古き日々のおしまい③ 本物の優しさ


◆ 伊理戸水斗 ◆


 生徒の授業はなくても、教師の仕事納めにはまだ少し早い。そのおかげで、学校に入ることができた。

 職員室で教師に生徒会書記の義妹の頼みだと説明すると、生徒会室に入る鍵も手に入った。成績が優秀だとこういうときに楽だ。割と簡単に信頼してくれる。


 そうして僕は、初めて生徒会室に足を踏み入れた。

 手前にソファーが設えられた応接スペース。奥に長机とホワイトボードが置かれた会議スペースがある。僕はまず奥の会議スペースに向かい、ホワイトボードに残された、議事進行の残骸と思われる文字を眺めた。


 生徒会報の進捗、eスポーツ部との予算折衝経過報告、年始挨拶週間――集合午前七時。

 それらの文字の癖には見覚えがあった。

 中学の頃……一緒にテスト勉強をしていたとき、結女のノートで、よく見た文字だ。


 僕はホワイトボードの横にある棚に視線を転じる。背表紙を向けて並んだバインダーの一つに、『生徒会だより』と書かれたシールが貼られていた。それを手に取り、開いてみる。


 1ページ1ページ丁寧に、プリント1枚の『生徒会だより』が纏められていた。多くは活字だが、一部の直筆部分には、やはり見覚えのある癖がある。几帳面な、だけど少しだけ丸っこい、結女の文字。

 生徒会だよりはほとんど毎週発行しているようで、現時点でも相当の枚数があった。そのすべてに結女の文字がある。活字だけだと温かみがないとでも思ったのだろうか。だけど確かに、鉛筆の書き込みがあるほうが、手作り感があって目を惹かれる気がした。


 ……こんなことをやってたんだな、あいつ。僕はこんなプリント、まともに読んだこともなかった。

 いさなの絵を見たときのような感動は、確かにない。だけど、僕はかつてのあいつを知っていた。林間学校で、カレーの材料をもらうのにもまごまごしていたような奴が、今や全校生徒の目に触れるプリントを作っているのだ。


 このプリントが世間を驚かせることはない。人を感動させることもない。どころか僕のように、ほとんどの生徒は読んですらいないんだろう。

 それでも、僕には――少なくとも僕には、このプリントの凄さがわかるのだ。


「やっぱりキミだったか」


 そのとき、唐突にドアが開く音がして、僕は驚いて顔を上げた。

 小柄ながらも大きな存在感を宿した女子――生徒会長・紅鈴理が、僕を見て笑っていた。


「役員の親族が来ていると聞いたから、もしやとは思ったけど……結女くんが、何か忘れ物でもしたのかな?」


 ドアを閉じて、歩いてくる生徒会長から、僕は一瞬だけ目を逸らす。


「……いえ」

「だろうね。彼女なら自分で来る。責任感の強い子だ」


 そう言って、紅鈴理は壁際のケトルに近寄り、蓋を開けた。


「少し資料を取りに来ただけだったんだが、気が変わったよ」


 蓋を閉め、取っ手を握る。


「掛けたまえ。お茶をご馳走しよう」


 慶光院さんといい、頭のいい人間はみんなこうなんだろうか。こっちの考えてることを、当たり前のように見透かしてくる――


 僕は応接スペースのほうに移動し、ソファーに腰掛けた。部外者の僕は、ここに座るのが当然だった。

 紅鈴理はケトルを持って一度部屋を出ると、すぐに戻ってきて、ケトルの電源を入れる。それからしばらく待つと、紅茶ポットに茶葉を入れて、ケトルからお湯を注ぎ込んだ。

 結女は昔から紅茶党だ。生徒会はみんなそうなんだろうか。コーヒーの粉は見当たらない。


「お待たせしたね」


 ポットとカップを載せたお盆をローテーブルに置きながら、紅鈴理は僕の対面に腰掛けた。それから、二人分のカップにルビー色のお茶を注ぐと、


「さて」


 悠然と脚を組み、泰然と僕を見る。


「何が知りたいのかな?」


 その様は、まるで賢者だった。勇ある者に知恵を授け、その道行きを助ける――


 僕は、この人が苦手だった。

 どうしてだろう。文化祭のとき、妙に目を付けられたから?

 いや違う、と今になって確信する。この態度が――賢者のように、何もかも考え終わっていて、何もかも答えを出し切ったという態度が、常に考え続け、ずっと考え終わらない僕にとっては、ひどく居住まいが悪いのだ。


 賢者としてのこの人に、用はない。

 用があるとすれば、それは生徒会長としての――いや。

 伊理戸結女の、先輩としてのこの人だ。


「……僕は、家と、教室での結女しか知りません」


 川波曰く、僕は真面目で誠実らしい。


「以前はそれで充分でした。でも今は、この生徒会での結女がいます」


 だったらその通り、何も誤魔化さず、まっすぐに言おう。


「その結女のことを、教えてください」


 彼を知り己を知れば、百戦危うからず。

 僕はもっと、彼女のことを知らなければならない。この八ヶ月で、変わったこと、変わらなかったこと。でなければ、何も選ぶことができないし、何も決めることができない。


 戦略を立てるには、まずは知ること。

 知ることなしには、どんな計画もありえない。


 紅鈴理は試すように微笑んで、少しだけ首を傾げる。


「プライベート、というものがあると思うけどね」

「それも含めて、知らなければなりません」


 比翼の鳥。

 一対の翼になりたいと、願うなら。


 紅鈴理は静かにカップを手に取ると、ゆっくりと紅茶で唇を濡らした。それからカップをソーサーに戻し、何かを堪えるように含み笑いをする。


「ふふ」

「……何か?」

「いや、失礼。考えてみれば、ろくなことをしていないな、と思ってね、ぼくたちは」


 …………? 生徒会活動はちゃんとしているみたいだが?


「ぼく自身、今の生徒会になるまで知らなかったかもしれないな。自分が、どこにでもいる、ただの女子高生に過ぎないってことに」

「……あなたが?」

「そうさ。勉強して、バイトして、生徒会の仕事をして、余った時間は恋バナに費やす――まさにザ・女子高生だろう?」


 恋バナ。

 ……恋バナ……?


「……あなたが……?」

「不審なものを見る目で見ないでくれよ。ぼくだって恋くらいする」

「……………………」


 たぶん羽場先輩のことだな、と想像はついたが、この人が結女みたいに顔を赤らめている姿は、僕の想像力の外だった。文化祭でたまたま二人を覗いてしまったときも、この人は平気な顔をして誘惑していたし。


「ウチは唯一の男子がだんまりを決め込んでいるからね、自然とそういう流れになってしまうのさ。愛沙なんかもはや、生徒会を彼氏自慢する場所だと思っているフシさえある。蘭くんの堅物さがなかったらと思うとぞっとしてしまうね」

「それじゃあ……結女も?」

「ぼくはわかってるけど、愛沙は相手まではわかってないんじゃないかな。蘭くんは、君は東頭さんと付き合っているものだと思っているみたいだね。……でもまあ、あまり詳しく知りすぎないほうがいいと思うよ? 女子の恋バナの内容を聞いたら、女の子と付き合いたくなくなるかもしれない」


 そう言われると逆に知りたくなってくるが、開けてはならないパンドラの箱を前にしている気分になり、僕は好奇心を引っ込めた。

 紅鈴理はくすくすと笑う。


「普段の結女くんは真面目で落ち着いた、まさに優等生だ。けど、色恋のことになるとまるで別人になる。愛沙にアドバイスを請うてはわあきゃあ騒ぎ、気になることがあれば見るからに静かになる。可愛い子だよ。あんな子に好かれている男がこの世にいるなんて、嫉妬で脳が焼き切れそうだよ」


 わざとらしい……。わかってるって、さっき言ってたくせに。


「神戸のときは、また少し違ったな。フラれた愛沙を見て、珍しく怒っていた。単なる同情からじゃなく、『正しくない』ことに――『誠実ではない』ことに対する、義憤というやつだ。それが、彼女の理想なんだろう。どうやって育まれたのかは不明だけどね」


 ……誠実。

 真面目で、誠実――


「彼女は女子にありがちな、無根拠な同情や共感はしない。根拠をもって同情し、共感する。そこがぼくの気に入っているところだ。だってそれは、他人の立場に立って物を考えられるということだ――外付けの社会性ではなく、心の根っこから湧き上がる、本物の優しさを持っているということだ。そうは思わないかい?」


 心の根っこから湧き上がる……本物の優しさ。

 ああ――そうだ。


 でなければ、入学直後から浮いてる家族のためにせっかくの評判を犠牲にしないし。

 でなければ、元カレに対する他人の恋なんて応援しないし。

 でなければ、一人きりで寂しく花火を見ようとする男なんて見つけられないし。

 でなければ、元カレに降って湧いた浮名の相手を心配なんかしないし。

 でなければ、深夜まで頑張ってクラスの模擬店を成功させようとしないし。

 でなければ、ライバル視してくる相手の体調を慮ったりしないし。

 でなければ、先輩の不誠実なフラれ方に怒ったりはしないし。

 でなければ、元カレとの同居なんて呑みはしない。


 ああ――知っている。

 裏が取れた。

 再現性が確認できた。

 だったら――わかるはずだ。


 これから先、どういうときに、どういうことをするか。


 未来のことはわからない。将来のことは不透明だ。

 ただ一人の例外を除いて。

 だとすれば、僕が考え、答えを出すべきなのはなんだ?


 ――ぼくは心を鬼にして、きみに覚悟を問わなければならない


「ぼくから話せるのはこの程度かな」


 紅先輩は、空になったカップを置いた。


「飲まないのかい?」


 先輩は少し冷めてしまった、僕のカップを見て言った。

 僕はそれを取り上げ、一気に呷る。

 まだ少し、熱かった。


「ご馳走様でした」

「答えは出たのかな」

「いえ」


 僕は立ち上がる。


「ずっと、考え続けます」

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