元カップルはもたれ合う。「私、もう、ここにいるから」


 今にして思ってみれば若気の至りとしか言いようがないけれど、私には中学2年から中学3年にかけて、いわゆる彼氏というものが存在したことがある。

 切っ掛けは本だった。学校の図書室で、チビぶりが祟って取りたい本を取れないでいたときに、手を差し伸べてもらった――そんなベッタベタな切っ掛けで私たちは出会い、趣味を通じて意気投合した。


 とはいえ。

 実のところ、私たちの趣味は微妙に食い違っていた。私は本格ミステリ専門で、あの男はジャンル問わずの濫読派。中学生という生き物は自分がいいと思うもの以外はおしなべてクズだと思っているので(偏見)、あの男の読書傾向は私の目には節操のないものに見えていた。

 それなのに、横溝正史作品よりもダークだった当時の私をして、時代錯誤なラブレターをしたためさせるに至ったのは、趣味以外の部分で共感するところが、業腹ながらも存在したからだった。


 私とあの男の、趣味以外の共通点。

 今の冗談のような状況に追い込まれる一因ともなったそれ。

 すなわち――親が片方しかいないこと。


 ――寂しいって……思わないの?


 いつのことだか忘れたけれど、いつかに私はそう訊いた。


 ――寂しい、っていうのがどういうことなのか、よくわからない。


 対して、あの男はそう答えた。今にして考えると何とも痛々しい、中学生然とした答えだったけれど、その横顔は、表情は、少しの嘘もない表情だった。

 

 何も、何とも思わない。

 寂しいと感じることさえできないことに、行き場のないもどかしさを抱えているような――それは、なのだった。


 その横顔が、私の胸に、強烈に焼きついてしまったのだ。


 傷口に触れたのだ、と思う。

 私自身の、実の父親という名の傷口に、その横顔が触れたのだ。傷口に薬がよく染みるように、心が敏感に反応したのだ。


 あの男の実の母親について、詳しく聞いたことはない。

 どうしてあの男があんな捻くれた人間に育ったのか、私は知らない。

 だけど、お母さんたちが再婚して今の家に引っ越してきたとき、私は一度だけに座った。


 1階の隅。

 普段はほとんど誰も立ち入らない、畳の和室。

 その奥にひっそりと佇んだ――仏壇の前に。




※※※




 5月の第二日曜日。

 世の男子高校生の多くは、なんとこの日の意味を知らないらしい。

 私にとっては、一年のうち一、二を争うほどに大切な日だった。以前はぶっちぎりの一番だった8月末日――すなわち『伊理戸くんの彼女になれた記念日』はめでたく廃止となったため、今は押しも押されぬ第一位かもしれなかった。


 母の日である。


「……ちょっと」


 ゴールデンウィークが終わってから初めての土曜日。日課の勉強を終えて1階に降りると、義弟がのんきにリビングのソファーに寝転がって本を読んでいたので、私は冷たい声で話しかけた。

 水斗は本から目を離さないまま、鬱陶しげに答える。


「あー? なんだ? 今度は何をやらかした?」

「やらかしたの前提にしないでくれる!?」


 っていうか、当のこの男もそこそこやらかしたことあるでしょうが!


「……そうじゃなくて、あなた、ちゃんと用意してるの? もう明日だけど」

「は? 何を?」

「プレゼント! 母の日の!」


 ソファーの背もたれから覗き込みながら言うと、義弟はぱちぱちと目を瞬いた。


「ハハノヒ……母の日……?」


 本を閉じて、テーブルの上に放置されていたスマホを手に取ると、何かついついと調べ始める。


「5月の第二日曜日……日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日……。そういえばどっかで聞いたことある」

「……本気で言ってるの?」

「長らく母親がいなかったから仕方ないな」

「じゃあ父の日はいつか知ってる?」

「…………ええと」


 すいっと目が逸らされた。この男、家族含めて人間に興味がなさすぎる。どういう奇跡が起こったらこんなのに彼女ができるわけ? ねえ聞いてる? 中学生の私?


「ま、まあ、こういうのって男は何もやんないのが普通だと思うし。うん。そういうことで」

「ダメ」


 水斗が再び手に取ろうとした本を、私はするりと奪い取った。


「私の目が黒いうちは、母の日を無視しようなんて許さないわ」

「母の日警察とは面妖な奴だな……。ノックス十戒警察と兼任か?」

「その話は二度とするなっ……!」


 ノックスの十戒に反する推理小説を片っ端から貶していたイタい女はもう死んだのだ。


「……とにかく、母の日のプレゼントはまったく用意してないってことね?」

「プレゼントとかよくわからん」

「へえ? 彼女へのクリスマスプレゼントは真夜中に押しかけてまで渡すのに?」

「……その話は二度とするな」


 じろりと睨まれて、私はにやにやと笑った。お互い、黒歴史の引き出しならいくらでもある。

 水斗は溜め息をつくと、ようやく上体を起こした。背もたれから覗き込んでいた私にその頭が当たりそうになった。


「要点を言え。つまり、僕にどうしてほしいんだ、君は?」

「どうせ放っておいても用意しないんでしょ。だったら買いに行くわよ、今から」

「は?」


 珍獣を見るような目がこちらに向けられる。失礼ね。


「……君と? 僕が? 一緒に?」

「そう。私はあなたを監視できるし、お母さんたちへの仲良しアピールにもなるし、私と連名のプレゼントにすれば恥ずかしくもないし、ついでに値段も半分になるし」

「おい。最後のが本命だろ」

「プレゼントは値段じゃなくて気持ちだから」


 実は、学校の友達と遊ぶようになったことで、以前より懐の状況が厳しい。

 はあ、と水斗は息をつく。溜め息の数だけ幸せが逃げる、というのが本当ならば、この男は今ごろ交通事故で死んでいるだろう。


「……このまま粘着されるほうが迷惑だな」

「人をストーカーみたいに言わないでくれる?」

「人をオタク呼ばわりしてくる奴よりはマシだ」

「本当のことじゃない」

「こっちも本当のことだろ」


 私がいつストーカーみたいなことを――ことを……ことを……ことを…………うん、ノーコメント。

 よっと、と水斗はソファーから立ち上がった。


「どうせ行くんならちゃっちゃと済ませよう。駅前のショッピングモールでいいか」

「え? いや、ちょっと待った!」

「あん?」

「……そのまま外に出るつもり?」


 水斗は怪訝そうに自分の姿を見下ろす。

 起きたままのスウェット姿だった。

 クソオタクは首を傾げる。


「……ダメか?」

「当たり前でしょ!!」






 着替えさせ、寝癖も直させ、私たちはようやく外に出た。

 もしかすると水族館に行ったときのあのスタイルになるのかと思ったけど、水斗が着てきたのは普通のシャツに普通のベストと普通のチノパンを合わせた普通の格好だった。

 まあ、あんまり気合いの入った格好をされてもデートだと思われてアレだし、こんなものだろう。……残念がってなんかないから。


 対する私のほうは、今日も今日とて完全武装。というか、そもそも勝負服とそれ以外の区別がまだあんまりついていない私なのである。気温が高くなってきたのもあって、ワンピース、カーディガン、そして鍔広帽の、避暑地のお嬢様風三点セットで玄関を出る。


「お待たせ」

「……………………」


 先に外で待っていた水斗は、私の姿を無言でじっと見た。……無表情で、瞳も微動だにしないけど、これは。

 私はからかうような響きを込めて、くすっと笑う。


「もしかして、琴線に触れたかしら?」

「……んなわけないだろ」


 ふいっと顔を背けて、拗ねたように言う水斗。さっさと歩き出してしまったので、私はしつこくくすくす笑いながら隣に並んだ。

 前のときはこの男もものすごい気合いの入れようだったから調子が狂ったけど、今回は私のワンサイドゲームで終わりそうだった。非常によろしい。


「駅前ならいつも自転車で行ってるけど、今日はどうする?」

「スカートで自転車なんか乗れるわけないでしょ? バカなの?」

「だからどうするかって聞いてるんだよ。文脈を読め」

「電車に乗ればいいじゃない、駅前なんだから。バカなの?」

「斬新な語尾だな。殴っていいか」


 武力行使を危惧してちょっと距離を取りつつ、最寄り駅へ。

 私たちが『駅前』と呼んでいるのは、この辺りの路線が集中するターミナル駅の周辺のことだ。

 学生に限らず老若男女、欲しいものがあればとりあえず駅前に行けば見つかると言われているほど、いろんなお店で栄えている地区。図書館だってあるし。

 そこへは当然、最寄り駅から電車で行くのが最短だ。高校生の私たちにとっては、ほんの200円程度の運賃でも充分な痛手なので、自転車なり徒歩なりで節約することもあるけれど。

 水斗が切符を買うのを待って、私はICカードで改札を抜けた。


「なんでカード持ってないの?」

「チャージするだけして使わなかったら無駄遣いも同然だろ」


 尤もだ。電車通学でもないし、ICカードの中身を使う機会がないのだろう。私は結構あるけど。

 ホームには人がひしめいていた。ちょっと進むのにも人垣を縫うようにしなきゃいけない。人でできた迷路のような有様を前に水斗が呻いた。


「人が多いな……」

「あなたは引きこもってるから知らないだろうけど、休日は人が多いものなのよ?」

「知ってるから引きこもってるんだよ……」


 げんなりとした声で水斗は言った。人混み嫌いは相変わらずだ。まあ好きな人なんていないと思うけど。

 私はだいぶ元気がなくなった義弟の肘を掴んで、ぐいっと引いた。


「ほら、しっかりついてきて。はぐれないでよ?」

「そうなったら僕は帰る」


 水斗を引っ張るようにしてホームを移動し、列に並ぶ。なんだか本当に弟の面倒を見てる気分になってきた。どうせならもっとちっちゃくて可愛くて素直な弟がよかった。

 やがて電車がやってくると、「うげえ」と水斗が吐きそうな声を出す。


「あれに乗るのかよ……。一本ずらさないか?」

「何本ずらしたって同じよ、どうせ」


 電車の中には、吊革を掴んでいる人がたくさんいる。あそこにさらに私たちが乗り込めば、立派な満員電車の完成だ。

 とはいえ、ここらの満員電車は噂に聞く東京のそれよりは全然マシだと思う。他の人と身体が触れるほどじゃないし、ただ一歩も動けないだけだ。それでも、この男にとっては絶望的なものらしかった。東京で電車乗ったら死にそう、こいつ。


 降りる人を待ってから、列となって乗り込んでいく。最後尾だったので、水斗が乗ったところでドアが閉まった。

 電車がゆっくりと加速し、ちょっとだけ足元がふらつく。

 そのときだった。


「……おい」

「んえっ?」


 間抜けな声を漏らしたのは、後ろから強めに腕を引っ張られたからだった。

 背中がドアにぶつかる。

 なんなのよ、もう!

 ちょっと怒りを込めて顔を上げると、瞬間、私は息を詰めてしまった。


 私と位置を入れ替わった水斗が、ドアに手を突いて身体を支えながら、間近から私を見下ろしている。

 男にしては細い首筋と、けれどはっきりとその存在を主張する喉仏とが、すぐ目の前にあった。一定間隔の呼吸が、まるで耳元で囁かれているように近く感じる。

 そして、さっきまでは人混みに辟易するばかりだった瞳が、少し怒ったような輝きを帯びて私の目を見つめているのだ。

 客観的に見ると。

 私は、水斗に、いわゆる壁ドンをされているような格好だった。


「……君だろ、ドア側は。普通に考えて」


 ぶっきらぼうなその言葉で、私はこの行動の意図を知る。

 ……もしかして、痴漢を心配した?

 へえ……。ふう~ん?

 私は口の端を吊り上げて、ちょっと上目遣いに義弟の目を見つめ返す。


「守ってくれるんだ?」

「そりゃあ」


 対抗するように、水斗は皮肉っぽく唇を歪めた。


「兄は、妹を守るものだからな」


 一瞬、予想した台詞と微妙に違っていて、私は思わず唇を尖らせる。


「……誰が妹よ。早く生まれたのは私だって言ってるでしょ!」

「誕生時の話をするなら、古来、日本では長年に渡って、双子は後から生まれたほうが長子だとされて――うおっと!」

「ひゃっ……!?」


 電車がカーブに入って、乗客全体が横に揺れる。

 水斗がバランスを崩して、ふらついて――気付いたら、私はその肩に顔をうずめるような形で、ドアに押しつけられていた。


「……わ、悪い……」


 右耳を声がくすぐる。

 私も中学の頃に比べれば背が伸びたとはいえ、成長期を終えた男であるところの彼には全然及ばない。ちょうど私の額に彼の唇が来るくらいの身長差で、だから、こうなってしまうと、私はその、すっかり覆い被されて、自分の華奢さを思い知るというか、うううう……。


「とりあえず、離れるぞ」

「――あ、ちょ、ストップ……!」


 水斗が身を離そうとしたので、私は慌てて彼のシャツを掴んだ。

 もうちょっとこうしてたい――というわけでは当然なく。

 ……今、離れられたら、この顔を見られてしまう。


「ど……どうせ、揺れるたびにこうなるんでしょ、もやしなんだから」


 もちろん正直に言えるはずもなく、私はとっさにそれらしい理由を捻り出した。


「自分の楽な姿勢でいればいいでしょ。……降りるの、すぐだし」

「……わかった」


 耳に声と息がかかり、それっきり、私たちは黙り込んだ。

 目的の駅に着くまで、電車はカーブしなかった。






 で電車を降りると、外に出るため複雑な構内を歩いた。


「駅ってやつは、どうしてこういちいち迷路みたいになってるんだ……」

「近所でしょ、わりと。どれだけ駅来たことないの」

「前に来たのは何ヶ月前だったかな……」


 つくづく家と学校と図書館と本屋(と小説の世界)で生活が完結している男である。……まあ、私もちょっと前まではそうだったんだけどね。

 階段を降りたり上ったりを何度か繰り返して外に出る。目的のショッピングモールは目と鼻の先だ。二車線の道路を渡らなきゃいけないから、横断歩道で信号が変わるのを待つ。


「プレゼントって言うけどさ」


 隣に立つ男が何の枕もなく切り出した。


「何を買うんだ? 当てはあるんだろ」

「一応、いつもはカーネーションを買ってるけど。王道だし」

「ふうん。じゃあそれでいいな」

「……何にも考えてないじゃない。それじゃああなたが私の買い物にお金出しただけになるわよ?」

「それは嫌だな……」


 本気で顔をしかめながら、水斗はスマホを取り出す。


「『母の日 プレゼント』……」

「いきなり検索サイト頼り?」

「リサーチだよ。君のカーネーションだって、どうせ調べて決めたんだろ?」

「……………………」


 私はむっつりと黙り込んだ。その通りだけど、『どうせ』と付けられたのが何だかムカつく。

 信号を待つわずかな間に、水斗の指がついついとスマホ画面を滑る。


「ふうん。やっぱりフラワーギフトがスタンダードか……。うわっ、結構するんだな。文庫本が6冊は買える……」

「なんでもかんでも文庫本換算にするのやめなさいよ」

「まあ、しばらく学校の図書室を使えばそのくらいは節約できるか」


『しばらく昼食を抜けば』みたいなノリで話す水斗。この男にとって読書は食事に近いものらしい。


「他には、スイーツに食事券や旅行券……形に残らないものってのは後腐れがなくて悪くないな」

「まったくもってその通りね」


 思いっきり形に残ってしまったプレゼントのことを思い浮かべて強く同意しつつ、


「……でも、せっかく最初のプレゼントなんだから、形に残るものもあったほうが喜ぶかもね、お母さん」

「そういう人なのか、由仁さんは」

「うん」


 私が中学1年生のときに、初めて母の日のプレゼントを贈ったとき、お母さんは子供みたいに泣いて喜んだものだ。私のほうがちょっと恥ずかしくなった。

 信号が変わる。水斗がスマホをポケットに仕舞い、私たちは横断歩道を歩いた。


「ううーん……。なら、二つ用意するか」

「二つ?」

「形に残るものと、残らないもの」


 道路を渡りきると、迷わずショッピングモールの方向に足を向けながら、水斗は何かを思い出すように空を仰ぐ。


「残るもののほうは、王道のカーネーションでいいだろ。でもまあ、せっかく二人いて予算も増えたことだし、グレードをひとつ上げる感じで」

「……ん……。あなたにしては、妥当な選択ね」

「素直に褒めろよ。ショッピングモールを歩き回りながらあれでもないこれでもないって悩む羽目にならずに済んだんだから」

「…………まあね」


 知らず知らずのうちに、少しだけ声が尖る。なんというか、言葉にしにくいけれど、合理的に論理的にサクッと決められてしまったことに、反感を覚えている私がいた。……私へのプレゼントも、こうやって決めてたのかな。

 それを気取られたくなくて、私は言葉を継ぐ。


「形に残らないもののほうは?」

「そっちは、なんとも難しくてな――」


 目的地が見える。

 近代的に磨き上げられた4階建ての建物。休日とあって、大勢の人の喧噪がかすかに感じられる。人の流れに乗るようにしてその入口に向かいながら、水斗は言った。


「――ショッピングモールを歩き回りながら、あれでもないこれでもないって悩むしかないな」






 吹き抜け4階建てのモールを、私たちは1階から順番に巡っていく。


「あ。本屋」

「ストップ! そこ入ったら時間も予算も全部なくなるでしょ!」


 エサを見つけたアリのように本屋に吸い込まれようとした水斗を押し留めつつ、私たちは軒を連ねるお店を巡回した。


「いつもは本屋に直行だから、別の店に入るのは新鮮だな」


 よく整頓されたガラクタ置き場といった雰囲気の雑貨店で、サブカル臭満載な極彩色の商品棚を眺めながら、義弟は言う。


「見ろよこれ。和式便器型の皿だって。これ作った奴、人類から食欲を奪って絶滅させようとしてるんじゃないか?」

「……そんなのお母さんに贈ったら一生口利かないから」

「べつにプレゼントを探してるんじゃないぞ。形に残るプレゼントはカーネーションにしようって言っただろ」

「じゃあ何を探してるの?」

「アイデアだな。強いて言えば」

「アイデア?」


 私が首を傾げると、水斗はうなずいて、あっさりと雑貨店を出た。

 人混みをするすると避けるようにして歩きながら、水斗は言う。


「少し前から思ってたことがあってさ。……由仁さんも、うちの父さんも、再婚してからこっち、ずっと僕らのことを気にしてるように思うんだよな」

「……そう、ね。お母さんも、再婚して以降は、帰ってくるの前より早くなった気がするし」

「うちの父さんもそうだ。やっぱりさ、一応は年頃の男女を同じ家で住まわせるってことに、真っ当な抵抗があったんだろうな。特に由仁さんのほうだ。女手一つで大切に育ててきた娘を、同い年の男がいる家に住まわせたいと思うか、普通?」

「…………絶対嫌ね、私なら」

「だろ?」


 実際、私も同居が決まる前に確認はされたのだ。

 相手にも息子さんがいるんだけど大丈夫? と。

 まさか同い年の男だとは思わなかったし、ましてやこの男だなんて夢にも思わなかったけど、もし息子さんとやらが中学生以上だったら同居なんて絶対に嫌だ、というのが正直な私の気持ちだった。

 当時はこの男と別れたばかりだったのだ。そんなタイミングで他の男と同じ屋根の下で暮らせるものか。

 けど、私が嫌だと言えば、お母さんも峰秋おじさんと別居するか、もしくは再婚自体やめてしまっていただろう。だから私はその場では口を濁し、とりあえず会ってみてから決める、という運びになったのだ。


 そしたらこの男が来たので、私は我慢することにした。

 この男だったら、精神的にはともかく身体的には危険がない、と知っていたからだった。

 ……だけど、当然ながらお母さんはそんなこと知らない。峰秋おじさんに免じて信用しているんだろうけど、私のことを気に掛けてくれているのは間違いなかった。実際この前、一度疑われたし。


「その辺は実のところ、僕らが行動をもって晴らしていくしかない疑惑だ。一朝一夕でどうにかなるもんじゃない」

「ええ、そうね。深夜に部屋を訪ねてくるとか、もうやめてよね」

「その台詞はそっくりそのまま返す。……そうだな、どうしても連絡したいことがあればスマホを使え」


 私が顔をじっと見上げると、水斗は怪訝そうに見つめ返してくる。


「どうした? 何か不都合でもあるか?」

「…………。ううん。べつに」


 夜に、部屋で、隠れてスマホで話すって……それ、付き合ってた頃と変わらなくない?

 ――なんてことを言ったら、きっと言葉尻を曲解していじってくるに違いない。


「それはそれとして、だ」


 気付いてもいないのか、水斗は話を進める。


「父さんと由仁さんが僕たちのことばっかり気にしてるっていうのが……なんていうか、残念なんだよな」

「残念?」

「せっかく結婚したんだから、少しくらいそれを謳歌してもいいのに、ってことだよ」

「……そっか」


 お母さんも峰秋おじさんも、一応は新婚なのだ。

 でも私たちがいるから、自分たちのことにばかりかまけていられない。それは、確かに……心苦しい。


「だからさ」


 ポケットに手を突っ込んで歩きながら、水斗は落ち着いた声で言う。


「僕らから贈れるものの中で最大のプレゼントは、――父さんと由仁さんの、夫婦としての時間。それなんじゃないか」


 その横顔には、少しの冗談も格好つけもなく、ただ当たり前のことをそのままに語る真摯さだけがあった。

 ……この男が、そんなことを言うなんて。

 寂しいということがどういうものなのかわからない――そんな風に言った、彼が……。


「……まあ、問題は、その具体的な手段が思いつかないことなんだけどな。食事券や旅行券をプレゼントできたら手っ取り早かったんだが、父さんたちの仕事の都合もあるし、僕らの小遣いで買える券なんてたかが知れてるしなあ……」

「……それで、アイデア探し?」

「そういうことだ。普段歩かない場所を歩いて、普段見ないものを見ていたら、普段思いつかないことを思いつくんじゃないかと思って」


 この男は一体、どれほどの思考をしながら生きているのだろう。

 私が言うまで母の日のことなんか忘れていたくせに、この短時間であっという間に、私よりずっと深いところまで考えている。


 その思考量は、たぶん。

 他の誰かに、代わりに考えてもらえなかったから。

 自分の外に、頭のリソースを割り振ることができなかったから。

 傷口が、染みた。

 そして、まるでかさぶたのように、ひとつの答えがぽろりと剥がれ落ちた。

 


「……発想を、逆にすればいいんじゃない?」


 独り言めいた調子で言った言葉に、水斗の目が引き寄せられた。


「要するに、お母さんたちを二人きりにすればいいんなら、二人をどこかに行かせるんじゃなくて――」


 ちょうどその瞬間だった。

 の看板が目に入り、私たちは足を止めた。

 まるで図ったかのようなタイミングだったけど、まったくの偶然。

 普段歩かない場所を歩き、普段見ないものを見て――私たちは見事、普段思いつかないことを思いついてしまった。


「……なるほど」


 何かに納得しながら、水斗はスマホの時計を見た。


「今日――は、さすがに急すぎるから、来週の土日が妥当か……」

「え……? ちょ、ちょっと待って。本気!?」

「君が出した案だろ」

「い、いやいや、私はただ、そういう考え方もあるって言いたかっただけで……!」

「代案があるなら喜んで聞く」

「……ぁ……ぅ……」


 思いつかなかった。

 私の頭の中は空回りするばかりで、この男が納得しそうな妙案なんて、これっぽっちも浮かびそうにもなかった。

 だって、だって……。

 まさか、この男が、自分のお父さんのためでもあるとはいえ、そんなことを言い出すなんて……!


 私は今一度、ショッピングモールの一隅に構える、そのお店の看板を見上げる。

 でかでかと主張してあるのは、『インターネット』『コミック』といった文字。

 ちょっとアングラな雰囲気に感じてしまうのはたぶん私の勝手なイメージだろう。お金のない人がときに使うこともあると、私は知識として知っていた。


 私たちの前にあるのは――の看板だった。







「――お母さん、いつもありがとう。これ、母の日のプレゼント……私と、水斗くんから」


 翌日、日曜日――昼下がりのリビングで。

 私は例年お決まりの台詞と一緒に、昨日買ってきたカーネーションの鉢植えをお母さんに手渡した。

 薄いピンクのラッピングで花束のようになったそれを受け取りながら、お母さんはぱちくりと目を瞬いて、私の隣に立つ水斗を見る。


「え……? 水斗くんからも?」


 当の本人はそっぽを向いていた。……こいつ、照れてるな?

 私は義弟の脇腹を肘で小突いて、ちゃんとやれと言外に促す。

 水斗は結局、お母さんに目を合わせないまま、もごもごと聞き取りにくい声で言った。


「一応……弁当を作ってもらったり、いろいろとお世話になってるので……日頃の感謝の気持ちというか……はい、そんな感じです」


 この男、普通に『ありがとう』と言えないのだろうか。こんなときでさえどこか理屈っぽい。

 だけどお母さんには、それで充分なようだった。


 お母さんの両目から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちたのだ。


「えっ……あ、あの、由仁さん?」


 水斗はぎょっとして、おろおろと狼狽える。

 私は……こうなるんじゃないかと思っていた。

 お母さん、こんなに大きな娘がいる割に、子供みたいに涙もろいから。


「ぅぐっ……ぅぇっ……ぅあぁあっ……! こぢらこそっ……こぢらごぞ、ありがとぉおおおおおぉぉ……!!」


 お母さんは顔をぐちゃぐちゃにして、鉢植えを抱えてないほうの腕で水斗を抱き締めた。水斗のほうは、どうやらまだ戸惑っているみたいだけど、黙ってその抱擁を受け入れた。


 お母さんは今まで、一度だって水斗に『お母さん』と呼ぶように求めたことはなかった。水斗のほうは他人との距離感に無頓着だから気にしてもいないみたいだったけど、お母さんのほうはきっと、ちゃんと水斗に認められているかどうか、不安に思っていたんだろう。……何せ、そこで一度失敗しているから。

 それがわかっていたのもあって、私は水斗に、どうしても母の日のプレゼントを贈らせたかったのだ。


「結女もありがとぉおおおお!!」


 ひとしきり水斗を抱き締めた後、間髪入れずにこっちにも来た。


「ごめん、お母さん。服は汚さないでね」

「わがったぁあああぁ!!」


 涙や鼻水を私の服に付けないように、お母さんは背伸びして、私の肩に顎を置く形で抱きついてくる。私は少しだけ腰を屈めなければならなかった。中学生の頃の成長期で、お母さんの身長はとっくに抜いてしまっていた。それがわかったときは、『わたしの娘なのにズルい!』なんて言って拗ねてたっけ……。


「いい子だよぉお! ゆめもみずとくんもいいこだよおぉぉ……!!」

「うん、うん」


 私はお母さんの背中を優しく叩いてあやすようにする。これじゃあどっちが娘なんだかわからない。


「……………………」


 そんな私たちを、水斗はいつか見たを秘めた目で眺めていた。






 私たちにひとしきり泣きつき終わったお母さんは、今度は「峰秋ざぁあああん!!」と叫びながら、少し離れたところにいた峰秋おじさんのところに飛んでいった。峰秋おじさんは優しい苦笑を浮かべながら、さっき私がやったみたいにお母さんをあやした。

 ――ああ。今度はきっと、大丈夫だなあ。

 私がそんなことを思っているうちに、視界の端で、水斗がこっそりとリビングを出ていくのが見えた。


「…………?」


 私は不思議に思って、お母さんたちをリビングに残して、それを追う。

 廊下に、水斗の姿はなかった。

 その代わりに、奥まったところにある襖が、開いているのがわかった。


 私は、なんとなく足音を殺しながら、開いた襖に近付く。

 チーン、と音がした。

 軽く、しかし長く。自分の心を――思い出を顧みる時間を与えるかのように響くその音を、私は知っていた。

 私も、一度だけ、鳴らしたことがある。

 この和室の、仏壇で。


 そっと、開いた襖を覗き込んだ。

 電気もつけないまま、畳の上で行儀よく正座をしている背中があった。

 その正面には、こじんまりとした仏壇がひとつ。

 薄暗くてよくは見えないけど……その仏壇には、20代くらいの女の人の写真が置かれている。


 伊理戸いりど河奈かな


 ……という、名前だったらしい。

 それは――伊理戸水斗の、産みの母の仏壇だった。


 水斗は10秒以上の間、無言で手を合わせていた。

 やがて顔を上げて、しばらくの間、写真を――遺影を見つめた後、立ち上がりながら振り返って、戸口に立つ私に気付いた。


「……覗き見か?」


 特に何の感情も浮いていない、の表情のまま、水斗は私に批難の視線を寄越す。

 私はそれをスルーして、和室の中に入った。

 畳を歩いて仏壇の前に正座すると、小さな棒を摘まんで、金色のりんを軽く叩く。

 チーン……――と、長く音が響いた。

 私は手を合わせて、しばらく、瞼を閉じた。


 それを終えて顔を上げると、一度は立ち上がったはずの水斗が、私の隣で胡坐をかいていた。

 の顔のまま、無言。

 ひたすら仏壇を見つめるばかりなので、私のほうが、控えめに口を開ける。


「……覚えて、ないんだっけ?」


 主語も目的語も欠いた質問に、水斗はすぐに答える。


「もともと、身体が弱かったらしい」


 答えのほうも言葉少なだったけど、私はそれで察した。

 出産での体力消耗が響いた、ということなんだろう。

 それで……彼が物心つく前に、帰らぬ人になってしまった。


「顔も、この写真くらいでしか知らない。どんな風に喋るのか、何が好きで何が嫌いだったのか、どれもまったく知らない。父さんもあんまり話さないし。――ただ、、という名前がある。確かなことは、それだけだ」


 斗。

 そして、奈……か。


 もう1ヶ月以上も前のこと。この家に引っ越してきた日に、私とお母さんが真っ先にやってきたのは、リビングでもなければ割り振られた自室でもなく、この和室だった。

 私とお母さんはこの仏壇の前に座り、手を合わせて、挨拶をしたのだ。

 深々と頭を下げて、お母さんは言った。


 ――ごめんなさい。そしてどうか、よろしくお願いします。


 この家には、まだこの人のが残っている。それがわかっていたから、お母さんはああして謝った。許しを請い、頭を下げた。

 その場には水斗もいて、そのときも、彼はの顔をしていた。


 彼の名前には、母親の存在が刻まれている。

 だから峰秋おじさんも、そしてお母さんも、そこに彼女の名残りを認めている。


 だけど水斗自身には、何もないのだ。


 思い出もない。記憶もない。知識さえもろくにない。

 なのに、を押しつけられて、そんなの、どうすることもできないに決まっている。

 どう思うこともできないに決まっている。

 ただを返す以外に、何ができるっていうんだろう?


 その答えを、彼は誰にも教えてもらったことがないのだ。

 それゆえの――表情。


「…………ねえ」

「ん? ――って、え?」


 水斗が当惑した声を漏らす。

 理由は明白だった。

 私が――とん、と。

 身体を傾けて、軽く肩を触れ合わせたからだった。


「私、もう、ここにいるから」


 私という存在を刻むように、体重を預けていく。


「もしいなくなったら、それは、ってことだから」


 最初からないのではなく。

 あったものが失われるということだから。


 ――よくわからない、なんて、もう言えないはずだから。


 カチ、カチ、カチ、とどこかから時計の音が聞こえてくる。

 薄暗い和室の中で、私は半分だけ体重を預ける。

 やがて、どうやったって無視できないほど近くで、降参したような声がした。


「……一度は、いなくなって清々したはずなんだけどな」


 ちょっとだけ、肩が押し返される。


「まあ、毒を食らわば皿までってやつか」

「誰が毒よ」

「ふふ」


 互いにもたれ合いながら、伊理戸水斗はほのかに




※※※




 こうして、母の日のプレゼントは表向き、首尾よく渡すことができた。

 だけど、まだが残っている。


「ねえ。、本当にやるの?」


 お母さんたちはまだリビングでイチャついているようなので、薄暗い和室に籠もったままだ。

 肩はとっくに離して、きょうだいとして適切な距離感に戻っている。


「当たり前だろ。修学旅行でもあればよかったが、まだまだ先みたいだしな。それに、学校行事に頼ってるようじゃ再現性がない」

「再現性――って、な、何回もやるつもりなの!?」

「父さんたちが僕らに遠慮なく過ごせる機会は定期的にあっていいだろ。それには、僕らが家からいなくなればいい」


 そう。それが、私たちが思いついてしまったこと。

 私たちが一時的に家からいなくなれば。

 外泊をすれば。

 お母さんたちは、夫婦としての時間を過ごせるはずなのだ。


「まあ少しの辛抱だ。そのうち僕らが信用されたら、二人で外食でも行ってこいって言うだけで充分になるんだから」

「それは、まあ、そうかも、しれないけど……」

「歯切れが悪いな。何か問題があるのか?」

「もっ、問題だらけでしょっ!? もう何でもないとはいえ、ほら、い、一応は男女が……狭い、ネットカフェで……一晩も……」

「――はあ?」


 薄暗い部屋の中で、水斗の顔が怪訝そうに歪んだ。


「もしかして君、ネットカフェのカップルシートかなんかで僕と一夜過ごすつもりだったのか?」

「…………えっ?」


 私は頭の中を空白にした。

 え?

 ……え?

 違うの!?


「君はアホか……」


 はあああああ、とこれ見よがしな長い溜め息をついて、水斗は言う。


「18歳未満はネットカフェには泊まれないって条例で決まってるんだよ。んなことしたら受付に弾かれて警察に補導、さらに親に連絡のコンボが決まって逆効果だ」

「えっ……ええっ!? うそっ!?」

「ホテルとか旅館もまず無理だぞ。親の承諾がいるからな。……ワンチャンス、高校生の独断でも泊まれる場所も、あるといえばあるが……」

「そんなところあるの?」

「ラブホテル」


 ……ら?

 硬直した私に、水斗は繰り返した。


「ラブホテルだ。監視カメラで高校生だってバレなきゃセーフ。……らしい」

「ばっ……あっ……!?」

「行くか?」

「行くわけないでしょっ!!」


 ばちんっと肩に張り手を見舞った。水斗は特に痛がる風もなく、


「軽く調べてみた感じ、ラブホで泊まるのもちょっと手が出にくい値段だから、どっちにしろナシだ」

「……なに調べてるのよ。安かったら泊まるつもりだったわけ? 私と?」

「最悪はな」

「…………最悪…………」


 この男、私とラブホテルに泊まるのが最悪って言った?

 睨みつけると、ふっと鼻で笑われた。ムカつく~……!


「そういうわけで、宿泊場所はごく普通に確保するしかないわけだ」

「もったいぶらないでよ。ごく普通って何?」

「そりゃまあ」


 水斗はピンと来ていない顔と声で言った。


「友達? ってやつだろ」


 水斗は私にLINEの画面を見せた。

 それにはクラスメイトの川波くんとの会話が表示されていて、彼はこんな風に書いていた。


〈いいぜ。そういうわけなら一晩くらい泊めてやるよ〉

〈伊理戸さんのほうは南に頼めばOK!〉

、あんたも安心だろ?〉


「……え?」


 驚いて水斗を見ると、水斗は釈然としてない顔でうなずいた。


「僕も驚いた。……あの二人、隣同士に住んでるらしい」

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