元カップルは競い合う。「馬鹿にしないでよっっっ!!!!」
今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないけれど、私には中学2年から中学3年にかけて、彼氏というものが存在したことがある。
この男と来たら無愛想で見た目にも気を遣わず、そのうえ運動音痴という三重苦を抱えた可哀想な奴だったのだが、どういうわけが地頭だけは優秀だった。
授業態度は決していいとは言えず、居眠りをしたり隠れて本を読んだりやりたい放題のくせに、テストの点数だけはトップクラスなものだから、存在感は薄いくせに教師からは不良のごとく目を付けられていた――まったくもって、学校という場にとことん不適合な人間である。
一方の私は、決して頭の悪いほうではないと思っているのだけれど、恋人関係にあった1年半の間、一度としてヤツにテストで勝ったことがなかった。
と言ってもこれは総合点や平均点においてであり、得意科目である数学に関してはいつも数点だけ上回っていたのだけれど、他の教科、とりわけ現代文においては、足元にも及ばないような有様だった。
今の私なら舌を噛みたくなるような事実だけれど、当時の私はへらへらとしたものだった――答案返却後に図書室の隅に集まっては互いの点数を比べ合い、負けているのがわかっては、『わあ、すごいすごい』とまるでキャバクラ嬢のごとくあの男を煽てていたのである。
もちろん当時の私に社交辞令を使いこなすスキルはなかったので、恐ろしいことに本音である。悔しくないのかと言いたい。貴様にプライドはないのか。ないんでしょうね、恋愛感情に頭をやられた廃人のようなものだもの。
そんな私の負け犬根性は高校入試において初めての完全勝利を収めるまでついぞ治らなかったわけだけれど、一度だけ、たった一度だけ、卑屈で根暗な綾井結女が負けん気を発揮したことがある。
中学2年、1学期の期末テスト。
すなわち、夏休みの直前。
私が、私たちが、『出会い』を果たすことになる寸前のことだった。
友達が一人もいないのに学校に来る理由ってなーんだ?
――勉強でしょうが。学校はそのための場所でしょうが。それ以外の理由で来てんじゃないわよ。
こほん。
失礼しました。器具の不具合により口調に乱れが生じました。ここからはお上品に行きますわよ。おほほ。
学生の本分は勉強である。小学生も中学生も高校生もおしなべてそうである。ゆえに仮に、学校にお喋りする相手が一人もいないとしても、勉強をすることだけは諸手を挙げて推奨される。
私は、ガリ勉であった。
現役女子高生の身なれど、ガリ勉という言葉がまだ使われているかどうか、ちょっと自信がないのだけれど、とにかくガリ勉であった――勉強することだけをやり甲斐に登校している手合いだった。
というか、勉強以外にやることがなかった。
そんな私は、とりわけ数学を得意科目としていた。
得意になった切っ掛けは、推理小説で読んだ理系のキャラクターが格好良かったからという、ただそれだけなのだけど、とにかく数学のテストでだけは誰にも負けたことがなかった――それが私の、学校という場における、ただひとつの誇りだったのだ。
けれど、中学2年、1学期中間テスト。
私は初めて、数学のテストで敗北を喫した。
同じクラスの、伊理戸水斗という男子に。
伊理戸水斗は、私と同じ、友達がいないタイプの男子だった。向こうも私に同族意識を抱いているのか、困ったときにはちょくちょく助け船を出してくれることがあり、当時の私は本当に感謝していたのだけれど、それはそれ、これはこれだ。
得意科目で、しかも自分と同タイプの相手に負けることは、私のほのかなプライドが許さなかったのだ。
次こそ、勝つ。
それはあるいは、私が生まれて初めて持った、対抗心かもしれなかった。
そして来たる1学期期末テスト。
私は睡眠時間を削り、いつもより多く勉強した。
1点の取りこぼしもないように。1つの計算間違いもないように。すべては伊理戸水斗に勝つために。
そうして――クラスでトップの点数を取った。
それはすなわち、伊理戸水斗にも勝ったということだった。
教師の称賛を受けながら答案を受け取り、私はさりげなく伊理戸水斗の様子を窺う。
どうだ。私の勝ちだ。数学ではそうそう負けたりしない。
そんな意思を込めて投げた視線は――
――しかし、上の空な横顔に跳ね返された。
伊理戸くんは、私に向けられた教師の称賛を聞いている風もなく、つまらなそうに窓の外を眺めているだけなのだった。
さあっと、冷めていく感覚がした。
……何を勘違いしていたんだろう。同じタイプだから。同じようにクラスで浮いているから。たったそれだけのことで、通じ合えているような気になっていた。私が彼を気にしているように、彼も私を気にしてくれていると思っていた。
そもそも彼は、私が数学を得意としていることさえ知らないのだ。前回の中間が、このクラスになって初めての定期テストだったのだから。なのに、私は、いったい何を期待していたんだろう……。
虚しくなった。
結局私は、一人なんだ……。そう思った。
そして、夏休みになった。
私はふらりと図書室を訪れて――
――そこで、『出会い』を果たすことになる。
――推理小説、君も好きなの?
伊理戸くんに本棚の上段にある本を取ってもらい、そう尋ねられたとき、私は実のところ、そう驚きはしなかった。
彼がいつも自分の席で本を読んでいるのは知っていたし、その中に推理小説が含まれることだってわかっていた――私にとっては、完全に今更なことだった。
だから、あの男は勘違いしているかもしれないけれど――
私と彼を結びつけた神様のトラップは、そうやって話しかけられたことじゃない。
その次に呟いた、きっと私に聞かせるつもりはなかったのだろう独り言こそが、神様が私たちに仕掛けたトラップ、その正体なのだ。
――……それでか、あんなに数学の点がいいのは
ぐさり、と。
その呟きが、瞬間、私の胸の奥に突き刺さった。
彼の中で、推理小説と数学がどうして繋がったのかはわからない。
推理小説のキャラに憧れたという経緯を、たった1冊の本を見ただけで察せるわけがない。
それでも、それでも。
私の耳は、確かに捉えたのだ。
彼の呟きに滲む、わずかな悔しさを――捉えたのだ。
……ああ。
一人じゃ、なかった。
気にしていない風を装っていただけで、……ちゃんと、私のことを見ていたのだ。
泰然自若な振りをして、冷静沈着な振りをして、その実、私よりもずっと負けず嫌いで、何より意地っ張りで――
……まったく、この男、わざとやっているんだろうか。
何なのそのチラリズム。悔しいならもっとわかりやすく悔しがればいいのに。隠すならもっと完璧に隠せばいいのに。どうしてほんの少しだけ、本音を垣間見せるのよ。
あなたがそんな風にするから、私は勘違いをした。
私だけがあなたを見て、あなただけが私を見てくれるんだって――勘違いをした。
わざとだとしたら女たらしのクソ野郎だし、わざとじゃないとしても天然たらしのクソ野郎だ。
だって――
――その一言で、私は、人生でただ一度の、初恋をしてしまったんだから。
※※※
張り詰めた静寂に、シャーペンがノートを走る音だけが漂っていた。
より集中できるように、隣同士の席が衝立でセパレートされた自習室。いつもは決して人が多いとは言えないこの部屋は、しかし今、この時期に限っては毎日のように満員になる。
中間テストが間近に迫っているのだ。
もしかすると、普通の高校ならば、テスト期間に入って部活が停止になったところで、やったー遊ぶ時間ができたーと気楽になるだけなのかもしれないけど、この高校では違う。
ここは、進学校だ。
私みたいに『彼氏と同じ高校に行きたくなかった』なんていう馬鹿げた理由で入学した馬鹿を除けば、誰もがいわゆる勉強ガチ勢。彼らにとって定期テストは覇を競い合う戦場であり、決して一夜漬けで適当にやり過ごしていいようなものではないのだった。
私もまた同様だ。
いや……あるいは私こそが、他の誰よりも切実に、中間テストトップの座を欲しているかもしれなかった。
下校時間が近づくと、ちらほらと他の生徒たちが帰り支度を始める。
私もそろそろ切り上げよう、とシャープペンシルを筆箱に仕舞ったところで、背中に声がかかった。
「結女ちゃん、かーえろーっ♪」
振り返れば、暁月さんを始めとしたクラスの友達がいた。
普段は勉強の話なんてほとんどしないみんなだけど、テスト前ともなれば、下校時間まで居残り勉強するのが普通になる。みんな普段は猫被ってるけど、ウチのクラスは入試成績上位者の集まりだから、性根が真面目な人間ばかりなのだ。あの男以外。
手早く帰り支度をして、暁月さんたちと一緒に自習室を出た。
とにかく勉強勉強のテスト期間中において、下校の途は数少ない潤いのひとつだった。廊下を歩き、靴を履き替え、校門を出ながら、私たちは何でもない談笑をする。とはいえみんな勉強で忙しくて、テレビを見る暇も動画を見る暇もSNSを見る暇もなかったりするものだから(私に至ってはスマホを完全に封印している)、話題は自然とテストのことになってしまう。
「あー、わたし、全然自信ないよー。赤点取ったらどうしよ」
「伊理戸ちゃんはやっぱトップ狙いなん?」
「……まあ、やるからにはね」
ピリッと走った緊張を抑えて、私は答えた。
「かっこいいなー。わたしは平均超えられたらいーや」
「意識ひっく! トップ獲ろうぜ~、やるからには!」
「いやいや、首席は伊理戸ちゃんの指定席だからさぁ」
あははは、と笑いがさざめいた。私はそれに合わせて笑いながら、表情が硬くなってしまうのを感じていた。
そう――首席は私の指定席だ。
学年首席の才媛。それが伊理戸結女だから。
「……………………」
暁月さんがちらりと私を見た気がした。
かと思うと、パンッ、と空気を切り替えるように手を叩く。
「それよか、テスト終わった後の予定考えようよ! そのほうがやる気でるっしょ~?」
「おっ! いいねいいね!」
「どっか遊びに行こっか~!」
和やかな空気に浸るようにして、私は相槌を打った。
「ただいまー」
暁月さんたちと別れ、自宅のドアを潜ると、私は再び気を引き締めた。
さっさと部屋着に着替えて、勉強の続きをしないと……。
その前にコーヒーでも用意したほうがいいかな、と思って、私はリビングに入る。
すると、義理の弟がソファーに寝っ転がって本を読んでいた。
……は?
目を疑う。
今、テスト期間よね……? この男、なに気楽そうに読書にうつつを抜かしてるの!? わ、私は我慢してるのに……!!
「……あなた、勉強しなくていいの?」
少し低い声で尋ねると、水斗は本から目を離さないまま答える。
「大体終わった。あとは当日まで忘れないようにすればいいだけだ」
終わった? テスト勉強って、終わるとかあるの?
む、むかつく~……!
この男は昔からこうだ。天才肌と言うのか、テスト勉強に全然時間を使わないのだ。ひたすら勉強時間を確保する私とはまったく真逆のタイプ。憎ったらしい!
私は目一杯の嫌味を込めて言う。
「……そんなだから私に負けるのよ」
「何か言ったか?」
「べつに」
これ以上この男と喋っているとモチベーションが下がる。
コーヒーは後にしようと踵を返しかけたとき、
「最近さ、気になってることがあるんだ」
唐突に水斗が言って、私は目を細めた。
「……なに? 何か新作の話?」
「学年首席」
水斗はソファーの上で起き上がると、私のほうを見やって意地悪く笑う。
「どんな座り心地なんだろうな?」
……そう。そういうこと。
私の視線と水斗の視線とが、正面からぶつかり合った。
「残念ながら、首席は私の指定席よ」
「だったら次の便に予約すればいい」
ふん、と鼻を鳴らして、私は視線を切る。
「……できるかどうか、試してみたら? 無駄だと思うけどね」
今度こそ踵を返して、私はリビングを出た。
……いい度胸ね、本当に。
私に面と向かって挑戦したのは、あなたが初めてよ。
私は使える限りの時間を勉強に費やした。
朝は早くに起きて登校前に勉強。学校でも休み時間を使い、放課後は自習室や図書室を利用する。下校時間になって帰宅すれば、部屋の中に籠もって机に向かった。誘惑を断つため、本棚の中身は全部段ボールに入れて物置に封印した。
夕食と入浴を済ませた後も机の前に戻る。眠気が来て集中力が維持できなくなったら、仕方ないのでベッドに入る。そんな毎日が続いた。
「――結女! お箸!」
「……あっ」
お母さんの声で、私は落としかけたお箸を慌てて握り直す。
夕食の席だった。
どうやら、ご飯を食べながら居眠りをしていたらしい――危なかった。気を張り直さないと。
峰秋おじさんが気遣わしげな顔をする。
「……ずいぶんと根を詰めているようだね。勉強は大事だが、無理をして本番で実力を発揮できないようでは元も子もないぞ、結女ちゃん」
「いえ、大丈夫です。無理のない範囲でやってますから」
「それならいいんだが……」
私は誤魔化しの笑みを浮かべた。
無理なんて、するに決まっている。
私は元々、学年首席なんて器じゃないのだ。それでもトップを取ろうと言うのだから、多少の無理は通さなければならない。自明の理だ。
対面に座る水斗が、感情の窺えない目で私を見ていた。
夕食を終えると、眠気覚ましも兼ねてすぐにお風呂に入った。ドライヤーで髪を乾かすのもそこそこに、寝間着を着て脱衣所を出る。さあ、これから夜の部だ。
欠伸を噛み殺して、階段に足を向けた。
そこに、水斗が待ち構えるようにして座っていた。
「ずいぶんお疲れみたいじゃないか」
何を考えているかわからない目が、私の目をじっと見る。
答える気力が、今はもったいなかった。
視線を合わせることなく、階段に腰掛けた水斗の横を通り過ぎようとした、寸前。
水斗がすっと立ち上がり、私の前に立ち塞がる。
「そんなに大事か。学年首席の座が」
間近から見つめてくる目を、私は見つめ返せない。
自分を取り繕う力。天敵に張り合う力。それらすらも、今は勉強に注がなければならない。
「……大事よ……」
だから、誤魔化すことさえできなかった。
胸の中に渦巻く焦りが、危機感が、そのまま口から零れ出る。
「学年首席だったから、今の私があるんだもの……」
性格を変えた。
社交性を身につけた。
それでも、限界はあった。
結局は付け焼き刃なのだ。生まれつき気弱で口下手で引っ込み思案な人間が、多少意識を変えただけのことで、いきなり器用な世渡り上手になんてなれるはずがない。
だから、付加価値が必要だった。
少しばかり不器用でも、少しばかり口下手でも、許してもらえる、補って余りある、付加価値が必要だった。
優等生キャラ。
進学校において、もっとも効果を発揮する付加価値が。
「あなたには、わからないでしょ……。人のことなんて、周りのことなんて、何にも気にしないで生きてる……孤高気取りの、あなたには……」
疲れのせいか、言わなくていいことを言った気がした。
だけど、後悔にエネルギーを使うことさえ、今の私にはもったいない。
私は水斗の横を通り抜け、階段を上がった。
勉強を、しないと。
「……確かに、な」
かすかな呟きを、背中で聞いた気がした。
そしてついに、中間テスト1日目がやってきた。
「筆箱は鞄に仕舞えよー」
裏返された問題用紙を前に、私は何度も口の中で覚えたことを呟く。
初日、1時間目、現代文。
私も読書家の端くれとして、決して苦手ではない。むしろ得意な部類に入ると思う。けれど――ことこの科目においては、異常に厄介な相手がいた。
私は後ろの席に意識を向ける。
そこには、私の義理の弟が座っている。
得意科目は現代文。
全国模試でも二桁順位――というのは大して勉強をしていなかった中学時代の話で、地獄の受験勉強を経た今なら平気で一桁を取ってくると思う。
この男の現代文の解答は、出題者の心を読んでるんじゃないかってくらい正確なのだ――しかも定期テストのさして広くない出題範囲が相手ならば、満点を取ってくる可能性さえあった。
この男を押さえて総合トップを取るには、現代文で点を離されないことが重要になる。
1点さえ、取り零すわけにはいかない……。
「――それでは、始めてください」
教師の声と同時に、紙を裏返す音が何十と重なった。
「……んんー……!」
テスト1日目の夜。問題用紙にメモした答えで自己採点をした私は、悔しさに顔をしかめる。
初日の教科は、すべて90点を超えていた。
けれど、現代文に関しては94点――もし水斗が100点を取ってきたとしたら、6点ものビハインドを背負う計算になる。
こんな簡単な漢字の書き間違いで、2点も逃すなんて……! 平均90点台が基本の争いで、6点も差をつけられたのはあまりに大きい……。
……それも、あの男が100点を取ったとしたら、の話だけど。
「……………………」
私はそろりと足音を忍ばせて、自分の部屋を出た。
1階のリビングを慎重に覗き込む。
水斗が、ソファーで本を読んでいた。
つまり……あの男の部屋は、今、無人……。
あの男も、問題用紙に自己採点用の答えをメモしているかもしれない。
それを見ることができれば、本当に満点を取っているかどうか、はっきりさせることができる……。
……ちょっとだけ気が咎めるけれど、別に、卑怯ではないわよね? あの男の点数がわかろうがわかるまいが、私の点数がどうこうなるわけではないもの。
でも、もし見つかったら、あの性悪男は難癖をつけてくるだろうから……こっそり、今のうちに、確認してしまおう。
私は2階に戻ると、水斗の部屋のドアを静かに開け、ノブを捻ったまま閉じた。
電気をつける。大量の本で雑然とした部屋が露わになる。
あの男が学校に行くときに使っている鞄は、ベッドの上に放り出されていた。
私は二度、三度とドアを振り向き、あの男が戻ってこないか確認してから、その鞄に手を伸ばす。
ファスナーを開くと、すぐに白い紙が見えた。
これだ。
いい加減に突っ込まれた数枚の問題用紙。……案の定、答えらしきものがメモされている。
ほんの少しだけ緊張しながら、私はそれを引っ張り出した。
……一番重要なのは、現代文だ。これが100点なのかどうかで、冗談じゃなく私が首席になれるかどうか変わってくる……。
一度ぎゅっと目を瞑り、胸の中で覚悟を固めてから、現代文の用紙を見た。
メモしてある答えを、持ってきた自分の答案と見比べる。
……憎たらしいくらい正確だ。私が間違えたところも、消しゴムの跡ひとつなくあっさりと正解していく。
一問の間違いもないまま、最後の大問に入った。
10点もの配点がある記述問題。時間配分を間違えると答えを書いている時間がなくなって、即座に1割も点数を取りこぼすといういやらしい問題だ。
部分点を取りこぼした可能性はあるけれど、一応、私のほうは正解している。あの男が回答時間に不自由するとも思えないし、これはやっぱり、100点か――どこか納得するような心持ちで問題用紙の左端を見て、
「……えっ?」
見間違いかと思った。
――答えが、ない。
最後の問題の答えだけ、書かれていない。
自己採点するまでもないからメモしなかった……? いや、違う。消しゴムで消した跡がある。一度は書いた答えを後で消したんだ。なんで……?
消し方は雑で、書いてあった文章がまだうっすらと読めた。私は目を細めて、その文章を読んだ。
正解だ。
正解の答えを、消している。
……間違いだと勘違いして消した? それで、新しい答えを書く時間がなくなって……? そんな馬鹿な! 私が答えられる程度の問題に、あいつが惑わされるはずがない!
だとしたら。
これは。
「…………わざ、と…………?」
わざと消した。
わざと空欄にした。
この不自然な答えの消し方は、そうとしか思えなかった……。
気付けば、問題用紙を握る手が震えていた。
頭の中に、煮えたぎるものが充ち満ちていく感触がした。
察したのだ。
気付いたのだ。
どうしてあの男がこんなことをしたのか――わかってしまったのだ。
――……大事よ……
――学年首席だったから、今の私があるんだもの……
私が。
私が、あんなことを、言ったから?
「……う。うううう……! ううううううっ……!!」
これっぽっちも、嬉しくない。
気付けば私は荒々しく部屋を飛び出し、足音高く階段を駆け下りていた。
リビングの引き戸を乱雑に開け放つと、ソファーに座っていたその男がびくりとして振り返った。
「なっ、なんだ、騒がし――」
「馬鹿にしないでよっっっ!!!!」
握り締めていた問題用紙を投げつける。
それを受け止めて確認すると、水斗はかすかに眉間にしわを寄せた。ばつ悪げな雰囲気を、私は確かに、そこに見た。
「席を譲ろうってわけ……!? そんなので私が喜ぶって思ったの!? ふざけないでよっ!! あんなに自信満々に挑発してきたくせに!! 普通にやったら私が負けるとでも言いたいのっ!? 馬鹿にするなあっっ!!!」
「ちょちょちょっ……何この声!? 結女!?」
お風呂に入っていたはずのお母さんの声が聞こえた。でも関係ない。私はソファーの水斗にずんずんと近付いた。
「自分を犠牲にしてカッコいいとでも思ってるのっ!? 全然カッコ良くないわよっ!! 私を馬鹿にしてるだけじゃない!! ナメてるだけじゃないっ!! こんなの私は望んでないっっっ――――!!!」
「ストップ! なんだかわかんないけどストーップ!!」
ぶん殴ってやろうと右手を振り上げたら、その腕を後ろから掴まれた。お母さんが背中から羽交い締めにしてくる。私は暴れたけど、抜け出すことはなかなかできなかった。
「ねえ、どうしたの!? 何があったの!? お母さんに説明して!? み、水斗くん、これ一体――」
「――……んだよ……」
「え?」
水斗が立ち上がった。
問題用紙をくしゃりと握り潰し、据わった目で私を睨みつけた。
「首席じゃないと困るんだろうが……。君がそう言ったんだろうが。だから譲ってやろうと思ったんだろうが!! それの何が悪いんだよッ!! 素直に受け取っとけばいいだろうがッ!!」
「え、ええーっ!? 水斗くんも!? み、峰秋さぁーんっ!! ちょっと来てーっ!!」
お母さんがどたどたとリビングを飛び出していくや、水斗は私に迫って強く肩を掴んだ。
「僕は首席なんざじゃなくても何にも困りやしない! 君の言う通りだよ、周りが自分をどう見るかなんてどうっっっっっだっていいからな!! だから譲ったんだろッ! おかしいか!? 僕の言うこと、何かひとつでもおかしいことがあるかよッ!!」
「……う、うううっ……!!」
ない。
おかしいことは何一つない。
利害をパズルのように一致させた、極めて合理的な判断だ。
だけど。
だけど。
「……おかしいよ……」
視界が歪む。
こんなのズルいってわかってるのに、頭の中を、胸の中を、暴れ狂う気持ちが言葉にならずに、雫になって目から溢れる。
「そんなの……伊理戸くんっぽく、ない……」
あのとき、悔しさを滲ませた――
あのとき、負けず嫌いを垣間見せた――
――通じ合えているような気がした、伊理戸水斗じゃない。
「…………どうして、君が……」
苛立たしげに何かを言いかけ、しかし飲み込んで、水斗は大きく溜め息をついた。
そして、いつもの何倍も荒い足取りで、私の横を通り過ぎる。
何の言葉もなかった。
ただ背中で、リビングのドアが開く音と、荒々しく階段を登る音を聞いた。
バタンッ!! と、激しくドアを閉める音が2階から聞こえる。
それから私も、フローリングの床を見つめたまま、リビングから出た。
「……ゆ、結女? だいじょうぶ~……?」
「どうしたんだい……? 喧嘩なんて珍しい……」
お母さんと峰秋おじさんが心配げに声をかけてくれたけれど、まともに答えを返すこともできなかった。
私は無言で階段を登って、自分の部屋に入る。
すると、糸が切れるように身体から力が抜けて、ベッドの上に倒れ込んだ。
……何を今更、期待してたんだろう。
私だけが通じ合えているなんて、わかり合えているなんて、そんなのは都合のいい妄想だったんだって、喧嘩をしてからの半年間で思い知ったはずでしょう?
この男だけは、対等に、等身大に、ありのままに私の前に立ってくれるだなんて――そんなこと、あると思っていたほうがおかしいのだ。
結局、私は、独り相撲だった。
「…………いいわよ、べつに」
これで、ライバルが一人減った。
それだけ。
それだけのこと。
喜んで然るべきことだ。
首席を守る。
そうしないと、私は私でいられない。
そうするものだと、みんなが思っているのだから。
テスト2日目。
昨夜はあのまま眠ってしまったので、勉強ができなかった。
だけど、これまでやってきた分がある。寝不足が解消されて、むしろ調子がいいくらいだった。
朝食の席では、一言も喋らなかった。
淡々とトーストを口に運ぶ私と水斗を、お母さんと峰秋おじさんが気遣わしげにちらちらと窺っていたけれど、さすがに昨日の今日で仲のいい振りをする気にはなれなかった。
「……ごちそうさま」
手早く朝食の後片付けをして、私はいつもより早めに玄関に向かう。
最大の敵は自ら脱落した。
そして、今日は得意科目の数学がある。
いつも通りの力を発揮すれば、学年トップは堅いはずだ――
玄関でローファーに履き替える。
『いってきます』と言おうとしたそのとき、別の声が不意に割り込んだ。
「――僕っぽさなんて、君に決められる義理はないよ」
心臓が跳ねる。
後ろを振り返る。
制服を着た水斗が、眠そうな目で私を見やっていた。
「同じように――君っぽさだって、誰に決められるものでもないだろ」
見透かされたような気がした。
私の心が、丸裸になるような心地がした。
私は咄嗟に、意味のある言葉を言えない。その間に、水斗はすたすたと歩いてきて、私の隣でスニーカーを履いた。
水斗は私に流し目を送りながら、玄関のノブに手をかける。
私はそのとき、ようやっと気が付いた。
水斗の目の下にうっすらと、隈ができていることに。
「――終わらせてやるよ、義妹。君の無様な高校デビューをな」
一方的にそう言い置いて、水斗は玄関扉の向こうに消える。
取り残された私には、何が何だかわからなかった。
ただひとつ、確かに言えることがあるとすれば。
「……姉だって言ってるでしょ、義弟」
あなたなんかに、私を決める権利なんか、ない。
教師の手によって、掲示板に大きな紙が貼り出される。
定期テストの総合順位は、上位50名までが公開される形式だ。1学年が大体200人ってところだから、上位25パーセントということになる。だから貼り出されること自体はさほど難しいことではなく、発表場所となった掲示板の周りは生徒でごった返していた。
その人だかりの最前列に、私はいる。
私が訪れるなり、人だかりが道を開けてくれたのだ。真っ先に順位を確認すべき人間だと、みんなから認識されていることの証左だった。
最大の障害だった水斗が自ら点を落とした以上、首席の座はほぼ間違いない。そう自負できるくらいの点数が、自己採点では取れている。あとは自分でも気付いていないケアレスミスがあったかどうか――
紙を貼り出した教師が掲示板の前からどき、ついに順位が露わになる。
瞬間――周りの生徒たちがざわめいた。
そして私は、喜びの声をあげかけた。
『1位』の横に、私の名前があったからだ。
……ただし、半分だけ。
『1位』の横にあったのは、私の苗字だけだった。
『1位 伊理戸水斗 767点』
『2位 伊理戸結女 764点』
貼り出された紙には、そう書いてあった。
何度見直しても、変わることはなかった。
ま……負け、た?
現代文でついた差を……他の教科で、引っ繰り返された……!?
「マジ?」
「伊理戸きょうだいワンツーフィニッシュかよ……」
「めっちゃ競ってるじゃん。すっげ」
「伊理戸さん、早くも次席に転落か……」
周囲の言葉は、不思議と耳に入らなかった。
それよりも私は、あの男の姿を探した。
右を見て、左を見て――そっと人だかりから離れていく背中を見つけ、
「ご、ごめんなさいっ! 通して!」
人だかりを掻き分けるようにして抜けて、しれっと立ち去ろうとする男の背中を、私は追いかけた。
肩を掴んで振り返らせる。
水斗の目が私を捉えた。
その唇には嫌味っぽい笑みがあった。
「よお、学年次席さんじゃないか。ご機嫌麗しゅう」
憎たらしい口振りには、今ばかりは付き合わない。
私は込み上げる疑問を、白々しい顔にそのまま叩きつける。
「なんで、あなた……! あんなハンデを背負って引っ繰り返そうとしたら、相当勉強しないといけないはず……。それも一夜漬けで……! そんなの――」
「――僕っぽくない、か?」
私は口を噤んだ。
それを見て、水斗はますます皮肉っぽく笑った。
「最初に言っただろ。座り心地が気になったんだよ」
「……え?」
「けど、失敗したよ。――ずいぶんと座り心地が悪いんだな、学年首席っていうのは」
…………あ。
まさか。
この男は。
「君が羨ましいよ――次席のほうが、よっぽど肩が軽そうだ」
そう言い捨てて、学年首席の肩書きを背負った義弟は、私に背を向ける。
「じゃあな。……もしまた欲しくなったら、期末テストで頑張ってくれ、優等生」
明確に嫌味で皮肉な、『優等生』。
けれど――その言葉が嫌味になること、それ自体が。
もうすでに、私の立場が変わったことを、意味しているのだ。
「――伊理戸さんっ、惜しかったねーっ!」
急に後ろから肩を掴まれて、私は驚きながら振り返った。
「あの点数でトップになれないのはしゃあない! 伊理戸くんが強かった!」
「上には上がいるんだなあ。わたしゃついていけないよ」
「言ってろ45位! わたしより上のくせに!」
「ね、伊理戸さん、今度は一緒に勉強しようよ! 次は50位入りたくなっちゃった!」
あ……あれ……? あれ……?
頭が混乱する。
想像していたものと違いすぎて。
恐れていたものと違いすぎて。
学年首席になれなかったら……どうなるん、だっけ……?
何も、変わらないじゃない。
掛けられる言葉も、表情も、……首席じゃなくなっても、何も、変わらない……。
ああ――ああ、そうか。
私、だったんだ。
誰よりも私を、学年首席という
――君っぽさだって、誰に決められるものでもないだろ
テスト2日目の朝に見た、目の下にうっすらと浮かんだ隈……。
あれは、きっと。
そのために。
このために。
「……あ……」
私は俯いて、顔を覆った。
周りの友達が、慌てた様子で私の背中をさすった。
「あー、泣かないで伊理戸さん!」
「2位もすごいって! 2位だよ2位!」
違うの。
泣いてるんじゃないの。
悔しいんじゃないの。
私だけじゃ――なかった。
独り相撲じゃ、なかった。
……なんで、わかるの?
なんで、通じるの?
勘違いだと思ったのに。妄想だと思ったのに。なんで、今更、今更……私、詳しく説明したことなんか、ないのに。
……こんなの、あなただけじゃない。
コミュ障で、口下手で、付け焼き刃の社交性しか持ってない私のこと、こんなに、こんなに、エスパーみたいに察せる変な人、あなたしかいないじゃない。
そんな風にされたら、私――
――どうやったら、あなたなしでも生きていけるようになるのか、わからなくなるじゃない。
ねえ。
どうしてくれるのよ。
ねえ。
ねえ。
※※※
中間テストが終わると、校内にも弛緩した空気が戻ってきた。
放課後、図書室に向かう道すがら、水斗はちらりと隣の私を窺ってくる。
「……なんで君がついてくるんだ?」
「べつにいいでしょ。テスト終わって読書解禁だから本が欲しいの」
「……あっそ」
もちろん、嘘だ。
本当は……その、謝っておきたくて、タイミングを窺っているだけだ。
水斗がわざとテストで間違えて、私が一方的に怒鳴りつけた件。なんとなく解決した風になっているけど、実は私も水斗も、まだ一言たりとも謝っていない――だったら先に謝ってしまったほうが、人間ができてるっぽくていいでしょう?
一緒に行動していればいずれその機もあるはずだ。ただそれだけで、べつに近くにいたいわけじゃない。
「……おっ、伊理戸きょうだいだ」
「え? 首席と次席の?」
「へー。あれが……」
テストの結果が貼り出されてからこっち、私たちが一緒にいると以前にも増して注目を浴びるようになった。
私としては慣れたものだけれど、水斗は非常に居心地が悪そうにしている。いい気味だ。私から首席を奪った報いを受けるがいい(負けたことについては、それはそれで普通に悔しかったのだ)。
図書室に到着すると、水斗は奥の本棚を指差した。
「ミステリはあの辺だ」
「ふうん。あっちの隅のほうは?」
「あっちはライトノベル。昔のから新しいのまで、結構品揃えいいぞ。……ついに興味が出たか?」
「まさか。ライトノベルってミステリがないじゃない」
「君、富士見ミステリー文庫のファンに殺されても知らんぞ」
ミステリ棚に向かう私と別れて、水斗は入口から見て対角の辺りにあるライトノベル棚に向かった。最近はライトノベルを読み漁るターンに入っているらしい。
私は本棚に並んだ背表紙を、左上から右下に向かって眺めていく。へえー。本当に結構品揃えいい。もうちょっと早く来てみればよかった。
読んだことのないタイトルを見つけて手に取りつつ、私は本棚の横から顔を出して、水斗が姿を消した図書室の隅っこを見やった。
……あの男が本を選んでいる間に、すれ違いざまにこそっと謝ってさっと去っていくというのはどうだろう?
あの男もあの朝は、わけがわかってない私を置き去りに言いたいことを言い捨てていったのだし、謝罪がちょっと通り魔的でも別にいいのではなかろうか。
妙案かもしれない。
よし、それでいこう。
本を手に持ったまま、私は水斗がライトノベルの棚だと言っていた本棚に近付く。この棚の向こうに水斗がいるはずだ。そう思って向こう側に回ろうとしたとき、
「――うおっと」
「――うあっ!」
小さな悲鳴が、本棚の向こう側から聞こえた。
続いて、ばたばたと本が床に落ちる音。
「悪い」と小さく謝る水斗の声。
……なに?
水斗が誰かとぶつかった?
なぜだか、胸騒ぎがした。
なんだろう、これは。
まるで、ひどく昔に、似たようなものを見たことがあるかのような――
私は少し急ぎ足になって、本棚の向こうを覗き込んだ。
床に、華やかな表紙の文庫本が散らばっている。
それを、女の子が慌てた様子で掻き集めていた。
地味な雰囲気の、女の子だった。
一瞬、前に――水族館デートの直前くらいに水斗と一緒にいるのを見た女子かと思った。けど、すぐに違うとわかった。
髪はお下げじゃなくてショートボブだし、寝癖がそのままなのか、ところどころが跳ねている。背丈もあのときの女子より15センチは高く、きっと暁月さんが見たら羨ましがるだろうと思った。
何よりも、私が一目見て『違う』と思ったのは、何冊かの文庫本をまるで埋めるようにして抱え込んでいる、その胸だ。
……お、おっきい……。
制服くらいじゃ全然隠しきれない。
暁月さんはよく私の胸を目の敵にするけれど、あれの前じゃあ、私なんてとても巨乳を名乗れはしない。F……? もしかしたらGくらいあるかも……。
私が、それこそライトノベルの表紙くらいでしか見たことのない巨乳に本能的な恐れを覚えているうちに、水斗が床に散らばった文庫本を1冊、拾い上げた。
「……あっ……」
女の子がかすかに怯えたような声を漏らし、ちらと水斗を見上げて、すぐに俯く。
恥ずかしいのだろう。まあ、そうよね。自分の嗜好を知られるのって、なんとなく恥ずかしいものだし――
「――このシリーズ」
えっ、と女の子が顔を上げた。
えっ、と私も水斗を見やった。
何の打算も計算もなく。
ただ同好の士を見つけたオタクの顔で。
――伊理戸水斗は言った。
「君も、好きなのか?」
――こうして、私は目撃してしまったのだ。
神様のトラップが、私以外に発動する、その瞬間を。
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