プロポーズじゃ物足りない
◆ 伊理戸水斗 ◆
「それじゃあ、いってきまーす」
「いってらっしゃーい。水斗くんも気を付けてねー」
僕と結女は一緒に、玄関から深夜の世界に出る。
雪は降ってなかったけど、吐く息は白かった。着込んだコートのポケットに手を突っ込み、星々が煌めく夜空を仰いだ。
「……ふふっ」
一歩先んじた僕に、結女が弾むような足取りで並んでくる。
「お母さんたち、気付いてなかったわね」
それから、悪戯を成功させた子供の顔で、僕の顔を覗き込んできた。
僕は皮肉を込めて唇を歪め、
「気付かれてたら大変なことになってたよ」
「びっくりした。あなたって、あんな冒険することもあるんだ」
「誰にだって、勇者に憧れる時期があるさ」
「やめてよね? 貯水タンクで泳いだりするのは」
「それは勇者じゃなくて愚者だろ」
くすくすと笑い合いながら、寒空の下を歩いていく。
もう少し歩けば広い道路に出て、深夜にそぐわない人通りに出迎えられるだろう。だけどそれまでは、しばらくの間、この世界は僕と結女の二人占めだった。
「しばらくは隠しておく、でいいんだよな?」
「うん。今更日和るわけじゃないけど……」
「けど?」
「内緒にするのも、ちょっと楽しそうかな、って」
小さく肩を揺らす結女を見て、僕は小さく溜め息をついた。
「肝が太くなったな。あの生徒会長の影響か?」
「どうだろ。会長も案外、臆病なところがあるからなあ」
「あの人が?」
「意外でしょ?」
「想像できないな……」
今の僕が言うのもなんだが、女子というものはわからない。
「まあ、とにかく、いずれにせよ……もうしばらくは、家族のままか」
「そう?」
結女は軽く首を傾げると、軽やかに僕の前に躍り出て、正面から顔を見上げてきた。
「家の外でも……まだ、家族?」
周囲に、人気はない。
新年の灯りに落ちるのは、僕と結女、二人分の影だけ。
この世界に、僕たちをただの家族だと思う者は、一人もいない。
「……やっぱり、脳内ピンク色だな」
「お互い様でしょ?」
僕は分厚いコートの上から、結女の腰を抱き寄せた。
結女は少しだけ顎を持ち上げると、委ねるように瞼を伏せた。
初めてなのに、懐かしい。
僕たちはかつて、幾度でもこうして。
そしてこれからも、何度となくこうしていく。
僕はゆっくりと、結女に唇を重ねた。
柔らかな感触を名残り惜しむように、またゆっくりと唇を離し、互いに白い息が当たる距離のまま、互いの瞳を覗き合う。
「上手くなっておいて良かったわね。中学のうちに」
瞳だけで笑う結女に、僕は返す。
「君を鍛えてやったのは誰だと思ってるんだ。不器用女」
「誰だったっけ? 忘れちゃったかも」
「思い出させてやろうか?」
「一回で思い出すかな?」
僕はもう一度、唇を触れさせた。
今度はさっきより深く、強く結女の身体を抱き締めながら。
思い出せないなら、何度でも繰り返すだけだ。
何度でも、何度でも、長い時間をかけて。
その時間が、僕たちの絆を決めるだろう。
ただの家族でもない、ただの恋人でもない、ただの夫婦でもない。
言葉は必要だった。だけど足りなかった。
僕たちが僕たちである覚悟を示すには、一つの言葉じゃ足りはしない。
――プロポーズじゃ、物足りない。
これからの時間が示していく。
僕たちの人生が、答えていく。
「――お母さんたちには内緒にしておくとして、他はどうする?」
「他って?」
「暁月さんとか、川波くんとか……応援してくれた人たち」
「川波に言うのはなんか面倒だな……。南さんに言ったら、自動的に伝わるんだろうけど」
「……東頭さんは? 私から言う?」
「いや……」
僕は手袋を外すと、ポケットからスマホを取り出した。
開くのは、いさなとの個人チャット。
「僕から伝える。……そのくらいの甲斐性は見せるよ」
文面を考えても、大して意味があるとは思えなかった。
僕はシンプルな文字を、スマホに打ち込んでいく。
〈あけましておめでとう〉
◆ 東頭いさな ◆
〈それと、結女と付き合うことになった〉
新年早々、送られてきたそのチャットを見て、わたしの胸中にはわたし自身、驚愕の事態が巻き起こりました。
「………………あーーーーーーーーーーーーーーーーー」
意味のない、虚無そのものの声をあげながら、仰向けにベッドに倒れ込みます。
思考が凍っているのを感じました。
今はただただ、天井を見上げていたい。そういう自分を発見しました。
これは……本当に、本当に、驚きです。
わたし――なんと、ショックを受けています。
「……………………」
びっくりです。本当にびっくりです。
そしてそれ以上に、がっかりです。
どうやらわたしは、まだ水斗君にワンチャンあると思っていたみたいです。
あんなに結女さんとのことを応援しておいて! 女というものは恐ろしいですね。優しくしてみせながらも、虎視眈々と襲いかかるチャンスを狙っていたとは!
……考えてみれば、結女さんもかつて、わたしに対して同じことをしていたような気もしますが。どちらにせよ、女は恐ろしい生き物です。
「……………………」
いやいや、いやいや。
たぶん、別に付き合えると思っていたわけではないんでしょうね。
これはそう、推しのアイドルに彼氏ができた、みたいな……。
お幸せに、って心から思うのに、それはそれとして胸に突き刺さるこれは何……? みたいな……。
胸中に渦巻くこの複雑怪奇な感情に、わたしは説明をつけられませんでした。
どんな言葉をもってしても、取り零してしまう何かがある――その確信だけが、わたしにとって明らかなことでした。
そして、いつの間にか。
わたしは、机に向かっていたのです。
ペンを握るのも、イラストアプリを起動するのも、まるで目覚まし時計を止めるときみたいに無意識で。
キャンバスは白紙なのに、……不思議と、絵は目の前にありました。
あとはこれを、ペンでなぞるだけ。
そうしなければならないと、わたしの魂が言っていました。
◆ 伊理戸水斗 ◆
その翌日。
僕が管理しているはずの、いさなのツイッターアカウントに、見覚えのないイラストがアップされた。
そのイラストを見た瞬間のことを、僕は生涯記憶するだろう。
最初に目に入ってきたのは、夏を思わせる、抜けるような青空だった。それを断つようにして横切るのは、一筋の飛行機雲。
そして、その飛行機雲を、堤防に座ったセーラー服の少女が見上げていた。
ローファーを脱いだ足を、ぶらぶらと揺らしながら。口元に微笑を刻み――だけど、赤いスカーフを悔しげにぎゅっと握り締めて。
投稿には、一文だけキャプションが付いていた。
その一文が、しかしすべてを語っていた。
『幸せになってね』
「……ああ」
スマホを見つめながら、僕はようやく、それだけを答える。
僕は間違っていなかった。
君も間違っていなかった。
僕と君は、恋人同士にはならなかったけど。
きっと――世界を変える何かには、なれるはずだ。
そのイラストは、いさなの作品で初めて、四桁に上るリツイート数を記録した。
ありがとう。
そしてよろしく。
新しい日々は、まだ始まったばかりだ。
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