古き日々のおしまい④ これまでの開幕
◆ 伊理戸結女 ◆
今となっては若気の至りとしか言いようがないけれど、私には中学二年から中学三年にかけて、いわゆる彼氏というものが存在したことがある。
学校で出会い、気持ちを通じ合わせ、恋人となり、イチャイチャして、些細なことですれ違い、ときめくことより苛立つことのほうが多くなって、卒業を機に別れた――
――そして、家族になった。
と言っても、そのときはまだ、そんな自覚なんかありはしなかったんだけど――何せ、中学を卒業してから、まだ一週間やそこらだったのだから。
毎朝コンタクトレンズを入れることにも、髪を結ばずストレートのままで外を出歩くのにも、まだまだ慣れていない頃だった。徐々に古い自分を新しい自分に入れ替えていく、そういう時期だった。
だから、完璧なタイミングではあったのだろう。
長く暮らしたマンションを出て、伊理戸家に引っ越してくるのには。
――ふう
本棚にきっちり並んだ本を見て、私は満足していた。前の家と比べて部屋が格段に広くなり、本棚を三つも置くことができた。これだけをとってみても、引っ越してきてよかったと言うことができるだろう。
ただし、とかつての私は注釈をつける。
――隣の部屋に、あの男がいること以外はね
自分で決めたことのくせに、まったくもって往生際の悪い。だけど、このときの私は、そうすることしかできなかったのだ。別れたばかりの元カレと同居するという矛盾した環境に対して、ツンケンするという形でしか整合性を持たせることができなかった。
はっきり言おう。このときの私は、水斗のことが嫌いだった。
好き同士なんかでは決してなかった。少なくとも心の表層は、そうだった。
今から分析してみても、当時の心境を正確に説明することはひどく難しい。水斗の顔を見てむかむかしたのも、罵りたくなったのも本当で、でもふとしたときにときめいて、昔に戻ったような心地になったのも本当だ。
ただ、どちらかが本当で、どちらかが嘘だということにしないと、私は私を保てなかった。だから、嫌いだということにした。
だって――私たちは、別れたのだから。
そう、私たちは、嫌いだから別れたのではない。別れたから嫌いだったのだ。
それでも、残ったものがあった。だから私は同居に同意し、だから私たちは家族になった。
水斗となら、もう決して男女の関係になることはない。
その信頼が、私たちを家族にした。
まったくもって甘い考えだ。後から考えると。
引っ越し初日は、何もかもが新鮮だった。広い部屋も新鮮なら階段の上り下りも新鮮で、家族四人でご飯を食べるのも、お風呂に入るのも歯を磨くのも、とにかくやることなすことすべてが新しかった。
何だかお泊まりでもしてるみたいで――この生活が、これからずっと続くなんて、想像することもできなかった。
何よりも、一番新鮮だったのは――
――……あ
――あ……
一階の廊下で水斗と遭遇し、私たちは互いに硬直した。
ただ遭遇したわけではない。
お互いに、寝間着だったのだ。
水斗は可愛げのないグレーのスウェットで、ダサいことこの上なかった。元々ファッションに興味のあるタイプではなかったけど、中学時代の私は乙女フィルターで水斗のことが何倍増しかイケメンに見えていたから、その姿がギャップに映った。
私も私で、水斗に寝間着姿を見せた記憶はほとんどなかった。あるとしたら、風邪をひいてお見舞いに来てもらったときだけど、あのときとは体型も全然違うし、第一、高熱で頭がぼんやりしてたから細かく覚えてはいなかった。
あんなに一緒にいたのに――まだ知らない姿があったんだ。
数秒、見つめ合ってから、私が先に我に返った。
――……どこ見てるの?
胸を隠すように自分を抱きながら、私は一歩後ずさる。
水斗はついっと目を逸らし、
――どこも見てないよ。自意識過剰だろ
――今更、私に誤魔化せるとでも? ムッツリスケベ
――君相手にスケベになった記憶はないけどな
……そりゃあ、仲が良かった頃は、まだチビで寸胴だったけど。
――ご愁傷様ね。大人になった私に触れなくて
――別人のような自己肯定感だな、陰険ぼっち女
――今日から同じ屋根の下だけど、夜這いとかしないでよ?
――わざわざ言うな。フリか?
チクチクチクチク、嫌味の言い合い。
そのリズムも新鮮だった。この距離感も新鮮だった。
そうか、元カレに対しては、こうするのが正解なんだ。
これからの私たちは、こういう風に関わっていけばいいんだ。
――じゃあね
――じゃあな
喧嘩別れのようにすれ違って。
二度と会わないかのように背を向けて。
なのに、どちらからともなく口にする。
――……おやすみ
――おやすみ
こうして、始まったのだ。
彼氏と彼女ではない、新しい私たちの。
恋人のままでは知れなかった、本当の姿を知る関係が。
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