元カノは看病する。「……うつしたら治るって、本当かしら?」


◆ 伊理戸結女 ◆


 前回のあらすじ。

 やらかした。


「――なあ。ここに置いてあったコップ、どこにやった?」

「え? 流しに持っていったけど?」

「はあ? まだ使うつもりだったのに……」

「知らないわよ。適当に置いておくのが悪いんでしょ?」

「はあ……」

「……ふんっ」


 見よ。これがほんの数日前、キスをした男女の会話だ。

 ここのところはお互い慣れて、まだしも穏やかだったはずなのに、気付いてみれば険悪な関係に逆戻り。


 どうしてこうなった。


 いや、わかっている。わかっているけど、ちょっと待って? 私はただ、ほんのちょっと照れ隠しをしただけなの! キスした理由を正直に言うのが恥ずかしくて、慣れたノリに逃げただけ! なのに……!

 その後、東頭さんのあれやこれやがあって、うやむやになったかな~、と思ってみればこの有様。水斗の当たりは夏休みの前より強くなっていて、私も思わず言葉に棘が立ってしまう。


 うう~……! 違うの、違うの……! 私がやりたかったこととは真逆なのお~……!

 本当は、もっとこう、小悪魔的に接して、水斗の顔を赤くしたり、挙動不審にさせたりしたかったのにい~!

 どうやったらその流れに戻れるんだろう……。あれは照れ隠しだったって説明する? 今更? 無理でしょ! そんな風に下手に出たら小悪魔できなくなるし!


 私はリビングのソファーに座りながら、キッチンで浄水ポットからコップに水を注いでいる水斗を見やる。

 とにかく、棘のある反応をやめることだ。脊髄反射でツンケンするからややこしくなるのだ。そう、私は学習する女。特技はPDCAを回すこと――


 がちゃんっ! と大きな音がして、私はびくりと振り返った。

 水斗が顔をしかめて床を見下ろしている。立ち上がって見に行くと、蓋の外れた浄水ポットがキッチンの床に転がり、零れた水でびちゃびちゃになっていた。


「だ、大丈夫?」


 浄水ポットはプラスチック製だし、割れてはいない。たぶん怪我はないと思うけど……。

 水斗は雑巾を手に取って床にしゃがみ込む。私も手伝おうと近付いて、


「来るな」


 硬い声に阻まれた。


「近付くな。一人でできる」


 私はその場に立ち尽くし、何もできなくなった。

 ……そんなに……?

 そんなに、私のこと、嫌い?

 確かに、確かに、私たちは一度別れたけど。でも、でも、一度は本当に、両想いだったじゃない。

 今の私は、そんなにダメなの? 

 昔の私と、そんなに違うの……?


 水斗は水浸しになった床を拭き終えると、浄水ポットに水を入れ直して冷蔵庫に戻す。

 それから、一言もなく、私の隣を通り抜け――

 ん?

 私は振り返り、リビングを出ていく水斗の背中を見る。

 今……何だか、顔色悪くなかった?






◆ 伊理戸水斗 ◆


 思考がはっきりしない。

 身体の節々が痛い。

 喉の奥がいやに乾いた感じで、息をするのも億劫だ。

 総合的に判断して――僕は、風邪をひいていた。


「……はあ……」


 やっとの思いで自分の部屋に戻ると、ベッドに身を投げ出した。

 久しぶりだな……。いつぶりの風邪だろう?

 田舎でウイルスでももらってきたか……。やっぱり祭りなんか行くもんじゃないな……。

 ……あいつには、伝染うつってないよな……。


 唇に蘇った感触を打ち消すようにして、僕はベッドに潜り込んだ。

 とにかく、寝よう。それで治るはずだ。

 子供の頃から、風邪のときはいつもそうしているんだ――






 ……つめた……。

 額に乗った、ひんやりとした感触で目が覚めた。

 ぼんやりとした意識のまま体調をチェックする。喉はまだ痛い。気だるさも抜けていない。どうやら、もう何回か眠る必要があるらしい。


 一刻も早く治すため、再び睡魔に身を委ねようとした僕を、すんでのところで疑問が捕まえた。

 額に乗ってる、この冷たいやつ、なんだ?

 熱冷ましシートのような気がするけど、そんなもの、僕は使った覚えがない――

 ゆっくりと瞼を開けた。


「あ」


 ぼやけた視界に、見慣れた顔がある。

 そいつは僕が目を開けたのに気付くと、長い黒髪を耳の後ろに掻き上げながら、僕の顔を覗き込んでくる。


「大丈夫?」


 まるで普通の家族みたいに声をかけてくるそいつを見て、僕はまだ眠っているんじゃないかと疑った。

 だって、そうだろう。何が気に食わないのか、ずっと不機嫌で、近付いてこようともしなかったくせに……そんな、まるで心配でもしているような……。


「何か欲しいものある? スポーツドリンクなら持ってきてるけど」

「……くれ……」

「ん。起きれる?」


 のそのそと起き上がっているうちに、結女はストローを挿したコップにスポーツドリンクを注いで、僕の口元まで持ってくる。


「……自分で飲める……」

「こぼして濡れたら逆効果でしょ。いいから」


 それでも僕は、結女の手の上からコップを支えて、ストローを口に含んだ。甘く冷たいドリンクがチューっと喉の奥に染み渡っていく。


「まったく……しんどいならそう言ってよ」


 結女は呆れた口振りで言った。


性質たちの悪い風邪だったらどうするの? せっかくの夏休みなのに……」

「……うるさい……」

「何よ。看病するのもダメなわけ?」

「……僕は……」


 熱に浮かされた頭のまま、僕は言葉に口を素通りさせる。


「……ただ……怖くて……」

「え?」


 そこで力尽きて、再び枕に頭を戻す。

 ちょっと喋ったら、疲れた……。


「寝るの? 熱は? 測った?」


 測ってない。

 と声にすることもできないまま、僕はまた眠りに落ちていく。






◆ 伊理戸結女 ◆


 ……寝ちゃった……。

 くうくうと静かに寝息を立てる水斗の顔を見て、私は仕方なく体温計を取り出す。

 そして、ゆっくりと、水斗の服のボタンに手をかけた。

 仕方なくだからね、仕方なく……。下心なんてない。ないから……!

 ぷちりとボタンを外すと、白い鎖骨と胸板が目に入って、ぐわわーっと血が顔に上ってきた。病人よ、相手は! 落ち着け、落ち着け……!

 腋の間に体温計を差し込む。……前々から毛の薄いタイプだとは思ってたけど、腋毛も全然生えてないんだ……。


 ピピピピッ――、と計測終了の音が鳴る。

 私はハッと我を取り戻して、体温計を水斗の腋から引き抜く。あ、危ない危ない……。この前のキスに込めたのは、決して眠った病人を勝手に眺め回す決意ではなかったはずだ。自重しなければ。自重……。

 37度9分。

 体温計に表示された数字は、微熱と侮れるほどでもなければ、高熱と言うほどでもなく。この分なら、一晩休めば治りそうね。


「……よかった……」


 何日もこの様子だったら、私は自制心を保ちきれる自信がない。気持ちを自覚するのも考えものだ……。

 私は強い意思で目を逸らしつつ水斗の服を直すと、一息ついて、その寝顔を見つめた。


 ――……ただ、怖くて……


 怖くて?

 何が怖いって言うんだろう……。私、そんなに言い方キツかった? 譫言で呟くくらい……? んぐおーっ……!


 ……別に、ツンケンしたくてしてるわけじゃない。

 でも、私たちの関係は、もうすっかりそういう風になっていて。昨日の今日でいきなり、その慣性からは抜け出せない。顔を合わせれば自然と嫌味が出てくるし、向こうが言い返せばこっちもさらに言い返す。そんな距離感が、今の私たちのデフォルトなのだ。


 わかっている。心を決めたからって、昔に戻れるわけじゃない。

 いや、戻ってはいけないのだ。それじゃあ結局、以前の繰り返しでしかない。

 私が不覚にも、今のこいつに惚れ直してしまったように――こいつにも、今の私に惚れ直してほしい。

 高望みかもしれないけど。……そのくらいでなければ、私たちは恋仲には戻れない。


 私たちは男と女である前に、義理のきょうだい。

 試しに付き合ってみたけどダメでした、が許される立場じゃないんだから。


 ……でも、どうしたらいいかなあ。

 たぶん、正直に話しても警戒されるだけだろうし。我ながら信頼を失いすぎている。

 私が何もしなくても、私のこと勝手に好きになって、勝手に告白してきてくれないかなあ~……。

 …………成長どころか、中学の頃より退化してるわね。


「……おじやでも作ろっかな」


 作ったことないけど。まあレシピを検索しつつやれば何とかなるだろう。

 私は立ち上がって、いったん水斗の部屋を出た。






◆ 伊理戸水斗 ◆


 これは夢だと、一発でわかった。


『お水飲める? 飲ませてあげようか?』


 まるで母親のように甲斐甲斐しく世話を焼いてくる、伊理戸結女。そこには嫌味も皮肉もなく、見返りを求めない慈愛だけがある。

 現実には絶対にありえない、薄ら寒い幻覚だ。


『熱測ろっか。ほら、腕上げて――』


 ――今更、なんだよ。

 そんな風にしたって、どうせ同じだろ。君がどんなに僕に優しくして、僕たちがどんなに仲良くなろうと、結局、些細なことでダメになるんだろ?

 人間、根っこの部分はそうそう変わらない。僕も君も、大して変わっちゃいないんだ。きっとまた、相手のことを認められなくなることがある。そのとき、どっちが折れる? どっちが赦す? ――きっとどっちも、赦さない。


 僕たちは、東頭みたいに頭を切り替えられないんだ。

 ずるずるずるずる、感情に引っ張られて、意地を張って、意固地になって――気付いたときには、身動きが取れなくなってる。

 だったら……ただの義理のきょうだいで、良かったじゃないか。

 ようやく、過去のことを水に流せそうになっていたのに。引きずっていた感情を、やっと手放せそうになっていたのに。……なのにどうして、余計なことをするんだよ。


 うんざりなんだ。

 上手くいったと思えば上手くいかなくて、嬉しいと思えば落ち込んで。

 昨日と同じ明日が来ない。一時として落ち着くことがない。……そのくせ、最後には泡のように弾けて無駄になる。


 恋なんて、一時の気の迷いだ。

 思春期に見せられる、性質の悪い夢だ。

 ――あんな目に遭うのは、もううんざりだ。






「……ん……」


 ぼんやりと瞼を開けると、カチ、コチ、カチ、という時計の音だけがあった。

 ベッドの傍らには、誰もいない。

 スポーツドリンクだけが、サイドテーブルに置かれていた。


 僕はゆっくりと身を起こす。

 肘をぐいと伸ばした。節々の痛みがだいぶん収まっている。頭の中をぐらぐらと揺らす気持ち悪さも、眠る前に比べればないに等しい。汗も少しかいていて、代謝が復活していた。喉だけはまだ痛いが……どうやら、ウイルスは壊滅寸前のようだ。


 僕はスポーツドリンクを一杯飲み干して風邪の残滓を洗い流すと、ベッドを降りた。

 別に目的があったわけじゃない。寝るのに飽きただけのことだ。

 部屋を出て、階段を下りていくと、リビングのほうから気配がした。

 戸を開ける。


「えーと、塩を大さじ……大さじってどのくらい!?」


 キッチンに、ポンコツが立っていた。

 部屋着の上にエプロンをかけ、長い髪は邪魔にならないようポニーテールに縛り、格好だけはいっちょ前だ。が、軽量スプーンに山盛りになった塩を睨みつけて眉根を寄せる様は、初めて調理実習に臨む小学生もかくやだった。


「大さじ一杯……一杯よね、これ? まあいっか」

「良くない」

「え?」


 山盛りの塩を鍋に放り込もうとした手を、僕はすんでのところで掴んだ。

 結女が振り返り、ぱちぱちと目を瞬く。


「あなた……もう大丈夫なの?」

「大さじ一杯は、山盛りじゃなくて平らにした状態のことを言うんだ。家庭科で習っただろ」

「え……あ、そうだっけ……?」


 僕はいったん結女の手を放すと、流しで手を洗い、その指で軽量スプーンに乗った塩を平らに均した。それからぐつぐつ煮える鍋に入れる。

 鍋の中で煮えているのは米だった。コンロの横に卵が用意してあるところを見ると、どうやらおじやを作ろうとしていたらしい。


「……僕が寝てる間に慣れないことするなよ。火事になったらどうする」

「そっ……そこまで下手じゃないわよ! 私だってたまにご飯手伝ってるし! お米は一人で炊けたし!」

「そうだな。米の炊き方も、僕が教えるまで知らなかったな」

「うぐっ……!」


 結女は明後日の方向に目を逸らすと、不服そうに唇を尖らせた。


「……挑戦したことを評価してよ。一応、あなたのためなんだから……」


 僕は横目にその顔を見る。


「病人に気を遣わせるのが君の看病か?」

「んぐっ……うー……!」


 結女は子供のように唸って、僕の顔を睨んだ。『この嫌味男。もう少し弱っていればよかったのに』と表情に書いてある。

 そうだ、それでいい。

 僕は結女への視線を切り、冷蔵庫の野菜室を開けた。


「栄養を取るためのおじやなんだから、ご飯と卵だけじゃ足りないだろ。ネギくらい入れろ」


 青ネギを取り出し、まな板の上に置く。


「あっ……! これ以上は私が……! まだ治ってないでしょ? 顔色はだいぶ良くなったけど」

「ほとんど治ってる。君に塩っ辛いおじやを食べさせられたらぶり返すだろうけどな」

「でも病み上がりなのには違いが――」

「君は卵を溶け。まさか卵も割れないなんて言わないだろうな」

「……わかったわよ! そこまで減らず口が叩けるなら大丈夫そうだし! 割ればいいんでしょ、割れば! ちゃんと練習したんだから!」


 結女は生卵を流し台で軽く叩き、ヒビを見て首を傾げ、また軽く叩き――を繰り返し始めた。もちろん割るときに力が入りすぎ、ぐしゃりと握り潰して、あわあわと慌てて殻の欠片を取り除くことになった。

 僕はそれを横目にネギを刻む。こんな不器用な奴に包丁なんて触らせたら、それこそ病状が悪化しそうだ。


 卵を円を描くように投入し、刻みネギを適当に振りかけて、おじやは完成した。

 鍋を持とうとしたら、「ポット落としてたでしょ」と言われて、半ば強引に結女に奪われた。……まあ、確かに、まだ完全復活とは言い難い。思ったより力が入らない可能性はあるし、危険性を鑑みて、ここは素直に任せることにした。

 僕がダイニングテーブルに鍋敷きを広げると、結女がその上に鍋を置く。それから茶碗を二人分取ってきて、鍋を挟んで向かい合う形で座った。


「君も食べるのか?」

「出来が気になるし」


 外はまだ明るいが、時刻はすでに午後七時。夕飯時だ。健康の身では、夕飯がおじやではとても足りないと思うが――この女、僕のことにかかずらってたせいで、自分の分を用意し損ねてるじゃないか。

 結女は僕の意見を聞きもせず、勝手に二杯の茶碗におじやを取り分けた。それから「あ、お箸忘れてた。……レンゲのほうがいいか」と呟くや、ぱたぱたと小走りにレンゲを取ってきて、自分と僕の前に置く。


「いただきます」


 そして律儀に手を合わせ、レンゲで黄色いおじやを掬い取った。


「あふっ」


 愚かにもそのまま口に入れようとしたので、当然、顔をしかめて仰け反ることになる。


「冷ませよ……」

「あ、熱いほうが美味しいでしょ」


 などと抗弁しつつも、ふーふーと息を吹きかけておじやを冷まし始めた。

 たぶん、お腹が空いてたんだろうな――察しはつきつつも、それ以上、思考を前には進めない。空きっ腹を抱えながら慣れない料理をしている女の姿なんて、想像したって何の意味もありはしない。

 結女はゆっくりとレンゲを口に入れ、もごもごとおじやを味わう。


「美味しい……」


 僕は湯気を吹き飛ばすようにおじやを冷ますと、レンゲを口に含む。卵の絡んだ米粒を咀嚼すること数秒。


「米が水っぽいな。炊くとき水入れすぎたんじゃないか?」

「う゛っ。……ご、ごめん……」

「……まあ、おじやなら多少はいいだろ」


 二口目を口に運ぶ。幸いなことに、食欲は普段以上にあった。

 次々にレンゲを動かす僕を、結女は驚いたような目で見て、……それから、安心したようにふっと微笑んだ。


「一緒に料理して、一緒に食べて……」


 二杯目を鍋から取り分けていたら、結女がふと、取り留めのない呟きをこぼした。


「……結婚したら、こんな感じなのかな」


 僕はちらりとその顔を窺いつつ、


「今と大して変わらないだろ」

「そうかな」

「同じ家に住んでるし。苗字も一緒だし」

「それもそっか。……んん?」


 結女が不意に首を傾げる。


「今の……」

「どうした?」

「いえ、……えっと」


 結女はかすかに頬を染めると、視線をテーブルの上に逃がした。


「今の……私とあなたが結婚するって前提の話になってたけど……」

「ん? ……あ」


 普段より霞がかった頭が、ようやく自分の発言を認識する。


「……二人でいるときにそんな話をするからだろ。文句があるなら、誰か彼氏でも――」

「やだ」


 食い気味の否定に、思わず口ごもった。

 テーブルの向こうで、結女は、空になった茶碗を見つめていた。


「それは……やだ」

「……それは、って――」

「――どういう意味だと、思う?」


 ちらと、上目遣いの、試すような視線。

 それに射抜かれたように、喉の奥がつっかえて、咄嗟に言葉が出てこなかった。

 くすっと、結女はからかうように笑う。


「なるほど。……ちょっとわかってきた」

「なんだよ……」

「べつに? 中学時代にすっごくカッコいい彼氏がいたから、他の男子が全員見劣りするってだけの話だけど?」

「…………は?」

「冗談よ」


 にやっという、悪戯が成功した子供のような笑み。

 まさか、今……もてあそばれたのか?

 この、成績だけが取り柄の、高校デビューのポンコツに?


「食べ終わったら、もうひと眠りしたら? まだ頭働いてないでしょ」

「……そうするよ」


 そう。頭が働いてないんだ。体内のウイルスさえ駆逐したら、この女の冗談になんか、絶対に引っかかりはしない。

 ……どういうつもりなんだ、本当に。

 前のようにツンケンするわけでもなく、昔のように好意を見せるわけでもなく。

 まるで――違う人間みたいじゃないか。






◆ 伊理戸結女 ◆


「……はー……」


 水斗が二階に引っ込んでいくのを見届けると、私は長く息をついて、椅子の背もたれにだらんと背中を預けた。

 今はこのくらいが、きっと限界。

 冗談というオブラートに包まないと、本当の気持ちはとても口にできない。

 それに……ちょっと、楽しかったし。


「……ふふ、ふ……」


 私の思わせぶりな言葉と態度について、今も水斗が考えてくれていると思うと、ニヤニヤが止まらなくなってしまう。

 これが女。大人の女の愉しみ。

 やっぱり成長していたのだ。中学の頃の私では、こんな高度な駆け引き、絶対にできなかった――


「ふふ……ふふふ、ふふふふふふふ――」

「結女ー? 一人で何ニヤニヤしてるのー?」

「ふああーっ!?」


 いつの間にか帰ってきていたお母さんに話しかけられて、私は思わず跳び上がった。






◆ 伊理戸水斗 ◆


『……伝染うつしたら治るって、本当かしら?』


 また、夢だ。

 一目見てわかる。あの女が、賢ぶっているだけのポンコツが、こんな妖艶な微笑みを浮かべて迫ってくるなんて……騙すつもりだとしたら、あまりにもお粗末だ。


 迫り来る微笑と唇を払いのけるように、僕は意識を浮上させる。

 暗闇が目の前を覆っていき、しばらく待って、それが瞼の裏だと気付けるようになった。

 まったく、我ながら単純すぎる。ついさっき、もてあそぶようなことをされたからって、こんなお粗末な夢を見るなんて。あいつにできるわけないだろ、あんな寝込みを襲うようなこと。付き合っていた頃でさえ、自分からキスしてくるなんて滅多にあることじゃあなかったのに――


 心の中で失笑しながら、ゆっくりと瞼を開いていく。そろそろ体調も完全に戻っている頃だ。もう深夜になっているだろうか。昼間にずいぶん寝てしまったから、この後さらに寝るのは無理だろうな。どうやって暇を潰そう。そういえば、まだ読んでいない本があったっけ――


「……………………」

「……………………!?」


 まだ夢を見ているのかと、本気で疑った。

 薄く瞼を開けた僕の目の前に、静かに瞼を閉じた結女の顔が、本当にあったのだから。


 僕は慌てて息を詰める。

 結女の唇から漏れた、細く、弱い吐息が、僕の唇に触れていた。

 右耳の後ろに垂れ髪をかき上げた格好で、結女の顔が近付いてくる。顔を逸らせば、起きているのがバレるだろう。本能的にそれを避けて、僕は薄目でそれを見つめることしかできなかった。


 田舎での、夏祭りの夜が脳裏に蘇る。


 そう、あれがあった。こいつが自分からキスしてきた、数少ない例。

 ……いや、違う。あれは、バランスを崩しただけなのだ。

 だとすればこれはなんだ? また崩したのか? 偶然にも? そんなわけあるか馬鹿! 冷静になれ! こんなことが何度も続いたらどうする。なんとなく許して……なあなあになって……僕らは、同じ家に住んでいるんだぞ。二人きりになろうと思えば、いつでも簡単になれる環境なんだぞ! そんなことになったら、もう――


「……なんてね」


 ――すいっと、結女が顔を離した。

 圧迫感が急に消えて、まるで取り残されたようだった。

 僕が薄目で見やる先、結女はこっちを見下ろしていた。僕が慌てて寝たふりをすると、結女はくすりと自嘲するように笑う。


伝染うつして治るなら、感染症なんて怖くないかぁ」


 誤魔化すように呟いて――結女は、すたすたと部屋を出ていった。

 その足音が聞こえなくなってから、僕はむくりと身体を持ち上げる。

 額からぺろりと熱冷ましシートが剥がれて、布団の上に落ちた。

 僕はしばらく、無言でそれを見つめていた。


「……………………」


 ――……なんてね


 じゃねえよ!!

 誰に対するジョークだそれは! 誰も見てなかっただろうが! ピエロでも一人のときは大人しく黙るわ!!


「……くっ……」


 身体はほぼほぼ復調している。喉に乾くような痛みを残すのみだ。だけど、ここに来て新たな症状が増えた。目眩でくらくらする。

 わからない。

 本当にわからない。

 僕は……どうすればいいんだよ?


「――あ、水斗くん起きてる」


 部屋の扉が開いて、由仁さんがひょっこりと顔を出した。

 由仁さんは部屋に入ってくると、さっきまで結女が座っていた椅子に座る。


「体調は、もう大丈夫な感じ?」

「ええ、はい……もう大体」

「そ。やっぱり若いわね。すぐ治っちゃう。こんなときくらいお母さんしたかったけど、出番なかったなぁ」


 由仁さんはころころと笑う。

 僕は時計を見た。そろそろ日付の変わる頃だった。三~四時間は寝ていた計算になるけど……出番がなかったって、そんなに帰りが遅かったんだろうか?


「実はねー……あ、これ結女には秘密ね?」


 シーッと人差し指を立てて、由仁さんは嬉しそうに言う。


「看病代わろうかって、わたし、言ったんだけどね。結女が『自分でやりたい』ーって断って」


 ……僕の看病を? 自分だけで?


「慣れないことして疲れてるくせに。いつの間にか責任感のある子に育っちゃって~」


 由仁さんは含みを持たず、純粋に我が子の成長を喜んでいた。

 けれど、僕は、単純には受け取れない。

 単なる責任感の発露だなんて、思えない。


 ……君は、僕のことが好きなのか? 嫌いなのか?


 きょうだいでいるうちは、どっちでもいいことだった。好きであろうと、嫌いであろうと――僕たちはただ、付き合っていたことのある義理のきょうだいでしかなかった。

 でも君が、他の何かになろうとしているのなら――


 ……ふわふわして、モヤモヤして、落ち着かない。

 嬉しい気持ちとうんざりした気持ちがない交ぜになる。

 ただひとつ、今この瞬間に確かなのは――


「ありがとうって、言っておいてください」

「ええ~? 自分で言ったら?」

「…………恥ずかしいので」


 目を逸らして呟くと、由仁さんぱちぱちと目を瞬いて、


「やだ、ニヤニヤしちゃう……! 水斗くん、可愛いところあるじゃない!」

「……やめてください」

「よし、決めた。わたし、絶対言わない!」

「え?」

「本当に感謝する気持ちがあるなら、自分で言いなさい。いつかでいいから、必ずね」

「え……」

「ふふっ。お母さんっぽかった?」


 由仁さんはにっこりと笑い、


「これは同居生活の秘訣です。一回ミスった反面教師からの忠告!」


 ……突っ込みにくい。けど、


「わかりました」


 子供としては、そう肯くしかなかった。






◆ 伊理戸結女 ◆


 翌朝。

 いつもより起きるのがだいぶ遅くなってしまった。それというのも、夜遅くまで水斗のそばに付いていたからだ――体調もほとんど戻っていたし、心配いらないのはわかっていたけれど、一応、四月に私が風邪を引いたときも面倒を見てもらったし……最後まで付き合うべきだと思っていたのだ。……それと、まあ、あの男、寝顔は可愛いし。


 それもお母さんから治ったことを教えられて終わり、床に就いて――今。

 リビングで昼食をどうするか考えていると、キシキシと階段を降りてくる音がして、戸が開いた。

 パジャマ姿の水斗だった。

 頭が寝癖でぼさぼさだった。


「あ……おはよう」

「……………………」


 水斗はちらりと私を見ると、キッチンに歩いていき、浄水ポットからコップに水を注いで一気に呷る。その顔色は、すっかりいつも通りだった。

 私は歩み寄っていき、


「熱、もうないの?」

「……………………」

「お腹空いてない? 今、お昼ご飯用意しようと思ってたんだけど……」

「……………………」


 水斗は答えないまま、冷蔵庫から冷凍チャーハンを取り出し、電子レンジを開ける。

 な、なに? なんで無視するの? 治ったんならもう伝染す心配ないわよね?


「ねえ、ちょっと――」


 私は水斗の肩に手を伸ばした。

 水斗はスッとそれを避けて、一歩、私から距離を取った。


「え?」


 空を掻いた手を宙ぶらりんにした私を、水斗はちらりと一瞥し、


「……あんまり近付くな」


 小さく、低い声で言って、電子レンジのドアを閉めた。

 ターンテーブルが回り始めると、水斗はじっとそれを見つめて、もう何も言わなくなった。

 私は呆然とその横顔を見る。


「……な、なんなのよ……」


 昨日はあんなに甲斐甲斐しく看病してあげたのに……! 感謝の気持ちとか、少しはないわけ!?


「ふふっ」


 ダイニングテーブルでくつろいでいたお母さんが、私たちを見てニヤニヤしていた。

 私は振り返る。


「何?」

「さあ? いつかわかるんじゃない?」


 いつかじゃなくて、今教えてほしいんだけど。

 私がどんなにそう思っても、お母さんも水斗も、何も言ってはくれないのだった。

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