元カップルはお泊まりする。「どういたしまして」


 今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないが、僕には中学2年から中学3年にかけて、いわゆる彼女というものが存在したことがある。

 などと語り出してしまうと、『さてはて、今回はどんな黒歴史が飛び出すのかな?』と構えられてしまう向きもあると思うのだけれど、ちょっと待ってほしい。当時の僕と綾井結女は、確かに頭の湯だったクソガキカップルだったが、そう何でもかんでもカップル的イベントを制覇しているわけではない。

 何せ中学生だ。社会的なパワーを何も持たないに等しいこの身分では、できることにだって限界がある――いわんやお泊まりなんて、交際の事実を親にさえ話していなかった僕たちには夢のまた夢であった。


 勇気がなかったわけではない。断じて。


 ……まあ、強いて言うなら、中学2年の5月頃にあった林間学校がお泊まり的なものに該当するのだが、そのときはまだ、僕と綾井はただのクラスメイトだった。まともに会話さえ交わしたことのない、男子Aと女子Aに過ぎなかった。クラスにおける存在感的に、AどころかPくらいかもしれない。

 そんな男子Pと女子Pに、人に語って聞かせられるようなエピソードなど発生するだろうか。いや、しない。すれ違うくらいが精々で、恋人になってからの僕たちのような、悶絶ものの黒歴史など生まれるはずがない。

 だから今回は黒歴史開陳コーナーはカットして、早々に現代編へ、あの女との血で血を洗うバトルシーンへと移行したい――と、思っていたのだが。


 どうしてだろうな。

 知り合いですらなかった僕たちには、価値のある時間なんか生めるはずがないのに。

 思い出なんて、生まれるはずがないのに。


 僕はまだ、あのときのことを覚えていた。

 綾井結女の本当の顔を初めて垣間見た、あのときのことを。






 林間学校。

 という行事について、僕は毛ほどの興味も持っていなかったので、具体的に何をやったのかということは、さっぱり記憶に残っていない。空き時間に読んだ本のタイトルだけが明確だった。『笑わない数学者』。森博嗣である。

 僕の中では漫画やゲームと小説との間に娯楽としての差異なんてさして存在しないのだけど、どうやら世間一般の人間は学生がイラストの付いていない本を読んでいると『おっ、えらいな』という気分になってくれるらしく、会話のひとつもせずに読書を楽しんでいても文句を言われることはなかった。

 こんな風に語ってしまうと、読書やゲームを予定と認めないタイプの人たちから『寂しい奴だな』と憐れまれてしまいそうだけれど、これが僕なりの林間学校の楽しみ方だった。山の中で読むミステリ(森博嗣だからミステリィか)というのも風情があって悪くない。森の向こうに変な形の洋館でもあるんじゃないかって気分になる。


 そうして、夜が訪れた。

 それぞれに部屋が与えられるなんてことはなく、宴会場みたいなところに寝袋を敷いて雑魚寝だった。

 位置こそ離れているが、女子も同じ空間で横たわっている。暗く沈んだ空間に、こそこそと囁く声が漂っていた。当人たちは内緒話のつもりかもしれないが、小さな声でも何十人分も集まればなかなかの騒音になる。


 もともと夜型人間だというのもあり、眠れそうになかった僕は、早々に寝袋から抜け出して立ち上がった。『マジかコイツ』という視線が近くの男子から向けられたが、教師が看守のごとく監視しているわけでもない。文庫本を手に持って、さも『トイレ行ってきます』という風にそそくさと、僕は宴会場ならぬ雑魚寝場を退出した。


 廊下の灯りも落ちていたが、窓から射し込む月明かりが、板張りの床をぼんやりと照らしていた。このくらいの明るさがあれば、文字を読むことも可能だろう。僕は雑魚寝場から少し離れると、窓際に寄って空を見上げた。

 そのとき僕が読んでいた本、『笑わない数学者』では、物語に星空が深く関わっている。そんな本を読んでいたものだから、らしくもなく天体観測と洒落込んでみたわけだ。


 ふうん。なかなか綺麗だなあ、と思った。

 夜空なんかろくに見上げたことがないから、都会と比べてどうかなんてわからない――というか、僕の住んでいるところは大して都会じゃない。

 でもまあ、星空を見上げた人間の感想なんて、こんなものだろうと思った。『わあっ……』なんてこれ見よがしに感動してみせるのは、フィクションの人間とテレビの人間とユーチューバーくらいのものだ――


 ――わあっ……


 という声が、不意に横合いから聞こえた。

 はて?

 僕のように雑魚寝場から抜け出した人間がYouTubeでも見ているのだろうか。そう思って視線を振り向けてみれば、隣のそのまた隣の窓で、小柄な女子が一人、夜空を見上げて放心していた。


 僕は基本、クラスメイトの名前を覚えられないタチだが、例外がある。

 すなわち、自分と同じ学校不適合者だ。

 ぼっちとぼっちが馴れ合ったところで、ただぼっちが二人いるだけになることは重々承知しているけれど、本能的に仲間意識を抱いてしまうことは避けられないのである。


 綾井結女。

 確か、そういう名前の女子だった。


 いつも自分の机から一歩も動かず、本を読んで過ごしている。友達と話しているところは一度も見たことがない。この林間学校でも、仲間の輪に入ることができず、一人であたふたと挙動不審に過ごしている姿を見た。

 もしかしたら学校生活を順風満帆に過ごした人間は知らないかもしれないので説明するが、ぼっちにも要領のいいタイプと悪いタイプがいる。前者は友達がいないなりにピンチ(教科書を忘れたとか)には自力で対応できるが、後者は他人に助けてもらわないとどうしようもない。僕はどちらかといえば要領のいいタイプだという自負があるが、彼女、綾井結女は明らかに要領の悪いタイプだった。


 彼女みたいなタイプを見ると、僕は少しばかり居心地が悪くなる。

 同族嫌悪か、あるいは共感性羞恥か。彼女が困っていると、自分まで困っているような気分になってくるのだ。

 その末に、それとなく助け船を出してしまったりする。

 実はこれまでにも何度か、さりげなく手助けしたことがあった――今日の昼間にも、キャンプ場でカレーを作った際、材料をもらい損ねてしまった様子の彼女に余った材料を融通したばかりである。

 彼女みたいなタイプは自分の失敗を素直に報告できないので、こっちで勝手に察して助けてあげるしか方法がないのだ。そういう人見知り事情に想像が及ぶ人間が、僕のクラスには生憎と僕しかいないために、僕が手を出すしか仕様がないのだった。


 だから、僕が知る綾井結女は、教室で肩身が狭そうにしている姿と、助け船を出した僕にひたすら恐縮している姿との、二通りくらいのものだった。

 しかし――今、そこにいる彼女は。

 ぼんやりとした月明かりを受けて夜空を見上げる、その顔は。

 僕が見たことのない顔で――僕にはできない顔だった。


 ……僕は密かに、己を恥じた。

 心のどこかで彼女を下に見ていた――その事実を理解して、恥じた。

 そんな女のことなんか一生下に見ておけばいいんだよ、と今の僕なら言うけれど、不料簡な中学2年生にしてはなかなか見上げた反省だと、そこだけは褒めてやらなくもなかった。


 そんな心中があって、彼女の顔をじっと見つめていたのが、あまりよくなかったんだろう。

 綾井はこっちを見るなり、


 ――あっ……ぁう……


 と恥じ入るように肩を縮こまらせて、黙りこくってしまった。

 ……まったく。本当に要領の悪い奴だ。

 彼女のような子が何の理由もなく雑魚寝場を抜け出してくるとは思えない。きっと僕になにがしか用があるのだろう。

 だけど、素直に『何か用?』と訊いたら、彼女はますます怯えて逃げてしまうような気がした。

 ……よく考えたら、べつにそれでも何も困りはしなかったのだけど、そのときの僕は視線を窓外の夜空に転じて、こんな風に言ったのだった。


 ――月が綺麗だな

 ――へあっ!?


 効果は覿面だった。

 きっと彼女以外だったら意味もわからずにきょとんとしていたことだろうが、綾井は薄闇の中でもわかるくらい顔を真っ赤にして、ますます挙動不審に目を泳がせた。


 ――そ、それ、あ、あの、あぅ、ぅぅぅ……

 ――そういう意味じゃないよ


 くっくっく、と僕は肩を揺らした。本当に、どうしてこんなからかうようなことを言ったんだろうな。今をもって自分の心理が掴めないが、きっと、この女の未来の変貌ぶりを、このときすでに予見していたのだろう。そういうことにしておいた。


 ――……あ……


 綾井はなぜか、口を半開きにして僕の顔を見た。

 何がそんなに物珍しかったのか気になったけど、結局、彼女は何も言わずに、僕が綺麗だと言った月を見上げた。


 星々の中心に輝く月に、叢雲が掛かっては過ぎていく。何の言葉もなく、二つも離れた違う窓から、僕たちは同じ月を見上げていた。

 やがて、月が厚い雲に隠れて見えなくなったタイミングで、ぽつりとか細い声が聞こえた。


 ――……昼間、ありがとう……ございました


 僕が向き直るよりも前に、彼女はぱたぱたと小走りに雑魚寝場のほうへ逃げてしまった。

 小さな背中が消えた廊下を見やりながら、僕はひとり、得心する。

 ……それが言いたくて、追いかけてきたのか。


 出会いとすら言えはしない、これはただのすれ違いだ。

 因果の因には当たらない。理由でも切っ掛けでもありはしない。


 窓一つ分の距離を間に挟んで交わした、すれ違うような会話。

 これが3ヶ月半後に起こる出来事の――すなわち、綾井結女が僕の恋人になることの伏線だとしたなら、神様はいささかミステリの読みすぎである。

 起こったことのすべてが未来に関わっているなんて、現実はそこまでうまくできちゃいないのだ。


 ただ、僕は。

 さほど綺麗とも思わない星空に向けて、らしくもなく願っただけだ。

 男子と女子としてじゃなく、彼氏と彼女としてじゃなく、もちろん義理のきょうだいとしてでもなく。

 同じ学校不適合者のよしみで。


 決していい思い出とはならなかったであろう、彼女にとっての林間学校が。

 この星空で、少しでも綺麗になってくれますように、と。


 それから僕は、どういたしまして、と答えていないことに気が付いた。

 まあ、次は言えばいいだろう。機会ならきっとある。

 そう考えて、2年の月日が経った。




※※※




 5月病という言葉がある。4月から始まった新生活にも慣れて、気候も暖かくなった結果、全体的にモチベーションが低下してぐだぐだするというあの現象のことだ。たかだか1ヶ月で慣れてしまえる新生活とは羨ましいばかりである。僕は未だに、元カノが一つ屋根の下で暮らしているという環境には慣れられそうにはなかった。

 しかし。

 5月中旬――母の日から1週間が経ったこの土日。この2日間だけは、そのストレスフルな環境から解放されるのだ。

 これが喜ばないでいられようか。


「感謝するぞ、川波。来たる中間テストは僕に任せろ」

「おっ、勉強見てくれんの?」

「応援してやる。がんばれ」

「安い!!」


 川波小暮はぶーぶーと文句を垂れた。贅沢者め。僕の応援はレアなんだぞ。

 僕の家から川波の家へと向かう道の途中だった。

 この土日、僕は故あって、クラスメイトの川波小暮の家に泊まることになっていた。


 僕の実父と義母は再婚とはいえ新婚なのだが、どうも自分たちの息子と娘がうまくやれているかどうかのほうに心を砕いているようで、なかなか夫婦の時間が取れているように見えなかった。そこで子供の僕たちが気を利かせて、この土日は二人に時間をプレゼントしよう、という運びになったのだ。

 だから、この2日は、結女のほうも友達――南暁月の家に泊まることになっている。

 およそ1ヶ月半ぶりの、あの女と別の家で過ごす夜がやってくるのだ。

 ……ただ……。


「着いたぜ。オレの家だ」


 と言って川波が立ち止まったのは、団地というのかマンションというのか、とにかく集合住宅だった。高さは10階、あるかどうか?

 川波に連れられて、オートロックのエントランスを抜ける。

 川波の部屋は結構上のほうだそうで、エレベーターホールに移動した。そこで、


「……げ」

「……あ」


 見たくない顔を見た。

 エレベーターが降りてくるのを待っていたのか、ホールの中に、2人の女子高生が佇んでいた。


 片方は健康的なポニーテールに髪をまとめた小柄な女子。ぶかぶかなTシャツの裾を腰の横で縛り、ショートパンツから細い生足を惜しげもなく晒している。どちらかといえばボーイッシュな印象を受ける格好だった。

 南暁月である。


 そしてその隣にいるのが、うざったい黒髪を幽霊みたいに長く伸ばしている女。今日は白を基調としたワンピースをまとい、全体的に清楚ぶっていやがった。ゴリゴリの一般庶民の出のくせに、こうもお嬢様っぽさを振りまいているのは、高校デビューの戦略の一種なのか。

 伊理戸結女である。


 僕は結女に敵意と害意と隔意を込めた視線を送った。すると結女のほうからも、悪意と犯意と殺意を込めた視線が帰ってきた。


『失せろ』

『あなたが失せればいいでしょ』

『君は他にも友達いるだろ』

『あらごめんなさい。選択肢のない人のことを考えてなかったわ』


 僕たちは目力だけを頼りに丁々発止の論戦を繰り広げる。

 その不毛な戦いに終止符を打ったのは、僕たちが痺れを切らして投入した核弾頭ではなく、南さんの明るい声だった。


「あっ、伊理戸くんだ~っ! なになにっ? もしかして伊理戸くんもお泊まりだったりっ?」


 ぴょこぴょこと跳ねるようにして南さんは僕の懐に踏み込み、覗き込むようにして顔を見上げてくる。

 殺られる! と思った僕は反射的に後ずさりつつ、


「ま、まあ、そんなところだよ……」

「奇遇だねっ! あたしと結女ちゃんも今日、お泊まりなんだよ――」


 その瞬間、南さんはさらに一歩、距離を詰めて、囁き声で言った。


「(――今日のこれ、伊理戸くんが言い出しっぺなんだってね?)」


 その口元には、小動物然とした普段の様子には似つかわしくない、薄い笑みが浮かんでいる。


「(ありがとね。結女ちゃんと、ふ・た・り・っ・き・り、でお泊まりなんて、まるで夢みたい! 結女ちゃんだけに!)」


 ……何の当てつけだか知らないが、彼女は僕と結婚して結女の義姉妹になろうとしているクレイジーガールだ。一応、釘を刺しておくべきだろう。


「(……おかしなことはするなよ、南さん)」

「(わっ、あたしに嫉妬してくれるの? うっれし~! 押しまくった甲斐があったかな?)」

「(それ、本気で言ってるんだとしたら相当おめでたい脳味噌だな)」

「(まあねっ!)」


 褒めてないよ。ドヤ顔をするな。


「そら、離れた離れた」


 僕に接近した南さんを、川波が猫みたいにひょいっと首根っこを掴んで引き剥がした。


「男の聖域にずかずか入り込んでくるんじゃねーぜ。女は花でも摘んでな」

「うわーお。わかりやすい男女差別。っちゅーか男の聖域って。ふっ。似合わなっ」

「おいおい、いいのかよ? 放置されたお姫様がたいそうお寂しそうにしてあそばされるぜ」


 視線を置き去られた結女に転じると、彼女はどこか拗ねたようなでこっちを見やっていた。僕が視線を向けたのに気付くなり、つんっとそっぽを向いてしまう。

 南さんが川波の手から逃れて、びゅーんと結女の腕に飛びついた。


「ごめんねっ、結女ちゃんっ! 仲間外れにしないからね! あたしは!」

「いえ、いいのよ、暁月さん。どこかの弟がだらしなく鼻の下を伸ばしているのが、家族として恥ずかしかっただけだから」


 すいっと冷徹な視線が僕に飛ぶ。だらしなくって、あいつの目はどうなってるんだ。眼科行ったほうがいいぞ。

 結女の腕に抱きついた南さんが、川波のほうを振り向いて言う。


「……じゃ、川波、こっちには関わらないでね? 女の聖域だから」

「頼まれたって行かねーよ。お前の部屋なんか」


 耳の穴をほじりながら吐き捨てる川波と、ベーッと舌を出す南さんとを交互に見比べて、結女が控えめに言った。


「……ねえ、暁月さん。気になってたんだけど……川波くんと、どういう関係なの?」


 そう。それだ。

 今回の僕の誤算は、そこにあった。

 父さんや由仁さんに二人きりの時間をプレゼントして、ついでに僕は結女と離れられる――そういう計画だったはずなのに。


「あ。全然気にしなくていいよ?」


 南さんはニコニコ笑顔で、なんてこともなさそうに告げた。


「アイツとは、家が隣同士で、小学生の頃から一緒に遊んでたってだけだから」






「幼馴染みじゃん」


 と、僕は突っ込みを入れた。

 場所は川波家のリビングである。両親は終日帰ってこないのが常だそうで、今日も在宅の気配はない。だから間取りのすべてを大っぴらに使用可能だということで、僕はリビングのテーブルで麦茶による歓待を受けていた。

 川波はテーブルの対面に座りながら、


「そんな大したもんじゃねーよ。家が隣同士で、小学生の頃から一緒に遊んでたってだけで」

「それが幼馴染みじゃなかったら何が幼馴染みなんだよ!! 全世界の幼馴染みキャラに謝れ!!」

「何ヒートアップしてんの?」


 冷めた調子で言って、ごくごくと麦茶を飲む川波。なんだこれ。僕がおかしい風になってる。僕がおかしいのか?


「幼馴染みね……。確かに、かつてはそう呼ばれたこともあるかもしれねーな……」

「かつて伝説を築くも今は隠居してる系の主人公みたいに言うな」

「でもさあ、幼馴染みってのは、現在進行形で仲いい奴のことを言うんじゃねーの? 小学校で同クラになっただけの友達のことを、幼馴染みとは呼ばねーだろ」

「今でも仲良さそうに見えるが」

「そりゃお前、オレもあいつもコミュ力だけはあるからな。知ってるか? 大して仲の良くない奴とも仲良さげにできる能力のことを、俗にコミュニケーション能力って言うんだぜ」


 むやみに真理っぽい言い回しに、僕は思わず納得させられてしまう。そういう意味だと僕はコミュ力ゼロだな。


「それじゃあ、昔は仲が良かったけど、今は疎遠って感じなのか。それもまたベタだな……」

「ベタとか言うんじゃねーよ、ヒトの人生をよ。第一、今のオレとあいつとじゃ、疎遠という言葉では表しきれないほど心の距離が離れているぜ」

「なのに、物理的な距離は隣同士なのか?」

「そうだぜ」

「地獄だな」

「だろ?」


 痛いほどわかった。この男、ますます僕と境遇が近い。


「……でも、僕の記憶が正しければ、君、南さんとは『中学のとき塾が一緒だった』って言ってなかったっけか」

「嘘は言ってねーだろ? 中学のとき塾が一緒でありつつ、小学生の頃から家が隣同士だったってだけで」


 叙述トリックだった。日常会話に叙述トリックを仕込むな。


「……まあ、そっちの事情に深入りするつもりはないけど」

「オレはそっちの事情に深入りするつもり満々だぜ。伊理戸さんとはどこまで行ったんだ?」

「多少は気を遣え!!」


 川波はひひひとデバガメの笑みを浮かべて、


「まあまあ。一宿一飯の恩って言うじゃねーか。少しくらいオレの好奇心に応えてくれたっていいんじゃねーの?」

「容赦なく足元を見る奴だな……」

「足元どころか足裏まで見るぜ」

「ただの変態だろうが」

「それで、ぶっちゃけおっぱいは見たことあんの? 乳首の色は?」

「言うか!! 見たことあるとしても絶対に言わない!!」

「へーえ? 伊理戸さんのおっぱいは、その情報に至るまで自分だけのもんだと」

「もうそういうことでいいよ……」

「ふうーん。なるほどー」


 川波はにやっと意味ありげな笑みを浮かべる。嫌な予感がした瞬間、そいつは不意に声を張り上げた。


「伊理戸が『結女のおっぱいは僕のものだ』だってー!!」


 瞬間、ばたばたばたん!! という音が背後から聞こえる。

 ……え。

 まさか。

 全身を凍りつかせ、嫌な汗をだらだら流しながら、僕は正面でにたにた笑う級友を見た。


「あ、言い忘れてたけど、このマンション壁薄いからな」


 最初に言え!!

 僕の背後の壁がバンバンドンバンガンッ!! と恐怖の音を連続させる。壁ドン(恋愛映画で出てこないほう)である。


『ゆ、結女ちゃん結女ちゃん! どうどうどう! それ以上は壁か結女ちゃんの手のどっちかが限界を迎えちゃうからっ!!』

『うう~……っ!! うぅうううううううう~~~っ!!!』


 猛獣めいた唸り声が聞こえたかと思えば、パロンピロンプロンペロンポロンとスマホにLINE通知が来まくった。


〈へんたい〉

〈へんたい〉

〈へんたい〉

〈へんたい〉

〈へんたい〉

〈へんたい〉


 漢字に変換するのもエクスクラメーションマークを付けるのももどかしいらしい。そこらのスパムよりもハイペースだった。

 僕はそっとスマホの電源を切る。

 そして、さっきから僕の目の前で大爆笑している男に、いっとう冷然とした視線を差し向けた。


「……川波」

「ひーっ、ひーっ、ひははははははははっ!!」

「貴様の部屋はどこだ?」

「ひーっひひひ――――ひ?」


 川波の笑顔が凍りついた。






 伊理戸水斗は泣き寝入りを良しとしない。

 やられたらやり返す。受けたダメージは倍にして反射する。いろんな本にそう教わって育ってきた。


「――『しょうらいのゆめ かわなみこぐれ ぼくのしょうらいのゆめはケイサツカンです。つよいケイサツカンになって、あかつきちゃんをまもれるように』――」

「やああああああめええええええええろおおおおおおおおおおっ!!!」

『(バンドンゴンガンガンバキッ!!!)』

『ちょっ、暁月さんストップストップ! バキッって言った! バキッって言ったから!!』


 川波の部屋を掘り起こしてみたら、出るわ出るわ黒歴史の山。この小学校の作文なんて、どうやらちょうど色気づき始めた頃に書いたみたいで、南さんを『およめさん』にすることに少しも疑いを持っていない。これをクラス全員の前で発表したのかと思うと、他人事ながら寒気がするな。


『川波ぃいっ!! そういうの捨てろって言ったでしょうがあっ!! 結女ちゃんに聞かれちゃったじゃんっ!!!』

「オレのせいじゃねーよっ!!」

『あんたが変な冗談言うからじゃん馬鹿ぁーっ!!!』

「うるせーアホぉーっ!!!」


 電源コードで拘束された状態のまま壁越しに南さんと怒鳴り合う川波。

 いつも意味深ににやにや笑って傍観者ヅラをしているこの男や、クレイジーな部分の印象が強すぎる南さんが、まさか揃ってここまで取り乱すとは。

 僕は手足を縛られて床に転がった川波に、にやにや笑いながら言う。


「川波……君たち、やっぱり実は、まだ仲いいんじゃないのか?」

「やられて嫌なことは人にするなって習わなかったのかあんたはァ!!」

「同じ台詞をそっくりそのまま返そう」


 さすが僕だった。黒歴史の扱い方を心得ている。伊達にさんざん過去の自分に振り回されてきたわけではない。僕だってこんな力、欲しくなんてなかった……(わなわな)。


「さーて、もっと面白いもの出てこないかな」

「終わらねーのこのくだり!? 伊理戸お前かんっぜんにSだな! 大人しそうなツラしていじめっ子気質ってどういうことだよ!?」


 僕だって自分にこんな面があったとは知らなかった。これが……僕の力……!?(わなわな)


 拘束した川波をリビングに転がしておいて、再び川波の部屋に踏み入る僕。

 脱ぎ捨てた寝間着などで散らかったベッド。漫画しか置いてない本棚。コードがぐちゃぐちゃに絡まったゲーム機。一般的な男子高校生の部屋と言えた。


 勉強机の上にノートパソコンが置いてあるのを見つけて、何気なく開いてみる。スリープ状態だったようで、ロック画面も経由せずにデスクトップが表示された。おいおい、人を呼ぶってのに不用心な。

 エロ画像のフォルダ名でもバラしてやるかと思った僕だったが、その前に目に付いた文字列があった。


「……日記?」


 ワードのファイルだ。どうやらPCで日記を付けていたらしい。似合わないことをしてるな。

 さすがにこれはプライバシーすぎるか……と、一瞬良心を復活させた僕だったが、更新日時を見て気が変わった。何ヶ月も前の日付だったのだ。

 ははーん。さては三日坊主だな? 僕は察して、3日程度なら大したことは書いてあるまいと、カチカチッとダブルクリックした。

 簡素な明朝体で記された文章が、僕の目に飛び込んでくる。



『10月13日

 この日記が誰かの目に触れているのなら、そのとき、オレはこの世にいないのだろう』



「……………………」


 この書き出しで日記を始める奴、現実で初めて見た。

 今も隣のリビングで元気にぎゃあぎゃあ喚いてるけど。思いっきりこの世にいるけど。

 興味が泉のように湧いて出て、続きに目を通していく。



『10月14日

 悪夢を見た。暁月に身体を洗われる夢だ。オレは負けない』


『10月15日

 腹の調子が悪い。今日も下痢だった。ずっとぐるぐると鳴っている』


『10月16日

 十円ハゲができた。なんとか髪型で誤魔化せた』


『10月17日

 人生で初めて吐血した。これってヤバい?』


『10月18日

 しんどい。だるい。あたまがいたい』


『10月19日

 なにもできない。させてもらえない』


『10月20日

 も むり たすkkkkkkkkkkkkkkkk』



 僕はファイルを閉じた。

 見なかったことにしよう。

 そして、川波小暮にもう少し優しくしようと思った。






 あっという間に夜が来た。

 川波家の両親は本当に帰ってこなくて、僕たちは夕食を食べるためにマンションの外に出た。近くに行きつけのファミレスがあるらしい。


「冷蔵庫ん中には冷凍食品しかなくてよ。いつもは大体それ食ってんだけど、さすがに客人にそんな適当なもん食わせるのは忍びねーだろ?」


 夜の街は、どこか異世界めいている。いつも見ている風景に、違うレイヤーがかかっている。夜に出歩くことなんてないから、余計にそう感じるのかもしれない。

 居酒屋の看板の光の中を歩きながら、僕は川波に言う。


「本当に、帰り遅いんだな、親御さん」

「一億総ブラック国家と名高い日本だぜ、ここは。こんなもんさ」


 街が生み出す光と影を交互に踏み越えていきながら、川波は肩を竦めた。


「あんたがさ、両親に時間作ってやりたいから泊めてくれって言ってきたとき、オレは感心したね。今時見上げた若者がいるもんだって」

「いくつなんだよ、君は」

「10から先は数えてない」

「どれだけ数えるの苦手なんだよ」


 くっくっく、と川波は肩を揺らした。

 あの家族のいない家が、川波にとって幼い頃からの日常なんだとしたら、なるほどな、と察することもある。そんな環境で、隣の家に同年代の子供がいたら、仲良くならないわけにはいかないだろう。

 きょうだい同然――というヤツか。

 ……僕と結女なんかより、コイツと南さんのほうがよっぽど義理のきょうだいめいている。


「お二人様ですかー?」

「はい。禁煙席で」

「ちょうど二人席が空いていますので、そちらへどうぞー」


 夕食時からは少々遅れているが、ファミレスにはファミリーを中心に多くの客で賑わっていた。ちょうど二人席が空いていたのは僥倖と言えよう。案内された窓際の席に向かって、


「「「「あ」」」」


 と、4人分の声が揃った。

 僕たちが案内された席の隣に、結女と南さんが向かい合って座っていたのだ。

 南さんが「くっ!」と悔しそうな顔をする。


「しまったぁ……! 川波もここ来るの忘れてたぁ……!! せっかく二人きりのディナータイムなのに……!!」

「格安ファミレスで何がディナータイムだっての。どうせミラノ風ドリアだろお前は」

「いーじゃんミラノ風ドリア! 安いし美味しいし! そう言うあんたは身体に悪そうなピザ頼むんでしょ!」

「いいだろピザ。安いし美味いし複数人で摘まめるし」


 出会い頭に気安い会話を交わす川波と南さんを交互に見て、僕は素直な感想を吐露する。


「このあからさまな『普段は二人で一緒に来てます』感……さすが幼馴染みだな」

「「幼馴染み!? 誰がこんな奴と!!」」

「君ら、わざとやってないか?」


 あとその反応は彼氏や彼女扱いされたときのやつだからな。なんで幼馴染み扱いで出てくるんだ。

 川波がしぶしぶ通路側の椅子に座ったので、僕もしぶしぶ壁側の席に座った。僕の隣に結女が、川波の隣に南さんが来るポジショニングである。二人ともしぶしぶなら入れ替わればいいだろと思うところだが、どうせ川波の奴が変な気を回しているんだろう。


 至近距離からの攻撃に気をつけなくては――と、さっきから一言も発していない結女に目をやってみれば、何やらきょろきょろと辺りを見回しながら、そわそわと身体を揺らしていた。


「……トイレならドリンクバーの横にあるぞ?」

「違うわよっ! そ、そうじゃなくて……友達と夜のファミレスに来るなんて初めてで……」

「はッ。さすがだな、高校デビュー」

「デビューじゃないって言ってるでしょ!」

「絶賛ファミレスデビュー中に言っても説得力ゼロだぞ」

「何よ。あなただってこんな機会なかったでしょ。友達いないんだから」

「僕は川波とのファミレスにさしたる価値を感じていないんでな」

「おおーい。今夜の宿の大家に対して豪胆な評価だなオイ」


 初めて見るメニュー表から、安いパスタを適当に選んで、ドリンクバーと一緒に注文した。ドリンクバードリンクバーって当たり前のように言っているが、存在を知っていただけで自分で注文するのは初めてだった。200円で飲み放題って普通にすごいな。


「おい伊理戸。飲みもん取ってこいよ」

「なんでいきなりパシられてるんだ僕は。貴様が行け。下賤の者め」

「なんでいきなり小間使われてんだオレは。いや、荷物見とくから代わりに飲み物取ってきてくれって話」

「ああ、なるほど」

「伊理戸さんと一緒に」

「いや、なんでだ」

「ほら、お前、自分でドリンクバー使ったことねーんだろ? 教えてもらえばいいじゃん。手取り足取り」


 にやにやと下卑た笑いを浮かべる川波。隣の南さんが『きっも』という表情で横目に視線を送っている。

 それなら君が行けばいいだろ経験者、と反論しようとしたとき、僕の隣から声が上がった。


「へーえ? なるほど? ドリンクバー使ったことないんだー? 高校生なのに? ふうーん……」

「……おい義妹。その心底ムカつく視線はなんだ」

「高校生なのにファミレスのドリンクバー使ったことないって珍しいねー? 友達と来たことないのー? 仕方ないから教えてあげよっかー?」


 よくドリンクバーごときでここまでマウント取れるなこの女!!

 憤懣やるかたなくなった僕は、決然と席を立って宣言した。


「……よおく見ておくんだな。本物のドリンクバーってものを教えてやるよ」

「お手並み拝見と行こうかしら」

「何これ。料理バトル始まるの? 食戟なの?」


 小首を傾げる南さんをよそに、僕と結女は戦士の歩みでもってドリンクバーへ移動した。

 コーラ、オレンジジュース、炭酸水、紅茶、アイスコーヒー――いろんなボタンが付いたドリンクサーバーが、僕を待ち受けていた。どれでもいい、どのボタンを押したとしても俺のやることは変わらない――そう言わんばかりの質実剛健な面構えであった。上等である。


「じゃ、アイスコーヒーにするか……」

「本当に? 本当にそれでいいの?」


 アイスコーヒーの位置にコップを設置し、ボタンを押そうとしたところで、結女が眩惑的な言葉を放ってきた。

 これ見よがしに溜め息をつき、やれやれと肩まで竦めやがる。


「まったく……。どうやらご存知ではないようね。これだから素人は……」

「何だと……? ボタンを押してコップに好きなドリンクを注げばいいんじゃあないのか?」

「私がお手本を見せてあげる。ドリンクバー・マナーのお手本をね!」


 そう言って結女はコップをひとつ手に取ると、メロンソーダの位置にセットした。緑色の液体を三分の一ほどまで注ぐと、今度はオレンジジュースを三分の二まで投入。最後に緑と黄色を溶かすかのごとく炭酸水を投入し、臓物めいたおぞましい色に染まってコポコポを泡を立てる、地獄に流れる川みたいな液体を完成させた。


「ドリンクバーというものはね……手ずからオリジナル・ブレンドを調合するのが正しい使い方なのよ!」

「……なん……だと……」


 僕はゲームのアイテム調合システムで適当なものを混ぜ合わせて案の定失敗したみたいな液体を見つめ、恐れおののいた。

 世の高校生はこんなものを常飲しているのか。奴らは産業廃棄物を食べて育つタイプの怪獣か?


「さあ、あなたもやってみなさい。指が誘うままに混ぜるのよ」

「むうう……」


 僕は眉間に皺を寄せてドリンクサーバーを睨んだ。

 炭酸は苦手だから除外するとして……。


「……まずは紅茶を少々」

「ふむ」

「次にぶどうジュースを少々」

「んん?」

「最後にオレンジジュースも入れて完成」

「正気!?」


 精神状態に疑いをかけられた。失敬な。


「ロシアンティーみたいなもんだろ。知ってるか、ロシアンティー? 紅茶にジャム入れるやつ」

「知ってるわよ失敬な! でも、確かに、そう言われてみるとアリな気もしてきた……」


 やらせたくせに疑り深いやつだな。

 僕らは自作ブレンドジュースを手に席に戻る。

 すると南さんが、僕たちが持ってきた混沌とした色のジュースを見るなり「ぷはっ!」と噴き出した。


「ご、ご、ご、ごめん、結女ちゃん……っ!」


 お腹を抱えてぷるぷると震える南さん。「?」と結女が首を傾げる。


「さ、さっき、『ドリンクバーは自分でブレンドするのがマナー』って言ったけど……あれ、嘘……!」

「…………。え!?」

「ぷはっ! あははははははははっ!! ま、まさか真に受けてたなんて……!! うきゅくくくくくくくくっ!!」


 テーブルに突っ伏して爆笑する南さんに、結女は愕然とした後、羞恥で顔を真っ赤にした。

 なんだ。南さんの冗談を真に受けただけか。道理でおかしいと思った。よくもまあこんなあからさまな嘘を――


「ぶふっ! ……つ、つーか、なんで伊理戸も真に受けてんだよっ……」


 僕が手に持ったロシアンティーもどきを指差して、川波も噴き出した。


「ぶはっははははははっ!! よく揃って騙されたなこんなしょうもない嘘に! ぶふっ、きょ、きょうだいだわ、あんたらきょうだいだわマジで!! ぶふははははははっ!!」

「「笑うな幼馴染みども!!」」


 何のツボに入ったのか、涙を浮かべて爆笑する幼馴染みコンビに、僕たちは羞恥と屈辱で真っ赤になりながら抗議する。

 結局、2人の爆笑は、ファミレス店員の「あのー、もう少しお静かに願えませんでしょうかー……」という控えめな注意があるまで続いた。






「うう~……お腹の中がぐるぐるする……」


 夕食を終えて、マンションへと戻る夜の道。

 結女の隣に並んだ南さんが、ぷすすっと思い出し笑いをする。


「ちゃんと全部飲んだもんねぇ、あの地獄ドリンク」

「だって、粗末にするのは悪いじゃない……」

「真面目だねー。結女ちゃんのそういうとこ好きーっ!」


 南さんはぴょんっと跳ねて結女の首に抱きついた。彼女のそういうスキンシップに早くも慣れたのか、結女のほうも「はいはい」という感じで南さんを抱き返しながら、ずるずると引きずっていく。


 そんな女子女子した姿を後ろから眺めながら、僕はぐちゃぐちゃに波打つお腹を押さえていた。

 隣を歩く川波が言う。


「オレもああいうのしたほうがいいか?」

「もししやがったら、君のシャツは僕の深淵より溢れ出た混沌に染まることになるだろう……」

「何言ってるかわかんねーけど何言ってるかはわかった」


 逆に一歩距離を取る川波。賢い判断だ。


「あんたも伊理戸さんも世間知らずなとこあると思ってたけどよ、まさかあそこまでとはなあ」

「小説にはドリンクバーの使い方なんていちいち書いてないんだよ」


 結構最近まで『ドリンクバーって当たり前みたいに書いてあるけどどんな棒なんだろう』と思っていたくらいだ。


「くくく。これは使えそうだぜ。次は何を吹き込むか……」

「オイコラ貴様愉快犯」


 二度と騙されないからな!


「おーい! いっりーどくんっ♪」


 ぐっと左腕が重くなったかと思えば、いつの間にか結女のところから移動してきた南さんが、僕の腕にくっついていた。


「結女ちゃんから聞いたんだけど、伊理戸くん、現国得意なんだって? これも何かの縁だしさっ、あたしに教えてよー。ほら、そろそろ中間テストでしょー?」


 なんだどうした。いきなりベタベタと。結女にくっついてなくていいのか?

 そんな僕の思惟を気取ったのか、南さんはにやあっと笑ってピースサインをハサミみたいに動かした。


「(夜はまだまだ長いからねっ。今は焦らし作戦中)」


 見やれば、結女は少し離れたところから拗ねたような顔でこっちを見つめていた。なるほど。さすが根っからのコミュ力モンスター、駆け引きがうまい。

 隣の川波が意味ありげに呟く。


「(……さて、嫉妬されてるのは本当にお前なのかねえ?)」


 含みのある笑みを浮かべた川波を、南さんが敵意を込めた目で睨みつけた。人を間に挟んでバトルするのやめてくれるか?

 こそこそ話していると、ますます結女が仲間外れ感を醸し出した。まったく、仕方がないな。


「……残念ながら、南さん、僕の現国の勉強法は参考にならないと思う」

「えー? なんでー?」

「1日1冊小説を読む。それを365日続ける。……できるか?」

「うわあ。それは無理!」

「僕は特別な勉強法を確立してるタイプじゃないから、教えてもらうんだったらあいつのほうがいいよ」


 前方で輪から外れている女を指差した。そいつは僕の指に気付くや、「え、あ?」と変に慌てる。


「わ……私?」

「君だよ。人にものを教えるのは僕よりも向いてる。努力家だからな」


 何を探しているのかきょろきょろと左右に目を走らせた後、それを誤魔化すように自分の髪先をくるくるといじり始めた。


「ふ、ふうーん。なかなかわかってるじゃない? そうよ。南さん、勉強なら私が教えてあげる。その男よりもずっとうまく教えられると思うわ」

「ああ。必死こいて勉強しないといけない君と違って、僕は雰囲気で点を取ってしまうタイプだから教師には向かない」

「何なのあなた私をムカつかせる天才なの!?」


 ただの事実ですが何か。

 がみがみと飛んでくる罵倒を馬耳東風、聞き流していると、僕に抱きついたままの南さんが、至近距離で頬をひくつかせた。


「な……なかなかやるね、伊理戸くん……。あたしを逆用してポイントを稼ぐとは……。敵ながら天晴れだよ……」


 何を評価されたのかわからなかった。雰囲気で点を取ってしまうタイプだからかな。






あかつき☆

〈うわーん! 結女ちゃんの裸見れなかったー! 自慢しようと思ったのにぃー!〉

- 22:32


Yume

〈いや、だって、暁月さんの目、かなりいやらしかったんだもの……〉

- 22:32


K_KOGURE

〈伊理戸さん、ナイス判断! そいつは小学生の身体におじさんの心を宿した驚異のスケベロリータだからな!〉

- 22:33


あかつき☆

〈かわなみ おぼえとけよ〉

- 22:33


 南さんが包丁のスタンプを連打する。ベッドに寝転んでスマホを見ていた川波が、「おうげえっ……!」と恐怖で震え始めた。


 ファミレスから帰ってきて、入浴(もちろん順番に入った)も終えた後、僕は川波ルームのローテーブルに教科書とノートを広げていた。

 横に置いたスマホに映っているのは、別れ際、南さんが「あたしと結女ちゃんのめくるめくイチャラブ生活を実況配信してあげる!」と寝言をほざいて作ったLINEのグループトークである。南さんが暴走しないか監視する意味も込めてチラチラ確認しているが、あの女もなかなかどうして自衛力があるようだ。


あかつき☆

〈伊理戸くん喋んないけど何してんの?〉

- 22:38


K_KOGURE

〈テスト勉強。雰囲気で点が取れるタイプとはなんだったのか。つまんねー〉

- 22:38


あかつき☆

〈は? 川波あんた勉強してないの? 今あたしたちも勉強しながらラインしてるよ〉

- 22:39


K_KOGURE

〈またまたー〉

- 22:39


あかつき☆

〈いやガチだから〉

- 22:39


Yume

〈川波くん。たぶんテストまでまだ1週間以上あるから油断してるんだと思うけど、ウチは普通の高校とは違うから。入試の難易度思い出して〉

- 22:40


「……………………」


 川波はスマホ画面を眺めながらしばらく沈黙し、ベッドの上でのっそりと身を起こした。

 それから、ギギギと僕のほうに首を回す。


「…………そんなにやべーの?」

「ヤバい」


 僕は教科書をめくりながら即答した。


「雰囲気で点が取れるタイプを自負する僕が、それでもテスト期間に入る前から教科書を開かざるを得ないくらいヤバい」

「……マジで」

「マジで」


 入学直後、配られた教科書をぺらぺら斜め読みして震えたからな。これが進学校か、って。


「川波。君、知り合い多いんだろう? 上級生から聞いてるんじゃないのか、テストの難易度」

「なんとなく噂では聞いてっけど……うおおお……! 入試からの解放感がまだ抜けてなかった……!!」


 気持ちはわかる。せっかく地獄みたいな受験勉強を生き延びたのに、たかだか2ヶ月弱で地獄に舞い戻る勇気は出ない。


「まあ、平均点を取るだけなら必死になる必要はないかもしれないけどな」

「んん? んじゃ、あんたはなんで今、らしくもなく必死に勉強してるわけ?」

「そんなもん――」


 僕はLINEの画面を見る。


「――負けたくない奴がいるからに決まってるだろ」


 入試では敗北を喫したが、そうそう何度もヤツの後塵を拝するわけにはいかない。

 テスト結果はランク付けのうえ廊下に貼り出されると風の噂に聞いていた。今はあの女がふんぞり返っている玉座を、次こそ僕が簒奪してくれる。


「……すっげーなあ、あんたたちは」


 不意に川波が、ぽつりとそんなことを呟いたので、僕は教科書から顔を上げた。


「オレはそんな風に、正面から張り合う気にはなれねーよ。表面的にわかったふりをして、適当に誤魔化して、そんでおしまいだよ。あんたたちみたいに全力でエネルギーをぶつけ合う気にはなれねー」

「……そうか?」


 何の話をしているのか、あえて確認を取らないまま、僕は返す。


「君たちも、そこそこ張り合ってるように見えたけどな。今日見てた限り」

「いいや、今日見てたんならわかるだろ。今まで見てたんならわかるって。――オレたちは、表面的にはうまくやっちまってるよ。あんたたちみたいに、取り繕いもせずに正面衝突を繰り返すようなことはしてねー。それがすげーしんどいことだってわかってるからな」

「……それは、君たちが器用だからだろ」


 川波小暮は僕にとって、境遇の似た同志だ。

 しかし、違う点があるとすれば、やはりそこに尽きる。


「僕からすれば、君たちの器用さこそ、羨ましい」


 もし、僕たちに彼らのような器用さがあれば――僕たちの関係も、今のようにはなっていなかっただろう。

 川波はどこか皮肉げな、淡い笑みを滲ませる。


「隣の芝生は青いってやつだな」

「よかったじゃないか。国語の勉強ができたぞ」

「災い転じて福と成すだな」


 川波は「よっと」とベッドから降りて、ごそごそと鞄から教科書を取り出した。


「オレもちょっと頑張るかあ。確かによく考えてみりゃ、南の奴よりは上に行きてえ」

「だろう? 応援してやろう。がんばれ」

「いや教えてくれよ、学年トップ志望」


 かくして、学生の本分を全うしながら夜は更けていった。






 川波の奴は、床の上で眠りこけていた。

 まだ午前1時だというのに、案外夜には弱いらしい。


 今日の分のテスト勉強は済ませたけれど、もともと夜型人間の僕は、まだ寝付けそうにはなかった。

 男の寝息をいつまでも聞いているのも居心地が悪く、僕はリビングに出る。


 暗く沈んだリビングは、しかしベランダから射し込んだ月光にうっすらと照らされていた。

 視線をベランダに振れば、彼方まで広がる星空のような夜景。って言っても集合住宅から望む夜景なんかたかが知れているけれど、家から見える景色がこうも高い視点だというのは、一軒家で生まれ育った僕にはなかなか新鮮だった。


 夜景に引き寄せられるようにして、ベランダに続く掃き出し窓を開ける。

 冷たい夜風が首筋を吹き抜けた。5月。春だ。涼しいと思いこそすれ、寒いとは思わない、心地のいい風だった。


 置いてあったサンダルを失敬して、ベランダのフェンスに寄る。

 ベランダの両脇には、『緊急時にはここを破壊してください』と書かれた白い板があった。向かって左が、南さんの部屋――つまり、あの女が眠っているだろう部屋だ。

 壁も薄かったけど、その気になれば行き来も簡単なんだな。

 まあ、この仕切り板をぶち破って隣室に行く機会は、そうそうないんだろうが。


 フェンスの手すりに腕を置いて、ぼうっと夜景を眺める。

 手前からずーっと続く光の海は、山の影でいったん途切れると、今度は空の上に広がっていた。

 いつもより何倍も近く感じる星々は、存外綺麗なものだった。星空なんて、生まれてこの方、真面目に見上げたことなんかないからかもしれない。スーパームーンだのブラッドムーンだのがSNSで騒がれているときだって、いちいち窓を開けて夜空を仰いだりはしなかった。


 強いて言えば――そう。

 中学の林間学校での、あの晩くらい――


「――わあっ……」


 そのとき。

 どこかで聞いた覚えのある声がした。

 僕は、左を見る。

 すなわち、南さんの部屋の方向を。


「「……あ」」


 そこで、目が合った。

 白い仕切り板の向こうに立つ、その女と。

 伊理戸結女は僕に気付くなり、ばつが悪そうに視線を逃がして、口をもにょもにょとさせる。

 ふむ。


「高校生にもなって夜景と星空に『わあっ……』なんて感動してたのを見られたのがそんなに恥ずかしいのか?」

「わかってるなら言うなっ!!」


 加熱中のオーブンみたいに赤くなって、結女はベランダの手すりに顔を突っ伏した。

 その頭には、フードが被さっている。

 熊か何かの耳がくっついた、子供っぽいの一言では足らないほど子供っぽいフードだった。その中からは、白いシュシュで二つ縛りにした黒髪が風呂上がりのタオルみたいに胸の前に垂れている。

 ふむ。


「高校生にもなって可愛らしい動物パジャマを着てるのを見られたのも、どうやら恥ずかしかったようだな」

「まさかの追撃! 鬼! 鬼畜義弟!!」


 義兄だっつってんだろこの義妹が。

「うううう~……!」と顔を伏せたまま震え続ける結女を、僕は聖人君子のごとき穏やかな微笑で慰める。


「まあ気にするな。一つ屋根の下に僕という同年代の男がいるという環境が大層なストレスだったんだろう。この機会に発散したくなった気持ちもわかるわかる」

「やめてくれる? その悪意しか感じない同情……。このパジャマは暁月さんに着せられただけだから……」

「大丈夫大丈夫。僕は可愛いと思うぞ(馬鹿みたいで)」

「聞こえてるのよ! 可愛いとさえ言えば女子が喜ぶと思ったら大間違いだから!」

「知ってるよ、そのくらい。だから言ってるんだろう?」

「なおのこと最悪!」


 精神状態がまだ整っていないのか反撃もなく、一方的なフルボッコだった。どうやらボーナスステージに突入してしまったらしい。今のうちに稼ぐだけ稼がねば。


「……そっちこそ」


 次のいびり方を思案していると、結女がまだ少し赤い顔を上げて、横目で僕を見た。


「一人でベランダに出て、何を黄昏れてたの? 夜の街を見下ろして黒幕気分にでも浸ってたの? 中二病ってやつなの?」

「その気分がまったくなかったかといえば嘘になるが、残念ながら最上階じゃなかったんでな。あまり中二病を舐めてくれるな――」


 中二、という言葉で、実際、何を思って黄昏れていたのか、思い出してしまった。

 不意に口を噤んだ僕を怪訝げに見た後、結女は「……あ」と声を上げて夜空に視線を転じる。

 それから、薄い笑みを口元に滲ませて、こう言ったのだ。


「――月が綺麗ね」

「…………ぐ」


 僕は頬を引き攣らせる。……無駄に察しのいい奴め。

 結女は夜空から僕のほうに目を戻すと、からかうように笑った。


「まだ覚えてたんだぁー? 林間学校の夜のこと。ずいぶんと記憶力がいいのね?」

「ぐっ……そっちこそ、よく僕の台詞まで覚えてたな。どうやら記憶力では君に軍配が――」

「忘れるわけ、ないでしょ?」


 どこか儚い、星の瞬きのような笑みが結女の口元に滲んで、僕は息を詰まらせた。

 結女の細い指が、仕切り板を越えて、ゆっくりと僕の顔に伸び――

 ――ふいっと急に方向を変えて、僕の手を指差す。


「『笑わない数学者』」

「…………、は?」

「あのとき、あなたが持ってた本。私も好きだったから、よく覚えてるの。森博嗣先生に感謝することね」

「……………………あ、そう」


 僕は視線を夜景に逃がして、手すりで頬杖を突いた。せめて表情を変えまいというささやかな抵抗だったが、結女はくすくすと嗜虐的ににやつく。


「高校生にもなってまだ中学時代のささやかな思い出を後生大事に覚えてるのを知られたのが、そんなに恥ずかしい?」

「……はいはい。恥ずかしい恥ずかしい。仕返し成功おめでとう」

「可愛くないわね」


 結女は手すりの上に重ねた腕に顎を置いた。

 背中を丸めたせいか、熊さんパジャマのせいか、その姿が普段よりも幼げに感じられた。そうだ、かつての、チビだった頃の綾井結女のような。


「…………ねえ」


 腕に顎を置いたまま、結女は言う。


「あの頃から好きだった――って言ったら、どうする?」


 僕は結女の横顔を見た。ちらりと横目で、僕のほうを窺っていた。

 からかいの気配はない。


「……どうもこうもないだろう。それで何が変わるんだ?」

「そうよね……。実際、あの頃は好きってほどじゃなかったし」

「ほどじゃなかった?」

「今のなし」


 結女は自分の口を塞いで目を逸らした。失言だったらしい。突っ込んでやりたいところだったがそういう空気でもなかったので、僕は話を戻す。


「なんでいきなりそんな話をするんだ」

「べつに。……ただ、ちょっと、暁月さんたちを見てたら……時間が積み重なって生まれるものもあるのかな、って」

「……時間が積み重なって、ね」


 確かに、川波と南さんの間には、ある種の絆――なんて言うと『誰がこんな奴と!』という例のアレが来るので言い換えるが、ある種のノウハウの蓄積みたいなものがある。


 ――オレたちは、表面的にはうまくやっちまってるよ


 それが可能なのは、彼らが器用であることと同じくらいに、彼らが幼い頃から互いのことをわかり合っていたからだろう。長い時間の積み重ねによって理解を深めたからこそ、踏み込んではいけないラインを見極め、適切な距離を取り、表面的な部分を取り繕うことが可能になる。

 たかが1年半程度の付き合いじゃあ、そこまでは至れない。

 だからといって、ほんの2ヶ月プラスしたところで、大して変わりはしないだろうけどな。


「……べつに、ありもしない2ヶ月を継ぎ足さなくてもさ」


 ぽつぽつと僕が話し始めると、結女はぺたんと頬を腕に置いてこっちを見た。


「時間なら、僕たちにはいくらでもあるだろう――もちろん、父さんと由仁さんが別れなければ、の話だけど」

「……別れる可能性ってあると思う?」

「思わないな」


 こっちが目も当てられないくらいラブかったら――つまりかつての僕たちみたいだったら逆に不安になったかもしれないけど、さすがは大人というか、父さんも由仁さんも程よく気を遣い合う良好な関係を築いていると思う。直感的な印象として、あの二人は長続きしそうだと感じる。

 すなわち、僕も結女も、おそらくは一生、義理のきょうだいのままだということだ。


「……うんざりするわねー」

「まったくだな」


 これが一生続くなんて、まったく冗談じゃない。

 ……でも、長い時間を積み重ねれば。

 あるいは、川波たちのように、うまいこと表面的に取り繕えるようになって――今みたいに、いちいちいがみ合うようなことはなくなるのかもしれない。

 それは、なんというか――


「――寂しい?」


 横を見ると、ぺたんと腕に頬をつけた結女が、僕を見てによによ笑っていた。


「寂しいんなら、いつまでも罵ってあげるけどー?」

「張り合いがなくなるって言え。べつに罵ってほしいわけじゃない」

「ばーか。あほー。くそおたくー」

「……君さあ」


 僕はとろんとした結女の目を見つめる。


「眠くなってるだろ?」

「…………うん」


 ふにゃりとした声で、結女は肯定した。


「ベランダで寝るなよ。僕はそっちに行けないからな。翌朝凍死体になって見つかっても僕は知らん」

「そのまえにあなたのふくのせんいをつめにはさむー」

「半分寝ながらおっそろしいことしようとするな!!」


 冤罪を発生させんとする結女の手を、僕は押し返す。赤ん坊みたいに手が熱くなっていた。本当にこのままベランダで眠ってしまいかねない。


 デコピンでも何でもして喝を入れてやりたかったが、その前に僕は、ひとつ訊いてみたいことがあった。

 目もとろんとして、睡魔に無血開城寸前の今ならば、きっとあっさり素直に答えてくれるに違いない。

 僕は2年前とは異なる、2年前のような星空に目をやりながら、ぽつりと独り言のように言う。


「……楽しかったか?」


 おそらくは初めての、友達の家でのお泊まりは。

 わいわい騒いで、はしゃいで、勉強して――どこにでもいる学生のように、今という時間を楽しむのは。

 2年前には、できなかったことをするのは。


 結女は星空を見ることなく、僕のほうを見たまま、口元を綻ばせて答えた。


「……うん」


 そして、


「……ありがと」


 僕は視線を結女に戻して、2年前の忘れ物を拾う。


「どういたしまして」


 それから手を伸ばして、結女の額にデコピンをくれてやった。

 距離は2年前よりずっと近く、白い仕切り板だけが僕たちを隔てていた。


 まあこの板も、緊急時には壊せるんだけどな。


 そのときが来ないことを、僕はさして綺麗でもない星空に祈った。




※※※




 世話になった川波家を昼頃に辞して、僕は親しんだ我が家に帰ってきた。

 結女のほうは南さんと外で遊んでから帰る予定らしく、僕は一人で玄関のドアを開ける。


 靴を脱いでから『しまった』と思った。『ただいま』を言うべきだっただろうか。家に人がいること自体少なかったので、習慣がついていないのだ。

 まあ、いいか。

 帰宅を宣言することに大した意味があるわけでもなし――僕は自分の過失をさらりと流して、とりあえずリビングの戸を開けた。

 伊理戸水斗、人生最大のミスだった。


「あ~ん♪ 峰くん、おいしい~?」

「おいしいよ、由仁さん。もう一口もらえるかい?」

「もお、食いしん坊さん♪ はい、あ~ん――――」


 僕はゆっくりと戸を閉めた。

 くるりと背を向けて、わなわなと全身を震わせる。


 ……な、なんてことだ……。

 見てしまった。

 目撃してしまった。


 年齢的には中年の!

 実の親が!

 あたかも中学生のカップルのように!!

 年甲斐もなくイチャついている場面を―――!!!


「……うぐおおおおお……っ!!」


 は……吐き気がするっ……!!

 背後のリビングからは特にリアクションが見られなかった。どうやらお互いに夢中で、僕が帰ってきたことには気付かなかったらしい。


 ……なるほど。

 僕は即座に結女へとLINEを送った。


〈緊急召集。父さんと由仁さんがヤバい。至急帰宅されたし〉


 ものの10分ほどで、玄関に結女が飛び込んでくる。


「お母さんたちがどうしたの!?」

「しーっ!」


 僕は唇の前に指を立てて声を抑えさせ、無言でリビングを指し示した。


「?」


 結女は怪訝そうな顔をしつつ、特に気負うことなくリビングの戸を開く。

 そして閉じる。

 くるりと振り返り、手で顔を覆う。


「……うあああああああっ……!!」


 そして、僕と同じく全身をわなわなと震わせた。

 そうだろう。そうなるだろう。


「な……なんてものを見せるのよっ……!!」

「家族として、家族のことは情報を共有すべきかと」

「道連れが欲しかっただけでしょ……!?」


 そうとも言う。

 僕たちはリビング前の廊下に揃ってうずくまり、こそこそと家族会議を開始した。


「(お、お母さんたちって二人きりだとあんななの……!? 私たちの前では取り繕ってただけ!?)」

「(僕らが仲のいいきょうだいの仮面を被ってるように、父さんたちも頼れる両親の仮面を被ってたみたいだな)」

「(今時、高校生でも見ないわよあんなバカップル! あの二人、確か今年で――)」

「(やめろ。言うな。吐き気が酷くなる)」

「(……どうする?)」

「(……見なかったことにするか?)」

「(……そうね。じゃあそれで――)」


 話がまとまりかけたそのとき。

 僕らのすぐ後ろで、ピシャーン! とリビングのドアが開いた。


 僕らは、恐る恐る振り返る。

 由仁さんが、歳の割には幼い顔に、にこにこと満面の笑みを貼り付けていた。


「二人とも……見た?」


 見なかったことにする。

 そのはずだったのに、僕たちは二人とも、目を逸らしてしまった。

 いたたまれない空気が辺りに満ちた、その刹那。

 由仁さんが、童顔をくしゃりと歪めた。


「ご……ごめんねええ~~~~~っ!!!」


 由仁さんはなんと、顔を覆ってわんわんと泣き始めた。

 親のガチ泣きに、僕たち子供は呆然とするしかない。


「ちゃ、ちゃんとしたお母さんでいようって、思って、わたしっ、がんばってっ……うああああ~~~ん!! ごめんねえ~~~!! こんなおばさんが、年甲斐もなくっ、……うわあああああ~~~ん!!!」


 年甲斐のなさでは今もあんまり変わらなかった。

 親のガチ泣きって、親のイチャラブと同じくらい、引く。新たな発見だった。

 とにかくこのいたたまれない状況から抜け出したくて、僕と結女は立ち上がって由仁さんを慰める。


「だ、大丈夫ですから! 泣かなくていいですから! 若くていいと思います!」

「そうよお母さん! 『年甲斐もない』んじゃなくて『若い』のよ! いいことだと思うわ、うん!」

「……ほんとにぃ……?」


 泣き腫らした目で尋ねられては、僕も結女もぶんぶん首を縦に振らざるを得ない。


「そっか……『若い』のかぁ……確かに、若いってよく言われる……」

「でしょ!? でしょ!?」

「それじゃあ、わたしたちが結女たちの前でイチャイチャしてても……大丈夫?」


 僕らは目を逸らした。


「うわあああああああ~~~ん!!! 峰くう~~ん!!! 子供に気を遣われたよお~~~~~~っ!!!!」


 由仁さんはリビングに駆け戻り、僕の父さんに泣きついた。父さんは凄まじく居心地の悪そうな顔をしつつ、泣きじゃくる由仁さんの背中をよしよしと撫でて慰めた。


 古来、子は親の背中を見て育つと言う。

 これからの僕たちがどうなるかはわからないが、とりあえず、ああいう風にはなりたくないと思った。


 ……これを見てもやっぱり別れそうにないと感じるのは、一体何が違うんだろうな。

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