元カップルはデートする。「かっっっ――――」


 初めてのデートがどんな風だったか、私はいまいち覚えていない。というのも、私とあの男は、デートすることを確固とした目的にして出掛けたことが、ほとんどと言っていいくらいないからだ――たぶん、私もあの男も、『デートしたことある?』という質問を受けたなら、間髪入れずにこう訊き返すだろう。

『何をどうしたらデートになるの?』――と。

 要するに、デートという行為の定義がよくわからなかった。……などと言うと、『うわ出たぼっち特有のめんどくさいやつ』と思われてしまうかもしれないけれど、しかし本当にわからないのだ。何せ私たちは、いわゆるデート的な行為に及んだとき、いつも決まった場所にしか行かなかった。


 図書館と本屋である。


 ……ああ、目に浮かぶ。『デートにしては色気なさすぎ』と苦笑する顔が。まあ、いもしない空想の聞き手に腹を立てるのも詮無きことなので気にしないことにするけれど、とにかく、私とあの男は揃いも揃って、活動範囲が極端に狭い人間だったのだ。

 水族館とか、遊園地とか、オシャレな喫茶店とか――そういうデートっぽい場所には、出向く意義を見出せなかった。なぜって、そんなちゃらちゃらした場所に行って無駄に疲れるよりも、本に囲まれた場所で本の話をしていたほうが、ずっと楽しいと思っていたからだ。

 むしろ、本の話すらしていないことも多かった。

 せっかく一緒にいるのに一言も話さず、お互い黙々と本を読んだだけで終わってしまったデートさえあったくらいである――私たちはそういう、必ずしも会話を必要としないタイプのカップルだった。


 ……まあ、そこまで安定した関係になれたのは、付き合い始めて1ヶ月くらい経った頃だったのだけど。最初の頃、私は生まれて初めて彼氏ができたことに張り切って、彼女らしいことをしなくてはと頑張っていたのだ。ところが当の彼氏がどこ吹く風のマイペースだったので、『ああ、別に無理しなくてもいいんだな』と、付き合い始める前のノリに戻っていったわけである。


 つまり。……そう、つまり、だ。

 かつて彼氏彼女の関係にあったといえども、実は私たちは、彼氏彼女行為に、あんまり慣れていない。

 世間の彼氏彼女と共有できる経験なんて、たぶん毎日寝る前にスマホで取り留めもなく喋っていたくらいのことで、それ以外の、特にデートに関しては、とんと経験値が足りていないのだ。


 そんな元彼氏が、そんな元彼女に。

 事もあろうに真っ向から、『デートをするぞ』とはっきり告げた。

 これは事件である。

 私たちが今はきょうだいであることを差し引いても、立派な事件である。




※※※




 ……と、まあ、私も人の子なので、多少は動揺してしまったのだけど、なんてことはない――デートとは言っても、それは冗談めかした表現に過ぎないのだ。仲のいい異性のきょうだいが、一緒に出掛けることをデートと言ってふざけることは珍しくない。たぶん。

 そう、私たちは、ただ普通に出掛けるだけ。

 両親には義理のきょうだいとしてうまくやっている風に装っている以上、こういう偽装もたまには必要なのだ、うん。きっとそれだけなのだ、うん。


 ……とはいえ、まさかわざわざ家の外で待ち合わせるとは思ってなかったけど。


 同じ家に住んでいるのだから、改めて待ち合わせる必要なんてない。一緒に玄関から出ていけばいいのだ。そのほうが両親への偽装にもなるし……。

 私は駅前の時計台で、スマホの内カメラを鏡代わりにして前髪をいじりながら、もやもやと考えていた。

 あの男の意図がさっぱり読めない。

 あまりに真剣な顔で言うから、うっかり二つ返事で頷いてしまったけど……本当にどういうつもりなんだろう? この前の女連れ込み事件で私の不興を買ったから、その償いでもしようというのだろうか? そんな殊勝な気持ちがあの男にあるか?

 あーっ、わからない! ムカつく!!


 私をナンパしようとしていたらしい軽薄そうな男二人組が、急に挙動不審になって逃げていった。不機嫌が空気に出ていたみたいだ。まあちょうどいい。コミュ力が上がったとは言っても、さすがにナンパの対応には慣れていない。

 クラスメイト曰く、私みたいなのはナンパされにくいらしい。その子は『結女ちゃん綺麗すぎだから~』などとオブラートに包んでいたけれど、本当の理由は自分でもわかっている。私、見るからに重そうな女だものね! ナンパで引っ掛けるにはハイリスクよね! あっはっは!

 私みたいなのを好きこのんで引っ掛けようとするのは――そう、あの男みたいな物好きだけなのだ。


「ちょっと遅れたな」


 声に振り返りながら、『ちょっとどころじゃなく遅いわよ』と文句を言おうとした――のに。


「へあっ……?」


 私史上、最も間抜けな声が出た。

 そこには、私の義弟によく似た人物がいた。

 さりげない程度に毛先に規則性を帯びさせ、眉の形をきっちりと整え、派手さよりも清潔感を重視した服装に身を包んだ、なんだか生徒会長でもやっていそうな好青年がいた。

 え?

 だれ?


「だれ? って顔だな……。くそ。やっぱりこんなの似合わないんじゃないか、川波の奴……」


 爽やか生徒会長な好青年は、所在なさげに目を泳がせて、前髪をいじくる。

 あっ。あああ~~~。

 その挙動不審な仕草でしっくり来た。


「あ……えっと、その……」


 なぜだか私のほうまで中学生に逆戻りして、挙動不審になる。


「……伊理戸水斗、よね? 私の義理の弟の」

「君の義理の兄の伊理戸水斗だ。なんでフルネームなんだ」


 私は口元を押さえて、改めて変身した水斗の姿を見た。

 普段はもっと、ぼさっというか、だぼっというか、とにかく見た目には気を遣わないのに、今はまさに、女子中学生を初恋に落とす大学生家庭教師のごとき、垢抜け具合と知的さを両立させた理想的な――


「かっっっ――――」


 ――――っっっこいいいい~~~~~~っ!!!

 なにこれなにこれなにこれ!? 私の妄想から飛び出してきたの!? 素材は悪くないと思ってたけどちゃんとしたらこんな風に……!? ええ~~~うそお~~~~!! なんでいつもこの格好でいてくれないの!? ああでもこんなのが同じ家の中にいたらいろいろと身が保たな――


「か?」


 水斗が怪訝そうに首を傾げたのを見て、私はハッと我を取り戻した。

 お、落ち着け。落ち着くのよ私。

 いくら見てくれが私の理想のタイプをそのまま現実に引っ張り出したかのような出来栄えだからと言って、結局、中身はあの男――そう、見た目が理想的でも性格までがそうとは限らないのだ!

 危なかった。もしさりげなく紳士的に手でも引かれようものなら、いかな私とても踏みとどまれる保証はなかっ――


「時間が押したな。早めに移動しよう」


 8割の優しさと2割の強引さで、そっと手を握って引っ張られた。

 私は死んだ。






 なに!? なんなの!? 今日のこの男は!

 隣を歩く元彼氏の義弟を、私は全身全霊をもって睨みつけていた。

 一体どういう風の吹き回しなのか……今日の水斗は、私のツボを刺激することばかりしてくる。

 例えば、さりげなく車道側を歩いたり。

 例えば、さりげなく通行人から庇ってくれたり。

 例えば、さりげなく信号待ち中に話題を振ってくれたり!

 そう! 私はさりげなく女性扱いされるのがこの上なく好き――じゃなくて!

 いつもこんな風に扱ってくれないくせに! どうして今日だけ!?


 普段は紳士さの欠片もない男なのだ。基本的に自分のことしか考えていないから、話題を振ってくれることなんて織姫と彦星の逢引きよりも少ない。付き合っていた頃からしてそうだったのだ。いわんや今をや!

 おかしなところはまだまだある。例えば、私がショーウインドウに陳列された商品に興味を惹かれて視線を向けると、なんと! 「入るか?」とちゃんと訊いてくれるのだ! 前は『買うものは外出る前に決めろ。余計なものを買うな』と寄り道全否定だったのに!


 ……冷静に考えると、どうして私はそんな奴と付き合っていたんだろうと疑問が湧き出ること泉のごとしだけれど、とにかく、今日の水斗は異様に気が利いて紳士的ですごく好み――げふんげふん、じゃなくて、私に媚びているのだ。媚び媚びなのだ。

 そのあざとさは今のところ私に無限の警戒心を与えるばかりで、間違ってもときめいたりなんてしていないのだけど、一方で、ちょっとした副作用も起こっていた。


「……今の二人ヤバくない?……」

「……うおー、すっげ……」

「……仲いいねー。羨ましい……」

「……おい、あんま見るなよ……」


 なんだか、道行く人に注目されている気がする。

 しかも、悪目立ちじゃない。

 いい意味で目立っている気がする。

 私たちが二人で歩いていて、悪目立ち以外の目立ち方なんてしたことがなかったので、気付くのがずいぶんと遅れてしまった。見られている。すっごく見られている。道行く人が、10人中6人くらい振り返っている。微妙な割合に思えるかもしれないけれど、これは現実的には凄まじい率であり、そしてその6人はすべてカップルだった。


 カップルの目から見て、どうやら私たちはかなりのハイレベルだということらしい。……なるほど確かに、1年ほどの努力で正統派美少女へとクラス・チェンジした私(自称して悪いか)と、突如として知的好青年へとトランス・フォームした水斗が一緒に歩けば、そこらにゴロゴロしている浮ついたカップルとは一線を画した、気品さえ感じさせる絵面になってしまうことは論をまたない。

 同じカップルだけが、自分たちと比較することで私たちのレベルを見抜けてしまうのだ。つまり10人中6人が、私たちに完膚なきまでの敗北を感じているのである。ほんの1年前まで日陰者だった私たちに!

 すごい。気持ちいい。


「……うふ。うふふふふふふふふふ……」

「どうした?」

「あ、いや、別に何でも」


 おっと、いけない。優越感が顔に出てしまった。

 話を逸らさないと。


「……ところで、これってどこに向かってるの? 本屋? 図書館?」


 私たちが出掛けると言ったら、付き合ってるときでも付き合ってないときでもその二択だった。たまに古本市になることもある。


「あー、それは……」


 水斗は視線を明後日の方向に逃がし、ぽりぽりと頬を掻く。

 見た目がちゃんとしてるとこういう優柔不断な様子でも絵になるなー。……などと考えていたからか、次に水斗が放った言葉は、するりと私の心に致命傷を与えた。


「……水族館、の、つもりなんだが。いいか?」





 すごくカップルっぽい。

 と、私は入館料を払う水斗の横でそう思った。

 水族館って。カップルとファミリーしか行かないような場所じゃないの。どうしてこんなところに? デートでもあるまいし――

 ……いや、あれ? デート……だったっけ?


「けっこう薄暗いんだな。はぐれるなよ」

「わ、わかってるわよ。子供じゃないんだから……」

「ん」


 何か皮肉でも言い返してくるかと思いきや、水斗は短くうなずくだけだった。

 あれー?

 な、なにこれ……。皮肉も嫌味も言ってこない、優しく気遣ってくれる水斗なんて……そんなの、まるで彼氏みたいじゃない!

 もしかして、今日は徹底的に彼氏ヅラを貫くつもりなのだろうか。そうして私の好感度を上げようという腹積もり?

 いったい何のためか知らないけれど、そうは問屋が卸さないわ。正式に別れるまでの冷え切った半年ほどの間に、あなたへの好感度は地の底を突いているのよ。今更どんなに取り繕ったところで、あたかも絶対零度に達した分子がごとく微動だにすることはないわ。ときめかせられるものならときめかせてみなさい! どうせ無理だろうけどね!!


「――おっと」


 不意にぐいっと肩を抱き寄せられた。


「意外と人がいるものなんだな、水族館って。ぶつからなかったか?」


 …………か。

 ――――っっっこいいいいいいい~~~~~~~~~っ!!!!

 えー!? ぐいって! 肩ぐいってされたーっ! 耳元で小さく囁かれたーっ! それにちょっといい匂いしたあーっ!! え~!? なにもー! 私にも心の準備があるんだけど~!?


「――ぶッふぉ! ちょろっ」


 ?

 少し遠くから聞き覚えのある声が聞こえた気がしたけれど、振り返っても親子連れやカップルがひしめいているばかりだった。

 まあいいや。


「……いつまで肩を抱いてるつもり?」

「あ、ああ、悪い」


 水斗は私の肩から手を離して、半歩ほど距離を取る。

 そんなに離れなくていいのに――じゃなくて!

 ……ま、まあ? 確かに、今日はいつもとは一味違うようね。認めてあげるわ。少し見ないうちに腕を上げたじゃない。誰かさん相手に練習したのかしら? 例えば、ほら、図書室で一緒だった眼鏡の女の子とか? ……他の女で培った技術使ってんじゃねえぞコラ。

 ああ違うもう調子狂う! 見た目と態度が違うだけでこんなに違うものなのか。人は見た目が9割というのも真理の一端を突いていたらしい。この私を惑わすとはなかなかやる。


 今のは突然のボディタッチで不意を突かれたのだ。水斗と付き合っていた頃ですらあまりべたべたくっついたりはしなかった私にとって、触覚はウィークポイントなのだ。水斗は卑怯にもそこに付け入ってきたに過ぎない。さっきのが真の実力だなんて思い上がらないことね。

 例えば、そう、特に言葉を発するでもなく、そこに佇んでいるだけでドキドキしてしまうくらいでないと、私の好感度を稼いだとは言い難いわ。特にあなたはトーク力なんて皆無だものね? ずいぶんと見てくれを整えてきたようだけれど、一朝一夕の付け焼き刃で、果たして辿り着けるかしら? 佇まいだけで私を篭絡できる境地に!


「……………………」

「……………………」

「……………………」

「……………………」


 悠々と泳ぎ回る魚群をぼうっと見上げている水斗が大きな水槽に反射した青い光に照らされて物悲しげなようにも笑っているようにも見えるあたかも万華鏡のごとき印象を持たせる横顔に、


「……はあ……」


 !?

 今……私、溜め息を!?

 まさか、見惚れていたとでも言うの……? この男の横顔を? そんな馬鹿な!

 結構歩いてきたから疲れただけに違いない。そうだだから息が切れたのだ! なあんだビックリした。水槽の中を舞い踊るように泳ぐエイそっちのけで隣に立つ水斗の横顔ばかりを見上げているとなぜか胸に迫るものがあり思わず溜め息をついてしまったのかと思った。あー疲れたなー。


「ん?」


 ぼーっと水槽を見上げていた水斗がこっちを見た。


「どこかで休憩するか?」


 なんでわかるの!?





「ほら。紅茶だよな」

「あ……ありがと……」


 水族館のルート途中にあるベンチに座った私に、水斗が赤い色の缶を手渡してくる。

 別に注文したわけじゃないのに……。私が好きなのがこれだって、覚えててくれたのかな。

 水斗は隣に座って、缶コーヒーのプルタブを開ける。私は紅茶派で、この男はコーヒー派なのだ。


 ……そういえば、昔、こんなことがあったっけ。

 中学の頃の私は、缶ジュースのプルタブが固くて開けられないほどのか弱い地味女だった。か弱いだけならまだしも、他人を頼るすべも知らないというのだから最悪だ。できもしないことに無駄な時間を費やして、結局周りに迷惑をかける……。そのときも私は、一緒にいた伊理戸くんに『プルタブ固いから開けて』の一言を言い出すこともできず、一人でジュースの缶と悪戦苦闘していた。

 そんなとき、伊理戸くんが私の手からひょいっと缶を取って、あっさりプルタブを開けたのだ。

 そしてこう言った。


 ――僕にだけは好きなだけ迷惑をかけろ。


 格好いいことを言う男だ。本当に格好いいことばかり言う男だ。今となってはそんなところも小憎たらしいけれど、当時の私には救世主のようにすら見えた。

 でも――と、私は手の中の缶を見下ろす。

 爪をプルタブに引っ掛けて、軽く力を込めると、ぷすっと簡単に封が開いた。


「…………もう、迷惑をかけなくて、済むのよね」

「迷惑をかけてるのは僕のほうだろうな、どっちかというと」


 独り言のつもりの呟きに、間を置かずに隣の水斗が答えた。

 缶を見下ろしている様子から、私の思考をトレースしたらしい。……こういうのができる奴なのだ。

 水斗はちびちびと缶コーヒーに口を付けながら言う。


「前の君は見てて危なっかしかったけど、今の君は逆に頼もしすぎる。僕が手を貸せる余地なんてないくらいに。極端だよな、本当に」

「……悪い?」

「別に?」


 水斗はまた缶コーヒーに口を付けた。でも、飲んでいる量から察するに、もう中身は残っていない。

 顔つきが、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。ギリギリ私にもわかる程度に。


「…………もう騙されないわよ。そんな顔したって、口説かれてなんてあげないから」

「う゛」


 水斗は気まずそうな顔をした。今度は素だ。


「バレてたのか……」

「バレるわよ。すっかり忘れてたわ。あなたがポーカーフェイスの使い手だってこと」

「だったらそっとスルーしろよ。気を惹くためにわざと表情作ってたのを面と向かって指摘されるって、なかなかの恥ずかしさだぞ」

「だからスルーしてたでしょ? 今まで」

「まあそうだが」


 よかった。

 思いっきり引っかかってたのはバレてない。


「どういうつもりなの? 今更……デートなんて」

「さあ。どういうつもりだろうな?」

「謎めいて見せたってカッコよく見えないわよ」

「黙秘権を行使しただけだっての。文句があるなら来なきゃよかっただろ」

「……それは……まあ」


 つい勢いでうなずいてしまっただけとは言えない。


「それに、何よその格好? 一瞬誰かと思ったわ」

「川波の奴がちゃんとした格好で行けってうるさくてな……。似合わないだろ?」

「似合いまくってるに決まってるでしょ馬鹿なの?」

「やっぱりな――ん、え、あ?」

「あ」


 しまった。つい本音が。


「い……今のは聞かなかったことにして」

「あ、ああ……そうか……。…………好評みたいで何よりだ」

「聞かなかったことにしろって言ったでしょ!?」

「いてっ!」


 肩をばっしーんと思いきり叩く。

 ああ、調子が出てきた。やっぱり、今の私たちはこっちなのだ。嫌味と皮肉を喉元に突きつけ合うような、ストレスしかない会話が今の私たちの有り様なのだ。

 過ぎ去った時間は、もう二度と返ってこない。


「……まだ続けるの? デート」

「嫌なら終わるが」

「別に……どっちでもいいけど」


 長く伸ばした髪を、くるくると指先に巻きつける。


「でも、せっかく来たんだし、なんだか勿体ないわね……入館料も払ったし」

「僕がな」

「そういえば、初めてあなたに奢ってもらったかも」

「じゃあ次は君の番だな」

「なにナチュラルに女子に奢らせようとしてるの?」

「男女平等の精神だ。……あ、そうだジュース代。120円」

「……いきなりおざなりになられると、それはそれで釈然としないんだけど」


 さっきまでのお姫様みたいな扱いは一体なんだったのか。

 でも、借りを作るよりはマシだ。私は今日初めて自分の財布を開いて小銭を渡す。


「……うん」


 水斗は手渡された小銭を見て、なぜか納得深げにうなずいた。


「実はな。僕は今日、君と頭の悪いカップルのごとくイチャついてみせるという使命を帯びてここにいるんだ」

「はあ? みせるって……いったい誰に?」

「誰だろうな。恋敵ってやつじゃないか?」

「……???」


 さっぱりわかっていない私を無視して、水斗は財布をポケットに仕舞って立ち上がる。


「やめだ、やめ! よくよく考えたら、仲のいいところを見せるんじゃなくて、その逆でだって目的は達成できるんじゃないか。なら自然体のほうがずっと効率的だ」

「……どういうこと?」

「いずれわかる」

「謎ぶった態度、腹立つ……」

「その調子だ」


 ベンチに座ったままの私に手を差し出しもせず、水斗はこっちを見下ろしながらかすかに笑った。


「水族館なんて滅多に来ないんだ。後学のために目一杯回ろう」

「意味がわからないけど……そうね、後学のために」

「後学のために」


 私は自分で立ち上がる。

 それから私たちは、手を繋ぎもしなければ腕も絡めないまま、水族館を隅々まで楽しんだ。





「ただいまー」

「ただいま……。あー、なんだか異様に疲れたな」

「もやし男」

「君のお守りが大変だったって言ってるんだよ暴走女」

「誰がいつ暴走したの!」

「しばしばやらかしてるぞ。気付いてないのか?」


 すたすた玄関に上がっていく水斗。

 ええ? 完璧にやってきたはずなのに……。


「あー! 鬱陶しいな、整髪料ってやつは! 髪がバリバリして気持ち悪い! ちょっと頭洗ってくる」

「えっ!? ちょ、ちょっと待った!」


 洗面所に入っていこうとした水斗を、私は慌てて制止した。


「なんだよ?」


 イケメン家庭教師ライクな義弟が、怪訝そうに振り返る。

 え……? も、もう終わりなの、このモード? そんな馬鹿な。勿体ない!

 この男の性格から察するに、もう二度とこの姿になろうとはしないだろう。だったら、今がこのフォームを堪能する最後のチャンス……!


「……か、髪崩す前に、写真撮らせて」

「はあ? なんで?」

「ち、知的探求心よ! 珍しいものを見たら記録せずにはいられないでしょう?」

「君は何の学者なんだよ……」


 水斗は「はあ……」と物憂げに溜め息をついて(カッコいい)、


「勝手にしろ、ほら」

「し……失礼して……」


 なぜだろう。なぜ人はイケメンを前にすると卑屈になってしまうのだろう。

 私はスマホのレンズを塾講師(マンツーマンのやつ)風の義弟に向ける。水斗は恥ずかしいのか、レンズから視線を逃がした。だがそれがいい!

 パシャリ。

 撮った写真を確認する。


「……んー……んんんんん~~~???」

「もういいか?」

「ちょっと! もうちょっとだけ待って!」


 違う。

 もっとカッコいい撮り方があるような気がする。ポーズとか、角度とか、アクセサリーとか。


「……リビングに移動しましょう」

「……なにゆえ?」

「私はアイテムを用意してくるから! いい? 絶対髪崩しちゃダメよ!」


 私は大急ぎで2階の自分の部屋に上がった。

 まず一つ。お洒落なブックカバーの掛かった文庫本。それと――


「……確か、パソコン用のブルーライトカットのが……」


 続いて水斗の部屋に入って、目的の眼鏡を入手した。本を読むときやパソコンを使うときに水斗が使っているものだ。ちょっとデザインが野暮ったいけどむしろそれがいいまである。

 リビングにとんぼ返りすると、水斗はつまらなそうにテレビをザッピングしていた。


「ここ座って。そう。で、足組んで。そう! この眼鏡かけて! そうそう! この文庫本を膝の上で開いて! そうそうそうそう!!」


 完成した。

 私はソファーに長い足を組みながら座って眼鏡越しに文庫本に視線を落とす水斗を、斜め前から少し見上げるようなアングルでレンズの中に収めた。

 ………………ひええええええええええええ~~~~~~~~!!

 カッコいいよおおお~~~~~~~~~~~!!!


「えへ、えへへ、えへへへへへへへ……!!」

「うおっ! すごい勢いで連写してないか!?」


 バシャバシャバシャバシャッ!! と撮影音が重なるたびに、恍惚とした満足感が湧き起こってくる。私の……私のスマホの中に、理想のイケメンが増えていく……! 何この贅沢。こんな快楽がこの世にあったとは……!!


「……さすがの僕も恥ずかしくなってきたぞ。どんだけ気に入ったんだよ、この格好」

「ふぇっ!? い、いや、別に? 大して気に入ってなんかいないけど?」

「いや無理あるだろ!」


 水斗は軽く眉間にしわを寄せ、ソファーの背もたれに肘を乗せる形でこめかみを押さえて溜め息をついた。あ、やばい鼻血出そう。


「……まあ、川波の口車に乗った甲斐があったってものだけどさ。この際だ。あとひとつくらいならリクエスト聞いてもいいぞ」

「えっ? ……ほ、本当に? なんでも!?」

「金を使わないことならな」

「じゃ、じゃあじゃあ!」


 私は真っ先に頭の中に思い浮かんだことをそのまま口にした。


「私がこのソファーに座ってるから、後ろから優しく抱き締めて耳元でなんか囁いて!」

「……お、おう。思ったより具体的だな……」


 水斗が若干引き攣った表情をしたのを見て、あれ? と思った。私、なんか変なこと口走ってない?

 まあいっか!

 私は喜び勇んでソファーに着座した。


「よろしくお願いします!」

「わ、わかった……」


 水斗がソファーの後ろに回る。それから「えーと……」と何か考えるような気配があった。囁く台詞を考えているのだろう。何を囁いてくれるのかな。ドキドキ。

 少し待っていると、ふわりと翼で包むように、背後から肩を抱き締められる。

 そして、唇の存在さえ感じるような距離で、涼やかながらも男らしい重さのある声が、耳元で私にだけ聞こえるよう囁いた。


「(――捕まえた)」


 そこから先の記憶はない。




※※※




 結局のところ、元カレ兼義弟から唐突にデートに誘われた案件というよりは、私の妄想具現化事件として記憶されてしまった感のある一連の出来事だったのだけど、果たしてどうしてあんなイベントが発生したのか、という点については、ついぞわからずじまいだった。


 水斗が家に連れ込んでいた女は誰だったのか?

 どうしていきなりデートしようなんて言い出したのか?

 何のために慣れないお洒落までして私を篭絡しようとしたのか?


 何もかもが未解決のまま終わってしまって、今となっては知る由がない――でも、別に構わなかった。そんなことどうでもよくなるくらいの収穫が、私のスマホの中に着実に保存されたのだから。


「はあ~……カッコいい~……」

「……本人を目の前にして写真に見惚れるのやめてくれないか?」


 すっかりボサボサ地味男に戻ってしまった水斗と、スマホの中のイケメン家庭教師(風の水斗)を見比べる。


「……ねえ、いったん死んでこっちに生まれ変わってくれない?」

「別にいったん死ななくてもそれになれるっつうの!!」


 え~、無理無理。

 種族が違うもん。種族が。

 本人曰く、このスタイルは川波くんプロデュースによるものらしいので、そのうちノウハウを継承せねばならないと思った。そうすればいつでも被写体にすることができる。いつか印刷してベッドの上の天井に貼るのだ。えへへへへ……。


「君、そういうとこだぞ」

「何がよ?」

「……暴走女」


 学校に行くと、デートのことも家庭教師フォームの水斗のことも何もなかったかのように、いつも通りの日常が始まる。

 水斗は教室の隅で本を読むし、私は女友達に囲まれて他愛のない談笑をする。つい昨日、私たちが水族館デートをしたなんて、きっとクラスメイトの誰も思わない。そうやって、起承転結も伏線回収もなく、日常は断続的に続いていく――


「(……ね、ね、結女ちゃん)」


 お昼休み、お弁当を食べているとき、暁月あかつきさんが他の面々には聞こえないよう、こっそりと話しかけてきた。


「(もしかしてだけど、昨日、伊理戸くんと水族館行った?)」

「んぐっ」


 日常は断続的だったはずでは!?


「(たまたま見かけちゃってさ。仲いいんだね~! 例のブラコン疑惑、実はあながち間違いでもなかったりする?)」

「(……そ、そんなに仲良く見えた?)」

「(見えたよ~! カップルかと思ったくらい! あたし、ちょっと嫉妬しちゃった。あ~あ、あたしもきょうだい欲しいなー。綺麗なお姉ちゃんとかがいいなあ)」


 暁月さんは確か一人っ子だという話だった。私も一人っ子だった頃はきょうだいに憧れたものだけれど、断言する、そんなにいいものじゃない。


 ……隣の芝は青いというように、人は自分が持っていないものほど魅力的に見えてしまう。例えば、彼氏と上手くいっていないときに当の彼氏が他の女子と話していたりしたら、実際以上に仲良く見えてしまったりするのだ。

 きっと心の飢餓がそうさせる。砂漠を歩いた後に飲む水が美味しいように、飢えた心は何もかもを嫉妬の対象にする。それは単純な欲望だ。そして人生ってやつはいつもいつでも、一過性のくだらない欲望であっさりハンドルを切ってしまう。


「……………………」


 私はこっそりと、スマホに保存した元カレ(イケメンモード)の写真を見た。

 今度は、欲望に負けて変な方向に行かないようにしよう。

 ……まあ、削除したりはしないけど。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る