4.ファースト・キスが布告する

元カップルは刺激が欲しい。「カッコいいとか言うな」


「ねえ、水斗くん。この本の栞、どこに行ったの?」


 昼下がりに、リビングでだらりと読書しているときだった。

 結女に話しかけられて、僕は仕方なく本から目を上げる。この本、と言って結女が見せているのは、この前僕がこの女から借りたものだ。栞?


「ああ……そういえばあったっけ。たぶん僕の机のどこかにあると思うが」

「ええー? あのごちゃごちゃの机に? なんでちゃんと挟んでおかないの?」

「悪かったな。使わなかったんだよ。あとで探して持っていくから――」

「いま持ってきて! どうせ忘れるでしょ!」

「はあー? めんどくさ……」

「は? あなたが人に借りたものを雑に扱うのが悪いんじゃないの?」

「あー、はいはい」


 僕は溜め息をつきながらソファーから立ち上がった。君の言う通りだよ、わかったわかった。

 さっさと見つけ出して読書に戻ろうと思った僕だったが、リビングを出る前に、僕たちに向けられた視線に気が付いた。

 珍しく二人揃って休日の、父さんと由仁さんである。

 二人はダイニングテーブルに座りながらこっちを見て、おかしさを堪えるような顔をしていた。


「ど……どうしたの?」


 同じくそれに気付いた結女が訊くと、由仁さんがぷすっと笑みを零す。


「いや、その、だって……ねえ?」

「うん。そうだね。わかるわかる」


 くくく、と父さんも小さく肩を揺らした。

 僕も結女も、わけもわからず首を傾げるしかない。今の一幕に、何かおかしいところがあったか……?

 由仁さんがなおもくすくす笑いながら、僕たちに言う。


「今の二人――何だか、倦怠期のカップルみたいだったんだもの」

「「!?」」






 倦怠期。

 というものの存在を、一応、知識としては聞き及んでいる。

 付き合い始めた男女が、一緒にいることに慣れてきて、関係がマンネリ化したり、相手の嫌なところが目についてきたりする時期のことだ。

 場合によってはそのまま別れてしまうこともある、カップルや夫婦の大敵――


「予想外だったわ」


 自分のクッションをぎゅうと床に押しつけながら、結女は言った。

 結女の部屋である。

 想定外の事態に対処するための、緊急対策会議であった。


「この生活にも慣れてきて、ボロが出ることはもうないと思っていたのに……まさか、慣れることが裏目に出るだなんて……」

「倦怠期……考えてみれば、一番本物のカップルっぽい現象だよな。仮に恋人のフリをした偽物のカップルがいたとして、倦怠期までは再現しないだろ」

「別にもうカップルじゃないでしょ、私たちは!」

「そうなんだが、そう見えてしまうことが問題なんだろ」


 もちろん父さんたちも、本気で言ったわけじゃないだろう――僕らが昔、付き合っていたという事実に勘付いたわけではないと思う。

 ただ、4ヶ月にも及ぶ同居生活への慣れから、少々緊張感が緩んでいたことは否めない。

 さっきのだって、『うまくやっている義理のきょうだい』のやり取りではなかったしな――それこそ倦怠期のカップルとか、あるいはリアルきょうだいのやり取りだった。

 まったくの初対面だったにしては慣れるのが早すぎる、と考えられてしまう可能性も、ないとは言えない。


「初心を思い出す必要があるわ……」


 苦虫を噛み潰したような顔で、結女は告げた。


「4ヶ月前――同居生活が始まった頃の緊張感を取り戻すのよ」

「まあ、父さんたちの目を抜きにしても、君、最近ぐだぐだだったからな。当たり前のように夜に通話かけてきたり、油断した格好でリビングに出てきたり」

「ゆっ、油断なんてしてないわよ! 夏だから薄着なだけでしょ!?」


 結女は自分の身体を隠すようにクッションを抱き締めて、ずりっと後ずさる。

 今の結女の格好は大きめサイズのシャツに短めのキュロットで、靴下は暑いからかいつものニーソではなくハイソックスだ。外では意地でも生足を見せないくせに太腿が半分くらい見えてしまっているし、シャツだって大きめなせいで、ちょっと屈んだときとかに襟ぐりがふわりとたわみ、胸元が覗けそうになってしまう。覗いてないけど。覗いてないけどな。

 それに、眼鏡をかけていた。

 普段はコンタクトレンズを着けているんだろうが、夏休みに入って外に出ない日が増えてくると、面倒臭くなったのか眼鏡で過ごすことが多くなったのだ――そうなると、もう、僕としては、どうしても中学の頃のことを思い出してしまって、ひどく精神衛生に悪い。


「……目がエロい」


 眼鏡のレンズの奥から、ジトッとした視線が睨みつけてくる。そう言いながら膝を持ち上げ、太腿を見せつけるようにしてくるのはわざとなのかと言いたいが、ぐっと我慢して目を横に逸らした。


「……とにかく、4ヶ月前ならそんな気の抜けた格好で僕の前に出るなんて有り得なかっただろ。中学時代の気分が抜けたと言えばいいように聞こえるものの……」

「あーもー、ぐちぐちうるさい! 何にせよ、倦怠期を乗り越えればいいんでしょ、倦怠期を!」

「だから、別に付き合ってないんだから倦怠期じゃないだろ。……いや待て。モデルケースとしては使えるか?」

「モデルケース?」

「カップルが倦怠期を乗り越える方法を、僕たちが緊張感を取り戻すのに応用できるんじゃないかってことだ」

「ああ、なるほど……。確かに、何をすればいいかわからないものね……」


 下唇を親指でむにりと押さえ、結女は唸った。


「でも……倦怠期を乗り越えるって、どうやるの?」

「……………………」

「……なんで無言?」

「いや……そういえば僕ら、それができなくて別れたんだったなと思って」

「…………確かに…………」


 まさしく、嫌なところが目に付くようになって、のパターンだった。

 当時の僕たちはそういう名前だと思っていなかったが、去年の夏辺りから続いた半年間こそ、僕たちの倦怠期だったのだろう。

 あまりに何もない期間すぎて、回想のしようもないが。


「こうなったら、先人の知恵に頼るしかないわね」

「先人の知恵?」

「インターネットとも言うわ」

「……君、もしかして、僕と何かあるたびに、ネットの知識で何とかしようとしてたんじゃないだろうな」

「そ……そんなわけないでしょ?」


 目が泳いでいる。通りでたまに変なことしてくると思った。

 結女はいそいそとスマホを手に取ると、「倦怠期。乗り越え方」と音声入力して検索をかけた。恥も外聞もない行為だったが、実際、今の僕らには他に頼るものがない。


「えーと……」


 たちたちと画面を指でタップし、結女の目が上下に動く。


「どうだ?」

「……倦怠期は早ければ付き合い始めて3ヶ月目くらいに来ます」


 ……むしろ一番仲の良かった頃だな。


「倦怠期を乗り越えるには、相手への愛情を再確認することが重要です――だって」


 眼鏡越しの目がちらりとこっちを見る。何を言わせたいんだ。


「御託はいい。具体的手段を示せ、手段を」

「すぐに結論に行こうとする。そういうところが嫌いだったのよ」

「おっ、再確認できてるじゃないか。脱却したんじゃないか、倦怠期」

「倦怠期から嫌悪期に絶賛進化中よ」


 えーと、とまた結女の目がスマホに戻り、


「倦怠期を乗り越える方法その1……普段は行かない場所にデートに行くのが有効です」


 僕らはしばし、沈黙する。

 ……デート。

 父さんたちにカップルに見られないようにするために、カップルそのものの行為をしなければならないとは、これ如何に。


「……どうする?」


 結女はクッションを抱き締め、足を崩して人魚姫のような座り方をして、緩く首を傾げながら、僕を見つめた。


「……する? デート……」


 僕としては、即座に一笑に付してほしかったんだが。

 ……やっぱり、最近ぐだぐだだな。


「…………するにしても、どこに行くんだよ。普段は行かない場所ってどこだ?」

「本屋さんとか、図書館とか以外? ……ああいや、これは中学の頃の話ね」


 確かに中学の頃は本屋や図書館ばかり行っていたが、同居するようになってからは、一緒に行ったことはそんなにない。

 というか、普段行く場所を導き出してからそれを除外する、という考え方で行くなら――


「……家と学校以外ならどこでもいいんじゃないか?」

「……なるほど」


 家でも学校でも一緒のせいで、倦怠期のカップルと言われるほどぐだぐだになってしまったという面は、確かにある。

 ならば、環境を変えてみるというのは、悪くない手段かもしれない。


「ふうーん……なるほど、なるほどー……」


 などと呟きながら、結女はしばらくの間、すいすいとスマホをスワイプした。何のなるほどなんだ、それは?


「……だったら、ちょうどいいかも」

「何がだ?」

「家と学校以外ならどこでもいいんでしょ。ちょうど買いたいものがあったから、ちょっとそれに付き合ってよ」

「買いたいもの……?」


 本以外で? 夏服を買うには遅いし……。

 結女は抱き締めたクッションに顎を乗せて、まるでからかうようににやっと唇を歪めた。


「み・ず・ぎ」






「ちょっと本屋行ってくる」

「おおー。暑さで倒れるなよー」

「行ってらっしゃーい」


 僕の嘘八百を、父さんと由仁さんは欠片も疑わなかった。こういうとき、外出先が限られていると便利だ。

 僕は玄関を出て、家の前の道を少し歩き、最初の角を曲がったところで足を止める。

 あっつい……。

 電信柱の影の中から、ミンミンと蝉の鳴く夏空を見上げた。サウナみたいに籠もった熱が、じわじわと真綿で首を絞めるように僕の体温を上げていく。早くもクーラーの効いた部屋に帰りたくなってきた。

 着替えるから先に出てろと言われたが、あの女、もしや僕を熱中症で殺すつもりじゃあるまいな。


「お待たせ。生きてる?」


 そんな風に思い始めた頃、角の向こうからひょっこりと結女が顔を出した。

 どうせいつもと同じお嬢様ルックなんだろう、と思いながらその姿を見た僕は、一瞬、脳を混乱させる。

 誰なのかわからなかったのだ。


 今日の結女のファッションは、一言で言えば活動的だった。

 上は白いシャツで下は青いデニムのショートパンツ。脚は黒いニーソックスで覆われていた

 驚くべきはその露出度だ。上のシャツは袖が肩を覆うくらいまでしかなく、襟ぐりも深めに開いていて鎖骨の端が覗いている。ショートパンツとニーソックスの間には太腿が覗けていて、ニーソの口ゴムがわずかに肌に食い込んでいるところまではっきりと見えていた。


 しかし、僕にとって何より危険だったのが、首から上だ。

 陽射し避けのためか、頭にはもこっと膨らんだ帽子を被り、鬱陶しいくらい長い黒髪は二つに結んで肩から前に垂らしている。

 それだけでも想起するものがあったのに、極めつけは目だ。

 さっき、部屋で掛けていた眼鏡を、そのまま掛けていやがった。


「くくくっ」


 結女は僕の顔を見ながら、いたずらに成功した子供のように小さく肩を揺らす。


「倦怠期を乗り越える方法その2。サプライズも有効です」


 ぐ、と僕は顔をしかめる。

 やっぱりわざとだったか。

 肩から垂らした二つ結びに、眼鏡――それは丸っきり、中学の頃の綾井結女だった。

 ただ、印象は真逆と言っていいくらい違ったが。


「ま、知り合いに見られたら面倒臭そうだしね。変装ってことで。……あ、そうだ。はい、これ」


 そう言って、結女は青色の野球帽みたいな帽子を差し出してくる。ん?


「あなただって中間で1位取ってから、学校で顔が知られてきてるんだから。これ被ってたら気付かれにくいでしょ?」

「……んな芸能人みたいな」

「夏休み明けに、私たちがデートしてたって噂が流れててもいいなら別に被らなくてもいいけど?」

「……んん……」

「それに」


 僕が許可を出す前に、結女はぽんと僕の頭に帽子を乗せる。


「今日、陽射し強いし。熱中症にでもなられたら面倒だわ」


 帽子のつば越しに見える顔は、僕の後をとてとてついてくるばかりだった綾井結女とは、似ても似つかなかった。

 背が伸びたせいか、雰囲気の違うファッションのせいか。

 あるいは――精神的な成長がそう見せるのか。

 だからって、君の弟になるつもりはないが。


「…………わかったよ」

「よろしい」


 僕は帽子を目深に被る。

 そして出発しようと思ったが、その前に、結女が挙動不審にちらちらと僕を見た。


「なんだ。まだ何かあるのか?」

「ええ、まあ、そのー……あと、ひとつだけ……」


 結女がおずおずと、ショルダーバッグからそれを取り出す。

 眼鏡だった。

 結女はねだるような上目遣いで僕を見つめながら、手に持った眼鏡のつるを開いて僕の顔に近付けてくる。


「変装ってことで……私も掛けてるし……これも……」

「いやだ」

「なんでよーっ! カッコいいのに!」


 カッコいいとか言うな。






 炎天下を何十分も歩くのは耐えられそうになかったので、バスに乗ってデパートを目指した。

 もっと近くにショッピングモールもあるのだが、そこは『普段行く場所』の範疇なので避けた形だ――これはあくまでかつての緊張感を取り戻すための外出である。それを忘れたら、ただ僕が買い物に付き合わされただけになる。


「水着って、君、海にでも行くのか?」


 エントランスに入るなり全身を包んだ冷気にほっと息をつきながら、僕は結女に言った。

 結女はハンカチで首筋を拭いながら、


「別に? そういう計画、暁月さん辺りが立てるかなと思ったけど、ナンパが嫌だからパスだって。まあ遠いしね、海」

「……ふうん」

「安心したかしら、シスコンさん?」


 僕の前に頭を滑り込ませて、結女は下から僕の顔を覗き込む。

 僕は表情を崩さなかったけれど、結女はくすくすとからかうように笑った。

 今日はなんだかマウントを取られがちだな。気を付けなければ。


「それなら、なんで水着なんか必要なんだよ?」


 主導権を取るべく訊き直すと、結女はショウウインドウを見やりながら、


「なんでって、峰秋おじさんに言われたんだけど。お盆に必要になるかもって」

「父さんに? お盆って――ああ、海じゃなくて川か」


 お盆休みには、父さんの田舎に帰省する予定になっている。

 今、住んでいる家は元々、僕が生まれる前に死んだ祖父さんのものだった。だから父さんは生まれも育ちもこっちなんだが、祖母さん(存命)の実家がまた別にあり、僕らは毎年お盆になると、その家に帰省するのが習わしになっているのだ。

 特に、今年は家族が増えたからな――顔を出さないわけにはいくまい。

 その祖母さんの実家というのが『ザ・田舎』で、娯楽と言えば川遊びくらいしかないという、現代の秘境みたいな場所なのである。まあ僕は子供の頃から、もっぱら曾祖父さんの蔵書を漁って過ごしていたけどな――僕が濫読家になった主たる要因と言えよう。

 そのための水着だと思うと、なるほど、東頭や南さんではなく、僕と買いに来るという判断にも肯ける。水着を必要としているのが自分だけでは、買い物にも誘いにくいか。


「華の女子高生が田舎の川遊びのために新しい水着を卸すのか。しみったれてて泣けてくるな」

「何よ。いいじゃない、川。人だらけの海水浴場よりよっぽど楽しそうだわ」

「まあ、それはそうかもしれんが。身内にしか見せないんだったら、去年のを使い回せば充分なんじゃないのか?」

「……それ、嫌味?」

「は?」


 結女はじとっとした目で僕を睨みつけ、片腕でお腹を抱えるようにした。


「去年の私の体型を知ってて言ってるのよね?」

「……あ」


 僕は思わず、本当に他意なく、視線を結女の胸元に滑らせた。

 今こそはっきりとわかるほど白いシャツを押し上げている膨らみは、しかし1年前には存在しなかった。いや、中学3年になった頃から遅めの成長期が来たような印象だったから、去年の今頃には結構あったのかもしれないが――夏休み前に喧嘩した僕には、それを確かめる機会はなく。


「……見過ぎ」


 結女は両腕で胸を隠し、僕から一歩距離を取った。


「何? 今日は発情期なの? 大丈夫? この後、水着選んで試着するけど。襲いかかったりしない?」

「するか。僕がそんな猿みたいな奴だったら、今頃東頭はとんでもないことになってるよ」

「…………。悔しいけど、説得力のある反論だわ……」


 東頭がノーガードな奴で良かったと初めて思った。

 結女は離した距離を元に戻し、


「でも、そういう風に見るのはできる限り控えてよ。今日はあなたにサービスする日じゃないんだから」

「は? サービスになると思ってるのか? 自分の水着が? うーわ。ずいぶんと自信がおありなんですね。尊敬しちゃうなあ~」

「むっっっっっっっっっっっっかつく!!」


 げしっとふくらはぎを蹴られながら、水着売り場までやってくる。

 一番目立つところに置かれたマネキンは、ブラジルのビーチとかじゃないと似合わなそうな大胆なビキニを纏っていた。夏でもニーソを穿いているような露出嫌いが、まさかこんなのを着るとは思えないが……。


「……あの。熱視線を注いでいるところ申し訳ないんだけど……それは無理よ? 無理だからね? お尻ほとんど出てるからね?」

「いや、わかってるよ。誰が君に着せるか、こんなもん。誰が見てるかわからないのに……」

「…………誰もいないところだったらいいわけ?」

「……そうは言ってないだろ」

「ふうーん……」

「なんだ、その意味ありげな目は」

「いえ。そういえば、彼女の一張羅のミニスカートに苦言を呈した人がどこかにいたなーって」


 …………まだ覚えてたのかよ、それ。


「さーて。それじゃ、誰かさんがキモい独占欲に駆られなくて済む程度の水着を探すとしますかっと」

「むっっっっっっっっっっっっかつく…………」


 殺意に近い感情を燻らせながら店内に踏み入った、まさに直後だった。


「何かお探しですかお客様ー?」


 服屋 の 店員 が あらわれた!

 不気味の谷に片足突っ込んでいる完璧すぎるスマイルを顔面に貼り付けた女性の店員が、超音波じみた高音で話しかけてきたのだった。

 もちろん、この人としては店員の本分を全うしているだけなんだろうが、僕にはダンジョンのモンスターにしか見えない。倒すか逃げるか、二つに一つ。

 僕が『逃げる』の選択肢に手を伸ばす半秒前、モンスターに向かって勇ましく一歩踏み出す女がいた。


「ええと、水着を探してるんですけど……」

「水着ですね? ビキニでしょうか? それともワンピース?」

「あ、とりあえずワンピース……露出度ちょっと控えめなほうが」


 言いながら、結女はちらりとこっちを見る。

 瞬間、女性店員はさっさっと素早く僕と結女に視線を巡らせ、にっこーっ! とさらにスマイルを輝かせた。


「ビキニでも、スカート型のものならそれほど気にならないと思いますよ? 彼氏さんも安心だと思います!」

「えっ」


 えっ。


「あ、あの……か、彼氏では……!」

「それではお探し致しますので、サイズのほうお聞かせ願えますでしょうかー?」

「えっ、あっ、さ、サイズ!?」


 結女は少し顔を赤くし、あたふたと僕と店員の間で視線を往復させると、店員の耳元に顔を寄せて、ごにょごにょと耳打ちした。

 店員はうんうんと肯いて、


「承知致しました! 少々お待ちくださーい!」


 素早く店の奥のほうに消えていく。

 結女は赤くなった耳をぎゅうっと手で押さえて、ふうと溜め息をついた。


「へ、変なこと言われて焦っちゃった……」

「君、こういうの大丈夫だったんだな。てっきり苦手なほうだと思ってたけど」

「苦手よ。苦手だけど克服したの。……誰かさんはぜーんぜん気を遣ってなかったけど、女子のほうは、そういうわけにもいかないでしょ」


 僕は否応なしに、初めてこの女の私服を見たときのことを思い出した。

 友達付き合いさえ覚束ない有様だったくせに、初めて見たそれは、驚くほどちゃんとしていた。……あったわけだ、僕の見えないところで、努力ってやつが。

 まあ、今となっては関係のない話だが――


「――ねえ! 見た!? 見た!?」

「見た見た! かっわいーっ! 高校生カップル甘酸っぺー!」

「……………………」

「……………………」


 もっと聞こえないところで話せよ、店員。

 お互い気まずい空気になって、ラックに掛かった水着を眺めたり、通路を行く人波を眺めたりしていると、程なくして、さっきの女性店員が戻ってきた。


「お待たせ致しましたー! ご希望に沿うものを見繕って参りました! もしサイズが合わなければ遠慮なくお申し付けください! あ、試着の際は下着の上からお願い致しますね!」


 女性店員はそう言って一着の水着を結女に渡すと、なぜか僕のほうに意味ありげな目配せを送ってから、カウンターのほうに帰っていった。なんだ、その『頑張ってね』みたいな目配せは。


「えーと……それじゃ、試着してくるけど……」


 水着を手に試着室のほうに身体を向け、結女はちらりと僕を振り返る。


「……見る?」


 いや、見るってなんだよ。


「そんなの、自分で鏡見て判断しろよ」

「じ、自分で水着買うのなんて初めてだから、人の意見を聞きたいのよ!」

「僕の好みを聞いたら、その通りの水着を着てくれるのか?」

「それは……ぎゃ、逆に決まってるでしょ、逆に。あなたが好まなそうな水着を選ぶの」


 なるほどな。だったら安心だな。


「……まあ、この店の中に一人取り残されるのもアレだしな」

「でしょう? あなたに最も似合わない場所だものね」

「おかげさまでな」


 試着室のほうに移動すると、結女はカーテンの中に姿を消し、僕はその前のスツールに腰を下ろした。

 水着か……。中学の頃は水泳の授業があったが、高校にはプール自体が存在しない。だから、この女の水着を見ることなんて金輪際ないものと思っていたが……。


 しゅるっ……ぱさっ。ジイイ――

 カーテンの向こうから、衣擦れの音や服が床に落ちる音、さらにはジッパーを下げる音などが生々しく聞こえてくる。こんな薄いカーテンを一枚隔てただけの場所で、よく服を脱げるものだ――さらには、すぐ近くに僕がいるって言うのに。

 着替え途中の結女に遭遇する、といういかにもありがちな事態は、幸い、まだ一度も起こしていない。まあ正確に言うと、風呂上がりのこの女に遭遇したことはあったのだが――

 そのとき不覚にも目撃してしまった、真っ白な肉感ある曲線が脳裏に浮かんできて、僕はすぐに打ち消す。

 中学生か。

 もう4ヶ月も同居しているんだぞ――今更この程度で意識するな。


 心頭滅却していると、衣擦れの音がなくなった。

 十何秒かの間の後、カーテンが少しだけ開かれて、結女が顔だけを出す――眼鏡は掛けたままだった。


「どうした?」

「いえ、その……ま、周りに誰もいない?」


 結女はきょろきょろと辺りを見回す。店の外の喧騒が届いてはくるが、周りには僕ら以外には誰もいない。カウンターのほうから店員の視線を感じるくらいだ。それにしたって、角度的に試着室の中には届くまい。


「誰もいないぞ。というか、その水着、外で着るんだろう。試着で恥ずかしがっててどうする」

「うっ、うるさいわね! こんなに肌を出すの初めてで……というか、冷静に考えたらこれって下着と変わんないような気がして……」

「もじもじすればするほど誰かに見られる可能性が上がるぞ」

「急かさないでよ! そんなに見たいわけ!?」

「嫌なことは早めに済ませる派なんだ」

「このっ……! ほ、吠え面かくわよ!」


 シャッ! と勢いよくカーテンが引かれる。

 まず、純白のスカートと、そこから伸びる白い太腿が見えた。

 視界の上端に見切れたお腹に視線を上げれば、不安になるほど細い腰の真ん中に、小さなへそが空いている。

 さらに目を上げると、花柄の白い布地があった。二つに結んだお下げが、細身の割に大きな膨らみに沿うように流れ、肋骨の辺りに影を作っている。

 そして最後に、何か我慢するように唇を引き結んだ顔を見た。

 見覚えのある眼鏡と、視界の下に見切れる谷間とがコンフリクトを起こして、ちかちかと目が眩んだような気がした。


「……どう?」


 もじ、と太腿を擦り合わせながら、結女は眼鏡越しに視線を送ってくる。

 その懐かしい顔と、最低限の布地に覆われた体型とが、僕の中で一致しなかった。綾井は、間違ってもスタイルのいいほうじゃなかったのに。キスしたり抱き合ったりして、多少興奮してるときですら、胸やお尻に触ろうなんて一度も思わなかったんだぞ? なのに、こんな、馬鹿な……!


「……えーっ……と……」


 脳がまともに言葉を紡ぎ出すのに、何秒もかかった。


「……いいんじゃないか。たぶん」

「だ……ダメよ、そんなんじゃ。もっとちゃんと褒めて」

「ちゃんとって言われても……」


 結女は試着室の壁際に置いたバッグをごそごそ漁ったかと思うと、スマートフォンを取り出して、その画面を僕に突きつけた。


「倦怠期を乗り越える方法その3。相手のいいところを探して褒めましょう」

「ぐっ……!」


 よもや、ここまで計算済みか!

 これを拒絶してしまうと、この外出自体の意義が破綻してしまう。急に買い物に付き合えなんて言い出したのも、こうやって僕を辱めるためだったのか……!

 結女は勝ち誇るように薄く笑う。


「さあ、どうしたの? 私のいいところ、教えてよ、水斗くん」


 僕は改めて、白いビキニに身を包んだ結女を見た。

 スカートタイプのボトムから伸びる脚は、細いだけじゃなくて長い。無駄な肉が少しもなく、その上、本当に毛穴があるのかと思うほど真っ白で、きっとこの脚を羨む女性は世にいくらと思える。

 その足と三角形を描くようなお尻の曲線を経て、今度はきゅっと引き締まった腰だ。女子の腰って、なんでこんなに細いんだろう。ウエストサイズ自体は中学時代とさして変わっていないはずなのに、その上の胸やその下のお尻との対比で、手折れそうなほど細く見えてしまう。

 そして、中学時代との最大の違いである、胸だ。

 水着にそういう機能でもあるのか、あるいは着痩せするタイプというやつなのか、いつもより大きく見えた。はっきり谷間と言えるものを作り、お下げ髪を川のように流れさせて……手のひらに、ギリギリ収まらないくらいか。中学の頃は抱き合うとお互いの身体がぴったりとくっついたものだけど、いま同じことをしたら、お腹の辺りに隙間ができるだろうな……。


 こんなもん、どこを褒めてもセクハラにしかならない。


 僕は主張の大きい胸やくびれた腰、長く細い足を努めて意識から叩き出し、当たり障りのない答えを探す。見た目……見た目以外ならどうだ……!?


「か……」


 僕はようやくの思いで言葉を絞り出した。


「……家族思いなところ、……とか」

「えっ」


 結女の顔が硬直する。

 目の動きが止まり、口が半開きになり、頬がひくっと動く。

 かと思うと、目があちこちに泳ぎ出し、口がぱくぱくとして、頬が両手で押さえつけられた。


「なっ……なんでこの状況で、内面の話……?」

「し、仕方ないだろうが! 水着姿のいいところ探しなんてしたら、僕が社会的に死ぬ!」

「えあっ……!?」


 瞬間、結女は顔を赤くすると、お腹と胸を腕で隠しながら、試着室の後ろの壁に背中をぶつけた。


「えっ……エロっ! ムッツリスケベ! み、水着のデザインを褒めてくれればそれでよかったのよ! 色がイメージに合ってるとか! そういう! そういうの!」

「…………そっちだったか…………!!」


 痛恨の至りだった。水着を選んだのは店員だから、水着そのものを褒めるのは選択肢から外していた。

 結女はカーテンで身体を隠して、顔だけ出して僕を睨めつける。


「……あなたが普段、私をどんな目で見てるのか、よくわかったわ」

「見せびらかしたのはそっちだろうが!」

「別に、かっ、身体を見せたわけじゃないし! ……っていうか、そっちじゃなくて……」

「は?」

「なんでもない!」


 結女は顔を引っ込めると、ごそごそとカーテンの中で着替え始めた。

 僕は納得いかない気持ちになって、自分の膝で顎杖を突く。

 せっかく言ってやったんだから、褒め言葉に注文をつけたりするなよ。大体、なんで僕ばっかり……。


「おい」

「んえっ? ちょ、ちょっと今、着替えてるんだけど……」

「お互いに緊張感を取り戻すためのいいところ探しだろ。だったら僕にばかり言わせてないで、君も何か褒めてみろよ」

「へっ?」


 着替えの音が止まる。

 しばらく、デパートの喧騒だけが辺りを満たした。


「な……なんだかんだ言って、ちゃんと最後まで付き合ってくれるとこ、……とか……」


 か細い声が、喧騒に紛れながらも、はっきりと僕の耳に届く。

 僕は顎杖を突いた手で、口元を掴むようにした。

 そっちも内面の話かよ。

 てっきり『眼鏡が似合うところ』とか言ってくるかと思いきや……。


「あー……なるほど。君は普段、そういう目で僕を見ているわけだ」

「そ、そういう目ってどういう目よ?」

「それは、まあ……扱いやすい便利な奴とか?」

「あなたが扱いやすかったら全人類扱いやすいことになるわよ!」


 否定するなよ。気の利かない奴め。

 もう僕は、それっきり黙って、結女の着替えが終わるのを待った。

 水着になるときに比べるとずいぶん長い時間がかかって、試着室の中から結女が出てくる。


「この水着……買ってくる」

「気に入ったのか」

「まあね。そうよ。気に入ったから。私が」


 私が、ね。もちろんそうだろう。

 結女と一緒にレジに行き、さっきの店員に水着を渡すところを見届ける。その際、水着についていたタグが目に入ってしまった。

 9M、と書いてある。

 ……9M……。

 未知の度量衡に遭遇した僕は、知的好奇心に導かれるままスマホを取り出した。9M、9M――トップ83センチ? C、Dカップ……ふうん……。


「(あの、すみません)」


 結女がカウンターに身を乗り出して、店員に小さく話しかけるのが聞こえた。


「(胸が少し苦しかったんですけど……)」

「(あれ、そうですか? じゃあお聞きしたサイズより大きくなられてますね)」


 ………………………………………………………………。

 僕が無我の境地に達しているうちに、女性店員が営業スマイルを超えたニコッニコの笑顔で「ありがとうございましたー!」と言っていた。

 結女が店員から水着の入った袋を受け取るのを見て、僕は手を差し出す。


「ん」

「……え?」

「貸せ。僕が持つ」


 結女は胸に抱えた袋を見下ろして、


「ど……どうしたの? なんでいきなり紳士になったの?」

「警戒するな。単にバランスの問題だろ。君はすでにバッグを持ってるけど、僕は手ぶらだ」

「あっ……」


 面倒臭いので、一方的に袋を奪い取った。中身は水着一着だ。重さはないに等しかった。

 僕が先に歩き出してショップを出ると、結女が隣に追いついてくる。

 そして、空白になった自分の手と、袋を持った僕の手を頻りに見比べた。


「……バランスか」

「どうした」

「いえ、その……なんていうか……あなたは、自分と私のことを、ワンセットのものとして認識してるんだな、と思って……」

「……………………」


 僕はしばし、言葉を選ぶ時間を取った。


「……当たり前だろ。こうして一緒に歩いてるんだし……義理とはいえ、きょうだいっていう肩書きで一括りなんだから」

「……それだけ?」

「それだけだ」

「そうよね。……そうよね」


 夏休みのデパートは人が多い。はぐれる危険だってあったが、僕もこいつも、手を繋ごうとはしなかった。それが必要とは、思えなかった。

 確かに、これは再確認だ。

 僕がこの女を、この女が僕を、どう思っているかということの。


「用は済んだし、帰るか」

「そうね。帰りましょうか」

「これで緊張感は取り戻せたか?」

「まあ、あなたが私をスケベな目で見てるってことがわかったしね」

「……だから、それは君が見せびらかすせいだろ」


 くすくす、と密やかに結女は笑う。

 横を向くまでもなく、僕には彼女がどんな顔をしているのかわかった。緩く握った手を口元にやり、ちらりと僕のほうを見ながら、柔らかに口角を上げているのだ。


 恋人になって。

 きょうだいになって。

 もう僕は、この女の顔を知りすぎている。

 そりゃあ倦怠期にも見えるだろう――手を繋ぐどころか、顔を見る必要さえないっていうんだから。


 その声が、姿が、存在が。

 隣に在ることが――あまりにも、当たり前だった。


 店員にカップルと呼ばれても、父さんたちと食卓を囲んでも、たぶんそこは、何も変わらない。


「帰り、本屋寄ってく?」

「そうだな。帰省中に読む本も欲しいしな」

「田舎を満喫する気ゼロすぎるでしょ」


 そうして僕たちは、手を繋がずに歩いていく。

 ――僕は、それでいいと思ったんだ。






 夕方くらいになって、僕たちは家路についた。

 よく晴れた夏空が、真っ赤な夕焼けに染まっている。道を阻むように横切る電信柱の影を、僕らはひとつ、またひとつと跨いでいく。


「家を出るとき時間をずらしたから、帰りもずらしたほうがいいか?」

「別にいいんじゃない? 帰りにたまたま一緒になったって言えば」

「……確かに、あんまり意識しすぎるのも嘘くさいか」


 人で溢れていたデパートとは対照的に、辺りにはまったく人気がない。

 道の両脇に軒を連ねる家々から、子供の声や夕食の準備の音が漏れ聞こえるだけで、アスファルトの地面に落ちる影は、僕と結女の二人分。

 まるで誂えたようなロケーションに、性懲りもなく蘇ってこようとする記憶を、僕は脳の深奥に押しやった。


 必要ない。

 必要ないんだ、もう、それは。


 僕たちはこのままやっていける。すべては時間と慣れが解決した。中学時代の黒歴史になんて振り回されず、今の僕たちなりに、もはや新しいとも言えない日常を過ごしていける。

 きょうだいになって4ヶ月。

 戸惑いの時期は過ぎ去った。

 僕たちは元カップルのきょうだいだ。しかし、過去は過去、今は今であって、決して混じり合うことはない。二つの肩書きは問題なく両立し、一方が一方を侵蝕するようなことは決してない。


 僕は、それがわかっていた。

 ――わかっていたのに。


「あ」


 結女が、不意に立ち止まって。

 僕との間に、一歩分の距離ができる。


「ここ……」


 そこは、分かれ道だった。

 今となっては滅多に通らない、中学の頃の通学路。

 そして――




 今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないが、僕には中学2年から中学3年にかけて、いわゆる彼女というものが存在したことがある。




 夕暮れに染まる通学路。

 僕と彼女の家にそれぞれ向かう分かれ道。

 ほんのりと赤らんだ綾井の顔。

 唇に残る柔らかな感触。


 次々とフラッシュバックする記憶が、目の前の風景と一致した。


 眼鏡にお下げの結女が、記憶より少し近い位置から僕の顔を見上げる。

 そのとき、涼しい風がびゅうと強く吹き、もこっとした結女の帽子が飛びそうになった。


「「あっ」」


 僕は慌てて手を伸ばす。

 結女も慌てて手で押さえる。

 結果、僕たちの手が重なった。


「……………………」

「……………………」


 今日、初めて触れる、滑らかで冷たい感触に、指先からビリビリと刺激が走った気がした。

 気がしただけだ。

 すべては錯覚。一時の気の迷い。そうだ、ほんの5ヶ月ほど前、僕はそう悟ったはずじゃないか。

 だけど、ああ――こうも思った。

 再婚の話を切り出した父さんに――人間というものは、この歳になっても気を迷わせることをやめられないらしい、と。

 だったら、まだ高校生でしかない僕たちは――


 きゅうっと、結女が僕の手を握る。


 握る必要のないはずの手を、強く強く、繋ぎ留めるように握って、帽子から下ろす。

 それから、もう片方の手で、帽子を取った。

 よく見えるようになった顔が、夕焼けの赤に彩られて、何かを待つように僕を見つめていた。


「……倦怠期を乗り越える方法、その4」


 そして、将棋で王を追い詰めるように、言い訳を付け加える。


「想いを行動で伝えましょう」


 そんなことは簡単だ。

 僕らは何度も、何度も、何度も何度も何度も、数えきれないくらい、それをしてきたんだから。

 逆に言えば……1年前は、それをしなかったから、そのままぐずぐずになって、破綻した。


 結女は、そっと瞼を伏せる。

 あとは僕が、一歩だけ近付いて、少し腰を屈めるだけ。

 簡単なことだ。

 本当に簡単なことだ。




 1年前なら、本当に簡単だったんだ。




「――痛たっ!」


 僕がデコピンをしてやると、結女は目を白黒させながら額を押さえた。


「なっ……何するのよ!?」

「倦怠期を乗り越える方法その2、サプライズも有効です――だろ」

「んなっ……!」


 結女は耳を赤くしてぷるぷる震える。

 そんな義妹を捨て置いて、僕は自宅を目指して歩き出した。


「あなたっ……い、今のは完全にっ……!」

「注文通りだろ。想いを行動にして伝えたんだ」

「私にどんな感情を抱えて生きてるのよ!?」


 わかるか、そんなこと。

 ただ……僕は、思っただけなんだ。


 1年前なら仲直りだが、今それをするのは、ただ未練に引きずられただけだと。


 全部なかったことにすることはできない。

 半年にも渡った倦怠期も、別れるという決断も、義理のきょうだいになったことも。

 東頭いさなをフッたことも。

 何もかもをなかったことにして、1年前に戻るなんてことはできないんだ。


 僕には、未練なんてない。

 東頭いさながフラれたのは、僕が元カノへの未練を引きずっていたせいなんかじゃない。


 昔のことを回想する必要なんて、もうどこにもない。


 そのはずだ。

 そのはずだ……。


 僕たちは同じ家に帰る。

 なぜなら、同じ家に住む家族だからである。






「水斗くん。これ、昨日借りた本」

「ああ……どうだった?」

「面白かった。キャラ小説かと思ったけど、謎解きがすごくしっかりしてて」

「ああ。結女さんの好みだと思った」

「うん。……えっと」

「……………………」

「また、何か面白そうな本があったら……」

「ああ、うん、もちろん」


 僕たちは緊張感を取り戻した。

 昨日までのぐだぐださはなりを潜め、実に日の浅い義理のきょうだいらしい、微妙な距離感を思い出すことに成功した。

 おかげで、両親から倦怠期のカップルなどという不名誉な呼ばれ方をすることもなくなった。

 なくなった――のだが。

 父さんが言う。


「なんかよそよそしくなってないか?」


 由仁さんが続く。


「今度はプロポーズの時期を見計らい始めたカップルみたい」


 笑い含みの発言に、結女がぷるぷると震えて、座っていたソファーから勢いよく立ち上がった。


「あーもうっ! どうしたらいいのよっ! お母さんたちがいろいろ言うせいでわかんなくなっちゃったじゃないっ!!」

「あははは! ごめんごめん。結女が男の子と仲良くしてるのが未だに珍しく見えちゃって」

「練習だよ、練習。ウチの親戚たちに会ったらもっとからかわれるぞー? 水斗に女の子のきょうだいができたと言ったら、恐ろしく色めき立っていたからね」

「……行きたくなくなってきた……」


 結局のところ、僕たちが過敏に反応してしまっただけで、二人はただのジョークのつもりだったらしい。

 人騒がせな、と言いたいところだが、何事もないならそれが一番という考え方もある。

 父さんたちがジョークを言えるうちは、僕たちも家族でいられるのだから。


「どうかしたの?」


 結女が不思議そうな顔をして、僕の顔を覗き込んだ。

 今日は懐かしい眼鏡はない。

 だから昔のことを思い出しはしなかったけれど、代わりに昨日見た水着を思い出した。


「……いや」


 僕は本に視線を落とす。

 どこまでが昔で、どこからが今なんだろうな。

 わからないよ。本当に。……まったく。

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