比翼の鳥が羽ばたくとき① 最後の日
◆ 伊理戸水斗 ◆
「――覚悟はできたのかい?」
12月29日。注文通り、3日目の業務の終わり際に、慶光院さんは訊いてきた。
慶光院さんが紹介してくれたバイトは、慶光院さんの会社の雑用だった。資料を纏めたり、買い置きのお菓子を管理したり、送る荷物の宛名書きをしたり、とにかくクリエイティブに関しないすべて。小さな会社だから、こういう雑用係がいると助かるらしい。
初めてのバイトだったが、たまにやる家事や、文化祭準備の経験が助けとなった。それに、ゲーム会社の現場に少しでも参加できたことは、事前に思っていた以上にいい経験になった。作業に熱中したクリエイターを休ませる方法とかな。
そうした新鮮な3日間の終わりに、慶光院さんが餞別とばかりに言ったのだ。
「男子三日会わざればと言うが、今のきみは、半月前に会ったときとはまるで別人だ。迷いは晴れたと思っていいのかな」
「……いえ」
僕は首を横に振る。
「迷わない人間なんて、いないと思います。たとえそれがどんな天才でも。……あなたのほうが、わかっているんじゃないですか」
慶光院さんは意味ありげに微笑んだ。
この人は結局、すべてを見透かしていたのかもしれない。これから僕が言うことも、すべては予想の内なのかもしれない。
それでも、言う。
それが、さっきの問いに対する答えだ。
「迷いは、晴らすものではありません。付き合うべきものだと、思います」
慶光院さんは少し驚いた顔をして、反応に間を空けた。
「付き合う? ……乗り越える、でもなく?」
「ええ。迷いを晴らしたり、乗り越えたり……そんなことができたら、お釈迦様ですよ」
ややあって、「くっ」と慶光院さんは小さく笑う。
「さすが読書家だ。教養のある答えだね――そういえば、『覚悟』は元々、仏教用語だったか」
迷いを去り、道理をさとること。
苦界に生きる僕たちには、まだまだ縁の遠い話だ。
「慶光院さん。前に結女から聞きましたが、あいつのミステリ好きは、あなたの影響らしいですね」
「ん? ああ――ぼくも学生時代に凝っていてね」
「一番好きなミステリはなんですか?」
お互いに読書家のくせに、この3日間、こういう話をしたのは初めてだった。
慶光院さんは難しげに唸り、
「何とも難解な問いを投げてくるものだ……。しかし、そうだね、結末で言えば、個人的に一番好きなのは――『笑わない数学者』かな」
――林間学校の夜、綾井結女と初めて関わりを持ったときに、僕も読んでいた本だ。
「少し渋いチョイスですね。同じシリーズなら『すべてがFになる』とかを挙げそうなものなのに」
「オチが好きなんだ。科学的思考の何たるかを示す、あのオチがね。……む」
自分の言葉に、慶光院さんはふと口籠る。
たぶん、気付いたんだろう。今し方自分で言ったことが、僕の答えと同じ意味を示していることに。
「……こいつは一本取られたな」
「偶然ですよ」
「ではお返しに訊こう。水斗君、きみが一番好きなミステリは?」
「『コズミック』です」
「……っはは! 『決して解けない謎』というわけだ――」
やっぱり、僕とこの人は似ているのかもしれない。
軽く息をついて、慶光院さんは遠いところを見る。
「……ぼくももう少し早く、きみと同じ答えに辿り着いていたら――いや、良くないな。歳を取ると後悔ばかりしてしまう」
それから、僕に手を差し出した。
「頑張ってくれ。ぼくのようなつまらない大人から言えるのは、もうこれだけだ」
「はい。言われるまでもありません」
僕たちは握手を交わす。
いつか見た悪夢と、これから見るユメに、決着をつけるために。
◆ 伊理戸結女 ◆
今年最後となる朝は、可もなく不可もなく、普通そのものの目覚めから始まった。
ベッドの中で瞼を開けて、そのまましばらくぼんやりとする。生徒会に入って以来、当たり前になっていた忙しさがプッツリと途切れて、気が抜けてしまっているらしい。
でも、いいか。今日くらいは。
そう思って布団の中で丸くなると、不思議なもので、逆に目が冴えてきた。眠れもしないのにベッドにいるのも暇なので、するりと布団から抜け出す。途端、冬の冷気が身を刺して、早くも布団に帰りたくなった。その欲求をぐっと堪えつつ、エアコンのスイッチを入れる。
部屋を暖めている間に顔を洗ってこよう。私は姿見で軽く髪の乱れを直すと、寝間着のまま部屋を出た。階段を降りて、洗面所に入る。
洗面台の蛇口からお湯を出して、少し待つ。水が温かくなると、ばしゃばしゃと顔を洗った。その後、化粧水をコットンに染み込ませて、顔全体に塗り込んだ。ついでに眉毛の形をチェック。問題はなさそう。
化粧水が肌に馴染んでいくのを感じながら、歯を磨いた。シャコシャコと念入りに、奥歯の裏まで漏らしなく。
その途中で、洗面所のドアが開いた。
寝癖をつけた水斗だった。
私は振り返り、歯ブラシを咥えたままで言う。
「おはよふ」
「おはよう」
私はコップに水を注ぎ、口に含んでブクブクとゆすいだ。そしてペッと歯磨き粉を含んだ水を吐き出して、口を拭きながら場所を水斗に譲る。
そして、何事もなく、自分の部屋に戻った。
エアコンで暖まった部屋で、クローゼットから今日の服を見繕う。そう気合いを入れる必要もない。結局、汎用性のあるブラウスと、過ごしやすいロングスカートにした。それらをいったんベッドの上に広げると、寝間着の上を脱ぐ。
あ、そうだ。ブラジャーも替えないと。上半身をナイトブラ一枚にしたまま、私は箪笥からブラを見繕った。
人に見せる予定は……ないか。
――だけど。
「最後の日……だから」
今年、最後の日。
私が自分に立てた誓い、その最終〆切。
この日が勝負でなくて、なんなのだろう。
私は、お母さんに内緒でこっそり買った、複雑な刺繍に縁取られた可愛いブラと、セットのショーツを取り出した。
ナイトブラを脱ぎ、新しいブラのカップに油断なく胸を詰め込んで、形を整える。
ただそれだけで、気が引き締まるような心地がした。
こうして、日常が始まる。
私にとって、勝負の日常が。
◆ 伊理戸水斗 ◆
午前は、だらだらと本を読んで過ごした。
『Yの悲劇』の再読である。日本で大人気のドルリー・レーンシリーズ第二作。全聾の元俳優ドルリー・レーンが、緻密で鋭い推理を披露したり、披露しなかったりする。
最終盤に明かされる驚愕の真実を読み終えると、僕はいつもと同じ感想を持った。
考えがあるなら、ちゃんと人に言わないとダメだよな……。
似たような話をいさなにしたとき、あいつはこんな風に言った。
「OVA版のジャイアントロボみたいなことですか?」
「なんだそれ」
「ちゃんと遺言を残さなかったばっかりに世界が大変なことになる話です」
あとで調べてみたら、めちゃくちゃ昔の、オッサンしか知らないようなアニメだった。なんでそんなの観てるんだ、あいつ。
ともあれ、いつの時代、どこの世界もディスコミュニケーションは悲劇を呼ぶものらしい。ミステリの殺人動機のうち半分が恋人を殺されたことだとしたら、もう半分はディスコミュニケーションだと言ってもいいくらいだ――いや、これは言い過ぎか。
『Yの悲劇』を本棚の元の位置に戻すと、僕は机のほうに移動し、その一番上の引き出しを開けた。
手のひらサイズのギフトボックスが、並んで二つ、収まっている。
引き出しをしっかり閉めてから、僕は部屋を出て、一階に降りた。そして何気なくリビングに顔を出してみると、結女が炬燵でテレビを見ていて、父さんがダイニングで本を読んでいて、由仁さんがキッチンで何かを茹でていた。
「あ、水斗くん。おうどん茹でてるけど食べるー?」
キッチンから訊かれて、僕は首を傾げる。
「年越し蕎麦は食べない派ですか?」
「えー? 別にいいじゃない。一日に二回麺類を食べたってー。お米は一日三回も食べるでしょー?」
まあ、どちらも主食という区分なら、同じ物差しで測るべきか。
「食べます」と答えて、僕はテレビの前の炬燵に入った。
先客の結女が僕のほうを見て、「ねえ」と話しかけてくる。
「初詣って、いつ行くタイプ?」
「いつって?」
「日付が変わった瞬間に行くか、徹夜して早朝に行くか、いったん寝て明日の昼くらいに行くか」
「それで言うと、そもそも行かないタイプだな」
「不信心ね」
「神様を信じるのか?」
「……それもそっか」
信じるには値しまい。僕たちをこんなにも翻弄してきた野郎だ。
僕は炬燵の真ん中に置かれた蜜柑を手に取ったが、これから昼食なのを思い出して、そっと元に戻した。
「君のところはどうなんだ?」
「元旦の昼前くらいに、お母さんと一緒に行ってたかな」
「人が多そうだ……」
「どうせ人混みなら、深夜のほうが面白そうね」
「今年は友達と行けるだろ?」
「うん。でも、せっかくだし、家族とも行きたくて」
「家族ね」
一昨年――いや、まだ去年か――は、三日くらいに、綾井と一緒に行ったっけ。友達もいないのに元旦から出かけると怪しまれるからな。
……あのときは、どんな神頼みをしたんだったかな。
「あなたは予定ないの? 東頭さんとか川波くんとかと」
「いさなは僕と同じタイプ。川波は僕のことをよくわかってる」
「ふうん。まあ川波くんは、他にも付き合いのある人多そうだものね」
「南さんも一緒だろ」
「深夜の二時くらいに集合しようって言われてるの。一緒に来る?」
「僕を針のむしろにして何が楽しい?」
「ふふっ」
「――二人ともー! おうどんできたよー!」
「「はーい」」
僕たちはいそいそと炬燵から立ち上がる。
初詣に行くにしろ、行かないにしろ、僕たちにはその前に片付けなければならないことがある。
今年の汚れは今年のうちに。
一世一代の大掃除だ。
◆ 伊理戸結女 ◆
昼食が終わった頃、暁月さんから電話がかかってきた。
「はい、もしもしー」
『結女ちゃーん。今いいー?』
「うん。大丈夫」
私はスマホを耳に当てながらテーブルを離れ、再び炬燵に脚を入れる。
すぐ後ろのソファーにだらしなく背中をもたせかけながら、暁月さんの声を聞く。
『今なにしてたのー?』
「お昼食べてた」
『おっ、なになにー?』
「おうどん」
『年越し蕎麦?』
「の、前座だって」
『えー? 何それ』
「暁月さんは?」
『ウチはフツーに焼き飯』
「作ったの?」
『ママがね! 大晦日くらいメシ作ったらあ、ってさー』
いつも家を空けている暁月さんの親御さんも、さすがに大晦日は家にいるらしい。
『結女ちゃんは年越し何観るの?』
「観るって?」
『テレビとか配信とか』
「んー。特に決まってない」
『紅白とか興味ないんだ?』
「出てくる人がわからないのよね」
『音楽あんまり聞かないもんねー』
「我ながら女子高生とは思えない……」
『カラオケの選曲もあたしに頼ってるしねっ』
「お世話になっております……」
『あははっ!』
「とりあえず、カウントダウンだけしてくれたらいいかな」
『それは重要なんだ?』
「年越したー、って感じがしない?」
『あー、わかるかも』
「いつの間にか日付変わってると損した気持ち」
『わかるわかる!』
水斗がリビングを出ていった。階段を上る音。
「去年はあけおめLINEで年明けに気付いちゃった」
『結女ちゃんはあけおめ最速派?』
「最速じゃない派があるの?」
『回線パンク読みでね!』
「んー……今年はリアル派かも」
『すぐ会うもんね』
「二時よね?」
『うん! そうそう――あっ!』
「なに?」
『そのことで連絡したんだった!』
「あ、そうだったんだ」
『うん。あのねー、奈須華ちゃんのお母さんが車出してくれるみたいでさ、そんならせっかくだし北野天満宮まで行っちゃう? って話になってー』
「えっ! いいねそれ!」
『おっ、テンション上がった?』
「毎年憧れながらも、新年から行くには遠いなーって思ってた」
『歩きで一時間かかるもんねー。じゃあ決定でいい?』
「うん。決定!」
『オッケー。それじゃあ二時に、烏丸御池の交差点のところに集合で!』
水斗がリビングに入ってきた。手には文庫本。
すたすたと歩いてくると、炬燵に脚を入れる。爪先が横から伸びてきて、私の脛の辺りに触れた。
「ところで、川波くんはいいの?」
炬燵の天板の上で、水斗が文庫本を開く。『空飛ぶ馬』だった。
『え? なんでー?』
「初詣デートとかしないのかなって」
『しないしない!』
「なんで?」
『あいつ知り合いに遭遇しまくるんだもん。あたしもだけど』
「おー」
『何の「おー」?』
「陽キャはすごいなあと」
『フツーだってー』
「でも北野天満宮くらい人が多いとわからないんじゃない?」
『んー、まあ確かに』
私はのっそりとソファーから背中を離し、本を読む水斗の顔を窺う。
『そっちこそどうなん?』
「どうって?」
『伊理戸くん。クリスマスに川波ん家に泊まってたみたいだけどー』
「ああ、やっぱりそうだったんだ」
『知らなかったの?』
「いなかったのは知ってた」
『わかってないなー、伊理戸くん! せっかくのクリスマスに結女ちゃんを一人にするなんてさ!』
「私たちは会長のところのパーティにお呼ばれしてたじゃない」
『まあそうだけどー』
暁月さんにしては、持って回った話し方だなと思った。
まるで、気になってはいるけど、はっきりとは訊きづらいことがあるかのような。
「暁月さん的には不満?」
『んー。不満っていうかー』
「川波くんと一緒に過ごせなかったから?」
『違うって! ……いや、なんかさ』
そら来た。
『伊理戸くんも結女ちゃんも、なんか悩んでる感じがしたから……大丈夫だったかなって』
優しいなあ、暁月さんは。
好きな人とのクリスマスを邪魔されたのに、私たちを心配してくれるんだ。
「大丈夫だよ」
親友を安心させるために、私ははっきりと言う。
「きっと、大丈夫」
未来のことはわからないけど。
今の私なら、そう悪いことにはならないだろうと、無根拠な自信がある。
『そっか。……ならいいや』
それ以上は何も訊かずに、暁月さんは言った。
『じゃあ二時! 烏丸御池ね!』
「うん。覚えた」
『夜道は危ないから、伊理戸くんに送ってきてもらってね!』
「……うん」
そうできたらいいなあと、私も思っている。
『じゃあね! ばいばーい!』
「ばいばい」
向こうが通話を切るのを待ち、私はスマホを耳から下ろした。
少し話し疲れたなあと思って、またソファーに背中をもたれさせていると、
「……なあ」
ぶっきらぼうな声が、控えめに耳朶を打つ。
「何?」
ソファーにもたれたまま顔を持ち上げて、水斗のほうを見た。
水斗は文庫本のページを閉じて、私の顔を見つめていた。
「……………………」
「ねえ峰くん。ウチのお雑煮って白味噌でいいの?」
「……………………」
「んー? 特には決まってなかったと思うけど、母さんのは白味噌だったかな」
私たちの沈黙に、ダイニングのほうからお母さんたちの声が紛れ込んでくる。
水斗はちらりとそっちを振り返った。
ここでは話せないこと……なのかな。
水斗は目を私に戻すと、一度、口を開きかけ、やっぱり閉じて、少し俯きがちになる。
それから改めて私の顔を見据えて、ようやく言葉を発した。
「夜に初詣に行くんなら、今のうちに寝ておいたほうがいいよ」
「……そう?」
「普段は早寝だろ、結女さん」
結女さん。
これは、家族としての言葉。
緊張が解けて、急に頭がぼんやりしてきた。お腹もいっぱいになったからか、炬燵があったかいからか、睡魔が瞼にのしかかってくる。
「ここで寝るなよ」
「……うん。そうね……」
「昼寝が終わったら」
少しだけ、目が覚めた。
「ちょっと、時間くれ」
……うん。
頭の中で答えると、私は気合いを入れて、炬燵から抜け出した。
「私も……ちょっと、話したいこと、あるかも」
謝りたいことも、ある。
それらのやりとりは、少しだけ抑えた声で行われた。ダイニングにいるお母さんたちを一瞬窺ったけど、私たちの会話を聞いている雰囲気はなかった。
「この作者の本、持ってたら貸してくれないか、結女さん?」
水斗が『空飛ぶ馬』を持ち上げて、唐突に言った。
「うん。あとで部屋に来てくれたら」
これは念のためのカムフラージュ。
私たちが二人きりでいてもおかしくならない、伏線。
私はリビングを出ると、階段を上って、自分の部屋に入る。
昼寝の間に髪が乱れても面倒なので、いつものようにお下げに束ねる。服は……どうせ夜に着替えるから、いいか。
ベッドの上に、仰向けになる。
天井を見上げて、小さく息をつく。
そして、考えた。
これからのことを。
私たちのことを。
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