湯けむり旅情思春期事件⑨ ひとたび栓が抜けたら


◆ 伊理戸水斗 ◆


「……ん?」


 男子部屋でのゲームがひと段落ついた後、いい読書場所がないかと旅館内をそぞろ歩いていると、見知った顔に出くわした。


「あ、水斗君」

「……………………」


 静かなラウンジのソファーに座っていたのは、いさなと結女だった。いさなは膝の上のタブレットから顔を上げてこっちを見るが、結女のほうは僕に気付くなり、どこか気まずそうに目を逸らした気がした。


「どうしたんですか? 男子部屋でハブられでもしたんですか?」

「……してないよ。なんとなく各自自由時間になっただけだ」


 結女の様子が気にかかったが、とりあえずいさなとの会話に応じる。


「そっちは?」

「わたしたちもです~。旅館の中もいろいろあるみたいなので、ちょっと回ってみようって、結女さんと一緒に。今ちょうど、昼間に描いた絵とか撮った写真を見てもらってたんです」

「へえ」


 人に見せられるくらい描いたのか? 気になって近寄り、いさなのタブレットを覗き込もうとすると、


「あっ……わ、私、ちょっとトイレ!」


 まるで僕に弾かれたように結女が立ち上がり、ピューッと走り去ってしまった。トイレとは逆の方向に。


 ……僕は、足湯でのことを思い出す。

 振り返ってみれば、何の意味があったのかわからない、白昼夢のような一時。

 今まで、冷静さをもって守っていた一線を、一時の感情で踏み越えようとしてしまったような、罪悪感のようなもやもやが、僕の中には残っていた……。


「水斗君、こっちどうぞー」

「……ああ」


 僕はいったん、そのもやもやを振り払い、さっきまで結女が座っていた、いさなの隣に座る。結女の体温がシートに少し残っていて、一瞬、体重をかけるのを躊躇った。


「異人館良かったですよねー。この構図とかエモくないですか?」


 そんな僕のことは露知らず、いさなはぴとりと僕に肩をくっつけて、タブレットの画面を見せてくる。

 ……マズい。今日はどうも、そういう日らしい。

 首筋を撫でる艶やかな髪や、細く白い首筋、そして浴衣の合わせから覗けてしまう胸元が、いつもよりも気になってしまう。旅行という非日常がそうさせるのか――いや、きっと、足湯でのあの一時が、僕の理性の栓を抜いてしまったのだ。

 いさなはそれを知らない。だから、いつも通り、じゃれつくようにして身体をくっつけてくる。男とは違う、ふわふわと柔らかい身体を。耳たぶをくすぐるように話しながら。


「でも、絵にするとなると難しいんですよねー。それぞれのパーツがどういう理屈でそこにあるのか、全然わかりませんし。やっぱりそういうの勉強したほうがいいんですかね? めんどくさぁ……」

「……必要に応じてでいいんじゃないのか。勉強から始めると、君の場合、飽きそうだし」


 くすぶった火のような感情を横に押しやりながら、僕は努めていつも通りに話す。

 大丈夫。これが僕らの、普段通りの距離感なんだ。どこにも問題はない……。

 どこかからせり上がる熱のようなものを、どうにか鎮めたそのときだった。

 いさなが急に、ぺたぺたと、僕の肩やら胸やらを触り始めたのだ。


「ちょっ……お、おい、なんだ?」


 動揺を押し殺して訊くと、いさなは「にへへ~」と嬉しそうに笑い、


「やっぱり水斗君は安心します~」


 そう言って、むぎゅっ、と僕の頬を両手で包み込んだ。

 しっとりとした手のひらが、接着されたように、ぴたりと僕の肌に吸いつく。


「慣れない人に囲まれて、ちょっと緊張してたんです。今のうちに回復させてください」

「……人をセーブポイントみたいに言うな」

「どっちかといえば、リスポーンポイントですね」


 ……戻ってくるってことか。最終的には。

 いさなは僕の頬をむにむにと捏ねる。押しのけたいところだったが、今の僕は、彼女の身体のどこに触れても良くない気がして、動くことができなかった。


「むむん?」


 そんな僕に、いさなは小首を傾げる。


「いつになく無抵抗ですね、水斗君。チューしちゃいますよ?」

「やめろ……。浴衣は生地が薄いから、ちょっと触りにくいだけだ……」

「え~? わたしがこんなにぺたぺた触ってるんですから、水斗君も触っていいですよ?」


 良くないんだよ! 胸にぶら下げてるそれを認識して物を言え!


「んん~……?」


 いさなは訝しげに眉根を寄せ、僕に顔を近付けた。僕は顔を逸らして逃がそうとしたが、頬を挟まれた状態では可動域にも限界があった。


「今日の水斗君……何だか、可愛くないですか?」

「は、はあ?」

「嗜虐心を刺激するというか……いじりがいがあるというか……」


 ちょ、おい。妙なこと考えてないか、こいつ!


「えいっ」


 いさなは一気に、僕の首に腕を巻きつけるようにして抱きついてきた!

 ぐにゅうっと、胸で柔らかな巨大なものが潰れる感覚。水風船にも似たその感触が、さしたる防壁もなくダイレクトに伝わってきたことに気付き、頭の中でバチバチと閃光が走った。こいつ、ブラしてない!


「(身体が強張ってません?)」


 ひそひそと、耳に囁き声が流し込まれる。


「(もしかして、今更わたしのおっぱいに目覚めちゃいました? 水斗君の理性さえ溶かすとは……これが有馬温泉のパワー!)」


 ぐにっ、ぐにっ、といさなは面白がって胸を押しつけてくる。どれだけ潰れても元に戻ろうとするその弾力に、僕は白目を剥きそうになった。


「(うぇへへ。こんな機会滅多にありませんからね。記念にいっぱいキョドらせておきましょう! うりうり~)」

「ちょっ、やめっ……! ~~~~っ!!」


 普段、まったくリアクションしないのを地味に気にしていたのか、いさなはここぞとばかりに仕返しを繰り返すのだった。






◆ 明日葉院蘭 ◆


「~~~~っ!!」


 わたしは廊下の角に隠れて、身震いすることしかできませんでした。

 人気のないラウンジに、見覚えのある顔を確認したのが1分前。それが伊理戸水斗と東頭さんだとわかったときには、すでにおぞましい行為が始まっていたのです。


 かっ、肩をくっつけるくらいならいざ知らず……! あ、あんな、顔を触ったり、近付けたり、抱きついたり……! 人気がないとはいえ、こんな公共の場所で!


 伊理戸水斗と東頭さんがただならぬ仲にあるのは、様子を見ていたらわかりました。いくら本人たちが口で否定しても、あんな距離感で接する男女が特別な関係でないはずはありません。

 東頭さんは大人しい方のようですから、きっと伊理戸水斗のほうが迫ったのではないかと、漠然とイメージしていました……。けど、ラウンジで展開されている光景では、むしろ東頭さんのほうが積極的で……。


 お、おかしいと思っていたんですっ! お風呂で妙にわたしの胸を見てきますし! でも、あんな大人しい顔をして、あんなふしだらな方だったとは……! 体型のことで悩みが共有できるかも、なんて一瞬でも思ったわたしが馬鹿でした!


 ……あれが、恋人というものなんですね。身体が近いだけじゃない。遠慮も躊躇も取っ払い、心を溶け合わせたような……。

 間近に見るのは、そういえば初めてのような気がしました。街を歩けばカップルはいますが、それはあくまで、人目があるとき用の外面です。人目がないときの、二人っきりのときのカップルは、あんな風に……。

 ……羨ましいなんて思いません。憧れることもありません。檻の中の動物を見て珍しがることはあっても、ああなりたいと思うことはないように。


 ただ、疑問はあります。

 伊理戸水斗は、あんなことをしていなければ、一位を獲れるのではないでしょうか。

 一学期の中間テストでやったように、東頭さんに向けている意識を、少しでも勉強に戻せば、伊理戸さんを抜いて一位になれるのではないでしょうか?


 ……わたしは、一位になりたい。一度だけじゃ足りない。ずっとずっと、一番がいい。

 それを捨てても構わないくらい、恋人というものは、いいものなんでしょうか……。


 ……わかりません。

 わたしにはわかりません。

 伊理戸さんや、亜霜先輩や……紅会長には、わかるのでしょうか。


「……………………」


 いや、まさか。

 あの紅会長が、横に並び立つ者なきあのお方が、あんな風に頭の溶けたようなことを、男子にするはずがありませんよね。

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