川波小暮が認めてくれない。「どういうことだよ伊理戸!」


 今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないが、僕には中学2年から中学3年にかけて、いわゆる彼女というものが存在したことがある。

 というわけで、ご存知だろうか。クリスマスにバレンタイン、正月、誕生日、それに記念日――実に忙しのないスケジュールで生きるカップルたちの中でも、特に学生カップルにのみ訪れる、特殊定期イベントの存在を。

 ひと月半から2ヶ月ごとに1回、1年で合計5回もあるそれこそは、そう――『テスト勉強』である。


 おっと。

 テスト勉強のどこがイベントなんだと思われてしまっただろうか。あんなものは地獄であり苦痛でしかない、イベントというにはあまりにも拷問性が高すぎるという声が聞こえてくるかのようだ。これはこれは申し訳ない。恋人と一緒に勉強会をしたことがない人間にはそう思えてしまうよな。


 その通り。

 あんなものは、地獄であり苦痛であり拷問でしかない。


 あれは確か、付き合い始めてしばらく経った頃、中学2年2学期の期末テスト前だっただろうか――その前回、つまり中間テストの際に起こってしまったことに関して、僕たちは危惧を抱いていた。

 あの女が密かに僕の消しゴムを崇め奉っていたこと? いいや、確かにそれもおぞましい事実ではあるけれど、このときの僕はそれを知らなかった――起こってしまったことというのは、もっと現実的な危機だ。

 成績が下がったのである。

 目に見えてわかるほどじゃない。平均80点だったのが75点に下がった、そのくらいの低下だったと思う。しかし、付き合い始めたばかりで頭が茹だっていた(この後も数ヶ月に渡って茹だりっぱなしだったわけだが、この頃は特に)僕たちに冷や水を浴びせるのには充分な程度の、それは有意なデータであった。

 このまま行くと、マズい。

 期末テストを前にした僕たちの、それが共通見解であった――ゆえに、対応として、僕たちは以下のような策を執ったのである。

 ずばり――人目のあるところでは一緒に勉強しないこと。


 一緒に勉強するのをやめろや。


 と突っ込みを入れるのは我慢していただきたい――付き合い始めたばかりの中学生カップルというのは、判断力を著しく欠いているものなのだから。そんな合理的な正論が通じるとでも? 異常なものには異常な態度でもって対するのが冴えたやり方である。

 とにかく、イチャつくのはテスト期間が終わってからにしよう。

 そう決定した僕たちは、主に少し離れたところにある図書館を利用することにした。同じ学校の生徒が滅多に来ないし、何より沈黙が強制されるからだ。

 夏休みの間、僕たちが逢引きを繰り返していたことからわかる通り、学校の図書室は小さな声なら私語も許されてしまう雰囲気がある――その点、見ず知らずの地元人が集まる公共施設ならば、さしもの厚顔無恥、いや失敬、中学生カップルといえども会話に興じることは難しい。


 ――……………………

 ――……………………


 隣同士に座っていながら、一言も発することなく、ただページをめくる音とシャーペンを走らせる音だけが漂っていた。

 テスト勉強の、これがあるべき姿である。これ以外の行為は何もいらない。こそこそ話してくすくす笑ったり、意味もなく肘でつつき合ったり、偶然のふりをして小指を触れ合わせたりする必要は一切ない。僕たちは正しいテスト勉強を取り戻していた。

 しかし、ひとつの罠があった。

 人目があってイチャつくのを我慢しなければならない、というシチュエーション――愚かで、そして色ボケの中学生カップルにしてみれば、むしろそっちのほうが危険であるということに、僕たちは気付いていなかったのだ。

 最初は、綾井のほうからだった。


 ――……伊理戸くん。ここって……


 教科書を指差しながら小声で言ってから、あっと慌てて周りを見回す綾井。幸い、誰にも聞き咎められてはいなかったが、この静寂の空間では普通の小声でも目立ってしまう。

 筆談にしようか、と僕はペンを持ったのだが、その前に綾井が、どこかもどかしそうに僕の顔をチラ見して、……ズズ、と座る椅子をこちらに近付けた。

 肩が触れた。髪からシャンプーの匂いがくっきりと香った。思わず硬直する僕の耳に、まるで息を吹きかけるようにして、綾井は小さく囁きかける。


 ――ここ……わかる……?


 静寂の中、耳の穴に直接流し込まれた声に、ビリビリと脳髄の奥に痺れが走った。

 人目のある場所。喋ってはいけない場所。触れ合ってはいけない場所。

 そんな風に、環境で自分たちを雁字搦めにしていたからこそ、至近距離から脳味噌に叩き込まれたその声は、あまりにも刺激が強かった。


 我慢してたのに。

 話したいのを、触れたいのを、頑張って我慢して意識から追い出していたのに。


 抗議なのか何なのか、ぐちゃぐちゃな感情のまま隣を見た僕は、その瞬間に目撃する。

 綾井がすいと目をあらぬ方向に逸らして、もどかしそうに口をもにもにさせているのを。

 方法なら、いくらでもあったはずだ。

 筆談でも良かったし、スマホを使う手もあった。質問がしたいだけだったら、耳元で囁きかけるなんて誘惑めいた綾井らしくもないこと、する必要なんてなかったんだ。

 リップが塗られ、控えめに輝く桜色の唇が、視界の中央から動かなかった。


 ――……教科書じゃ、ちょっと、わかりにくいな


 とにかく、ここはダメだ。ここは、離れないと。


 ――参考書……探しに行こうか

 ――……うん


 本当、クソだよな、カップルってやつは。

 時も場所もわきまえず、いつだろうとどこだろうとすぐに発情する。知恵こそを最大の特徴とする人類の面汚しだ。

 きっとこの点についてだけは、今のあの女とも意見を同じくすることができるだろう。


 ――……えへへ


 大きな本棚の陰で、リップが少し付いた僕の唇に、綾井の吐息が小さくぶつかる。その誤魔化すようなはにかみ笑いを、僕はぼうっとした心地で見つめていた。


 ――ご……ごめんね? その……邪魔して……

 ――いや……綾井って、意外とスケベだよな

 ――そ、そんなことっ……! ……、ある、かも


 そう言って、綾井は僕の首に手を回したまま、上目遣いでちらりと僕を見上げる。

 まったく、女というのはどうしてこんなに変わるんだろう。この四ヶ月前までは、子供の作り方さえ知らなさそうな純朴さだったのに。

 そして、僕も僕だ。この四ヶ月前までは、女子になんかこれっぽっちも興味がなかったくせに――こんな単純な誘惑に、流されてしまうんだから。

 綾井が再び、長い睫毛をそっと伏せた、その瞬間だった。


 ――……ふわっ……!


 小さな、甲高い、驚いたような声が聞こえたのだ。

 僕らが弾かれたように振り返ると、そこには小学校中学年くらいの小さな女の子がいた。

 女の子は顔を真っ赤にすると、もたもたと足を縺れさせながら僕らから逃げていく。


 ――……………………

 ――……………………!!


 気まずい沈黙が流れる中、綾井の顔が見る見ると、果実が熟すかのように赤くなった。

 どちらからともなく、そうっと、まるでなかったことにするかのように、身体を離す。


 ――……ええ、と


 綾井は耳まで赤くして俯いていた。かける言葉が見つからない。いや、まあ、見られたのが小さな女の子でよかったと考えることもできるかもしれない。もしかしたら一生の思い出にされてしまったかもしれないけど。

 冷や水を被せられた頭がぐるぐると考えた末、僕はこう述べることしかできなかった。


 ――…………とりあえず、外、出ようか

 ――…………うん…………


 当然ながら、成績はほとんど上がらなかった。

 こんな辱めを受けて成果も上がらないって、拷問以外の何でもないだろう。




※※※




 7月。

 鬱陶しい梅雨が遠く過ぎ去り、制服も衣替えを迎えた。生徒の全員が解放的な半袖姿に様変わりしたが、しかし校内には、解放感の真逆を行く緊張感が張り詰めつつあった。

 理由は言うまでもない。


「東頭――君、期末テストは大丈夫なのか?」


 放課後、いつものように図書室の窓際に行くと、いつものように東頭いさながライトノベルを嗜んでいたので、僕は前から気になっていたことを訊いた。

 口絵イラストの美少女を眺めながらでれでれしていた巨乳オタク女は、ぴきりと時が止まったように硬直する。


「……………………」

「東頭?」

「……え? なんだって?」

「無理があるだろ」


 そのとぼけ方じゃ1巻の前半でヒロインレースが終結するよ。

 東頭は両手で自分の頭を抱えると、「ううっ……」と苦しげに呻きだした。


「思い……出した!」

「ほほう」

「ちょっと今日は野暮用があるのでこれで失礼しま――」

「逃がすか」

「あうーっ!」


 そそくさと逃げようとした劣等生の首根っこをむんずと捕まえる。

 じたばたと手足を暴れさせやがったので、後ろから羽交い締めにして、首と肩をロックした。


「あいだだだだっ! ギブ! ギブですーっ!」

「決着はKOのみだ」

「デスマッチ!? こ、こうなったら……!」


 東頭は暴れるのをやめたかと思うと、急にもじもじと身体を動かして、訴えるような瞳でちらりと僕を振り返る。


「み……水斗君……。お尻に、硬いのが当たってるんですけど……」

「ポケットのスマホだ」

「あいだだだだっ!」


 あの女と南さんの入れ知恵で多少は駆け引きというものを学んだらしいが、僕には通じない。

 ようやく抵抗が弱まったので、僕は東頭を壁に押しつけ、顔の横に手を突いた。


「で? テスト勉強は?」

「あのう……それ、壁ドンしながら訊くことじゃないと思うんです……」

「テスト勉強は?」

「…………し、してません…………」


 顔を近付けて問い詰めると、東頭は泣きそうな声で答えて顔を逸らす。


「そ、そんなに言わなくたって……まだテスト期間にも入ってないじゃないですか……」

「たかだか1週間のテスト期間で間に合うと思うのか? 君のことだから、どうせ授業中も隠れてラノベ読んでるんだろうが」

「ううっ……!」

「赤点続きだと下手すりゃ留年だぞ。君、僕の後輩になりたいのか?」

「……水斗先輩?」

「ちょっとなりたくなってんじゃねえよ」

「ひううっ! ど、ドスの利いた声やめてください! ドキドキするからやめてくださいっ!」


 東頭が顔を赤くしてぐいぐい僕の胸を押しのけるので、僕はいったん壁ドンを解いて溜め息をついた。


「僕は君のためを思って言っているんだぞ?」

「水斗君はわたしのお母さんなんですか……?」

「もし君が僕の後輩になってしまったら、もう教科書を忘れたときに貸してやることはできなくなるんだからな」

「う、うううっ……そ、それは困ります……」


 忘れっぽい女・東頭いさなは、弱りきった顔でうんうん唸る。


「でも、そう言ったってどうすれば……。この学校、勉強難しすぎるんですよぅ……。中学の頃は、わたしだって頭いいほうだったのに……」

「地頭の良さはある。ここに入学できてる時点でそれはわかってる。あとは量の問題だ」

「量……」

「僕が、成績を改善できるだけの知識を、君の頭にぶち込んでやる」


 東頭はさっと手で口元を覆うと、視線をしどけなく斜め下に逸らして、か細い声で言った。


「わたし……水斗君に、ぶち込まれちゃうんですね……」

「そういうのはいいから」


 下ネタで逃げようったって無駄だ。

 かくして次の土曜日、昼過ぎに我が家に来ることを、東頭いさなに約束させたのだった。






 それから翌日のことである。


「……やべえ……」


 この世の終わりのような顔をしている男が、僕の目の前にいた。

 川波小暮である。

 真面目な進学校にあって髪先を遊び呆けさせている、反体制を体現するようなその男は、僕の机に顔を突っ伏して絶望していた。


「やべえ……期末テスト、やべえ……」

「と言いながら高得点を取るタイプ――ではなさそうだな」

「あったりめーだろ!! 中間テストだってよ、必死こいてギリギリだったんだからな!!」

「君ほどの人脈があれば、過去問のひとつやふたつ手に入るだろう。それでもダメだったのか?」

「……ここの教師は手練れだ……。こっちの手の内は完全に読まれている……」


 激しい戦いを乗り越えて自信をつけたものの新たな敵に実力差を見せつけられた奴みたいになってるな。


「助けてくれ、学年1位! オレにはもうあんたしかいねえ!」

「気持ち悪いから嫌だ」

「何でも好きなもん奢ってやるから!」

「ほほう」


 いま何でもって言ったな?


「欲しい絶版本があるんだが、ネットでとんでもなく値段が吊り上がってるんだよな……」

「ぐっ……! な、何でもとは言ったが、限界はあるぜ? あるからな?」

「近場の古本屋で探しても見つからないんだよな……」

「限界! 限界を見極めてくれ! なあ!?」


 まあ、別に僕が望んだわけじゃないが、この男には服を奢ってもらっていることもある。今回はワンコイン程度で手を打ってやるとしよう。

 しかし、東頭にも教える予定だからな……。同じ範囲を2回も教えるのは面倒だ。

 よし、こうしよう。


、僕の家に来い。持てる限りの叡智を授けてやる」

「恩に着るぜ老師!」

「誰が老師だ」


 まとめて教えたほうが手っ取り早い。

 東頭と川波は初対面だが、まあ川波はコミュ力最強だから問題ないだろう。






 かくして、土曜日が来た。

 僕は待ち合わせて合流した川波を連れて、我が家の前に立っていた。


「何気に来るのは初めてなんだよな、伊理戸家。伊理戸さんのお見舞いのときはハブられたしよ」

「僕も男を家に上げるのは初めてだな」

「女は初めてじゃないみたいな言い方だな」

「南さん」

「ああ……。アイツを女扱いするたぁ、あんたもお人好しだな」


 お人好しのハードル低いな。南さんの性別を把握しているだけで主人公みたいな扱いを受けるとは、なんとお得な。

 というか別に、家に上げたことのある女子は南さんだけじゃないんだが。


「まあ入ってくれ。いい加減、外は暑い」

「だな。っちー」


 7月の陽射しは強烈だ。シャツの襟をぱたぱたして空気を送り込む川波を連れて、僕は玄関扉を開いた。


「お邪魔しまーす。……親は?」

「親はいない」

「親は、か。……ってことは、これは伊理戸さんの靴か」


 三和土に置いてある女物のスニーカーを見て、川波は言う。

 目端の利く奴だ。……だけど、そのスニーカーは結女のものじゃない。


「どうやら、もう来てるみたいだな」

「ん? 誰が?」


 川波が怪訝そうに首を傾げたとき、がらりとリビングのドアが開いた。

 部屋着のロングスカートと長い黒髪がふわりと揺れる。リビングから現れたのは、我が不肖の義妹、伊理戸結女だった。

 結女は玄関にいる僕と川波を見て、ぽかんと口を開ける。


「こんちわ。邪魔するぜ、伊理戸さん」


 軽く手を挙げて挨拶する川波だったが、結女はそれには応えず――


「ちょっ……ちょっ、ちょっ、ちょっ、ちょちょちょちょちょっ!」


 どたばたと廊下を駆けてきたかと思うと、僕の腕をぐいっと引っ張って、川波から引き離した。

 階段のところまで僕を引っ張ると、結女はなぜかこそこそと、しかも批難する口調で言う。


「(ちょっと、何してるのっ!? なんで川波くんを連れてくるのよ!?)」

「何でも何も……勉強を教えてくれって頼まれたからだが」

「(まさか、忘れてないわよね……? 今日はあの子もいるのよ……!?)」

「ああ。無事に入れたみたいだな。最悪、僕らが帰るまで玄関の前でうろうろしてるかもと思ったが」


 一人で他人の家を訪ねられるとは――東頭の奴も成長したな。


「同じことを2回も教えるのは面倒だ。まとめて教えたほうが効率的だろう?」


 極めて冴えた考えだ。僕は僕の頭脳に非常に満足している。

 うんうんとうなずいていると、結女は頭痛がしたかのように額を押さえた。


「(あーもうそうか……! この男はこういう奴だった……!)」

「何だか馬鹿にされた気配がするんだが。出るか、表?」

「(とにかく! 川波君はあなたの部屋に連れていきなさい! リビングの東頭さんは私が教えてあげるから――)」

「――結女さーん?」


 リビングの中から東頭の声がした。


「水斗君が帰ってきたんじゃないんですかー? 結女さーん!」

「ちょっ、ちょっと待って! 今はまだ――」


 がらりとリビングの引き戸が開く。

 そこには、この前結女や南さんに選んでもらったという私服姿の東頭いさながいた。

 そして。

 東頭いさなの目と――川波小暮の目が。

 正面から、見間違えるはずもなく、互いの姿を捉えたのである。


 目を細め。

 眉をひそめ

 不審も露わに、二人は言った。


「……誰ですか、あなた?」

「……誰だ、お前?」


 ああ……、と結女が諦めたように目を覆う。

 僕は首を傾げた。

 なんなんだ、この変な空気?






「わたしは東頭いさなです。水斗君の唯一にして無二の友達です」

「オレは川波小暮だ。伊理戸の最大にして最初の友達だぜ」

「はあ?」

「ああ?」


 我が家のリビングにて、初対面の男女が僕を挟んで睨み合っていた。

 左の東頭が僕の腕を引っ張る。


「どういうことですか水斗君! 誰ですかこのチャラ男はっ! こんなの嘘ですよねっ! 水斗君の友達はわたしだけですよねっ!? ねっ!?」


 右の川波が僕の肩を揺らす。


「どういうことだよ伊理戸! 誰だこの巨乳女は! なんでこんなのがここにいる!? この家はあんたと伊理戸さんの聖域だろうが!!」


 どうしてこうなった。

 誰に対しても人見知りな東頭が、誰に対してもフレンドリーな川波が、まさか一目見るなり反目し合おうとは夢にも思わなかった――本当に、どうしてこうなった? さっぱり理由がわからない。

 そりゃあ確かに、東頭の性格的に川波みたいな軽薄そうな奴は受け付けないだろうし、川波も東頭みたいなタイプとはつるまないだろうが――

 二人に引っ張られてぐらぐら揺らされる僕をしり目に、結女の奴はスマホで誰かと話していた。


「(暁月さーんっ……! 助けてーっ……!!)」


 どうやら助けは入らなそうなので、僕は仕方なく溜め息をついて、二人の身体をぐいっと引き離した。


「まあ待て、落ち着け。どうやら双方、何か誤解があるようだ」

「「誤解?」」

「川波。この女子は東頭いさな。最近知り合って意気投合しただけの友達だ」

「……最近知り合って意気投合?」

「東頭。この男は川波小暮。親友を自称し、勝手に付きまとってくるだけのクラスメイトだ」

「……勝手に付きまとってくる?」


 東頭と川波は、値踏みするように眉間にしわを寄せ、お互いの顔を睨みつける。

 こいつらがどんな誤解をしたのかは正直あまり見当がつかないんだが、まあどういう誤解であれ、事実を冷静に認識しさえすれば解けるはずだ。

 かくして、僕の冷静な説明が功を奏したか、二人はそれぞれ納得深げに首肯した。


「なるほど。水斗君のストーカーなんですね」

「なるほど。伊理戸を狙った美人局つつもたせか」

「なぜそうなる!!」


 僕の話、ちゃんと聞いてたか!?

 東頭が僕の腕をぐいっと引っ張って、胸の中に抱き締めた。二の腕が豊かな肉の中にむにりと埋まるが、それを気にした風もなく、番犬めいた目で川波を睨みつける。


「近付かないでくださいストーカーさん。水斗君はわたしの友達です。誰にも渡したりしませんっ!」

「そっちこそその汚らわしい手を離せ詐欺師め」


 川波は眼光に殺気を漲らせ、高圧的に見下しながら東頭の顔を指差した。


「オタクなら簡単にオトせるとでも思ったか。残念だったな、伊理戸はそんなに軽い男じゃねーんだよ。プライドを傷付けられる前に諦めたらどうだ?」

「うぐっ……! な、生々しい傷を無遠慮に……!」

「おっと! どうやらもう返り討ちにされた後だったみてーだなァ! こりゃあ残念だぜ! 身の程をわきまえないしゃしゃり女の吠え面が見られなくてよォ~~~~~ッ!!」

「うっ……うううう~っ……!! 水斗君~~~……っ!!」


 涙声になって僕の後ろに隠れる東頭。

 さすがの僕も、黙っていられる場面ではなくなった。


「悪いが、東頭をいじめるのはそこまでにしてもらおうか、川波」

「なにっ!? まさかそっちにつくつもりか!?」

「あっちもそっちもない。彼女の何が君の逆鱗に触れたのか知らないが……東頭とは、もしいじめられたら一緒にいじめられてやると約束しているんだ」

「みっ……水斗君……」

「東頭さんがときめいているところ悪いんだけど、どうせなら助けなさいよ」


 性悪女が茶々を入れてきたがスルーする。


「確かに僕は彼女をフッたが、告白した勇気は尊重されるべきだ。ましてや嘲笑なんてしていいわけがない。訂正してもらうぞ、川波」

「え……!? やべ。こいつ普通に怒ってる……!?」

「川波くん……何に拘ってるのか知らないけど、謝ったほうがいいわよ。そいつ、なぜか東頭さんに関してはめちゃくちゃ沸点低いの」


 当然だろう。友達を嘲られたら、その倍の怒りでもって返すべきだ。みんなそうだろう?


「ぐっ……」


 それでも、川波はしばらく苦虫を噛み潰したような顔で抵抗していたが、僕が無言で睨み続けていると、やがて折れたように頭を下げた。


「……悪かった……。ちょっと冷静さを欠いた……」

「だとさ。どうする、東頭?」

「まあ許してあげましょうか。あの野放図に髪先をハネさせたダサい髪型に免じて」

「てめえ!! 実は全然傷付いてねーだろ!!」

「ひうっ! み、水斗君~~……」

「…………おい、川波」

「…………か、重ね重ねすみませんでした…………」


 もう一度下げた川波の頭を見下ろして、僕は許してやることにする。わかればいいんだよ、わかれば。


「……………………(べっ)」

「あ!? おい、見たか伊理戸! そいつ舌出したぞ! 今っ!」

「んん?」


 言われて東頭を見たが、そこには小動物のように怯えたオタク女子がいるだけだった。

 僕はもう一度、川波に視線を向ける。


「デマゴーグの拡散とは感心しないな……」

「なんでだよ!? なあ伊理戸さん、これどうなってんの!? オレの知らねーうちに伊理戸がおかしくなってんだけど!」

「さ、さあ……私もいまいちよくわからなくて……」


 まったく心外な連中だ。僕は当然のことをしているまでだというのに。


「そろそろ勉強するぞ。時間がないんだ。教科書を広げろ」

「ええ~? 水斗君の部屋行かないんですか? 今日は奥の本棚漁りたかったのに……」

「テストが終わったらな」

「やったーっ」


 リビングテーブルに東頭の教科書やノートを広げてやっていると、後ろから川波の呻き声が聞こえた。


「うぐぐ……! 悪夢だ……!」

「川波くん、どうしてそんなに苦しんでるの……?」






 多少ゴタつきはしたが、その後は当初の予定通り、勉強会を始めることができた。


「ウチの現文のテストは深読みするくらいでちょうどいいんだ。この過去問だと、この記述とこの記述から――」

「公式を覚えるんじゃなくて公式の使い方を覚えるの。横着して教科書の暗記だけで済ませようとするからわからなくなっちゃうのよ。ほら、ぐずらないで手を動かす!」


 その予定はなかったんだが、結女が協力してくれたことで僕の負担は半分になった。効率を考えて二人同時に教えることにしたものの、慣れないことを二人分もこなせるかどうか、いささか不安だったので、これは素直に助かった。

 東頭も川波も頻繁に音を上げたが、隙を生じぬ二人体制でもって、予想以上にスムーズに勉強を進めることができた。


「ふいー。疲れました……」


 僕の向かいに座った東頭が、べたっとテーブルに突っ伏した。

 応じて、川波が小馬鹿にするように鼻を鳴らす。


「はッ。この程度で音を上げるようじゃ、学年1位の伊理戸とは釣り合わねーんじゃねーの?」

「…………身長差に尊みがあるように、学力差があるのもアリだと思います」

「ナシだな。やっぱ対等であってこそだろ。特に男の背中に隠れてばっかの女なんざ言語道断。今時流行んねーわ」

「はあ?」

「ああ?」


 東頭と川波がバチバチ視線で火花を散らすが、僕はもう相手をしていなかった。この数十分、何度同じものを見たことか。越えちゃいけないラインを越えない限りは勝手にやらせておこう。


「ちょっと休憩しましょうか。私、お茶淹れてくる」


 結女が立ち上がったので、僕も便乗して立ち上がり、二人でキッチンに移動した。

 ジト目の視線が横合いから突き刺さる。


「……なんでついてくるの?」

「今のあの二人と三人にされたくない」

「今のあの二人を二人っきりにするほうがマズいと思うけど……」


 結女が振り返ると、取り残された東頭と川波が、何を話すでもなく睨み合っていた。

 結女が中腰になってティーポットを探し始めたので、僕はその頭の上に身を乗り出し、上の棚から茶葉の缶を取り出す。


「東頭さんはともかく、どうして川波くんまであんな感じなのかしら……」

「知らないほうがいい。君はとにかく、不用意な行動を控えるだけでいい」


 結女が差し出してきたティーポットを受け取り、茶葉の缶を開ける。


「はあ? 私がいつ不用意な行動をしたのよ」

「むしろ僕は、なんで東頭があんな感じなのかわからないよ」


 川波のほうは、今までの言動からなんとなく類推できる――今のヤツの行動は、なんというか、解釈違いを起こしたオタクのそれに近い。推しキャラが自分の考えとはまったく違う行動を取ったかのような。

 しかし東頭のほうは不可解だ。基本的に臆病な小動物である東頭いさなが、まさかこんなにも他人を敵視することがあろうとは思わなかった。


「あなたのことを取られると思ってるんでしょ。他に友達がいないから」


 電子ケトルに水を入れながら結女は言う。僕は茶葉をティーポットに入れながら、


「今は君と南さんもいるだろう?」

「それは……」


 結女はシュゴーッと鳴り始めたケトルを止める。


「……もっとわかってあげなさいよ。思いやりが足りないわ」

「ふん。優しさが足りない女とどっちがマシかな」

「誰のこと!?」


 結女が持ち上げたケトルを、僕は一方的に奪い取った。

 茶葉を入れたポットの中に、熱湯を注ぎ入れていく。


「大体、僕と東頭のことをどうして君に口出されなくちゃいけないんだか。東頭に過保護なのは君のほうだろ。何か共感するところでもあったのか?」

「……知らないかもしれないけど、友達を心配するのは人間として当然なのよ。共感するところがあるのは、まあ、否定しきれないけど……」

「ふうん。例えば?」

「例えば……」

「人に靴下を履かせるフェチとか?」

「あれは別にっ――あっ!」


 反射的だったんだろう。

 結女の手が僕の腕を掴んで、結果、僕の手元が狂った。

 注いでいた熱湯が少し軌道を変えて、ティーポットを支えていた僕の指にかかる。


「――っつ!」

「ご、ごめん! 大丈夫!?」


 僕は慌ててティーポットとケトルを置いて、お湯がかかった手を振った。

 人差し指の先が赤くなっている。けどまあ、このくらいならすぐ水で冷やせば――


「ちょ、ちょっと見せて!」


 直後だった。何かを思う間もなく、事は起こった。

 お湯のかかった手を結女に掴まれ、引き寄せられ、かと思ったときには――

 ぱくっ。

 ――と、僕の人差し指が、結女の口の中に入っていたのだった。


「――――――っ!?」


 思考機能が全停止している間に、火傷で敏感になった指先を、暖かく、ぶにりと柔らかで、ぬるぬるに濡れたものが包み込む。それが結女の舌だと理解が及んだときには、すでにしっかり、およそ五秒に渡って、僕は指を咥えた結女の唇を見つめてしまっていた。


「おっ……おいっ!」

「んえっ?」


 僕が慌てて手を引くと、引き抜いた指先から一瞬、つうっと唾液の糸が引いた。

 それがぷつんと切れるのを見ながら、僕は熱湯がかかったわけでもないのに熱くなった頬をこする。


「き、君……何やってんだ……」

「えっ……だ、だって、怪我をしたときはこうだって、昔、お母さんが……」

「火傷は、舐めるんじゃなくて冷やすんだよ……」

「……あ」


 結女の口がぽかんと半開きになって、そのまま硬直する。

 さっきの自分が、ただ男の指を舐め回したい女だったことに、ようやく気付いたか。

 さっき、『私がいつ不用意な行動をしたのよ』って言ったか? よくも言えたもんだな! この体たらくで――


「――ほっほーう」

「――わーお」


 ただでさえ修復が遅れていた思考が、その声でさらなる機能不全を起こす。

 川波小暮と東頭いさなが、片やにやにや笑いを浮かべ、片やわざとらしく口に手を当てて、キッチンカウンターの向こうから僕たちを覗き込んでいたのだ。

 ついさっきまで無言の睨み合いをしていた二人は、まったく同じトーンで言う。


「伊理戸さんって、意外とスケベだよな」

「結女さんって、優等生ぶってるくせにエッチですよね」

「なんでこんなときだけ喧嘩しないのよっ!? い、今のは気が動転してっ――!」


 結女が顔を真っ赤にして抗弁するのを後目に、僕は流しで指を洗う。

 火傷の痛みや唾液と一緒に、肌に残った記憶も洗い流されてくれることを願ったが……まったくもって厄介なことに、今回は証人がいる。僕たちだけがなかったことにして、忘れたことにしたとしても、この二人が蒸し返してくることだろう。

 ……まあ、不幸中の幸いだったのは、見られたのがこの二人だったことか。もし今の場面がに見られていたらと思うと――




 ――ガラリ、と庭に面した掃き出し窓が開いた。




「えっ?」「ん?」「ふえっ」「あ?」


 騒いでいた面子までぴたりと黙って、唐突に開いた掃き出し窓を見る。

 庭に張り出した縁側の上。

 そこに――小動物めいて小柄な、ポニーテールの、不法侵入者がいた。


「やっほー、結女ちゃん♪ 助けに来たよー♪」


 彼女の――南暁月の笑顔を見るなり、ぶわっ!! と背中に冷や汗が浮いた。


「川波ぃ~、こんなとこで、なぁ~にしてんのぉ~? ……それに、今さぁ~。結女ちゃんがスケベとかエッチとか、そんな声が聞こえたんだけどぉ~…………何があったわけ?」


 僕と川波の行動は早かった。

 ありとあらゆる荷物の回収を断念。着の身着のままリビングの出入り口を目指し、


「逃がすわけ――――ないじゃん♪」






「――そういうわけで、東頭さんはもう伊理戸くんとは何ともないの。ただの仲がいい友達なの。そこに邪なものを見いだしているのはあんたの汚れた心なの。わかった?」

「……誰よりも汚れてる奴に汚れてるとか言われたくねー」

「あ?」

「うぐおおおっ!!」


 床にうつ伏せにされた川波の背中に、南さんの小さな足がめりめりとめり込んでいく。

 あの軽そうな体重でどうやったらあんな音が出せるんだ……。

 その隣に座らされた僕の背中に覆い被さりながら、東頭が勝ち誇った声で言う。


「そうです。わたしと水斗君は誰よりも仲良しってだけです。そのチャラいナリで恋愛脳とか恥ずかしくないんですか? これだから人の心の機微がわからない陽キャは」

「東頭さん、東頭さん。その恋人距離感で言っても全然説得力ないから。いったん離れて」

「ええ~?」


 不満そうな東頭を、結女が力尽くで僕から引き剥がす。もう夏だっていうのにべたべたくっつかないでほしいものだ。君の胸はひどく蒸れる。

 南さんがぐるりと振り返り、お叱りの視線を今度は東頭に送った。


「東頭さんもね、友達が他の友達と仲良くしてるからって文句言わないの。そういう友達依存の強い女子ってめちゃくちゃ嫌われるからね。陰口叩かれるからね」

「……み、水斗君は陰口とか言いませんもん……」

「わかんないよ? 知らないところで『あの女めっちゃうぜー』って言ってるかも」

「えっ……!?」


 東頭に縋るような目で見られたので、ご期待に応えることにした。


「この女めっちゃうぜー」

「あうあっ!? ……ご、ごめんなさいぃ~……」


 おっと、少々効きすぎてしまった。僕は縋りついてくる東頭の背中をぽんぽんと叩いて慰めてやる。


「頭も撫でてください……」

「はいはい」

「鼻もかませてください……」

「はいはい」

「ハーゲンダッツ買ってください……」

「はいはい」

「過保護というか、もうただのパシリになってるんだけど」


 義妹が軽蔑の視線を送ってきたが、東頭のヤワな精神が無事でいられるなら安いものだ。


「……友達依存の強い女子は嫌われる、ねえ」


 ふと、川波が皮肉げに唇を歪めて、南さんに視線を送った。

 南さんは冷たい半眼になって視線を返す。


「……なに。言いたいことでもある?」

「いんや。言うまでもなさそうだからな」

「…………うざ」


 南さんはふいっと川波から顔を逸らし、ポニーテールを尻尾のように揺らした。


「で……最後、伊理戸くん」


 膝に手を当てて中腰になり、南さんは座った僕を見下ろす。


「ひとつだけ質問に答えてくれるかな?」

「……なんだ?」

「興奮した?」


 あまりに直接な物言いに、僕は「ふぐっ」と変な息を漏らした。


「結女ちゃんに指ぺろぺろされて興奮したかって訊いてんの。答えられないの? 答えられないくらい興奮したってこと? ねえねえ。ねえねえねえねえねえ!」

「ちょ、ちょっと、暁月さん? やめて? 私も恥ずかしいから!」


 結女にずりずりと引きずられていく南さん。「伊理戸くんのムッツリスケベーっ! あたしは知ってんだぞーっ! なんで伊理戸くんばっかりー!」などと叫んでいる。


「確かに水斗君も意外とエッチですよねー」

「根も葉もない嘘を言うな、東頭」

「あむ」


 完全に唐突だった。

 隣に座った東頭が、僕の手を取って、その指先を口に含んだのだ。

 場の全員が愕然とする中で、東頭は指を咥えたままもごもごと喋る。


「ほうでひゅか? こーふんしまひゅか?」

「……いや、大型犬に懐かれてるような感じ」

「失礼な!」


 僕の指から口を離して、ばしばしと肩を叩いてくる東頭。やっぱりペットにじゃれつかれてるような感じが拭えなかった。


「……なるほどねえ」


 うつ伏せのままの川波が、そんな風に呟いたのが聞こえた。

「よっと」と川波が立ち上がる。めりめり言ってた背骨は大丈夫なのだろうか。

 僕はその顔を見上げて、


「帰るのか?」

「この面子じゃ勉強どころじゃねーしな。あのヤンデレ女も回収してくから安心しろ」

「誰がヤンデレだあ! 病んでるのはお前だ変態ーっ!」

「へいへい」


 結女が捕まえていた南さんを、川波はひょいっとお姫様抱っこで持ち上げた。「わっ」「おおー」と、結女と東頭が感心したような声を漏らす。

 南さんはなおも暴れていたが、川波は気にした風もなくリビングを出ていった。むしろ敷居を潜る際、振り回した手が壁に当たって南さんのほうが悶絶していた。

 一応、見送りに行くと、川波は玄関扉の前でこっちに振り返る。


「東頭、だったな――今日のところは見逃してやるぜ」

「何カッコつけてんだ!」


 南さんにぼこぼこ殴られながらも、川波はそのまま玄関を出ていった。

 東頭は僕の背中に隠れながら、閉じた玄関ドアにべーっと舌を出す。


「こっちの台詞です。次はありませんよ」

「せめて本人に聞こえるところで言えよ」


 つーんとそっぽを向く東頭。……どんな人間にも相性の悪い奴はいるってことか。

 結女が緩く腕を組んで嘆息する。


「結局、川波君は何にこだわっていたのかしら……」

「……聞いたら、君は何か変わるのか?」

「え?」


 結女に怪訝な目で見返されてから、口を滑らせたことにようやく気が付いた。


「いや……なんでもない」


 僕は視線を逸らして、東頭の背中を押す。


「それじゃあテスト勉強を再開するか」

「えっ!? お開きなんじゃないんですか!?」

「川波が帰ったんだから、もう何の障害もないだろうが」

「い~や~で~す~~~っ!!」

「……………………」


 背中に結女の視線を感じたが、気付かない振りをして、僕は東頭を教科書とノートの前に座らせた。




※※※




 その晩、川波からスマホに連絡があった。


『今日は悪かったな。騒がせちまって』

「まったくだ。二度とこんなことがないようにしろ」

『それは約束できねーぜ。あの東頭って女子はオレの敵だ。直感がそう言ってる』


 なんとも難儀な話だ。この難儀な連中が、どうやら僕を取り合っているらしいってところが、特に難儀な話だ。


『……ま、心配しなくても、別に何もしねーさ。ROM専だからな。オレはただ、見ていられればそれでいい』

「わからないな。僕たちがそんなに面白いか?」

『面白い……さあ、どうかね。別に、手を叩いて爆笑したりはしねーんだけどな』


 僕の脳裏に過ぎるのは、南さんの顔だった。

 川波を見るとき、川波と話すとき、不意に過ぎることがある、苦痛を堪えるような顔。

 そういうとき……川波は決まって、皮肉めいた笑みを浮かべている。


「まさかとは思うが」


 言いかけて、やはりやめようかと考えて、しかし言い切った。


「――自分の未練を、僕たちで解消しようとしてるんじゃないだろうな?」

『違う』


 間髪入れずの、断言だった。

 スマホ越しでは表情はわからない。しかしそこには、あるいはこの男と出会って初めての、真摯な響きがあった。


『それは、違う。あまり……見くびってくれるなよ、伊理戸』

「……ああ、悪かった」


 不躾な質問を謝って、僕は通話を切った。


 ――観察者効果、という言葉がある。

 観察するという行為それそのものが、観察対象に影響を与えてしまうこと。

 もちろんこれは科学の世界の用語であって、普遍的な真理なんかではない――けれど、そう、多くの人間は、『自分がどう見られているか』ということに、どうしようもなく影響されてしまうものだろう。『無口な子だ』と言われる子供がますます喋らなくなるように――『カップルだ』と思われるほどそういう関係になろうとするように。

 まったくもって煩わしい、まるで鎖のような他者の視線。それに縛られずに生きられたなら、それはどんなに素晴らしいことだろうか……。


「……………………」


 僕はスマホを手に取り、東頭にLINEを送った。


〈ちゃんと勉強してるか?〉

〈今、織田信長が実は女だったことを学んでいる最中です〉

〈対象が多すぎて何でサボってるかわからん〉


 なぜか謎のドヤ顔スタンプを打ってくる東頭を見て、僕は頬を少しだけ綻ばせた。

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