元幼馴染みは見守りたい。「ア゛ッ!!!!!!!!!!」


 返す返すも身の毛のよだつ事実だが、オレには中学3年の頃の一時期、いわゆる彼女ってもんが存在したことがある。

 家庭的で献身的で、体格こそ小柄だが、見てくれは充分美人の域――もし100人に自慢すれば、まあ70人くらいは羨ましがることだろう。そういう恋人が、かつて確かに存在した。

 いきなり何を惚気てやがるんだコイツは、と思ったか?

 まあまあ、ちょっとだけ待ってくれ。これから語る話を最後まで聞いても、果たして同じ感想を持てるかな?


 予言する。

 きっとあんたは手のひらを返すだろう。

 そうでなければ――かつてのオレが、浮かばれない。






 ――こーくん。冷蔵庫に入れておいたプリン、食べた?


 欠伸が出るくらいありふれた、日常の一幕だった。

 付き合い始めて間もなかった頃。特段、生活が変わることもなく、いつものように放課後をオレの家で過ごしていたら、あいつがそんな風に言ってきたのだ。

 プリンを、冷蔵庫に入れておいたらしい。

 そしてオレの脳内には、いつの間にかあったプリンをぺろっと平らげた記憶があった。

 まだ元気があったこの頃のオレは、慌ててソファーから立ち上がった。


 ――悪い! すぐに新しいの買ってくるから……!

 ――……いいよ。あたしの分はもうあるから


 そう言って、そいつは冷蔵庫の中から未開封のプリンを取り出す。

 そういえば、オレが見たときにももう1個あったっけ?


 ――なんだ。二人分あるんじゃねーか

 ――……まーね


 そいつはダイニングテーブルに座ると、ビリリと荒々しくプリンの包装を破り、ぱくぱくと食べ始める。

 オレには決して目を合わせようとしない。顔がむくれて見えるのは、たぶんプリンを頬張っているからではないだろう。


 ――……なら、なんでそんなに怒ってるんだ?

 ――怒ってないよ


 明らかに硬い声音だったが、結局そのときは、どうして怒っているのかわからず仕舞いだった。

 それから、その日の夜、晩飯の席でのことだ。


 ――いただきっ!


 そいつがオレの皿から素早く唐揚げを取っていく。


 ――お、おいっ! 何すんだ!

 ――何怒ってんの~? 食い意地が張ってるなあ。そんなに食べたかったわけ?


 箸で摘まんだ唐揚げを軽く振りながら、そいつは意地悪く笑った。

 これはもしかして、プリンのときの仕返しか?

 ピンと来たオレは、少しだけ不機嫌になって、ぶすっと横を向く。


 ――人に物取られたら、誰だってムカつくんだよ

 ――それじゃ、返してあげる


 箸に摘ままれた唐揚げが、ずいっとオレの口元に運ばれてきた。


 ――ほら、あ~ん♪

 ――……………………


 オレはそれを見て、まさか、と真実に思い至る。


 ――……昼間のプリン

 ――んー?

 ――もしかして……これがやりたくて買ってきたのか?


 だから、先に一人で食べたのに怒ったのか?

 そいつは――暁月は。

 にやあ、と猫みたいに笑って、からかうようにこう言った。


 ――さあ、どうだろね?


 ああ……思い返すたび、背筋が凍る。

 身の毛がよだつ。

 肌が粟立つ。


 これが、きっと最初の切っ掛けだった。


 このときは、まだ微笑ましい、恋人同士のじゃれ合いだった。

 だけどいつしか、あいつがオレの口に箸を運ぶのが当然になり。

 オレが自分で箸を使うことのほうが珍しくなり。

 ついには――オレの前には、箸が用意されなくなるのだ。


 川波小暮は一度死んだ。

 だっていうのに、どうしてこんな思い出が、まだしつこく残っていやがるんだ?




※※※




「―――……………………ッッッ…………………………!!」


 全身を気持ち悪い汗でぐっしょりと濡らして、オレは朝の目覚めを迎えた。

 ……また、あの頃の夢かよ。

 カーテンの隙間から射す光に手をかざす。清らかな朝日が悪夢の記憶を洗い流してくれることを期待したが、悪夢ってのはタチが悪いもんで、カレーの染みのようにしつこく残るのだ。

 オレはスウェットの袖をめくり、自分の腕を確認して、眉をひそめた。まるで岩に貼りついたフジツボみたいに、大量の蕁麻疹が肌を覆っていたのである。

 まったくもって、最悪の目覚めだった。


 沈んだ気分で自分の部屋を出ると、ダイニングテーブルには目玉焼きがひとつ、ラップして置かれていた。『帰りは遅くなります。夜は適当に食べてください。母より』という使い回しの置き手紙も添えて。

 いつも通りの朝の風景だった。

 悪夢のおかげで、意識だけは冴えている。オレは食パンをトースターにセットすると、いったん自室に戻って手早く制服に着替えた。

 焼き上がったパンと冷え切った目玉焼きを口に突っ込み、牛乳で腹の中に流し込むと、洗面所に行って身なりを整える。

 鞄を持って玄関を出たのは、午前8時40分のことだった。


 ちょうどそのときだ。

 オレがマンションの廊下に出ると同時に、隣の部屋のドアが開いた。

 中から出てきたのは、オレと同じ高校の制服を着た女子である。

 身長150センチにも満たないそのチビは、オレに気付くなりじろりと横目で視線を投げてくる。

 オレもじろりと視線を返して対抗した。


「……………………」

「……………………」


 挨拶は、スパイス程度の敵意を織り交ぜた、その視線だけ。

 ポニーテールがふいっと揺れた。

 時を同じくして、オレも視線を逸らした。

 飾り気のないマンションの廊下を、前後に並んで歩く。エレベーターホールに辿り着くと、二基あるうちの片方が、オレたちを迎え入れるようにドアを開けた。

 オレはそれに乗る。

 チビ女は乗ってこない。

 数秒遅れて開いたもう一基のエレベーターに乗り込んで、姿を消した。


 エレベーターのドアが閉じ、完全な密室となってから、オレはようやくリラックスした。

 白々しい灯りに照らされた低い天井を見上げて、重苦しい溜め息を吐き出す。


 ――ラブコメに憧れる全国一千万の男子たちよ。もしオレの声が聞こえているのなら、これだけは肝に銘じてくれ。


 隣の家に住む幼馴染みと付き合うのだけは、絶対にやめておけ。






 隣の部屋に住む南暁月は、オレにとってきょうだいみたいなものだった。

 今時の日本人は誰だってそうなんだろうが、オレたちの親は双方ともに仕事で家を空けがちだった。朝は早く、夜は遅い。それなりに自立心が芽生えた小学生の頃には、一人きりで留守番を任されるようになっていた。


 そんな状態で、隣の部屋に同年代の子供がいる――

 仲良くなるなというほうが難しかった。


 両親がいない間、オレたちは互いの家に入り浸り、遊んだり、喋ったり、料理や洗濯なんかの家事をしたり、あるいは何もしなかったりした――そんな生活が何年も続いた。

 そして、中学生になる。

 思春期ってヤツが到来する。

 恋愛感情を持つなというほうが、それもやっぱり、難しかったんだろう。


 中学3年の頃に、オレたちの関係は幼馴染みから恋人に変化した。


 最初は、そりゃあ楽しかったさ。人生で初の彼女だ。それも幼い頃からずっと一緒で、実はほのかに好きだったりした幼馴染みだ。

 物理的な距離が近いのもあって、オレたちは四六時中イチャついた。家にいる間なんか1秒も離れることなくピッタリとくっついて、『トイレ行きたいから離れていいか?』っつったら『やだ。一緒に行く』って言われるくらい、吐き気を催すバカップルになった。


 でもさ、そんなもん、長続きするわきゃあねーだろう?


 べたべたべたべたくっついてるのが楽しいのなんて、せいぜい最初の1ヶ月くらいだろう? トイレに行くだけのことで愚図られるなんて、冷静に考えて鬱陶しいだろう? しばらく経って頭が冷えたらいい感じに距離を調整して、プライバシーの線を引いて、節度を持って恋人関係を楽しめばいいはずだろう?


 しかし、南暁月の辞書に、『節度』の二文字はなかった。

 あの女は、1ヶ月経っても、2ヶ月経っても、半年経っても、四六時中オレにへばりついていた。外を歩けば腕を絡ませ、家に帰れば膝の上に座った。


 そのうえ、以前は分担していた家事を一人でやるようになった。

 オレの食事は全部あいつが用意するようになった。

 オレの食生活は0.1キロカロリーに至るまであの女に掌握された。

 オレが着る服は毎日あいつが選んだ。

 髪の長さを1ミリ単位で調整された。

 風呂では背中どころか全身を洗われた。

 朝はあいつの『おはよう』で起き、夜はあいつの『おやすみ』で寝た。


 至れり尽くせりのイチャラブ生活? 馬鹿を言え。

 こんなもん、ただのペットだ。

 あいつにとって、オレは彼氏ではあっても人間じゃあなかったんだ。


 結果として、オレは体調を崩した。

 胃に穴を空けて入院した。原因はストレスだった。

 病室に見舞いに来たあいつに、オレは目一杯の罵声を浴びせて、あいつは泣き崩れた。


 そうして、オレたちは恋人じゃなくなった。

 幼馴染みでもなくなった。

 隣の部屋に住んでいるという地理条件だけが残った。


 知ってるか? 日本語には、この状態のことを端的に言い表せる言葉がある。

 そう――生き地獄だよ。






「あっ……川波っ、おはよっ!」


 教室に入ると、クラスメイトの西村に声をかけられた。

 オレは我ながら世渡りが上手いほうで、この私立洛楼高校でも相当数の知人を得るに至っている。その中には女子も多数含まれるが、西村は中でも話す機会の多いほうだった。


「おお、西村。おはよう。……ん? 今日、いつもとシャンプー違うな」

「うえっ!? わっ、わかんの!?」

「ま、いつも嗅いでっからな」

「あはは! きも~っ!」


 明るく笑いながら、西村は肩をばしばし叩いてくる。オレもそれに合わせて笑った。

 すると、である。

 西村が、自分の髪先を指でそっと摘まんだ。


「……でも、ちょっと嬉しいかも」


 斜め下に逃がした視線。

 愛おしげに自分の髪を触る指先。

 はにかんで緩んだ唇。

 何より、ほのかに赤らんだ耳。


 それらを見て取った瞬間、ぞわぞわぞわっ、という悪寒が全身に巡った。


「……わ、悪り。ちょっとトイレ」

「えー? 家で出してこいよー」


 気安い笑い声に、さらに悪寒が加速する。

 オレはどうにかそれを隠しながら、大急ぎで教室を飛び出し、男子トイレに駆け込んだ。

 早朝だからか、他に人はいない。オレは洗面台の前に立つと、恐る恐る、鏡に自分の腕を映した。

 そこには、予想通り、大量の蕁麻疹があった。


 ……っくそ。

 蛇口を捻って水を出し、ばしゃばしゃと顔を洗った後にうがいをする。

 ただの気休めだが、それこそが重要で、水の冷たさが徐々に悪寒と蕁麻疹を洗い流してくれた。


 中学の頃の経験は、オレにとって深い深い心の傷になった。

 その傷は『恋愛感情アレルギー』とでも言うべき体質に姿を変えて、未だにオレを苦しめている。

 戦場帰りの人間が大きな音を聞くと錯乱するのと似たようなもので、少しでも女子からの好意を感じると身体に不調を来たしてしまうのだ。


 オレはたぶん、もう二度と恋愛ができない。


 だが、そこについてはさほど恨みを持っていなかった。

 むしろ感謝しているくらいだ。

 あの経験とこの体質によって、オレは高校生にして早くも、人生に関するひとつの真理に辿り着いたのだから。


 すなわち――恋愛はするものではなく見るものである、と。






「ほら」


 昼休み。それは唐突に起こった。

 オレのクラスメイトにして友人である伊理戸水斗が、自身の義理のきょうだいである伊理戸結女の机に、紅茶の紙パックを置いたのだ。


「これで文句ないか」


 どこか挑むような声に、伊理戸さんはじろりと睨め上げる。


「……なんであなたがそんなに不満そうなわけ? 気分悪いんだけど」

「いらないんならいいぞ。また僕が飲む」


 そう言って伊理戸水斗が紅茶に手を伸ばしたが、その前に伊理戸さんが、慌ててはしっと紙パックを掴んだ。


「私は、一言足りないんじゃないのって言ってるの!」

「……誠意は見せてるだろ」

「言葉で見せなさいよ、言葉で!」

「言葉で納得しなかったのは君のほうだろ」


 伊理戸はごそごそと制服のポケットを探ると、じゃらりと3枚の硬貨を机に置く。

 50円玉が1枚に10円玉が2枚。70円である。


「ほら。利子だ」

「はあ!? ちょっと――」


 呼び止める伊理戸さんの声を無視して、伊理戸は自分の席に向かい、弁当を広げた。

 お得意の没交渉バリアーだ。

 これにはさしもの伊理戸さんも何も言えなくなって、


「行きましょう!」


 憤然と長い黒髪を翻し、友人たちと一緒に教室を出ていったのだった。


「何? どしたん?」

「さあ……?」


 教室内に、困惑の声がさざめく。

 伊理戸水斗と伊理戸結女のきょうだい関係については、入学直後にあったちょっとした騒ぎのこともあって、アンタッチャブルになっているような雰囲気があった。特に水斗のほうの孤高ぶりがすげーからな。二人とも異常に成績がいいっていうのもあって、触れがたく思うのもむべなるかなってところだ。

 まあ、その雰囲気は半分くらい、オレが作ったんだが。

 だから外野連中には、今のやりとりの意味するところがよくわからなかったんだろう――しかし、オレほどにもなれば、事情に当たりをつけるのは容易だった。

 オレは無言で弁当を食べている伊理戸に近付く。


「あんたさあ……もうちょっと言い方ってもんがあるだろ」

「……何の話だ」


 ぶっきらぼうに答える伊理戸。

『また僕が飲む』『利子だ』――これらの言葉から察するに、たぶん、伊理戸さんが買った紅茶を、こいつが飲んでしまったってところだろう。一つ屋根の下で暮らしていればよくあることだ。

 それをさっき、利子をつけて返却したのだ。


「70円ねえ……」

「……なんだよ、鬱陶しいぞ、川波」


 思わずにやついてしまったので、オレは手で口元を覆った。

 利子、70円。

 これはお釣りだ。

 あの紅茶を校内の購買部で買うと130円――200円払って買えばお釣りが70円。

 この線の細い文学美少年は、昼休みが始まるなり、紅茶が売り切れる前に急いで購買部に走ってきたのだ。伊理戸さんに謝る、そのために。

 だっていうのに、あんな言い方になっちまうんだから――くっくくく!


 胸の奥から湧き起こる幸せな気持ちに浸りながら、オレは昼飯の菓子パンをむしゃむしゃと頬張った。

 オレは恋愛ROM専。

 他人の恋愛や、それ未満の微妙な関係性を観察するのを生き甲斐とする男。

 歴はまだ短いが、今までいろんな二人組をROMってきた――リア友から動画サイトの配信者まで分け隔てなく。その中でもこの二人――伊理戸水斗と伊理戸結女は、とりわけオレの琴線に触れた。

 この二人を見守りながら死ねるのなら、オレは本望だ。バイト代を課金するのだって厭わねー。自分を着飾るよりも、伊理戸を着飾って伊理戸さんの反応を見るほうが何億倍も楽しいからな。

 ああ、今日も飯が美味いなあ!


「……ん?」


 弁当の蓋を閉じた伊理戸が、不意に何かに目を留めて立ち上がった。

 どうしたんだ? いつもならこのまま読書タイムなのに……。

 伊理戸が歩いていく教室の入口のほうを見やる。


「何っ……!?」


 ほかほかしていた気持ちが急速に冷やされ、オレは思わず腰を浮かせた。

 戸口からひょっこりと顔を出し、教室の中を窺っている、一人の女がいる。

 見間違いようがない。あの無駄に育ったでけえ胸は――東頭いさな!

 先月くらいから伊理戸に近付いているお邪魔虫……なんでここに? お前が伊理戸と会うのは放課後の図書室のはずだろうが!


 水斗×結女派のオレとしては忸怩たる思いだが、伊理戸にとって、東頭と放課後に会うのはもう習慣化してしまっているらしい。

 さしものオレも日常の習慣を妨害することはできないし、何より伊理戸本人が怒りそうなので、放課後に関しては見逃していた――たかが放課後の交流程度で、クラスでも家でも一緒の伊理戸さんに勝てるとは思えなかったしな。

 そのはずだったのに――昼休みに何の用だ?


「どうした、東頭?」


 伊理戸さんに接するときよりも柔らかな口調で、伊理戸が東頭に話しかける。それは恋人とか友達ってよりも、むしろ妹とか、親戚の子供に対するもののように聞こえたが、これはオレの願望なのか?

 東頭は伊理戸の顔をちらりと見上げて、もじもじとスカートの前で手を擦り合わせる。


「いえ、その~……何だか、水斗君が落ち込んでるって聞きまして」

「僕が? 一体誰に」

「黙っといてって言われてます」

「……君の交友関係の中で、そんな風に言うのは一人しかいないな」


 まさしく、その通りだった。

 オレの頭の中には、一人の女の姿が描き出されていた。


「別に落ち込んでなんかいないんだが……まあ、ちょうど昼食も済んだところだ。図書室にでも行こうか」

「はいっ!」


 二人は楽しそうに何か話しながら、図書室の方向に廊下を歩き去っていく。

 オレは教室を出て、その背中を呆然と見送った。

 なんてこった……。この昼休みは、さっきの紅茶の一幕で充分だっただろ? こんな蛇足はいらなかっただろうが!


 ふと、背筋に悪寒が走った気がした。

 それに導かれるようにして、オレは背後を振り返る。


 南暁月が、そこに立っていた。

 にやにやと、まるで勝ち誇るような笑みを浮かべて。






「てめえ……! どういうつもりだ……!」


 ひと気のない校舎裏に南暁月を連れてくると、オレはその小柄な体躯を校舎の壁に押さえつけ、間近から睨みつけた。

 普通の女子なら怯えるところだが、暁月は眉をひそめて鼻を摘まむ。


「息臭いから近寄らないでよ」

「はあ~っ……!」

「うわっ! もうサイアクっ!」


 口臭のケアは欠かしていない。だから臭くなんてねーはずだが、暁月はぐいっとオレの胸を押しのける。もちろん退いてなんてやらない。


「最近大人しいと思えば宗旨替えか? 伊理戸と結婚して伊理戸さんの義妹になるんじゃねーのかよ?」

「別に、そのプランも捨ててないけどね。でも、どっちかといえば東頭さんのほうが脈ありそうだし? フラれたとはいえ、告白されることで初めて意識し始めるってこともあるもんね? ……それに、もうあんたにバレちゃったし」

「てめえ! 東頭のことがバレたからって、開き直ってオレへの嫌がらせに使おうってことかよ! 他人を駒みたいに使いやがって!」

「他人をお人形みたいに見ている人に言われたくないんだけど~?」


 暁月は小馬鹿にするように笑って、オレを冷たい目つきで見つめる。


「ほんとキモいよね。他人を見てニヤニヤニヤニヤ……。他人の恋愛の何がそんなに楽しいの?」

「すべてだが、何か?」

「恋愛は見るものじゃなくてするものでしょ」

「よく言ったな、その口で」

「……はあ。とりあえず退いてよ。東頭さんのアシストしに行かなきゃいけないんだから」

「それを聞いて退くと思うか?」

「じゃあ仕方ないね」


 何がだ――と訊く前に、暁月は突然ヘアゴムを取り去り、ポニーテールにしていた髪を下ろした。

 かと思うと、下ろした髪を肩の辺りで縛り直し、二つ結びのお下げに髪型を変える。

 そしてスカートのポケットから取り出した眼鏡を掛けると、まったく別の雰囲気になった。図書委員でもしていそうな……。

 一体、何を――嫌な予感がした、その瞬間だ。

 暁月の唇が、にやりと歪んだ。


「――ごめんなさいっ!!」


 やけに大きな声でそう叫びながら、暁月は勢いよく頭を下げた。

 ……ごめんなさい? 何が?

 混乱するオレの耳に、心地の悪いざわめきが入ってくる。


「あーあ」

「ダメかー」

「あの子だれ? 見たことない」


 頭上を見上げ、ようやく気付く。

 いつの間にか、校舎の中から大勢の人間がオレたちの様子を覗いていたのだ。

 オレは悟る。

 罠だ――これは罠だ!

 暁月は素早くオレの懐から抜け出して、足早に場から離れていく。

 その右手には、スマホが見えた。

 この聴衆は、あの女が集めたのだ。既成事実を作るために!


 あの女――オレに告白玉砕男子の汚名を着せやがった!!


 ここで追いかけようとすれば、オレは『フラれた女子に無理やり迫るヤバい奴』になってしまう。そうなれば高校生活は暗黒に閉ざされる。それとなく伊理戸きょうだいにシチュエーションを提供することも難しくなるし、二人にコナかけようとする不届き者を事前に始末することもできなくなってしまう!

 どうする? どうすればいい? このまま見逃すしかないのか?

 脳細胞の中でシナプスが弾けまくった。ニューロン間を無数の電気信号が行き交い、オレにひとつの天啓を与える。


「おい!」


 オレは暁月を呼び止めた。校舎の中から刺々しい視線が突き刺さるが、暁月を振り向かせることには成功する。

 ……この手は、できれば使いたくなかった。

 オレも無傷では済まない。いいや、ダメージはオレのほうが大きいかもしれない。

 だが、それでも……!

 オレはポケットから取り出したスマホを暁月に見せつけて――不敵に唇を歪ませた。


「……それじゃあ、これは消したほうがいいよな?」


 オレは指で、再生ボタンをタッチする。

 直後。

 スマホから声が流れ出した。


『おはよっ、こーくん♥ 今日も学校だよ♥ 起きないといたずらしちゃうぞ~?』

「わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


 スマホから流れ出す、チョコレートを蜂蜜でべとべとにしたような声を、暁月は絶叫して掻き消そうとする。

 さっきとは別種のざわめきが、校舎の中から溢れた。

 訝っているんだろう、オレたちの関係を。

 オレが告白して、この女が断った。それだけの関係なら、こんなボイスが――付き合っていた頃にこの女が自作した目覚ましボイスが、オレのスマホにあるわけがない!


『もう、こーくんったら甘えん坊さん♥ そんなにいたずらしてほしいの? 仕方ないなぁ、もぉ……ちゅっ♥』


 校舎裏に朗々と鳴り響く黒歴史。

 耳まで真っ赤に燃え上がる暁月。

 奇異の視線がオレから暁月に移り始めるにつけ、チビ女はずんずんと荒々しくオレに近寄ってきた。


 オレはにやりと笑う。

 暁月はキッと睨む。

 スマホを持った手首を掴まれて、オレは連行されるようにしてその場を後にした。






「信じらんない、信じらんない、信じらんない……! まだ消してなかったの、それ!!」

「こんなこともあろうかとな!」

「死ね!!」


 シンプルな罵倒に、オレはむしろ勝ち誇った。

 場所は1年の教室があるのとは別の校舎である。さっきの騒ぎはここまで伝わっていないようで、オレたちに好奇の目を向ける人間はいない。


「簡単にオレを出し抜けるたぁ思わねーこったな。あの二人の焦れったい関係を守るためなら、オレはいくらでも身を削る所存だぜ」

「……ほんとカプ厨きもい」

「恋愛ROM専と呼べ」

「そもそも、身を削られてるのあたしだけだし!」

「んなこたねーぞ」


 オレは半袖の腕を暁月の目の前に突きつけた。

 真っ赤な蕁麻疹が、オレの腕を覆っていた。


「……それ……」

「お前のあんな甘ったるい声聞いたらこうなるに決まってんだろーが。実は今かなり吐きそう」

「げっ。顔色悪っ!」

「んぷっ……!」

「だぁーっ、ストップストップ! 飲み込んで!」


 暁月は小さな手でオレの口を塞いでくる。冷たい手のひらの感触を唇に感じて、なおさら吐き気が込み上げたが、どうにか喉の辺りで食い止めた。セーフ。


「はあ~……」


 暁月は諦めたように溜め息をついて、オレの隣に回る。


「……しゃあないなぁ、もぉ……。ほら、肩掴まって。保健室まで付き合ったげるから」

「おげげげげげげげ」

「嘔吐感込み上げるな! 恋愛感情ゼロだから!」

「おー、そうか……なら助かった……」

「ったく……病弱が似合うキャラでもないくせに……」

「誰のせいだと思ってんだコラ」

「はいはい、すみませんでしたっ」


 オレより30センチほど小さい暁月は、なるほど、杖に使うには悪くない。細い肩に掴まると、暁月はオレの腰に腕を回してくる。そのまま保健室を目指して歩き始めた。

 蕁麻疹が引く気配は、未だない。


「……お前さぁ……」

「なに? ゲロ臭いからあんま喋んないで」

「頭ん上からゲロぶっかけるぞてめえ。……お前さ、伊理戸と東頭をくっつけたとして、その後はどうするわけ?」

「……どうするって?」

「いくらお前でもさ、伊理戸さん本人と結婚できるとは思ってねーだろ。伊理戸さんをフリーにしたところでよ、お前自身は、これっぽっちも幸せにならねーだろうが」


 暁月はふっと皮肉げに笑って、横目でオレを流し見た。


「何? 心配してくれてんの?」

「んなわけねーだろ。どこでも好きなところで野垂れ死ね。……ただよ」


 オレは言葉を選んだ。自分の感情を正確に、誤解なく伝えるために。


「伊理戸を篭絡できるとはとても思えねーし、東頭をくっつけたところで自分がどうこうなれるわけじゃない。……それって、丸っきり、やってること無意味ってことだよな、……って、思ってよ」


 心配しているわけじゃない。

 同情しているわけでもない。

 ただ、……なんていうんだろうな。後味が悪い、……っていうか。

 原因を作ったのはこいつでも、あの結末を選んだのはオレだから。……多少は、責任を感じてるってことなのかね……。


「……口下手なくせに、難しいこと言おうとしなくてもいいよ」

「ああ? オレのどこが口下手だよ?」

「あんたはただ、舌が回るだけ。……それは、あたしもだけどね」


 オレは思わず押し黙った。

 ……舌が回るだけ。からからと、虚しく。

 たまにはうまいことを言うときもあるんだな。


「ねえ」

「……ん?」

「蕁麻疹、もう引いてるけど?」


 指差されて腕を見てみれば、確かに、腕に浮いていた赤いブツブツが、もうすっかり消えていた。思えば吐き気もなくなっている。


「おお……どうでもいい話をしてるうちに良くなってきた。ここまででいいわ」

「あんたが始めたんでしょうが」

「ま、好きにやっとけや負けヒロイン。どうせ伊理戸は靡かねーし、東頭はその気にならねーよ」

「誰が何に負けたかっ!!」


 暁月のボディーブローをすんでのところで躱し、ついでに身を離した。

 暁月はぶすっとした顔をして、オレに視線を寄越す。んだよ、その拗ねたような顔はよ。そんな顔しても、もう可愛くなんかねーよ――

 そのときだった。

 小柄な身体が不意に懐に入ってきた。


「……こーくん」


 びくりと身体が反応する。

 ……それは、幼馴染みとしてのオレの呼び名。

 30センチも低いところにある頭が、瞬間、ぐんっと近付いた。精一杯の背伸びをして、限界まで唇を近付けて――暁月は、小さな声で囁いてくる。


「(もし本当に負けたら――あたしのこと、幸せにしてくれる?)」


 ドグリと、鼓動が乱れた。

 それは。一体。何の――

 疑問が言葉になる前に、全身を悪寒が駆け巡った。


「おげげげげげげげげげげげげげ!!」

「じゃ、そゆことで」


 込み上げる吐き気に悶絶するオレを置いて、暁月はすたすたと歩き去っていく。

 口を押さえながら顔を上げると、離れていく小さな背中に、元幼馴染みのオレだけがわかる表情が浮かび上がっていた。

 ――あいつ、怒ってやがる。

 どうやらオレは、いつの間にか逆鱗に触れていたらしい。

 ……まあ、今更、どうでもいいけどよ。




※※※




 5限目をやむなく保健室で過ごしたオレは、6限目になってようやく教室に戻ってきた。

 教室に入るなり、オレは『やっていいことと悪いことがあんぞ』という意思を込めた視線を、クラスでもとりわけチビな女に向けて投げかけたが、当然のこと、一瞥もなくスルーされた。


 そして放課後になると、伊理戸が鞄を持って立ち上がった。

 今日も図書室に行って、東頭いさなに会うんだろう。まったくもって認めがたいが、そこに文句を言うと伊理戸にガチギレされるのでどうしようもない。

 まったく……今日は踏んだり蹴ったりだった。

 溜め息を呑み込む――まさに、寸前のことだった。


 立ち上がった伊理戸水斗が、伊理戸さんのそばを通る瞬間、小さく何か呟いたのだ。


「ん?」


 内容は聞こえなかった。

 オレの耳にかろうじて届いたのは……それに続く、伊理戸さんの返事だけだ。



「……最初から、そう言えばよかったのよ」



 ――――ア゛ッ!!!!!!!!!!

 浮かしかけていた腰が落ちた。

 そのまま机に突っ伏した。

 怒涛のように身体の中を吹き荒れる感情を、整理するので精一杯だった。


 謝れたのか!!!

 忘れた頃に!!

 お前!!!

 えらい!!!!


「……ほんとキモい」


 水を差すような冷えた声が聞こえて、オレは顔を上げた。

 南暁月が、冷たい視線を横目に寄越してくる。

 ああ? 邪魔すんじゃねーよ! 今お前はお呼びじゃねーんだよ!!

 よっぽどそう言ってやりたかったが、その前に、暁月がふいと目を逸らし、指で自分のポニーテールの先を触った。


「でも、まあ……なんというか、さすがに、5時間目まで休ませたのは寝覚めが悪いし……」


 触ったポニーテールをそのまま口元に手繰り寄せて、隠す。

 そうして、唇の動きさえ誰からも隠して、……オレにしか聞こえない囁き声で、こう言うのだ。


「(……さっきは、ちょっと、やりすぎた……かも)」


 オレが何か答える前に、暁月はすたすたと立ち去っていく。

 オレはただ、犬が自分の尻尾を追いかけるように、本能的にその背中を見送ることしかできなかった。


 ――直るほどの仲は、今さらどこにも残っていない。

 だってオレたちは、たとえ相手のプリンを勝手に食べたって喧嘩にもならないし、今ならたぶん、悪いと思うことすらないだろう――それはもう、オレたちにとっては当たり前で。もう失くしてしまった、だけど伊理戸きょうだいがまだ持っているもので。


 ああ、そうか。

 やっぱり、無意味じゃあなかったってことか。

 たとえ、最終的には幸せになれなかったとしても……無意味じゃあなかった。

 だって――


「……謝るのはオレだろ、アホ」


 ――お互いに、反省するってことを覚えたんだから。

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