好きな人が家にいる⑩ 我慢する義務はこちらにある

◆ 伊理戸水斗 ◆


『――……は、ぁっ……あ……っ――』


 ん?

 どこからともなく聞こえてきた声に、僕は振り返った。

 聞き間違い……? じゃ、ないよな? 今、確かに、どこかから、艶かしい声が……。


『――ぁ……やっ、ああっ!』

「ふあっ!?」


 今度はよりはっきりと聞こえた声に、スケッチに集中していたいさなもびくりと背筋を伸ばした。

 僕たちは顔を見合わせる。


「(おい、この声……)」

「(で、ですよね……。聞こえましたよね!?)」


 僕たちは自然と声を潜めていた。

 たぶん、確かめるまでもなく、わかっていたのだ。この声の出所と、その正体を。

 僕たちは申し合わせることもなく、ゆっくりと背後を振り返った。


『――ぁっ、だめぇ……』


 僕たちの背後にあるのは、無機質な壁だけ。

 いや……その向こう側に、存在する。

 隣の、ペアシートのブースが。

 よく耳をそばだててみれば、ごそ、ごそ、と物音も聞こえるような気がする。これはもう、普通に解釈すれば、壁一枚向こう側で、そういうことが行われているとしか思えなかった。


「(へぁっ……ふおわあ……! と、となっ、隣っ、隣っ……!)」

「(お、おい、落ち着け)」

「(やっ、やって――やってますよね!? かっ、完全に……せ、セッ――)」

「(落ち着けって言ってるだろうが!)」

「(むごががが!)」


 いさなの口を、僕は慌てて手で塞ぐ。


「(落ち着いて考えろ……。確かに漫画喫茶ではそういうこともあるって聞いたことがないでもないが、そうそう遭遇するわけがないだろうが。どうせAVか何かだ)」

「(そ、そう……ですよね。そんなこと、そうそう――)」

『――んんっ……っは……ぁぁ……――』

「(水斗君……AVにしては、喘ぎ声が抑えめでリアルなんですけど)」


 知るか! なんでわかるんだ、逆に!

 いさな曰く抑えめな声がかすかに響き渡る中、いさなは口に当てた僕の手をそっと引き剥がし、赤らんだ顔でちらちらとあちこちに目を泳がせる。


「(み、水斗君……ちょ、ちょっと……)」

「(あ)」


 気付けば、思った以上に接近してしまっていた。

 意識せずしていさなの肩を掴んでしまっていたし、フラットシートについた膝は、体育座りをしたいさなの太腿の下に潜り込んでいる。たぶん、僕が肩を掴んだ手にちょっと力を込めれば、簡単にいさなを押し倒すことができるだろう。

 その上、いさなが肩を縮めながら、僕を上目遣いで見つめるものだから、尚更にマズい雰囲気だった。壁越しに聞こえる声が、否応なしに思考をそっちのほうに動かしてきて、規則的に上下するいさなの胸元に注意を向けさせてくる――


「(……視線……)」


 少し恥ずかしそうに、いさなは呟いた。


「(こんなに近かったら、わたしでもわかりますよ、水斗君……)」

「(いや、その……悪い……)」

「(結女さんには、やっちゃダメですからね)」


 そして、いさなはちりちりと前髪をいじり、


「(わたしには……いいですけど)」


 ……たまに、こいつは狙ってるんじゃないかと思うことがある。

 僕とどうこうなる気はもうないとか言って、本当は隙あらば籠絡しようとしてるんじゃないかって思うことが。

 でも、本当に天然だから始末が悪い。

 僕は、普通なんだから。ただ顔に出にくいだけで、普通の男なんだから。いさなのことを友達にカテゴライズしていても、そういう欲が不意に刺激されてしまうことは、どうしようもなくあることなんだから。

 こいつがこういう奴である以上……僕が、責任を持って自制しなければならないんだ。


「わっ!?」


 僕はいさなの顔を胸に抱き寄せ、その頭をわしわしと撫でる。

 ほら、こんなのは大型犬と一緒だ。ペットみたいなものだ。ペットに欲情する趣味は僕にはない。これはペット、ペット、ペット……。


「ちょっ、ちょっ、水斗君っ! くっ、苦しっ……!」


 腕の中でいさながばたばたと暴れ――その拍子に、どんっ、とその足が、机に当たった。

 そして、机の上に積まれていた漫画の塔が、ぐらりと傾いた。


「あっ――」


 気付いた僕は反射的に手を伸ばし、漫画の塔を支えようとした。けど、そのとき、乗り出した身体を支えるために、もう片方の手が、これまた反射的に近くにあるものを掴み、


「――んあっ!」


 艶めかしい声が、壁越しではなく、すぐ近くから聞こえて、漫画の塔はばらばらと脆くも崩れ去った。

 片手が、何か、ひどく柔らかなものを掴んでいる。

 手のひらに収まらないほど大きく、指がどこまでも沈んでいき、けれど押し返してくる張りがある。その柔らかさの手前には、縁にワイヤーのようなものが通った硬い感触がある。


「はあっ……あっ……」


 いさなが、顔を上気させながら、浅い呼吸を繰り返していた。

 散らばった漫画の中に手をつき、後ろ手に上半身を支える格好で、僕の手を受け入れていた。

 片方の乳房を鷲掴みにした、僕の手を。


「――……水斗……くん……――」


 嫌がりもせず、振り払いもせず、いさなは潤んだ目で僕を見た。

 その瞳が、壁越しの声が見せる幻と区別がつかなくなって、僕は途端に恐ろしくなった。

 触ってしまった。

 なんだかんだで今まで、手のひらで触れたことはなかったのに――こんなにしっかりと。


 そして、証明されてしまった。

 僕がこういうことをしても、いさなは嫌がらないってことが……証明されてしまった。


 恐る恐る、僕は胸から手を放す。

 すると、いさなもまたゆっくりと、乱れたスカートを直し、横を向いて俯いた。

 やがて、


「…………水斗君は……わざと、やってるんですか…………?」


 ぽつりと、いさなが呟く。


「水斗君が好きなのは結女さんだから……これでも一応気を遣って、いろいろと我慢してるっていうのに……! なんでそうやって誘うようなことをするんですかっ。わたしの理性が吹っ飛んじゃっても知りませんよ!?」


 ……気を遣ってたのか。これで。

 遣ってなかったらどうなるんだ。

 いさなはぐるりと振り向くと、据わった目をしてずいずいと四つん這いで迫ってくる。


「もし我慢できなくなったら……責任、取ってもらいますからね」

「せ、責任とは……?」

「浮気してもらいますからね。わたしと一緒に背徳的な悦びに堕ちてもらいますからね」


 僕はちょっと安心した。今こうやって軽く口に出せている時点で、実際にはそうならないんだろうな、となんとなく思えたからだ。


「わたしがエロい漫画とか描くことになったとき、資料になってもらいますからね」

「それはマジでいつか現実になりそうで嫌だ」

「とにかく! 思わせぶりなことをしないように!」


 まったくもってこっちの台詞だったが、この件に関しては僕がコントロールしていくべきなんだろう――僕は肯くしかなかった。そもそも、事故で触れてしまったことは思わせぶりなのかという疑問はあるが……。

 はあ、といさなは溜め息をついて、


「まあ今回は、お隣さんのノーマナースケベが悪かったということで――あれ?」

「どうした?」


 いさなが不意に、壁を――悩ましげな声を漏らしていた隣のブースを見た。

 ……って、あれ?


「隣――静かになってませんか……?」


 いさなの言う通りだった。

 いつの間にか、壁越しの声も物音も、綺麗さっぱり消え去っていた。

 僕たちに聞こえているのがバレたのか……? いや、それにしても、こんなに完全に気配が消えるなんて……。


 僕たちは顔を見合わせると、どちらからともなく、忍び足でブースを出た。

 そして、隣のブースをこっそりと覗き込む。

 誰もいなかった。

 何の気配もなかった。


「…………水斗君、知ってますか?」

「…………何を?」

「お化けって、エッチな話をすると逃げていくらしいですよ」

「なんで今、その話をしたのかな?」


 何の関係があるのかな?

 いさなは無表情のままぶるぶると震えた。


「水斗君……今日、家まで送っていってください」

「……ああ」

「あと、次に漫画喫茶に来るときも、一緒についてきてください」


 骨があるな、と思った。

 二度と来たくなくなるだろ、普通。

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