元カップルのゴールデン・メモリーズ 5月5日(土)


 じゅうじゅう焼ける脂。網を滴る脂。匂い立つ脂。そこらじゅう肉の脂まみれの空間で、僕はタン塩に舌鼓を打つ。旨い。脂が少なくて。

 久しぶりの焼き肉だった。網の上に絨毯のごとく敷き詰められた肉を1枚取っては、口に放り込んでもしゃもしゃと食う。

 べつに肉が好きってわけじゃない。というか食そのものにさほどの興味はない。僕にとってはあらゆる食べ物より本のほうが美味しそうに見える。とはいえ味の優劣くらいはわかるのだ。この肉は旨い。たぶん結構高いやつ。ならば楽しまなければ失礼というものだ。もしゃもしゃ。


「水斗くん、いい食べっぷりね~! ほら、結女ももっと食べて!」

「ちょ、お母さん……。私はそんなに……」

「だぁいじょうぶよ! 結女は太らない体質だし!」

「お母さんっ!」


 テーブルの対面に座る結女は、勝手に取り皿に肉を入れまくる由仁さんに抗議しながら、ちらりと僕のほうを見る。

 確かに、こいつ、ずっと昔から細っこかったよなぁ。多少は背が伸びた今は、『スレンダー』と言って言えなくもないが。そんな体質で胸が普通に成長したのは、奇跡か努力の成果かどっちだ? どうでもいいけど。もしゃもしゃ。


「水斗、お前は肉ばっか食ってないで野菜も食えよ」

「草はべつに」

「野菜を草って言うなよ……」


 呆れたように苦笑する父さん。植物を草と言って何が悪いのだ。それに、焼肉屋なのだから肉を食べるのが筋というものだろう。もしゃもしゃ。


 この4人で暮らすようになって1ヶ月経ったが、揃って外食というのは初めてなんじゃないだろうか。まさかこの女と焼肉を食うことになるとは思いも寄らなかった――付き合ってた頃でさえ、ファミレスに入った記憶もないっていうのに。僕もこの女も食費に使える金があるなら本に突っ込むタイプだからな。書店併設の喫茶店がせいぜいというところだ。まあ、中学生に夜景の見えるレストランとか期待されても困るんだが。


 以前から食の細いイメージはあったが、結女は終始、タン塩だの放置されて焦げかけた野菜だの、控えめなものをちまちま食べている。その様子に、少し違和感を覚えた。僕にもしゃもしゃ肉を食ってるところを見られたくない、なんて可愛げのある理由だったら鼻で笑ってやるところだったが、どうもそんな感じじゃない。

 妙に、周りを気にしているような。

 何かを警戒して身を縮こまらせているような――あたかも肉食動物に追われる草食動物のような、そんな雰囲気なのだった。焼肉屋で食われる側の空気を出すとはなかなか器用な奴である。


 僕はウーロン茶を飲みながら周りに視線を走らせた。

 パーティションで区切られただけのテーブル席は、通路や他の席からも様子が丸見えだ。他のテーブルにも、やはり僕たちのような家族連れが多いように見えた。子供の歳は、下は幼稚園児から上は僕らのような高校生まで――僕らのテーブルを気にしている人間はいないように見えるが。

 この女、いったい何を警戒しているんだろう?


「お母さん、ごめん。……ちょっとトイレ」


 壁際に座っている結女が、通路側に座っている由仁さんにそう言うのが聞こえた。後半は囁き声だった。僕と父さんがいるから、乙女の嗜みというやつか。こいつにそんなものが身についているとは驚きである。


「ああ、はいはい」


 と由仁さんが道を開けて、結女が席を立つ。トイレのほうに通路を歩いていく。

 トイレか……。そういえば僕も、ずいぶんウーロン茶を飲んだからな。


「父さん。立って」

「父親に向かって見事に命令形だなお前は」

「今のはかろうじて懇願形」


 日本語にそんな活用形はなかった気がするが、いま生まれたことにしよう。通路側の父さんにどいてもらい、僕もトイレを目指す。

 父さんと由仁さんだけがテーブルに残り、図らずも『あとは若い二人で』の逆になった。せっかく新婚なのに、二人きりになる機会がないというのも可哀想だしな。僕らに気付かせないまま再婚を決めるレベルまで恋愛してたんだから余計なお世話かもしれないが――そういえば、父さんたちは新婚旅行とかしないんだろうか。再婚だとしないものなのか? 結婚式もしなかったしなあ……。

 僕のつれづれなる思考は、ひとつの声によって破られた。


「――もしかして、綾井さん?」


 フロアの片隅。トイレに続く細い通路の入口だった。そこに、僕の義理の妹である長い黒髪の女と、同い年くらいのアホそうな茶髪の女子がいた。


「綾井さん……? だよね? え~、ウッソ~! 全然わかんなかった! 中学ん頃とイメージ変えすぎじゃない? ウケる~!」

「えー……えっと……あはは……」


 一人で勝手にけらけら笑い出す茶髪女子に対し、結女は硬い愛想笑いを浮かべる。

 ああ、なるほど。

 なんとなく察しがついた――あの茶髪女子は、あいつの中学の頃のクラスメイトか何かなのだろう。たぶん中3の頃のか。中2の頃だったら僕も知ってるはずだし。

 中3の頃と言ったら、あの女の人見知りが改善し始めた時期だったが、見た目のイメージはまだまだ地味さを引きずっていた。今のようにいきなりクラスのトップに上り詰めたわけではなく、友達0人が友達数人になった程度の変化だったはずだ。……その程度の変化に独占欲を発露させた過去の僕を殴り殺したくなってくるが、とにかく、今の垢抜けた優等生のイメージとはまったく違ったということだ。


 高校デビューたるあの女は、イメチェンした今の姿を過去のクラスメイトに見られたくないのだろう。


 だからあんなに警戒していたのか。腑に落ちた。やっぱり高校デビューなんてするもんじゃないな。そのおかげであの女、今まさに困りまくっている。

 ……あの茶髪女子、当人が反応に困っているのにずけずけと話しかけてくる辺り、ちょっと厄介だろうなあ。確実にお口のチャックがぶっ壊れてるタイプだ。今の綾井結女がどんな風になってるか、中学の知り合いに言い触らすに違いない。

 まあ、僕には関係ないが。

 関係ない――が。


「え~!? すごいすごい! 綾井さん、頑張ったじゃ~ん! え、どうしたの? 高校デビューってやつ? あっ、進学校行ったんだよね、だから優等生風か~!」

「あ……あの……ちが……」

「――


 一方的に話しまくる茶髪女子と、ひたすら困ったように笑う結女の間に割り込むようにして、僕はそう話しかけた。

 伊理戸。

 と、その苗字を強調して。


「どうかした? 知り合い?」

「えっ? えっ……と……」


 結女は僕を見てぱちくりと目を瞬く。呼び方に戸惑っているのか。察しの悪い奴め。


「……いりど……?」


 茶髪女子のほうは、僕と結女の間で視線を行き来させて、不思議そうに首を傾げた。


「えと……いりどさん、っていうの? 綾井さんじゃなくて?」


 恐る恐る、といった調子で、茶髪女子は結女のほうを見ながら言う。それでもしばらく結女の顔にはハテナマークが乱舞していたが、3秒ほど経ってようやくハッと気付いた顔になった。


「は、はい! 伊理戸って言います!」


 嘘は言っていない。だからボロが出ることもない。はずだったが勢い込みすぎだ。よく高校デビューできたなこいつ。

 バレるかと思ったが、杞憂だった。

 茶髪女子の顔に、見る見る気まずそうな表情が滲む。


「あっ……そ、そうなんだ……。う、うわ~! あたしめっちゃ恥ずいっ! ごめんなさい、人違いです! 中学ん頃のクラスメイトに顔が似てて……!」

「い、いえいえ……」

「ほんとごめんね! えっと……」


 茶髪女子は僕のほうにも向き直り、


もごめんなさい! それじゃ、あたしこれで!」


 硬直した僕らを置いて、茶髪女子は「ひゃ~!」と悲鳴のようなものを上げながら小走りに逃げていった。

 ……彼氏さん。

 そう来たか。

 そりゃまあ、可能性としてはそのくらいしかないよな。きょうだいは苗字で呼び合わないし。


 茶髪女子の姿がなくなってからも、およそ10秒ほど、僕らは無言でいた。

 それから、独り言のような声が、肉の焼ける音の中にぽつりと落ちる。


「……なんで?」


 主語だの目的語だのいろいろ足りなかったが、結女の言わんとすることはわかった。

『なんで助け船を出してくれたの? 彼氏でもないくせに』だ。古文の現代語訳より簡単だった。


「トイレに行きたいからだよ」

 と僕は答える。

「こんなところで話し込まれると邪魔だからな」


 むすっとする気配を感じた。


「かっこつけて……。全然似合わない」

「ただの事実だ。ウーロン茶の利尿作用を知らないのか」

「彼女があなたのことを覚えていたらどうする気だったのよ?」

「それはないだろ。他のクラスにまで名を轟かせた覚えはない」

「あの人、中2の頃の――つまりあなたの元クラスメイトでもあるんだけど」


 そこで初めて、僕は結女のほうを見る。呆れたような顔があった。


「……マジで?」

「マジで」


 まったく覚えてない。

 ……というか、よくよく考えてみると、この女以外にどんなクラスメイトがいたか、一人たりとも思い出せない。

 神よ、人生にも登場人物一覧のページを作ってくれ。


「……危なかった……」

「まあ、向こうも全然覚えてなかったみたいだけど」

「僕の影の薄さに感謝するんだな」

「バカ」


 っていうか、同じくらい影の薄かったこの女は覚えてて僕は覚えてなかったのかよ、あの茶髪女子。性別の差か? それとも僕の隠密スキルが高すぎるのか?


「……なんだか、皮肉」


 笑うような拗ねるような、微妙な形に唇を歪めて、結女は呟いた。


「あの頃は、全然気付かれなかったのに。……今になって、に見えるなんて」


 ……中2の頃。

 つまり、僕とこの女の関係が一番良好だった頃に、半日を同じ部屋で過ごしたクラスメイト。

 当時は僕たちのことをそういう風には見なかった彼女の目に、……しかし、今の僕たちはそういう風に映ったのだ。


「イメチェン冥利に尽きるな」

「うるさい、存在感ゼロ」


 げしっ、とふくらはぎを蹴られた。

 いつもより少し威力が低かった。






 そんなことがあった日。寝る前に日記をつけていると、机に置いたスマホがブルルンと揺れた。

 隣の部屋の義妹からLINEが着ている。

 見てみると、白い花の画像がトークに貼り付けられていた。


「……? ダリア……か?」


 ダリア。白いダリア。

 どういう意味だ? ダリア……花……。

 僕はLINEを消して『白いダリア』で検索する。それで、すぐにあの女の意図を悟った。

 どうやら、焼肉屋での件で結局言わずじまいだったことを今さら伝えてきたらしい。


「……日本語を使えよ」


 なんだこいつは。象形文字しか使えない時代の人間なのか。

 僕は一考し、こんな風に返信した。


〈前がラブレターで今度は花か? 古風さは買うがお断り〉- 22:55


 これで伝わるか? 大丈夫か。送信。

 1分もしないうちに、部屋の壁がばんばん叩かれた。きっちり伝わったようだ。曲解されたくなければ日本語で言え。


 白いダリアの花言葉は、『感謝』。

 それと、『豊かな愛情』である。

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