6.あのとき言えなかった六つのこと

あのとき言えなかった六つのこと 「君は、すごい奴だよ」


 ――聞いて伊理戸くん! クラスにお友達ができたの!


 こんなに醜い僕を、僕は知らない。

 けれどこれは、確かに僕の中にある、僕の歴史だ。


 ――お昼休みに本を読んでる子がいてね、勇気を出してね、声をかけてね……!


 うん、うん、と僕は肯いていた。

 微笑みさえして、彼女の成長を祝っていた。

 嘘じゃない。

 本当に、嘘じゃないんだ。

 だって――君が、こんなにも嬉しそうに、笑っているんだから。

 なのに、どうしてだろう。

 その次の日、君の教室の前を通りかかり、友達と楽しそうに話している君を見つけたとき、僕にはこんな思考が過ぎったんだ。


 ああ――君も、そっちに行ったのか。


 それからだ、彼女との間に壁ができたのは。

 たった一人、こちら側にいたはずの彼女を、向こう側に追いやってしまったのは。


 ――ごめんね、伊理戸くん……! 今日は友達と約束があって……


 わかっている。僕はきっと、口にするべきだったのだ。

 醜い疎外感を受け入れて、だからこそ、彼女に告げるべきだったのだ。


 ――……いいよ、べつに

 ――えっ?


 言葉の裏に棘を隠したりせず。

 さよならも言わずに背中を向けたりせず。

 歯に衣着せずに。

 まっすぐに相対して――


 ……理想を語るだけなら簡単だな。

 叶わなかった理想の積み重ねが、現実なんじゃないか。






◆ 伊理戸水斗 ◆


「えー……今日のホームルームでは、文化祭の実行委員を決めるー」


 担任教師が眠そうに号令する。一年生の中でも成績優秀な生徒を集めたクラスを受け持っているにも拘わらず、この担任はいつもあまり気力を感じない。まあ、僕みたいなのにとっては、無理に干渉されないのはありがたいことだ。おかげでこうして内職に励むこともできる。


「実行委員は主に、クラスの意見の取りまとめや、運営委員会の連絡を――」


 説明を聞き流しながら、僕は数枚のルーズリーフに向かっていた。

 今の僕にとって最も重要なのは、文化祭なんかじゃない。東頭に見せる予定のこの短編小説だ。これを一刻も早く完成させ、あいつに証明してやらなければならないのだ。僕が特別な人間だなんていうのは、ただの過大評価だと。

 あまりに慣れないものだから、ここ何日か、ずっと苦戦していたんだが、今ようやく終わりが見えてきたところなのだ。逸る気持ちを叩きつけるように文字を書きつけていると、ホームルームは流れるように進行していった。


「はーい! 結女ちゃんがいいと思いまーす!」

「えっ!? ちょっ、暁月さん……!?」

「真面目だし、優しいし、適役でしょー!」

「いいねー!」「賛成!」

「ええええっ……?」


 うーん……ここは『いる』でいいのか? それとも『いた』のほうがいいのか……?


「なら、伊理戸ともう一人――できれば男手が欲しいんだが」

「はいはいはい!」「俺! 俺やります!」

「うわ、下心見え見え」「それはないわ、男子ー」「さっきまで気配殺してたくせにさぁ」


 ここ、リズムが微妙だな……。何か四文字付け足したい……うーん……。


「伊理戸でいいんじゃね?」

「え? 弟のほう?」

「そうそう。伊理戸なら下心はねーだろ? 何せ家族なんだしよー」

「いいじゃん。それ名案!」「伊理戸くんかぁー」「確かに! 頭もいいしねー」「彼女もいるし、大丈夫そうじゃん?」

「じゃあ男のほうの伊理戸! いいかー?」

「はい。……ん?」


 反射的に答えてから、僕はようやく顔を上げた。

 そのときにはすでに、黒板に僕の名前が記されていた。


「んん?」


 疑義を挟む余地もなく、事態は進行する。


「結女ちゃん、実行委員就任おめでとー!」

「あ、ありが、とう……? なんか押し付けられた感あるんだけど……。大丈夫かな……」

「伊理戸ちゃんの言うことならみんな聞くんちゃうん?」

「そーそー! 特に男子は顎で使えるっしょ。顎で!」


 んんん??


「頑張れよ、伊理戸ー」「悔しいけど、伊理戸さんに変な虫がつくくらいなら……!」


 んんんんん???


「じゃあ次。出し物決めるぞー。伊理戸きょうだい! 前に出て進行よろしくー」


 んんんんんんー?????

 あれよあれよという間に教壇に立たされた。

 結女と一緒に、三〇人超のクラスメイトの顔と相対する。

 その中に、川波小暮の顔があった。

 そいつはニヤニヤと笑いながら、なぜか親指を立てていた。

 ……あの男ぉ……!


「(……ねえ、どうする……? どっちが喋る?)」


 結女がこそっとした声で話しかけてくる。そんなこと決まっている。


「(任せた)」

「(ええ!?)」


 僕は一歩引き、結女に議事進行を任せた。僕は書記でもしておこう。きっとクラスの連中も、そのほうが据わりがいいだろうし。

 チョークを手に取る僕を、結女は一瞬だけ恨みがましい目で睨んで、


「えっ……えっ、と……では、その、出し物について、何か案があればー……」


「えー? どうする? どうする?」「お化け屋敷とか定番だよねー」「うわ、準備めんどくさそうー」「つーか何するのが普通なん?」「他のクラスと被りたくねえよなあ」


「あっ……えと、そのうー……」


 高校デビューに成功したとはいえ、急に声量が大きくなるわけではない。結女のか細い声は、めいめい好き勝手に喋くるクラスメイトたちにはまったく通らなかった。

 前途多難だな、と思いながら、僕は黒板に『出し物候補』と書く。


「ねえ、みんな――」


 南さんだろうか。結女の様子を見かねて声を上げかけた、その瞬間――


 ――ゴンゴン、と軽く、僕は黒板を叩いた。


 その音に、反射的な注目が集まる。狙い通り喧騒にも間隙が生まれ、僕は結女に目配せをした。


「あっ……案がある人は、手を挙げてください!」


 おかげでようやく結女の声が通り、音に集まった注目は、そのまま結女にスライドした。

 世話の焼ける優等生様だな、まったく。

 こっそりと嘆息する僕を見て、川波が小さく口笛を吹き、南さんが『や、やるじゃん……』という顔をしていた。そりゃどうも。






「はい! コスプレ喫茶!」


 出し物の案を募り始めたと同時、南さんが素早く手を挙げて宣言した。

 川波が呆れた顔をして、


「お前さあー……それ、男子が言い出すやつなんじゃねーの、普通?」

「だって結女ちゃんのコスプレ見たいし!」


 見たーい! と唱和するのは主に女子たちだ。男子が言うとセクハラになるからか、存外大人しい。

 コスプレ喫茶ね……。王道っちゃ王道だが。


「え、ええーっと……い、いいのかな?」


 早くも結女が目で助けを求めてきた。もうちょっと頑張れよ、と思いながら、僕は教壇の脇で見守っている担任に話しかける。


「先生。去年までの文化祭の出店実績に関する資料はありますか?」

「ああ、あるぞ」


 待ち構えていたように、担任は脇に抱えていたファイルから数枚の資料を取り出した。準備していたなら先に渡してくれていたらいいのに――と思うが、この学校は元からそういうところがある。生徒が求めない限りは何も与えない、というか――生徒から自主的に行動することを促している感じだ。

 僕は資料をぺらぺらめくって確認し、


「……コスプレ喫茶は、去年にも出店した実績がある。NGってことはないと思う」

「それじゃあアリ?」

「アリだが、それだけに他のクラスと被る可能性がある。被った場合にどうなるかはわからないが……」


 担任のほうに目を向けると、その重い口が開き、


「同じ出し物の枠数は決まっている。規定数を超える希望があった場合は、プレゼンで数を絞る」

「プレゼンの評価基準はなんですか?」

「出し物を適切に運営できる準備が整っているかどうか。我が校の風紀に則しているかどうか。もちろん出し物としての魅力も評価対象になる。最終的には運営委員会――つまり、生徒会とPTAの心証次第だ」


 まるでゲームのNPCのように、必要な情報だけ話すと口を閉じる。

 ふむ、と僕は軽く考えて、


「ということは、コスが調達できるかどうかが最大の問題だろうな。そこの見通しが立っていなければプレゼンで負けることになるだろうし」

「ぷ、プレゼンかぁ……。それって、実行委員がやることになるのよね……?」

「プレゼンの発表者に規定はありますか、先生?」

「校内の人間に限る。特に実行委員でなければならないということはないな」


 即答だ。こういうことは素直に訊くに限るな。


「なら、餅は餅屋だな。得意そう、かつ発案者にやらせればいい」

「得意そうな、発案者……あ」


 僕は資料を閉じて、あとは結女に任せることにした。

 結女は改めて同級生たちに向き直り、


「えーっと……衣装が準備できそうなら可能です」

「よっしゃー!」

「ただ……暁月さん」

「うん?」

「もしプレゼンになったら、そのときは発表者をお願い。発案者として」


 暁月はにやっと笑って、


「そんなことかぁ。いいよ? ……た・だ・し」

「?」

「そのときはモデルをお願いね、結女ちゃん? プレゼンってなったら、サンプルが必要でしょ?」

「え……」


 おーっ! とクラスが色めき立つ。

 結女がまた困った目を向けてきたが、今度は無視した。扇情的なコスは最初から弾くし、特に問題はない。


「……わ、わかった。もしプレゼンになったらね?」


 僕は黒板に『コスプレ喫茶』と書き、『※衣装が準備できそうな場合』と但し書きをした。

 控えめな結論ではあったが、結局それからも、コスプレ喫茶以上に好評な案は出なかった。






 ホームルームが終わり、席に戻った結女に、南さんを始めとした友達が集まっていく。


「は~、緊張した~」

「カッコよかったよ~、結女ちゃん!」

「良かったで~。堂々としててなぁ」

「そうそう! 自信持て自信~!」

「ありがと、みんな……」


 結女は嬉しそうに微笑んでいた。……現金なもんだよな。あんなに困ってたくせに、褒められたら嬉しくなる。思えば、新入生代表のときも堂々としたものだった。意外と合っているのかもしれない、ああいうことが。ただ僕が、勝手に思い込んでいただけで……。


「よう伊理戸、お疲れ!」


 席に戻った僕に、川波が軽薄に話しかけてきた。


「伊理戸さんを上手くサポートしてたな。やっぱ要領はいいよな~、人と関わりたがらないだけでよ。他の連中も感心してたぜ?」

「そうか」

「それだけかよ。少しは嬉しがれっつの」

「……………………」

「どうした?」

「……いや」


 これっぽっちも嬉しいと思えない。

 むしろ面倒事が増えるかもしれないと、うんざりしている自分さえいる。

 それを改めて発見して、


「……僕はやっぱり、違うんだなって……そう思っただけだよ」

「はは! なんだそりゃ。中二病になるには遅すぎるぜ?」


 僕は川波に別れを告げ、教室を出た。

 まだ図書室には行けない。

 同じ家に帰るはずの結女も、当然、ついてはこなかった。






「で……できた……」


 僕は達成感と共に呟いた。

 机の上にはびっしりと文字が綴られたルーズリーフ。ようやく完成したんだ、東頭に見せる予定の小説が。

 出来栄えは……もちろん商業作品とは比べるべくもないが、素人の高校生が書いたにしては、マシなんじゃないだろうか。うん。最初は思いっきり凡作を書いてやるつもりだったんだが、少しばかり熱が入りすぎてしまった。でもまあ、まともに読めもしないものを見せるわけにはいかないし、悪くないんじゃないだろうか。うん。

 さて、あとはこれを明日、学校で東頭に――見せる前に。


「……一応、約束だからな」


 忘れてはいない。

 自作小説を読み合おうという、結女との約束。

 別に守る義務はないのだが、難癖をつけられても面倒だし……誤字脱字のチェックくらいにはなるだろう。向こうが、約束を忘れていなければの話だが。


 僕はルーズリーフを携えて部屋を出た。隣の部屋に気配がなかったので一階に降りる。

 リビングには、結女の他にも父さんや由仁さんがいた。結女はソファーに座り、スマホで誰かと話している。


「うん。うん。……え!? すごい! うん。あー、でも、私たちだけで決めるわけにはいかないし、とりあえず保留しておいてほしいかな……」


 何やら取り込み中のようだった。少し真面目な話し方だ。


「うん。そう。次のホームルームで決めちゃって――あ」


 リビングに入ってきた僕に気付いて、結女はスマホを耳から離した。


「ちょうどよかった。水斗――くん」


 結女は近くに父さんたちがいるのを見て、呼び方を咄嗟に直す。


「暁月さんからの連絡なんだけど、衣装、用意できるかもだって」

「……そうか」

「レンタルになるから、予算がどれだけ付くかにもよるけど……次のホームルームで、具体的に何のコスプレ喫茶にするか決めようって」

「そう、だな……。何かしらテーマを決めたほうが、内装もやりやすいだろうしな」

「でしょ。何がいいと思う?」

「ホームルームで決めるんじゃないのか?」

「今のうちにある程度決めて根回ししておけば、ぐだぐだ揉めずに決めちゃえるでしょって、暁月さんが」

「事前の根回しって……本当に高校一年生なのか、あの人は?」


 やってることが政治家みたいだ。

 僕は手に持ったルーズリーフを一瞬だけ見つつ、いったん頭を切り替える。


「……条件としては、まず扇情的すぎるコスはNGだ。絶対に弾かれる」

「それはそうよね……。でも扇情的すぎるって、どのくらい?」

「資料を見る感じ、ミニスカートはヤバいと思ったほうがいい。仮にメイド喫茶をやるとしたら、メイド服はヴィクトリアンスタイルになる」

「ヴィクトリ……? とかはよくわかんないけど、結構厳しいわね……」

「あと、今メイド喫茶の話をしたが、女子だけにコスプレをさせるとクレームが来る可能性が高そうだな。男子にもできるコスのほうが望ましいだろう。ちなみに、男子は女装させればいいなんて文化祭特有の悪ノリには、この僕が断固として抵抗する」

「まあ、そう言うとは思ったわよ。暁月さん曰く、ネタに走らず王道にやりたいっていうのが女子の多数派意見みたい。みんな結構真面目よね」

「王道ね……。男女問わずに着られて、かつ一般受けもPTA受けもするコスって、なかなか思いつかないもんだな」

「それこそメイド服と執事服なら男女でできるけど、他と被りそうだものね」

「そうだな。被りを避けて特色を示せれば、予算も多めに引っ張れるんじゃないか?」

「そうねー……」


 うーん、と結女が悩んでいると、


「なんだい? 文化祭かな?」


 ダイニングテーブルにいた父さんが話に入ってきた。

 続いて対面の由仁さんがお菓子の小袋を開けながら、


「文化祭でコスプレ喫茶やるんですって。青春よね~」

「ま、まだやるって決まったわけじゃないから。衣装を用意できないと……」


 なぜか焦ったように手を振る結女に、父さんは「なるほど」と呟いて、


「それなら、円香ちゃんに相談してみたらどうだい?」

「え? 円香さんに?」

「うん。確か円香ちゃんは、大学で演劇サークルに入ってたんじゃなかったかな」

「そうなんですか?」


 訊き返してから、僕を見てくる結女。知らん。初耳だ。確かに僕たちのはとこに当たる種里円香さんは、いかにも文化系の活動をしていそうな見かけではあるが。

 などと思っていると、由仁さんが首を傾げて、


「あれ? 美術サークルじゃなかった?」

「ん? そうだっけ?」

「うーん……テニスサークルって言ってた気も……?」


 なんで曖昧なんだそこ。あるいは全部本当なんだろうか。


「ははは! とりあえず顔が広いことに違いはなさそうだ。昔から人懐こい子だったからね。衣装ならツテがあるんじゃないかな。学祭の実行委員をしていたと聞いた覚えもあるし、アドバイスももらえるんじゃないか?」

「確か円香ちゃん、大学は京都でしょう? まだ夏休みで暇だろうし、喜んで協力してもらえるんじゃない?」


 情報の確度が怪しいのが微妙に気にかかるが、とりあえず話を聞いてみるのはアリか。


「じゃあそうしようかな……。暁月さん? 聞いてた? うん、ウチの親戚に顔が広い大学生がいてね――え? うん、女の人――胸? う、うーん……聞かないほうが……」


 ……『ウチの親戚』か。この家庭環境にもずいぶん慣れたつもりでいたが、昔から知ってる円香さんのことを結女がそう呼んでいる現実には、まだ違和感がある。

 ともあれ、話はまとまったらしい。僕はもう用済みだろう。

 けど……こっちの用は、まだ済んでないんだよな。

 僕はルーズリーフを持った手に、少し力を込めた。


「――あれ?」


 そのとき、結女の目が再びこちらを向いた。


「そういえば、私に何か用だった?」


 瞬間、僕は思わず、ルーズリーフを背中に隠してしまった。

 どうしてだろう?

 読ませてくれと言ったのは結女のほうだ。僕は律儀にそれを履行しようとしているだけ。臆する必要なんかない。そのはずなのに……。

 ……いや、ここには父さんたちもいる。結女も……今は、慣れない実行委員のことで、それどころではなさそうだし。


「いや……何でもない」


 別に、今でなくてもいいだろう。

 東頭に見せたあと、こいつにも見せたらいい……それだけのことだ。






 寂しいわけでもない。疎外感でもない。

 曲がりなりにも小説を一篇書き上げたばかりなのに、適切な言葉が浮かばない。

 ただただ、鬱陶しいばかりの嫌悪が湧き起こる。こうじゃない。こうじゃない。こうじゃない。駄々をこねる子供のように、僕の何かが喚いている。

 おさらばしたはずだった。別れの言葉と共に、中学時代に置き去りにしたはずだった。

 こんな自分を、僕は認められない。

 もしこの僕が主人公の小説があったとしたら、僕はそんなもの、絶対に読もうと思わない。


 ……ああ。こんな気持ちになったことが、前にもあったっけ。

 嫉妬する自分が嫌だった。刺々しくなる自分が嫌だった。だから、そんな自分を否定するために。僕はこんな人間じゃないと主張するために。僕は――彼女に頭を下げたんだ。

 そうしたら、君は――


 ――何よりも嫌いな僕は、まさにあの時の僕だ。

 だって、僕は。

 謝った僕に、浮気だと駄々をこね始めた君を見て。

 うんざりとしながらも――同時に。

 どこか……安心していたのだから。


「……東頭のことを言えないな」


 誰もが自分のようであってほしいというそれは、人間の底に根差した、共通する欲求なのかもしれなかった……。

 ベッドから起き上がる。このままだと眠ってしまいそうだ。どうせ寝るなら風呂に入って、ちゃんと寝よう。

 そう思って部屋の外に出た。

 しかし直後、僕の足は止まる。

 結女がちょうど、階段を上がってきたところだったのだ。


「……今からお風呂?」


 簡単な質問に、けれど僕はなぜか、一瞬の間を置いた。


「……ああ」

「そっか」


 他愛のない会話。

 それだけを交わして、僕は結女の横を抜け、階段を降りようとする。


「ねえ」


 と、背中を声に掴まれて、振り返った。


「今日……」


 結女はこっちを見ず、床に視線を落としながら、


「……ありがと」


 掻き消えそうなほど小さな声に、僕はかすかに眉根を寄せる。


「……何がだ?」

「ほら……出し物決めで……」

「……不本意とはいえ、僕も実行委員なんだ。自分の仕事をしただけだろ」

「でも……あなたじゃないと、きっとあんなに上手くはいかなかった。だから、ありがとう」


 ……ありがとう、か。

 僕は階段を数段降りたところから、結女の顔を見上げた。


「……いつから君は、そんなできた人間になったんだ」

「え?」

「僕の知る君は、そんな風に殊勝なことを言う奴じゃなかったってことだよ……」


 言ってから、余計なことだと気付いた。

 ばつが悪くなって視線を切る。……もう、いいや。この際、さっさと立ち去ってしまえば。階段をまた、一段降りて、


「やっぱり、昔の私のほうが良かった?」

「は?」


 また、振り返る。

 結女はどこか怒ったような、硬い表情で僕を見下ろしていた。


「弱々しくて頼りない、昔の私のほうが好みだったのかって訊いてるの」


 僕は少し黙り、


「……そうかもな。だったらどうする」

「思い出に溺れて死んでいけばいいわ。ただし――」


 少しだけ笑って、結女は続ける。


「――今の私は、あなたの悩みを聞いてあげられるけど?」

「……悩み?」

「自信なさそうな顔してるわよ。まるであなたにラブレターを渡したときの私みたい」


 あのときの君は……確かに、雨に濡れた子犬のように弱々しかったが。


「……話を盛るな。それほどじゃない。悩んでるわけでもない」

「じゃあ何?」

「ただ……」

「ただ?」

「……ある忘れっぽい女が、自分で言い出した約束をちゃんと覚えてるかどうか、少し不安になっただけだよ」

「えっ?」


 ぱちっと目を瞬く。ほら、やっぱり覚えてない――


「もしかして、見せてくれるの?」

「え?」

「小説! 早く言ってよ! 私のはちゃんと掘り返しておいたのに!」

「……覚えてたのか?」

「当たり前でしょ! 記憶力はいいほうだって知ってるでしょ?」


 しばし頭の中が空白になる。それを埋めるように、僕は口を開く。


「……確かに、余計なことはよく覚えてたな」

「余計なことって何よ!」

「何かに影響されて一瞬だけ一人称が『ぼく』になってたこととか――」

「あーあーあー! 忘れた忘れた忘れた!」


 耳を塞いで叫んで、


「……というか、あなたのほうこそ、余計なことばっかり覚えてるじゃない」

「……まったくだな」


 余計だ。本当に、余計なことだ。

 幼くて、未分化で、無分別だった頃の記憶なんていうのは。


「それじゃあ……お風呂、上がったら来て。私の部屋」

「夜は立ち入り禁止だろう?」

「特別」


 結女は階下を窺いつつ、声をひそめる。


「(お母さんたちに、気付かれないようにしてね?)」


 ……くそ。

 心臓――お前は、いつも余計な動きばかりする。





 それから、結女が昔書いた小説を読んだ。

 犀川創平のパクリみたいな探偵が、含蓄がありそうでない台詞を吐きながら、愚にもつかない密室トリックをだらだらと大仰に推理していた。


「草」

「真顔で言うな!」

「君、前はクリスティのパクリみたいな小説だって言ってなかったか? これ、どっちかというと森博嗣っぽいぞ」

「……そ、それは……」

「それは?」

「ちゅ、……中学の頃に、書いたやつだから……。小学生の頃のは、見つからなくて……」

「ふうん。……まさかとは思うが、このひたすら頭良さげなことを言っている、犀川創平を百分の一くらいに薄めたような探偵キャラは……」


 当時付き合っていた彼氏をモデルにしたんじゃあるまいな。


「……………………」


 おい。顔を逸らすな。


「……お、鬼の首を取ったように言ってるけど、あなたのだって相当だから!」

「は? 冗談言え。これよりはずっといいだろ」

「モノローグがぐだぐだ長くて何の話かわかんないし、比喩も上手く言おうとして逆に伝わってないって感じ。『煮込みすぎたカレーのような』ってどういう意味? 焦げてて苦いってこと?」

「読解力のない奴だな! それは――」


 僕は懇切丁寧に解説したが、結局理解は得られなかった。これは少なからずショックだった。自分の文章がこんなにも人に伝わらないとは思わなかった……。

 ひとしきり互いの作品をディスり合うと、穴の空いたような沈黙が訪れた。

 抉られた傷を覗き込むようなその時間で、徐々に冷静さを取り戻す。そうして改めて自分や結女の小説を読んで、ひとつ、僕は発見したことがあった。


「……東頭は、結構すごい奴だな」

「え? 東頭さん? ……書いてるの? 小説」

「小説も書いてるらしいが、僕が見たのはイラストだった。模写でもトレースでもなくて、構図から自分で考えててさ。それで顔にも身体にも手足にも、一見おかしいところはなくて――他人が見て『ちゃんとできてる』と思えるものを作れるのは、それだけで大した才能じゃないか? これを見ると、そう思ってさ」

「確かにね……。そう考えると、あなたのひいお祖父さんの自伝もよくできてたわよね」

「まったくだ。何せ文章の意味がわかったからな」

「ホントにね……」


 二人してズーンと落ち込む。

 ショックではあったが、ある意味、自信にはなった。これならあの東頭の卑屈さにも、一定の治療効果が見込めるかもしれない。

 どこか気の抜けた、弛緩した空気の中で、結女がぼんやりした声で言う。


「……ねえ。作家になりたいって思う?」

「思わない。そういう時期はあったかもしれないが」


 僕の中には、書くべきものがない。

 欲求も使命感も湧いてこない。

 ただ、自分はこうじゃないってもどかしさがあるだけで、こうだと目指すカタチがない。

 空っぽなんだ。

 小説を書いてみて、尚更にそう思った……。


「……今までね、あんまり、話してこなかったけど」

「ん?」

「実は、私のお父さん、クリエイターだったの」


 僕はゆるりと結女を見た。

 結女はベッドの側面に背中をつけて、膝を抱えて、その上に顎を乗せていた。


「お父さんって、実の……由仁さんの前の旦那ってことだよな? 作家だったのか?」

「小説家じゃないけど……そういう、何かを作る仕事をしてたみたい。家の中にそれっぽいものがなかったから、何を作ってたのかはわからないけど……」

「もしかして、君の趣味って……」

「うん、そう。お父さんの本棚がきっかけ」


 立てた膝に顎を乗せたまま、結女は訥々と語り始める。


「お父さんについて私がぼんやりと覚えてるのは、ベッドの中から聞いた声……。ベッドでうとうとしてたらね、『ただいま』って、低い声が聞こえてくるの。光が漏れてるリビングのほうから……。それにお母さんの声が『おかえり』って言う。続けて『ご飯は?』ってお母さんが言うと、低い声は『買ってきた』って言うの」

「……『食べてきた』じゃなく?」

「そう。『買ってきた』。それから、ガサゴソってビニール袋の音。それに混じって、お母さんが『そう……』って、ちょっと残念そうに言う。……それが、お父さんに関する記憶のほとんど。次の朝起きたら、いつもいなくなってるの。だから今となっては、顔もあんまり思い出せない。会っても気付けないかも」

「それは、なんというか……」


 忙しい人だったのだろう、という想像はできる。

 ……しかし、それ以上に……家庭というものを拒絶しているかのように、僕には感じられた。家族と同居しているにもかかわらず、あたかも一人暮らしのように過ごすその振る舞い……そこからは、明確な拒絶の意思――あるいは、隔絶。家の中をパーティションで仕切るような、そんな意図を感じざるを得なかった。


「あなたに最初からお母さんがいなかったように、私にとってもそれが普通だったんだけどね。それに、運動会とかには顔を出してくれてたし。……考えたらあれって、お母さんが無理やり引っ張ってきたんだろうなあ」


 足掻きは、したのだろう。

 由仁さんも、きっと抵抗はしたのだ。けれど、ついぞ夫を『家庭』に引き込むことはできなかった。ゆえに、決断せざるを得なかったのだ。自分のために、娘のために、あるいは――夫本人のために。


「お母さんは苦労したんだろうけど、私的にはお父さん、別に嫌いじゃなかったのよね」

「それは……そもそも会ってないんじゃ、そうもなるだろ」

「そうじゃなくて……家の中にね、常に誰もいない、でもいろんなもので溢れてる部屋があると、子供心にワクワクしない? 漁りたい放題じゃない」

「ああ……」


 その気持ちは、僕にもわかる。

 ひい祖父さんの書斎を初めて見つけたとき、胸の奥から湧き起こった熱のようなものを、僕もはっきりと、覚えている。


「子供って、楽しいものをくれる人はすぐ好きになっちゃうじゃない? だから私的には、こんな楽しい部屋をありがとうって感じだったわけ」


 本当に……あるもんだよな。誰にでも、似たような話は。


「……えーっと、何の話だったっけ?」

「僕らに才能がないって話だよ」

「ああ、そうそう。脱線しちゃったけど、何が言いたいかっていうとね……なんというか、クリエイターになる人って、何か別のものを見てる感じがするのよね。それで言うと、東頭さんってすごくそれっぽくない?」

「……ああ……」


 確かに。あいつは別のものを見ている。

 僕とはこれ以上ないってくらいに気が合うけれど……ふとしたときに、感じるのだ。どこか、視点の位相が異なるような感覚を。


「なんなんだろうな、あれは。……今回も、僕は、東頭が何を見ているのか、根本的にはわかってない気がする」

「わかってあげてよ。それができるのは、きっとあなたしかいないんだから」

「君にも、わからないのか?」

「そうね。……考えてみたら、私もずっと、それを求めているような気がする」


『それ』。

 ……説明もしていないのに、その言葉が指すものが、わかるような気がした。

 気のせいかもしれない。……いや、きっとそうなんだろう。僕の勘違いなんだろう。

 確かめるべきなんだろう、と思った。それが正解だと、僕の奥の僕が言っていた。けれど、……今の僕には、どう質問したらいいのかさえ、わからなかった。


「……僕は、東頭が見ているものを見ることは、できないかもしれない」


 けど。


「あいつが見たことを、聞いてやることくらいなら、……たぶん、できる」

「絶対って言えばいいでしょ、そこは」


 結女は臆病な弟をからかうように、軽く笑った。


「どう? 自信、できた?」

「できた。自分が凡人だっていう自信が」

「あなたが凡人だったら私はどうなるのよ」


 その瞬間、唇からするりとこぼれた。

 一年以上前、友達ができた君に、僕が言うべきだった言葉が。


「……えっ?」


 そう、まずは認めることから始めよう。

 君はもう、缶ジュースのプルタブすら僕に開けてもらっていた、ひ弱な人間じゃあないってことを。

 僕にできないことができる、すごい奴だってことを――


「え? えっ? ね、ねえどういう意味? すごいってどういう意味!? 私のどこがすごいの!? もっと詳しく教えてよ!」

「……文才のなさがすごいって意味だよ!」

「はあーっ!?」


 まあ……うん。

 いきなりは難しいから、ちょっとずつにしよう。






 かくして僕が書き上げた小説は、狙い通りの大不評を得て、東頭――いや、いさなのメンヘラ治療に多大な貢献をした。

 しかしまさか、その流れでこんな会が結成されてしまうとは、当然ながら予想できるわけもなく――


『折良く我が校はこれから文化祭の期間に入る』


 と、通話越しに言うのは川波小暮。


『しかもつい先日、あんたと伊理戸さんを実行委員にしたばかり! 家ではもちろん、学校で行動を共にする機会も増えるってわけだ! ナイス過去のオレ!』

『いやいや』


 と冷静に突っ込むのは、すっかり元通りになった東頭いさな。


『打ち合わせもなくそんなことしてるの、普通に引くんですけど。Vtuberにコラボを強要する指示厨みたいなんですけど』

『うっせーな! ライフワークなんだよ! これが!』


 傍迷惑なライフワークだ。二次創作でやれ。


『とにかく! 文化祭! これほど青春なイベントはなかなかねーぜ。告れとは言わねーけど、何かしらいい雰囲気になってこい! ワンチャン向こうから告ってくるかもしんねーし!』

『文化祭でいい雰囲気になるの、ラノベや漫画ではよくありますけど、実際あるんですか、そういうの? ガチガチの進学校である我が校で』

『ばっか進学校だからこそイベント事ではハジケんだよ。京大の学祭見ろよ』

『うぐっ……発想が被ってます……』


 京大に変人が多いからって理由で進学校に来たらしいいさながダメージを受けた。まあ僕は森見登美彦作品でしか京大のことを知らないが。


『いいか、お前ら?』


 修学旅行で注意喚起をする引率教師のように、川波は言う。


『我が洛楼高校の文化祭では例年、後夜祭でキャンプファイヤーをやる。知ってるか東頭? でけー火の周りで踊ったりするやつだぜ』

『知ってますよ! どれだけ世間知らずだと思ってるんですか!』

『それで一緒に踊ったら永遠に結ばれそうな気がしねえ?』

『ただの印象じゃないですか! そういう言い伝えがあるとかじゃないんですか!』

『あるわけねーだろそんな漫画みてーなの。あったとしても確実に何らかのラブコメのパクリだっつの』

「……で? 踊れと? 僕が? 結女と?」


 漫才を遮って単刀直入に言うと、川波は『おうよ』と力強く答える。


『ま、実際には踊るっていうより、火の周りを囲んでイチャついてるだけらしいけどよ。ついでに校内に蔓延してる東頭彼女説も払拭できて一石二鳥!』

『その場合、わたしがとんでもない速度でフラれたことになりません?』

『安心しろ。お前は無謀にも伊理戸きょうだいの仲に横槍を入れようとして返り討ちにあった哀れな女になるだけだ』

『なお悪いです!』


 なんで僕がそんなことしなきゃいけないんだか……。

 はあ、と思わず溜め息をついた僕に、


『伊理戸さんの真意を確かめたくねーのか?』


 川波が、幾分か真剣な調子の声を突き刺してきた。


『もし伊理戸さんにそういう気があるなら、シチュエーションさえ誂えたら絶対に何らかのアプローチをしてくる。その気がないなら、あんたが何をしたところで糠に釘だ。安心してきょうだいとして過ごせよ。どっちにしろ、今の何もわからない、宙ぶらりんの状態じゃあなくなる。あんたとしては、何のデメリットもない。あるとしたら、それは――』

「川波」


 今度は僕が、突き刺すように名前を呼んだ。


「踏み込みすぎだ――僕でも、怒ることはあるぞ」

『……ああ、悪いな。ちょっと無粋だった』


 無粋なのはいつものことだが。

 今の一瞬の緊張に息を詰めていたのか、いさながほっと息をついた。


『まあ、要するによ。損はねーだろって話だ。あんたには何にも。そうだろ?』

「……もしあいつがその気になったらどうするんだ」

『付き合えばいいだろ』

『付き合えばいいんですよ』

「簡単に言ってくれるよな……」


 部外者だから言える。法的なこととは別に、同じ家の中で恋仲になるってことがどういうことなのか、こいつらはまったくわかってない。


『どうしても嫌なら、フればいいさ。弄ぶような真似は気が咎めるだろうが――それにしたって、ケリをつけなきゃいけねーことじゃねーの? ただの同級生なら卒業まで知らないフリで通せるかもしんねーけど、あんたらはきょうだいなんだからよ』


 ……憎らしいばかりの理論武装だ。確かに、もしあっちがそういうつもりなら、知らないフリは通らない。早いうちに、対処する必要がある。

 取り越し苦労ならそれでいい。僕は安心して、あの女をきょうだいとして扱うことができるだろう――


「……わかった……」

『お?』


 僕は苦渋に苦渋を重ねた末に、口にした。


「常識の範囲内でなら、従ってやる。あんまり露骨にやって、僕があの女に惚れたと思われたら心外だからな」

『りょーかいりょーかい。心得てるぜ!』

『もしダメでもわたしという滑り止めがありますから、思い切っていきましょー!』

『てめえコラオイ! 恥ずかしくねーのか女として!』

『1ミリも?』


 かくして僕は、結女の真意を図るために、あいつを口説くような真似をしなくてはならなくなったのだった。

 仕方なく。

 ……仕方なく。

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