本気のおまえを見せてみろ② 男と女
◆ 川波小暮 ◆
〈亜霜先輩、フラれたよ〉
暁月から届いたLINEに、オレは目を疑った。
フラれた? 亜霜先輩が? ……星辺さんにかよ?
〈マジ?〉と確認すると、〈マジ。今みんなで慰めてる〉と返ってくる。どうやらマジらしい。暁月はネジが何本も外れた女だが、こんなつまらない嘘をつく奴ではない。
オレはスマホから、部屋の様子に目を移す。
「ぐおっ! おい、やるじゃねぇか羽場!」
「オンラインで鍛えてますから」
「ぐがっ! おいおい、やめろやめろ崖の外まで来んな!」
星辺さんは、オレが持ち込んだゲームで羽場先輩と対戦している。その様子に、いつもと変わったところはない。暁月に言われなければ、ついさっき、女子を一人フッてきたなんて気付きはしなかっただろう。対戦している羽場先輩も、壁際で本を読んでいる伊理戸も、気付いた感じは一切なかった。
星辺さんにとっちゃ、大した出来事じゃなかったのか? いやいや、見ず知らずの女子に告られたわけじゃねーんだぞ。一年以上つるんできた生徒会の後輩だぞ? それをフッて何も思わないほど、冷血な人だとは思えねーよ……。
〈ちょっと出てこられる?〉
そんなことを考えているところに、暁月からのメッセージが続いた。
オレの趣味に――いや、違うな。オレは幸せな恋愛が見たいのであって、他人の失恋を楽しむような趣味はない――とにかく、暁月がオレにわざわざ事情を説明してくれるとは思えねーが、このまま知らんぷりして部屋にいるよりは、よほどいいだろう。
「ちょっと飲み物買ってきます」
「おう」
星辺さんの短い答えを聞いて、オレは男子部屋を出た。
廊下を歩き、下の階に向かう階段に来ると、その手前で暁月は待っていた。暁月はオレの顔を見ると、「下行こ」と言って、階段を降りていく。オレはそれを無言で追った。
宿泊客が集まるフロントやサロンから遠ざかり、人気のない廊下で暁月は壁に背中をつける。視線の先には夜闇に沈んだ和風の庭園。だが、見ているのは別の何かだろう。
オレも、暁月と視界を共有するように、その隣に背をもたせかけた。
少しの沈黙の後、暁月はぽつりと言う。
「亜霜先輩がね、いっぱい泣いてた」
「……そうか」
「いつもはあんなに明るい人なのにね……。まあ、泣き方ちょっと面白かったけど」
ふふっ、と暁月は少し笑ったが、それにはどこか力がなかった。
「……訊かないの? なんでフラれたのか」
「訊いたところで、どうすることもできねーだろ。昨日初めて会ったんだぜ、オレは」
「それもそっか。……まあ、あたしもわかんないしね、理由。ほんと、伊理戸くんといい、変な男子ばっかりだなあ……。応援した女の子、みんなフラれていっちゃうよ」
オレはハブられてたが、かつて東頭も伊理戸に告ったことがあるという。そのとき、一枚噛んでいたのがこいつだ。伊理戸は見事、こいつの策略を跳ね返し、東頭をフッたわけだが……責任でも、感じているのだろうか。
「疫病神なのかな、あたし。周りの子はフラれるし、あんたは恋愛できなくなっちゃうし。なんかヘコんじゃうよ……」
「オカルト言うんじゃねーよ。別にお前は関係ねーだろうが」
「うん。わかってる……。でも、考えちゃったんだよね、泣いてる先輩を見てさ。……これから先、あんたのことを好きになった子が、こんな風に泣くんだろうな、……ってさ」
「……………………」
オレがこの体質である限り、誰に告白されても、受け入れることはできない。
どころか、下手すりゃその場で吐くことになる。考えうる限り最悪のフり方だ。
それを――自分のせいだと。
お前は、思ってんだな。
「あたしが怒られて済むならそれでいいんだけどさ。きっとわかんないんだよね。あんたにフラれた子は、それがあたしのせいだってことに。あんた、たぶんモテるだろうし、これから何人もそういう子が現れる。あんたは何人も女の子を泣かせることになる。あたしは――あたしはね」
願うように、暁月は言う。
「あんたを、そんなひどい奴にしたくないよ」
だから、治さなきゃいけないのかよ。
現れるかどうかもわからない、未来の見ず知らずの誰かのために、無理やりにでもこの体質を治すってのかよ。
「……オレは――」
「ちょっと付き合ってよ」
有無を言わさず、暁月はオレの腕を掴んだ。
「行きたいところ、あるんだ。……知ってる? 半混浴の露天風呂があるって」
脱衣所の様子を見た限り、ちょうど他の客はいないようだった。
湯船が先に伸びて、細長い通路になっている、変な温泉だった。
ざぶざぶと温泉の中を歩き、奥へと進んでいくと、だんだん底が深くなってくる。茶褐色に濁ったお湯に、身体がすっかり隠れるくらいの深さになった頃、細長い通路が終わり、外が見えた。
露天風呂と言っていたが、実際には横長の窓から外が見えるだけの、半露天だった。それよりも気になったのは、オレが歩いてきたのとは反対側に、もう一つ湯船があったことだ。お湯とほぼ同じ高さの石垣が、一つの大きな湯船を半分に区切っている感じだった。
「あ、来た来た」
そこに、暁月がいた。
石垣の上に両腕を置き、平気な顔をしてこっちを覗き込んでいる。茶褐色の湯は透明度ゼロで、その身体は完全に湯に隠されていた。
反対側に女湯から繋がる通路があり、ここで合流しているのだ。ただし、濁り湯で身体はまったく見えない。そういう仕組みの半混浴なのだった。
「へへ……裸なのに見えてないなんて、なんか変な気分」
「……だな」
女湯側には、男湯側と同じく、他に一人もいない。早いのか、遅いのか、どうやら穴場となる時間らしかった。
「おいこら。探すな、他の女を」
暁月はジト目になって言う。
「いたってどうせ何も見えないでしょうが」
「うっせ。そうは言っても気になるだろうが」
「あんたって、スケベ心は普通にあるんだよね。そのくせ好きになられたら吐くとか、マジ理不尽」
誰のせいだと思ってんだよ――とは、言わなかった。
誰のせいなのかは、こいつが一番知っている。
暁月は石垣で頬杖をつき、からかうように笑う。
「混浴なんて、いつ以来だろね? ……あ、この前やったっけ? 家で」
「あれはお前が勝手に入ってきただけだろ。合意の上で一緒に風呂入ったのは――」
――付き合ってたとき以来だ。
記憶が遡る前に、オレは思考を止めた。これ以上進むと、平静ではいられなくなる。
「……昔は――小学生くらいの頃はさ。当たり前だったよね、一緒にお風呂入るの」
「ガキの頃はそんなもんだろ。それが普通だと思ってたよ」
「何年生のときだっけ? あんたが急にさあ、『女ってどこからおしっこすんの?』って訊いてきて――」
「やめろや! 人の黒歴史ほじくってくんな!」
「あはは! あたし、びっくりして泣いちゃって、あんた親に怒られてたよね!」
何も知らなかった頃の話だ。男と女の違いも。恋愛なんてものも。自分たちがどうなるかってことも――
「一緒に入らなくなったのはなんでだったっけなあ。あんたがあたしのおっぱい触ってきたんだっけ?」
「捏造すんなボケ。別にきっかけはなかったろ。もう大きくなったからって、なんとなく入らなくなって――」
なんとなくだ。全部全部、なんとなく。
なんとなく風呂に入らなくなり、なんとなく一緒に学校に行かなくなり、なんとなく教室では話さなくなり、なんとなく――恋人になった。
覚悟も、責任感も、何にもなかった。中坊なんざそんなもんで、女子に迫られたら呆気なく、猿以下の知能になってほいほいと飛びつく。そのくせ、思ったのと違うとなったらすぐに駄々をこね始める。
そのときのしっぺ返しを、今もまだ、受け続けている。
「――ねえ、興奮する?」
悪戯っぽく笑って、暁月は言った。
「JKになったあたしとの混浴……感想聞かせてよ、川波」
「……アホか」
オレは鼻で笑う。
「今、散々振り返っただろ。今更、お前と風呂入ったからって、興奮なんてするか――」
あの頃ほど、オレは無知じゃない。
男女を、恋愛を、覚悟を、後悔を、分別を。
どうしようもなく思い知って、今がある。
恋愛なんて、するものじゃなく見るものだ。
その答えに――変わりはない。
「……ふうん」
暁月の相槌は、どこか意味ありげだった。
オレが不審に思ったとき、暁月は男湯側との間を区切る石垣から離れ、ざぶざぶと、外が見える大きな横長の窓のほうに近付く。
そして、窓の手前にある、石組みの湯船の縁に手を掛けた。
「よいしょ」
ざぱっ――と。
飛沫が立った。
茶褐色に濁ったお湯の中から、白い背中が現れ、腰が現れ、お尻が現れ――
唖然とするオレの目の前で、暁月は身体をこちらに向ける。
一糸纏わず。
湯船の縁に腰掛けて、闇に染まった窓を背後に、濡れて照り輝く裸身を見せつける。
笑ったまま。
軽く首を傾げて、暁月はもう一度言った。
「本当に……興奮しない?」
その小柄な体格は、中学の頃とほとんど変わっていない。
けど、服の下に隠れていた身体は、しっかりと成長を遂げていた。腰からお尻にかけてのライン、ないように見えてしっかりとある胸の膨らみ――女性らしい曲線の数が、以前よりも明らかに多い。
子供みたいな背で、あどけない顔で、それでも艶めかしかった。
少なくともオレには――そう感じられて、しまった。
「……なんで……」
浮き立つ蕁麻疹と、湧き上がる吐き気を感じながら、オレは呻く。
「なんで……そこまで、するんだよ……」
疑問なのか。懇願なのか。
焼きついた猿以下の知能では、自問することさえままならない。
「オレは、今のままでよかったんだ……。それなりに仲直りしてよ……前みたいに、気の合う幼馴染みに戻れてよ……それで、悪くねー気分だったんだ……!」
我ながら、泣き声みたいだと思った。
ガキが、泣いているようだと思った。
「なのになんで――台無しになるようなことをするんだよ!」
終わってしまう。
居心地のいい時間が、終わってしまう。
そう思うと、悲しくて、腹立たしくて、頭がグチャグチャになる。
暁月は困ったように、少し眉尻を下げた。
「……台無しかな?」
「そうだよ。当たり前だろ……! だって、そんなことをされたら――」
そんなものを見せられたら。
「――お前を、女としてしか見られなくなる」
頭の奥で、火花のようなものが弾けている。それはオレの脳を内側から塗り潰し、理性と呼ばれるものを上書きし、動物みたいな本能の色で染め上げていく。
嫌だ。イヤだ! もうイヤだ。同じことを繰り返すのはイヤだ! 気色悪い、気色悪い、気色悪い気色悪い気色悪い! 綺麗なものだと思わせてくれ。男を、女を、人間を、もっと綺麗なものだと思わせてくれ。尊くて可愛くて美しい、綺麗なものだと思わせてくれ!
子供の頃の――思い出みたいに。
「ごめんね、こーくん」
無慈悲だった。
「そう言われるの、あたし……超嬉しいや」
はにかんだ笑顔を見るなり、オレは口を押さえた。
もう何も言えない。顔を上げることさえできない。ざぶざぶと、歩きにくい温泉の中を、オレは来た方向に戻っていく。
「……くそっ……」
それでも、消えなかった。
頭の中に、あーちゃんの裸身が焼きついていた。
「……くそっ、くそっ、くそっ……!」
脳味噌が心臓になったみたいにバクバクと脈打つ。
喉がひどく乾き、息がどうしても整わない。
こんな風になりたくなかった。
ずっと子供のままでいたかった。
男も女もなかった、ただの幼馴染みでいたかった。
なのに――消えない。消えない。薄れない。
ほのかに赤く上気した肌。なだらかな丘のように盛り上がった膨らみの先端。引き締まった太腿の隙間から垣間見えた――
「――くそおっ……!!」
思い出す。思い出してしまう。
その事実が、もう昔には戻れないことを証明していた。
◆ 伊理戸結女 ◆
布団に埋もれるようにして、すぅすぅと寝息を立てる亜霜先輩を、私は覗き込んだ。
「……泣き疲れたのね」
「喚いて、騒いで、やけ食いして、寝て……まるで子供みたいですね」
少し呆れたように、明日葉院さんが言う。確かに先輩の寝顔はあどけなく、まるで年下のように見えた。
「いえ、赤ん坊ですね。あんなに胸に執着するのは」
「しまいにはおぎゃあおぎゃあ言ってたもんね……」
「……人を、こんな風にしてしまうものなんですね、恋愛というのは」
呟くように言った明日葉院さんを、私は見つめる。
「信じられない?」
「そうですね……。そんなに騒ぐようなことかと、思いはします」
「まあ、亜霜先輩ほど騒ぐ人は少数派だと思うけど……」
私は苦笑する。お風呂から上がった後の夕飯も、それはもう見事なやけ食いだった。
「でも……自分でも意外なんですが……ちょっと、怒ってもいるんです」
「怒る?」
「星辺先輩に。……亜霜先輩をこんなに泣かせてまで、交際を拒否する理由がどこにあるんだ、って」
「……そっか」
会長も、そんな素振りを見せていた。やっぱり、多少はそう思うものなんだろう。亜霜先輩と親しい立場からすれば。
私は……前に、失恋をさせてしまった側だからかな。星辺先輩にも何か事情があるんだろうと、そう思ってしまう。
「不思議ですね……」
子供のように眠る亜霜先輩を見下ろして、明日葉院さんは言う。
「恋愛なんて、どうでもいいと思っているのに。……いざ、こんな風に大泣きしている人を見ると、少し絆されてしまう。わたしが勉強に必死なように――この人も、恋愛に必死だったんだな、って」
「……そうね。わかる。必死な人を――本気な人を見ると、肩入れしたくなる気持ち」
「本気……」
明日葉院さんは確かめるように呟いて、
「星辺先輩は……どこまで本気なんでしょう」
「え?」
「わたしは……星辺先輩が、何かに本気で取り組んでいるところを、見たことがありません。生徒会長をしていたくらいですから、優秀なのには違いないのでしょうけど――」
「それは……」
私は、星辺先輩の肩のことを知っている。
詳しくは知らないけど、おそらくは、何か、怪我で、……諦めざるを得なかったことを。
「『なんで』……って、亜霜先輩はずっと言ってました」
明日葉院さんは、生徒会に入るきっかけとなった先輩の頬を、母親のように撫でた。
「理由を、話してもらえなかったんでしょうか。理由を――話さなかったんでしょうか。亜霜先輩は……こんなに本気だったのに」
なんで、なんで、なんで。
譫言のように、亜霜先輩は何度も言っていた。
『彼氏にはなれない』。そう言われたと言っていた。だけど、なんで彼氏になれないのか、説明を受けたという話は、聞かなかった。
もし星辺先輩が、当の亜霜先輩にさえ、話さなかったんだとしたら――
「――……私も、ちょっとムカついてきたかも」
もし、東頭さんをフるとき、水斗が理由を少しも話さなかったら――その理由が自分自身だとしても、私はあの男にすごく怒っただろう。
勝手に好きになって、勝手に告白して、何を言ってるんだと思うかもしれない。だけど、そのくらいの責任は取ったってバチは当たらないじゃない。今まで当たり前にあった気持ちを終わらせるんだから――ちゃんと介錯してくれたって、いいじゃない。
本気には、本気で返してほしいと思うのは、おかしいの?
「二人とも」
不意にそう声をかけてきたのは、紅会長だった。
「先に言っておくけれど、星辺先輩を詰めるような真似はよしてくれよ。愛沙に恥の上塗りをさせることになる」
「それは……わかってますけど」
「これは飽くまで愛沙と星辺先輩の問題だ。外野のぼくたちが直接しゃしゃり出るのはお門違いというやつだろう」
会長の言うことは正しい。亜霜先輩と一番付き合いが長くて、きっと一番腹を立てているだろうに、私たちの会長は冷静だった。
でも、だったら、どうすれば――
「――……本人たちの問題なら、本人たちに話させればいいんじゃないですか?」
ぽつりと、突然、そう言ったのは、私でも明日葉院さんでも会長でもない。
東頭さんだった。
「告白を断られたからって、関わりがなくなるわけじゃないんですし……幸い、旅行は明日まであるんですし、ちょうどいいじゃないですか」
うぇへへ、とはにかむように笑って、東頭さんは言った。
「これは経験談なんですけど、告白って、二回目以降のほうがずっと楽ですよ」
この場で一番外野のはずの東頭さんの言葉が、なのに一番、説得力を持っていた。
……まったく、敵わないなあ。
経験者面でアドバイスしてたのが、遠い過去みたい。
「……なるほど。くくっ……なるほどね」
会長が愉快そうにくつくつと肩を揺らした。
「確かに、一度くらいで諦める理由はないか。しかも普段、あんなにもウザがられて、なのにまったくめげない愛沙が。ふふっ……ははは! 確かにそうだ!」
ツボに入ったらしく、会長は大声で笑った。
明日葉院さんが戸惑った顔になって、会長を見て、東頭さんを見て、私を見る。
「あの……いいんでしょうか?」
「まあ……いいんじゃない?」
しつこい男が嫌われるように、しつこい女も嫌われるかもしれないけど。
亜霜先輩の場合……普段から、もうすでに充分、ウザ絡みしているわけだし。
「よーし……そうと決まれば、今のうちに作戦会議だ」
そう言って、紅会長はドンと布団の上に胡坐をかいた。
「明日――六甲山にて、愛沙にもう一度告白させる。それで、あの朴念仁ぶったヘタレ野郎に、本音を引き出させるんだ」
「思った以上に腹に据えかねてたんですね、会長……」
そうして、女子部屋の夜は更けていった。
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