元カップルは入学する。「寂しかったか?」
今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないが、僕には中学2年から中学3年にかけて、いわゆる彼女というものが存在したことがある。
その始まりから終わりについての経緯はいい加減思い出すのも忌々しくなってきたので省略するが、そうは言いつつ、忘れることが難しい思い出というものも、業腹ながら存在する。
例えば、中学2年の2学期初日のこと。
その日、僕は近年稀に見る寝ぼけ眼で、ベッドからのそのそと起き出した――寝不足の理由を説明するのは、今の僕にとっては痛恨の至りだし、当時の僕にとっても羞恥の極みだったが、それでもいろんな感情を忍んで解説すると、その理由は前日に起こった出来事にあった。
彼女から手渡されたラブレターを、僕はその場で読み、その場で返事をした――してしまった、と言ったほうが正しいかもしれないが、ともあれ、その前日から僕は、晴れて彼女持ちの身の上となった。
人生初の彼女である。
多少浮かれてしまっても、テンションが上がってしまっても、特に意味もなくベッドの上でじたばたしているうちに夜が明けてしまっても、それは自然なことと言えよう――決して僕が、前々から綾井に好意を抱いていて、まるで夢のような展開に現実で遭遇してしまったことから本当の夢を見る気がなくなってしまったわけではない。飽くまで生理的かつ自然的な現象によって、貴重な睡眠時間を奪われてしまったというだけである。綾井許すまじ。
とにかく。
彼女を持って初めての朝だった――そして、一度しかない中学2年生の2学期の、一度しかない初日の朝でもあった。
僕は急いで支度をして家を出た。
始業式から遅刻をするのはうまくない――と思ったからではない。待ち合わせをしていたからだ。
後にファーストキスの場所にもなる通学路の分かれ道で、彼女は自分の鞄を膝の前に提げ持って待っていた。
綾井結女。
僕の彼女だった。
――ご、ごめん! 寝坊した……!
――う、ううん……。まだ、間に合うから……。
当時の綾井はまだまだ口下手で、僕と喋るときですら言葉がたどたどしかった。これがどうやったら悪口ばかり並べ立てるあの忌々しい口になるのかと思うと腹が立って仕方がなかったが、ひとまず今はおこう。
綾井はちらっと僕の顔を見上げると、ほのかに口元を緩ませた。
――もしかして……昨日、眠れ、なかった?
――ああ、うん……まあ、ちょっと……ね。
――……そっ、か……。
綾井は長めの前髪を指でいじりながら、何の気なしに目を逸らして、それとなく頬を染めて、風に吹き散らされそうな小さな声で囁いた。
――わ、私も……昨日は、ぜんぜん、寝れなかった……。
当時の僕は何せ愚かだったので、愚かな中学2年生だったので、そのやりとりですっかりやられてしまった。心臓はばくばく。舌は綾井の5倍くらい回らなくなり、あたかも油を
この反応について、現在の僕の所見を述べておくと、人生のほとんどを片親で過ごし、母の愛というものを知らなかったために、明快に向けられた好意に対して免疫が不足していたと考えるのが妥当であろう。でもなければ、後にあの恐るべき皮肉の怪物――京都人も裸足で逃げ出す嫌味マシーンと化すこの女に、ここまで動悸を乱されるはずがないのだ。
僕たちはあーだのうーだの今日はいい天気ですねだの、会話ともつかない会話を交わしながら、肩を並べて通学路を歩いた。互いの距離はおよそ半歩分。歩くたびに揺れる手の甲が、触れるか触れないか、ギリギリの間合いである。
恋人になったんだし、手とか繋いでもいいんだろうか。昨日の今日だし、まだ早いんだろうか。
まあそんなことを考えていたわけだが、その前日までほんのちょっと指先が触れただけのことを大事に記憶していたようなクソバカ童貞野郎には、手を繋ぐなんてベリーハードが過ぎた――そもそも、彼女と一緒に登校するというシチュエーション自体が、中学2年生の男子には刺激が強すぎる。
気付けば、学校が50メートル先に迫っていた。
登校中の他の生徒たちもちらほらと見え始めて、ああ、もう終わりか、と――ハハハ、お前の人生が終わるがいい――名残惜しく思ったとき、綾井が挙動不審にきょろきょろした。
――あ……ちょっと……ここで……。
――え?
――教室、一緒に行くのは……は、恥ずかしぃ……。
消え入るような声で言った綾井を、不覚にも可愛いと思ってしまったのが運の尽き――この瞬間、僕と綾井との関係は、僕たち以外の誰にも明かされない運びとなった。
もしこのとき、二人で教室への堂々たる登場を果たし、クラスメイトへの付き合い始めましたアピールをぶちかましておけば、僕も変な独占欲をこじらせずに済んだかもしれないし、綾井もおかしな言いがかりをつけてこなかったかもしれない――ひいては、僕たちが別れることもなかったかもしれない。
すべては後の祭りだ。
僕たちはどちらもタイムリープ能力者ではないのだから、たらればを考えたところで、想像遊び以外のものにはならない――でも、そう、だからこれは、想像遊びとして言うのだが。
もし、仮に。
あの日、僕と綾井が、最後まで二人で連れ立って登校していたら?
……まさか、そのイフを実演する日が来ようとは、人生というのはわからないものである。
※※※
僕の人生において最も忌々しい期間となった高校入学前の春休みが、ついに終了を迎えた。
そのこと自体は心から言祝ぎたいところなのだが、僕の前には新たなる、そして巨大なる問題が立ちはだかっていた。
「……………………」
「……………………」
洗面所の中から姿を現した我が義妹――妹だ、なんと言われようと――
眉間にしわを寄せて睨んでいるのは、正確にはお互いが着ている制服である。
紺色を基調としたブレザー。真面目ぶった印象を持たせる、落ち着いたデザイン。赤いネクタイは新一年生の証だ。
僕と結女が着ているのは、同じ高校の制服だった。
これには、僕とこの女がきょうだいになってしまったことに次ぐ、悲劇的な神様のトラップが関わっている。
去年、高校受験に向けて本格的に動き出した秋ごろ――僕と結女の仲は、もうすっかりぎくしゃくしてしまっていた。
もちろん志望校の相談なんてまったくしていなかった。むしろ、僕は彼女と同じ高校になるのを避けるべく、僕たちの中学からはあまり進学実績のない、私立の進学校を第一志望とした――片親である僕には学費の問題もあったけれど、その点は特待入試をパスすればクリアできる。この女も片親だと聞いていたから、もしここに入ることができれば絶対に別の高校になるはずだと踏んで、僕は受験勉強に勤しんだ。
そして見事、僕は特待生になることができたのだ。
結女と一緒に。
……そう。
この女も、僕とまったく同じことを考えていた。
僕と同じ高校に行きたくない一心で、僕が絶対に行けなさそうな高校を志望校に選び、受験勉強に邁進したのである。結果、数少ない特待生枠に、同じ中学から二人も滑り込むという快挙が達成された。
二人して職員室に呼び出され、『お前たちは我が校の誇りだ!』と讃えられた僕たちの絶望が、果たしてわかるだろうか――正直、落ちるよりもショックだった。ショックすぎて、僕たちはひたすら愛想笑いを浮かべるしかなかった。
世の中、同じ学校に進学したくて勉強するカップルは数あれど、絶対に同じ学校には行きたくないというモチベーションで勉強したカップルは、きっと僕たちくらいのものであろう――しかもその結果、結局同じ高校に進むことになってしまったのだから、なおさらレア度は跳ね上がる。もう笑うしかない。
神様てめえ。
……いや、これについては、互いの志望校を確認しなかった僕たちにも非があるので、一概に神様のせいにばかりできないのだが。
そういうわけで、僕たちにとって、お互いに同じ制服を着ているという事実は、それだけで憎悪の対象なのである。
「……似合わないわね、その制服」
結女は冷たい声と暗い目で言った。
「……君こそな。プリーツスカートが特に似合わない」
僕は極寒の声と暗黒の目で言った。
「制服は大体プリーツスカートでしょ」
「言い間違えた。高校生が似合わない」
「ああそう。そう言うあなたは人間が似合ってないわよ」
「なら君は地球が似合ってないね」
「じゃああなたは太陽系が似合ってない!」
「それなら君は天の川銀河が――!」
その後、宇宙、三次元と概念を拡大させていった僕たちの似合ってない論争は、リビングから顔を出した女性によって中断された。
「あら~! 二人とも、似合ってるじゃない!」
僕の義母である由仁さんである。
由仁さんは半ば無理やり僕たちを横に並べ、「うんうん」と嬉しそうにうなずいた。
「やっぱり進学校は制服も違うわねー! 本当にすごいわ、二人とも! あんなに難しい高校に、二人で、しかも特待枠で受かっちゃうんだもの! さすが私たちの子供!」
……僕たちが、互いの制服姿を貶し合いつつも、決して『合格蹴ればよかったのに』とか『違う高校に行け』などと言わなかったのには理由がある。
僕たちの親が、僕たちの合格を非常に喜んだのだ。
親が心から喜んでくれたことを、本気ではないとはいえ否定することに、強い拒否感があったのだ――僕も結女も、片親で育ったという点で似た境遇であり、親についての感覚にも似たものがあった。認めたくはないが。
「そうだ、写真撮ろう! ほら二人とも、近付いて!」
冗談じゃない。
と言いたかったのは山々だが、うきうきとスマホを構える由仁さんの嬉しそうな顔と言ったら、義理の息子である僕ごときには到底邪魔できるものではなかったし、実の娘である結女にしても同様のようだった。
半歩分の距離を開けて並び、精一杯の笑顔を顔面に貼りつけて、写真に収まる。
近すぎることも遠すぎることもなく、それでいて友好的な関係であることを印象付ける絶妙な間合いについては、本物のきょうだいより心得ている僕たちである。
「うん! よく撮れてる! ……ふふっ。こうして見ると、なんだかカップルみたいね?」
ドキッと心臓が跳ねた。……大丈夫か。顔に出てないか?
「なに言ってるの、お母さん。私と水斗くんはきょうだいでしょ? それに、まだ会ったばっかりだし」
結女が平然と言いながら、僕のふくらはぎをげしっと蹴ってくる。出てたか、顔に。
「わかってる。冗談よ。でも、ほら、結女はわたし似だし、水斗くんは峰くん似でしょ? わたしたちが高校生だったら、こんな感じだったのかな~ってね」
「……子供を使って惚気ようとしないでよ」
「ごめんごめん」
峰くんというのは、僕の父親のことだ――本名は伊理戸
「じゃあ二人とも、先に車に乗っててくれる? わたしたちも支度が済んだらすぐに行くから」
そう言い置いて、由仁さんはリビングに戻っていった。
今日は入学式だ。
新入生である僕たちのみならず、その保護者である父さんや由仁さんも一緒に学校に来る。
これが一体、何を意味するか?
「……はあ」
「溜め息つくなよ。僕にも移る」
「つかないでいられる? ただ同じ高校に受かってしまっただけなら、知らないフリをすることもできたのに……」
高校には僕たちを知る人間はいない。
だから、まったくの赤の他人を演じることだって簡単だったはずだ。
ところが、僕たちはきょうだいになってしまった。同じ親と、同じ車に乗って、一緒になって登校する。せざるを得ない。
この条件のもとで赤の他人のフリをするのは、さすがに難易度が高すぎた。
「じゃあ、またあとでねー」
「水斗ー。ちゃんと友達作れよー」
学校に着き、校門前での写真撮影などの通過儀礼をあらかた済ませると、僕たちは父さんたちといったん別れた。入学式の前に教室に行き、クラスメイトや担任教師との顔合わせを済ませるのだ。
クラス分けは事前に通達されていた。入試成績を基準に振り分けているようで――つまり家庭の事情などはほぼほぼ考慮していないようで、当たり前のように同じクラスになっていた僕たちである。もうこのくらいじゃ溜め息も出ない。
父さんたちがいなくなるなり、結女が「んーっ」と伸びをする。
そして。
「クソオタク」
「クソマニア」
「もやし」
「チビ」
「もうチビじゃないでしょ!?」
「僕の中じゃ未だにチビだ」
溜め込んでいた罵詈雑言を解放する僕たち。適度にガス抜きをしないと破裂してしまうので、必要な措置である。
校舎に入って教室を目指した。
「で、どうする?」
「何が?」
「このまま連れ立って教室に入る気かよ」
「どうせ同じ苗字なんだから目立つに決まってるわ。開き直りましょう」
「……あんなに恥ずかしがってた奴と同一人物とは思えないな」
「何か言った?」
「別に」
確かに、変に気にするほうが逆効果かもしれなかった。
僕たちは教室を見つけ出すと、前の扉から普通に入る――視線が集まる感覚があった。教室にはすでに20人程度の生徒が集結しており、品定めならぬ友達定めに躍起のようだ。
黒板に貼り出された紙によると、席は窓際の前のほうだった。
僕も結女も『伊理戸』なので、必然的に前後の席になる――『み』の僕が前で、『ゆ』の結女が後ろだ。……後背に結女という配置に嫌な予感を覚えつつ、とりあえず着席した。
――ガンッ!
「でッ!」
後ろから椅子を蹴られた。
案の定過ぎるだろ!
振り返って睨みつけると、下手人はどこ吹く風で窓外を眺めていた。この女……。
おそらく、席替えまでは1ヶ月ほどかかるだろう。その間、僕は常にこの女に背後を許しながら授業を受けることになる。なんという不利。早急に対策を講じなくては……。
そんな僕たちの様子を、クラスメイトたちが遠巻きに窺っていた。
「……君、僕の椅子を蹴ってる場合か?」
「何のことかしら」
「友達作りに必死にならなくていいのか、高校デビュー」
「誰が高校デビューよ」
似たようなものだ。
中3のときはまだ地味な印象を引きずっていたが、今のこいつにかつての面影はほとんどない――成長して見た目も中身も変わった。つまり、夏休みの終わりに僕にラブレターを渡した綾井結女とはほぼ別人ということである。
その状態で、僕以外に知り合いのいない高校に入学した。高校デビューだろ、そんなもん。
「ご心配には及ばないのよ、水斗くん?」
結女は小馬鹿にしたように微笑んだ。
「私には、必殺の武器があるから」
「伊理戸さん、どこの中学に通ってたの?」
「そこらへんの公立中だから。名乗るほどのものじゃないわ」
「趣味とかある!?」
「読書かな。つまらなくて申し訳ないけど」
「入試トップだったんだよね!? どのくらい勉強したの?」
「大してしてない――って言いたいところなんだけどね、寝ても覚めても勉強ばっかりで、まだ開放感が抜けないわ」
僕の後ろで笑いが起こる。
……伊理戸結女、入学1日目にしてクラスカーストの頂点に登り詰める。
入学式を終えて教室に戻り、簡単なホームルームを終えた直後のことだった。さっきは遠巻きにしていたクラスメイトたちが、一斉に群がってきたのだった。
そう、入学式。
結女の言う武器とやらは、その中で発揮された。
この女――新入生代表だったのだ。
それはすなわち、入試成績がトップだったことを意味する。紛れもない進学校であるこの高校では、その事実は強力な魅力と映るのだ。伊理戸結女は、自分から友達を作りに行かなければならないような下級民ではなかったということである。
が、僕にとっては、そんなことはどうでもいい。
おのれぇ……!
どうして僕よりこの女のほうが成績が上なんだ! おのれぇぇぇ……!!
新入生代表という肩書きの輝きによって、なぜか苗字が同じな僕のことなどは、すっかり掻き消されてしまっているらしい――いいかげん席にしがみつくのも限界に感じた僕は、結女に群がる人垣に押し出される形で席を立った。
入学式もホームルームも終わったし、もはや学校に用はない。父さんたちに顔だけ見せて、さっさと一人で帰ってしまうとしよう。
別に、この女と一緒に帰らなきゃいけないわけでもない――恋人じゃあるまいし。
「……………………」
結女がチラッと僕のほうを窺った気がするが、どうせ勘違いだろう。
ふん。
友達が大量にできそうでよかったな。
自室に籠もって本を読んでいると、いつの間にか夕方になっていた――喉に渇きを感じて1階に降りると、ちょうど玄関の扉が開いた。
「ただいま」
結女だ。一人だった。父さんたちはとっくに帰ってきている――入学式が終わってから、もう3時間以上経ってるからな。父さんたちによれば、結女はクラスメイトに懇親会に誘われたので、そっちに参加しているとのことだった。
見事なデビューぶりである。体育の相方にも事欠いていた奴とは思えない。
結女は無言で廊下を歩いてくると、すれ違いざまにニヤッと得意げな笑みを浮かべた。
「寂しかった?」
「……は?」
僕が眉をひそめると、この女、くすくすと癪に障る笑い方をする。
「あなたにばかり構っていられなくなっちゃった。ごめんね?」
「……別に。ご遠慮なく。せいぜいLINEの返信に忙殺される日々を送ってくれ」
「そうさせてもらうわ」
しれっと言って、結女は階段を上っていった。
……チッ。どうしてこんなことで勝ち誇られなきゃいけないんだ。
僕は友達なんて、大して必要としていない――寂しがる謂れなんて、1ミリもありはしないってのに。
と。
釈然としない思いをさせられた、翌朝。
「伊理戸! どこの中学に通ってたんだ?」
「え? いや……」
「趣味とかある? ゲームとかする?」
「ゲームはあんまり……」
「入試どうだった? やっぱ伊理戸さんのきょうだいだし、頭いいんだろ?」
「そこそこやったとは思うけど……」
なんでだ。
なんで、今度は僕が囲まれてるんだ。
怪現象だった。朝、普通に登校してきたら、いきなりこんなことになったのだ――しかも、僕と結女が義理のきょうだいであることが知れ渡っていた。あの女、懇親会とやらで吹聴したのか? いずれ知られることとはいえ……。
こんな大勢に囲まれるなんて、おそらく分娩室で母親の胎内から生まれ出でたとき以来のことだろう。しかも今、僕を取り囲む男子たちの数は、当時の産婦人科の看護師や医師よりもずっと多いと見える。
矢継ぎ早に繰り出される質問に目眩がしそうだった。あの女、こんな拷問みたいなことをしれっとやっていたのか。訓練されたスパイか。ゾルディック家の教育でも受けたのか。
僕が死にかけていると、登校時間をずらしていた結女が、教室に入ってきた――女子たちと挨拶を交わしながら、囲まれている僕を見てそっと眉を動かす。
それから、僕の後ろの席に鞄を置いて着席すると、
――ガンッ!
椅子を蹴ってきた。
なんでやねん。
思わず関西弁が出た。
踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだ。
進学校ゆえか、授業初日とはいえ容赦はなかった。きっちり6限まであるし、授業内容もただのオリエンテーリングでは終わらず、教科書を開かされる。が、そんな容赦のない授業も、拷問みたいな質問攻めに比べれば天国みたいなものだった。授業最高。
昼休みに入るなり、僕は教室を脱出する。逃亡である。もう取り囲まれるのはごめんだった。授業が始まる時間になって気付いたのだが、僕を取り囲んでいたあの男ども、半分以上が別のクラスだった――だから集まってくるのには少し時間がかかる。その隙がチャンスだった。
僕はトイレの個室に閉じ籠もり、ほとぼりが冷めるのを待つことにした。便所飯など旧世代の価値観に引っ張られた都市伝説だと考えていたが、まさか自分がトイレに追いやられることになろうとは。実際には飯を持ち込んでいないことと、トイレが綺麗な洋式だったことが救いだ。私立すげえ。
まったく、それにしても、どうしていきなり人気が爆発したんだか――ネットニュースに取り上げられたツイートじゃあるまいし。僕にバズる要素なんてあるか?
あるとしたら……まあ、伊理戸結女と義理のきょうだいである、という一点に尽きるだろうが――
『お前、昼も行くの?』
『行く行く。絶対お近づきになってくっから』
ふと、個室の外から声が聞こえてきた。
トイレで駄弁るのって女子だけの習性じゃなかったのか。驚愕。
『あの子なー、めっちゃ可愛いよな。それで入試トップって、完璧超人すぎねえ?』
『ほんとそれな。LINEに出回ってた写真で一目惚れ』
入試トップ?
あの女のことか?
はあ?
あの女が可愛いって、眼科に行くべきでは?
『そんで義理の弟のほうにへばりついてんの? 直接行けよ』
『絶対ウザがられるって。その点、きょうだい経由ならスムーズじゃん?』
『同じこと考えてる奴いっぱいいるけどな』
『でもあの弟クン、なんか暗くてさあ。ノリ悪いんだよね』
『お前がウザいんじゃねーの?』
『あっ。ひっでー』
……ああ。
謎が解けた。
つまり僕は、邪な意図から結女に近付くための踏み台か。
なるほどね?
僕は個室を出た。
「うわっ!?」
「びっくりした……」
驚く男子たちを無視して、僕は男子トイレを出る。
「……あれ? 今のって……」
「あっ――」
廊下に出ると、程なくして男たちが何人も寄ってきた。
すり寄ってきた、と言ったほうがいいかもしれない。
盛んに話しかけてくる彼らに対し、僕は一片の思考も挟まない適当な答えで対応した。
純粋に友誼を深めんとして話しかけてくるのなら、僕も多少は真剣に相手をしよう。
だが、そうじゃないのなら。
もはや、逃げ隠れする価値すらない。
その夜――夕飯を終えて、自分が食べた分の食器を台所で洗っていると、続いて食べ終わったらしい結女が、僕の隣に並んだ。
しばらく、ばしゃばしゃという水音だけがして――ぽつりと、呟くような声で結女が言う。
「……悔しくないの?」
「何が」
訊き返すと、結女はもどかしそうに眉をひそめた。
「わかってるんでしょ」
「僕に群がってる連中のことか?」
「そう」
さすが、女子は情報が早いな。
「あなた……ナメられてるのよ」
「だろうな」
「私に直接話しかける勇気がないからって、一見大人しそうなあなたを利用しようとしてる……。私、気に喰わないわ、ああいうの」
「君の感想なんか知らん。あんなのは付き合わなければいいだけのことだ。暖簾に腕押し、糠に釘。進学校の生徒なら、そのくらいのことわざはきっと知ってるだろう」
「でも、それじゃあなたが……!」
何かを強い語調で言いかけて、しかし、結女は口をつぐむ。
食器を洗う手が止まっていた。
僕も洗う手を止める。
ジャーっと、蛇口から水が流れ落ち続ける。
「……僕が?」
静かに訊き返した。
結女は口も手もしばらく止めていたが、やがて、再び食器を洗い始める。
「…………なんでもない」
翌日。
高校生3日目の朝――昨日、僕と結女は別々の時間に登校しようという取り決めをしたはずだったが、契約期間わずか1日で、それは反故にされた。
「今日は一緒に登校しましょうか、水斗くん」
きもっ。
優しげな声だったので反射的にそう思ってしまった僕だったが、朝食の場で、両親の前でそう切り出されては、むげにすることは不可能だった。
「ほんとに仲がいいわねぇ」
「はっはっは。女の子の扱いを訓練させてもらえ、水斗」
結女の奴はにっこり笑顔だ。明らかに、僕が断れなくなることを計算して、両親の前でそんな提案をしたのだ。
どういうつもりだ?
僕の疑惑の視線は、隙のない微笑みに跳ね返された。
二人連れ立って家を出る。
通学路を歩きながら、僕はずっと警戒の眼差しで結女を睨んでいたが、当の本人はすまし顔だ。一体何を考えているのか……。
薄気味悪さを抱いたまま、校門まであと50メートルにまで迫った。辺りに登校中の生徒が増えてくる。
……前は、この辺りで別れ別れになってたっけ。
どういうつもりで一緒に登校しようなどと言い出したのか知らないが、まさか二人仲良く教室まで行こうなんてこの女が言うわけあるまいし、ここらで――
そこで、僕の思考は停止した。
なんでかって?
僕が聞きたいよ。
なんで――この女、するっと腕を絡めてきたんだ!?
「はっ? ちょちょっ……!」
「いいから」
囁くような声で言って、結女は僕と腕を組んだまま歩き出した。僕は引きずられていかざるを得ない。
視線を感じた。当たり前だ。話題の新入生代表が、男と腕を組んで登校しているんだから!
ほ、本当になに考えてるんだ、この女! こんな見せつけるようなこと、付き合ってたときですらした覚えがないぞ!
恐るべきことに、結女は僕と腕を絡ませたまま、校門を通り抜けた――敷地内にはさらに多くの生徒がいるわけで、つまり、針のむしろだった。腕を絡ませて登校してくる男女なんて、別に僕とこの女じゃなくても目立つに決まってる!
「おっ。水斗クンじゃーん!」
「今日も仲良……く?」
昨日と同じく、結女狙いの男どもが群がってきて――にわかに静止した。
無理もない。
お近づきになろうとしているご本人様が、踏み台であるはずの僕と半端じゃないくらいお近づきになられているのだから。
ぎゅっと、絡ませた結女の腕に、強い力がこもった。さらに身体が密着して――くそ、意識しないようにしてたのに。こいつ、仲が良かった頃に比べて、かなり胸が大きくなりやがった。
「ごめんなさい?」
結女はにっこりと、不覚にもくらりと来てしまうくらい綺麗な微笑みを浮かべた。男たちがぼうっとする。
「ご覧の通り、今は、私が、水斗と話しているから――できれば、邪魔しないでもらえるかしら?」
男たちは口を開けて、僕と結女との間で指を彷徨わせた。
「あ、あの……伊理戸、さん?」
「こ、これって……」
「二人は……きょうだい、なんだよな!?」
「ええ」
その瞬間、結女の微笑みは凄絶の極みに達した。
「――悪かったわね、ブラコンで」
フリーズする僕。
シャットダウンする男たち。
ヒートアップする周囲の野次馬。
「じゃあ、そういうわけだから」
完全停止した男たちにトドメを刺すように言い残し、結女は僕を引っ張っていく。
僕のフリーズが解かれたのは、校舎の中に入って、結女の腕がするりとほどかれてからのことだった。
「き、君っ……とんでもないことをしでかしたな!?」
「何よ。これであの連中は近付いてこないでしょ?」
「そりゃそうだろうなあ!!」
本命の君が、義理の弟以外には興味ないです宣言をぶちかましたからな!!
「大丈夫よ。仲がよくなった友達にはちゃんと事情を説明するし」
「そういう問題か!? せっかくの評判が……!」
「……一応、あなたは、私の家族なんだから」
ふいと視線を逸らして、結女は呟いた。
「家族がナメられるのは、我慢ならないの。それだけ。他意はないわ」
……こいつ……。
ああもう、くそ――まったく。そっちにそういう感じで来られちゃあ、僕も冗談じゃ流せないじゃないか。
僕は少しの躊躇を呑み込んで――できる限り素直に、気持ちを口にした。
「――ありがとう。助かった」
たったそれだけのことで、結女はピクッと肩を震わせる。
お礼を言われた奴の反応じゃねえ。
「なんだよ。素直にお礼を言ってやったのに」
「……別に!」
結女は完全にそっぽを向いて、一人で教室に向かおうとした。……が、唐突に振り向いて、僕の二の腕の辺りをじっと睨む。
「…………さっきの」
「は?」
「さっき……二の腕に……その、押しつけたときの感触は、記憶から抹消しておくこと!」
「ああ……」
僕は、ついさっきまでこの女の胸が押しつけられていた二の腕を、反射的に触った。
「~~~~っ!?」
瞬間、結女は顔を真っ赤にして、自分の胸を覆い隠す。
え? なに?
「……っムッツリスケベ!」
謂れのない罵倒を残して、結女は走り去っていった。
なんだよ、いきなり……。僕は戸惑いながら、二の腕を何とはなしに揉む。
――あ。
「間接タッチか」
その発想はなかった。
※※※
激動の朝と穏やかな午前授業を終えて昼休み、一人の男子が僕に話しかけてきた。
「ちっす。こんちは。伊理戸水斗クン。お昼でも一緒にどうだい?」
まさか、あのブラコン宣言を乗り越えた剛の者が存在したのかと思って、僕はうんざりと顔を上げた。
軽薄な印象の男子だった。……昨日、付きまとってきた連中に、こんな奴いたっけ? しかしどことなく見覚えはあるので、クラスメイトかもしれない。
「……悪いけど、僕は君に、二つの返答をしなくてはならない」
「聞こうじゃねーの」
「一つ。昼はもう食べた」
「そりゃ残念」
「二つ。どれだけ僕に取り入ろうとしても、君みたいな軽薄そうな奴は、絶対に結女には近付かせない」
僕からの徹底的な拒絶を受けた軽薄そうな男子は、なぜかにやあと不愉快な笑みを浮かべた。
……なんだ?
「それじゃお返しに、オレからも二つ、あんたにいいことを教えちゃうぜ」
「……?」
「一つ。オレは別に、伊理戸さんとお近づきになりたくてあんたに話しかけたわけじゃない」
「……!?」
「二つ。……ご本人が、今の台詞を聞いていたようだぜ?」
ピッと、男子の指が横合いを指した。
そちらに目を向けると――ちょうど昼食から帰ってきたところらしい結女が、すぐ傍に立っていた。
……………………。
ええと。
僕は、今し方自分が吐いた言葉を反芻する。
――君みたいな軽薄そうな奴は、絶対に結女には近付かせない。
……………………彼氏か!!
結女の顔がいつもより若干赤く見えるのは気のせいだと思いたいが、あちこちに目が泳いでいるのを見なかったことにはできなかった。
結女は何だか懐かしい挙動不審な仕草で、無意味に手をわたわたとさせたのち、ロボットめいた不自然な動きで、僕の後ろの席に座る。
――ガンッ! ガンッ! ガンッ!
そして椅子を蹴ってきた。しかも何回も。
「ぶははははははははははははっ!!」
僕に話しかけてきた名も知らぬ軽薄そうな男子が、なぜか爆笑した。そんなにおかしいか、僕が身内から暴力を受けたのが。
「いやあ、ははは! 想像通りだ。オレの鼻はやっぱり正確だな!」
「はあ? 鼻?」
「いやいや、こっちの話さ」
男子は目尻の涙を拭うと(笑いすぎだ)、僕に手を差し出してくる。
「オレは
「……正直言って、極めて胡散臭いんだが」
「そう言うなよ、兄弟」
「君と兄弟になった覚えはない」
「あれ? 見知らぬ他人ときょうだいになるのが得意なんじゃなかったっけ?」
「むしろ不得意な部類に入るね」
「そうかい。なら友達で手を打とう。よろしく!」
川波小暮と名乗った男子は、かなり強引に僕の手を握った。……どうやら、なんだか厄介そうな奴と友達になってしまったらしい。
「ってわけで、友よ」
「いきなり馴れ馴れしいな、君」
「友達になった記念で、もう一つ面白いことを教えてやろうと思ってさ」
「面白いこと?」
にやあと、川波はまたあの不愉快な笑みを浮かべた。
「今、後ろを向くと、すげーいいものが見られるぜ」
後ろ?
言われるままに振り返った。
すると――
「……………………」
そこにあったのは、どこか拗ねたような結女の顔。
……ははーん?
僕の優秀な頭脳は、一瞬にして、今ここで言うべき台詞を割り出した。
「寂しかったか? ブラコン」
ガンッ、と椅子を蹴られた。
それは、今まで一番強い蹴りだった。
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