好きな人が家にいる⑨ 己の果てに輝くもの

◆ 伊理戸水斗 ◆


 静かで狭いブースの中に、紙をめくる音が連なっていた。

 僕の隣では、東頭いさながフラットシートの上で体育座りをして、真剣な顔で漫画を覗き込んでいる。当然のこと、スカートの裾を押さえたりはしておらず、正面から覗き込めばパンツが丸見えなんだが、隣にいる僕からは見えないし、注意しても直らないので気にしないことにした。


 いさなが大量に持ち込んだ漫画の中から、僕は巻数少なめの古い作品をピックアップして読んでいた。古典と呼ばれるような作品は、書店で見かけることも少ないし、こういうときでもないと読みそうにないと思ったからだ。

 現代まで残っている古典は、もちろん面白いから残っているのだし、後の作品にジャンルを超えて影響を及ぼしたと思しき要素が散見されて興味深かった。そして読み終わると、まとめて本棚に返してしまい、ついでにドリンクバーから飲み物を取ってくる。長い時間本を独占するのはマナーがいいとは言えないだろう。

 そうしてブースに戻ってくると、いさなは膝の上でタブレットを開いていた。


「何してるんだ?」


 訊きながら、りんごジュースに突き刺したストローを口元に持っていくと、いさなはタブレットから目を離さずにチューっとそれを飲む。


「ぷはっ。……いえ、ちょっと、良さそうな構図があったので……」

「構図?」


 いさなの右手はスタイラスペンを、左手は開きっぱなしの漫画を持っている。覗き込むと、いさなは漫画のあるコマの絵を、タブレットでスケッチしているようだった。


「すごいですよねえ、漫画家さんは。どんな構図でも描きこなせないといけないんですもんね。どういう頭してるんでしょうね」

「いや……僕からすると、急に模写を始めた君のことも、充分すごいと思うんだが。普段からやってるのか、そんなこと?」

「昔から、ラノベのイラストを模写して遊んだりはしてましたけど……最近は、ちゃんと上手くなりたいなあと思いまして」

「それはまた、どうして急に?」

「水斗君に、褒められたので」


 褒めた? 僕が?


「水斗君は、何気なく言っただけなのかもしれませんけど。構図から自分で考えたんならよくできてるって……そう言われたとき、わたし、密かにすごく嬉しかったみたいなんです。気付いたら、その何気ない一言を何度も何度も思い返していて……だったら、もうちょっとちゃんと頑張ってみようかなって、単純ですけど、そういう気分になってきて」


 いさなは口元を緩ませながら、しかしペンは止めなかった。


「それから、何だかすごく楽しいんですよね。絵を描くのが」


 僕自身ですら、よく覚えていない。それはきっと、本当に何気のない、特に考えのない一言だったんだろう。

 けど、その一言が、いさなの中の何かを開いたのかもしれない。明らかに何らかの才能を持っている奴だと、わかってはいたけど。それをこうも間近で、はっきりと示されたことに、僕は言い知れようのない衝撃に打たれていた。


 素直に驚き、素直に嬉しく、……そして素直に、羨ましいと思う。

 いさなは、自分だけの何かを見つけられたのだ。

 この前とは逆に、僕のほうが隣にいることに尻込みしてしまいそうなほど、今の彼女は輝かしく見えた。


 ……僕には理想がない。目指すべき自分がない。それでも人を好きになっていいんだって、いさなは言ってくれたけど、空っぽの自分がそれで変わるわけでもない。

 でも。……この輝きに、こうも大きく貢献できたというのなら、多少は意味があるってことなんだろう。

 僕がここにいる、意味が。

 僕は一心不乱に描き続けるいさなの隣に座り、肩を軽く触れさせた。


「また褒めてほしければ言えよ」

「いえ、おためごかしで褒めてもらっても逆にモチベ下がるので」

「面倒臭い奴だな」

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