南暁月がはなしてくれない。「結女ちゃん、トイレ行こー!」


 今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないけれど、私には中学2年から中学3年にかけて、いわゆる彼氏というものが存在したことがある。

 その関係が終わりに向かったのには、きっといろいろな原因が複合的に絡んでいたのだろうけれど、仮にひとつ、直接的な要素を挙げるとするのなら、私はすぐに答えることができた。


 友達。


 そう、私が友達を作ったことが、崩壊の始まりだった。

 中学2年の夏休みから3月までの半年間、私とあの男は、完全に二人きりの世界で生きていた。居心地のいい、いるだけで幸せになれる、誰の介在も許さない閉鎖された世界。それを、私は壊したのだ。

 何度でも言おう。

 私はその選択を、間違っていたとは思わない。

 私が友達を作らなければ、きっと私たちはまだ恋人同士でいられただろう――他の誰もいない二人っきりの世界で、おぞましくも乳繰り合っていたことだろう。だけど、恋人以外のものがある世界を知ってしまった私の目には、それはやっぱり、不健全なものに映るのだ。


 恋人だからって無条件で友達より大事というわけじゃない、と東頭さんは言った。

 まさしく、今の私もそう思う――だからこれは、中学時代の私たちが、馬鹿で、アホで、愚か者で、未熟者だったというだけなのだ。

 私が。もしくは、あの男が。

 あと少し……ほんの少しだけ……広い世界に生きていたら。

 自分たち以外のものに寛容であれば。


 嫉妬なんか――しなければ。


 ……今更、何を言っても栓のないことだ。

 ただ、私はもう知っている――嫉妬する気持ちも、嫉妬される気持ちも、どちらも知っている。

 せめてその経験を、今に活かせればいい。

 そうすれば、あの黒歴史にもそのくらいの意味はあったのだと、慰めを得ることができるだろう――焼け石に水程度でしかないけれど。




※※※




「――東頭さん。そこ、計算間違えてるわ」

「えっ? ……あっ、ほんとです」

「めんどくさがらないでちゃんと途中式を見直さないとダメよ。テスト本番でも、終わったからってすぐ寝たりしないでね」

「ええ~」


 東頭さんは不服そうに、ストローに息を吹き込んでオレンジジュースをぶくぶくさせる。

 1学期の期末テストに向けてのファミレス勉強会だった。

 メンバーは私と東頭さん、そして――


「……………………」


 対面に座る暁月さんが、私と東頭さんをじいーっと見つめている。

 ストローでカチャカチャとコップの中を掻き混ぜているけれど、すでにそこには小さくなった氷しか残っていなかった。

 手元にある教科書は、私の記憶が正しければ、勉強会が始まったときから1ページも進んでいない。

 暁月さんは前回の中間テストでもちゃっかり50位以内に入っていて、私が教えることはほとんどない。だから東頭さんを重点的に教えているのだけれど……。


「暁月さん……? 飲み物、もうないけど……」

「んー? あ、ホントだー」

「……ねえ。何か聞きたいことでもある? さっきから、全然勉強が進んでないように見えるんだけど……」

「いやいや、別にー? 大丈夫大丈夫。なんでもないよー」


「飲み物取ってくるね。何がいい?」と私たちに注文を聞いて、暁月さんはドリンクバーへと向かった。

 私はその小柄な背中を黙って見送る。


「うーん……」

「どうしたんですか、結女さん? お腹痛いんですか?」

「いえ……なんとなく、様子が変っていうか……」


 表面的には、いつもと変わらない。明るく元気な南暁月だ。

 だけどその裏に、ほんの少し硬さを感じるというか――棘を感じるというか。

 この雰囲気、どこかで……?

 首を捻っていると、隣の東頭さんがおもむろにスマホを取り出した。


「ふー、休憩休憩」

「没収」

「ああーっ!? 女子高生の生命線がーっ!」


 ゲームは勉強が終わってからにしなさい。






 その翌日のことだった。


「結女ちゃん、トイレ行こー!」


 1限目が終わるなり、暁月さんが席にやってきて、ニコニコ笑顔でそう言った。

 そんなに大声で言わなくても、と私は後ろの席の男をちらりと見たが、我が義弟はとっくに本の世界に沈んでいる。まあ、一緒に住んでいるのに、今さらトイレに行くくらい隠すことでもない。


「うん。私もちょっと行きたかったから」


 中学の頃は、連れ立ってトイレに行く人の気持ちがいまいちよくわからなかったけれど、今となってはその理由ははっきりしていた。

 男子の目と耳がない場所が女子トイレくらいしかないのだ。

 私は中3で友達ができるようになってからこっち、本来の女子という生き物が1日の間にどれだけの話題を消費するのかを知った。その中にはもちろん、異性に聞かれたくないものもあるし、衆人環視の状況では話しにくいものもある。そういう話題も、半閉鎖的な女子トイレなら消費できるというわけである。


「――でさー、体育のときにさー――」

「うんうん」

「――ってことがあってー――」

「ええー!」

「――ありえないよねー――」

「それはちょっとねー」


 用を足した後、鏡の前で身嗜みを整えながら、暁月さんと雑談に興じた。まあ私はほとんど相槌を打ってるだけだったけど。よくそんなに次から次へと話すことを思いつくなあ。


 チャイムと同時に教室に戻り、2限目が始まる。

 それが終わった瞬間だった。


「結女ちゃん、トイレ行こー!」


 暁月さんがすぐに飛んできた。

 さ、さっきの今で? まだ話し足りなかったのかな……?

 休み時間は少し勉強に使いたいのだけど……むげにするのも悪いし、ついていくことにする。


「――でさー――」

「うんうん」

「――ってことが――」

「ええー!」

「――ありえな――」

「それはちょっとねー」


 そして3限が終わった。


「結女ちゃん、トイレ行こー!」


 いくら何でも頻尿が過ぎるのでは。

 いや、もちろん目的は私との雑談なのだろうけれど、それにしたって飛ばしすぎなのでは。そもそも暁月さんって、こんなにトイレでたむろしたがる人だっけ……? 休み時間は結構教室にいるイメージだったんだけど。


「ごめんなさい……。ちょっと勉強したいから……」


 復習したいところがあったので控えめに断ると、暁月さんは笑って手をひらひら振った。


「あー、そっか。ごめんね、大丈夫大丈夫! 頑張ってね!」


 そう言って、別の友達のところに向かっていく。

 しばらく見ていたけど……暁月さんは、私以外の誰も、トイレに誘おうとはしなかった。






「暁月さんがおかしい」


 私がそう切り出したのは、夜、自分の部屋にて、スマホに向かってのことだった。

 繋がった通話の向こうにいるのは、一つ壁を挟んだ先に巣食う義弟である。お母さんや峰秋おじさんに怪しまれないよう、夜に話すときはスマホを使おうという取り決めにしているのだ。

 水斗はうんざりとした調子を隠しもせず、


『……珍しくかけてきたと思ったら、何の話だよ。南さんがおかしいのなんていつものことだろ』

「どこがよ。どっちかといえば、あなたや東頭さん、川波くんのほうがいつもおかしいでしょ」

『価値観の相違だな……』


 私は枕をぎゅっと胸に抱きながら、覚えた違和感を言葉に変えていく。


「期末テストの勉強を始めた頃くらいからかしら。妙にベタベタしてくるっていうか……」

『それは前からだろう?』

「違うの! 全然!」

『まったくわからん』


 眉間にしわを寄せているのが目に浮かぶような声だった。


『というか、なんでそれを僕に相談するんだ』

「川波くん、暁月さんと幼馴染みなんでしょ? 何かわからないかと思って」

『伝言しろってことか。……確かに、あいつなら何かわかるかもしれないが』

「でしょ?」

『でもな……うーん』

「どうしたの?」

『いや……ヤツは今、期末テスト対策で死にそうになっているんだ』

「あ」

『あんまり余計なことに頭を使わせたくないんだよ』

「そっか……そうよね」


 それは邪魔をするわけにはいかない……。元々、根拠も証拠もない、些細な違和感でしかないのだ。テスト勉強を邪魔してまで相談するようなことじゃない。


『まあ、南さんの様子が目に見えておかしくなったら報告しろ。真夜中にしつこく通話しようとしてくるとか』

「……誰がしつこくしたのよ」

『価値観の相違だな』


 こいつ、嫌味を言わないと息ができないの?

 何か言い返してやろうと考えたそのとき、そういえば、と思い出したことがあった。

 私はくすりと口元を緩ませる。


「真夜中に通話で思い出したけど……そういえばぁ~、誰かさんもぉ~、一時期、しつこく毎晩スマホに――」


 ――ブツッ。

 切られた。

 私は『通話終了』と表示された画面を見て、勝利の笑みを浮かべる。

 あのときは、確か……私に友達ができて一緒にいる時間が少なくなったから、嫉妬してたんだっけ? 今にして思えば、なんとも可愛らしいことだ。


「……嫉妬?」


 ふと、思いつく。

 暁月さんの様子がおかしくなったのは、テスト勉強を始めてから――つまり、東頭さんの勉強を見るようになってからだ。


「……まさかね」


 私は自分で失笑して、スマホを充電スタンドに置いた。

 他にもたくさん友達がいる暁月さんが、私に嫉妬しているなんて――そんなの、自意識過剰にもほどがあるでしょ。






 ――と、思ったのだけれど。

 暁月さんの行動は、それから日を追うごとにエスカレートした。


「……南さん」

「なに? 結女ちゃん」

「暑いんだけど……」

「あっ、ごめんごめん」


 暁月さんはようやく私の腕から離れてくれる。

 と思いきや、ドリンクバーから冷えた水を持ってきてごくごくと飲み干し、また腕を絡め直した。


「体温下げたよ。これなら大丈夫?」

「……いえ……」


 そういうことじゃない。

 まったくそういうことじゃない。

 勉強のためにファミレスに来ているのに、それじゃあシャーペンも持てないでしょうと言いたいのだ。


 男子と違って、女子の友達同士だと、じゃれて抱きつくようなことは多い。多いけれど、果たしてこれは友達同士の距離感なのだろうか。これじゃあまるで水斗と東頭さんなんだけど。……あれ? じゃあいいのかな? 友達経験が少なすぎてわからなくなってきた。


「ふむーん。なるほど。百合も最近来てますからね。さすが先生、最先端を行かれてらっしゃる」


 呑気なことを言ったのは、言わずもがな東頭いさなである。今日は私の対面に座っていた。


「でも個人的には、そうやってベタベタするよりも、もっと微妙で複雑な距離感でいてくれたほうが捗ると言いますか」

「それはできない相談だねっ! あたしと結女ちゃんは距離を測り合う必要もないくらい仲良しだから! ね?」

「そう……ね?」


 まあ、仲良しなのは、確かだと思うけれど。

 暁月さんのほうからそう言ってもらえるのは、私としても、嬉しいんだけれど。

 それにしたって、なんというか、私の認識と暁月さんの認識とで多少の齟齬があるような――


「いくら仲良しでも、そんなにベタベタしてたら鬱陶しくないですか?」


 何気ない台詞だった。

 じゅーっと、ストローでジュースを飲みながら、東頭さんは何でもないように言った。

 私と暁月さんの目が、一斉に東頭さんの無表情に集中する。


 言いたいことが三つあった。

 鬱陶しい、なんてセンシティブな単語を簡単に使うな、というのがまずひとつ。

 自分が水斗にどれだけベタベタしてるのか知らないのか、というのがもうひとつ。

 そして、今くらいジュースを飲むのをやめろ、というのが最後のひとつだ。


 ――だけど、それらを私が口に出す前に、暁月さんが弾かれたように私の腕から離れた。


「え、……あれ……? うそ、もしかして……」


 挙動不審に視線をあちこちに彷徨わせながら、暁月さんは自分の両手をにぎにぎする。

 フォローしたほうがいい。

 すぐにそう思ったけれど、それを実行に移すには、言葉を選ぶ時間が長すぎた。


「ゆ、結女ちゃん……あたし、もしかして、最近……めちゃくちゃトイレ誘ってなかった……?」

「え? ええ……授業が終わるごとに、大体」

「一緒に歩いてるとき、ずっとくっついてなかった……?」

「ええ、まあ……大体?」

「LINEの量……普通より、めちゃくちゃ多くなかった?」

「……たぶん?」


 普通を知らないから『普通より』とか言われてもわからないのだけど、まあ以前と比べてという話なら、最近は多めだったような気がする。


「あー……あー……あはは」


 暁月さんは何かを誤魔化すように笑うと、筆記用具や教科書をそそくさと鞄に詰め込んで、席を立った。


「ごめん、結女ちゃん! 今日はちょっと帰らせて! ……ほんと、ごめんね」


 最後の声はか細く、まるで虫が鳴くようだった。

 暁月さんは、私たちの分までドリンクバー代をテーブルに置いて、足早にファミレスを出ていく。

 東頭さんが依然としてジュースを飲みながらその背中を見送って……ぽつりと言った。


「……わたし、また何かやっちゃいました?」

「……どうやら、そうみたいね」

「…………ごめんなさい…………」


 東頭さんがわかりやすく落ち込んだので、とりあえず新しいジュースを持ってきてあげた。






 それから、暁月さんのベタベタはだいぶ落ち着いた。

 と言ってももちろん、突然話しかけてくれなくなったわけじゃなく、翌日は普通に挨拶をしたし、お昼も一緒に食べたし、帰りも一緒だった――以前と同じ距離感に戻っただけだ。

 ファミレスでの東頭さんのやらかしについては、


「昨日はごめんね! 東頭さんにも謝っといたから!」


 の一言で決着した――暁月さんが一方的に置いていった私たちの分のドリンクバー代も、普通に受け取ってもらうことができた。

 何もかも元通り。

 何事もなかったかのよう。

 だけど、なんでだろう――もやもやとした違和感は、まだ晴れていない。


 この違和感を追究したいのは山々だったのだけれど、状況がそれを許してくれなかった。

 期末テスト期間が、本格的に始まったのだ。


「よお、学年2位」

「……何よ、学年1位」


 夜。家の中。廊下ですれ違いざまに話しかけてきた水斗に、私は険のある声で返す。


「今回はずいぶんと余裕そうだな。目の下に隈がない」

「前だって別になかったでしょ。そっちこそ、川波くんに教えてる余裕なんてあるの?」

「僕は何につけても余裕を持って行動するようにしているんだ。根を詰めることしか知らない誰かさんと違ってな」

「ご心配なさらずとも、計画性を持って行動してます。テスト本番のおかしな思いつきで点を落とす誰かさんと違って」

「……………………」

「……………………」


 ちらりと視線を交わし合って、私は階段の上へ、水斗は洗面所へと足を向ける。

 ……まったく。『前みたいな無理はするな』って、どうして素直に言えないわけ?


 今度こそあの男に引導を渡すため、私は無理のないスケジュールで勉強に打ち込んだ。

 そして、来たる期末テスト。

 中間のときのように寝不足になることもなく、万全のコンディションで問題に挑み――


「……あ……」


 期末テストの順位が貼り出された掲示板の前で、私は棒立ちになった。

 自分の名前を、一番下――50位から探したのだ。

 そして一つずつ、1位ずつ確認して――ない、ない、ない――全然見つからなくて。

 最後の最後に。

 一番上に、その存在を確認した。



『1位 伊理戸結女』

『2位 伊理戸水斗』



「やっるうーっ!!」

「首位奪還だーっ!!」


 周りにいた友達が次々に私を褒めそやす。

 一方の私自身は、まだ信じられないような気持ちだった。

 私の名前が、あの男の上にある。

 その光景が、なんだかふわふわと揺れて見えて……。

 ……ああ。

 私は……なんだかんだで、まだ――あの男には敵わないのだと、心のどこかで、思っていたのか。


 ふと、視線を横に振った。

 無意識のうちに、探したのだ。

 果たして、見たかった姿は、人垣の外側にあった。


 川波くんがそのそばにいて、慰めるような淡い笑みを浮かべて、ぽん、と彼の肩に手を置いた。

 その手を、バシッと、うざったそうに払う。

 そうして、その男はくるりと背を向けて――困ったように肩を竦める川波くんをその場に置いて、無言で歩き去っていくのだ。

 その足取りは――いつもより、少しだけ、大股だった。


 ……やった。

 やった――やった。

 やったやったやった!


「ぃやっっっ――たあっ……!!」


 勝った! 勝った勝ったっ、勝った……!! 私が、あの男に!!

 胸の奥から湧き上がってくる喜びを噛み締めるように、私は両手をぎゅっと握り締める。

 見たか。見たか。見たかっ……!! 私はいつまでも、あなたの後ろにくっついている金魚のフンじゃない!!


 自分を限界まで追い込んでいた前回は負けて、東頭さんに勉強を教えていた今回は勝つなんて、なんだか皮肉だけれど――つまるところ、無理をするばかりが結果を出す方法じゃないということなのだろう。

 そういえば、東頭さんはどうだったのかしら? もしかして50位以内に入れてたりして……?


 さっきは自分の名前しか探していなかったので、改めて順位表を眺める。

 見たところ、東頭さんの名前は見つからなかった。さすがにそこまで点数を上げることはできなかったか……。次の目標は50位入りね――


「――あれ?」


 順位表を眺めているうちに、違和感に気が付いた。

 中間のときはあった、暁月さんの名前がない。






「結女さん~~~~っ!! 大丈夫でしたあ~~~~~っ!!」


 東頭さんが答案用紙を勝訴の紙みたいに掲げながら走ってきたのは、順位発表があってすぐのことだった。

 東頭さんはぐすぐすと涙を浮かべて、


「うっうっ……これで夏休みを補講に潰されなくて済みますよぅ。ありがとうございます~~~!!」


 ずいぶんな喜びようだけど、そんなにいい点数だったのかしら。

 そう思って点数を見せてもらうと、確かにどれも赤点ではないものの……平均点を少し下回っていた。


「……次はそれぞれ20点ずつ増やしましょうか」

「えっ? ……い、いやあ~~、そう何度もお世話になるのも申し訳ないですし~……」

「まあまあ遠慮しないで」

「もう勉強したくないです~っ!!」


 東頭さんはぐずるけど、こんなにギリギリだと毎回苦労することになるし、すでに1学期の通知表は親御さんに見せにくい状態になっていると思う。


「ねえ、東頭さん。不躾かもしれないんだけど……」

「ええっ。これ以上何を言われるんですか? わたし、そんなにイジメたくなる顔してますか……?」

「それは、どちらかと言えばしてるけど」

「してるんですか!?」

「じゃなくて、こんなにギリギリの成績なのに、よくこの学校受けようとしたなって。受験、かなり背伸びしたんじゃない?」


 背伸びといえば、特に名門でも何でもない公立出身で、しかも特待生狙いだった私だってそうなんだけど……東頭さんは、それにも増してギリギリだ。受験はかなり苦労したんじゃないだろうか――この自堕落な性格でよく合格できたものだと思う。


「あー……それですか……」


 もじっと、東頭さんは軽く俯いて、両手の指をくにくにと絡ませる。


「言いづらいなら、別に言わなくてもいいけど……」

「いえ……その、そういう時期だったと言いますか……いわゆる中二病と言いますか……」

「?」

「……頭のいい学校に行けば、話の合う人が見つかるかも、って、思ったんです」


 えへへ、と東頭さんは誤魔化すようにはにかんだ。


「わたしが周りから浮いちゃうのは環境のせいなんじゃないか、って……そう思ってたんですよ。まあ、入学してすぐに、『あー、単にわたしがコミュ障なだけだ』って気付いたんですけど。……ご、ごめんなさい、しょうもない理由で……」

「いえ」


 私はすぐに、緩く首を振った。


「しょうもなくなんかないわ。……たぶん、私も、わかる。この世のどこかに、自分をわかってくれる人がいるんじゃないか――って期待する、そういう気持ち」

「ほんとですか……?」

「もちろん。……それに、間違いじゃなかったじゃない」

「え?」

「頑張って受かったおかげで、暁月さんにも、あの男にも――私にも、会えたでしょ?」


 東頭さんはぱちぱちと何度か目を瞬いて――

 ふにゃりと口元をかすかに緩め、くねくねと身体を揺らし始めた。


「えへ。うぇへへ。えへへへへへ……」

「ちょっと! 無言で照れないでよ! 私も恥ずかしくなってきた!」


 火照った顔を手団扇で扇いでいると、東頭さんが「あれ?」と首を傾げた。先に照れたくせに復活早くない!?


「そういえば、今日は南さんがいませんね?」

「私たち、別にセットじゃないんだけど」

「そうなんですか? わたしと水斗君程度にはセットだと思ってましたけど」

「それは相当ね……」


 いつの間にそういう認識になったんだろう。でも私自身、一番仲のいい友達は誰か、と訊かれたら、暁月さんと答えるけど。


「実はさっきLINE送ったんだけど、返ってこないのよね。既読も付かなくて……」

「もしかして……この前わたしがやらかしたの、まだ怒ってるんですかね……?」

「そんなことないと思うけど。そっちにも連絡来たんでしょ?」

「そうなんですけど……大丈夫ですかね? 大丈夫ですかね?」


 心配しすぎ――と言ってしまいそうになるけれど、元人見知りとして彼女の気持ちはよくわかる。人との会話での小さなやらかしが、いつまでもいつまでも気になって仕方がないのだ。

 彼女のためにも――そして様子を見るためにも、暁月さんの顔を今日中に見ておきたいのだけれど――


「――なになに~? あたしの陰口?」

「あわあっ!」


 東頭さんが素っ頓狂な声を上げて、びくんっとその場で飛び上がった。

 その背後からひょっこり顔を出したのは、他あらん、暁月さんだ。


「暁月さん、今までどこにいたの? LINE送ったんだけど」

「ほんと? ごめ~ん、ちょっとぽんぽんがぺいんでさっ」


 それを聞いた東頭さんがほっと息をつく。


「なんだ、そうなんですか……。わたし、てっきり……」

「てっきり?」

「いえいえっ、何でもないならいいんです!」

「気になるな~」


 暁月さんはおどけた調子で言って、東頭さんに絡みついた。いやらしくわきわきさせた手を東頭さんの豊満な胸に近付けてからかい始める。

 それは丸っきり、いつも通りの調子だった。

 満足したのか、暁月さんは東頭さんから離れて、ぽんっと手を打った。


「そうそう! 聞いたよ、結女ちゃん!  1位奪還したんだって? おめでと~っ!!」

「ありがとう。暁月さんは――」


 努めて何気なく、私は訊いた。


「――期末テスト、どうだった?」

「あたし? あたしはねぇ……」


 あはは、と暁月さんは誤魔化すように笑う。


「今回はちょっと油断しちゃったかなあ。赤点ではないけどね」

「おや? もしかして仲間ですか?」


 きらっと目を輝かせて、東頭さんが前のめりになった。


「東頭さんよりはいいんじゃないかな~。でも、こんなことならあたしも結女ちゃんに教えてもらえばよかったよ」

「……そうね。2学期は、きっと」

「ほんとっ? ありがと~! 約束だよっ!」


 なんとなくだけど……話を誘導された気がした。

 勉強を教えると、私から言い出すように、導かれた気がした。

 だけど、それは口には出さない。


 それからしばらく立ち話に興じた後、東頭さんが言う。


「じゃあわたし、首位陥落した水斗君を煽ってきますね!」

「やめなさい。本気でキレられるわよ」

「それはそれでアリです! それではーっ」


 東頭さんはぴゅうーっと図書室のほうへ消えていった。

 相変わらず、主張が少ないようでいて我が強い子だ。おどおどしているかと思えば空気を読まずに言いたいことを言うし――大人しい、のではなく、マイペース、と言うのだろう、彼女みたいな人は。


 頭の中に、いくつかの思考が過ぎった。

 言い方を変えれば、迷い、あるいは躊躇か。

 やるべきか。やらざるべきか。意味があるのか。ないのか。

 だけど私は、ほんの数秒で、そのすべてを捨て去った。


 たまには、東頭さんを見習ってみるのもアリかもしれない。

 そう思ったのだ。






 今日の下校は珍しく暁月さんと二人きりになった。

 テスト期間中からこっち、他の友達と4人連れ立っての下校だったり、東頭さんと合流して3人になることが多かったりしたのだけれど、他の友達は夏休み前の部活の集まりがあり、東頭さんはテスト勉強で読めなかった本を水斗と一緒に謳歌していた。


「夏休みどこ行く~? 勉強合宿までちょっとあるよねー」

「とりあえず私は、先に宿題を片付けるつもりだけど……」

「あー、そうだよねー。あたしもそうしよっかな。んじゃあ、7月はあんまり遊べないかなあ。夏休み本格スタートは8月からかあ」


 暁月さんが拍子良くぺちゃくちゃと喋り、私がそれに相槌を打つ。1学期、3ヶ月間ですっかり慣れた、私たちの会話のリズム。

 別に何もしなくたって、この居心地のいい時間がなくなるわけではないのだろう。暁月さんは私やあの男みたいな不器用じゃない。私が多少の不作法をしても、自分が多少の失敗を晒しても、うまく取り繕って、うまく覆い隠して、次の日には『いつも通り』にしてくれる。


 だからこそ。

 今日は私が、勇気を出すべきだと思うのだ。


「あ……暁月さんっ!」

「んわっ!? なになに?」


 暁月さんが驚いた顔をして立ち止まり、私の顔を見つめる。

 私は意を決して――生まれて初めての台詞を、敢然と言い放った。


「……カラオケ、……行かない……?」


 ぱちぱちと、暁月さんは目を瞬く。


「珍しいね? 結女ちゃんからカラオケ誘ってくれるなんて」

「ま、まあ……テストも終わったし。お祝い、みたいな?」

「いいの? 二人しかいないけど」

「ま、まあ……たまにはいいかなって」

「ふうん……」


 暁月さんは少し間を取った。

 ふ、不自然だったかな? 理論武装に、さほどの綻びはないと思うんだけど。うううう、今まで遊ぶときは、他のみんなが決めてくれるのに身を任せていたから……!

 私が思わずその場から逃げ出したくなる、その寸前に――暁月さんは、パッと明るく笑顔を浮かべた。


「いいね! 行こう行こう! 今日は密室で結女ちゃんを独り占めしちゃう!」

「……そう言われると身の危険を感じるわ」






「お~。あたし、二人っきりで入るの初めてかも」

「そ、そうね。私も……」

「なんか緊張してない?」


 カラオケボックスのソファーにぼふんっと腰掛けながら、暁月さんはからかうように笑う。

 私は思わずぎくりとしてしまったけど、すんでのところで態度に出すのは我慢した。

 すう、と深めに息をする。

 今日は、態度ではなく……行動に出そう。


「私……実は、人前で、一人で歌ったこと……ほとんどないの」

「そうだっけ? ……あー、そっか。みんなと歌ったり、あたしとデュエットしたり……そういえば、そういうのばっかだね」

「うん……」


 だから、これは、私にとって……確かに、勇気の要る告白なのだ。

 私は荷物をソファーの上に置くと、そのまま腰掛けもせず端末を操作して、曲を入れた。

 マイクを手に取ると、暁月さんが「おーっ」と拍手をする。


 ――中学の頃、合唱コンクールの練習などにおいて、特に私が力を入れていたのは、目立たないことだった。

 上手くなること、じゃない。

 それは失敗をして悪目立ちしないための手段でしかない――下手に上手くなりすぎても、やっぱりはそれはそれで、変に目立ってしまうのだから。

 人の輪から外れるのが嫌だった。

 周囲から浮いてしまうのが嫌だった。

 常に誰かの中に紛れていなければ、どうしようもなく不安だった。

 こんなに不出来で、不器用で、不格好な私の声なんか……できれば、誰にも聞いてほしくなかったのだ。


 だけど。


 ああ――何度もあった。何度も何度も何度もあった。

 うまくいかなくて、もどかしくて、悲しくて、つらくて、寂しくて――何でもいいから、誰でもいいから、この気持ちを、私という存在を、ただただ叩きつけたいというとき。

 そう。

 私にだって……叫びたいときくらい、ある。

 野暮ったい地味女でも。

 才色兼備の優等生でも。

 そんなキャラクター、全部かなぐり捨てて――

 喚き散らしたいときだって、あるのだ。


 そういうとき、誰にそばにいてほしいと思うだろう?

 伊理戸水斗?

 東頭いさな?

 いいえ……どっちもちっとも、しっくり来ない。


 そうだ。

 そういうとき、私の叫びを聞いてほしいと思うのは――




「――――――っ――――――っっっ!!!!」




 私はお腹の底から声を絞り出して、握ったマイクに叩きつけた。

 私の感情が、狭いカラオケボックスを満たす。 


 それは苛立ちだった。

 かつて、身に覚えのない嫉妬をされたとき、ちっとも察することができずに、彼に謝らせてしまった私への。


 それは決意だった。

 眼鏡を外し、髪を下ろしたときに誓った――あのときと同じことは二度と繰り返すまいと。


 言葉にはしない。

 叫んだ歌詞は、私の気持ちとはまるで関係がない。

 それでも、それでも……それは、心を曝け出す歌だった。


「――……っはあ……はあっ……――!!」


 歌い終えた頃には、肩で息をしていた。

 喉もちょっと痛い。

 普段、大声なんて全然出さないくせに、いきなり無理をしすぎた。

 けれど……何だか、頭の中に掃除機をかけたみたいに、清々しい気持ちだった……。


「……結女ちゃん……」


 唖然とした風に私を見上げる暁月さんに、淡く笑いかける。


「暁月さっ――げほッげほッ! ちょ、ちょっと待って……」

「だ、大丈夫っ!? お水お水!」


 暁月さんから水をもらい、一気に飲み干した。

 ふうと息をついて、糸が切れたように暁月さんの隣に座って、ようやく人心地つく。


「ありがとう……」

「う、うん。別にいいけど。どうしたの? 今日は、なんていうか……」

「下手だったでしょ」

「え」


 一瞬、口を開けて固まった暁月さんを見て、私はくすくすと笑った。


「誤魔化さなくていいのよ? 

「え……っと……」


 迷ったように曖昧な表情になった暁月さんを横目に、私は手の中のマイクを見下ろす。

 もちろん、上手いはずがないのだ。ろくに歌ったことなどないのだから。

 黙っていれば、暁月さんはうまく誤魔化してくれただろう。取り繕ってくれただろう。この場に他の人間がいたとしても、うまいこと場を盛り上げてくれたに違いない。

 だけど……。


「私はね、暁月さん――友達だから秘密はなしなんて言うつもりはないの。話せないことの一つや二つ、誰にだって、どんな関係にだってあって然るべきだし……むしろ、あんまり何でもかんでも話されても困っちゃうしね」

「……うん。そうだね」

「でもね」


 暁月さんの顔を見つめる。


「私、暁月さんが一人で歌ってるところも、見たことないわ」


 カラオケに来るとき、暁月さんは常に誰かと一緒に歌っていた。

 ムードメーカーで、率先して場の空気を暖めているから気付きにくいけれど……同じことをしていた私の目は、誤魔化せない。

 何も答えない暁月さんに、私はさらに続ける。


「どうしてなんて訊かない。私だって言わないし。でも――」


 私にとって、南暁月がどういう存在なのかを、示すために。


「――少なくとも、今。私は、あの男にも、東頭さんにも聞かせたことのない歌声を、あなたに聞かせたわ」


 私は、マイクを暁月さんに差し出した。

 もちろん、意図は明白である。

 ある種の交換条件だ――こうするために、そうしてもらうために、私は先に自分を曝したのだ。


 暁月さんは何秒かの間、差し出されたマイクを見下ろしていた。

 けれど、不意に。

 困ったような、呆れたような、いつもとは全然違う笑みを、滲ませたのだ。


「……ずるいなぁ。ほとんど脅迫じゃん」

「ごめんなさい」


 少しも躊躇わず、快活に、暁月さんは言って――マイクを握る。

 すっくと立ち上がり、マイクを自分の口に向けて、私のほうに振り返った。


「訊かないって言ってくれたけど、あたしが人前で歌わない理由、教えてあげる」


 エコーのかかった声で言い、暁月さんは不敵に笑った。


。――参考にしてね、結女ちゃん?」


 そして披露された暁月さんの歌声は――どこまでも広がる蒼穹のような、絶句するほどに美しいものだった。




※※※




「聞いて聞いて! この前あの男にね、新しい夏服見せてやったんだけど! なんて言ったと思う!? 『で?』って言ったのよ! 『で?』って!」

「はあー!? 万死だね、万死! そういえばさあ、あたしもこの前、川波に洗濯やらせたんだけどさ。あたしのお気に入りのブラ見て鼻で笑ったんだよ! 信じらんなくない!? あたしがブラ着け始めた頃はさあ、こっそり盗み見て鼻息荒くしてたくせにさあ!」

「えっ、ちょっと待ってツッコミが追いつかない。川波くんに下着の洗濯させてるの?」


 それからカラオケボックスの時間を何度か延長し、私たちは愚痴話に花を咲かせた。

 話して、笑って、たまに歌って、暁月さんから教えを受けて、ちょっと上達したりして――

 ――そうしてカラオケボックスを出た頃には、長いはずの夏の太陽がすっかり沈んでしまっていた。


「うわっちゃー。完全に夜じゃん。結女ちゃん、お家大丈夫?」

「ええ、たぶん……。お母さんに連絡入れたから。でも晩ご飯もあるし、もう帰らないと」

「そっかぁ……」


 溜め息をつくような調子で呟いて、暁月さんは夜闇を照らす街を眺める。

 何を見ているんだろう。今日の思い出? それとも――

 私のそんな思考は、スマホの着信音に遮られた。

 画面を見るまでもなくわかる。水斗だ。

 普段なら無視することもあるけれど、帰りが遅くなっているから、さすがに出ないわけにはいかない――私は通話状態にしたスマホを耳に当てる。


「もしもし?」

『……今、どこだ?』


 聞き慣れた声が、ほんの少しだけ固かった。


「暁月さんとカラオケ出たところだけど。これから帰るわ」

『ふうん……』


 自分から訊いたくせに、何なのその気のない返事は?

 だけど、さっき愚痴を言い倒したおかげだろう、さほどイラつくこともなかったので、私は少し笑ってこう返してやる。


「もしかして、心配した?」

『……べつに』

「あるいは……私が、誰かとデートでもしてると思った?」

『……………………』


 おっと。手応えアリ。

 と思ったのだけれど、


『だったとしたら、そっちのほうが心配だな』

「え?」

『相手に、君が迷惑をかけてないかってさ』


 ……相変わらず減らない口だ。

 いつもなら私が怒って終わりの場面だった。だけど――私は、そばにいる暁月さんを見る。


「……その心配には及ばないわ」

『ん?』

「少しくらいの迷惑なら、大丈夫な相手だから」


 それを聞いた暁月さんは、ぱちぱちと目を瞬いた後――にまあ~っ、と嬉しそうに笑う。

 それから、ぴょんっと私の首に飛びついて、スマホに向かってこう叫んだ。


「そういうわけだから! ごめんね、伊理戸くん!」


 まさにそのタイミングで、まるで示し合わせたみたいに、私は通話を切る。

 私は暁月さんの顔を見た。

 暁月さんも私の顔を見た。

 数秒、見つめ合って――ぷっと噴き出す。


「あはっ!」

「あははは!」

「あはははははははははっ!!」

「あははははははははははははははははははははっ!!」


 むやみにおかしくなって、やたらに笑い合いながら、私たちは家路を歩いた。

 明るい夜の雑踏に、私たちは二人きり。

 二人とも制服だから、もしかしたら補導されるかも。

 それはさすがにシャレにならないけど――まあ、その辺りは、きっと暁月さんが何とかしてくれるだろう。


「夏休み、結局どうしましょうか」

「そうだねー。とりあえず、結女ちゃんがナンパされそうなとこはパスねっ!」

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