湯けむり旅情思春期事件⑩ 楽園追放


◆ 川波小暮 ◆


「おっすー! 遊びにきーたぞっと――あれー?」


 オレが布団に寝転がってスマホを見ていると、浴衣姿の暁月がピョコッと入口に顔を出して、きょろきょろと室内を見回した。


「川波、あんた一人? 他のみんなはー?」

「自由行動。ま、こっちは基本、みんなソロプレイヤーだからな」


 星辺さんも、一緒にいるときは合わせてくれるものの、元来の性格としては一人が好きなタイプだろう。伊理戸と羽場先輩は言わずもがな。

 まあ、こうして解散状態になってんのは、性格だけが理由じゃねーだろうけどな?

 オレは寝転がったまま暁月を見上げて、


「そっちも一人じゃねーか。女子も解散してんじゃねーの?」

「まあねー。それぞれ頑張ってるんじゃない?」

「ひっひひ。そういうこったろーな」


 オレたちが解散の流れになったのは、いつの間にか羽場先輩がいなくなってたことがきっかけだ。昼のスタバで、羽場先輩が生徒会長に何か耳打ちされてたのは確認済み。きっと会長に呼び出されたんだろうな。今頃、どこでイチャついているのやら。


「きしょ。一人で笑ってる」


 オレの枕元に立ち、暁月はゴミを見るような目で見下ろしてくる。

 オレは目の前で揺れる、暁月の浴衣の裾を見ながら、


「パンツ見えてっぞ」

「見えてるわけないじゃん。穿いてないし」

「……マジで?」

「うっそー♪ 期待した?」


 オレの顔を覗き込んで、にひっと笑う暁月。オレはイラッとした。


「期待なんかするか。怪奇・ノーパン女が公然と出歩いてることに戦慄しただけだっつの」

「心配しなくてもわかんないよ。裾長いし。パン線が出なくて逆にいいんじゃない?」

「……おい、ちょっと待て。穿いてるんだよな?」

「確かめるー?」


 暁月は煽るように浴衣の裾をめくり、白い太腿をチラつかせた。今更、その程度で動揺するような相手でもなかったが、この話を続けると泥沼になるような気がして、オレはコメントを差し控えた。

 暁月はオレの頭の横にすとんと座り、


「どう? 神戸旅行」

「すげー楽しいぜ? こんなに間近で生徒会の恋愛模様を見られるなんて思わなかった」

「感謝してよねー。あたしが誘ってあげたんだからさ」

「あー、はいはい」


 しばし、スマホをいじるだけの時間が流れた。


「……ねえ。あんたってさ、本当に人の恋愛見てるだけで幸せなわけ?」

「なんだよ急に。何度もそう言ってんだろ?」

「羨ましくなったりしないのかなーってさ」

「ならねーよ。自分の恋愛はもう懲り懲りだ。お前が一番知ってるだろーが」

「そだね。……まあ、あんたがそれでいいんなら、それでいいのかな」

「…………?」


 オレは怪訝に思って、再び暁月の顔を見上げる。

 中学生みたいな幼い顔には、憂いのような感情が薄く浮かんでいる気がした。


「……おい。今日のお前、なんか変だぜ」


 昼からずっと、違和感があった。いつものこいつとは何かが違う――何とは言えないが、何かが違う。靴の中に小さな石ころが入り込んでるときみたいな、些細な心地の悪さ。


「大したことじゃないよ」


 と、暁月は平然とした顔で言う。


「ヘビに唆されてリンゴを食べちゃった、って感じかな」

「……似合わねーぞ。頭良さげな言い回し」

「うっさいなぁ。あたしだってたまにはカッコつけたくなんの!」


 ヘビに唆されてリンゴを、ねぇ。確か聖書だっけか? アダムとイヴが、善悪の知識の実を食べて、楽園を追放される――

 ――善悪の知識、か。


「今更常識に目覚めたのかよ。あと10年早けりゃ、オレも苦労せずに済んだのによ」

「――ホントにね」


 適当に叩いた軽口に、思いのほか重みのある相槌が返ってきて、オレは面食らった。

 暁月はうずくまるように膝を抱えると、それに顔を寝かせるようにして、オレを見る。


「ねえ、川波。新しい彼女、作ってよ」

「……は?」


 頭がついていかず、オレはただ瞬きを繰り返した。

 暁月は感情を削ぎ落としたような薄い笑みを浮かべて、


「なんか、あたし、区切りが見つかんなくってさ。仲良くやってくにせよ、絶交するにせよ、今のまんま、宙ぶらりんのまんまズルズルやってったらさ、きっと取り返しのつかないことになるよ。だから、ちゃんとした彼女、作ってよ」

「……そんなもん、お前が彼氏作れば済む話だろうが」

「あんたが邪魔したんじゃん。伊理戸くんにプロポーズまでしたのにさぁ」

「あー……」


 そういやあったな、そんなこと。


「完全にフリーの奴を選べっつー話だよ! この際、男でも女でもいい!」

「無理かなー。結女ちゃん以上に好きな子は見つかんなそう」

「……だったら、無理に作るもんじゃねーだろ、恋人なんて」


 区切りなんて、見つからなくてもいいじゃねーか。

 宙ぶらりんで何が悪いんだよ。

 確かに、いろんな問題を放置したままだ。オレの体質は治ってねーし、親父たちには過去の関係のこと話してねーし、こいつは面白がってオレを煽るし。

 だけど、それでいいじゃねーか。別に死ぬわけじゃない。ゲームみたいに、発生したクエストを全部解決しながら生きてく奴なんていない。解決してみたところで、金も経験値ももらえはしねーんだ。


 解決してもしなくてもいい。

 問題なんて棚上げでいい。区切りなんて見つけなくていい。オレは今のままで充分だ。取り返しがつかなくなるなんて言ったって、取り返したいものがオレには思い浮かばない。

 ――ダメなのかよ、それじゃあ。


「――ダメなんだよ、それじゃあ」


 暁月ははっきりと言った。

 このままではダメだ、と。

 今のオレたちではダメだ、と。


「あたしがまともな彼女だったら、あんたはそんな体質にならなかった。それはあたしが作っちゃった負の遺産なんだよ。これからあんたのことを好きになる人に、あたしが作ったそれを押しつけることになっちゃう。そんなの……無理。あんたと何事もなかったように接することもできないし、相手の子と笑顔で話すこともできない。それでも、このままでいいって言うわけ?」


 ――オレがこの体質でいる限り、誰かを泣かせ続けることになる。

 考えすぎとは言い切れない。オレはそこまで鈍感じゃない。オレを好きになってくれる奴は、たぶんこれから先も、何人かは現れる。


 そのすべてを、オレは拒絶する。

 暁月がつけた、この傷のせいで。


「あんたはいいのかもしんないよ。折り合いをつけてさ、それはそれで人生を楽しむ方法を見つけてさ、それでいいのかもしんない。でも、あんたを好きになった子はどうなんの? あたしがやったことのせいで理不尽にフラれてさ。なのに原因のあたしがさ、幼馴染みとしてのうのうとあんたの傍にいる――そんなの納得できるわけないじゃん」

「……そう、かもな」


 正しいかもしれない。暁月の言うことは。

 オレは、自分のことしか考えていなかったかもしれない。

 善悪の知識が――なかったかもしれない。


「――決めた」


 ぽつりと呟くと、暁月は不意に、オレの腹の上に跨ってきた。


「お、おい?」

「あんたがいいんならそれでいいかなって思ってたけど、わかった。あたしがやんなきゃいけないこと」


 オレの肩を押さえつけて、つぶらな瞳に真剣な輝きを宿して――暁月は言う。


「こーくん――あたし、まだ、こーくんのこと普通に好きだよ」

「んぐっ……!?」


 一瞬で脳裏に忌まわしい記憶がフラッシュバックした。もう受け入れたつもりで、傷となって刻まれたそれは、どうしようもなく精神に痛みを呼ぶ。ぞわぞわとした寒気が全身を撫で、過敏に反応した身体が総毛だった。

 好意に反応する――恋愛感情アレルギー。


「それ、治してあげる」


 オレの反応を見ると、何事もなかったかのように、暁月は言った。


「その上で彼女なんかいらないって言うならそれでいい。でも、あたしが作ったその体質だけは、絶対にあたしが治す。他の誰にも、押しつけない」


 不快感にぐらつく視界の中で、暁月は笑っていた。

 吹っ切れたような。

 覚悟を決めたような。

 腹の据わった、不敵な笑み。


「ねえ、こーくん?」


 その声音は甘いのに、なぜか刃を連想した。


「――暴露療法って知ってる?」

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