元カップルのゴールデン・メモリーズ 5月2日(水)
6時間目が終わる頃には、そこそこの雨量になっていた。
帰る前に図書室に寄った僕は、自分の足音に耳を傾けながら階段を降りていく。
今日は校舎の中が不思議なほどに静かだった。吹奏楽部の練習の音や、野球部の掛け声……それらの代わりに、控えめな雨音だけが、しとしとと壁に染み入っている。
昇降口に着くと、手早く靴を履き替えた。
外の地面はすっかりぐずぐずで、水たまりを避けるのは難しそうだ。今朝はまだ晴れ間も見えたんだが……天気予報の技術発展に感謝だな。ありがとう某検索サイト。
鞄から折り畳み傘を取り出しながら外に出る。……と、玄関口の横に、誰かがしゃがみ込んでいるのに気が付いた。
見れば、それは僕の義妹だった。
「……よう」
声をかけると、結女はこっちを向いて「んげ」と可愛らしさの欠片もない声を発した。
「何か忘れ物でも? 我が妹よ」
口の端を上げながら言ってみれば、鞄以外に手ぶらの義妹は、僕の手にある折り畳み傘をちらりと見て渋面を作る。
案の定、傘を持ってこなかったらしい。朝、出るときは時間をずらしているから、僕が傘を準備していたのにも気付かなかったんだろう。
「残念だったな。一応はきょうだいのよしみで助けてやりたがったが、生憎、今はこの折り畳みしか持ってない」
「……心配無用よ、弟くん。私、あなたと違って友達がいるから。いま待ってるの」
「そりゃよかった。せいぜいキャッキャウフフと楽しみながら帰宅してくれ」
僕は傘を広げて雨の下に出る。それ以上、結女は何も言ってこなかった。
校門を出る前に、ちらりと振り返る。
あの女は玄関口の横にしゃがみ込んだまま、スマホをいじるでも本を読むでもなく、ぼうっと雨空を見上げていた。
校門を出てしばらく歩くと、見覚えのある小動物系女子に遭遇した。
「やっ! 伊理戸くん、いま帰り?」
南暁月である。彼女が僕の前を歩いているとは、珍しいこともあるものだ。いつもは後ろをひっそりと歩いているのだが。
にこにことフレンドリーな笑みを半ば無視して、僕の視線は彼女の足元に吸い寄せられる。
長靴だった。リンゴのような赤の。
「へっへー。可愛いっしょ?」
僕の視線に気付いて、南さんは右の長靴を軽く持ち上げてみせる。
「結婚したくなった?」
にゅっと口角を上げた顔にも、相変わらずな戯言にも、僕は取り合わない。
「……高校生にもなって長靴って、さすがにあざとくないか?」
「ファッションに歳は関係ないのだー」
まあ、これが『イタい』じゃなく『あざとい』になってしまうのが、南さんの持ち味ではあろう。長靴と同じ色の傘をくるくると回す彼女は、葉の陰に佇むコロポックルか、ないしはトイレの花子さんのようだった。後者が正解だな。
「――ん?」
僕はふと首を傾げる。
「あの女――ええと、僕じゃないほうの伊理戸とは一緒じゃないのか?」
「えー? 何その呼び方」
南さんはふふっと肩を揺らした。
「結女ちゃんなら、何か用があるとかって下駄箱のとこで別れたよ? あー、相合傘したかったなぁー」
「……傘は?」
「結女ちゃんの? 置き傘があるって言ってたけど」
だったらなんであんなところでぼうっとしてたんだ……?
「まあさー、たまには一人になりたいときだってあるってことだよ」
南さんは水たまりに映った自分自身を、赤い長靴でぱちゃぱちゃと踏んだ。
「明日から4連休だしね、気が抜けちゃったんじゃない?」
「……何の話だ?」
「女子の友達付き合いは大変だって話だよん。特に結女ちゃんみたいな目立つ子は」
僕が眉をひそめると、南さんは「あはは」と誤魔化すように笑う。
「進学校ならマシなのかなって思ってたけど、いやぁ、頭いい分、逆に厄介だよねぇ。できれば慰めて、ぱーっと遊んだりしてあげたいけど、距離を取ることも必要だよ、うんうん」
まあ、と彼女は続けた。
「あれだけ可愛くて頭もいいんだから、もう慣れっこなのかもしんないけどさ」
……そんなわけあるか。
あいつはほんの少し前まで、体育の相方にも事欠いていた人間で……。
高度な処世術はおろか、いつになったら友達を下の名前で呼べばいいのかさえ、きっとまだ知らない。
そんな奴が、曲がりなりにも人気者を演じられているのは。
きっと、何一つしくじるまいと気を張っているからで。
「あれ? どこ行くの、伊理戸くん?」
僕は南さんに背を向けた。
「忘れ物だ」
※※※
「……はあ~……」
溜め息が雨に溶けていく。
雨脚は弱まる気配がない。むしろ強くなっていく。どんどん地面に広がっていく水たまりを見ていると、私の気分もどんどん湿気っていく気がした。
明日からゴールデンウィーク後半の4連休だ。4日も学校に来なくていい。4日も気を抜いていい。そう思うと、一気に気力が萎えてしまった。
こうなったが最後、南さんたちの前で外面を維持することはもうできない。泥や水たまりを気にしながら歩くことも億劫になる。
こういうときは何をやってもうまくいかないものだ。実際、小降りだし少ししたら止むかなー、とたかを括ってみたらご覧の有様である。今にして思えば、根拠さえない自分の天気予報など信じずに、ちゃんとスマホを使えばよかったのだ。
「……はああ~……」
友達がいっぱいできたらどんなに楽しいだろうと、かつては思っていた。
いや、実際楽しい。以前はできなかったことがたくさんできて、毎日が刺激的だ。
……でも、たまに疲れることがある。
その場にいない人の陰口が、するりと雑談の中心にフェードインしたときなんかに、胸が苦しくなる。
いつか、私がこんな風に言われるときが来るんじゃないか。
いや、私が知らないだけで、すでに言われているんじゃないか。
……いや、きっと言われている。新入生代表で、クラスの中心で、男子の間でも話題で。自分で言うのもなんだけど、こんなに目立っている女子は他にいないのだ。『あいつ調子乗ってない?』みたいな、そういうことを、きっと私の聞いていないところで話しているのだろう。私たちがそうするように。
そして、そんな風に話しているのは、もしかすると南さんたちの誰かかもしれない。
……まるで薄氷を渡るようだった。
私たちは自分の足元に愛想笑いという名の氷を慎重に重ねながら日常を過ごしているのだ。もし、いつか、足元の氷が薄くなっているのを見落としてしまったら。……そのときは、今は仲良くしてくれる誰もが、一気に離れていってしまうのかもしれない。
ああ、被害妄想だ。私お得意の。
中学の頃は、こんな風に怖くなることはなかった。元より失うものなんて何もなかったから。
友達ができるって、楽しい。
友達ができるって、怖い。
南さんたちは、おそらくは小学生の頃から、こんな世界で生きていたのだ……。
「……すごいなぁ……」
付け焼き刃の私が、やっていけるのかな。
もししくじったら……そのときは、中学のあの頃に、戻るのかな……。
不意に、雨空が遮られた。
黒い傘が、雨粒を遮断した。
空から視線を降ろすと、そこに見知った顔がある。
きょうだい歴1ヶ月ちょっとの義弟が、傘の下から私を見下ろしていた。
……あれ?
どうして……。さっき、先に帰っていったはずなのに。
「……なに? 忘れ物でもした?」
「ああ。忘れてたよ」
そう言うと彼は、ぐいっと自分の傘を前に出す。
その影が、しゃがみ込んだ私を覆った。
「僕と君は、もう家族なんだ。気に食わなかろうが仲が悪かろうが、付け焼き刃の高校デビューだろうが……離れたくたって、離れられないんだよ。不本意ながら」
仏頂面で、そう言った彼を。
私は、思わず息を呑んで、じっと見上げる。
……この人は。
なんで、いつも……本当に。
「……何よ、それ……きもちわる」
私がかすかに笑うと、彼は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「その気持ち悪い奴のきょうだいなんだよ、君も」
傘を持っていないほうの手が、こっちに向かって差し伸べられた。
「帰るぞ」
差し出された手のひらを見る。
……そっか。
家族は、どんなに間抜けを晒したって……家族か。
「……うん」
私はその手を握って立ち上がった。
辺りに雨音が満ちている。
吹奏楽部の練習の音も、野球部の掛け声もない。
不思議なほどに静かな世界で、私たちは学校を後にする。
「ちょっと! こっちの右肩濡れてるんだけど!」
「うるさい。これが折り畳み傘の限界だ」
「超えなさいよ、限界を! もうちょっと詰めて!」
「うええー……」
「嫌そうな顔するな!」
そんなことを言い合いながら、肩が触れて、すぐに離れて、しばらくしたらまた触れる。何度も繰り返して終わらない。
同じ傘の下、同じ帰り道。
私たちは、雨の中を歩いた。
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