古き日々のおしまい② 欲しいという気持ち
◆ 伊理戸結女 ◆
クリスマス女子会から帰ってきても、水斗は家にはいなかった。
お母さんに訊いたところ、
「お友達のところに泊まってくるんですって。もしかしたら東頭さんのところかもねー」
ぬふふ、と何だか嬉しそうに笑っていたけれど、それはないと私は知っている。
東頭さんのところに行くとき、水斗は決まってそれを私に報告した。なぜなのか、はっきりとはわからなかったけれど、昨日のことでなんとなく察しがついた。
あの報告は、水斗が板挟みになった結果だったのだ。
彼をして抵抗できなかったほど、水斗を惹きつけたものはなんなのか。
何のために、水斗は私に背を向けなければならなかったのか。
私は――それを知らなければならない。
それを知らなければ、何も始めることはできない。
私は東頭さんにLINEを送った。
『明日、家に遊びに行ってもいい?』
「お待たせしました~」
スウェット姿の東頭さんが、ドアからのっそりと顔を出す。
髪の毛はボサボサで、スウェットはよれよれで、あまりの女子力のなさにぎょっとした。ウチに遊びに来るときも大概な格好してるけど、あれは東頭さんなりに身支度を整えていたんだと初めて知る。
「東頭さん……もしかして寝起き?」
「んや~……起きたのは何時間か前ですけど、着替えるのがめんどくさくて……すみません、こんな格好で~……」
「いや、いいけど……急に来たいって言ったのは私だし」
玄関に入れてもらう。東頭さんはぽてぽてと廊下を歩き、すぐそこにあった扉を開けた。そこが東頭さんの部屋らしい。
「どうぞ~。LINEでも言ったように、何のお構いもできませんけど……」
「そんなに忙しいの?」
「〆切があるので~」
「〆切って? 賞的なやつ?」
「水斗君が決めた〆切ですよお。一昨日にクリスマスイラストを上げたばっかりなのに、次は新年イラスト描けって言うんですよ~。スパルタですよね~」
……ホントに水斗がプロデュースしてるんだ。話には聞いていたけど、こうして本人から聞いて、初めて実感が湧いてきた。
「……お邪魔します」
東頭さんの部屋は、水斗の部屋に負けないくらい散らかっていた。水斗と違って文庫本の類は全部本棚に収まっているけど、分厚くて大きな見慣れない本が、何冊か机の周りの床に積み上がっている。
東頭さんは椅子に座ると、スタイラスペンを手に取った。私は丸まった背中の後ろから、机上のタブレットPCをなんとなく覗きつつ、
「新年イラストって言ってたけど、年明けまでまだ一週間くらいあるわよね? そんなに時間かかるの?」
「あ、今描いてるのは新年用のじゃないですよ」
「え?」
東頭さんは淀むことなくペンを滑らせる。
「その前に描きたいのがあったので、今のうちに描いておこうと思って。そしたらスケジュール終わりました」
うぇへへ、と東頭さんは恥じらうようにはにかんだ。水斗に言われた〆切があるのに、その上に自主的に……? 一週間後までに二枚描くってことは、単純計算、一枚につき三日と少し……。
「イラストって、そんなにすぐ描けるものなの……?」
「落書きなら一時間でもできますけど、これは本気のフルカラーですからねえ。学校があったときは、一週間でも結構きつかったです」
「なのに、なんで自分からしんどくなるようなこと……」
「ええ? 描きたかったんですから仕方ないじゃないですか」
事もなげに、東頭さんは言う。それはもう、万人の常識のように。
けれどその発言は、今までの東頭さんの印象と異なるものではなかった。そう、東頭さんは最初からそうだった。自分の中に、人とは異なる、当たり前の常識を持っている。考えてみれば、それは呆れるくらいに、典型的な天才型の思考だった。
それを、誰よりも近くにいる水斗が、最初に見抜いた――それも、考えてみれば、当たり前。
私は机の周りに山積している分厚い本に目を戻し、しゃがみ込んで表紙を覗き込む。
「あ、その本は資料ですよ」
訊くまでもなく、東頭さんが教えてくれた。
「背景とか服とかの。画像検索も便利ですけど、専門書はまた一味違いますね」
「自分で買ったの……? お小遣い足りる?」
「いえ、大体は水斗君が買ってきたんです」
「え?」
「私は検索で充分だと思ってたんですけど、ちゃんとした知識が手に入るのは結局本だって言って……。〆切守ったらご褒美がもらえる約束なんですけど、結局それも、その本で消費しちゃいましたね」
私は一番上のを手に取って、裏表紙の値段を見る。二千円以上もした。
ゲームを買ったり友達と遊びに行ったりするのに比べれば、読書はかなり安い趣味だ。古本を利用すればさらに安い。とはいえ、水斗は買う量が量だ――お小遣いの余裕なんてほとんどないはず。お年玉なんかの貯金を使えば、買えないことはないんだろうけど……。
東頭さんを育てるため――それだけのために?
私は再び立ち上がって、東頭さんの背後からタブレットを覗き見た。
清書……って言えばいいのかな。薄く表示させたラフの上から、綺麗な線を引き直している。ペン先にブレはなく、見る見るうちに女の子のキャラクターの輪郭ができあがっていた。
すごく、上手い。
素人の私には、そのくらいしかわからない。
もっと完成した絵を見たら、少しはわかるのかな。そう考えて部屋を見回してみたけど、どうやら印刷したものはないみたいだった。
「ねえ、東頭さん」
「はいー?」
「東頭さんの絵って、ネットで公開してるのよね? アカウント教えてくれない?」
「ええー……」
嫌そうだった。
「ダメ?」
「ダメじゃないですけどー……恥ずかしくないですか? 現実のお友達にペンネーム教えるのって」
「うーん……私、SNSはLINEくらいしかやったことないから……」
「おお……まだネットに毒されていない、無垢なお方……」
「やっぱりダメ?」
「……学校とかで黙っておいてくれるなら……いいですよ」
「隠さなくてもいいのに。そんなに上手いなら」
「水斗君に止められてるんです。『いいように使われるだけだ』『近場で承認欲求を満たすな』『もっと大きな世間を見ろ』って」
「言いそう……」
「まあ、わたしも同意見ですけど。小学校でいませんでした? 図工の授業でちやほやされて、教室であれ描いてこれ描いてーって言われてた子」
「ああ、いたいた」
私の目には羨ましく映ったけど、東頭さんと水斗的には、無駄どころか邪魔なことなんだ。
教室で人気者にならなくとも、もっと広い世界で人気者になれると――水斗が、信じているから。
東頭さんはイラストを公開しているサイトとペンネームを教えてくれた。私は自分のスマホでそれらを検索し、東頭さんのアカウントページを見つけ出した。
公開されているイラストは、全部で八枚。私はそれを新しい順に表示させていく。
「…………!」
正直、私は想像していた。
漫画雑誌の読者コーナーみたいな、いかにも素人っぽい、素朴な絵を。
けど……東頭さんの絵は、ものが違った。
確かに技術的な面ではプロに劣るのかもしれない。だけど、表現力というか……絵の一つ一つに、強烈な『色』が出ているのだ。単純なカラーの話ではなく、東頭さん特有の作家性というか――メッセージのようなものが。
それが、素人の私にも一見でわかってしまうということが、何よりも異常だった。
しかも、足りていない技術についても、一枚ごとに見るからに上がっていた。一枚一枚、時系列を遡っていくと、公開日時はどれもここ一ヶ月の間。たった一ヶ月で明確に上達する東頭さんもすごいけど、上達のための道筋をつけた水斗もすごい。東頭さんがイラストの天才なら、水斗はそれを育てる天才なんじゃないかって思うくらい。
やがて、最初に公開されたイラストに辿り着くと、私は息を呑んだ。
くしゃりと表情を歪ませた――失恋した女の子のイラスト。
なんて言えばいいんだろう。表情の――感情の解像度が違う、というか。技術的には一番拙いのに、凄味は他のどのイラストよりも勝っていた。
そして、同時に――顔立ちも違う、表情も違う、何もかも違うのに――そのイラストから私は、神戸で亜霜先輩がフラれたときの、泣き笑いを連想していた。
そう。あれだ――このイラストは、あのときの亜霜先輩の、再現なのだ。
他人の感情を正確に読み取り、あまつさえ、それをイラスト上に精密に再現してしまうなんて――これを才能と呼ばずして、何と呼ぶ?
明らかだった。
神戸だ。
水斗は神戸で、東頭さんの才能を確信した。
そして――新しく脳裏に浮かぶのは、『シベリアの舞姫』のページに滲んだ染み。
「……すごい」
私は、ぽつりと呟いていた。
「東頭さんは……すごいね」
本人は集中していて、きっと聞こえていない。
だから、素直に口にする――心からの、降参宣言を。
これには、勝てない。
たとえ私がどんな美少女でも、この才能には、代えられない。
伊理戸水斗に運命の相手がいるとすれば、それは紛れもなく、東頭いさななんだろう。この二人のストーリーにおいては、私なんてお邪魔虫で、何の配役もなくて。
私はただ、水斗と過去に付き合っていたことがあるだけ。
私はただ、水斗と同じ家に暮らしているだけ。
特別なことは何もない。ただ、水斗のことがすごくすごく好きで、ただそれだけの人間なんだ。もし遠い未来で、水斗の名前を世間の誰もが知るようになったとしても、私の名前は誰も知ることがないだろう。私の恋愛感情なんて、私以外にはどうだっていいんだから。
でも。
でも。
でも。
そんな私のことを、水斗はちゃんと考えてくれたのだ。
選択肢なんてないのに、簡単に捨てずに、考えて、考えて、考えて――あんなに、苦しむくらいに。
それって。
……それって……。
本当に、価値がないことだと、思う?
「……ねえ、東頭さん。突拍子のないこと、訊いてもいい?」
「はいー?」
「もし水斗に、すごく大事な恋人ができて……彼女が怒るからもう会えません、イラストのサポートももうできませんって言われたら……どうする?」
今まで淀みなく動いていた東頭さんの手が、止まった。
そして、くるりと振り向くと、ぐっと目に力を込めて、告げた。
「結女さんには悪いですけど、それはさすがに譲れません……。ものすごく、困るので」
失恋すら簡単に受け入れた東頭さんが、水斗に新しい彼女ができてもいいと言っていた東頭さんが――こんなにもはっきりと、主張する。
「……そうよね」
私はそれを聞いて、安心した。
今まで、東頭さんのことを異世界人だと思っていた。まったく価値観の異なる世界から来た、まったく別種の人間だと思っていた。かつての自分を重ね合わせた時期があるのが嘘に思えるくらい、彼女の行動、考え方に翻弄され続けてきた。
けど、今、ようやく知れたのだ。
私と彼女は、大事にしている部分が違うだけで――
――欲しいという気持ちは、一緒なのだと。
だから。
「ごめんね。私も譲れないの」
対等に、真っ向から、私もそう告げた。
それが礼儀だと、そう思った。
東頭さんはしゅんとした顔をして、
「……やっぱり、ダメですか?」
「細かい条件については、また話し合いましょう? 捕らぬ狸の皮算用をしても仕方がないし」
「そうですね……。こんなこと言って、二人とも捨てられたら超ダサいですしね」
「縁起でもないこと言うのやめてよ」
私がくすりと笑うと、東頭さんもにへへと笑った。
東頭さんと、友達で良かった。
きっと私たちは、私たちのまま進む方法を見つけられる。
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