元カレは看病する。「お安い御用だ」


 今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないが、僕には中学2年から中学3年にかけて、いわゆる彼女というものが存在したことがある。

 僕は常々思うのだが、人間が持つ忘却という素晴らしい機能は、しかし運用面において見逃し難い欠陥があるように思う。必要な知識はぽんぽん抜け落ちていくのに、忘れたい思い出ほど頭の中からこびりついて離れないのだから。

 冷静に考えて、それは逆であるべきだろう。何かの不具合であるとしか思えない。生き物が異常をきたした状態を病気と呼ぶのなら、人は生まれながらにして病理に犯されているのだ――と、なんだか昔の哲学者みたいなことを言ってみるけれど、そう、今回は要するに、病気の話なのだった。


 病気。


 と言っても、僕が昔、命を危ぶまれるような難病に侵されていたというわけじゃない。そういうのは一見元気だけどどこか儚げな印象のある美少女にでも任せておくとして、そのとき発生した病魔は、単なる風邪だった。そして蝕まれたのは僕じゃなくあの女――当時は綾井という苗字だった僕の義妹、結女だった。


 クラスメイトにも内緒で綾井と交際していた、あれは中学2年の11月か。秋と冬が混じり合うその時期の朝、いつもの待ち合わせ場所に、綾井は来なかった。

 当時の僕は、それはもう心の優しい奴だったので、心配になってスマホで連絡を取ってみると、風邪をひいたので休むという返事が返ってきた。なるほどお大事に、とメッセージを送って、僕は久しぶりに一人で登校したのだった。


 そして放課後――

 学校というやつは前時代的な組織なので、未だにプリントと呼ばれる紙切れを大量消費している。こんなもんメールにしてくれ失くすし、と僕なんかは思うのだが、しかしこのときに限っては、都合のいい方向に働いた。担任教師が言ったのだ。


 ――休んだ綾井にプリントを届けてくれる奴、いないかー?


 当時の綾井結女は今とは似ても似つかないぼっち女であるわけで、当然のようにクラスには友達などいなかった。こういうときはクラス委員長という名の雑用係が駆り出されるのが常ではあるが、今回ばかりはその役目、ただの雑用とは言い切れまい。少なくとも、そのときの僕にとってはそうだった。

 僕は刹那の間に言い訳を絞り出した。何のって? 綾井にプリントを届ける役目に僕が立候補してもおかしくない言い訳だ。普段から関係をひた隠しにしているのが裏目に出た格好だったが、さすがは腐っても僕である、一瞬にして完璧な言い訳を案出することに成功した。


 ――あの……同じ方向なんで……。


 改めて思い出してみると何の変哲もない言い訳だったが、とにかくこうして、僕は合法的に綾井の家に向かうことが可能となったのである。

 お見舞いイベントの発生だ。

 担任教師から聞いた住所にあったマンションの、担任教師から聞いた部屋番号を見上げて、僕は緊張した。家の人が出てきたらどうしよう。プリントを渡してさっさと帰るか。いやいやいや、綾井は母子家庭だ。今の時間は家に綾井しかいないはず――

 寂しいだろうな、と思った。

 僕も風邪をひいたときは、家に一人きりだった――だから、今の綾井の気持ちが、痛いほどにわかったのだった。


 いきなりインターホンを押して驚かせてみたい気持ちもあったけれど、病人にサプライズは必要あるまい。僕は先んじてスマホで連絡を入れた。


 ――うえっ!? い、伊理戸くん!? 来てるのっ? 家の前に!?


 スマホでも普通に驚かれてしまった。

 まあ驚く気力と体力があったことは喜ばしいことだ。ついでに玄関の鍵を開けてもらおうと思ったが、


 ――ちょっ、ちょっと待って……! 少しだけでいいからっ!

 ――……もしかして、着替えようとしてない?

 ――だ、だって……!

 ――熱あるときに見た目のことなんか気にしなくていいよ。僕も気にしないから。


 パジャマ姿が見たい。僕の台詞を翻訳すれば、つまりそういうことであった。

 死に晒せ、思春期。

 説得の甲斐あって、綾井は薄いピンクのパジャマで僕を出迎えた。めちゃくちゃ可愛――ゲフン、普通だな、うん。あの女にお似合いの普通パジャマだった。

 もちろんプリントを届けるだけで終わるはずもなかった。このとき、僕は初めて彼女の家に上がり、綾井をベッドに寝かせていろいろ甲斐甲斐しく世話をした――いろいろと言っても、リンゴを剥いてやったり、スポーツドリンクを飲ませてやったり、その程度のことであって、タオルで身体を拭くなどといったイベントは起こらなかったことをここに強く主張したい。


 最終的に特にやることがなくなって、僕は綾井が寝るベッドの横に座っているだけになった。

 今日は綾井の母親も早めに帰ってくるだろうし、そろそろお暇し時か――と思い始めた頃、布団を口元まで被った綾井が、熱で赤くなった顔で僕をじっと見た。


 ――……伊理戸くん。

 ――どうした。何かしてほしいこと、あるか?

 ――ん……あのね……。


 ごそごそと、綾井は布団の中からちょっとだけ右手を出す。


 ――手……握ってくれると、嬉しい、かも……。


 まあもちろん僕はこの程度のことでドキドキなどしなかったのだが(しなかったのだが!)、彼女の気持ちはなんとなくわかった――風邪のときは、妙に弱気になるものだ。家の中に他に誰もいなければ尚更。だから、誰かの体温が、無性に恋しくなる……。


 ――お安い御用だ。


 僕は綾井の右手をきゅっと握った。熱くて、小さくて、まるで赤ちゃんみたいだと思った。


 ――ふふっ……。


 綾井は嬉しそうに笑うと、やがてうとうととし始めて、静かに寝息を立て始めた。

 こうして、ずっと手を握っていたい、と――ああ、言い訳はしないさ。そのときの僕は、確かにそう思った。

 だけど、実際問題、このまま家に居座っていると、綾井の母親と鉢合わせることになる。風邪をひいた娘がいる家に男が侵入しているというのはマズい状況だろう。

 僕は30分ほどその寝息を聞くと、名残惜しく思いながらもそうっと手を放して、綾井家を後にしたのだった。

 思い返してみると、あのとき、帰り道に由仁さんとすれ違ったような気がするので、本当にギリギリのタイミングだったんだと思う。




※※※




「あれ? そういや今日、伊理戸さんは?」


 と、当然のように僕の机にやってきた川波小暮が、教室を見渡しながら言った。

 どうせ来るだろうと思っていたし、どうせ訊かれるだろうとも思っていたので、僕は用意していた答えを返す。


「奴は風邪だ。家で寝てる」

「え、マジか?」

「マジだ。……まあ、いろいろと環境が変わったから、疲れが出たんだろ」


 苗字が変わり家が変わり、挙句の果てに一つ屋根の下に僕がいるという状況に、疲労しないほうがおかしかろう。僕はどうってことないけど。


「えーっ? 結女ちゃん、今日は来ないのーっ?」


 やたら大きな声が、僕の後頭部をしたたかに打った。

 反射的に意識をシャットアウトしかけた僕だったが、その前にちょこまかと小柄な女子が視界に入ってくる。ポニーテールがぴょんぴょん跳ねていた。中2の頃の結女と同じくらい小さい癖に、妙に動きが多くて目につく女子だ――そのせいもあってか、あるいは結女の奴とよく一緒にいるからか、僕にしては珍しく彼女の名前を覚えていた。

 みなみ暁月あかつき

 クラスメイトの一人で、伊理戸結女を中心とする女子グループの一人である。登校したあいつに真っ先に挨拶をするのは、いつもこの女子だった。

 南さんは僕の机にぐっと身を乗り出す。


「風邪って大丈夫なの、伊理戸くんっ? 何度くらい!?」

「さ……38度って聞いたけど……」

「38度っ! 重病じゃんかあーっ!!」

「南、落ち着け。伊理戸がひいてるぜ」


 川波が南さんの首根っこを猫みたいに引っ張って、僕から引き離してくれた。助かった。距離感が妙に近い人間の相手は苦手だ。


「なによう、川波っ! 猫みたいに扱わないでよおっ!」

「へいへい」

「んにゃっ!」


 川波がパッと手を離すと、南さんはぼてっと床に落ちた。本当に猫みたいだ。

 しかし気安いやり取りだったな。僕は川波の顔を見た。


「君、南さんと知り合いなのか?」

「あー? いやー……まあ、一応知り合いだぜ。中学んとき塾が一緒でさ」

「そうそう。コイツがこの高校受かるとは思わなかったけどね!」

「そりゃお互い様だぜ」


 なるほど。こういう進学校を目指す中学生は、似たような塾に通うものなのだろう。僕と結女は完全に独学だったが。

 どっちも真面目に塾通ってそうなイメージは全然ないけどな。


「それより!」


 びょーんとバネでも仕込まれているような動きで、南さんは立ち上がった。


「もしかして結女ちゃん、今、家に一人だったり!?」

「あ、ああ……そうだな。父さんも由仁さん――母親も働いてるし、僕も学校休むわけにはいかないし」


 学校を休めたとしても、一日中あの女の看病なんてまっぴらごめんだけどな。


「えー! かわいそうー! 結女ちゃん、寂しがってないかなあ……」


 ……僕の脳裏に、ある光景が蘇った。

 僕に手を握っていてくれと頼んだ、伊理戸結女とは似ても似つかない女の子の顔が。


「よし決めたっ!」


 南さんは突然、バンッと僕の机を叩く。


「学校終わったらお見舞い行く! いいよねっ、伊理戸くんっ!」

「ええ……」

「あからさまに面倒臭そうな顔しないでよお!」

「おっ、面白そう。んじゃあ俺も――」

「あ、川波はいいから」

「なんでだよっ!」


 ……まあ、父さんや由仁さんが帰ってくるまでは、僕があいつの世話をしなきゃならないわけだからな……。それを南さんに代わってもらえるなら、願ったり叶ったりか。

 そういうわけで、放課後、南さんを我が家に招待することになった――もちろんのこと、川波は仲間外れである。





「結構おっきい家だねー。もともと伊理戸くんが住んでたんだっけ?」

「……見た目ほど新しくないんだ。父さんが子供の頃から住んでた家で」

「ふうーん。じゃ、お邪魔しまーす!」


 僕が鍵を開けると、南さんは勝手に玄関に入っていった。臆さないなこの人。初めて入る家だっていうのに。


「2階?」

「奥の部屋だけど、いきなり君が来たらいくらアイツでもびっくりするだろうから大人しくしててくれないか?」

「えー。びっくりさせようと思ったのに……」

「病人にサプライズは不要だ」

「それもそっか」


 思ったより聞き分けがよかった。

 南さんを引き連れて2階に上がり、結女の部屋の扉をノックした。何らかの止むに止まれぬ事情でお互いの部屋を訪ねるときは必ずノックをする――同居するに当たって僕らが決めたルールの一つである。止むに止まれぬ事情ってやつが想定よりも頻発している気もするけど。

 返事はなかった。寝ているのかもしれない。


「入るぞ」


 一応、一声かけて扉を開けた。

 引っ越しのダンボールはもうすっかり消え去っていた――代わりに本で溢れているが、僕の部屋に比べてちゃんと床が見えている。

 結女は、ベッドに横たわっていた。

 あるいは授業を受けている間に治っているかもしれないと思っていたが、そんなことはなかったらしい。すやすやと寝息を立てている。普段はどんなに憎たらしい嫌味を垂れ流す奴でも、寝息だけは可愛らしいもんだ。


「……結女ちゃん、寝てる?」

「みたいだな」


 僕たちがベッドに近付くと、結女が薄く目を開けた。

 起こしてしまったか、もともと浅い眠りだったのか。


「……ん……」


 結女は半開きの目で、ぼんやりと僕を見上げた。

 そして、どこか安心したように微笑む。


「…………いりど、くん…………」


 んぐがっ!?

 という悲鳴を、僕はかろうじて堪えた――この女! 今その呼び方はマズいだろ!


「よ、よう。調子はどうだ?」


 幸い小さな声だったし、僕は何事もなかったかのように振る舞った。もし後ろの南さんに聞こえていたとしても、聞き間違いか何かかと思ってスルーしてくれるはずだ。たぶん。

 まだ半分寝ているのか、結女は「んんー……」と、ぐずるような声を漏らしたかと思うと――

 きゅっ、と僕の服の裾を摘んだ。


「どこ……行ってたの……さみしかった……」


 うおおおおおおい!! 結女さーん!! 記憶が1年ほど退行してませんかー!!

 まだだ、まだ諦めるな。僕は嫌な汗をだらだら流しつつ、再び何事もなかったかのように装って、後ろの南さんを指さした。


「ほ……ほら。南さんがお見舞いに来てくれたんだ」

「おはよー、結女ちゃーん。だいじょうぶー?」


 さっきの結女の甘えたような声は聞こえなかったのか、南さんはいつもそうするように明るく挨拶した――だからだろう、結女のほうも、南さんの顔を見て、みるみる瞳に理性を取り戻していく。


「…………あ…………」


 ついさっきの自分の言動を思い出したらしい。

 顔がどんどん赤くなっていったけれど、幸いなことに、今この女は風邪をひいている――熱のせいだと、南さんは思ってくれるはずだった。

 結女は一瞬だけ恨みがましい目で僕を睨んだ。僕のせいじゃないだろ。

 それから、普段から学校で見せている優等生スマイルを作る。


「わざわざありがとう、暁月さん……。熱はもうだいぶ下がったから……」

「無理して喋らなくてもいいよ。……そだ、何かしてほしいことある? お腹空いてない? いろいろ材料買ってきたんだ!」


 家に来る前に寄ったスーパーの袋をがさがさと探る南さん。玄関の前までは僕が持たされていた。


「さすがにそこまでは……申し訳ないわ……」

「いいっていいって! お台所借りるね! 伊里戸くん、手伝って!」


 あとは女子に任せて退散しようかと考えていた僕の腕を、南さんがわっしと掴む。


「……ええ? 僕?」

「料理、けっこーできるんでしょ? 結女ちゃんから聞いたよ」


 ……友達相手に僕の話とかするのか、この女。

 ちらりと見ると、結女はふいっと壁のほうを向いた。さっきの失態がまだ効いているのかもしれない。


「……まあ、おじやくらいだったら」

「じゅーぶんじゅーぶん! 行こー!」


 南さんに引っ張られる形で、僕は結女の部屋を出る。

 妙に背中に視線を感じた。だから、さっきのは僕のせいじゃないだろ……。





「伊里戸くんってさー、結女ちゃんとの仲はどうなん?」


 野菜を切り刻んでいるときにそんなことを言われたものだから、危うくおじやに僕の指が入りそうになった。


「な……仲って、なんの?」

「そりゃあ、きょうだい仲だよー」

「あ、ああ……きょうだい仲……」


 そりゃそうだよ。落ち着け僕。

 南さんは卵をちゃかちゃかかき混ぜながら、


「去年までさー、赤の他人だったわけでしょ? それがいきなりきょうだいになってー、同じ家で暮らすって、できるもんなのかなーってさあ。それも、ほら、同い年の男女なわけだし」


 本当に赤の他人だったほうがマシだったかもな、と僕は思った。

 マイナスよりはゼロのほうが、まだしもストレスはなかっただろう。


「……まあ、やれば何とかなるものだよ。確かに気を遣うことも多いけど」

「例えば?」

「例えば……?」

「気を遣うこと」

「……そうだな」


 僕は考えた。


「一番は、風呂かな……」

「えー? 着替え中に鉢合わせたりしちゃうの、やっぱ?」

「そうならないように気をつけてるんだよ、お互いに」

「なんだ。鉢合わせたことないんだ。つまんないの」


 そんなことになったら死ぬ。僕かアイツのどっちかが。


「あたし思うんだけどさあ。こんな環境だと、難しくない?」

「何が」

「彼女できたらどうすんのー? 連れ込みにくくない?」

「は?」


 僕は隣の南さんを見返した。


「……僕が彼女なんか作るタイプに見えるか?」

「作るっていうか、いたことあるでしょ、伊里戸くん」


 心臓が跳ねた。

 南さん……もしかして、知ってるのか?


「いやー、あたし、そういうのなんとなくわかっちゃうんだよねー。女子への接し方とかからさー。あー、この人は彼女いたことあるなー、って」


 南さんは「へっへー」と笑った。

 な、なんとなく……? 超能力じゃないの、それ。


「今はいないっぽいけど。どう? 当たり?」

「…………ノーコメント」

「おおっと。そう来ましたか」


 南さんはご飯や僕が切った野菜を鍋に放り込むと、といた卵を円を描くようにして入れた。


「まあ言い触らす気はないけどね。でも、もしまた彼女ができたらどうする?」


 おじやが徐々に煮えていく。


「……できないよ。作る気ないし」

「できたら、だよ。結女ちゃんに紹介するの?」


 その仮定に対しては――なぜだか、するりと答えが出てきた。


「しないんじゃないか。別に許可を取る必要もないし、なんかめんどくさいし」

「ふうん。……それじゃあ結女ちゃんは、もしキミに彼女ができてもわからないわけだ。結婚でもしない限り」

「まあそうなるかな……」


 結婚となったら、話は別だろうしな――どうにも想像が難しいシチュエーションではあるが。


「なるほどなるほど。なるほどねー」

「……なあ。これってどういう意味の会話なんだ?」

「やだなー。雑談に意味なんてあるわけないじゃーん!」


 そりゃそうか。

 南さんのペースにすっかり呑まれているうちに、おじやは完成した。





「はい、結女ちゃん。あ~ん」

「じ、自分で食べれるわ……」

「だーめ。病人なんだから。あ~ん」

「あ、あーん……」


 ちらちらと恥ずかしそうに僕のほうを見ながら、結女は差し出されたレンゲを口に入れる。


「あふっ……」

「熱い? ふーふーしよっか?」


 ……僕は何を見せられてるんだろう? すっかり退室のタイミングを見失ってしまったが、この場に僕という存在は必要なんですかね?

 女子高生は女子高生同士仲良くやっててくださいってことで自室に戻ったらダメなんだろうか。


 百合めいた光景を見せつけられること数分。

 冷静に考えてみると、もし南さんがお見舞いに来てくれなかったら、あの『あ~ん』、僕がやる羽目になっていたかもしれないんだよな……。

 そう思うと、南さんが来てくれて本当によかったと思える。もしそんなことになったら、僕にとっても結女にとっても末代までの恥になるからな……。


「ふう……。ごちそうさま。おいしかった」

「おそまつさまでしたー。全部食べれたね!」

「ありがとう……何から何まで……」

「半分は伊里戸くんが作ってくれたんだよー。あたしは味付けしただけ! それじゃあ……」


 南さんはちゃきちゃきと食器を重ねると、それを乗せたお盆を持って立ち上がった。


「あたし、これ、洗ってくるから。伊里戸くん、結女ちゃんの相手したげててー」

「ああ。……って、は!?」

「じゃあよろしくー!」


 南さんはちょこまかとした動きで部屋を出ていった。止める暇さえなかった。

 部屋には、僕と結女だけが残される。

 ……なんてことだ。

 やっぱりさっさと退散しておけばよかった。


 こうなったら、無視して逃げることはできない。僕は渋々、さっきまで南さんが座っていたベッド脇の椅子に腰掛けた。

 ベッドの上で上体を起こした結女が、なぜか僕のほうをじっと見ている。


「……なに」

「……別に」


 ぶっきらぼうに言うと、これまたぶっきらぼうな声が返ってきた。


「感じの悪い奴だ……。言っておくが、君が起きたときのあれは、完全に君のせいだからな。むしろ僕はフォローしてやったんだ」

「わ、わかってるわよ……! あれは、ちょっと、意識が混濁してただけで……」


 結女はふてくされたように布団を被った。

 そっちのほうが僕も気楽でいい。病人は大人しく寝ているがいい。


「…………ずいぶん、仲良くなったのね」


 だというのに、この女は背中を向けたまま、そんなことをぼそっと呟いた。


「はあ? 仲良くなったって、誰と?」

「……暁月さんとよ。二人でおじやなんて作っちゃって……」

「……………………」


 僕は一瞬だけ、考える間を取った。


「……念のために訊くが、それは『私の仲のいいお友達にあなたごときくだらない男が近付くなんて不快です』という意味に取ればいいんだよな?」

「……………………」


 結女もまた、考えるような間を取った。


「……そうよ」

「……そうかい。じゃあ答えるが、仲良さげに見えるのは南さんのコミュ力のなせる技だ。知ってるか。本物のコミュ力強者は、誰が相手でもなんとなく仲良さそうに見せることができるんだ」

「まるで私が偽物だとでも言いたげね……」

「言いたげじゃなくて言ってるんだよ、高校デビュー」

「デビューじゃない……」


 答える声には、あまり力が籠もっていなかった。

 食事をしてだいぶ元気も出てきたようだが、まだ本調子には程遠いらしい。


「もう寝ろ。風邪を治すにはとにかく寝るのが一番だ」

「……また……どこか行くの?」

「行かないよ。今日は家にいるって」

「嘘よ……前は、帰っちゃったもん……」


 結女の声は、寝ぼけたような、ふにゃふにゃな柔らかいものに変わりつつあった。

 眠気が来ているのか?


「……前って、いつの話だ?」

「前……手、握っててって言ったのに……起きたらいなくて……」


 ……ああ、そうか。

 一昨年、秋と冬の境目。

 前に僕が、こいつをお見舞いしたときの……。


「……家、まっくらで……私、さみしかったのに……」


 あのときは、いつ由仁さんが帰ってくるかわからなかった。というか、手を握るのは眠るまででいいんだと思っていた。僕に落ち度はない。

 ……でも。

 僕はあのとき、帰り道で由仁さんとすれ違った――なのに家が真っ暗だったということは、僕が帰ってすぐに目を覚ましたんだろう。手から僕の体温が消えて、すぐに……。


 ……ったく。

 この女の風邪には、記憶が何年か戻るって症状でもあるのか? とんだ奇病だな。


「…………ほら」


 僕は、結女の顔の前に手を差し出した。


「今度は、どこにも行かないから。ずっと握っててやるから。……もう寝ちまえ」

「……ん……」


 結女は、目を覚ましたときにも見せたように、安心したような笑みを浮かべた。

 きゅっと、両手で、差し出した僕の手を握る。


「……ありがと、伊里戸くん……」


 そして――そのまま、僕の手を胸に抱いた。


「ばッ……!」

「んふ……」


 結女は満足そうに笑って、寝息を立て始める。

 大きく胸が上下して、そのたびに、僕の手の甲にふわふわとした刺激があった。うごがががいぎがいががぎゃぎゃぎゃぎゃ!!


 このままでは、僕は病身のきょうだいにセクハラを働いた汚名を着せられてしまう! おのれぇぇぇ……!! ウイルスに蝕まれていてさえ僕を貶めるのか、この女!!

 ……握っていてやると言った以上、手を放すことはできない。

 僕は結女を起こさないように、そうっと手の位置をずらした。

 どうにかノートラブルな位置に落ち着いて、ほっと一息つく。

 もしあんなところを南さんに見られていたら、一体どうなっていたか……。


 ……あれ。

 そういえば、遅いな、南さん?





 南さんは、結女が寝入ってから10分ほどして戻ってきた。


「やー、ごめんごめん。ちょっと電話がさー」


 家から電話があったらしい。そろそろ帰らなければならないということで、僕は彼女を玄関まで見送った。

 もちろん、南さんが部屋に帰ってきたときには、握った手を放さざるを得なかったし、こうして玄関まで見送りに出るのも手を握ったままでは不可能だ。一昨年の綾井も、このくらいなら許してくれることだろう。


「ね、伊里戸くん。帰る前に、ひとつだけ訊きたいんだけど……」

「うん?」


 玄関先で不意に振り返って、南さんはいつもと変わらない調子で言った。



「結女ちゃんと伊里戸くんって――ただのきょうだい、なんだよね?」



 不意打ちで穿たれた、それは言葉の槍だった。

 僕の心臓を突き刺したそれは、ほんの一瞬の空白を、会話にもたらした。

 それでも――一瞬。

 一瞬だけで、僕は持ちこたえる。


「――きょうだいだよ。ただし、義理の」


 南さんは僕を見上げて、「あー!」と納得の声をあげた。


「義理のきょうだいかあー! ただのじゃなかったね! そうだったそうだった!」


 たったっ、とステップを踏むようにして、南さんは僕から離れる。


「それじゃあ、お邪魔しましたー! お大事にー!」


 そして、何の変哲もない別れの挨拶を口にして、我が家を去っていった。

 頭の後ろのポニーテールは、最後までぴょんぴょんと跳ねていた。




※※※




 僕らのエピソードにうまいオチがついたことなんて一度だってないのだけど、このお見舞いイベントの後にあったことについて、一応語っておくとしよう。

 父さんと由仁さんの帰りが遅くなるという連絡が入り、業腹なことに僕は結女の世話を続行する羽目になった。


「アクエリアスのみたい」

「こぼすなよ」

「アイス買ってきて」

「……種類は?」

「本欲しい。お金ちょうだい」

「あげるか!!」


 うたた寝から目を覚ました結女はわがまま放題で、あわれ僕はパシリのような有様になった。とはいえ、相手が病人とあればそう強くも言えない。


「……手。もっかい、握ってて」

「……はいはい」


 だからこういうことも、甘んじて受け入れなければならないのだ。僕は普段のこの女のような悪鬼羅刹ではないので、病人の願いをむげにしたりはしないのである。

 のだが。


「おい。そろそろ1回、熱計るぞ」

「……え?」

「1日中寝ててまだ下がらないって、タチ悪い熱かもしれないだろ。まだ38度あるようだったら病院に――」

「い、いや……大丈夫! 大丈夫だから!」

「大丈夫かどうかを確認するために熱を計るんだろうが。ほら、脇に挟め」

「いーやー!!」


 なぜか強硬に抵抗する結女に、半ば無理矢理、体温計を脇に挟ませる。

 そして数秒後。体温計に表示された数字に、僕は打ちのめされた。


「…………36度5分」


 ド平熱であった。


「……………………」

「……………………」


 体温計から結女のほうに視線を移すと、この女、すっと目を逸らしやがった。


「……貴様……いつから治ってた?」

「…………ノーコメント…………」

「まさか、南さんが帰った頃からじゃないだろうな……? もうすっかり治ってたくせに、病人のフリして僕をこき使ってたわけじゃないだろうな!?」

「ノーコメントーっ!!」

「……あれ? それじゃあ、手握っててくれってアレも……」

「~~~~~~~っ!!!」


 結女は悲鳴のようなものをあげて布団の中に潜り込んだ。


「おいこら! 逃げるな健康優良児!!」

「い、いやっ! いやよっ! 大事を取って今日はこのまま寝るっ!!」

「もう充分寝ただろ! 人の優しさに付け込みやがって!!」

「きゃあーっ!!」


 布団をひっぺがし、結女をベッドから転がり落とす。

 もうさっぱり熱っぽさのない顔を見下ろして、僕は声を落とした。


「言うべきことがあるよな?」

「……えっと……」

「それとも、もう一回手を握っててやらないと言えないか?」


 熱とは別の理由から、結女の顔が赤くなった。


「……け、仮病を使ってすいませんでした……」

「よろしい」


 僕はかがみこんで、床に転がった結女を助け起こす。

 背中がだいぶ汗ばんでいた。


「まあ……病み上がりなのには違いないからな。今日は着替えてご飯食って寝ろ」

「……あなたが優しいと気持ち悪いんだけど」

「お褒めに与り光栄だ。僕に手を握ってもらわないと眠れない結女さん」

「…………っ!!」


 結女は再びベッドに飛び込み、頭から布団を被る。


「聞こえないっ! 何にも覚えてないっ! 着替えるからさっさと出てけっ、変態弟!!」

「行ったり来たり消えたり出たり、都合のいい記憶だな……」


 やれやれ。


「じゃあ夕飯用意してくるから……最後に一つだけリクエストを聞いてやるよ」


 結女は布団から目元まで顔を出すと、極めて聞き取りづらい声で、ぽつりと言った。


「…………勝手にどこか、行っちゃダメ」


 ……夕飯なに食べたいか訊いたつもりだったんだけど。

 まあいいか。


「お安い御用だ」


 何せ、一昨年とは違う。

 ここは、僕の家でもあるんだからな。

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