元カップルのゴールデン・メモリーズ 5月1日(火)
3連休が明けた火曜日の朝。
1年を通じてもトップクラスにやる気の出ないこのタイミングで、なんと僕たちのクラスに割り当てられたカリキュラムは2時間続きの体育だった。
もちろん不平たらたら。不満ばりばり。
ダルいしんどいめんどくさいとそれぞれに文句を垂れ流すクラスメイト男子たちに混ざって、僕はサッカーボールを蹴り飛ばした。練習相手である川波の遙か頭上を飛び越え、バックネットに鋭く突き刺さる。
僕はほくそ笑んだ。
「ふっふっふ……」
「もしもーし。伊理戸くーん? ちょっとくらい反省しようぜ?」
何、今は雌伏の時だ。本番はこの後の休み時間。そして2時間目の体育である。
クククク……。汗で湿った体操着の首元を軽く引っ張った。興奮しすぎたか。少し息苦しい。
1時間目の体育で、僕は合計4回、サッカーボールをバックネットにめり込ませた。あの女(の精神)の未来の姿である。
休み時間に入り、僕は水飲み場に向かった。
冷水機が並んだそこには、男子のみならず、校庭の反対側でテニスをしていた女子も集まっている。
その中に結女の姿を見つけ、僕は人知れずほくそ笑んだ。
ヤツはちゃんと、『伊理戸』と刺繍の入った体操着を着ていた。
冷水機で水を飲んでいたあの女が、僕に気付いて顔を上げた。
僕が指でくいくいと手招きすると、ヤツは濡れた口元を拭い、近くにいた友達に断りを入れる。
僕は校舎の裏に回り、ひんやりとした壁に背をつけて待ち構えた。
「何の用?」
ほどなく追いついてきたその女は、日陰に佇む僕に冷淡な視線を送る。
ふっ。
その澄ました顔も、すぐに崩れ去ることになる。
僕は壁から背中を離した。
校舎の影に沈んだ結女の向こうに、光と影の境界線がある。光の方向から、クラスメイトたちの喧噪が遠く聞こえた。
「実は」
と、僕は切り出した。
「ちょっと気付いたことがあってな。できるだけ早く、君に伝えておいたほうがいい気がして」
「あら奇遇。私もあなたに教えたほうが良さそうなことがあったの」
僕は、結女の身体を指差した。
結女も、僕の身体を指差した。
「その体操着」
「よく見ると」
「僕の――」
「私の――」
「……………………」
「……………………」
同時に、言葉が潰える。
嫌な予感がした。
…………おい。
まさか…………。
僕は自分の体操着を見下ろした。
結女も自分の体操着を見下ろした。
まさ……か?
「「――はああああああああああああああああああああっ!?!?」」
互いに叫びながら、ずざざっ! と僕たちは距離を取った。
そして、自分が着ている体操着を見下ろす。
この体操着、まさか……この女の!?
「なっ、なっ、何してるのよあなたっ!?」
「こっちの台詞だ馬鹿!!」
「わ、私はただ、ちょっとあなたを恥ずかしがらせてやろうと思って予備の体操着を……!」
「……君、志望校といい、なんでやることなすこと僕と被るんだよ……!」
僕もこの女も苗字は『伊理戸』だ。
体操着には苗字しか刺繍されないから、一見ではどちらがどちらのものか判別できないことを利用した仕掛け……の、はずだった。
……でもまさか、お互いに同じことをやっているとは……!
「こ、この体操着……あなたの……」
結女の顔が赤くなっていく。体育のせいでないことは明らかだった。
予備の体操着で、もちろん綺麗に洗ってはある。けど、何度か着たことがあるのは確かだ。
そして今……僕も、この女が着たことのある体操着を着ているわけで……。
「あっ……!」
だから妙に息苦しかったのか! この女のほうが、サイズがちょっと小さいから……!
くそっ、なんだこの感覚……。物理的、そして化学的には1ミリも触れ合ってはいないのに、まるでこの女と抱き合っているかのような気分になってくる。
「こ、交換よっ、交換……! 今ここで交換したら何も問題ないでしょ!?」
「……いいのか? もう汗を吸いまくってるんだが」
「ああっ……!」
結女は『そうだった!』という顔をした。
そうやって退路が断たれるのを見越して、ネタ明かしを1時間目終了まで待ったのだ。この女も同じことを考えていたらしい。それが思いっきり裏目に出た。
「う、ううっ……! あと1時間、あなたの体操着を着たままでいろってこと……?」
「非難がましい目で見るな! まったく同じことをやったくせに! 言っとくが変態度は君のほうが上だからな!」
「は、はあっ!? 一緒でしょ、そんなの! 男女差別反対!」
「うるせえ! 都合の悪いときだけ権利を主張しやがって!」
「こ、こうなったら、これを脱いでジャージだけ着て……!」
「そっちのほうが変態だ馬鹿!」
校舎の影の中で醜い責任の押し付け合いを繰り返していると、
「伊理戸ー? そろそろ授業始まるぜー」「結女ちゃーん? どこ行ったのーっ!?」
水飲み場のほうから、川波と南さんの声が聞こえてきた。時間切れか……!
僕たちは互いを睨み合い、……そして、互いの体操着を見る。
結女は荒々しく地面を踏みつけた。
「ああもうっ!」
それはこっちの台詞だった。
かくして僕らは、それから1時間、互いの体操着を着て体育を受ける羽目になった。
授業が終わった後、脱いだ体操着を交換するときには、お互いの顔を見ることさえなかった。
この件は、悪しき歴史として完全に封印しよう。
僕は明鏡止水の心持ちをもって、日記にも何も書かないことを決めた。
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