元カノは意識させる。「ここは私の家なんだから、別に普通でしょ?」


 今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないけれど、私には中学2年から中学3年にかけて、いわゆる彼氏というものが存在したことがある。

 うだつの上がらない顔で、ファッションには大して気を遣わず、背は高いどころか猫背気味で、話すことはこれっぽっちも面白くない、およそ男性としての魅力を持ち合わせないクズの塊のような男だった――まあ、頭はいいほうだったと思うけれど。

 しかし、当時中学2年――天衣無縫の思春期にして、天下無双の地味女だった私は、ちょっと優しくされて、ちょっと話が合って、ちょっと楽しいなー、と思ってしまった程度のことで、あっという間に舞い上がってしまった。


 不覚。

 まさに若気の至りだ。


 深夜のテンションで書き上げたラブレターを、その場のノリで渡してしまったが最後、私の運命のレールは、その終点に至るまで、すっかり敷設されきってしまったのである。

 中学生の恋愛の行きつく先など、『破局』の二文字以外にはない。

 子供騙しの少女漫画とは違うのだから――いずれ目が覚めて、現実を思い出して、何事もなかったかのように別れる。私とあの男もきっちり、そういう運びとなった。


 どだい、無理だったのだ。

 軟弱なイラストを表紙にしたライトミステリを愛好している男と付き合うなんて。

 ミステリは知的かつ端正な本格こそが正義。

 ……まあ、別に、それだけが理由ではないし、人の好みはそれぞれだけど。


 とにかく、私たちは別れた。

 そして、親同士が再婚した。

 義理のきょうだいになって、一つ屋根の下で暮らすことになった。

 世の中はままならないものだとは言えど、こんなにも都合の悪いことが、そうそう起こるはずもない――きっと、意地悪な神様が、私たちに仕掛けたトラップに違いなかった。

 神様が仕掛けたトラップ。

 すなわち運命である。





 あの男と仲良くしていた頃のことなんて、もうとっくに脳のゴミ箱の中に叩き込んでしまったけれど、それでも、風呂場のカビのようにしつこく消去し切れない記憶が、まだいくつか残っている。

 あれは確か、中2と中3の間――春休みのことだった。

 私は、あの男の家にお呼ばれをした。


 ――今日、親、いないから。


 などと、少し照れの入った声で切り出されたものだから、ついに来た、と当時の愚かなる私は思ってしまったものだ。

 デートもしたし、キスも何回かしたし、だったら次は――今日びの女子中学生なら、そう考えてしまうのだって普通のことだ。私が特別いやらしいわけじゃない。本当に。


 当時の私にはほとんど友達がいなかったけれど、漏れ聞こえてくるクラスの女子たちの話題にも、しばしばそういうことが上ってくる時期だった――なんとなれば、私たちはすでに、忌まわしき生理との戦いを開始しているのである。その辺りの事情については、男子よりも強く、その身をもって実感しているのだ。ネット上の画像でぎゃあぎゃあ騒いでいるだけの連中とは、そういう概念との距離感が違う。


 私は覚悟した。


 本の中でしか知らなかったことを、ついに、この身で経験してしまうのだと――期待と不安を3:7くらい入り混じらせた心持ちで、生まれて初めて、彼氏の部屋というものに上洛を果たしたのだ。

 上洛って。

 我ながら馬鹿みたいな表現をしてしまったけど、そのくらいの覚悟だったということである――前日の夜に、ネットを駆使して『初体験の前に知っておくべきこと』みたいなページを読み漁ったのは言うまでもない。まあ、夢を破壊されるだけの結果に終わってしまったが。


 あの男の部屋に入った私は、部屋の様子を見回す振りをして、身の置き場を探した。本だらけの雑然とした部屋には、座れる場所はベッドくらいしかなかったものの、さすがにいきなり男の子のベッドに座るというのは、いささか以上に気が引けた。


 ――遠慮せずに座っていいよ。


 あの男がそう言うので、結局、ベッドに座ることになったのだけど――驚くべきことに、あの男は当たり前のように、私の隣に座った。

 私は思った。


 えっ……!? お、思ったより積極的……! いつもは控えめな人なのに!


 どれだけ視野が狭いんだこの女は。死んでしまえ。

 と思う現在の私だったが、残念ながら当時の私は、そこで死んでしまうことなく、あの男との雑談を開始した。


 正直に言うと、話の内容はさっぱり覚えていない。私の頭の中は、いつ押し倒されるのか、ということでいっぱいいっぱいだったのだ。あの男が少し座り直しただけでビクリと肩を震わせ、小指がかすかに触れただけで声を上げそうになる――不慣れさ丸出しの哀れな女が、そこにはいた。

 10分経ち――20分経ち――30分経ち――

 1時間経って――2時間経って――3時間経って――

 ようやく、あの男がこう言った。


 ――もうこんな時間か。じゃあ、そろそろ……。


 来た。

 ついに来た。

 痛くありませんように。幻滅されませんように。うまくできますように……!


 ――帰ったほうがいいよ。送っていくから。


 ………………………………………………。

 えっ。


 ――あ、あの……。

 ――名残惜しいけどさ、これ以上遅くなったら、家の人が心配するから。


 そして、私はあの男に送られて、自宅まで帰ってきた。

 もしかして、送り狼!? 送り狼ってやつ!?

 と、ギリギリまで思っていたりもしたけれど、よく考えたら、私の家にはお母さんがいる。そういう行為に及ぶつもりなら、どう考えても、彼の家のほうが好適なはずだった。

 玄関の前で、あの男は普通に手を振って、普通にこう言った。


 ――今日は楽しかったよ。それじゃあ、また。


 私は去っていく彼を呆然と見送って――ようやく気が付いた。

 彼は、そういうことをするつもりで、私を家に呼んだのではないのだと。

 ただ、自分の部屋で、私と喋りたかっただけなのだと。

 大人の階段を上る気満々だったのは、私だけだったのだと!


 ――あら? 結女、顔赤くない? 風邪でも引いたの?


 自宅に戻ると、お母さんに心配された。

 ……まったくもって。

 忘れたい記憶ほど忘れられないのは、人間の大いなる欠陥ではないだろうか。


 それから、およそ1年後。

 決定的な破局に至るまで、私とあの男は結局、そういう行為に及ぶことはなかった。




※※※




「今日、父さんと由仁さん、帰るの遅いってさ」


 いろいろあった春休みも終わりに近付いてきた頃。

 ようやく引っ越しの荷物が片付いた自室で、優雅に本格ミステリを嗜んでいたら、義弟――弟だ、なんと言われようと――がやってきて、おもむろに報告してきた。


「……ふうん。で?」

「で? って……」


 私の義弟であるところの伊理戸いりど水斗みずとは、苦虫を噛み潰したような顔をする。

 ……ああ、そう。私とは事務的な会話をするのも苦痛ってわけ? ふうん、そう。


「晩御飯とか、どうするんだよ」

「私に責任があるみたいに言わないで。私はあなたの母親じゃないの」

「わかってるよ。一応、同じ食卓に座る者として、相談してやってるんだろ――くそ、君との話はさっぱり進まないな」


 ……私が愚図みたいに。

 改善したんだから。あなたと出会った頃に比べれば。


「なら、晩御飯はこっちで勝手に用意する。メニューも勝手に決めるぞ。いいな?」

「用意するって……料理、できるの?」

「多少はね。ずっと父さんと男の二人暮らしだったんだから。君のほうは――ああ」


 水斗は「ふっ」と小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

 この男は、私が料理できないのを知っているのだ。前に、私が作ってきた残飯の詰め物みたいなお弁当を完食して、『すごく美味しかったよ』などと嘘八百を抜かしたことがある。


「まあ、今や僕らは家族なんだ。多少の施しはしようじゃないか。感謝して喰らうがいい。僕が作った料理を、豚のように」


 いつか殺してやる。この男。

 迸らん限りの殺意を胸に封じ、私は精一杯の微笑を浮かべた。


「いえ、水斗くん。何もかもやってもらうんじゃ申し訳ないわ。私も手伝ってあげる」

「いらん。また両手をあざとい絆創膏だらけにされても面倒臭い」

「あなたから一方的に施しを受けるのが気に入らないって言ってるのよ、冷血男」

「冷血女に言われたくはないな――やれやれ」


 水斗はこれ見よがしに溜め息をついた。それで気取ってるつもり? だとしたら速やかに死んでほしい。


「なら、行くぞ」

「……行く?」


 どこへ? 私は首を傾げた。


「晩御飯の買い出しに決まってるだろ――無から料理が生まれ出るとでも思ってるのか?」





 なんということだ。

 どうして私は、別れて1ヶ月も経っていない元カレと、連れ立ってスーパーになど来てしまっているのだろう。

 これじゃあまるで、新婚夫婦か、同棲してるカップルみたいじゃない!


「えーと……おっ、これ安いな」


 などと考えている私の隣で、当の元カレがカートにぽいぽいと商品を放り込んでいく。

 この男はこの状況に何も感じないの? どれだけ鈍感なのか――あるいは、どれだけ私のことを女だと思っていないのか。……いえ、まあ、私は女ではないし、彼も男ではないのだけど。姉であって、弟なのだけど。

 ……ダメだ。これじゃあ前の二の舞だ。私ばっかり空回りして、私ばっかり損をするだけ。

 平常心を保とう。


「……さっきから適当に手に取っているように見えるけど、何を作るつもりなの?」

「んー? いや、わからん」

「えっ……わからんって。料理の材料を買っているのよね?」

「だから、とりあえず安そうな材料を適当に買って、それで作れそうな料理を考えるんだろ? 先に買うものを完全に決めたら、高くなってるのも買わないといけなくなるだろう」

「…………。なるほど」


 納得してしまった。

 生活の知恵、というやつなのか。……この男に、まさか生活力などというパラメータがあるとは思わなかった。


「最悪、何にも思いつかなくても、全部鍋にぶち込んでカレールー入れたら、大体カレーになるしな。『料理を作る』ことと『食事を作る』ことの違いを理解したまえ、妹よ」

「誰が妹よ。私が姉だって言ってるでしょ」

「はいはい」


 ……聞けば聞くほど、下手くそなお弁当を食べさせてしまったときのことがみじめになってくる。おのれ……。


「まあ、たまになら下手な料理も可愛いかもしれないけど、毎日はさすがにキツイからな。精進してくれ」


 何気ない調子で水斗が口にした一言に、私はにわかに身体と思考を硬直させた。

 ……か、可愛い?

 また、この男はいい加減なことを――いやでも今のは、何も考えずにぽろっと出た感じだったし、本音の可能性も――


「……どうした? 置いていくぞ」


 いつの間にか立ち止まってしまっていた。私は慌てて追いかけながら、頭を振って雑念を振り払う。

 本当に、これじゃあ以前の二の舞だ。私ばっかり変な風に考えて、この男だけ飄々としているなんて、あまりに不公平だ。

 ……意識させてやる。

 この男のいけ好かない顔を、血のような真紅に染め上げてやるわ!





 不承不承ながらもキッチンに二人並んでカレーを作り、夕飯を済ませた。

 私の包丁捌きを見た水斗が「ちょっと待て。こっちが怖くなる! 指はこうだ、こう!」と無許可で私の手に触ってくるというアクシデントこそあったものの、おおよそ何事もなかった――双方の親がいないので、仲のいいきょうだいを演じる必要もなく、むしろ楽だったとさえ言える。


「風呂湧いたけど、どうする?」

「私が先」

「……言うと思った」

「あなたが入ったあとの残り湯になんか入りたくないもの」

「君が入ったあとの残り湯に僕が入るのは構わないのか?」

「……やっぱり後!」


 お母さんたちがいたこともあって、今まで気にしていなかったけど、よく考えると私は、この男と同じお湯に毎日浸かっているのだ。

 それって……それって、なんか……それって……!

 ……落ち着こう。

 ちょうどいい。水斗がお風呂に入っている間に、精神を整えるのだ。

 この後に控える、逆襲のために。


「上がったぞ」


 密室殺人ゲーム(私が考案した思考遊び。水斗が密室内で殺害されたと仮定して、それを成立させ得るトリックを考えられるだけ考える)をして精神を統一させていると、10分もせずに髪を濡らした水斗が戻ってきた。


「うっ……」

「ん?」


 ……髪を濡らしたら大体誰でもなんとなくカッコよさげに見える。つまりこれはごく一般的な事象。特別な意味はない。特別な意味はない。


「……あなた、お風呂早すぎない? ちゃんと洗ってる? 汚いんだけど」

「答える前に決めつけるな。洗ってるよ。風呂に入ってる時間が勿体なく感じるだけだ」


 忙しのない……。そういうところが嫌いだったのよ。最初の頃は私のペースに合わせてくれてたのに。

 ともあれ、時は来た。

 私は脳内に広げた密室と水斗の死体を打ち消して立ち上がった。


「じゃあ、入ってくるわ。……覗いたら殺すから」

「殺されるまでもなく死ぬね。目が腐って」


 ……そんなことを言ってられるのも今の内なんだから。

 私は一応、ちらちらとドアを警戒しつつ脱衣所で服を脱ぎ、入浴を始める。

 お母さんたちがいたときはあまり気にならなかったけど……私、あの男がいる家で、裸になってるのよね……。

 もし、今この瞬間、あの男がお風呂に乱入してきても、誰にも助けを求められないわけで……。


「……………………」


 ……あの冷血男に限って、そんなことは有り得ないと思うけど、もしそうなったら、いろんなところを噛みちぎってやる。

 私はしっかり身体を清めて温めてから、浴場を出た。そして新品のバスタオルを裸身に巻いて、ドライヤーで髪を乾かす。

 ……ここからだ。

 バスタオルの結び目をぎゅっと握った。


 私は、脱衣所に、着替えを持ち込んでいない。


 あえて退路を断つためだ――背水の陣をもってして、あの男の冷徹な顔を崩してやると決めたのだ。

 そう。

 着替えを持ち込まなければ、私はこのまま、バスタオル姿であの男の前に出るしかない!


「…………っ」


 バスタオルの下には、本当に何も着ていなかった。

 下着くらい用意しておけばよかったという後悔が首をもたげるけれど、このくらいでないと、きっとあの男には通じない。


「……よし」


 意を決して、脱衣所を出る。

 ぺたぺたと裸足で、リビングに戻った。


「あ……あがったわよ」

「ん――ごぼふぉっ!?」


 私を見た瞬間、水斗が飲んでいたお茶を噴き出して咳き込んだ。

 予想以上の反応!

 私は顔を逸らして、緩みかけた表情を隠す。


「ばっ……き、なんで?」

「ここは私の家なんだから、別に普通でしょ?」


 努めて平然と返しながら、私はL型ソファーに座る水斗の斜め前に腰掛けた。


「いや、でもな……一応、僕がいるんだし……」

「きょうだいがいるから、なに? ……もしかして――」


 私は笑みを作って、戸惑った顔の水斗に流し目を送る。


「――水斗くんは、姉である私をいやらしい目で見てしまう、悪い子だったのかしら?」

「ぐっ……!」


 あはははははははは!!

 赤くなってる、赤くなってる!!

 ざまあみろ!!


 水斗は私を視界から逃がすように顔を背けるけれど、見てる見てる、視線を感じる。バスタオルから見切れた胸元や太腿に、ちらちらと。

 1年前に比べると、私も成長した――けっこう女性らしい身体つきになったと思う。その自己評価は、間違ってないみたいだった。中学の頃には、この男からこういう視線を向けられた記憶はあまりない。油断してスカートの中が見えてしまったときくらい。

 以前はそういう目を向けられることを怖いと思っていたけれど、こうして実際にやってみると、存外楽しかった――いつもクールぶっているこの男が、こうまで平静を失うなんて。

 どれ、足を組み替えてみよう。


「…………っ!!」


 あっ、見た。完全に見た。わっかりやすっ。

 ますます楽しくなってきた私は、テレビのリモコンに手を伸ばす振りをして、胸元を見せつけてみた。


「~~~~っ!!」


 あー、見てる見てる見てる。見ないようにしようとしてるけど、完っ全に見てる。

 顔が緩まないようにするのに、だいぶ頑張らなければならなかった。今日だけじゃなくて、1年前の雪辱も果たせたような気分だ。以前はこれっぽっちも意識しなかったこの男が、今はこんなにも私に目を奪われている。

 これが女のプライドというやつなのか。胸の中の何かが満たされていくような気がした。


 ……とはいえ。

 そろそろ、その……恥ずかしくなってきた。

 思ったよりも見てくるし……バスタオルがズレるか、足の閉じ方を少しでも油断したら、即、見えてはいけないところを見られてしまうし。

 というか、私は何をしてるんだろう。

 もしかしなくても、私がやってることって、誘惑以外の何でもないのでは……?

 仮に今、この男に押し倒されたとしても、私に文句を言う権利はない気がする。


「……………………」


 急に冷静になってしまった私だった。

 バスタオルをずり上げて胸元を隠そうとしたけど、そうすると今度は下のほうの防御力が下がってしまう。

 少しでも動いたら、いろんなところが見えてしまいそうな気がして、私は硬直するしかなかった。

 ……調子に乗った……。

 どうして調子に乗るとこうなるんだ、私は……。


「…………はああ~」


 水斗が深めの溜め息をついたかと思うと、不意に立ち上がって、私のほうに歩いてくる。

 え、え、え? ま……まさか、本当に……?

 全身を石のように強張らせた私の前で、水斗は羽織っていた上着を脱ぎ――

 ――私の肩に被せた。


「どうせ、僕をからかってやろうとか思ってたんだろうけど……後悔するってわからなかったのか、馬鹿」


 私は被せられた上着の前をかき寄せながら、呆れた顔をした水斗を見上げる。


「普段は大人しいくせに、たまに勢いでとんでもないことするよな、君は……。直せよ、その癖。もう僕はフォローしてやらんからな」


 ぶっきらぼうで、優しさの欠片もなく、見下げ果てたかのような響きさえ伴った、その言葉は。

 それでも――中学の頃、何度となく頭の中で反芻した彼の言葉と、同じ意味を含んでいて。

 思わず。

 1年前まで、意識が遡ってしまった。


「……1年前」

「ん?」

「私が前に、この家に来たとき。……どうして、何もしなかったの」


 私たちの仲がおかしくなり始めたのは、そのすぐあと――中学3年に入ってからのこと。

 だから、もしかしたらあの日、私が何か変なことをして、彼を幻滅させてしまったんじゃないかと、そう思っていた。

 結局、それは私の勘違いで、理由はまったく別のことだったのだけど――


「君……今更それ言うか!?」


 えっ。

 水斗は意外な顔をしていた。

 恥ずかしい過去を掘り返されたかのような、苦渋に満ちた――


「ハッ。笑いたきゃ笑えよ!」

 水斗は開き直ったように言う。

「諸々の準備を万端整えて彼女を家に呼んだのに、結局ビビッて何もできなかったヘタレ野郎をな!」


 約5秒。

 私の思考は停止した。


「――――えええええええええええええっ!?!?」


 そして復活すると同時に、立ち上がりながら絶叫した。


「じゅっ、準備!? ビビッて!? なっ、なっ……それ、どういうこと!? わ、私はあの日、けっこう覚悟決めてたのに何にもなかったから、独り相撲だったんだと思って……!!」

「は? い、いやだって、君、めちゃくちゃガチガチになって、すごい警戒してたから、だんだん気が引けてきて……」

「そ・れ・は! 緊・張・してたのっ!!」

「はああああああああっ!?!?」


 水斗も目を剥いて絶叫した。


「嘘だろ!? あのとき、そっちもやる気満々だったのかよ!?」

「満々だったわよっ!! あの本だらけの部屋を一生の思い出にする気でいたわよ、完全にっ!!」

「ま、マジで……? じゃあ、部屋の中で後悔に打ちひしがれたあの日々は一体……」

「こっちこそ! そんなに魅力ないのかって悩んでた時間返して!」

「知るかぁーっ!! 君があんなにガチガチになるのが悪い!!」

「悪いのはあなたでしょ!! このヘタレっ!!」

「なにおう!?」

「なによっ!?」


 その後はもう、筆舌に尽くし難い大罵倒大会と化した。

 互いの悪口を言って言って言いまくり、ついには取っ組み合いになって、どたどたとソファーの上で暴れまくった。

 やがて体力も悪口も尽きて、ただただ肩で息をしながら、互いに睨み合うだけになる。


「……はあっ……はあっ……」

「はあっ……んっ……はあ……」


 水斗に組み伏せられるような格好で、私たちは互いの息をぶつけ合った。

 ほんっと……気に喰わない。

 本の趣味も合うようで合わないし、何かといえばすれ違いになるし、果てにはきょうだいなんかになっちゃうし……。


「……ううっ……」


 なんだか泣けてきた。

 どうしてこんなにうまくいかないんだろう。

 あの日、もし私があんなに緊張してなかったら、あるいは、今も――


「……喧嘩で泣くのは禁じ手だぞ」

「うるさいっ……! わかってる……!」


 ぐじっと滲んだ涙を腕で拭う。

 この男に頼ってばかりいた、1年前までのか弱い私は消えたのだ。

 それが終わりの切っ掛けだったんだとしても、私は成長したことに後悔なんかしていない。

 だから、私は悪くないんだ。

 この男が悪い! 全部全部!


「……なあ、


 心臓がドクッと跳ねた。

 綾井。

 それは、私の旧姓であり――中学の頃、彼が使っていた私の呼び方。

 

「実は、その……」


 水斗は――伊理戸くんは、妙に歯切れ悪く、ぼそぼそとこう呟いた。


「……1年前に準備したやつ、まだ、残ってるんだけど」


 1年前に……準備した、やつ?

 準備、って……その、え?

 まさか……エチケット、的な……?


 私は無意識に、太腿を擦り合わせていた。

 ほとんど忘れていたけれど、私は今、バスタオル1枚で身体を隠した状況だ。伊理戸くんが被せてくれた上着は、喧嘩しているうちにどこかにいってしまった。

 そして、バスタオル自体も、いつの間にかだいぶ乱れてしまっていて――


「…………………………」

「…………………………」


 私たちは間近から、視線をぶつけ合った。

 顔が赤いのは、たぶん喧嘩で体力を使ったからだ。きっとそうだ。

 だから、徐々に顔が近付いてしまうのも、身体を支える力が尽きてきたからであって――


 ――あ。

 キスするの、久しぶり――




 ガチャリ。




 玄関扉が開く音が聞こえた瞬間、私たちはビクーンっ! と身体を跳ねさせた。


「ただいまー!」

「水斗ー! 結女ちゃん! リビングにいるのかー!?」


 お、お母さんたち……!? もう帰ってきたの!?


「げっ……! もうこんな時間!?」


 水斗が慌てて身を離しながら、時計を確認した。

 うわ……! いつの間にかだいぶ遅くなっていた。どれだけ喧嘩してたの……。


「おい! 早く服着ろっ! マズいだろ、この状況は!」


 ほぼ裸の私と、衣服を乱した水斗が、ソファーの上で絡み合っている――それが今の状況だった。

 確かにお母さんたちには仲のいいきょうだいを演じているけれど、ものには限度というものがある。そこまで深い仲だと思われるのはいろんな意味でマズい!


「で、でも、着替えが……」

「あ、そうか。着替えを取るために外に出たら……。ああくそっ! じゃあ隠れろ! ええっとええっと――そうだ、ここだ!」

「うきゃあっ!」


 水斗は私を床に転がり落として、ソファーの座面をパカッと開けた。収納付きだったらしい。


「ほら、入れ! 急げっ!」

「ちょ、ちょっと! そんなに押さなくても自分で……! いたっ!? いま蹴った! 蹴ったでしょ!」

「喋るなよ、いいな!」


 ソファー内の収納スペースに私を押し込むと、水斗は座面を閉じた。

 私の視界は真っ暗になる。


『――ん? 水斗一人か』

『結女の声も聞こえたと思ったんだけど……』

『おかえり。父さん、由仁さん。結女さんなら先に寝たけど――』


 お母さんたちに言い繕う水斗の声を聞いて、私はさっきのことを思い出してしまった。

 さっき……もし、お母さんたちが帰ってこなかったら。

 私……何してた……?


「……ううううう……!」


 おかしい。こんなのはおかしい!

 もう別れたんだ。嫌いになったんだ。彼はもう、何もかも癪に障るいけ好かない義弟であって、彼氏なんかじゃない! なのに、なのに……!


 バクバクと鳴る心臓を押さえる。

 どうしてこんなにうまくいかないんだろう。

 ようやくちゃんと終わらせたのに――ようやく楽になれたはずなのに。

 きょうだいなんかになって、意識しちゃうようなことをして、今さらお互い様だったのがわかって!


「……ああ、もう……!!」


 そういうところが、嫌いなのよっ!!




※※※




 翌日。

 水斗が外出した隙に部屋に忍び込んで、家探しをした。

 と言っても、真っ先に調べた机の引き出しから目的のものが見つかってしまったので、家探しというほどのものでもなくなってしまったのだけど。

 引き出しの奥に、避妊具の箱が押し込まれていた。

 1ダース。12個入り。


「……じゅ、12回分……?」


 いや、まあ、たまたま12個入りのものを買ってしまったというだけであって、別に全部使い切るつもりではなかったはずだ。……たぶん。

 とにかく。

 私はその小箱をビニール袋で厳重に封印したのち、ゴミ箱の中身と共にゴミ袋の中に放り込んだ。あとはゴミの日に出してしまえば、始末は完了だ。

 これで、万が一にも間違いが起こることはない。

 もちろん、そんな可能性は元からこれっぽっちも存在しないのだけど、一分の隙も見逃すな、念には念を入れろ、と囁いたのだ――貞操を防衛することにかけては実績のある、私の警戒心が。


 ……もし。

 1年前のあの日、私とあの男が結ばれて、仲がこじれることもなく、今日まで同じ関係でい続けていたとしても。

 お母さんたちは再婚して、私たちはきょうだいになっていただろう。

 そのとき――私たちは、一体どうしただろう?


 ……いや、どうしたもこうしたもないか。

 だって、そもそも――


「……………………」


 やめよう。

 知らないフリをしておこう。

 そうしておけと、私の警戒心が囁いた。

 だって、今の私たちには、どう考えたって必要ない。


 ――なんて、どうでもいい雑学は。

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