

『んにゅにゅ……』


 返ってくる答えすら意味のわからない鳴き声だった。これは本当に限界だな。


『うっほー、やっさしーじゃーん♪』


 茶々を入れてきたのは、途中参加してきた結女の友達の……えーと、そう、坂水麻希だ。まだ覚えてるぞ。

 ショートカットの快活そうな女子は、頬杖を突いてシャーペンをくるくる回しながら、


『伊理戸弟ってさー、いっつもツーンとしてるから、もっと冷たい感じなのかと思ってたらさー、意外と優しいとこあるよねー。特に東頭さんには♪』

「そいつがひ弱だから過保護気味になるだけだよ。あと弟じゃない」

『誕生日が伊理戸ちゃんと同じなんやって? 偶然は重なるもんやなあ』


 のんびりと言いながら、あふ、と小さく欠伸するボブカット女子は……えーと、金井……あ、そうだそうだ、金井奈須華だ。覚えてる覚えてる。

 彼女はただでさえ眠そうな形の目を尚更眠そうに指で擦って、


『あかんわ~……。ウチも限界かもしらん。そろそろ寝よかなぁ』

『えー? じゃあわたしも今日はこのくらいにしとこっかな。まだ一週間もあるし!』


 んーっ! と伸びをする坂水。結女が苦笑いをして、


『そう言ってるうちにすぐ時間なくなるわよ。明日も集合ね』

『へいへーい。りょうかーい』


 そういう流れで、坂水と金井の画面が消える。

 一方で、いさなはすでにカメラの前で机に突っ伏していた。


「いさな。そこで寝るな。ベッド行け」

『みゃーい……』

『東頭さーん? ……ダメだ、聞こえてない』


 ったく、仕方ないな……。僕はいったんマイクをミュートにすると、スマホを手に取っていさなのスマホをコールした。

 画面の中で、いさなが半ば自動的な仕草で横に手を伸ばし、スマホを耳に当てる。


『ふぁい……もひもひ……』

「(――ちゃんとベッドで寝ないなら、何をされても文句は言えないよな?)」

『ふぁひッ!?』


 低い声で囁いた途端、いさなはびくんっと顔を上げた。


「(いい子だ。そのまま画面を落として、ベッドのほうに行くんだ)」

『は、はい……。わ、わかりましちゃ……』


 寝惚けたような調子のまま、いさなの画面が消える。

 それから、僕はスマホ越しに告げた。


「(おやすみ)」

『はうあっ――』


 プチッ。通話終了。


「これでよし」

『何を言ったのよ……』


 恐れ半分、呆れ半分の目で結女が言う。別に。寝ろって言っただけだろ。

 南さんが両手に顎を乗せてジト目を送ってくる。


『伊理戸くんってさあ、どんどん女誑しになってない? 東頭さんがチョロすぎるせいで』

「あいつにしか効かないことくらい、僕にもわかってるよ。でも、基本予測不可能なあいつの行動を制御するには、このくらいしか方法がないんだ」


 あとなんか喜ぶし。


『あの女にエサを与えるんじゃねーよ、伊理戸!』


 南さんの横からぬっと出てきたのは、坂水と金井の前では鳴りを潜めていた川波だった。


『あいつ、どんどん調子に乗んぞ! そのうち付き合ってもねーのに彼女面し始めんぞ!』

「それはもうすでに結構してると思うが――いいんだよ。いさなは冗談と本気の区別がつかない奴じゃない。周りが勘違いしても、僕たちがわかってるなら問題はない」

『そういうもんかなぁ……』


 と憂いを帯びた口調で呟きながら、南さんはぐいっと川波の顔を押し戻した。


『結女ちゃん的にはどう? 東頭さんと友達になってから、なんか変わった感じしない?』

『えっ? ……うーん……。どうかしら。そんなに変わってないような気も……』

『えー? 最初から今みたいな女誑しだったってこと?』


 結女はチラッと、おそらくは僕の顔が映った画面を見て、


『……そうかもね』


 訳知り風に言うじゃないか。

 中学のときだって、別に君を誑したつもりはないぞ。君が勝手に盛り上がっただけで。

 ……そうじゃなければ、今、こうしてあれこれと迷ったりはしない。


『おっ? なら聞かせてくれよ、伊理戸さん! 一体どんな女誑しエピソードが――』

『はいはい! 今日はこれで解散! 私、お風呂入りたいから! じゃあね!』

『あっ、逃げた』


 結女の画面が消えた。すると、川波は今度は僕に、


『なら伊理戸! あんたにもなんか心当たり――』

「じゃあな」

『あっ、おい――』


 通話から抜ける。……藪蛇って言葉を知らないのか、あのデバガメは。






 リモート勉強会がお開きになった後、僕は教科書を持ってリビングに降りた。今日、読み込んでおく分がまだ済んでなかったので、少し休憩を入れて続きをしようと思ったのだ。

 電子ケトルでお湯を沸かし、ティーバッグで紅茶を淹れる。夜にお茶を飲んだら寝れなくなるらしいが、僕は元々夜型なこともあり、あまりカフェインに苦しんだことがない。

 ソファーに座って、熱い紅茶に口をつけ、少しばかり、脳が再起動するのを待つ。それから改めて教科書を開いた。

 そして数分――一ページをめくった辺りで、リビングのドアが開く。


「あ。いたんだ」


 パジャマ姿の結女だった。リモート勉強会でかけていた眼鏡はなく、髪を二つ結びにして肩から前に垂らしている。


「ああ……」


 と答えると、結女はキッチンのほうに足を向けながら、


「お風呂は?」

「もう少ししたら入る」

「ん」


 コップに水を注ぐ音を背中に聞きながら、教科書の文章に集中する。

 程なく、コトン、とコップを置く音がした。それから、足音がゆっくりと近付いてくる。


「ねえ」


 呼びかけられて、僕はようやく顔を上げた。

 結女はソファーの背もたれに身を乗り出して、横から僕の顔を覗き込んでいた。


「少し……ここで、一緒に勉強しても、いい?」


 瞬間、僕の脳には様々な解釈が駆け巡る。

 真っ先に浮かび上がったのは、何かテスト勉強で訊きたいことがある、という説。

 次に浮かび上がったのは、お開きになったリモート勉強会の続きをしたい、という説。

 そしてそして、最後の最後に浮かび上がったのが、もっと単純に、シンプルに、理由もなく必要もなく、ただただ欲求として、僕と一緒にいたい、という――


「……べつにいいけど」


 大量の思考が、その七文字に結実した。

 我ながら、誤魔化すことだけは本当に上手い。

 結女はほっとしたように口元を緩めて、


「教科書取ってくる」


 小走りでリビングを出て、階段を上っていくと、すぐに戻ってきて、僕の隣に座り、教科書や筆記用具をテーブルに広げた。

 そうして、勉強会の続きが始まる。

 さっきのみたいに賑やかじゃない。僕はただ教科書を読むだけ。結女はただノートで問題を解くだけ。特に質問も会話もない。シャーペンが走る音、教科書をめくる音、時計の針が進む音、それだけが静かなリビングに漂っていく。


 僕はときどき、ノートに向かう結女の横顔を、ちらりと覗き見た。

 一学期の中間のときのような、どこか鬼気迫る様子はすでにない。落ち着いた顔で、けれど真剣に、問題と向き合っている。


 ――好きな人っていうのは、きっと、一番たくさん横顔を見た人のことなんだと、思います


 いさなの言葉が、脳裏に過ぎった。

 こうもシンプルに定義づけをされるとどうしようもなく、今、自分がしていることの意味を意識してしまう。ただ横顔を見ているだけなのに、恥ずかしいことをしているような気がして――視線を逸らしたくなるのに、気付けばまた見ている。


 まあ、そういうことなんだろう。

 業腹ながら。不本意ながら。

 ……ああ、くそ。こんな内心でさえ、みっともない誤魔化しだって、わかりやすくなってしまった。


 僕は強く意思を持って、教科書に目を戻す。今はまだ、うつつを抜かしていいときじゃない。無事に中間テストを終えた後――十一月に入ってすぐに、時は来る。

 やがて、時計の短針が12を指した。そろそろ風呂に入らないと冷めるな――そう思って教科書を閉じようとしたとき、結女がこっちを見ているのに気が付いた。


「……どうした?」

「あ、いや……」


 結女はちらちらとこちらの顔を窺いながら、


「あなたって……勉強のときも読書のときも、同じ顔してるんだな……って、思って」


 ――好きな人っていうのは、きっと


 なぜだかまた、いさなの言葉が蘇る。

 その理由を、解釈を、頭の中で連ねようとして、すぐにやめる。

 安易にその先に進んでしまうと、痛い目を見るような気がして。


「……本を読んでるのには、変わらないからな」


 そんな、面白みのない答えを口にした。

 そして、風呂入ってくる、と一言告げて、リビングを後にする。


 ……僕は、怯えているのだろうか?

 当たり前か。

 何せ、今度は失敗できない。

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