元カップルたちは留守番する。「――僕も、男だぞ」


◆ 南暁月 ◆


 あたしが結女ちゃんと一緒にファミレスの席に着いてから、すでに三〇分が経過していた。


「実は……」

「ふんふん」

「……ひ、引かない?」

「大丈夫だよー! 遠慮せずに話してみて!」

「そのー……」

「うんうん!」

「……う~っ、やっぱり恥ずかしい……」

「頑張って、結女ちゃん!」

「ほ、本当に聞きたい……?」

「聞きたい聞きたい!」


 あたし、南暁月は結女ちゃんのことが大好きである。

 できれば四六時中一緒にいたい。全女子が羨望するそのすらりとしたスタイルを常に視界に入れていたい。結女ちゃんの声を記録したデータを脳内にダウンロードしてヘビロテしたい。

 その上で――今、あたしは告白しよう。


 めんどくさい。


 結女ちゃんから相談があると連絡が来たのが今朝のこと。久しぶりに会えるとウキウキで支度を整え、家を出たのが一時間前。そしてファミレスで結女ちゃんと合流し、「それで、相談って何っ?」とにこやかに問いかけたのが三〇分前。


「どうしよっかな~……」


 それから三〇分もの間、ストーリーが原作に追いついたアニメのごとき引き延ばし展開が続いていた。

 結女ちゃんが可愛いから三〇分間にこやかに笑っていられたけど、結女ちゃんじゃなかったら三回はぶん殴っている。『どうしよっかな~』じゃないんだよ。そっちが呼び出したんでしょうが。人の時間を使っているという自覚がないのかな~?


 まあでも、結女ちゃんが躊躇う理由もわかるのだ。

 実は、結女ちゃんの相談内容について、あたしはほぼほぼ推察できていた――だからこそ、それをはっきりとは聞きたくなくて、引き延ばしを受け入れている面もある。それを思えば、結女ちゃんが軽々には切り出せないのも自然なことではあった。


 どうせ恋愛相談なんでしょ、結女ちゃん。

 わかるよ。いきなり伊理戸くんを下の名前で呼び始めるんだもん。

 それに気付いたのは数日前、帰省中の結女ちゃんからLINEが来たときのことだ――その頃からあたしは、ゆっくりと覚悟を固めていた。

 遅かれ早かれ、こうなると思ってはいたのだ。伊理戸くんを籠絡するのは失敗したし、あたしは結女ちゃんの彼女にはなれないし、東頭さんは友達関係で超満足しちゃってるし。むしろ時間がかかりすぎてるくらいだ。


 けど……けどなあ。そうかあ。あたし、このポジションなんだあ。そうかあ~……。

 冷静に相談に乗ってあげられるか不安だった。もういっそ、このまま結女ちゃんが日和って、言い出さないままでいてくれれば――


「――あのね」


 そんなあたしの思考を、結女ちゃんの決意の表情が断ち切った。


「実は――」


 ついにこのときが来た。

 正直、嫉妬で今にも吐きそうだけど、それを表には出すまい。結女ちゃんを取られるのは寂しいしショックだけど、別に友達じゃなくなるわけじゃないし、何より結女ちゃんが泣いているところを見たくはない。

 全力で力になろう。

 そう決意して、あたしは結女ちゃんの告白を――




「――東頭さんが、水斗の彼女になっちゃった」




「……………………」


 ん?

 んん???

 頭の中が真っ白になって、ぱちぱちとひたすら瞬きを繰り返す。そんなあたしを、結女ちゃんは不思議そうに見つめて、


「え? ……あっ、ごめんなさい。言葉が足りなかった」


 わたわたと可愛らしく手を振って、改めて告げた。


「東頭さんが水斗の彼女になったって、私たちの親戚全員と東頭さんのお母さんに勘違いされちゃったの」


 あー、なーんだ。勘違いかあ。親戚全員と、東頭さんのお母さんに? ふーん。

 …………いや、なんで?






「なんてベタな」


 東頭いさな大勝利事件について聞かされたあたしは、そのしょうもなさに乾いた笑いを漏らす他になかった。


「何なの、あの子? なんであたしたちが協力してたときより上手くいってるの? 物欲センサーなの?」

「私たちがお母さんの誤解を放っておいたのも悪いのよ……。元カノだと思わせておく分には無害だし、めんどくさいからって……。でもまさか、その状態で東頭さんの家に行くなんて……!」

「なにそれ? 伊理戸くん、やっぱり満更でもないんじゃないの? 好きでもない子と付き合ってるなんて思われたら、普通は否定するじゃん」

「……やっぱり、そうかな……」

「あ! ふ、普通はね!? 普通は! 伊理戸くんがどうかは知らないけど!」


 結女ちゃんがあからさまに落ち込んだので、慌ててフォローを入れる。そんなにわかりやすくするなら、もうはっきり打ち明けてほしいんだけど!


「中身が伴ってないのに外堀ばっかり埋まっていくのは厄介だけどさ、結局は当人たちの気持ちの問題じゃない? 当人たちが気にしてないなら、別に誤解されてたって実害はないだろうし」

「そうなんだけどー……」

「結女ちゃんはどうしたいの?」

「私は……」


 結女ちゃんは表情を曇らせて、オレンジジュースのコップを指で撫でる。


「ただ、何かしなくちゃって焦ってる感じで……でも、どこを目指せばいいのか、全然はっきりしなくて……」

「むーん」


 難しいなあ。

 実害はないと言ったけど、結女ちゃん的には大問題だろう。もし結女ちゃんの想いが成就したとしても、東頭さんの誤解が残っていると、伊理戸くんは親戚中に『身内に手を出した上に二股をかけた男』って思われちゃうんだから。

 だけど結局、誤解を解くには当人たちがその気にならないといけないわけで……。


「……まったく。恨むよ伊理戸くん……」

「え?」

「結女ちゃん、誤解は地道に解くしかないよ。今すぐにどうにかできるってものでもないし、まずは当の二人を――せめて伊理戸くんを、その気にさせないとね」

「『その気』って?」

「誤解されっぱなしだと嫌だなーって思わせること。つまり――」


 ピッと、あたしは結女ちゃんの顔を指差した。


「結女ちゃんと同じ気持ちになってもらえばいいの」

「…………え?」


 結女ちゃんはぱちぱちと瞬きを繰り返し、たっぷり一〇秒くらい停止した。


「私と……おな、じ?」

「うん」

「そ、そ、それって、あの、どういう……?」


 あたしはにまーっと笑う。


「それは、結女ちゃんが一番よく知ってるじゃん」


 結女ちゃんは見る見る顔を赤くして、テーブルに顔を突っ伏した。


「……ううう~~~っ!」

「そんなに慌てなくてもいいよ。誰にも言わないし」

「な、なんで……? なんでわかったの……?」

「結女ちゃんがわかりやすいからかなあ」

「嘘ぉ~……!」


 あーもう、可愛いい~~!!

 この結女ちゃんを見せてくれたことに関してだけは、伊理戸くんに感謝してもいい。


「それにしても、田舎で何があったの? ずいぶんな変わりようだけど」

「そんなに変わった……?」

「見るからに」

「べつに……」


 結女ちゃんは起き上がって、長い髪をむやみにくしくしと梳いた。


「大したことはなかったんだけど……」

「そんなことないでしょ~」

「え~、でも、そんな……えっと、あの、他の人には言わないでね? ここだけの話にしてね?」


 あっ、藪蛇だった。

 あたしはすぐに察した。

 いかにも不承不承という態度を取っているけど、話したくて仕方がないんだ。誰かに惚気たくて仕方がないんだ。そして、あたしは今、結女ちゃんに『惚気話を聞いてくれる唯一の友達』にカテゴライズされたのだ。

 痛恨のミスだった。

 気付いたときには、すでに話は始まっていた。


「あのね――」






「――でさぁ、あいつ、澄ました顔して心臓バクバクになっててさぁ! いつもあたしのスタイルいじってくるくせにね!」

「ひゃ~!」


 楽しそうに歓声を上げる結女ちゃん。

 あー、スッキリした! あのなんちゃってチャラ男のダサいところを暴露できて!

 ……あれ? 結女ちゃんの話を聞いてたはずなのに、なんであたしが話してるんだろ?


「他には? 他には? 川波くんと何かなかったの?」

「え~? 別に大したことは何にもないよ~?」

「そんなことないでしょ~?」

「ん~、そうだなぁ~……」


 結女ちゃんと二人揃ってにやにやしながら記憶を探っていると、ハッと不意に我に返る。


「……いやいや、違うでしょ! 思い出話をする場じゃないよね、これ!?」

「あれ? そうだっけ?」

「伊理戸くんに誤解を解く気になってもらおうって話だったよね!」

「……あっ。そうだった。楽しすぎてつい……」


 確かに楽しかったけど。あたしも友達と恋バナなんてする機会――いや、別にあたしのは恋バナじゃないけど!


「具体的にどうするかって話だよ」

「どうするの……?」

「とりあえず、仲直りすることだよね。結女ちゃん、照れ隠しで酷いこと言っちゃったんでしょ? それから冷たい態度取られてるんだよね?」

「うっ……」


 田舎のお祭りでキスしたって聞いたときも死にそうになったけど、その理由を問い詰められて思わず嘘ついたって聞いたときは別の意味で死にそうになった。なんでそんなに不器用なの! そういうところも可愛いけど! 伊理戸くんも伊理戸くんだよ! なんで察してあげないの! キスする理由なんて一個しかないでしょ!


「仲直りって言われても……どうすれば……」

「難しく考えなくてもいいんだよ。あたしが思うに、伊理戸くんは意外とチョロい!」

「そうかな~……」

「そうそう。ちょっと絆されたらあっさり水に流してくれるよ。具体的にどうすればいいかは、私より結女ちゃんのほうが詳しいんじゃない?」

「私のほうが?」

「もう何ヶ月も一緒に暮らしてるんだからさあ、距離の縮まったイベントのひとつやふたつあるでしょ? 今までで一番、伊理戸くんとの距離が縮まったのってどういうとき?」

「一番……距離……」


 結女ちゃんはあたしの言葉をぶつぶつと繰り返す。

 ほんっと、なんでよりによってあたしが相談役なのか。東頭さんの告白をサポートしてた結女ちゃんの気持ちがわかるような気がする。上手くいってほしいような、ほしくないような……。


「……あ」

「おっ。思いついた?」

「……えっと」


 結女ちゃんは自信なさげに目を逸らしながら、


「あの……あのね? 同居が始まったばっかりの頃、初めて二人だけで留守番したことがあって――」


 あたしはかろうじて吐血を我慢した。






「ふう~……」


 水滴で濡れたお風呂場の天井を見上げて、あたしは息をつく。

 結女ちゃん、頑張ってるかな~……。

 お湯に口まで沈ませて、ぶくぶくと泡を立てた。どお~してあんなアドバイスしちゃったかな~、あたし。伊理戸くんは、どっちかといえば敵だったはずなのになあ。四月に求婚してたのが懐かしいや。

 今、結女ちゃんが伊理戸くんにしているだろうことを思うと、本当にムカムカする。だけど同時に、上手くいってほしいとも思う。一言では表しきれない、複雑な気持ちが胸の中で渦巻いていた。


 あたしは……別に、結女ちゃんと恋人になりたいわけじゃない。

 たぶん、告白されたら大喜びで付き合う。それは全然ウェルカムなんだけど、そういう感情に先行しているものがあった。

 それはたぶん、……羨ましい、と思う気持ち。

 家族という存在が――ずっと一緒にいてくれる誰かがいることが、どこか羨ましくて。それを少しだけ、あたしにも分けてほしくて。それで、伊理戸くんと結婚すればいいじゃん、なんて風に考えてしまったんだ。

 当時はまだ、引きずっていた。中学時代の、致命的な失敗を。

 それを一刻も早く取り返さなければならないと、そういう気持ちがまったくなかったかといえば、……それは、嘘になるんじゃないだろうか……。

 でも、今は――


「――おおい。いつまで入ってんだ?」

「いま出るって~! うるさいなぁ、もう」


 川波の声に答えながら、あたしはざぱっと湯舟の中で立ち上がる。

 少しくらいゆっくりさせてくれてもいーじゃん。そりゃここはあんたの家だけどさあ。お互い、一人きりの日にお湯を張るのがめんどくさいからって交代ごうたいでお風呂借り合ってるんだから、持ちつ持たれつじゃんか。

 まあ、こんな協力も、一ヶ月前にはほとんどなかったことだ――結女ちゃんたちを通じて関わりがまた増えてきて、あたしたちは少しだけ、昔の関係に戻りつつあるとも言える、かもしれない。けど、結局、あいつの好意アレルギーは相変わらずのはずだし……。


「ん~……」


 脱衣所で身体を拭きながら考えていると、ふと思いついたことがあった。


「あいつ……今は、どこまで大丈夫なのかな?」






◆ 伊理戸結女 ◆


 脱衣所で身体を拭き終えた私は、身体に巻いたバスタオルの端をしっかりと内側に巻き込ませた。


「……よし」


 暁月さんへの相談で思いついたこと。

 そろそろ五ヶ月に及ぼうとしている同居生活において、私があの男と最も接近したのはいつだったか。

 お祭りでキスしたとき? 否!

 それは、同居生活が始まってすぐの頃――私があの男をちょっとからかってやろうと思い、あえてバスタオル姿のままリビングに出ていったことがあった。あのとき、私たちはどうなったか!


 ――……1年前に準備したやつ、まだ、残ってるんだけど


「~~~~~~~~~っ!!」


 私は鏡の前で顔を覆った。

 思い返すだに、とんでもない記憶だった。

 だって、もう、五秒前だったもの。もしあのとき、お母さんたちが帰ってこなかったら、私たち、完全に――まったく、これだから思春期は! 別れて一ヶ月も経ってなかったくせに、すぐ性欲に流されて!

 けど、……今回は、その思春期に頼る形になる。

 東頭さんとの誤解は、水斗本人に解いてもらうしかない。そのためには、私が水斗を口説き落とすのが最善。そして、男の子を口説き落とすにはどうすればいいか――


 無論、色仕掛けである。

 シンプルなロジックだった。


 事前準備は万全。まるで天が後押ししてくれたかのように、お母さんと峰秋おじさんの帰りが遅くなるという連絡が来た。前回の失敗を鑑み、帰るのは午後10時頃になると言質を取ってある。

 それまでに、全ミッションをコンプリートし、ギリギリのところで離脱する。

 名付けて生殺し作戦。

 ……け、決して、大人の階段を上る勇気がなかったとか、そういうわけじゃない。時間的にそれが限界だと判断しただけだ。うん。それだけ。


 ――いざ!


 私は勇ましい足取りで、バスタオル姿のまま脱衣所を出た。リビングは静かだけど、さっき水斗がソファーで本を読んでいた。まだそこから動いてないはず。

 リビングの戸を開くと、予想通り、水斗の後ろ姿がソファーにあった。

 私は告げる。


「あがったわよ」

「ん」


 短く答えて、水斗は私をちらっと見た。

 どうだ。

 前回のこいつは、飲んでいたお茶を盛大に噴き出し――


「もうちょっとしたら入る」


 平静そのものの様子で言って、水斗は目を手元の本に戻した。

 ……あ、あれー?

 気付かなかったのかな? 一瞬すぎて、私の姿がわからなかったのかな?


「……ふー。あつー……」


 なんて言いつつ、私は水斗の視界に入るようにソファーにお尻を下ろした。

 どうだ! よく見えるだろう。脚が太腿から丸見えよ!

 これ見よがしに脚を組み替える。

 しかし、水斗の目は本から動かなかった。

 お、おのれ……! なら!

 私はテーブルに置いてあるお茶の瓶に手を伸ばす――ふりをして、胸元が水斗の目に入るようにした。これならさすがに見るだろう! かつて私のブラジャーを盗んだことがあるくらい、私の胸に興味津々なこの男なら……!


「……………………」


 ちらりと、水斗が私を見た。

 来た! ほらね、このムッツ――


「ん」


 水斗は私が取ろうとしていたお茶の瓶を、私のほうに押した。

 私の手に瓶が触れる。


「……あ、ありがとう……」


 トポトポトポ……。

 もう、コップにお茶を注ぐ以外のことはできなかった。

 水斗の目は再び本に戻っている。


 ――どうなってるのよ!?


 前は……! 前はあんなに意識してたのに! チラッチラチラッチラずっと見てたのに! 今回はまるで無視! ちゃんと見てよ! 結構恥ずかしいのよ!

 ……お、落ち着け……いったん落ち着け。お茶をごくごくと飲んで頭を冷やす。

 前回はこの辺りで限界になってしまった私だけど、今回はこの程度では終わらない。

 策がある。

 そっちが飽くまで無視するのなら、見ざるを得ない状況に持ち込むまで!


「……ねえ」


 呼びかけると、「ん?」と水斗が答えた。


「ちょっと……髪、乾かしてくれない?」






◆ 南暁月 ◆


「ったく。髪くらい自分で乾かせってーの」

「いーじゃん。男は楽なんだから、たまにはさー」


 川波がドライヤーのスイッチを入れ、ブオオーッと温風があたしの髪を撫でた。

 バスタオル一丁でソファーに座り、あたしはその風に頭を委ねる。すると、川波の指があたしの髪をわしゃわしゃした。手つきが雑。でも美容室以外で人に乾かしてもらうのは久しぶりで、ちょっと気持ちいい。


「お前さあ、服くらい着ろよ。人んちだぞ、一応」

「暑いんだから仕方ないじゃん。何? 意識してんの?」

「してるぜ。タオルがずり落ちるんじゃねーかってな。何せ引っかかるところがなさすぎ――うごっ!」


 背後に座る川波の横腹に肘を入れる。あたしはソファーに横向きに座って足を伸ばし、川波はその背後で身を捻って、あたしの頭にドライヤーを当てている。昔は川波が膝立ちにならなきゃいけなかったけど、今は川波のほうがずっと大きいから、普通に座ってるだけで充分に髪を触れる。

 後ろに倒れたら、そのまま膝枕できるなあ。それでどう反応するか見てみたい気もするけど、髪が乾くまでは我慢してやろう。


 あたしは温かい風を髪に浴びながら、バスタオルから伸びた自分の太腿を見る。

 確かにあたしはちんちくりんだし胸もないけど、密かに脚には自信あり。この太腿を見れば、厄介な病気を患っているこの幼馴染みも、多少はムラムラするかもしれない。

 前から少し思っていたのだ。

 こいつの好意アレルギー、どこまでセーフでどこからアウトなのか。こっちから好き好きオーラを出すのはもちろんアウトだけど、無自覚で性を感じさせるというか、わざとじゃないふりをして誘惑した場合はどうなるのか。


 性欲はたぶんあると思うんだよなー。この前プール行ったとき、すっごいドキドキしてたし。

 偶然のパンチラとかはたぶんセーフだと思うんだけど、それが偶然に見せかけた確信犯だった場合、こいつのアレルギーは見抜けるんだろうか。

 実験してみたかった。これから付き合っていくにあたって、そこの線引きがどこにあるかは重要な情報だ。

 決して、久しぶりに女扱いされたいわけではない。決して。

 もし偶然に見せかけた誘惑がセーフなら、ムラムラさせるだけさせて、家に居座って一人にさせないっていう嫌がらせをしてやろうと思う。もし我慢しきれずに求めてきても、乗り気っぽく振る舞ってやったら勝手に自滅するだろう。簡単なお仕事だ。


「ねえー」


 あたしは後ろに手をついて首を反らし、背後の川波を見上げた。ちょっと距離が近くなると共に、バスタオルだけの身体が無防備になる。


「二学期始まったら文化祭あるんでしょ? どんなのやるか知ってるー?」


 体育座りみたいなイメージで太腿を持ち上げる。バスタオルの裾の中が、見えそうで見えない感じに。

 ちなみに、バスタオルの下にはなーんにも着けてない。

 今更こいつ相手に裸見られてもあんまりダメージないし。いや、恥ずかしいのは恥ずかしいんだけど。……どっちにしろ、真っ裸よりちょっと何か着てるほうがエロいとか言い出しそうだなあ、こいつ。

 川波はあたしの目を見て、


「さあな。自由度かなり高いらしいって話は聞いてっけど」

「飲食系もオーケーなんだよね。メイド喫茶すっかー」

「文化祭でメイド喫茶とか漫画でしか見たことねーぞ――って言いてーところだけど、去年あったらしいんだよな……」

「頭いい学校ほど文化祭とかではっちゃけるイメージあるよねー」


 だらーっと話しているように見せかけて、川波の視線の動きは見逃さない。

 もう三回くらい、ちらちらとあたしの太腿を見ている。『あっちは見ないようにしよう』って気を付けてるせいで逆に、って感じ。

 ふーん。

 やっぱり、わざとだってバレなければ大丈夫なんだ?

 っていうか、こいつ、まだあたしのことそういう目で見れるんだ。ふーん。

 それじゃ、


「結女ちゃん、何が似合うかなー。露出度高いのは着せたくないしなー」


 会話を接ぎながら、んしょ、とお尻の位置を直す。尾てい骨の辺りが、川波の骨盤か何かに当たった。


「当ったり前だろ。伊理戸の前だけならともかく」


 髪を乾かす川波の指が、あたしの頭皮を撫でる。さっきまでよりちょっと、手つきが優しい気がする。


「出たカプ厨。他の学年とか校外の人がどれだけ来るのか知らないけど、ナンパとか注意しないとね」

「おう。自分の分もちゃんと注意しろよ」

「は? なにそれ。あたしもナンパされないようにしろって?」

「いんや、どうせお前は平和だろうからその分伊理戸さんを守れって意味」

「おいコラ。されるっつの。たまにいるっつの。ロリコンが」

「ロリを認めてんじゃねーよ」


 左耳を指で撫でられて、声が出かけた。……ほら、いるじゃん。ロリコン。

 髪をわしゃわしゃするのに紛れて、耳の裏をマッサージするみたいに親指が撫で、そのまま耳たぶを揉まれる。何の代わりにしてるのかなー? ホントは他にもっと触りたい場所があるんじゃないのかなー? なんちゃって。


「――ぁっ」


 サービスで軽く声を出してあげると、指はすぐに耳を離れていった。ふふっ、おもしろ。


「……そろそろいいだろ」


 川波がドライヤーをオフにした。この辺りが限界らしい。

 非常に参考になった。これからからかうときは、バレないようにそれとなく――


「おい」

「ひゃうっ!?」


 低い声が耳をくすぐり、あたしはビクッと震えた。


「ロリコンに声かけられんのがホントなら、お前もちゃんと気ぃつけろ」

「な……なに本気にしてんの。冗談だって……」

「ならいいけどな」


 ふっ、と鼻で笑い――

 ――不意に、耳に吐息が吹きかかる。


「(ナンパ避けに、キスマークでも付けといてやろうか?)」


 ぞくぞくっという感覚が、首筋を這い登った。

 耳にかかっていた薄い吐息が、徐々に下に降りていく。頬骨、首筋、鎖骨――


「ばッ……! ばっかじゃないのっ!?」


 あたしは慌てて川波から距離を取り、振り返った。


「そっ、そんなの付けられたら、ナンパ以前に学校にも行けなくなるってのっ!」


 吐息が当たっていた首の辺りを手で押さえるあたしを見て、川波はにやにや笑う。


「なに本気にしてんだよ。冗談だろ?」

「は……はあ?」

「中学ん頃、お前にキスマーク付けられたことあったなって思ってよ。大変だったんだぜ、あのとき。襟立てて隠したり、涙ぐましい努力をしてよ、逆に目立っちまったりして」


 ……そういえば、やったかも。

 キスマークってホントに付けられるんだーってテンション上がって、これ付けとけばこーくんに悪い虫つかないかもって思って。


「ふと仕返ししてやろうかと思ったけど、夏休みじゃ意味ねーよな。はっは!」


 ……ホントに?

 本当は、ムラムラしてキスしたくなったんじゃないの? あたしの首筋が美味しそうに見えたんじゃないの?

 なんて、当然言えるわけもない。本人が冗談だというならそういうことだ。


 ……これって……。

 あたしは、不意に気付く。恐るべき、その可能性に。

 仮に、こーくんがその気になって、あたしにベタベタと甘えてきたりしても――

 あたしのほうは、例のアレルギーに気を遣って、気のないふりをし続けないといけないってことなんじゃ……。

 ……………………。

 そ……そんなの、地獄だよぉ……。





 

◆ 伊理戸結女 ◆

 

 ブオオーッとドライヤーが吐き出す温風が、私の髪を撫でる。


「なんで僕がやらなきゃいけないんだか……」

「な、長いと大変なのよ。たまにはサボってもいいでしょ?」


 水斗は細い指で、髪を適度に押さえたり梳いたりする。髪に触覚があるわけでもないのに妙にドキドキした。その手つきが、口振りとは裏腹に優しいものだから尚更だ。

 ああもう、私がドキドキしてどうする! 向こうに意識させないといけないのに!

 暁月さん曰く、どんなに素っ気ないふりをしてても、無防備に背中を見せれば必ず視線が怪しく動く――らしい。さっきは視界にさえ入ってないようだったけど、私の死角に入ったこの状況なら、うなじとか、肩とか、それに胸元とかを、それとなく覗いてくるはず……! その瞬間を押さえれば、精神的に有利になる。


 私はこっそりと、後ろの水斗を窺った。

 その目は私の髪だけを見ている。

 平然としていて、私の素肌にドキドキしている様子なんて、微塵も見られず。

 ……腹が立ってきた。

 せっかくこんな慣れないことしてるのに、なんで何もリアクションしないのよ! 明らかに不自然なのわかるでしょ! 少し前はそんなに鈍感じゃなかったじゃない!

 こうなったら……!


 私はバスタオルの結び目を、ほんの少し緩めた。

 ぬ、脱ぐわけじゃない。脱ぐわけじゃ……。ほんの少し、緩めるだけ。自然と乱れたように見せるだけ……。

 身体とバスタオルの間に、ほんの少し余裕ができる。その状態で、私はバスタオルから手を離し、無防備にスマホをいじる。

 ほ、ほら……見えそうでしょ? 気になるでしょ? 意識せざるを得ないでしょ?


 水斗の手つきに乱れは感じられない。

 けれど――手に持ったスマホで、不意に内カメラを起動した。

 瞬間、私の顔の後ろに映りこんだ水斗が、すいっと目を逸らしたのが見えた。

 見てる見てる見てる!

 私はテンションが上がって、心持ち胸を張った。私の勝ちだ! このムッツリスケベめ! そんなに気になるなら最初から見ておけばよかったのに!


 慢心だった。

 古来より人は言う。勝って兜の緒を締めよ、と――この場合、私は兜ではなく、バスタオルの緒を締めるべきだった。

 するっ……と。

 不意に、胸から下が解放感に包まれた。


「……え?」


 ぱさりと、バスタオルがソファーの上に落ちる。

 バスタオルの下に隠されていた私の身体が、LED電灯の下に晒されていた。

 そう。

 お風呂上がりの、ほんのり上気した素肌と――

 ――寝るとき用のショーツと、肩紐がないタイプのブラジャーが。


「……は?」

「………………っ!!」


 私は無言で、慌ててバスタオルをずり上げる。

 ば……バレた。

 下着姿を見られた恥ずかしさよりも、それ以外の問題による気まずさが冷や汗を流させる。

 そう――私が、この事態を危惧して、保険をかけていたことがバレた。

 確信犯で誘惑しに来たのが、バレた。


「……なるほど。なるほど、なるほど、なるほど……」


 水斗がドライヤーを止める。

 温度の低い声で、私の背中に声を投げかける。


「安直だな」

「うぐっ」

「前に効いたように見えたことを踏襲したのか。僕に同じ手が二度も通用すると思ったのか?」

「うぐうっ……!」

「僕をからかいたかったのか知らないが、誘惑のつもりならもっと上手くやれ。緊張が伝わってきて気を遣ったよ」

「んぐぐうう~っ……!」


 て、手心を……もう少し手心を……!

 ダメージを受けすぎて反論もできないでいると、


「――なあ、結女」


 まだ耳に馴染みきらない呼び方が、私の脳に突き刺さる。


「僕は、東頭とつるんでるおかげで、誤魔化すのが上手くなったんだよ」


 心臓が跳ねた。

 そ、それって……じゃあ、今までも、視界に入ってなかったわけじゃなくて……。


「東頭にいつも言ってることを、君にも言っておく」


 いつもより低い声が、耳から脳に突き刺さってくる。


「――僕も、男だぞ」

「ひうっ」


 なっ……今の……はぁうあ……声が、声が……頭に残って……!


「じゃあ、僕は風呂入ってくるから。風邪ひく前に服着ろよ」


 いつもの調子に戻って、水斗はリビングを去っていく。

 その気配がなくなると、私はこてんと、ソファーの上で横倒しになった。


 ……ずるいい~~~~~~っ!!

『僕も男だぞ』はズルでしょお~~~っ!! 禁止! 犯罪だからあ!!

 わざとやってるの? 仕返し? 私が誘惑したから? だとしたら意地悪すぎるんだけど! ああもお~~~!! そんなんだから東頭さんにも好かれちゃうのよ!! 誤魔化せなくなったら私、どうなっちゃうの~~~~~っ!?


 結局、お母さんが帰ってくるまで、私はソファーの上でごろごろしていた。






◆ 南暁月 ◆


「じゃあな。おやすみ」


 普通に帰らされた。

 付き合ってる頃だったら絶対そのまま泊まってる流れだったけど、普通に家に帰された。まあ、10秒もかからない距離だし当たり前なんだけど。


 自室に戻り、ばふーん! とベッドに倒れ込む。

 ……あいつの謎アレルギー、どうやったら治るのかな。

 原因であるあたしがこんなに更生してるんだから、治ってもいいようなものなんだけど。

 いや、治ろうが治るまいが、関係ないんだけどさ、今のあたしには。でも勝手に勘違いされて、勝手に体調悪くなられるのも面倒だし。


 ……そういえば、結女ちゃんどうなってるかな。

 めちゃくちゃ上手くいってたら、今頃伊理戸くんと……。


「……………………」


 邪魔したろ。

 着信音で水差したろ。

 あたしはスマホを手に取り、結女ちゃんをコールする。無視されたり、すぐ切られたりしたらそれはそれでショックだな、なんて思っているうちに、通話が繋がった。


『もしもしー』

「あ、もしもし結女ちゃん? いま大丈夫ー?」

『うん。大丈夫』


 焦ってる感じもない。どうやら一人らしい。ちょっとホッとした。


「どうだったー? 生殺し作戦の結果は!」

『えー? まあ、うん……えへへ』


 ……おっと?

 この照れ笑い……歯切れの悪さ……『質問してください』という空気……。

 もしかして……もう、全部終わった後だったり……?


「う……上手くいった、の?」

『うーん……そうとも言える、かな?』

「え? え? どういうこと?」

『えへへ』


 だからどういうこと!?

 説明を! 説明を求めてるんだけど! 意味ありげな照れ笑いだけするのやめて!


『あのね……「僕も男だぞ」って言われた』

「ん?」


 それだけ?

 と一瞬思ったけど……んん!?


『その、実は、全然効かなくて……その上、わざとやってるのがバレちゃって……でも、あの、それでね? 効いてないんじゃなくて、誤魔化すのが上手いだけだって……僕も男だから気を付けろ、って!』

「え……えっ!? ええ~っ!? なにそれ!?」


 想像して、不覚にもドキドキした。

 え? 何? アイドルが出てる恋愛映画の予告編?


「伊理戸くん、少女漫画から出てきた人なの?」

『ね! ああいうの天然でやってくるから怖いの!』

「顔が可愛いから様になりそうなのが腹立つな~……! こっちなんかさあ、なんて言ってきたと思う?」

『え? 暁月さんもしたの? 川波くんに?』

「あ、うん、まあ、気まぐれにね? でさ、あたしでもナンパされるかもしれないんだぞって話してたらさ、『ナンパ避けにキスマークでも付けといてやろうか』だってさ! キモいよね~!」

『えっ!? よくない!? すごいよくない!?』

「結女ちゃん的にはアリなの?」

『人によるけど、どっちかといえばアリ!』

「そっかぁ。……まあ、うん、あたしも別に、嫌ってほどじゃないけど」

『素直じゃないなあ』

「それはあいつのほう! あいつ、何でもかんでもすぐに笑って誤魔化すんだから!」


 結女ちゃんを伊理戸くんに取られるのは悔しい。

 その相談を、よりによってあたしにされるなんて地獄もいいところだ。

 けど……こうして、結女ちゃんがあたしだけに秘密を話してくれるのなら、それはそれでいいかもなあ、なんて思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る