元カノは目を覚ます。「ハッ!? 私は何を!?」


 今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないけれど、私には中学2年から中学3年にかけて、いわゆる彼氏というものが存在したことがある。

 なぜそのような狂気の沙汰に手を染めたのかと言えば、それは当時の私が泣く子も黙るスーパー根暗女だったことが原因の大きな部分を占めているだろうと言わざるを得ない。まともな女子なら、あんな男のことをカッコいいと思うはずもないからだ。実際、当時、私以外の女子はあの男に目もくれていなかった。


 当時の私の根暗っぷりを表すエピソードには、例えばこんなものがある。


 それは、確か中学2年の2学期、中間テスト前のことだったと思う。私とあの男は唾棄すべきことに、図書館で、二人きりで、イチャコラとテスト勉強に励んでいた――地獄の受験勉強を通じて一皮剥けた今の私に言わせれば、あんなものは勉強ではない。勉強の形を借りた発情行動。すなわちセミが鳴くのと一緒である。

 まだ付き合い始めて1ヶ月くらいだった私は、ミンミンと鳴きはせずとも、ドキドキと胸を高鳴らせていた。別にこの図書館でなくたって、この頃の私はいつもこんな感じだった――いわゆる発情期である。だからだろう、私はこのとき、とあるミスをした。


 ――あっ……。


 ノートの横に置いていた消しゴムに腕が当たって、どこかに落としてしまったのだ。消しゴムというやつは、とかくイレギュラーにバウンドする――嫌がらせのように不規則な転がり方をして、私たちの追跡から逃れるものだ。

 私は机の下を探したけれど、さっぱり見つけられなかった。消しゴム自体、もうだいぶ小さくなっていたのも相まって、捜索打ち切りは避けられない事態であった。

 別に痛くもないけれど、なんとなく溜め息をつきたい気分になる私。……そこに、すっと、狙い澄ましていたような嫌味ったらしいタイミングで、横から消しゴムが差し出されたのだ。


 ――二つあるから。一つあげるよ。


 チョロさにかけては右に出る者のいない当時の私は、別にとりわけ優しいってわけでもないその言葉に頬を染めながら頷き、おずおずと消しゴムを受け取ったのだった。

 ……さて。

 ここまでなら、ただの何の変哲もない、記憶に残しているほうが頭おかしいくらいの日常エピソードでしかないのだけど、当時の私の根暗たる所以はここから発揮された。


 その日。

 家に帰った私は。

 もらった消しゴムを。

 鍵のかかる小箱に入れて保存した!


 そう――この名状しがたき根暗女は、その消しゴムを、『初めての彼氏からもらったプレゼント』としてカウントしたのである。

 いやいやいやいや。いかなあの男といえども、たかが消しゴムを彼女へのプレゼントにするほど耄碌してはいない。朝のラジオ体操の景品じゃあるまいし、それはただ余っていたから融通しただけの物資であって、彼氏がどうとか彼女がどうとかはこれっぽっちも関係がないはずだ。

 そんな常識は、当時の私には通用しない。

 私は折に触れては、あたかも聖遺物のようにその消しゴムを取り出して、にやにやと怪しい笑みを浮かべるという邪教めいた儀式を繰り返した。当時のあの男も相当思考回路がイカれていたと思うけれど、さすがにその私を目にすれば普通にドン引きだったことだろう。迸るヤバさ。地雷女という言葉の見本として、このときの私を採用したいくらいだった。


 恐ろしい話なのだけど、それ以降も私は、あの男の身の回りのものを手に入れるたび、同じ小箱に保存していった。そうすることで、自宅の中でもあの男を近くに感じられるような気がしたのだ。

 1年半後に本人が壁一枚向こうに常に存在する状況になると聞いたら、たぶん当時の私はおしっこを漏らして死ぬだろう。そのくらいの暗さとヤバさが、当時の私にはあったのだった。


 その冒涜的収集癖は、引っ越しの際に小箱と一緒に封印した。

 けれど、私は気付いていなかったのだ。

 封印は結局、封印でしかない。

 封じられただけのものは、ふとしたきっかけで、目を覚ますことがあるのだと。




※※※




 まったく世の中とはままならないものだ。あの男と一つ屋根の下で暮らす羽目になってしばらく経ち、同じ湯に浸かるのにもようやく慣れてきたというのに、神様の野郎はどこまで私を試そうと言うのか。


 パンツがあった。


 私に続いてあの男が入浴を済ませ、あとは寝るのみとなって、寝支度を整えるべく洗面所兼脱衣所に入ったときのことだった――脱衣籠に積まれた衣服の一番上に、男性用のトランクスが、あたかも鏡餅の蜜柑のようにぽんと置かれていたのだった。

 最後に入浴したのはあの男なわけで、それはあの男――私の義弟である伊理戸水斗のものであるに違いなかった。


 まあ、だからなんだという話だけれど。

 大抵の人間は下着を最後に脱ぐだろうし、脱衣籠のてっぺんに、直前に入浴した人間の下着が置いてあるのは当然のことである。葉緑素が光合成をして二酸化炭素を酸素に変えることよりもずっと当たり前のことだ。

 だから、私が取った行動も、わざわざ特筆する必要もない無意識的なものだった。


 なんとなく、脱衣籠に近付いて。

 なんとなく、一番上に乗っかったトランクスを手に取った。

 ……伊理戸くんが今日一日履いてた下着……。


「……ハッ!?」


 私は、いったい何を……!? なぜ義理の弟のトランクスを両手に握り締めているの!? ああ、ここ数秒の記憶がない……! きっと何者かによる遠隔マインドコントロールを受けたのだ。そうに違いない!

 とにかく、こんなシーンを誰かに目撃されたら、その場で舌を噛むしかない。こんなもの、さっさと籠に戻して――


「――ん?」

「あっ」


 サーッと全身から血の気が引いた。

 洗面所兼脱衣所の扉がにわかに開かれて、水斗が姿を現したのだった。

 その瞬間、おそらく人生最速の反射速度でもって、私は手の中のブツを背中に隠した。かろうじて命運尽き果てずに済んだけれど、この状況、まったくもって笑えない。


「いたのか。全然気配がしないから、誰もいないのかと思った」

「……そ、そう? 五感が鈍ってるんじゃない?」


 根暗時代に培ったスキルが自動発動し、無意識に気配を消してしまっていたらしかった。余計なことを! 私の気配がしたなら、この男も出直したかもしれないのに!

 水斗は怪訝そうに眉根を寄せて私を見やる。


「なんでそんなところにいるんだ?」


 ――しまった!

 私は今、洗面台から遠く離れた脱衣籠の前にいるのだ。何か辻褄の合う言い訳を……!


「……スマホを……そう、スマホを服の中に入れっぱなしだったのを思い出したから、探していたのよ」

「ふうん……?」


 ナイス私! ファインプレイ!

 私の完璧な説明に、水斗は一片の疑問も持たなかったようだった。洗面台に行き、自分の歯ブラシを手に取る。

 この隙にトランクスを元に戻せるかと思ったけれど、絶望的なことに、洗面台の鏡に脱衣籠がしっかり映り込んでいた。しかもなぜかこの男、鏡越しに私をじっと見ている。


「……な、何見てるのよ。今さら私のパジャマ姿に興奮したの?」


 言ってから、そうだと返されたらどうしようと焦ったけれど、幸い、水斗の返事は素っ気ないものだった。


「別に。君がやたら僕のほうを見てるから、人が歯を磨いている姿に興奮する性癖でもあるのかと思っただけだ」


 性癖、と言われて、後ろ手に隠したトランクスのことを連想し、心臓が跳ねる。けれど、かろうじて表情には出さずに済んだ。


「……よしんば、そんな性癖が私にあったとしても、対象があなたじゃ興奮なんてしないでしょうね」

「そりゃ安心だな」


 シャコシャコと歯を磨き始める水斗。別に興奮はしないけれど、この男が寝間着で歯を磨いているのを毎日当たり前に見られる環境にあるというのは、今もって不思議な感覚がある。


「……なあ」


 歯を磨き終えたあと、水斗はこちらに振り向いた。


「スマホ、まだ見つからないのか? なんだったら手伝ってやらんでもないけど――」

「えっ? あ、い、いや、大丈夫よ! 大丈夫だから! もう見つかったから!」


 水斗が近付いてこようとしたので、私は慌ててポケットに入れていたスマホを見せた。もう片方の手に握っているこれが見つかったら、私は一巻の終わりだ!


「……そうか。なら、君もさっさと寝ろよ。僕ももう行くから」

「え、ええ。そうね。その通りだわ。寝不足はお肌の大敵らしいし」


 くうっ……! ここは一時撤退しかない。

 私は仕方なくトランクスをポケットに捻じ込むと、水斗と一緒に洗面所兼脱衣所を出て、自分の部屋に引っ込んだ。





 ……どうしよう。

 自分のベッドの上で義理の弟のトランクスを広げて、私は途方に暮れた。

 いや、返せばいいのだ。脱衣籠の中に。家族が全員寝静まった頃合いを見計らえば、誰にも見咎められる心配はない。ただ、問題は……。


 私は壁を見た。

 水斗の部屋は、私の部屋の隣にある――だから私は、壁越しに漏れてくる生活音で、あの男の就寝時間を把握していた。あの男はかなりの夜型人間だ。よくもまああんな生活リズムで、毎朝の私との待ち合わせに間に合っていたものである。……当時はそこそこ頑張っていたのかもしれない。

 つまり、返却のチャンスがいつ来るものなのか、わからないのだった。それは0時かもしれないし1時かもしれないし2時かもしれない。ああもう、私はさっさと寝たいのに! でも義弟のトランクスを抱いて寝るというのは、人としての一線を大幅に踏み越えているように思えて、明日に先送りする気にはなれなかった。


 待つしかない。

 どうせ待つのならと読みかけの本を開きながら、私は隣室の音に耳をそばだてた。ときどき、部屋の中を歩く音がする。どうせ読書をしているだけなんだろうに、何をそんなに歩くことがあるんだろう。

 ……そういえば、考え事をしながら歩き回る癖があると、昔言っていた気がする。幼い頃、歩き回ることで推理力を上げる探偵、というのが出てくる小説を読んだことがあって、それを真似しているうちに癖になったそうだ。

 あの男は小学生にして『人間失格』や『ドグラ・マグラ』に被れていたという痛々しい人間なので、人格の随所にかつての痛々しさが残っているのだった。今でもたまに、『ドグラ・マグラ』のあの章を口ずさんでいることがある。スカラカ、チャカポコ。チャカポコチャカポコ……。


 ……集中できない。

 さっきから1ページも進んでいなかった――隣の部屋の気配に意識を向けているから、というのもあるけれど、今現在、私の部屋にあの男の下着があるという状況が、あまりに私の意識を乱しすぎる。

 横に置いたトランクスを、私は何とはなしに見下ろした。

 ここは私の部屋……。

 他には誰もいない……。

 つまり、私のやることを、誰も観測していない……。

 観測されていないということは、つまり何も存在しないのと一緒では?

 私が今、ここで何をしようとも、観測世界的には虚無に等しいのでは……?


「……………………」


 私はごろんとベッドに寝転がった。

 なんとなく疲れたから寝転がっただけであって他意はない。顔のすぐ横にあの男のトランクスがあるのもたまたまだ。つまりつまり、それに鼻が近付いてしまうのも――

 ああ、動悸がする。不整脈かしら? まさか興奮するようなことなんて何もないし。こんなに心臓が早鐘を打つなんて病気以外には考えられない。まあしばらく経てば治るだろう。そう、深呼吸でもして落ち着けば――

 くんくん。


「……………………ハッ!?」


 取り込んだ空気をすっかり肺腑に送り込むと、私は我に返った。

 今……何か、やってはならないようなことをした気が。

 自分の身体の中に、入れてはいけないものを入れてしまったような気が!

 ああ、記憶がない! また記憶消えた! 消えちゃったなー! あー!


「…………おおおおおお…………」


 私は布団の中に潜り込んで、胎児のように丸まった。

 頭を抱える。

 唐突に死にたくなってきた。

 これじゃあまるで、欲求不満な非モテみたいじゃないの……! 根暗はとっくに卒業したのに! 今の私は学年中の人気を独り占めにする超モテカワガールなのに!

 あの男がパンツなんか置いておくから悪いのだ。うっかり1年前の自分が目を覚ましてしまった。消しゴムを聖遺物のように扱っていた超根暗女が!

 私はもう、こそこそ男の私物をコレクションしたりしないでいいのだ。その気になれば何だってプレゼントしてもらえるだろうし、こんなトランクスなんて丸っきり必要なくて、ほ……本気を出せば、中身のほうが、自分から……!


 ふと、この前のことが頭をよぎった。

 戯れにあの男をバスタオル姿で誘惑した結果、ソファーに押し倒されたときのことが。

 もしあのとき、お母さんたちが帰ってくるのがもう少し遅ければ、きっと私は、このトランクスの中身を拝謁することになっていただろう。そして私は、たぶん……。


「~~~~~~~~っ!!」


 ガバッと布団を跳ねのけた。

 もうダメだ! これ以上こんなモノが部屋にあったら、頭がおかしくなってしまう! 

 多少のリスクはあるにしても、あの男が寝静まるのを待たずに、さっさと返却してしまおう!

 私はトランクスを引っ掴むと、ベッドから足を下ろした。

 そのときだ。

 ガチャリと、隣室の扉が開く音がした。


「……?」


 耳をそばだてていると、階段を降りていく足音が聞こえた。

 時計を見る。もう日付が変わっている。こんな夜更けに、一体……。喉でも乾いたのだろうか。

 ……チャンス、かな?

 もしコンビニにでも行くのだとしたら、これ以上の好機はない――いずれにせよ、あの男の行動を確認してみるか。


 私は畳んだトランクスを寝間着のポケットに捻じ込むと、そうっと廊下に出た。

 階段の下を覗き込むが、リビングには明かりが灯っていない。

 どこに行ったんだろう……?

 そろそろと階段を降りる――もし不意に出くわしたら、トイレに出てきただけだと言えばいい。そのときのことを頭の中でシミュレートしながら、私は1階に降りた。

 リビングにはいない……。玄関の扉が開け閉めされた音も聞こえなかった。トイレにも明かりがついていない。さすがに真っ暗闇の中で用を足す趣味があるとは思えないし、ということは……。


 洗面所兼脱衣所の中から気配がした。私は慌てて暗いリビングの中に逃げ込む。

 そのまま息を潜めていると、水斗が姿を現した。抜き足差し足で、明らかに足音を消している。

 一応、私たちの両親は新婚なので、夜はあまり騒がないようにしていた。そのための忍び足なのか、あるいは別の理由があるのか……?


 水斗はゆっくりと階段を上っていった。

 何の用だったのか知らないけれど、これはチャンスだ。今なら間違いなく、あの男に見咎められることはない。

 私は忍び足で洗面所兼脱衣所の中に入った。さすがに何も見えなかったので、電気をつける。


 やれやれ。これでようやく肩の荷が下りる。

 私の深層意識に封印された根暗女め。もう二度と解放してやることはないぞ。

 強くそう誓いながら、私は脱衣籠に近付いた。


「……あれ?」


 そして、気付く。

 脱衣籠は二つ存在する。お母さんが、年頃の娘である私に配慮して、女性用の籠と男性用の籠に分けてくれたのだ。

 そのうち、女性用の籠。

 その中に積み上がった衣服の一番上に、ブラジャーがぽんと乗っかっていた。

 デザインやサイズから察するに……どう見ても、私のブラジャーが。


「……………………」


 私は脱いだ服を籠に入れるとき、いつも衣服で下着が隠れるように配慮している。

 なんでって……あの男に見られるのが嫌だからだ。

 記憶が正しければ、私は今日もそうしていたはず……。

 ということは。

 なぜ今、私のブラジャーがこんなにも堂々とてっぺんに置いてあるのか?


「……………………」


 私は無言で、持ってきたトランクスを男性用脱衣籠の中に放り込んだ。……積み重なった衣服のてっぺんに、トランクスがひらりと舞い降りる。

 思い出すことがあった。

 今日、ちょっとした用があって洗面所に入ると、ちょうどあの男がお風呂から上がった直後だった。すでに服を着た後だったのでなんてことはなかったのだけど――今にして思うと、私が現れた瞬間、あの男の細い肩が、驚いたようにビクッと跳ねたような……?

 そして、まるで何かを隠すように、手を後ろに回していたような?


「……………………」


 私は無言で洗面所兼脱衣所を出て、廊下を歩き、階段を上がり、2階の廊下を歩いて、扉を開けた。

 私の部屋じゃない。

 水斗の部屋の扉を。


「あっ? ……な、なんだ? ノックもせずに、こんな真夜中に……」


 水斗は驚いた顔でこっちに振り向いた。

 その顔に叩きつけてやりたい言葉が幾千と胸から湧き起こって、


「……っ! ~~~~っ!」


 結局、喉から出てこない。

 言いたいことが多すぎて舌が回らず、ただただ顔が熱くなっていった。


「……本当にどうしたんだよ。真夜中に人の部屋に来て、一人で勝手に顔を赤くするって、一体どういう奇行――」

「――脱衣籠」


 やっとの思いで絞り出せたのは、そんな言葉だった。


「脱衣籠、見てきて。そしたら、わかる」

「え゛……」


 水斗はこの世の終わりみたいな顔をした。

 自分の所業がバレてしまったのだと思ったのだろう――その表情は非常に小気味よかったけれど、本当に残念ながら、私は無邪気に喜んでいられる立場にはいなかった。

 私が道を開けると、水斗はとぼとぼとした足取りで部屋を出て、階段を下っていく。

 そして30秒もしないうちに、往路に倍する速度で戻ってきた。


「きっ……! あっ……!」


 水斗は真っ赤な顔をして私に何か言い募ろうとしたけれど、そのどれもが言葉にならない。ほら、やっぱりそうなるでしょ?

 待ち時間でほんの少しだけ冷静さを取り戻した私が、厳かに宣言する。


「これより、家族会議を開催します」





 どちらか片方のフィールドに入ることを良しとしなかった私たちは、深夜のリビングを議場に選択した。

 L字型のソファーの角のところに水斗が収まり、そこからお尻三つ分くらい離れた場所に私が腰を下ろす。顔が見えると落ち着かないし、並んで座るなんて有り得ない。そういうわけでこのポジショニングしか選択肢がなかった。


「……先攻と、後攻を決めましょう」


 私は抑えた声で言う。

 1階の寝室にはお母さんたちが眠っている――あるいは眠っていないかもしれないけれど、どちらにせよ静かにしなければならない。声を荒げないことを、この会議の唯一絶対のルールとして、真っ先に設定した私たちだった。


「……わかった。どうやって決める?」

「手っ取り早く、ジャンケンで」

「勝ったほうが先攻か?」

「負けたほうが先攻に決まってるでしょ」

「……それもそうか。それじゃあ、最初はグー――」


 3度に渡る引き分けの末、敗北したのは私だった。

 忸怩たる結果だが、受け入れる他にない。

 先攻、私。

 言い訳を開始する。


「仕方がなかったのよ!!」

「いきなり声を荒げるなドアホ!」


 あっ、しまった。

 私たちは息を止めて、お母さんたちの寝室のほうの様子を窺う。

 起き出してくる気配はない。


「……仕方がなかったのよ。あれは私の内に眠る異なる私がやったこと。私悪くない」

「もうちょっとマシな言い訳を考えてくれないか。頼むから」

「ちょっと根暗時代に先祖返りしちゃっただけだもの……! 普段の私なら、あなたのパンツなんか何があったって……!」

「根暗時代ねえ。まるで中2の頃の君なら僕のトランクスをパクってもおかしくないと言わんばかりだけど。そう言える理由が何かあるのか?」

「あ」


 しまった……。考えがなさすぎる……。これじゃあ、中2の頃の黒歴史まで説明する羽目に……!


「……そ、それも話さなきゃダメ……?」

「ダメだね。この際、隠し事はなしだ。徹底的に弱みを握り合おう」

「うううう……! ……ひ、ひかないでよ?」

「もう充分ひいてるから問題ない」

「聞いたわよ? 言質取ったから……!」


 私は観念して、中2の私が人知れず行っていたおぞましき所業について、洗いざらい白状した。

 つまり、あなたからもらったものを、消しゴムから小銭に至るまで一つ残らず、宝箱に入れて保存していました、と。

 なんて拷問だ……。せっかく封印した黒歴史だったのに、当の本人に向かって暴露しなきゃいけないなんて。今すぐ爆発して死にたかった。


「……だから、そのときの収集癖が、急に再発したというか……」


 ふと横を見ると、水斗がそっぽを向いていた。顔を隠すように、私とは真反対の方向を見ている。

 あ、この男……!


「……ひ、ひかないって言ったわよね!?」

「い、いや……そうじゃなくて……」


 水斗はちらっと私を一瞥すると、また向こう側を向いた。

 そして呟くような声で言うのだ。


「……君さ……僕のこと、好きすぎないか……?」

「んなっ……!」


 羞恥で顔が燃え上がりそうになる。


「む、昔の話でしょう……!? 今は違うんだから!」

「い、いや、わかってる。わかってるぞ?」

「……こっち見て言いなさいよ」

「嫌だ」


 シンプルに拒絶された。そんなに私の顔を見たくないか。そうかそうか。キモい根暗女ですいませんでした!

 と、拗ねかけたとき、水斗の耳がほんのり赤くなっているのに気が付いた。

 ……………………。


「……な、何照れてるのよ……。ば、馬鹿じゃないの? 普通ひくところでしょ、ここは……」

「ひくなって言ったのは君だろ……。くそっ」


 ああもう……! 私まで釣られて顔が熱くなってきた!

 私は手で顔を仰いで落ち着きを取り戻そうと試みる。紛らわしい反応は慎まなければ。まだ私がこの男のことを好きだなんて、考えたくもない勘違いをされるのだけは御免だ。


「……とにかく、君の言い訳は聞き届けた。昔の癖が出たと。了解了解」

「次はあなたの番よ」

「そうだな……」


 それから、水斗はようやく顔の向きを元に戻す。顔色は普通になっていた。


「なんというか、僕の場合は、その……信じてもらえないかもしれないんだが」

「あなたの言うことなんていつも大して信じてないんだから今さらよ」

「…………床に落ちてたから、拾ったんだ」

「……………………」


 私は白々しい横顔を睨みつけた。


「……卑怯。それは卑怯……! 確かに言い訳の時間だけど、あなただけそんな都合のいい! 私は洗いざらい喋ったのに!」

「いや、本当なんだよ……! 籠の前に落ちてたんだ! それを拾って籠に入れようとしたところで君が来て……!」

「…………徹底的に弱みを握り合うんでしょう? 認めればいいじゃない。今回だけ許してあげる。さっさと言いなさいよ、私のブラに欲情しましたって!」

「誰がっ……!! …………誰が」


 水斗はまた顔を逸らした。

 ……あの、ちょっと。そこは否定してくれないと、困るん、だけど……。


「……い、いや。欲情なんかしてない。断じてしてない。ただ、ちょっと、その…………今、こんなに大きいの着けてるのか、って……意外に思っただけ、で……」

「……あ…………っ……っ……!」


 私は罵ってやろうと口を開けたけど、何も声が出てこなかった。

 ……ああぁあああ! なんで私のほうが恥ずかしい思いをしないといけないの!?

 そりゃあ確かに、この男と付き合い始めた頃から急速に胸が大きくなっていったから、意外に思うかもしれないけど――って、ちょっと待って?

 なんで、私の胸のサイズがわかるの……? なんでブラジャーを見ただけで、私の胸が中学の頃から大きくなってるって気付けたの?

 ……この男、中学の頃、どれだけ私の胸見てたの?


「……あ、あなた……わ、私のブラで、へ、変なことしてないでしょうね……!?」

「…………変なことって何だよ」

「そ、それは……」


 拗ねたような声で訊き返されて、私は逆に答えに詰まってしまった。


「心配しなくても、ただ僕の部屋と脱衣所を往復しただけだ――それ以外のことは誓ってしていない」

「……本当に?」

「本当だ」

「カップの部分を指でつついたりも?」

「……本当だ」

「ちょっと間があったんだけど!」

「ほんとうっ……!」


 声を荒げかけた水斗はギリギリで留まり、一つ息をついてから続けた。


「……君がそこまで訊くなら、こっちからも訊くけどな。君も僕のトランクスで変なことしてないだろうな? 匂いを嗅ぐとか」

「……うぐ……」


 記憶にございません。


「…………わかっただろ。この件についてはお互いにアンタッチャブルだ」

「…………ええ。どうやらそのほうがいいようね」


 この男とコンセンサスが取れる日が来ようとは。さすが下着、人類が生んだ世紀の発明。

 さて、これでお互いに言い訳を提示した。あとは――


「……水斗くん?」

「……なんだい、結女さん」

「この件を黙っている代わりに何をしてくれる?」

「そう来ると思った、このクソ女」


 互いに秘密を守るだけでは足りない。念には念を入れて共犯意識を高めるため、私たちは互いへの要求を擦り合わせた。

 取引が妥結に至り、会議が終了したのは、丑三つ時を過ぎてからのことだった。




※※※




「……ん……」


 なんだか枕に違和感を感じて、私はもぞもぞと頭を動かした。

 なんだろう……全然柔らかくないのに妙に心地よくて……別にいい匂いでもないのにトクトクと胸が波打つ……。


「……んんー……」


 私は半覚醒のまま寝返りを打って、その枕に顔を押しつけた。

 ……ああ、そうだ。

 この枕……あのトランクスと、似た匂いがするんだ……。


「……んんん~……?」


 あのトランクスと……似た匂い?

 過ぎった思考に、意識が明確になっていく。

 瞼を開けた。

 そうして、私はようやく、己の状況を認識した。


「……………………」


 私は……ソファーの上で寝ていた。

 そして、ソファーに座っている水斗の膝を枕にしていた。

 いわゆる膝枕だった。


「……………………」


 停止する思考の中で、直前の記憶が蘇っていく。

 私は確か、あの下着の件で、この男と家族会議を開いて――それから?

 自分の部屋に戻った記憶がない。

 もしかして……寝オチ……?


 私はゆっくりと身を起こした。

 身体にかかっていた毛糸のカーディガンが滑り落ちる。……こんなの、私は着ていなかった。これは……そうだ、水斗が着ていたカーディガンだ。

 春とはいえ夜は冷える。寝てしまった私に、この男がかけてくれた……?


 水斗は座ったまま眠っていた。私が膝を枕にしてしまったから、動けなかったのかもしれない。

 ……私に上着を譲ったら、自分が寒いだろうに。

 借りは返そう。私は床に落ちたカーディガンを拾い、寝息を立てる水斗の身体にかける。

 と、その瞬間――彼の口がもごもごと動いた。


「…………綾井…………」


 心臓が跳ねる。

 ……ったく……。いつの、誰の夢を見てるのよ。そっちのほうこそ、私に未練ありすぎじゃない?

 でも、まあ……夢に見るくらいは、大目に見てあげるけど。


「ふふっ」


 ――瞬間、水斗の目がパチリと開いた。


「おはよう」

「…………!?」


 私は唖然としてフリーズする。

 水斗は至近距離で、にやにやと意地悪そうに笑った。


「朝からずいぶんと機嫌が良さそうじゃないか。僕が君の旧姓を寝言で呟いたのがそんなに嬉しかったのか?」


 …………こ。

 この、男っ……!!


「そう顔を赤くするなよ。恥ずかしいのか怒ってるのかは知らないけど。……これは仕返しだ。文句を言われる筋合いはないぞ」

「仕返し……!? 私があなたに何をしたって……!?」

「さあ。知りたきゃ寝てる自分を撮影でもしてみるんだな」


 水斗は飄々と言って、ゴキゴキと首を回した。


「さあ、もう父さんたちが起きてくる時間だ。今日もせいぜい仲のいいきょうだいになるとしようか、妹よ」

「……姉だって言ってるでしょ。そういうどうでもいいところにこだわるのが嫌い」

「そっくりそのまま返すよ」


 と小憎たらしいことを言ったあと、水斗は「いや」と首を傾げながら逆接する。


「そうやって嫌いだと口にしてくれるところだけは好きだよ。……勘違いせずに済む」

「……勘違い?」

「眠ったものは目を覚まさない限り眠ったものだという話だ。君の黒歴史みたいにな」

「ぐっ……」


 ああ、本当に痛手だ……。どうしてよりによって、この男にバラしてしまったんだ……。

 水斗は立ち上がると、ふいと顔を背けながら言った。


「……今後もこの調子で、せいいっぱい惰眠を貪るとしよう。今さら目を覚まされたって、困るだけなんだから」


 封じたものは封じたまま。

 眠ったものは眠ったまま。

 それが平和に過ごす一番の方法なんだって――


 ――そんなの、私だってわかってるよ。

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