比翼の鳥が羽ばたくとき② 比翼の鳥


◆ 伊理戸水斗 ◆


 かつての日本において、結婚とは家と家との合併みたいなものだったという。

 当時は家制度ってヤツで、要は家族全体が、父親を社長とした企業みたいなものだったのだ。ゆえに結婚は、違う家=企業との連携を密にし、お互いの家をより大きくしていくための経済戦略の一つだった。だから結婚相手は父親が決めるのが当たり前で、女学校では花道だのお琴だの、花嫁修行ってヤツを大真面目に教えていたわけだ。


 自由恋愛の時代から見れば理不尽な仕組みにも、その時代の在り方からしてみれば一定の合理性を持っていたりする。実際、そうやって結びついた夫婦は、今の夫婦ほどには簡単に離婚できなかったはずだ――気に食わないことがあっても、仕方がないから我慢して、辛抱強く向き合っていくうちに、絆のようなものが芽生えることだってあったはずだ。


 そっちのほうが良かったと、僕は言えるだろうか。

 恋愛なんて面倒なものを、自分の意思で、個人の裁量で、ゼロからやっていかなければならない今よりも、家が良さげな相手を勝手に見繕ってくれる昔のほうが、良かったと言えるだろうか。


 ……どうかな。そうなってみないとわからない。

 少なくともその場合は、僕に人生の自由はない。結婚という重要事でさえ、他人に委ねるような有様なのだから。これは結局、自由を対価に楽を買っているに過ぎないのだ。


 自由は、楽じゃない。


 東頭いさなという、僕の知る限り一番自由な奴の面倒を見ているからわかる。あいつは自由であることと引き換えに、他の高校生が背負い込まなくてもいい苦労をいろいろと背負い込んでいる。

 例えば、体育でペアが見つからないとか、宿題を誰にも見せてもらえないとか、教科書を貸してくれる相手がいないとか――


 ただのぼっちと言えば簡単だが、あいつは人間関係をオミットすることによって、明らかに他者にはない才能を得て、それを今まさに伸ばしている。すべてのぼっちがそうなれるわけではないけれど、人間関係に割り振らずに済んだリソースを、別の部分に注ぎ込むことができるのは間違いのない事実だ。


 すべてはトレード・オフ。対価なしには何も得られない。


 自由であることには相応の努力がいる。常識に、固定観念に、縛られない囚われないと、そう言うのは簡単だ。ならお前は、一から自分の常識を、何にも固定されない観念を、自力で始めから組み上げることはできるのか?

 そんなことは誰にもわからない。開拓者は成功してから評価される。その成功が本当に成功であるかどうかだって、遠く後世にならなければわからない。クリストファー・コロンブスが、偉大な冒険家であると同時に最悪の虐殺者であったように。


 やってみなければ、わからない。

 やってみるだけの、覚悟がいる。


 迷いを去り、道理をさとること――覚悟を決めるとは、口だけの誓いを立てることじゃない。できるかどうかもわからない、無謀な約束をすることじゃない。


 僕と結女なら、決して別れることはないなんて、誰に確約できる?

 すでに一度――別れているのに。


 初めて付き合うなら、無謀な未来を誓うのもアリだろう。それは無知ゆえの未熟。だけど僕たちは知っているのだ。


 恋はいつか終わる。

 愛はいずれ冷める。

 永遠の恋愛など、ありえない。


 たぶん、一切の例外はない。他人と他人が連れ添って、何十年もの時間の間に、相手のことが一度も嫌にならないなんてことは、どう考えたってありえない。


 それでも、と。

 お前は言えるか、伊理戸水斗。


 健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、富めるときも貧しいときも、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り――


 まだ高校生の分際で。


 ――真心を尽くすことを、誓えるか?


 愚問だね。

 何度も何度も自問した。

 何度も何度も自答した。

 だからこそ、愚かな問いだと断言できる。


 愚問だ。

 そんなこと、できないに決まっている。






◆ 伊理戸結女 ◆


 十六年。

 まだ、たった十六年だ。


 私がこの世に生を受けて。

 水斗がこの世に生を受けて。

 まだ、たった十六年しか経っていないのだ。


 私たちが出会ってから数えれば、多めに見てもせいぜい三年。もっと長い間付き合い続けても結婚しないカップルがいるのに、たった三年しか同じ時を過ごしていない私たちが、どうして永遠なんて誓えるだろう?


 口先だけだ。

 一時の気の迷いだ。

 思春期に踊らされているに過ぎないって、はっきりとわかる。


 恋愛小説の結末なら素敵だろう。想いを通じ合わせ、永遠を誓い合い、次のページでは結婚式のシーンに飛んでいて、末長く幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし――


 現実はそうじゃない。


 むしろ、恋愛ものがそこで終わることから明らかじゃないか。そこから先にドラマはない。胸ときめくような恋も、燃えるような愛も、そこから先には存在しない。ピークが過ぎたら下っていくだけ。あんなにドラマチックだった恋が、ぐずぐずに停滞して衰えていく様なんて誰も見たくないから、物語はそこで終わるんだ。


 物語の最後のページは、まるでアルバムの写真のよう。綺麗なままで保存され、流れる時に置き去りにされていく。


 永遠はどこにもない。

 あるのはきっと、止め処ない変化。

 そのすべてを乗り越えた人だけが、幸せに人生を終えられる。


 考えるほどに険しい道のりだと思った。たぶん、もっと慎重に見極めるべきなのだ。もっともっと時間をかけて、この人生という険しい道のりを乗り越える方法はどんなものか、いっぱいいっぱい考えるべきなのだ。


 たかが十六年では足りなすぎる。

 三年ぽっちじゃ足しにもならない。


 たぶん、多くの大人が同じことを言うだろう。もっと考えたほうがいい。まだ学生なんだから。社会に出てからでも遅くない。みんなみんな、私の浅慮に忠言する。


 こんな正論なんて、見て見ぬフリをしたら楽だったんだろう。

 今この瞬間の感情に酔って、非日常な空気に中てられて。

 そう、あのクリスマス・イヴの夜のように――勢いのままに突き進んだら。

 たぶん、すごく、気持ちが良かった。


 でも、そんなのは偽物なんだ。クリスマスとか、夜景の見えるレストランとか、そういう常ならぬ空気感で味付けをした誓いなんて、長続きするはずがない。


 私たちに必要なのは。

 何でもない日常の中で、当たり前の生活の中で、当然のように――


 それでも。


 ――と、覚悟を決めること。


 だから私は、この勝負の日にデートをセッティングすることはなかった。

 私は、綺麗に切り取られた思い出が欲しいんじゃない。

 最後のページの後まで羽ばたく、もう一枚の翼が欲しいんだ。






◆ 伊理戸水斗 ◆


 比翼の鳥、という言葉がある。

 一枚しか翼を持たない鳥が、雌雄で一体となることで両翼を揃え、初めて羽ばたくようになる――


 僕は果たして、比翼の鳥なのだろうか?


 自分でそう思ったことはない。一人で生きていけるとずっと思っていた。

 でも、だとしたら。

 結女と一緒に花火を見たあのとき、どうして僕は、泣いてしまったんだろう。


 あのときの自分のことが、未だによくわからない。嬉しかったのだろうか? 安心したのだろうか? マイナスの感情ではなかったことは確かだけど、正確に分析することは不可能だった。


 結女ならば――それがわかるのだろうか。

 泣いた僕にキスをした、結女ならば。


 人は思う以上に、自分のことを知らない。あの慶光院さんですら、子供が生まれるまで自分の性質を認識していなかったのだから。


 僕はすでに、自分が進む先を見定めている。

 けれど、進む自分を顧みることはできない。

 誰かに――見てもらわない限りは。


 これは甘えだろうか? 古臭い家制度のように、自分を中心に家を構成しようとしているのか?


 いや。

 僕は知っている。彼女を知っている。

 まともに人と会話できなかった彼女から、立派に生徒会を務め上げている彼女までを知っている。


 収まらないさ。たかが良妻賢母には。

 僕のためではなく、結女のためでもなく。

 僕たちのために。

 両の翼が必要なのだと、そう思える。

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