元幼馴染みは寂しがる。「……今更、あんたなんて要らないっつの」


 返す返すも背筋の凍える事実だけど、あたしには中学3年の頃の一時期、いわゆる彼氏ってものが存在したことがある。

 物心ついたときからの幼馴染み――まさしくきょうだい同然の、一緒にいるのが当然みたいな相手だった。


 ねえ、お兄ちゃんに恋したことはある?

 弟に焦がれたことは?

 まあ、きっと世の中にはいるんだろうけど、どちらかと言えば、たまに会う親戚に初恋した人のほうがずっと多いだろう――そう、人は、いつも一緒にいる人間よりも、たまにしか会えない誰かに恋い焦がれるほうがずっと多い。


 だからあたしにとっても、あいつは恋愛対象なんかじゃありはしなかった。

 ――あのときまでは。






 鍵っ子、という言葉が、昔はあったらしい。

 曰く、自宅の鍵を持たされている、学校から家に帰っても誰もいない子供のこと。

 子供が家の鍵を持っているのなんて当たり前で、家に誰もいないのも当たり前なのに、昔はわざわざそうして呼び分けるくらい、少数派だったんだそうだ。


 当時、小学生のあたしは、いつものように自分で鍵を開けて、自宅の玄関に入った。

『ただいま』を言うことはない。

 言う相手がいないんだから、それは当たり前のことだ。

『さよなら』さえ、この日は言わなかった。

 言う友達がいないんだから、それも当たり前のことだ。


 自白するけど、あたしは依存心が強いタイプだ。

 一度人と仲良くなるとべったりで、何につけても離れられなくなってしまう。少し距離を取られただけで不安になって、ウザったらしく絡むようになってしまう。まさにこの前、結女ちゃんにやってしまったように。

 この頃はまだその自覚が薄くて、抑えが利いてなくて……だから、みんなに距離を取られて。一緒に下校する友達さえいなかったのだ。


 ランドセルをリビングのソファーに下ろし、ダイニングテーブルを見ると、『晩ごはんは冷凍庫にあります』という書き置きがあった。なので冷凍庫を開いてみれば、冷凍食品の山があたしを出迎える。いつも通りの、選り取り見取り。

 この生活を悲しいと思ったことはない。

 とっくに慣れていたし、これが当たり前だと思っていた。

 ただ……ときどき。


 ――……今日は何、食べよっかなー


 呟いてみた独り言に、誰の返事も来ないことに……どうしようもなく、泣きたくなることがあっただけ。


 あたしはソファーにぼふっと座ると、リビングテーブルに置きっぱなしにしてあるタブレットPCを手に取り、動画サイトを開く。お気に入りの投稿者の新作動画を見て、脚をバタバタさせながらけらけら笑う。

 これがあたしの、いつもの放課後だった。


 ――……ましまーす

 ――お邪魔しまーすっ!


 そんなとき、隣の部屋からがやがやと声が聞こえてきた。

 こーくんの家だ。

 こーくんは人気者で、友達がたくさんいるから、よくお家に友達を連れてくる。親が滅多にいなくて、Wi‐Fiが飛んでて、ゲーム機もたくさんあるこーくんの家は、男子たちにとって恰好の溜まり場なのだった。


 別に、この時点であたしとあいつが疎遠になってたってわけじゃない。この頃でも、晩ご飯を一緒に食べたりは普通にしてたし……ただ、あいつが生粋の陽キャで、友達100人野郎だったから、あたしと一緒にいる時間が減ったってだけ。

 あたしはただ、仕方がないかなあ、と思っていた。

 だって、新しい友達と遊ぶあいつは楽しそうだったし――他の友達みたいに、こーくんにまでウザがられたくなかったし。


 こーくんみたいに、友達をたくさん家に呼んだら、楽しいのかな?

 どうなんだろう、とあたしは想像した。あたしは空気が読めなくて、雰囲気を変にしちゃうから、案外一人のほうが楽しいかもしれない。

 こうして、動画配信者が猫と戯れる動画を何度も見てたって、一人なら誰にもおかしく思われないし。

 

 ――川波さあ、南と付き合ってんのー?


 からかうような大きな声が、突然壁の向こうから聞こえて、どきんと心臓が跳ねた。

 そういう時期だった、ってことなんだろう。

 知識がついて、マセ始めて、ただ男子と女子が一緒にいるだけで囃し立てられる、そういう時期に入っていたんだろう。

 なのにこーくんはあたしとの距離感を変えたりしなかったから、それは必然の質問だった。

 あるいはあたしが聞いたのが初めてというだけで、こーくんは何度も何度も訊かれていたことなのかもしれない。

 どう答えるんだろう、とあたしは思った。

 あたしは別に、こーくんのカノジョなんかじゃない。たとえ冗談でも、そんな風に言われたら困る。だって、こーくんは人気者だから、あたし、チョーシに乗ってるとか言われて、いじめられちゃうかも……。

 今にして思うと、なんて浅はかだ。

 自分のことしか考えていない。自分の都合しか気にしていない。

 こーくんのほうは――あんなにも真摯に、あたしのことを考えてくれていたのに。


 ――はあー? だからそんなんじゃねーって

 ――カノジョなんかより、あいつのほうがおもしれーもん


 聞いた瞬間、全身が固まった。

 何も考えられなくなって、心臓がばくばく鳴る音だけが、耳の中でいっぱいになった。


 ――だから、好きってことなんじゃねーのー?

 ――ちーげーえって! そんなしょーもねーのと一緒にすんな!


 そんな声が、右から左に抜けていく。

 動画は、いつの間にか知らないものに切り替わっていた。

 タブレットPCが床に落ちる。

 あたしはそれを拾いもせず、ふらふらと自分の部屋に行って――

 ばふん、とベッドに倒れ込んだ。


 ――~~~~~~~~っっ!!!!


 枕を胸に抱き締めて、脚をばたばたさせる。

 走ったみたいに熱くなった顔を、ずっとドクドク言ってる胸を、ぐるぐると身体の中を回る熱を、どうやって治めればいいのか、全然わからなかったのだ。


 からかわれるに決まってる。

 鬱陶しいに決まってる。

 嘘をついて誤魔化したって、文句なんか言いやしなかった。


 それでも、こーくんは、あたしがいいって言ってくれた。


 売り言葉に買い言葉だったのかもしれない。

 ただ反射的に言っただけだったのかもしれない。

 よく考えたら意味わかんないし。何? 彼女より面白いって。

 ……でも。でも。それでも。

 このときのあたしは、どうしようもないくらい、、嬉しくて嬉しくて嬉しくて。


 ああ……そうだ。

 たぶんこのとき、あたしの中の大事な部品が、ぶっ壊れたんだろう。


 ――ああ、でも、困ったなあ。困ったなあ

 ――これじゃあ、こーくん、ずっとカノジョできなくなっちゃう

 ――あたしのせいで。かわいそうだなあ……

 ――……あ、そっか

 ――もしこーくんが、カノジョが欲しくなったら……


 ――そのときは、あたしがなってあげるしか、ないんだね


 こうして、地獄の種が芽吹いたのだ。




※※※




「んああああああ~~~~~~~~」


 夏休みが始まった。

 なので、あたしは自分の部屋のベッドで枕を抱き締めてゴロゴロしていた。


「結女ちゃんんん~~~~~~~~」


 あたしは、何も心配していなかったのだ。

 学校が休みになっても、遊びの予定を立てれば結女ちゃんとはいつでも会える――そうたかを括っていたのだ。

 けれど、結女ちゃんはあたしの想定以上に真面目だった。

 宿題を早めに片付けるからと言って、7月中には遊ぶ予定を入れなかったのだ。

 そういうとこも好きだけど、結果、あたしはお預け状態。結女ちゃん欠乏症に陥ったのだった。

 こういうとき、同じ屋根の下に暮らしている伊理戸くんが心の底から恨めしくなる。なった。なったので、今日もLINEで絡むことにした。たちたち。既読すら付かないけどあたしはめげないよ。


 そうして日がな一日過ごしていたんだけど、お昼前になって、ピーンポーン、とインターホンが鳴った。

 マンションのエントランスのほうじゃない。ドアの前にあるほうのインターホンだ。このマンションはオートロックだから、同じ階のご近所さんか何かだろう。

 正直めちゃくちゃ面倒臭いけど、一応は留守を任されている身だし、完全無視ってわけにもいかない。


「はいはーい」


 あたしは脱ぎ散らかした服を乗り越えて玄関に移動すると、覗き穴も見ずに、ガチャリとドアを開けた。

 ドアの向こうには、ご近所さんがいた。

 それも、一番見慣れた、そして一番見たくないご近所さんが。


「よう」


 そう言って軽く手を挙げたのは、隣の部屋に住む同い年の男子である。

 つまるところ、川波小暮である。


「……………………」


 あたしは無言でドアを閉じようとした。


「おっと。そうは問屋が卸さねえ」


 けど、あたかもセールスマンのように、川波はドアの間に靴を挟んできた。

 あたしは気色悪いニヤケ面を死んだ目でじろりと見上げる。


「……何の用なの。女子の家に勝手に入ろうとしないでほしいんですけど。警察呼ぶ?」

「オレだって来たくて来てんじゃねーよ。おばさんから頼まれたんだ。しばらく帰れてないから様子見てくれって。お前、家事スキルあるくせに使わねーから、休みに入ると生活荒みがちだろ」

「……べつに荒んでないし」

「その格好でよく言えたな。頭ボッサボサだしシャツはくったくただしよく見るとブラジャーもしてねーし。あ、最後のは別にいらねーか」

「誰かぁーっ!! 助け――」

「うるせー近所迷惑! もうご近所さんには嘘だってバレてんだよその手は!!」

「むごががが!」


 川波はあたしの口を手で塞いで、そのまま玄関に押し入ってくる。まるっきり犯罪者なんですけど。とりあえず股間蹴っとこ。

 バシッ! 硬い感触が足に返った。


「残念だったな。ガード済みだ」

「むぐぐぐ……!」


 同じ手はそう何度も通用しないということか。小癪なり。

 ドアの外に押し返すのも面倒だったので、あたしは玄関からリビングに戻る。


「様子見に来たんだね。はいはい。見たければ勝手に見ていけば?」

「そうさせてもらうぜ。……うわっ」


 あたしに続いてリビングに入った途端、川波は猫の死体を見つけたような声を漏らした。


「めちゃくちゃだなこりゃ。カップ麺の容器くらい捨てろよ」

「うるさいなあ……」


 あたしは床に転がっていたお菓子の箱を蹴飛ばして、ソファーにごろんと寝転がった。

 昔はあたしが世話する側だったのに、調子に乗ってさあ……。

 ま、使えるものは使えばいいか。今は掃除する気力もないし。

 川波がゴミ袋を持ってきて、床のゴミをぽいぽいと放り込んでいく。ゴミ袋の場所くらい、別に教えなくても知っているのだ、この男は。

 あたしは引き続き、ソファーの上にうつ伏せになって素足をぱたぱたさせながらスマホをいじっていたのだけど、そんなあたしの姿に、ふと川波が呆れた視線を寄越してきた。


「お前さあ、少しは視線気にしろや」


 今日のあたしはオーバーサイズのシャツ一枚だ。そう、一枚。下にはパンツを穿いてるだけ。ぶかぶかのシャツがワンピースみたいになるので、部屋の中ならこれで充分なのだ。楽だし。涼しいし。こいつ相手に格好を気にしてもしょうがないし。

 ところが川波さんちの小暮くんは、シャツの裾から伸びる太腿と、見えそうで見えない裾の中身が気になってしょうがないらしい。はっはーん?


「ごっめんねー? あたしの美脚でムラムラしちゃった? つらいならとっとと帰ってスッキリしてきていいよ?」

「はっ、そうだな。今日は巨乳の気分だぜ」

「ぶっ殺すぞ!!」


 クッションを投げつける。川波はあっさりと受け止めてソファーの上に投げ返し、あたしが脱ぎ捨てた服を拾い集め始めた。


「うえっ。リビングにパンツ転がしてんじゃねーよ」

「盗まないでよね。今、ちょっとパンツ足りないんだから」

「太ったのか?」

「洗濯してないからに決まってんでしょ!」

「どっちにしろ褒められたことじゃねーよ」


 スマホをいじるのにも飽きてきて、あたしはだらっと横向きに寝っ転がりながら、せっせと部屋を片付ける川波を眺める。


「あんたってさー」

「あん?」

「自分のことは無頓着なのに、他人のことになるとお節介になるよね」

「人のこと言えるかよ。見えてねーのか? この無頓着が具現化したような部屋が」

「伊理戸くんのこともそうだし」

「東頭のこともそうだろ。聞いたぜ、あれこれと入れ知恵をしたらしいじゃねーか」

「……やっぱり、同じ環境で育つと性格も似るのかな?」

「は? オレとお前が?」


 川波はふっと鼻で笑った。


「嫌がらせだとしたら大成功だぜ」


 ……まあ、実際のところ、あたしとこいつは似ていない。兄妹のように育った割には、皮肉なくらいに。あたしは根が陰キャだけど、こいつは根っからの陽キャだし。


「はー、ムカつく」

「ぶつくさ言うんじゃねーよ。最低限見られるようにしたら出てくっつの。今日は予定があんだよ」

「ええー? 何? 彼女でもできた?」

「それは煽ってんのか? 煽ってんだな?」


 あたしはふっと笑う。

 こいつを彼女のできない身体にしたのは……何を隠そう、このあたしだ。


「昼から客が来るんだよ。ま、うるさくはならねーだろうから安心しろ。相手が相手だしな」

「ふーん。大人しい子なんだ」

「ああ。お前もご存知の通りな」


 意味ありげに唇を歪ませ、川波は言った。


「伊理戸くんちの水斗くんだよ」






 あたしもそっち行くと言ったら拒否られた。

 まったくつまらない。あたしが目の前で伊理戸くんを押し倒したらこいつがどんな顔をするか見たかったのに。まあ伊理戸くんには顔色一つ変えずに押しのけられそうだけど。あまりに脈がなくて泣けてくる。嘘だけど。

 やっぱり東頭さんを推すほうがいいのかなあ。それで結女ちゃんをフリーにしたとして、あたしはどうしようかなあ。あー、結女ちゃんに添い寝してほしい……。


 つれづれとそんな思考を巡らせていると、外の廊下から話し声が聞こえてきた。

 どうやら、伊理戸くんが来たらしい。

 声は隣の部屋に移動したけど、ぐぐもっていてはっきりとは聞き取れない。まあ、昔に比べたら多少マシになったしね、防音。


 伊理戸くんが遊びに来るなんて、珍しいこともあるものだ。

 目的が気になったけど、あいつは教えてくれなかった。あたしだったら、結女ちゃんがいる家を出てわざわざあいつの部屋に行くなんて考えられない。絶対、何か目的があるに違いない。


「――――、――」

「――、――――」


 耳をそばだててみたけど、やっぱり声がかすかに聞こえるだけだ。

 何を話しているんだろう? 中途半端に声だけ聞こえるもんだから、俄然気になってきた。


「……ええと、確か……」


 あたしはのそりと起き上がると、自分の部屋の押し入れをごそごそと漁る。ここはもう使わなそうなものを突っ込んでおくガラクタ入れなんだけど、確か、アレはここに入れておいたはず――


「あったあった」


 ガラクタの底から引っ張り出したのは、箱状の機械からイヤホンと聴診器のようなパーツが伸びたものだった。

 コンクリートマイクである。

 壁に響いた振動を読み取って、壁の向こう側の音を精細にキャッチできる優れものだ。中学の頃にお小遣いで買った格安品。

 あたしは軽く埃を払うと、それをリビングの壁まで持っていって、本体のスイッチを捻った。きちんと動いたことを確認すると耳にイヤホンを着け、聴診器のような形のマイクをぺたぺたと壁に張る。


『――ったく贅沢な話だぜ。ウチの学校の全男子に羨まれる境遇だってのによ』

『隣の芝は青いと言うからな。僕には君の境遇が真っ青に見える。気楽そうで羨ましい』


 話し声が明瞭になった。

 ……だけど、何の話をしてるんだろ?


『はっは。なるほど、人は人の羨ましい部分しか見えねーってわけだ。オレは代わってもらえるんならぜひ代わってほしいけどな』

『……いや、僕はさすがに、そこまでは思えないな』

『……………………』

『おい、にやつくな。気持ち悪い。そういう意味じゃないよ。あの嫌味女と同じ屋根の下にいる苦痛を、他の誰かに押しつけるのは気が引けるってことだ』

『わかってるわかってる』

『絶対わかってないだろ……』


 んんー……。

 もしかしてだけど、伊理戸くんが来たのって、家から離れたかったから?

 夏休みに入って四六時中結女ちゃんと顔を合わせるようになったから、気疲れして避難してきた……ってこと?

 なんて贅沢な!

 そんなに嫌なら代わってよ!

 って言ったら言ったで渋い顔するんでしょ! 知ってる! ああもう面倒臭い!


『それじゃ、そろそろご休憩代をいただこうじゃねーか』


 川波の声が少し大きくなる。……マイク越しに聞いているあたしにもはっきり聞こえるくらいに。


『表現が気持ち悪い。……でもまあ、そういう契約だからな』

『夏休みになったんだ。さぞエピソードが貯まってるんだろうなあ!』

『何にもないよキモいな。大体、もう同居が始まって4ヶ月だぞ? そうそうハプニングなんて起こらないよ』

『ハプニングなんかじゃなくていいんだよ。何でもない日常エピソードをこそオレは求めている。例えば、そうだな……昼はどうしてんだ? 学校あるときは弁当だったが』

『ああ、そうだ。それでひとつあったな。この前、あの女が愚かにも昼ご飯を作ろうとしたことがあって』


 結女ちゃんの手作り料理!?


『チャーハンの具があいつの指になりそうになってさ、結局、具材を切るのは僕の担当になったんだよな』


 しかも……え? ちょっと待って。それって……。


『……もしかして、伊理戸……そりゃ、キッチンに二人で立った、ってことか……?』

『うん? まあそうだが』


 ギリギリギリギリッ!!

 壁に思いっきり爪を立てる。

 その音がコンクリートマイクを通してあたし自身の耳の中に響き渡って、図らずも自傷ダメージになった。


『ち……ちなみに、味はどうだった?』

『不味かったよ、当然だろう? ちょっと焦げてて炭っぽかった』


 贅沢者ぉおおぉおおおおおおおお!!

 そんなに言うならあたしに――


『……でもまあ、前に食べたのよりは、だいぶマシだったな』


 どこかぶっきらぼうな、悔しさの滲んだ声。

 一発でわかった。

 ――本当は、結構美味しかったんじゃん!!


『伊理戸……一応、訊いておくんだが』

『なんだ?』

『今の……「前よりだいぶマシ」っていうのは、ちゃんと伊理戸さんにも言ったんだな?』

『は? 言うわけないだろ。あの程度で調子に乗られても困る』

『「言えよ!!」』


 壁の向こうの声とあたしの声が重なった。さすがに我慢できなかった。

 伊理戸くんの好感度が下がるのは大歓迎だけど、それはそれとして結女ちゃんが可哀想でしょ!


『……ん? 今、どこかから声が……』

『あ、あー、動画の音でも漏れてんじゃね? それよりさ、他にはねーのか、他には!』

『他には、そうだな……7月に入ってから、あいつの部屋のクーラーが壊れてることがわかって。修理するまでの間、あいつはリビングに避難してたんだが、ふと僕が見てみると、ソファーで居眠りしてやがって――』


 伊理戸くんの口から何でもないように語られるエピソードのすべてに、あたしはギリギリと歯軋りをする。

 それがあたしならどんなに良かったか! もしあたしがそんな状況に遭遇したら、向こう1ヶ月はニコニコして過ごせるよ!

 血の涙を流す勢いだったけど、結女ちゃん欠乏症の折だ、貴重な家庭内結女ちゃんエピソードを聞き逃すわけにはいかなかった。

 妬ましさに胸が詰まり、ときめきに胸が跳ね、情緒が行ったり来たりで酔いそうになる。


『おおーし、その調子だ! 他には他には!?』

『……疲れた。僕ばかりに喋らせるなよ。たまには自分の話もしろ、川波』

『んん?』

『隣に南さんが住んでるんだろう? エピソードのひとつやふたつあるはずだ。興味はないけど、彼女は何をするかわからないところがあるからな。少しは行動パターンを把握しておきたいと思っていたんだ』


 なっ……もしかして、さっきの結女ちゃんエピみたいに、あたしの話をしろってこと?

 嫉妬と幸福の板挟みになって軋みを上げていたあたしの心が、急速に冷却された。


『あー……伊理戸さんのためか? 過保護だねえ、お義兄ちゃん』

『からかって誤魔化そうとするな』

『……あー……』


 や……やめろーっ! 断れ! 喋ったらどうなるかわかってんでしょうね!


『そりゃまあ、あるにはあるけどよ。……言っとくが、伊理戸さんのエピソードみたいに微笑ましいもんじゃないぜ? ガチだからな、あいつは。言っちまえば法に触れてることもいくつかあるんだからよ』

『知ってるよ。だから訊いてるんだろう。君が話さないなら僕ももう話さない――「ご休憩代」はもう充分だろう?』

『……ったく、タダでは起きねーよな、あんたはよ』


 よっぽど壁をぶっ叩こうと思ったけど、それじゃあ話を聞いていることがバレちゃう。今この瞬間がエピソードになってしまう。かといって今更知らんぷりもできないし……ううううっ!


『そうだな……あれは、小学生の頃だったな』


 何も動けないでいるうちに、川波の話が始まってしまった。


『オレら、二人ともまとめて、スマホを買ってもらったんだ』

『小学生で? 早いな』

『親が家を空けがちだったからな。いつでも連絡取れるようにしときたかったんだろ。で、だ。まあその場にいたから、あいつと交換したわけだ。電話番号やらLINEのIDやらを』

『ああ』

『そしたらまあ、その日から爆撃が始まったわけだよ』

『だろうな。最近僕のところにも来る。読んでないけど』


 うぐぐ……。

 あれは初めてのスマホが嬉しかっただけなのだ。べつに毎日こいつとお喋りしたかったわけじゃないし、耳元でこいつの声を聞くのにハマっちゃったわけでもない。新しいオモチャを買ってもらったような感覚だったのだ。


『オレもスマホいじるのが楽しかったからよ、最初は付き合ってたんだが……だんだん面倒臭くなってな。ちょっと控えてくれって、直接言ったんだ。それで、まあLINE爆撃と通話爆撃は治まったんだが……話はここからだ』

『もうすでに地雷が爆発したような状態なんだが、まだ爆発するものがあるのか?』

『あるんだよ。ある日さ、親の帰りが遅い日だったから、あいつと晩飯食おうと思って、電話したんだ。そしたら――何が起こったと思う?』


 ちょっ……それを喋るのっ!?


『んん? 逆に通話に出なかったとか?』

『まあ確かに出なかったぜ。だって――あいつのスマホは、オレの枕の下にあったんだからな』

『…………は?』


 まったく意味がわからないという伊理戸くんの声音が、耳に痛かった。


『着信のバイブが枕の下から聞こえたんだよ。いつの間にか、そこに置いてあったわけ』

『置き忘れた……わけじゃないよな?』

『当時のオレはそうだと思って返しに行ったぜ。何せ子供だからな――まさか自分が、幼馴染みに盗聴されてたなんて夢にも思わなかったさ』

『……………………』


 い……言い訳……言い訳をさせて……。

 あれは、ほんの出来心というか……できると思ったらやらずにはいられなくなったというか……だって、声を録音したら、通話しなくてもよくなるし……。

 うううう! あたし、その頃から成長してないじゃん! 結女ちゃんの家入っちゃったときと思考回路が同じじゃん!


『結局、当時は気付かず仕舞いだったんだけどな。中学の頃にも似たようなことがあって、ようやく「あれはそういうことだったのか」ってなったわけだ。それから我が家には盗聴器発見用の電波探知機が常備されているぜ。今でも定期的に検査するのが習慣になってる』

『……なんというか』


 伊理戸くんは言葉を選んでいた。逆につらい。


『君……そんなのが隣にいて、よく平然としていられるな……』

『地獄の底を経験したからな。それに比べりゃ、今の状況なんて、地獄の中でも浅いほうだぜ』

『ちなみに、今日は大丈夫だったのか?』

『当然だろ。っていうか、高校に入ってからはずっと大丈夫だな。……まあ、電波探知機でも見つかんねー盗聴器も、あるっちゃあるんだけどな。例えば――』


 勿体ぶるように、川波は間を空けた。


『――コンクリートマイクとかな?』


 心臓が跳ねた。

 ……もしかして、バレてる? わかった上であえて聞かせてた? 

 思えば、伊理戸くんが来ることをわざわざ教えてくれたのも……もしかして、全部あたしへの嫌がらせのため!?

 や、やられたぁ……! なんでこんな手の込んだことをするの!? そんなにあたしのこと嫌い!? ……いや、嫌いだろうけど。わかってるけど。だったら無視してくれればいいじゃん。あたしからならともかく、なんであんたのほうから……。

 とにかく、そうとわかれば、これ以上思惑に乗ってやる必要はない。

 マイクを壁から離そうとした、寸前だった。


『……でもまあ』


 少し柔らかな声音をマイクが拾う。


『そんなに警戒することはねーと思うぜ。あいつは……ちょっと、人より寂しがりなだけだからよ』

『ちょっとじゃ済まないと思うけどな、今のエピソードは』

『ああ見えてもマシになってんだよ。この前の伊理戸家侵入事件も、内心かなり反省してるみてーだし。暴走さえしなけりゃ大丈夫だ』

『じゃあ、もし暴走したらどうするんだ?』

『そのときは――』


 冗談のように、川波は笑い混じりに言った。


『――オレが、止めてやればいいだけの話だろ』


 あたしはマイクをそっと壁から離した。

 ……きっと、今のは聞かせるつもりのない言葉だ。盗聴に気付いていることを明かした時点で、あたしがマイクを外したと思って――


 ――オレが、止めてやればいいだけの話だろ


 確かに、あたしは寂しがりだ。

 誰かの温もりがないとすぐに凍えてしまう、弱い人間だ。

 だけど――


「……今更、あんたなんて要らないっつの」




※※※




「おう、来たぜ。んだよ、朝っぱらから呼び出しやがって」


 翌朝、あたしは川波を家に呼び出した。

 こいつをわざわざ呼ぶ理由なんて、今となっては一つしかない。


「掃除、手伝って」

「ああ? またかよ? あれから自分でやらなかったのか? さてはおばさんに怒られて――」


 そう言いながらリビングに入った川波は、怪訝そうに眉をひそめる。


「――ちゃんとできてんじゃねーかよ。どこにも掃除するとこなんて……」


 洗い物だらけだったキッチンも、ゴミや脱いだ服を散らかしていた床も、あれから自分でちゃんと片付けた。やる気にならなかっただけであって、やればちゃんと自分でできるのだ。

 だから、今日掃除したいのは、部屋ではない。


「掃除っていうのは、これ」


 そう言って、あたしがコンコンと叩いたのは、聴診器状のマイクとイヤホンが繋がった箱型の機械だった。

 コンクリートマイクである。


「捨ててきてくんない?」


 軽く言うあたしの顔から、川波は無言でマイクに視線を移した。


「……そりゃまあ、オレからすりゃあ、大歓迎だけどよ。いいのか?」

「いいに決まってんじゃん。これじゃあ結女ちゃんの声は聞けないし」

「っていうか、自分で捨てろよ。どこにどうやって捨てればいいのかわかんねーよ、こんなもん」

「……あたし、断捨離苦手なんだよね。なんだかんだ言い訳をして……残しちゃうから」


 捨てるべきもの。捨てたはずのもの。

 どれも結局、まだ手元に残っている。


「捨て方は調べといたから……お願い」


 今くらいは、素直に頼んでやるべきだと思った。

 しばらくじっと見上げていると、川波は深々と溜め息をついて、ガリガリと頭を掻く。


「わぁったよ。……ただし、交換条件な」

「え?」

「今日の晩飯、お前担当。そろそろファミレスも飽きてきたしな」


 そう言いながら、川波はマイクを軽々と持ち上げる。

 その顔を見上げながら、あたしはふっと、小馬鹿にするように笑った。


「寂しがりなのはどっちだっての」

「あ?」


 川波は振り向いて、


「……あっ!?」


 少し遅れて気が付いて、


「おまっ、聞いて――」


 そして、どすんとマイクを取り落とした。

 あたしはその姿に背を向ける。

 面倒事も無事引き受けてもらえたことだし、結女ちゃんに電話でもしよっかなー♪


「もしもーし? 結女ちゃーん? 宿題終わったー?」

「いや聞けよ! お前、あの話聞いてたのかよっ!?」


 イヤだね。

 今更あんたが赤くなってるのなんて、見ても面白くないもん。

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