東頭いさなは惑わない。「……あの、……部屋、戻ります?」


◆ 伊理戸水斗 ◆


 自慢じゃないが、僕には同級生の女子の家を訪ねた経験がある。

 そして自慢じゃないが、その同級生の女子とは、当時の僕の彼女でもあった。

 そう、本当に自慢ではない。

 何せ僕は、彼女の家を訪ねたことはあっても、女友達の家を訪ねたことはないのだから。


『水斗君。明日、わたしの家、来ませんか?』


 夜に通話がかかってきたと思えば、東頭いさなはそんな話を切り出した。


「なんでだよ。別に君の家に用なんかないが」

『つれないですねー。わたしがいるじゃないですか』

「君、僕が行かなくても勝手に来るじゃないか」

『それなんですよ、それ』

「それって?」

『わたしが毎日のように水斗君ちに遊びに行くもんで、お母さんが……』

「なんだ。ついに叱られたか」

『いえいえ――一回、伊理戸さんちに挨拶させろ、と』

「あー」


 なるほどな。真っ当な神経をした親なら当然の申し出だ。たぶん。

 話の端々から類推するに、東頭の母親はなかなか強烈なキャラクターをしていたはずだが、その辺の社会的常識はわきまえているらしい。


『でもでも、なんか嫌じゃないですか。友達の家にわざわざ母親連れていくなんて』

「まあなぁ」

『というわけで、とりあえず水斗君だけでも、という話になりました』

「また面倒な……なんで君の親に挨拶なんかしなくちゃいけないんだ」

『ふふー。結婚するみたいですねー』

「行く気が失せた」

『お願いしますよおー! わたしがお母さんに殺されるんですーっ!』

「前々から思ってたが、君の母親は元ヤンか何かなのか」

『違いますよう。お母さんはヤンキーとかじゃなくて、ただ素で乱暴なんです』

「なおさら行きたくなくなった……」

『大丈夫ですって! 水斗君に礼と詫びを入れたいって言ってるんですから!』

「『礼』とか『詫び』とか、言い方がもうアレなんだよ……」


 僕は溜め息をついた。

 まあ、先方の言い分は極めて真っ当だし、実のところ、招きに応じるのにはやぶさかではない。……東頭の家にも、興味がないといえば嘘になるしな。僕の本棚は散々漁られているのだから、そろそろやり返さないとフェアじゃないと思っていたところだ。

 けど、なあ……。

 僕は隣の部屋の方向を見る。

 東頭の家に行くって言ったら、あの女、どんな顔をするかな……。


『……嫌、ですか?』


 少し不安げな声が、スマホの向こうから聞こえた。


『本当に嫌なら、べつに、いいですけど……』

「いや、大丈夫だ。行く」


 直前まで迷っていたのが嘘のように、僕は答えていた。

 東頭は声を明るくして、


『ほんとですかっ?』

「ああ。僕のプライバシーばかり侵害されるのは心外だからな」

『侵害だけに?』

「侵害だけに。明日は君を丸裸にしてやる」

『えっ? ……あ、あのあの、そういうつもりなら、そのう、準備は男の子のほうでしておいていただけるとぉ……』

「言い損じた。君の本棚を丸裸にしてやる」

『もてあそばれました! お母さーん!』

「馬鹿やめろ脳内ピンク!」


 明日顔を合わせたときに、『こいつ今日ウチの娘を丸裸にしに来たのか』と思われたらどうするんだよ!


『むうー……水斗君、気を付けてくださいよ? 我が家にはそういう準備がありませんので』

「我が家にだってないよ。つまり、いつもと同じだ」

『そうですね』


 じゃあお部屋を綺麗にして待ってますね、と言って、東頭は通話を切った。

 それから、僕は何気なく、隣の部屋の方向に視線をやる。

 ……文句を言われる筋合いはないよな。

 今の僕には、東頭を寂しがらせてまで守らなければならない義務は、何もないんだから。






 東頭家は、大通りから少し外れたところにあるファミリー向けマンションだ。

 家まで送ったことがあるから、マンションの前までは来たことがある。が、いつもエントランスの手前で別れるので、中に入るのは初めてのことだった。

 川波・南家とは違ってオートロックではないらしく、すんなりとエントランスに入り、エレベーターに乗って事前に聞いた部屋番号を目指した。

 東頭、という表札は廊下の一番奥にあった。角部屋である。

 インターホンを目の前にして、僕はスマホを取り出し、東頭をコールした。


「もしもし、東頭?」

『んぁ……ふぁーい……』

「……君、もしかして寝起きか?」

『大丈夫でふー……。いま開けますねー……』


 通話が切れる。まだ13時くらいだからな。夏休みだし、仕方がないか。支度が整うまで待とう。

 そう思って荷物から本を取り出そうとしたのだが、その前にガチャリとドアが開いた。


「いらっしゃいですー……」


 寝癖を付けた東頭が顔を出す。

 その姿を見て、僕は呆れ顔を浮かべた。


「それが客を迎える格好か」


 東頭は、大きめのTシャツにゆったりしたショートパンツを穿いただけの、明らかに寝起きの格好だった。

 ベルトも何もしていないから、大きな胸に持ち上げられたTシャツの裾が、お腹の前で暖簾のように揺れている。使い古しなのか襟ぐりがだるだるで、白い胸元がちらちら見えているし、ショートパンツからは太腿を無防備に晒していた。

 明らかに来客を――それも、仮にも男を迎える格好ではない。

 東頭の無防備さは今に始まったことではないけど、今までは少なくとも外には出られる格好だった。でも、これは自宅の中だけの……。


「んあー……そういえばパジャマのままでした……」


 東頭は襟元を軽く引っ張り、自分の姿を見下ろす。襟からTシャツの中が覗けそうになり、さすがの僕も目を逸らした。

 ……ん? 今……?


「すみません……さっきまで寝てたのでー……くあ……」

「着替えろよ。待ってるから」

「あー、大丈夫です……。あとでちゃんとするので……。とりあえず入ってください……」


 東頭がくしくしと目をこすりながら玄関の奥に戻っていく。

 本当にいいのか? 首を傾げつつも、僕は東頭家の敷居を跨いだ。


「くあ~……」


 東頭が欠伸をしながら、サンダルを脱ぎ捨てて框に上がった。


「……っとっと」


 やはり目が覚めていないのか、その際、上がり框の角に躓いて――

 ――ぶるんっ。

 ……んん?

 今……妙に、胸が……揺れ……?


「危ない危ない。へへ~。……あ、水斗君、スリッパいりますか~?」

「いや、別にいいけど……」

「そうですか~。それじゃついてきてくださいー」


 気のせいか? 別にいつも揺れ方を注意して見てるわけじゃないし……。

 玄関から右に伸びていく廊下を、東頭はぽてぽてと歩いていく。

 と思いきや、玄関からすぐのところに扉があり、東頭はそれを開いた。


「わたしの部屋はここです」

「ずいぶん玄関に近いんだな」

「でしょー? 外に出るとき楽です。滅多に出ませんけど。へへー」

「羨ましいよ。十五年以上、二階に住んでいる身としては」

「わたしとしてはそっちのほうが憧れますけどね。二階建てー」

「あっちは?」


 廊下は数メートル進んだところで左に折れている。その角の突き当たりに、もうひとつ扉があった。


「あっちはお父さんとお母さんの寝室ですー。角を曲がったらリビングがあります」

「先にしたほうがいいのか? 挨拶」

「お母さんはちょっと出かけてるので、あとでいいですよー。お父さんは今日はいません」


 今日はってことは、いるときのほうが多いわけだ。その辺り、川波家や南家とはちょっと違うな。


「どうぞご遠慮なくー」


 東頭は道を開けて、僕を部屋の中に招き入れる。

 東頭の部屋は、まあおおよそ想像通りだった。

 文庫本でぎっしり詰まった本棚があり、そこからあぶれた本が、勉強机やベッド、床に積まれて塔を形成している。本の他にも、学校のプリントだの脱ぎ捨てた靴下だのが散乱していて、『あー、東頭の部屋だなあ』という感じだ。

 僕が適当に床に座ると、東頭は扉を閉めた。


「ふあ~……ベッド座ってもいいですよ?」

「僕は君ほど豪胆じゃない」

「えー? そんなに変ですかねえ……」


 首を傾げつつ、東頭はタオルケットが生々しく乱れているベッドに「んしょっ」と膝を乗せる。

 それにしても、部屋を綺麗にしておくと言っていたのはなんだったんだ。その辺に散らばってるプリント、まさか夏休みの宿題じゃないだろうな――ん?

 何気なく動かした手に、何か布のようなものが触れた。

 なんだこれ? 薔薇のような赤色の、お椀のような型が二つくっついた――

 ……、…………、………………。

 …………ブラジャーでは?

 無造作に床に転がっていたそれは、明らかに、ブラジャーだった。依然に見た結女のものとは違う。何が違うって、サイズが。自己申告によれば、確か東頭はGカップ――

 ああもう! 本当に来客を迎える状態じゃないじゃないか!

 僕は大急ぎで、そばに転がったブラジャーから目を逸らす。

 逸らした先で、事件は立て続けに起きた。


「ん~……」


 ベッドの上で、ぺたんと女の子座りをした東頭が。

 寝起き特有のぼやぼやした声で呻きながら。

 ぐいっと、Tシャツの裾を両手でまくり上げたのだ。


 お腹を見たかった、という感じではない。

 そのまくり上げ方、勢いは、明らかに――脱ぐときのそれだった。

 東頭のへそが見え、肋骨が見え、そしてその上のものに、Tシャツが引っかかった。

 Tシャツの裾が、をぐいと持ち上げた。

 重力に引かれ、は下半分をTシャツから零れさせる。

 この段に至って、僕はようやく気が付いた――さっき抱いた、違和感の原因に。


 下着を……していなかったのだ。

 真っ白な、半月状の肉が、何の布地に守られることもなく、まくり上げられたTシャツの裾から覗いているのだ。


 僕は一瞬、呆然としてしまった。

 そもそもからして、女子の下乳を実際に見ること自体初めてだったし――まさか東頭がノーブラだなんて、今この瞬間まで考えもしなかったのだ!


「んっ……!」


 東頭はGカップの乳房に引っかかったTシャツに、一瞬だけ苦戦した。

 その一瞬の苦戦が、明暗を分けた。


「おい!」


 致命的な部分が見えてしまう寸前に、僕が声を上げることができたのだ。

 東頭はTシャツを脱ごうとしていた手をぴたりと止め、訝しげに僕のほうを見た。

 下乳を晒した格好のまま、数秒間、不思議そうに僕を見つめていた。

 それから、


「……あっ」


 疑問が氷解した顔になって、Tシャツの裾をお腹の下に戻す。

 東頭は裾を掴んだまま、しばらくの間沈黙して、


「…………びっくりしたあ…………」

「こっちの台詞だ!」


 全力で突っ込むと、東頭は「うぇへへぇ」と照れ笑いをした。


「完全に寝惚けてました。自分の部屋に男子がいるっていう状態がわからなすぎて……」

「めちゃくちゃ嫌な汗かいたぞ、今の一瞬で……」

「ご迷惑おかけしましたー」


 東頭はベッドにぺたんと座ったまま、ぺこりと頭を下げる。

 ……その際に、シャツの襟がだるんと垂れ下がり、やはり何も着けていない二つの白い膨らみが、否応なしに覗けてしまった。

 すぐに目を逸らしたが――白い、だけだったよな? ピンクのものは、見えてなかったよな……?

 す……隙がありすぎる。

 こいつは元から隙だらけだが、自分の部屋だとさらに顕著だ。僕のことを信頼しているとか、もはやそういう次元をぶっちぎっている。自室に他人がいるときにどう振る舞うべきかというアルゴリズムが、これっぽっちも構築されていない。


「いくら何でも油断しすぎだぞ。部屋も全然片付けてないし……」

「いやー、寝る前にやるつもりだったんですけどねえ。……あ、やば。昨日着けてたやつ片付けてない」

「……昨日着けてたやつってのは、今、僕のすぐ横に転がってる、これか」

「いやあ~……お恥ずかしい……」

「本当にな!」


 僕はブラジャーの端っこを摘まみ、勢いに任せて東頭に投げつけた。

 東頭は顔面に当たったそれを広げ、自分の胸に当ててみせる。


「どうですか? 結構セクシーなの着けてるでしょ~」

「話聞いてたのか君は!」

「これでも結構恥じらってるんですよ。だから冗談で誤魔化してるんじゃないですか。察してください」


 ……わかるか。だったら多少は赤くなるなりしろ。

 東頭はブラジャーをタオルケットの中に突っ込んで隠した。


「そもそも、なんで下着着けてないんだ……」

「さっきまで寝てたからに決まってるじゃないですか」

「寝てる間は外すもんなのか……?」

「ナイトブラっていうのを着けるんですよ。ほらこれ」


 ベッドに放ってあった黒い布地を広げ、僕に見せる東頭。そっちは何だか丈の短いキャミソールみたいな感じで、センシティブさはあまり感じない。


「これ着けないと形が崩れちゃうらしいです」

「君もそういうの気を遣ってるんだな」

「いえ、ちゃんとしないとお母さんに殺されるので……。せっかく美巨乳に産んでやったのにって」


 殺されたら美乳も巨乳もないと思うが。


「だったらなんでそれを着けてないんだ」

「いつも起きたら無意識に脱いでるので」

「そうか……」


 まあ、ブラの拘束感は男にはわからんから、何ともコメントできないが……。

 東頭はナイトブラとやらをぺいっと放り捨てると、自分の胸を見下ろして「ん~」と首を傾げた。


「ブラ……着けないとダメですかね……」

「ダメだろ」

「水斗君的にはノーブラのほうが嬉しかったり……」

「しない」

「本当です?」


 東頭はおもむろに両腕でシャツのお腹を押さえ、胸のラインがわかるようにした。

 そして、上半身を上下に揺する。


「たゆんたゆーん♪」

「やめろ馬鹿!」


 ギッ、ギッ、とベッドのスプリングを軋ませながら、東頭の膨らみが柔らかに揺れる。ブラの支えがないだけで変わるもので、その揺れ方から重さや柔らかさまで伝わってくるようだった。

 仕方なく目を逸らす僕を見て、東頭がにや~っと意地悪く笑うのが視界の端に見えた。


「どうしたんですかぁ~? わたしをフッた水斗くぅ~ん? フッた女のおっぱいがそんなに気になりますかぁ~?」

「イキりにイキりやがって……! 僕の紳士さに少しは感謝しろ!」

「えへへ~。照れる水斗君可愛いです~! どれどれ、もっと近こう寄れ!」

「自分から寄ってくるな!」


 東頭がベッドを降りてにじり寄ってきたので、後ずさりして逃げる。

 その反応が悪かったのか、東頭は悪ノリをエスカレートさせ、胸を両手で持ち上げてみせた。

 ずしりと、その重みで指が肉に食い込む。


「柔らかいですよ~? 水斗君なら触ってもいいですけど~?」


 こいつ、調子に乗りすぎだ……!

 少し灸を据えてやろうと、僕は少し声を低くした。


「……、本当か?」

「え?」

「触っても、いいんだな?」

「えっ……」


 東頭の目を見据える。すると東頭は、明らかに瞬きの回数を増やした。


「いや、あの、そのう……」

「いいんだな?」


 ずり、と逆に距離を詰めてみる。と、東頭は同じだけ後ずさった。


「い……いい、というか……わたし的には本望というか……でも心の準備というか……いきなりは気持ちがついてこないというか……い、今のはちょっと楽しくなっちゃっただけで――あっ!?」


 全力で目を泳がせながら言い訳を連ねていた東頭は、不意に大きな声を上げて、身体を隠すように蹲った。


「どうした?」

「い……いえ、あの……ですね。まあ、気付いてないならいい……んですけど……」


 もごもごとわけのわからないことを呟いたかと思うと、東頭はようやく顔を上げる。

 その顔は、心持ち赤くなっているように見えた。


「乳首……浮いてました」


 冗談めかして言い、東頭はにへらと笑った。

 僕は硬直した。


「……、は?」

「えへ……えへへ。ちょーっと、興奮しすぎましたかねー? ――あ痛たっ!」


 僕は無言で、東頭の頭をはたいた。

 越えちゃいけないラインを考えろ、女友達。






 東頭に着替えさせるため、僕はいったん部屋の外に出た。

 まったく……親しき中にも礼儀ありという言葉を知らないのか、あいつは。相手が恋愛対象じゃないにしても、最低限の身嗜みは整えるだろ、普通。

 ……まあ、そういう意味で言うと、さっき迫るふりをしてみせたのは、ちょっとやりすぎたかもしれないが――もちろん本気じゃないと説明はしておいた。


 壁に背中を預け、天井を見上げる。

 他人の家の廊下に棒立ちというのは、何とも落ち着かない気分だな。家族もこれから帰ってくるって話だし――いや、今日は家族いないって言われるほうが問題だな、この場合。


「――ただいまー」


 扉が開く音と共にそんな声が聞こえ、僕は内心ドキリとした。

 すぐ横にある玄関から、誰かが入ってきた――いや、帰ってきたのだ。

 それがどこの誰なのかなんて、今更考えるまでもない。


「いさなぁー、起きてっかー? ――お?」


 その女性は、廊下に立つ僕を見て眉を上げた。

 スレンダーで背の高い、宝塚にでもいそうな威風堂々とした女性だった。

 すらりとしたパンツルックで、背筋もスッと伸びている。腕も足もほっそりしているし、話に聞いたような乱暴さは見受けられないが、男みたいなショートヘアからは性格の一端が感じられた。

 由仁さんも若く見えるが、この人はもっと若いな――東頭の姉だと言われても普通に信じられる。が、東頭に兄弟姉妹がいるという話は聞いたことがない。


「……お邪魔してます」


 女性――おそらくは東頭の母親に、僕はとりあえず会釈しておいた。

 東頭母(仮)は「んん?」と眉間にしわを寄せ、ずずいと顔を寄せてきた。僕は少し仰け反る。


「お前……もしかして、『水斗君』か?」

「は……はい。伊理戸水斗です」


 初対面の人間に『お前』て。

 言い知れようのない圧に押されつつ、怪訝げな目を見返す。この人、身長が僕と同じくらいあるな。

 東頭母(仮)は首を傾げ、


「いや、おかしいな……。あのいさなのダチが、初対面の相手にきちんと名乗れるような礼儀を持っているはずがねえ」


 どういう偏見だ。


「いさなからは、『水斗君』は無愛想で意地の悪いぼっち野郎だって聞いてるぜ。てめーみてえなシュッとした優イケメンじゃあねえ」

「おい東頭ぁ! どんな風評流してくれてるんだ!」

「ひょおわわっ!?」


 扉の中からどたばたと慌てた音がした。

 それから数秒して扉が開き、東頭が顔を出す。依然として寝間着のTシャツのままだったが、だるだるの襟ぐりからブラ紐が覗いていたので、下着は着けたようだ。良かった。いや良くない。見えてるんだよ。


「なんですかいきな――あ、お母さん」

「いさな」


 東頭母(確定)は細めた目で娘を見下ろし、


「『おかえりなさい』はどうした?」

「おかえりなさい、お母さん!」


 東頭は急にピシリと手を挙げ、宣誓するように言った。「よし」と東頭母が肯く。なんだこれ。軍隊?

 東頭母は、ピッと親指で僕を指す。


「いさな。ひとつ訊くが、コイツは誰だ?」

「え? 水斗君ですけど」

「コイツが? 本当に?」

「本当ですよう。顔がすごく可愛いって言ったじゃないですか」


 誰にでも敬語だとは聞いたが、親相手にもそうなんだな。何とも不思議な感じだ。


「ふう~ん……」


 東頭母は値踏みするような目で僕を――あー、もう面倒臭いな。


「すみません。ひとつ訊かせてもらってもいいですか?」

「なんだ?」

「名前を聞きたいんですが」

「アタシのか?」

「はい。このままだと『おばさん』と呼ぶことになるので」


 この人に『おばさん』はちょっと違うよな、と思って、他意なくそう言うと、東頭母は愉快げににやりと笑った。


「へぇ。おもしれー男」


 なんか少女漫画みたいなこと言われた。


「アタシの名前はナギにトラと書く。どんな漢字かわかるか?」

「ナギにトラ……海の凪に動物の虎ですか?」

「読み方は?」


 凪虎と書いて――そのまま『なぎとら』と読むのは女性っぽくないから、


「……なとら、ですかね」

「正解」


 答えた瞬間、東頭母――凪虎なとらさんはニカッと笑って、僕の肩をバシバシと叩いた。


「いやー、ははは!! 疑って悪かったな水斗クン! イメージと全然違ったからよ!!」

「はあ……別に気にしてませんが」

「ずいぶんと頭の回転が早えーじゃねえか! アタシの名前を一発で読めたのはお前で五人目くらいだ!」


 曖昧だし結構いる。確かにちょっと変わった名前だが、いわゆるキラキラネームに比べれば全然マシだ。ちなみにナギが海の凪だと思ったのは、娘のほうが海に関連する名前だからである(『いさな』は鯨の古語)。


「それに、ガキのくせに一端に気を遣いやがる! アタシはお前を気に入ったぜ、水斗クン! いさなにゃ勿体ねえ男だ!」

「それはどうも」


 とりあえず肩をバシバシ叩くのをやめてほしい。


「良かったですねー、水斗君。気に入られなかったらボコボコにされてたかもですよ」

「え?」

「人様んちの子に人聞きの悪いこと言ってんじゃねーよ、いさな。ちょっとしばいて表に蹴り飛ばすだけだ」


 それはボコボコにするのと何か違うのか?


「……っつーか、いさなお前、なんだその格好。それが客を迎える姿か?」

「えー? いいじゃないですか、外出ないんですから」


 Tシャツにショートパンツの東頭は、不服そうに唇を尖らせる。

 そうだ、言ってやってくれ母親。こいつに一般常識を教えてやってくれ。


「うーん……」


 凪虎さんは腕を組んで娘の格好を検分し、


「……いや、逆にアリだな。今日はそのままでいろ」

「わーい」


 は? 何がアリ? だるだるの襟が肩までズレてブラ紐が丸出しになってる格好の何が?

 僕の疑問には答えることなく、凪虎さんはすたすたと廊下を歩き始める。


「いさな、お前何も食ってないだろ。遅いが昼メシだ。水斗クンは家で食ってきただろうからおやつを食え」

「あ、はい。お構いなく」

「はッ。無理な相談だな。娘が連れてきた初めてのダチだ、構うに決まってんだろ?」


 にやりとワイルドに笑う凪虎さん。女だったら惚れてるかもしれないくらいの格好良さだが、この人、何を言うにもほとんど命令形だな……。

 東頭ともども凪虎さんについていき、廊下を曲がった先の部屋に移動する。

 広々としたリビングダイニングだった。奥に広いベランダがあり、洗濯物が無防備に干されている。


「いさな、今日のお前の昼メシは親子丼だ。大人しく座って待ってろ」

「了解でーす」


 凪虎さんがキッチンに入っていき、東頭はてこてことリビングのソファーに向かう。東頭がぼふっとソファーに腰を下ろし、僕を見ながらバンバンと隣の座面を叩くので、僕もそこに座った。

 東頭は僕の顔を覗き込むようにして、


「挨拶は大成功ですね」

「みたいだな。……ま、嫌われるよりはよかったよ」

「これからはいつでもウチに来ていいですからね!」

「君がちゃんとした格好をするなら考える」


 僕は東頭の顔を見ずに言う。今、東頭の顔を見ようとすると、Tシャツの襟から胸元が覗けてしまう。

 東頭は「えー? 着替えるのめんどくさいです……」と不服そうに言った。まあ気持ちはわからんでもないが、最低限の恥じらいは持っていてほしいものだ。人として。

 それにしても、娘のこのあられもない格好を容認するとは、一体どういう教育方針なんだ。東頭の世間知らずは家庭環境によるところ大と見た。

 それから、月末の新刊について軽く話していると、キッチンから凪虎さんが出てきた。


「ほらよ。食え」


 東頭の前に、親子丼がボンと置かれる。意外と言うべきか、ふわとろでお店のような出来だった。東頭はいただきますも言わずに、どんぶりを掴んでわしゃわしゃと食べ始める。なんだか本当に犬がエサを食べているみたいだった。


「こっちはお前の。適当に摘まめ」


 と言いながら、凪虎さんは木皿をテーブルの真ん中に置く。クッキーだった。

 東頭は唇にご飯粒をつけながら、


「あ、それ、昨日作ってたやつ」

「焼きたてじゃなくて悪りぃな。でもまあ、充分うめーだろ、たぶん」

「自分で作ったんですか?」

「趣味さ。楽しみのない人生は張り合いがない」


 このキャラクターでお菓子作りが趣味なのか……。意外だけど、言いように屈託がなさすぎてそれもまた格好良く見える。この周りのイメージに左右されずに堂々としているところは、娘の東頭と相通じるものを感じた。

 失礼してクッキーを賞味していると(旨い)、凪虎さんはどっかりと僕の対面に腰を下ろした。


「よう、水斗クン。改めて、ウチの娘が世話んなってるな」

「そうですね」

「あれ? 水斗君、そこは『こちらこそお世話になっております』では……?」

「こちらこそお世話しております」

「あれあれ!? 違いますよ? 受動態じゃないですよ!?」

「はっは! 手ぇ焼かせてるみてえだなあ。ありがてえ限りだぜ」


 凪虎さんは悠然と脚を組み、クッキーをバキリと噛み折った。煎餅みたいな食い方だな。


「いさなは昔っから協調性っつーモンがゼロでな。ま、どこにでもいるようなモブに成り下がるよりかは上等だが、ダチの一人もできねーことには心配ってヤツをしていたのさ。嬉しかったぜ? いさながニコニコしてお前の話をしてきたときはよ」

「に、ニコニコなんかしてませんよう……」

「してたじゃねーか。……ああいや、ニコニコじゃなくてニヤニヤだったか? 気っ色悪かったなあ、あんときは!」

「ひどいです! 虐待です!」


 ハハハと凪虎さんは豪快に笑う。親子仲はいいみたいだな。


「アタシの知る限り、この空気の読めねー娘の相手をこんなにしてくれてんのは、水斗クン、お前だけだ。よほど波長が合うんだろうなあ。そこんとこどうなんだ? え?」

「……そうですね。僕も、東頭ほど気の合う奴は初めてですよ。僕も僕で、友達なんか作ったためしがないもので」

「へえ?」

「ちょ、ちょっと水斗君……さすがに照れるんですけどぉ……」


 東頭が「う~」と唸る。別に、ただの事実だし、恥ずかしがるほどのことでもない。

 凪虎さんは「はっは!」と機嫌良く笑うと、パシッと自分の膝を叩いた。


「よし! 結婚しろ、お前ら!」


 一瞬頭がついていかなかった。


「……は?」「うぇ?」


 僕も東頭も、しばし呆然とする。

 凪虎さんは一人ニヤニヤしながら、


「聞けば水斗クン、学年トップの優等生らしいじゃねーか。あの進学校で、大したモンだ。いさなにはもう二度と、お前ほどの優良物件と縁ができることはねえだろう。っつーことで、もらってくれ」

「いや……あの?」

「驚くこたぁねえだろう? 子を想う親として当然の申し出さ。人を見る目には自信があってな、お前なら娘を幸せにできると、アタシは確信した。いさなと結婚しろ。すぐにしろ。十八歳になったらな」


 ものすごい圧に仰け反りつつも、もしかして、と僕は思った。

 隣の東頭にこそっと話しかける。


「(おい、東頭。もしかして……話してないのか?)」


 東頭が僕に告白して、僕がそれを断ったこと。

 もしかして凪虎さんは、知らないんじゃないのか?

 東頭は縮こまりながら、


「(は、話せるわけないじゃないですか……)」

「(なんで)」

「(そ、そんなこと言ったら……水斗君が、ぶっ殺されるかも、と思って……)」


 僕は口を噤んだ。

 それから、凪虎さんのまっすぐにこちらを射抜く、鋭い目つきを見た。

 嫌な汗が滲んでくる。

 ありうる。

 凪虎さんがどれほど暴力的なのか、僕は目にしていないが……そのプレッシャーが語っている。『娘を悲しませたら殺す』と物語っている。

 雑な扱いをしているように見えて……親バカなのだ、この人は。

 言えない。

 言ったら死ぬ。

 もうフりました、なんて……この状況で。


「ん? どうだ? 悪い話じゃあねえだろう。お前もいさなのことを憎からず思ってんならな」

「いえ、あの……それは、友人としての話なんですが」

「別にいいじゃあねーか。ダチと結婚して何が悪い? そりゃまあ手は焼くかもしれねーが、心配すんな。身体だけは最高に仕上げておいた」


 ビッと親指を立てる凪虎さん。「えへへ」と照れる東頭。照れるな。最低なこと言われたんだ、今のは。

 ダチと結婚して何が悪い、ね……。

 そりゃあ僕だって、百歩譲ってルームシェアならアリかもしれないと思うが……。


「ふん」


 鼻を鳴らして、凪虎さんはバリボリとクッキーを食べる。


「お前は、アレだな。恋愛なんて面倒なことしたくねえってツラだな」

「……ええ、そうですね。正直に言えば」

「はあ~……」


 凪虎さんは深々と溜め息をつく。落胆されようが、それが僕の正直な気持ちだ。下手に誤魔化したほうが、きっとこの人は怒るだろう。


「まったくわかってねえなあ。これだからガキは――そういう奴ほど結婚すべきなのさ」

「え?」

「いいか、水斗クン? 既婚者ってのは、恋愛っつーめんどくせえ世界から足を洗った人間の称号なんだよ」


 予想の外から来た言葉に、僕はかすかに息を詰めた。


「左手の薬指に指輪をしときゃあコナかけてくる奴はいなくなるし、田舎の親に『彼氏いないの?』『結婚はいつ?』なんてぐちぐち言われる心配もなくなる。楽だぜー? 既婚者はよ。人類すべてが恋愛すべきだと思ってる、救いようのねえ恋愛脳どもの相手をしなくて済むんだからよ」


 凪虎さんはハッハと小気味良さそうに笑う。


「恋愛結婚を否定はしねーが、アタシに言わせりゃ博打だね。好きになった相手と生活の呼吸が合うとは限らねーんだから。周り見てみろ。中学で付き合ってた連中は高校に入ったら別れてるし、高校で付き合ってた連中は大学に入ったら別れてる。その程度の感情で、一生一緒にいられる相手を見定められるわけねーじゃねーか――結婚するなら、好きな奴より気の合う奴を選べ。先達からのアドバイスだ」

「お母さんはお父さんとずっと仲良しですもんね」

「ああ。今でも一緒にモンハンやるぜ」

「でもお父さん、いつもしばかれてる気がしますけど」

「そりゃアイツが大タル爆弾を持ってき忘れるのが悪い」


 がっはっは! と凪虎さんは海賊みたいに笑った。

 中学で付き合ってた連中は高校に入ったら別れてる、か……。

 けだし至言だ。恋愛なんて一時の気の迷いで、人生のパートナーを決めるべきじゃない。

 そして結婚さえしてしまえば、気を迷わされる心配もなくなるのだ……。

 理屈は、通っていた。

 東頭と恋人にはなれなくても、夫婦としてなら、気楽にやっていけるかもしれない――それはきっと、否定できざる事実だった。


「まあ……さっきはすぐにっつったが、ゆっくり考えろや。高校生なんざ、まだ下半身でしか物を考えられねー時期だしな」


 高校生を下等生物だと思ってるのかこの人は。


「おい、いさな」

「はいー?」


 東頭の親子丼は空になっていた。唇についたご飯粒をぺろりと舐め取っている。

 凪虎さんはそんな東頭を見ながら、僕のほうを指差す。


「お前、いっちょコイツを籠絡してこい」

「えっ? できたらやってますけど」

「んだとォ? てめー、何のためにそんなデカ乳に産んでやったと思ってんだ。使え」

「お母さんは水斗君の鉄壁ぶりを知らないからそんなことが言えるんですよう」

「我慢してるに決まってんだろ馬鹿」

「ええ~?」

「向こうの家では他に人いんだろ? アタシはしばらく外出ててやっからよ。ビビって何もできなかったりしたらブッ殺すからな」

「うええ~」


 東頭はうんざりと呻いた。

 感覚がおかしくなってきたが、本人を目の前にしてなんて会話をしてるんだ、この親子は。常識の違う異世界に転生した気分である。

 凪虎さんはソファーから立ち上がり、


「んじゃ、ゆっくりしてけや、水斗クン。ここ、壁厚いから多少声出しても平気だぜ」

「……お構いなく」

「何度も言わせんな。構うに決まってんだろ?」


 にやりと笑って、凪虎さんは本当に出ていった。

 後に残された僕たちは、しばらくの間、クッキーを食べて過ごした。隣の東頭は気を遣ってくれているのか、いつものように膝枕にしてきたりはしなかった。


「……あー、水斗君」


 東頭は言葉に迷うように、おずおずと言う。


「お母さんの言ったこと、真面目に聞かなくても大丈夫ですよ?」

「わかってるよ」

「何かにつけ判断の早い人なので。すぐにああしろこうしろって言うんです」

「うん」

「……あの、……部屋、戻ります?」


 隣を見ると、東頭が上目遣いで、僕の顔色を窺っていた。

 視界の下端に、Tシャツの白と胸元の肌色の他に、水色の布が見えたような気がした。


「……そうだな」


 ――我慢してるに決まってんだろ馬鹿


 そりゃあ、そうだよ。

 僕が君をフッたのは、君に魅力を感じなかったからじゃないんだ。






 あのときのことを、思い出しておくべきだろう。

 東頭が告白し、僕がそれを断った、あのときのことを。


 ――だから、ごめん。――僕は、君を彼女にはできない


 僕の答えを聞いた東頭は、しばらくの間、黙ってその場に突っ立っていった。

 声をかけることも、立ち去ることもできなかった。ただ、その姿を見守っていることだけが、僕がすべきことのすべてだと思った。 


 実は、心のどこかで覚悟していたのだ。

 僕と東頭は、いつまでも友達ではいられないかもしれない。

 かつての、中学の頃の綾井と同じように、それ以上の何かになろうとしてしまうのかもしれない。

 そうなったとき、……僕はきっと、東頭に嫌われることを選んでしまうだろう。

 彼女に好かれたことを、確かに嬉しく思いながらも、……まだ、その席は、誰にも譲れなかったから。


 それは、紛れもない取捨選択だ。

 僕の中に居座っているそいつを泣かせないために、東頭を泣かせる――そういう選択。

 たとえ自己嫌悪に塗れることになっても、それが、僕が僕に許すことができる、唯一の選択肢だったのだ――


 けれど。

 東頭は……泣かなかった。

 しばらくの間、ぼうっとその場で俯いて――そして、顔を上げたそのときには。

 にへらと、気の抜けたような笑みを浮かべていたのだ。


 ――聞いてくれて、ありがとうございます。……帰りましょう、水斗君


 いつものように。

 昨日までとまるで同じように言う東頭に、僕はしばし唖然とした。


 ――大、丈夫……なのか?


 僕の愚かな質問に、東頭は誤魔化すように微笑んだ。

 自分を守るように、左手で右の肘を掴んで、


 ――大丈夫じゃ、ないので……一人になるのが、少し怖いんです


 僕はそのとき、東頭いさなが傷付いているのを初めて見た。

 もし彼女を傷付けたのが他の誰かだったなら、僕は決して許しはしなかっただろう。いかなる手を用いてでもそいつを罰し、愚行を後悔させたに違いない。

 だから、同じように。

 それをしたのが自分なのだと思ったとき、僕は罰されなければならないと思った。

 東頭をフッた責任を、取らなければならないと思った。

 だから、告白して、フラれて、その直後に一緒に帰ろうなんておかしな話も、受け入れる以外にはなかったのだ。


 僕はその日、東頭と一緒に校門を出た。

 いつものように本屋に寄って、あの新作が欲しいとか、あのシリーズが気になってるとか、変わり映えのない話をして。

 きっとそれが、彼女にとって一番の慰めになると思ったから。

 そして、別れ際に、東頭は言ったのだ。


 ――じゃあ……今日は本当に、ありがとうございました


 そのときだ。

 そのときに、初めて……東頭の声が、震えたのだ。

 かすかだ。かすかな震えだ。

 それでも、充分だったのだ、東頭が、僕と通学路を歩きながら、ライトノベルを物色しながら、どんなに必死に、自分の心を慰め、僕との関係を繋ぎ留めようとしていたか――それを伝えるには、充分だったのだ。

 性格なのかもしれない。

 性質なのかもしれない。

 人と付き合うことがなくて、表情筋が弱いから。たったそれだけの理由で、表に出なかっただけなのかもしれない。


 でも――強いじゃないか。


 些細なことで不貞腐れた僕とは違う。好きな人との日々を取り戻したいと願いながら、なのに努力もしなかった僕とは全然違う。

 その弱々しい姿が、けれど僕には、輝いてみせた。

 万難を排して守るべき、尊いものに見えた。

 だから――東頭が、背中を見せる前に。

 とぼとぼと、寂しい帰路に就く前に。

 僕は、その腕を掴んだのだ。


 ――えっ?


 東頭は驚いて、僕の顔を見上げた。

 零れなかった涙は瞳の中に留まって、その輝きをかすかに揺らしていた。

 それを溢れさせないために、僕は告げた。


 ――……友達で、何が悪い

 ――恋人なんて、何年かしたらどうせ別れる。大学生にでもなったら、連絡のひとつも取ってないかもしれない。それに比べたら――

 ――友達のほうが、ずっといいじゃないか


 詭弁だったかもしれない。

 恋人を誇張して貶めて、友達を誇張して持ち上げただけの、愚にもつかない口八丁だったかもしれない。

 それでも、探さなければならなかったのだ。

 東頭が、泣かなくてもいい理由を。


 ――僕は、君にキスはしないけど、……肩を抱いてやることはできる

 ――化粧を忘れても、服が可愛くなくても、別に怒りやしない。君がそばにいることに、何の資格も努力も求めない

 ――だから……


 言葉は最後まで続かなかった。

 その前に、東頭が俯いて、僕の制服の胸をぎゅっと掴んだからだ。


 ――やめて、くださいよぉ……

 ――そんなこと言われたら……もっと、好きになっちゃいますよお……!


 僕は、拒絶も肯定もしなかった。

 それを自分に許すかどうかは、東頭本人が決めるべきことだった。

 ただ、ひとつだけ約束をした。


 ――僕は、君の知る僕のままでいるから


 告白されたからって、変わりやしない。

 フッたからって、変わりやしない。

 君の強さに相応しく在るための、それがたったひとつの方法だから。


 数秒後……ずびりと洟をすする音が聞こえたと思うと、東頭は顔を上げていた。

 その顔は、さっきまでの様子が夢だったかのように、けろりとした笑顔だった。


 ――じゃあ、そういう感じで、これからもよろしくお願いしますっ!


 いや、うん。

 さしもの僕も、その恐るべき切り替えの早さには慄いたんだけど。

 実は無理をしているんじゃないかって、少し疑ったんだけど。

 機嫌よく手を振って、すたすたと帰っていく背中を見て、これが東頭いさななんだと理解した。


 彼女の背中を見送る僕は、きっと目を細めていただろう。

 眩しいものを見るように。

 ああ、そうだ。誤魔化したりなんかしないさ。

 だって、これは一時の気の迷いなんかじゃない。


 ――僕は、東頭いさなを信じている。

 これは恋愛ではなく、信仰だ。






 東頭の自室に戻ってきた僕たちは、どちらともなく間合いを取った。

 東頭はベッドに座り、僕は所在なく勉強机のそばに立つ。

 ギシ、とベッドを軋ませながら、東頭はあからさまに目を泳がせて、前髪をちりちりといじる。真面目に聞かなくていいと思ったのは自分なのに、見事にテンパっていた。


「東頭」

「ひゃっ、ひゃいっ!?」


 呼びかけただけでビクンと跳ねて、あわあわと手を泳がせる。

 面白いので、ちょっとからかってみよう。


「何もしないのか?」

「え? ……あ。や、やっぱり脱いだほうがいいですか!?」

「いきなりか。手札少なすぎるだろ」


 籠絡するにしても、最後に切るカードだ、それは。

 あう~、と唸りながら、東頭はぽてっと横倒しになる。


「わたしには無理ですよぉ……。それができなかったからフラれたんですよぉ……」

「気にするな。君じゃなくても無理だ」

「確かに。水斗君を部屋に連れ込んでる時点で大金星な説あります」


 まったくもって。たとえ彼女でも、風邪をひかなければできなかったことだ。

 東頭の緊張が解けたところで、僕は何気なく勉強机を眺めた。他人の部屋を無遠慮に眺め回すのはあまり良くないんだろうが、東頭はいつも僕の部屋を隅々まで見て回っているからおあいこだろう。

 東頭のデスクには、タブレットPCがひとつと、何冊ものライトノベル、埃の被ったヘッドセット等が散らばっていた。まったく勉強している気配がないな。宿題ちゃんとしてるのか、こいつ?


「……ん?」


 その中に一枚、ルーズリーフが埋もれているのが見えた。

 これが勉強用ノートか? その割には文字が何も……。

 気になって上に載っていたラノベをどけると、東頭が「あっ!」と声を上げた。


「ちょっ、水斗くっ……それはっ……!」


 残念ながら、遅かった。

 そのルーズリーフに描かれているものを、僕はもう見てしまった。

 そう――描かれているもの。

 それはイラストだった。

 さっきルーズリーフの上に載っていたライトノベルのヒロインを描いたものらしい。


「ふうん……なるほどな」

「あぎゃーっ! 見ないで見ないで見ないで!」

「そんなに焦るなよ。君がイラストだの小説だの書いていることくらい予想のうちだ」

「えっ!? タブレットの中、見たんですか……?」

「小説はタブレットの中か」

「あうっ! 墓穴~……!!」


 東頭は枕に顔を押しつけて悶絶した。

 その隙に僕はルーズリーフを引っ張り出し、イラストをしっかり検分する。


「トレースじゃないな……。自分で構図考えてるなら結構上手いんじゃないのか?」

「そんなことないですよぉ……。何度描き直しても、腕とか脚とか顔とか全部変で……」

「ふうん。素人目にはよくわからないけどな」


 少なくとも、美術の授業でクラスの注目を集められる程度の画力はあると思うが。

 東頭はベッドの上でうねうねしながら、


「全然違いますよぉ~! SNSの神絵師みたいに描けないんですよぉ~!」

「神絵師になりたいのか?」

「そりゃそうですよ!」


 がばっと身を起こしたと思うと、東頭は据わった目でこっちを見た。


「いいですか、水斗君――絵が上手くないと、エッチいのが描けないんですよ」

「お……おう」

「下手な絵じゃエッチくないんですよ! 人体が絡み合ってる絵は画力が高くないと描けないんですよ!」


 この未成年女、堂々と法を犯そうとしているな。


「なんでそんなにエロい絵が描きたいんだよ……」

「だって、好きなヒロインの乳首が見たいじゃないですか! ラノベはファンアートが少ないから自分で描くしかないんです!」


 思春期の性欲に対してこれほど正直な女もなかなかいない。


「ま、原動力としては馬鹿にできないか。僕は素人だから、アドバイスできることは何もないが、せっかくここまで上手くなったんだから頑張れよ」

「え~。でも、上手くなるにはデッサンとか練習しなきゃいけないじゃないですかー」

「何事も基本は大事だっていうからな」

「リンゴとか描くのつまんなくないですか? 眺めてるだけで飽きちゃいますよ」

「別に練習するときは絶対リンゴ描かなきゃいけないってルールがあるわけでもないだろ。飽きないもの、好きなものを描けばいいんじゃないか?」

「むーん……それじゃあ、水斗君ですね」

「そうだな。……ん?」


 当たり前のように言われたので、一瞬反応が遅れた。

 東頭はきょとんと小首を傾げ、


「好きなものでしょう? だったら水斗君を描きますよ。協力してくださいー」

「いや……まあ、いいけどさ」


 本当に屈託がないというか、躊躇いがないというか。……まあいい。東頭のこれにいちいち動揺してたらやっていけない。

 東頭はベッドを降りると、デスクの上にあるタブレットPCを取った。アナログじゃなく、デジタルで描くらしい。


「この椅子どうぞー」


 デスクから椅子を引き出して僕に勧め、自分はベッドに戻っていく。

 僕が椅子に座ると、東頭は三角座りをして、膝にタブレットを置いた。


「それで描けるのか?」

「はい。あんまり動かないでくださいねー」


 タッチペンを手に取り、東頭はちらちらとこちらを確認しながら、筆を走らせ始めた。


「人をモデルにするなんて初めてなので、何だか緊張しますね」

「いつも全部想像で描いてるのか。それはそれですごいな」

「いえ、何かを見て描くことはよくありますよ? 人体って絵に描こうとすると意味わかんなくなるので」

「ああ、ネットでモデルになる画像を探すのか」

「そんなことしなくても、自分の身体があるじゃないですか」

「え?」

「自分でポーズ取って、自分で写真に撮って、それを見て描いたりはします。……見ますか?」

「……見ない」

「良かったです。無修正ですからね」


 何を描こうとしてるんだよ。というか、それなら訊くなよ。


「そこにある姿見も、前はほとんど資料用の自撮りにしか使ってなかったんですよねー。南さんたちの教育を受けてからは、ちょくちょく本来の使い方もしてますけど」


 壁際にある姿見で、東頭がどういう格好をしていたのか……ちょっと想像してしまった。

 部屋の中で一人、あられもない姿で、あられもないポーズをして、スマホを姿見に向けて――

 ――ああもう、やめろやめろ。よせよせ。

 東頭でそういう想像をすると、ひどく罪悪感がある――その気になれば実現できてしまう分、それを選択していない自分を否定している気分になるのだ。

 あの告白の答えを今から撤回しても、東頭はきっと、喜んで受け入れてくれるだろう。

 仮に、もし、そのときがいつか来るとしても――それは、邪な気持ちでやるべきことじゃない。


「にゅふふ。水斗君の身体……」


 ……向こうは思いっきり邪な気持ちみたいだが。


「ほんと細っこくて綺麗な体型ですよねー。指の細さとか、少女漫画みたいです」

「筋肉がないだけだ。脱いだらガリガリだよ」

「ぬーん……じゃあちょっと盛っておきますね」

「……おい。ちょっと待て。僕は服を着てるよな?」

「服描くの難しいんで」

「おい!」

「大丈夫です大丈夫です! 修正がいるようなものは描きませんから! ……資料を見せてくれるなら別ですけど」

「見せるか!」

「ちぇー」


 残念そうに唇を尖らせる東頭。本気だったなこいつ……。

 喋りながらも、東頭は淀みなくペンを動かし続けていた。楽しそうだ。僕を人形にして写真を撮っていたときの結女もそうだが、僕の姿の何がそんなに面白いんだか。


「……物好きだよな。どいつもこいつも……」


 独りごちると、東頭が顔を上げて、


「これが初恋なので、何が変なのかわかりませんけど」

「だからしれっと言うな。びっくりする」

「そう言う水斗君は、好きな子とか、いたことないんです?」


 まさに、友達同士の雑談の調子で、東頭は聞いてきた。顔はすでにタブレットの画面に戻り、ペンの動きも止まっていない。

 気にしないのか、なんて馬鹿な質問はしない。東頭いさながそんな狭量な人間でないことを、僕は知っている。


「……いないよ。好きな奴なんて」

「えー? なんで嘘つくんですか。覚えてますよ、わたし――わたしが告白したとき、言ってたでしょう。『自分の中に席があって、それを独占している人がいる』って」

「……………………」

「変な言い方だなって思いましたけど、要するに好きな人がいるって意味じゃないんですか?」


 あのときの答えが、どこまで正確に東頭に伝わっているか、今まで確認してこなかった。

 あるいは東頭は、細かいことを気にしていないんじゃないかって、淡い期待を持っているところがあった。

 だけど、まあ……そんなわけがない、か。


「……いいや、いない。好きな奴なんて……今は」

「今は?」

「…………そんなに聞きたいか?」

「聞きたいですよ! 地味にずっと気になってましたから!」

「地味かよ。派手に気になれよ。というかその場で訊け」

「それどころじゃなかったんですよ失恋寸前だったんですよこっちは!」

「いや、それは悪かった。ごめん。……まあ、君には誤魔化すべきじゃないよな。先に言っておくけど、怒るなよ?」

「はい?」


 小首を傾げる東頭の前で、僕は覚悟を固める。


「中学の頃にさ――僕、彼女がいたんだよ」


 今まで、ただの一度も。

 自分からは語ったことのない事実を、僕は口にした。

 東頭のペンが止まる。

 ぎぎぎ、とぎこちなく、顔が上がる。


「……へぁ?」


 衛星中継くらいのタイムラグで、東頭は口を開けた。


「か……彼女?」

「ああ」

「恋人?」

「そう」

「水斗君に?」

「そうだ」


 東頭はしばらく、ぱくぱくと魚みたいに口を動かし――


「うっ――嘘ですーっ!!」


 ずざざざっ、とベッドの上で後ずさりし、背中を壁にぶつけた。


「みっ、水斗君みたいなっ、おっ、おたっ、オタクにっ! か、彼女なんてっ……! 彼女なんてっ……!!」

「告白した奴が言うか」

「……あ。確かに……」


 東頭は一気に落ち着いた。

 怒ると思ったんだよな。東頭は僕に仲間意識を持っているようだから――僕も自分と同じように、寂しい中学時代を送っていたんだと思っていたに違いない。それを裏切るのが忍びなくて、今まで言っていなかった部分もあったんだが……。


「そうですか……水斗君に、彼女が……なんかショック……」

「『なんか』程度で済んで良かったよ」

「てっきり、ちょっと消しゴム貸してもらったりした女の子がいて、その子のことが未だに忘れられないとか、そういうキモい話だと思ってました……」

「君、どんな奴に惚れてるつもりだったんだよ」


 その程度の人間を自分の中の席に座らせてる奴、猛烈にヤバいだろ。

 東頭はゆっくりとペンの動きを再開しながら、


「『いた』ってことは……別れちゃったんです?」

「ああ。卒業するときに。……実質的には、その半年前には別れてる状態だったけどな」

「うあー……水斗君からそういう生々しい話聞くの、なんか嫌ですね……」

「本当に嫌ならやめるよ」

「そうですね。やめてください」


 そこは『そんなことないですよ』じゃないのかよ。


「ふうん……なるほどー……じゃあ、その元カノさんを理由に、わたしをフッたんですね」

「そ……う、いうことに、なるな」

「要するに、元カノさんのことを未だにずるずる引きずってるんですね」

「うぐっ」

「未練たらたらなんですね~」

「……ち、ちが……」

「本当に」


 一瞬。

 東頭の目が、切なげに伏せられたように見えた。


「……好き、だったんですね」


 それは明確な、羨みの視線。

 誰とも知らないそいつに対して、自分もそんな風になってみたかった、と。


「きっと、水斗君のことですから、彼女さんには優しくて、気が利いて……少女漫画のヒーローみたいに、何でも察してあげて、助けてあげて――」


 ペンの動きが、また止まり。

 思いを馳せるように、視線を上向けた。


「…………ああ…………」


 そして溜め息をつき、


「…………なんか、キモいです…………」

「おい」


 失恋を改めて噛み締める流れじゃないのかよ。


「いや、だって、キモいですよ。女の子に優しいイケメンな水斗君とか。キャラ崩壊です。解釈違いです」

「そりゃ今からしたらそうかもしれないけどな……!」

「ちょっとやってみてくださいよ(笑)」

「トーンがいじめっ子のそれなんだよ!」


 やったらぁ! 惚れ直すなよこのアマ!

 モデル中だが、ここまで煽られて黙っていられるか。僕は席を立ち、東頭が座り込むベッドの縁に膝をついた。

 タブレットの画面に向いた東頭の顔にそっと手を伸ばし、その前髪を軽く払う。


「……んっ……」

「もっと、よく見せて」


 昔を思い出し、優しい声音を作り、東頭に顔を寄せる。


「せっかく、可愛いんだからさ。……そんなに、隠さないでくれ」


 東頭の目が上がり、僕の瞳を見つめて、揺れた。

 そして――


「――ぶふっ!」


 勢いよく噴き出し、口元を押さえた。


「あは! あはははは! あはははははははははっ!!」

「爆笑するな!!」


 お腹を押さえてベッドの上を転げ回る東頭を、僕はバシッとしばく。

 そりゃあ冷静に今見たらギャグみたいだけどなあ! 当時は真面目にこれをやってたんだぞ! 死にたくなってきた!


「ひーっ……ひーっ……あー、おもしろ。もっかいやってくださいよ(笑)」

「やるか!!」

「やっぱり水斗君は、捻くれぼっちのほうが合ってますね。でもASMR的なものとしては割とアリでした。エッチなことするときは今の感じでお願いします」

「やるかっ!!」


 くふ、と半笑いのまま、東頭はすすっと僕にすり寄ってきた。

 肩に手をかけ、耳に口を寄せてくる。


「(……水斗君のほうが、カッコいいよ?)」

「ふぐっ……!」

「あ、合ってました? なるほど、彼女さんはこんな感じだったんですね。アホみたいな会話です」

「うるさいな! カップルなんてみんなアホなんだよ!」

「にゅふふ。んー、それじゃあ次はー……」

「もういいだろ! 気色悪い!」

「うきゃーっ!」


 東頭を押し剥がし、肩を掴んだままベッドに押さえつける。

 僕が覆い被さる格好になると、東頭は「ハッ!」とわざとらしく目を見開いた。


「彼女がいたということは……まさか、ご経験が……!?」

「……ないよ。そこまで行かなかったんだよ」

「ああ、なるほどー。だから未練たらたらに……」

「違う! これだけは言っておくけどな、君をフッたのはまた別の事情が重なってのことで、僕があの女に未練があったからじゃ――」

「あ」


 東頭が何かを見つけたように、急に横を向いた。

 僕も東頭をベッドに押さえつけたまま、釣られて同じ方向を見る。


「……………………」


 部屋のドアが、小さく開いていた。

 その隙間から、二つの目がひっそりと、ベッドの僕たちを覗いていた。

 凪虎さんだった。


「……よくやった、いさな。でも着けるモンは着けろ」


 言って、凪虎さんは、ドアの隙間からぽいっと部屋の中に小箱を投げ込んだ。

 それは――オブラートに包んで言うと、そうだな……夜のエチケット袋、というか……。


「さすがに妊娠はまだ早えーからな。じゃ、頑張れよ」


 凪虎さんはそう言い置いて、ドアを閉める。

 言い訳する間もなかった。


「んー……?」


 東頭は不思議そうな顔をして、投げ込まれた小箱を見つめている。……あれ? こいつ、まさか……。

 僕の身体の下からするりと抜けて、東頭は床を四つん這いで移動し、小箱を拾った。


「これって――……あっ!? これ!」


 首を傾げながら小箱を検分すると、東頭は嬉しそうにそれを僕に見せつけてきた。


「見てください水斗君! これ、あれですよ! アレに着けるやつ! 初めて見ました! うわー、こういう感じなんですね。うわー……」

「……そうだな」


 僕の気まずい返事は聞こえなかったのか、東頭はがさごそと小箱を開封する。僕が止める間もなく、いくつか繋がった四角い袋をピリッとひとつ切り離して、


「水斗君、ほら! ……あむっ。同人誌の表紙ー!」

「やめろ馬鹿!!」

「あ痛たっ!」


 全速力で頭を叩くと、東頭の口から四角い袋がぽろっと落ちた。

 今日は何度ラインを越えたら気が済むんだ、こいつは。






「じゃあな。また今度」

「泊まっていけばいいのにー。お母さんもそう言ってますし」

「初めて来た家に泊まれるほど神経太くないよ」


 マンションのエントランスまで送りに来てくれた東頭に、僕は言う。

 結局あの後、凪虎さんに半ば強引に晩ご飯までご馳走された。そのうえ風呂も入ってけなどと言い出し、この調子だと帰れなくなりそうだなと思って、逃げてきたところだった。

 東頭は寝間着にカーディガンを羽織っただけの格好で、軽く二の腕をさすりつつ、


「また来てくださいね」

「そうだな。……できれば今度は、他に誰もいないときに」

「え~、やだ~、えっち~」

「照れ方のイメージが貧困」


 東頭は伸ばしたカーディガンの袖を口元に当てて、ぬふふと笑う。


「今度はゲームとかしましょうよ。お母さんがホラーゲーム持ってるんです。水斗君がビビってるとこ見たい」

「僕、そういうの結構強いぞ」

「はてさて、どうでしょう。VRで腕切り落とされても同じことが言えますかね」

「マジか。VRなんて持ってるのか。……正直、ちょっと興味あるな」

「持つべきものはゲーマーの親です。お小遣いじゃあんな高いの買えませんからね~」


 ゆらゆらと揺れてワクワク感を表現する東頭に、僕は軽く口角を上げる。

 僕が僕である限り、東頭も東頭でいてくれるだろう。

 何も変わらない。告白しようと、告白されようと、フろうと、フラれようと、好きだろうと、好きじゃなかろうと。

 僕たちは、一時の気の迷いに惑わされたりはしない。


「じゃあ、帰った頃にLINEしますね」

「わかった。気が向いたら返す」

「そんなこと言って~、返信率100%じゃないですかあ~」

「既読スルーしたら君が泣き顔のスタンプ連打するからだろ?」


 にへへ、と東頭は笑う。

 僕たちはこれでいい。






◆ 伊理戸結女 ◆


 玄関の扉が開く音が聞こえたのは、午後8時を回った頃のことだった。

 夕食が終わって以降、リビングでずっとそわそわしていた私は、急ぎ足で廊下に出る。

 玄関では、水斗が靴を脱いでいるところだった。


「ちょっと!」

「……ん? ああ、ただいま」

「おかえり。……じゃなくて!」

「なんだよ」

「こんな時間までどこ行ってたの? ご飯も食べてくるって言うし、お母さんはニヤニヤして教えてくれないし!」


 こんなことは初めてだった。

 最初は川波くん辺りとつるんで、ご飯も一緒に食べてるんじゃないかと思ったけど、嫌な予感が拭えなかった。

 何せお母さんがニヤニヤしているのだ。意味ありげにニヤニヤニヤニヤしているのだ。

 私の焦燥をよそに、水斗はすたすたと廊下を歩いてきながら、


「東頭の家に行ってたんだ」


 と、あっさり告げた。

 ……え?


「東頭がこっちの家に入り浸りだから、ちょっと挨拶させろって、向こうの親がさ。まさかご飯までご馳走されるとは思わなかったけど――あ、そうだ」


 私がフリーズしている間に、水斗はすいっと私の横を抜けて、リビングへの戸を開けた。


「由仁さん。父さんでもいいけど」

「あ、水斗くんおかえりー。なぁにー?」

「東頭の親御さんが、一回挨拶に来たいって。都合のいい日教えてくれって」

「あら! そうねえ、ちょっと待ってね。いつが空いてたかな――」


 スマホでスケジュールを確認し始めたお母さんを見て、私の全身をぶわりと焦りが覆った。


「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと……!」

「ん?」


 私が後ろから肩を掴むと、水斗は怪訝そうに振り返る。


「な、なに考えてるの……!? 今のお母さんたちが、東頭さんをなんだと思ってるか忘れたの……!?」


 お母さんたちは、東頭さんのことを水斗の彼女だと思っている。

 その誤解が、もし東頭さんの家族にまで広がったら……!


「……あー」


 水斗は誤魔化すように目を逸らした。


「それなんだけどな……」

「え? 何? 何? 聞きたくない!」

「たぶん、もう手遅れ」


 水斗のそれは、諦めの口調だった。

 どういうこと? と訊き返すまでもない。

 それすなわち、東頭さんの家族にも、すでにそういう関係だと認識されているということ……!


 ――どうなってるのよ!?

 なんで一緒に暮らしてる私より、東頭さんのほうが外堀埋まってるのーっ!?


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