東頭いさなは恋を知らない〈下〉


「なんやってん、あの時間は」


 ドリンクバーで取ってきたジュースをずぞぞーっとストローで吸いながら、暁月さんは関西弁で言った。


「あたしは今、虚無感に包まれているよ。男女の友情がどうこう大真面目に語っていた自分が恥ずかしいよ。ふーむ確かに考えを改めないといけないかもなあと感心していた自分に腹が立つよっ!」

「ひっ」


 私たちの対面に、今度は一人で座らされた東頭さんは、びくりと肩を跳ねさせる。

 暁月さんが存外ヒートアップしているので、私は逆に冷静になって、できるだけ優しく彼女に声をかけた。


「……ねえ、東頭さん。どうしてあの男抜きで集まり直したか、わかる?」

「わ、わかりません……。わ、わたし、何かしちゃいました……? カツアゲ? カツアゲですか……?」

「かーッ! まだシラを切るかこの女!」

「ひいいいっ!」

「暁月さん! どうどうどう!」


 火を吐きそうな勢いの暁月さんの肩を押さえ、どうにか席に固定する。とりあえずオレンジジュースを飲ませて脳味噌の冷却を試みた。


「ずずずずー……あたしはね、怪しいと思ってたんだよ」


 ジュースが効を奏したのか、暁月さんはいくぶん落ち着いた様子で言った。


「ハグしたときさあ、伊理戸くんにおっぱいが当たってたでしょ? 本当に友達だって言うんなら、本当に何とも思ってないって言うんなら、あれって嫌だと思うんだよね。友達だとはいえ男の子でしょ? 好きでもない男子におっぱい触られたくないじゃん」


 言われてみれば、それもそうだ。

 東頭さんは、ひたすら肩を縮こまらせる。


「それを全然嫌がらなかった時点でさ、この人になら触られてもいいんだって思ってるわけじゃん? そういう気持ちがさ、ないわけじゃないじゃん? とんだ大女優がいたもんだよ!」

「う、ううう……」

「暁月さん、詰め方が堂に入ってる……」

「そりゃあたし、この大嘘つきに恋愛観全否定されたからね! どのツラ下げて男女の友情語ってたんだって話だからねっ!」


 暁月さんがまたヒートアップし始めたので、私の分のグレープジュースを供給した。ずずずーっとストローを吸っているうちに落ち着いてくる。

 暁月さんがここまで感情を剥き出しにするの、すごく珍しい。どうやら恋愛方面に譲れない一線があるらしかった。


「……あ、あのう……」


 おずおずとした声がして、私たちは東頭さんに注目した。


「わたし……水斗君のこと、好き……なんですか……?」

「「は?」」


 まだしらばっくれる気か。私たちに睨みつけられ、東頭さんはますます萎縮した。

 私は不思議に思う。先刻、マクドナルドで熱愛疑惑を堂々と否定してみせたときとは、様子があまりにも違った。


「あ、あのその……わたし、本当にわからないんです……。そういう経験、まったく、なくて……」

「え? 初恋? その歳で?」

「……ううう……」


 東頭さんは赤くなった顔を手で覆った。

 そのあまりにも初心な様子を前に、私はなんだか居住まいが悪くなる。


「……ど、どうしよう暁月さん。私、なんだか背中が痒くなってきた」

「……奇遇だね、結女ちゃん。あたしも今、まったく同じ症状に悩まされてるよ」


 初恋……ああ、懐かしくも忌まわしい響き……。

 しかも、『好きかどうかがわからない』って、ちょっと勘弁してほしい。黒歴史を目の前に突きつけられた気分だ。無性に叫びたい。叫び散らかしながら走り出したい。私もかつてはこんな恥ずかしい生き物だったのか。


「……そうだなあ。例えばさ、想像してみなよ」


 不承不承といった感じで、暁月さんが言った。


「楽しくお喋りしてるところに、突然伊理戸くんが抱き締めてきました」

「ひゃっ!?」

「そして耳元で、低い声がこう囁く――『……悪い。少しだけ、友達じゃなくなってもいいか』」

「ひぇあっ!?」

「ひううっ……!?」

「戸惑っているキミに、伊理戸くんは問答無用で唇を――って、なんで結女ちゃんまでテーブルに突っ伏してるの?」


 な、なんでもない。ただの脳の誤作動。暁月さんの声真似が本当に、そういうときのあの男の雰囲気に似ていたから……!


「まあ、とにかく」


 パシャリ、と暁月さんが素早く、スマホで東頭さんの顔を撮影した。

 そしてその画面を、東頭さんの目の前に突きつける。


「こんな顔しといて、好きじゃないってことはないでしょ」


 その画面には、顔を真っ赤にし、瞳を潤ませて、緩みかけた口元をようよう引き結んだ、女の子の顔が映っているはずだ。

 東頭さんはそれを見るや、わなわなと震え出した。


「……これが……わたし、ですか……!?」

「そうだよ」

「メスじゃないですか!」

「そうだよ。メスだよキミは」


 ううう……、と東頭さんは別の意味で赤くなって、ファミレスのテーブルに突っ伏す。


「もう『生物学的には女』とは名乗れません……」

「うん。それはリアル僕っ娘と同じくらい痛々しいからもうやめようね」


 ずずずーっと私のグレープジュースを飲み干す暁月さん。ドリンクバーだから別にいいけど。


「で、本題はここからだよ」

「本題?」

「と言うと?」

「そりゃもちろん――東頭さんが伊理戸くんとどうなりたいかってことだよ」

「えっ!?」

「ふえっ!?」


 私は口を開け、東頭さんは目を白黒させ、暁月さんはにたにたと笑った。


「友達のままでいいのか、それ以上になりたいのか。もし東頭さんにその気があるんなら、これも何かの縁だし、協力してあげちゃおっかなーと思ってさ。ね、結女ちゃん?」

「えっ……!? わ、私も……?」

「一応はきょうだいなんだしさ、伊理戸くんの好きなものとかも知ってるでしょ? 結女ちゃんがいれば百人力じゃん」

「そ、それは……まあ……」


 私以上に最適なアドバイザーは、この世にいないと思うけど。

 何せ一度、攻略に成功しているんだから。

 だけど……。


「……暁月さん、どうしてそこまで親切なの? さっきまで怒ってたのに」


 胸の中のもやもやから逃れるように尋ねると、暁月さんはにまーっと怪しい笑みを浮かべて、


「まあ、ちょっとねー。伊理戸くんが東頭さんとくっついてくれれば、あたし的にもメリットっていうか? 家族計画を多少調整しないとだけど、それはそれでアリかなってさー」

「??」

「何よりあたしたちは女子高生! 他人の恋路に首を突っ込む理由は、それだけで充分なのだっ!」


 暁月さんは元々、そういう相談をよく受けるタイプだ――言葉の節々から察するに、恋愛経験もちゃんとあるみたいだし。たまに私たちの誘いを断ることがあって、あれは絶対男だ、とみんなでこっそり噂している。


「どーよ、東頭さんっ? あたしと結女ちゃん、これほど強力な布陣はなかなかないと思うよっ? 伊理戸くんなんて秒でオトせちゃうよ、秒で!」


 いや、私はまだ協力するって言ってないんだけど。

 ……でも、別に拒む理由もないのだ。ここで拒んだら、それこそブラコン扱いは免れない。いや、でも……。

 そうやって頭の中が煮詰まってきた頃だった。


「……いえ、いいです。そういうのは……」


 ぽつりと、雨の雫が垂れるような声で、東頭さんが言ったのだった。


「水斗君のことが、友達として好きだっていうのも本当ですし……。今みたいにお喋りしてるだけでも、充分幸せで……。ほら、わたしなんかが背伸びしたって、痛々しくなっちゃうだけだと思いますし! 無駄な努力っていうか……せっかくなのに、申し訳ないんですけど……」


 言葉を重ねるごとに、声は消え入り、姿は小さくなる。

 ……どこかで見た光景だった。

 自分に自信がなく、何をしてもダメだと思い込み、ありとあらゆる行動を避ける。何もしないことが最善だと、理論武装とも言えない言い訳で、満足しているわけでもない現状を守ろうとする――

 ――そう、まるでそれは、中学時代に置いてきた私自身のようで。


「――挑む前に逃げるな」


 気付けば、私は突き刺すように告げていた。

 東頭さんと暁月さんが驚いた顔でこっちを見ても、溢れる言葉は止まらなかった。


「諦めるならできる限りやってからにしなさいよ。本当はなりたいんでしょ? あいつの彼女になりたいんでしょ? ただの友達じゃできないことをしたいんでしょ? できるわよ、彼女になったら!

 毎日手を繋いで登下校できるし、別れ際にキスだってできるし、寝る前には通話で他愛のないことをだらだら話せる! デートにだって行けるし、クリスマスにはプレゼントをもらえるし、風邪を引いたらつきっきりで看病してもらえる! どう!? これが全部当たり前になるのよ、彼女になったら!」


 東頭さんは目を見開く。

 その瞳に、想像が渦巻くのがわかった。

 もしそれができたら、どんなに嬉しいか。

 もしそうなれたら、どんなに幸せか。

 仮定し、想定し、シミュレーションし、自分の欲求、幸福の在処を再三再四に渡って確認して、


「――それでも、思う? 彼女になんかならなくていい、って」


 瞳が、揺れた。

 それだけでも答えには充分だった。

 けれど、東頭さんは俯き、制服のスカートをぎゅっと握って――


「…………なりたい、ですっ…………!」


 掠れた声を、ようやくの思いで絞り出す。


「い、イチャイチャしたいです……好きって言ってほしいです……! 水斗君と……ただの友達じゃできないこと、したい、ですっ……!」


 再び、顔が上がったとき。

 東頭さんの目は、諦めではなく、強い戦意のようなものに満ちていた。


「どうやったら、なれますか……? 水斗君の彼女に、どうやったらなれますか!?」


 腰を浮かし、テーブルに身を乗り出し、東頭さんは私の手をぎゅっと握り、そして言う。


「教えてください――先生!」


 …………あれ?

 ふと、我に返った。

 思わずカッとなって焚きつけてしまったけど……。

 ……私、これでよかったんだっけ?


「あーあ」


 隣で暁月さんが、笑い混じりにそう呟いた。






イザナミ

〈わたし、水斗君に女友達としか認識されてないです〉

- 20:14


 勢いで東頭さんの恋愛相談を受けることになった、その夜――私は自室で、『伊理戸水斗攻略会議』と題されたLINEのグループを眺めていた。

 これからのことを円滑に進めるために、私、暁月さん、東頭さんの3人で作ったのだ――が、会議はのっけから東頭さんの弱音で始まった。っていうかこの子、なんで登録名で神様名乗ってるの?


イザナミ

〈いま告白しても絶対だめです。こわいです〉

- 20:14


あかつき☆

〈いやいや、そこは大丈夫でしょ。言っても男子って、ただ女子ってだけでも意識するじゃん。特に東頭さん、スタイルすごいし笑〉

- 20:15


イザナミ

〈おっぱいにだけは自信あります!〉

- 20:15


あかつき☆

〈くそ羨ましい。ちょっと分けろや〉

- 20:15


 暁月さんがメロンのスタンプを打つ。

 すると東頭さんは即座に返した。


イザナミ

〈わたしのはどっちかというとスイカです〉

- 20:16


Yume

〈何なのその胸への自意識の高さ。人見知りどこ行ったの?〉

- 20:16


イザナミ

〈ほんと肩凝りがひどくて。ブラも可愛いのがなくて〉

- 20:17


あかつき☆

〈自虐風巨乳自慢きたー!!! 許さん!!!!〉

- 20:17


 暁月さんが包丁のスタンプを連投し始め、私はふふっと笑った。

 実際、東頭さんの胸は女子の目から見てもすごいと思う。二度見するレベルだ。男子なら尚更だろう。

 あんなのが隣にいて、本当に意識しないでいられるのかな……?


イザナミ

〈でも、わたしのおっぱいをもってしても、水斗君は難攻不落です。まったく視線感じないです。安心安全です〉

- 20:19


あかつき☆

〈まじでー? 確かに伊理戸くんってあんま女子に興味なさそーなイメージだけど。結女先生、そこんとこどうですか〉

- 20:19


Yume

〈先生っていうのやめて〉

- 20:19


 きっちり釘を刺してから、


Yume

〈誤魔化すのがうまいだけで普通だと思うけど〉

- 20:20


イザナミ

〈水斗君にエロい目で見られたことあるんですか、先生〉

- 20:20


「は!?」


 私はベッドの上で飛び起きた。

 なに訊いてくるのこの子!? 普通訊く!? そういうの!

 ここで私が『ある』と答えたとして、気分悪くなったりしないんだろうか……。

 私は慎重に言葉を選びながら、感じた疑問を文字にした。


Yume

〈東頭さん、そういうの気にならないの? 嫉妬というか〉

- 20:22


イザナミ

〈嫉妬とかしないタイプみたいです〉

- 20:22


 ……羨ましい。

 私もそういう性格だったら、もっと楽に付き合っていられたんだろうか……。


イザナミ

〈水斗君にエロい目で見られたことあるんですか、先生〉

- 20:23


 コピペで再質問が来た。どれだけ気になるんだ。

 私はさすがに躊躇ったものの、焚きつけた手前、答えないわけにはいかない。


Yume

〈まあ、お風呂上がりに遭遇することもあるから〉

- 20:24


イザナミ

〈水斗君のフェチはなんですか?〉

- 20:24


Yume

〈ぐいぐい来る! 知るわけないでしょ!〉

- 20:25


 たぶん耳だと思う。

 キスしたいときとか甘噛みしてくる。


あかつき☆

〈うーん。本人の証言じゃよくわかんないなー。とりあえず見てみよっか〉

- 20:26


イザナミ

〈見る? ですか?〉

- 20:26


あかつき☆

〈二人が一緒にいるとこを見学させてもらうの。もしかしたら、東頭さんの気付いてないところで伊理戸くんが意識してるかもしれないし〉

- 20:27


Yume

〈初手としては無難かもね〉

- 20:27


 私自身、普段、二人がどんな風に過ごしているのか、気にならないといえば嘘になってしまう――いやいや、これはあくまで東頭さんのためなんだけど。


イザナミ

〈水斗君がわたしの気付かないところでおっぱいを凝視してたらどうしましょう〉

- 20:28


Yume

〈おもむろにおっぱい星人って仇名付けて牽制しておいてあげる〉

- 20:28


あかつき☆

〈それいいね! あたしもそうしよう〉

- 20:29


イザナミ

〈じゃあわたしもそうします〉

- 20:29


あかつき☆

〈いや、東頭さんがそれやったらたぶん何もかも終わりだからね〉

- 20:30






 かくして、私と暁月さんは、居残り勉強の生徒に扮して放課後の図書室に潜入していた。

 暁月さんはいつものポニーテールをお下げに変え、私は髪型を低い位置のツインテールにした上に暁月さんから借りた伊達眼鏡を掛けている。


「にっ、にあっ、似合ううぅぅ~~~……っ!! 眼鏡っ娘結女ちゃんやばっ……やばすぎ……」


 暁月さんが妙に興奮して写真をバシャバシャ撮ってきたりもしたけれど、今は落ち着いてくれていた。

 まったく、眼鏡をかけたくらいで大袈裟な。その程度のことで急に可愛くなったり格好良くなったりするわけないでしょ。ましてやその姿をスマホに保存しておきたいなんて、申し訳ないけれど全然わからないわ。


 水斗と東頭さんが定位置にしている図書室の隅に背を向ける形で、私たちは読書スペースに座った。そしてスタンドに立てたスマホをテーブルに置き、内カメラを起動する。

 画面に、私たちの肩と、その向こう側にいる水斗と東頭さんの姿が映った。

 これで対象に直接視線を向けることなく、目視による監視ができるという寸法だ。暁月さんの発案だった。


「……ねえ、暁月さん。なんでこんなストーカーテクニックを知っているのか訊いてもいい?」

「だーめっ♪」


 私は闇を感じて引き下がった。暁月さんがぶりっ子っぽい声を出すと何だか怖くなる。


 私はスマホの映像に目を向けた。

 水斗が窓際の空調設備にお尻だけ浅く引っかけている状態なのに対して、東頭さんは靴と靴下まで脱いで、裸足で体育座りをしている。あれ、怒られないのかしら。本来は座るところじゃないと思うんだけど。


「(……東頭さんさ、あれ無自覚でやってるならすごくない?)」

「(え? 何が?)」


 暁月さんはひそひそと続ける。


「(女子の裸足ってさあ、普段見ないじゃん。ちょっとエロく感じるものらしいよ、男子的には)」

「(……確かに。生足を見せるのの上位版よね)」

「(その上、あの体育座りだよ。あんな高いとこであんな座り方してたら、いつパンツ見えたっておかしくないよ。かつ、膝であの巨乳をぐに~っと……)」

「(ああ、もしかしたら支えてるのかも。本を読むときって前傾姿勢になるし、そしたら胸が重くって――)」

「(ヘエ。ソウナンダ。アタシ、ゼンゼンシッラナカッタヤ)」


 顔も目も声も何もかも笑ってない。

 そんなに気にしてるんだ、スタイルのこと……。


 ……それにしても。

 内カメラ越しに映る水斗と東頭さんは、黙々と読書に勤しんでいる。けれど、たまに自分が読んでいる本を指差しては、隣に座る相手に見せてくすくす笑い合ったりする。

 その姿が、かつての私とあの男に重なって見えて、懐かしいというか、恥ずかしいというか……。


 付き合っていた私たちに重なって見えるということは、当然のこと、普通の男女の距離感ではないのだ。

 肩の触れ合うような距離。少し身を乗り出せばキスだってできる距離。

 二人の仲を疑った私があそこまで真っ向から全否定されたのは、ちょっと不当だったんじゃないかと思えてくる距離の近さ。

 別にそういう仲でなくたって、多少は意識して然るべき距離感だと、私は思う。

 なのに。

 だというのに、だ。


「(……伊理戸くん、本当に見ないね。あのおっぱいがあの距離にあってノー眼中とは……)」

「(……ちょっと東頭さんが可哀想になってきたわ)」

「(あたしですら見るのに。話してるときずっとおっぱい見てるのに)」

「(それは見過ぎだと思う)」


 いやまあ、いいことだとは思うのだ。

 女子的には安心できるし、だからこそ引っ込み思案な東頭さんがあそこまで懐いたのだろうし、友達としては、本当に素晴らしいと思うのだ。

 けど今や、東頭さんは、あの男のことを異性として見てしまっているわけで。

 あそこまで意識されない――というか、脈がない感じだと、やるせなさが抑えきれない。


 もし付き合う前、あの男があの感じだったら、私は果たして告白なんてできただろうか?

 多少は意識してもらえているという感触があったからこそ、私みたいなビビりでも踏ん切りがついたわけで……。


「(本当にまったく意識してないのかなあ?)」


 暁月さんが納得いかなそうな顔で呟いた。


「(あれだけ趣味が合うんだよ? しかも近くで見ると結構可愛いし、スタイルもあのエロさでしょ? あたしが伊理戸くんだったら意識しまくりだけどなあ)」

「(エロいとか言わない。……でも、そうよね……)」


 状況としては、私のときとほとんど同じなのだ。

 似たような出会い。

 同じ趣味。

 同じ場所。

 それで私は付き合えて、東頭さんが友達止まりというのは道理に合わない。


 ……きっと、隠しているだけなのだ。

 私との付き合いを通じてポーカーフェイスがうまくなっただけで、いずれボロを出すに違いない。

 それを見逃すまいと、私たちは監視を続けた……。


 読み終えたのか、水斗がぱたんと本を閉じて立ち上がった。

 新しい本を探すのか、目の前の本棚に移動しようと動いた瞬間、


「(あっ)」


 暁月さんが小さく声を上げた。


「(どうしたの?)」

「(あれ、あれ! 東頭さんのスカート……!)」

「(えっ? ――あっ)」


 暁月さんに言われて、初めて気付いた。

 棚のように張り出した窓際空調の上に、素足で体育座りをする東頭さん――その足が、今は、少しだけ左右に開いていて。


 見えていた。

 薄青い色のパンツが、完全に。


 私は慌ててLINEで危機を伝えようとしたけれど、手遅れだった。

 本棚から新しい文庫本を手に取った水斗が、振り返る。

 するともちろん、東頭さんを正面から捉える形になるわけで。

 するともちろん、油断したガードから覗いた布地が視界に入るわけで。


 水斗の視線がそこに滑るのを、私は確かに見た。


 や、やっぱり!

 どれだけ涼しい顔を繕おうとも、あの地味女子フェチが東頭さんという極上の獲物をスルーするわけが――




「おい、東頭。パンツ見えてるぞ」




 水斗が。

 東頭さんの股間を指差し。

 表情ひとつ変えずに、そう告げた。


「「(……は?)」」


 私たちは絶句した。

 何が起こったのか、咄嗟に理解できなかった。

 東頭さんも同様だったようで、「……ふえっ?」と間の抜けた声を漏らして顔を上げると、水斗の指の先をゆっくりと目で辿り――


「――~~~っ!?!?」


 燃え上がるように顔を真っ赤にして、慌てて女の子座りになってスカートを押さえた。

 ぎゅっとスカートを掴んだ手に視線を落とし、東頭さんは震えを帯びた声で呟く。


「……み、見ました、か……?」

「? だからそう言ったんだが」


 きょとんと首を傾げて、水斗は言った。

 この男、人の心がないの?


「あ……ありがとう、ございます……」


 東頭さんは耳まで真っ赤にして、ようやくそう口にすると、「ちょっとトイレへ……」と言って、靴を履いた。

 私と暁月さんは顔を見合わせてうなずくと、図書室最寄りの女子トイレへ移動する。


 そこで合流した東頭さんは、開口一番、私たちに問いを投げた。


「……わたし、女の子として見られてると思いますか?」

「「まったく」」


 確信だった。

 伊理戸水斗は東頭いさなのことを、気の合う友達としか思っていない。

 本当に。一切の誤解の余地なく。


 ……どうしてだろう?

 状況は、こんなにもあのときと一致しているのに。


「あは、あはははは……。ですよねー……。わたしみたいな根暗オタク、意識するわけないですよねー……。あはははは、あはははははは……」

「気をしっかり! 確かに今は見るからに脈ナシだけど、諦めるにはまだ早いよっ!」

「脈……ナシ……」

「暁月さん追い討ち! それ追い討ちだから!」

「あっ……!」


 東頭さんの足元がふらりと覚束なくなり、慌てて二人で肩を支えた。

 ふふふふふふふふと漏れ続ける東頭さんの笑い声は、何だか聞くだけで呪われそうな不吉さに満ちている。

 このショックの受けよう……本当に水斗のことが好きなんだな、と今更ながらに再認識した。


「……ねえ、東頭さん」


 彼女の足に力が戻るのを見てから、私はおずおずと尋ねた。


「さっき証明された通り、あの男、デリカシーとかゼロだけど……どの辺が好きなの?」

「あ、そういやまだ聞いてなかった! それ、あたしも聞きたい!」

「えっ……ど、どの辺と言われましても……」


 東頭さんは挙動不審に目を泳がせて、ぽつりと言う。


「……声、ですかね?」

「「声」」

「基本的に素っ気ない人ですけど、たまに優しく気遣ってくれるときがあって、そのときの、いつもより少しだけ柔らかくなった声を聞くと、なんだかその、ぽわぽわってなって、きゃあーってなって……えへへ……」


 恥ずかしげに頬を染めつつも幸せそうにはにかむ東頭さんの姿に、私と暁月さんは揃って仰け反った。


「ま、眩しいっ……!!」

「初恋……! 初恋のキラめきに焼き殺されそうだよ、結女ちゃんっ……!!」


 このピュアさ、恋愛の暗黒面を経験したこの身にはあまりに毒! しかも共感度が高いのがタチ悪い! わかる! たまに優しい声出すのよね、あいつ!


「これは東頭さんには、さっさと伊理戸くんとくっついて、彼氏ができることがいいことばっかりじゃないってことを知ってもらわないとね。早くあたしたちと愚痴り合えるようになろうねっ!」

「え、はい。がんばります?」

「そこで頑張っちゃダメだから! 恋に夢見たままでいて!」


 あなたはこっち側に来ちゃダメ!


「まあ、何はともあれ、まずは女子として認識してもらうとこから始めないといけないんだけど。いやあ、まさか女子のパンチラを堂々と指摘する男子がこの世に存在するとは思わなかったよねー」

「ウチの弟が何だかごめんなさい……」

「伊理戸くん、意外と女慣れしてる感じあるよね。結女ちゃんで鍛えられてるのかな?」


 ドキリとした。いや、これは一緒に住んでいることを言われているのであって、昔付き合っていたときのことを言われているのではないはずだ。私は曖昧にうなずいた。


「そ……そうかもね」

「これはもう、スキンシップで攻めていくしかないよ」


 暁月さんはにやりと悪い顔をした。

 東頭さんはじりりと後ずさる。


「す、すきんしっぷとは……?」

「またまたぁ。かわいこぶっちゃって。ご自慢のこれを使うっきゃねえでしょうがぁ!!」

「ひゃっ!?」


 暁月さんの手から素早く伸びたかと思うと、東頭さんの胸を鷲掴みにして、ぐにぐにと揉みしだいた。

 うわあ、指が埋まってる……。


「この脂肪の塊をさりげなく押し当てるのっ! これなら意識してるとかしてないとか関係ないっ!」

「ちょっ……やめっ……」

「……お。おお? おおおおー……しゅごい……」

「ひいっ!? て、手つきがいやらしっ……んっ!」

「暁月さんストップ! それ以上は18禁!」


 暁月さんを羽交い締めにして引き剥がす。

 暁月さんは呆然とした顔で、すでに胸から離れた手をわきわきと開閉させた。


「ゆ、結女ちゃん……おっぱいって……こんなに柔らかくて、押し返されて、形が変わるものだったんだね……。あれ? だったらあたしの胸部についているものは一体……?」

「考えちゃダメよ。長生きしたければ」


 東頭さんは荒く息をしながら胸を腕で隠し、しどけなく洗面台に寄りかかる。


「さ、さりげなく押し当てるって……そ、そんな、ビッチみたいじゃないですか……」

「男を口説いてるときの女なんてみんなビッチだよ」

「敵! 敵の量産!」


 私は慌てて辺りを見回した。今の、誰にも聞かれてない!?


「押し当てるって言っても、実際には掠るくらいでいいの」


 私の心配をよそに、暁月さんは指を伸ばし、東頭さんの胸に触れるか触れないかのところで止める。


「あれ? いま触った? 気のせいかな? ってくらいがベスト! あんまりわざとらしく当てていっても引かれちゃうからね!」

「暁月さん……。それ、どこから仕入れたノウハウなの?」

「あたしがやられたら興奮するからだよっ! 何せ当方、女ながらおっぱいの柔らかさとは無縁ゆえ!」


 もうやめておこう、地雷を踏み抜くのは。

 暁月さんはぐっと拳を突き上げた。


「とにかく、質より数! じっくり何度も繰り返せば、その記憶が伊理戸くんの中に積み重なっていくはず! おっぱいに触った記憶を忘れる男子なんていないからねっ! 触ったことにも気付かねえ輩はいるけどな!!」

「せめて自分で地雷を踏み抜くのはやめましょうよ!」


 せっかく気を遣おうと思ったのに! それやられたらどうしようもない!


「――っと」


 不意に暁月さんがスマホを取り出したかと思うと、画面を見てしかめっ面をした。


「あちゃあ。もう勘づいたか」

「どうしたの?」

「ちょっと過激派のカプ厨がいてさ。注意を逸らしておかないと――」


 首を傾げる私と東頭さんに、暁月さんは申し訳なさそうに手を合わせる。


「そういうわけだから、今日はこれで! 詳しい作戦はLINEでねっ!」


 トイレを飛び出していく暁月さんを、私たちは無言で見送った。

 ……かぷちゅうって、なんだろう?






 そうして、東頭さんのおっぱいスキンシップ大作戦(暁月さん命名)が始動した。


 身を寄せた拍子に、掠る程度に胸を触れさせる。

 他にも手を触ったり、肩を寄りかからせたり、胸以外にもとにかく身体接触の機会を増やす。

 暁月さん曰く、身体を触るっていうのはそれだけで友好の意思表示だから、続けていれば必ず意識せざるを得ないはず……らしい。


「そう、コンビニの店員さんにお釣りを渡されるときに手を握られただけで好きになっちゃう人がいるようにね!」

「なるほど! 勉強になります!」

「なるほどなの?」


 さすがに四六時中覗き見ているわけにはいかなかったけれど、東頭さんの自己申告曰く、頑張ってはいるらしい。

 たまに身体を触る、というただそれだけのことが、彼女にとっては大きな勇気を要する行為であることが、私にはわかる。

 今までまともな友達さえほとんどいなかったような子なのだ――それがいきなり誘惑の真似事などしているのだから、感服する他にない。昔の私では同じことはとてもできなかっただろう。まあ東頭さんの場合、スタイルにだけは妙に自信を持っていたから、それが手伝っているのだろうけど。


 律儀に毎日報告してくれる東頭さんに、私はいつしか感情移入していた。

 がんばれ。負けるな。諦めないで。あのクソ野郎に吠え面をかかせてやれ。こんな健気な子のことを意識もしないあの男はどういう了見なんだ。少しくらいは気付け。朴念仁。鈍感で済まされると思うなよ。


「……おい、なんだ。その敵意の籠もった視線は」

「べつに。いつか痛い目に遭えと思っているだけよ。女の人に刺されるとか」

「……………………」


 水斗は青ざめて私から距離を取った。

 何よ、大袈裟ね。私は夕飯に使うニンジンを包丁でざくりと切った。


 かくして、1週間が過ぎる。

 6月の上旬も終わりに入り、梅雨の気配が本格的に色濃くなってきた頃――


「――あっ」


 ちょうど私と暁月さんがこっそり見守っているときのことだった。

 いつも通り図書室で本を読みながら、東頭さんはさりげなく、胸を水斗の腕に掠らせようとした。

 その際、少し行き過ぎてしまったのだ。

 むにっと強く押し当てる形になって、東頭さんは慌てて距離を取った。


「ごっ……ごめんなさぃ……」


 以前、ハグをしたときには平然としたものだったが、今は恋愛感情の自覚や、あえて胸を当てているという認識が手伝ったのだろう――東頭さんは顔を熟したトマトのようにして俯く。


「(これはさしもの伊理戸くんも効いたでしょ……!)」


 暁月さんが小さく快哉を叫ぶ。

 私は、なんだか感慨深くなっていた。

 最初は抱き合っても顔色ひとつ変えなかったのに……可愛らしくなって……。

 久しぶりに親戚の子供に会った人みたいな心持ちで、私は内カメラ越しに義弟を睨みつける。

 さあ赤くなれ! 恋愛のれの字も知らなかった子がここまでやったのよ! 顔を赤くして慌てふためくのが筋というものでしょう!


 しかし。

 水斗は本に向けた目を動かすことさえなかった。


「――ん、ああ。大丈夫だ」


 反応ゼロ。

 東頭さんは愕然とし、私たちもまた呆然とした。


「(……ねえ、伊理戸くん大丈夫? いくらなんでも枯れすぎじゃない? お爺ちゃんなの?)」

「(私もちょっと心配になってきたわ……)」


 中学時代のことは、あの男をそこまで悟らせてしまったのだろうか。責任を感じるわ……。


 しかし、その夜。

 認識を改めるべき出来事が、自宅にて発生した。


『――湯張りが終わりました。湯張りが終わりました』


 機械音声がお風呂が湧いたことを告げる。

 我が家では万が一の事故を回避するため、私と水斗のどちらが先にお風呂に入るかを毎回話し合って決める――私はリビングのソファーに座っている水斗に、背後から近付いて話しかけた。


「ねえ」

「っ!?」


 特に、特別なことをした自覚はなかった。

 なのに、私が後ろから近付いて話しかけただけで、水斗はなぜか、びくりと驚きながら座る位置を横にずらしたのだ。

 まるで私の身体から離れるように。


「……なんだ?」


 んん?

 顔つきに動揺は見られないけれど、明らかに怪しい……。

 私は試しに、水斗の隣に座ってにじり寄ってみた。


「な、なんだよ?」

「別に、なんでも?」


 水斗は私から逃げるように距離を取る。

 私がさらに距離を詰めると、やはりその分だけ遠ざかる。


「なんで逃げるの?」

「……危険人物が近付いてくるからだよ」

「えい」


 奇襲気味に手を伸ばして、水斗の手の甲に触れた。

 するとやはり、びくっと過剰に反応して、私の手を払いのけた。

 それと同時。

 視線が一瞬、ほんの一瞬――私の胸に向く。

 ……ふう~ん?


「……枯れてるわけじゃなかったのね」

「何の話だよ!」

「あなたがムッツリスケベだって話よ」

「名誉毀損で訴えるぞ!」

「別にいいわよ。勝てるから」


 確信を得た私は、自室に戻ってLINEで報告した。


Yume

〈効いてる〉

- 21:26


 あの男は、何も感じていない風を装っているだけだ。

 東頭さんのスキンシップ作戦は、かなり効いている。

 私からの――女子からの接触にあそこまで過剰に反応するのがその証拠だ。

 そのことを、私は東頭さんと暁月さんに説明した。


イザナミ

〈結女さんもおっぱいくっつけたんです?〉

- 21:30


Yume

〈くっつけてない! くっつかないように避けられただけ〉

- 21:30


あかつき☆

〈なんで結女ちゃんのときだけ反応したんだろね?〉

- 21:31


Yume

〈家の中だから油断したんでしょ? それに、東頭さんとは友達だってあそこまではっきり宣言した手前、意識してるのを悟られたくないんじゃないかしら〉

- 21:31


あかつき☆

〈なるほどね~〉

- 21:32


 暁月さんは意味ありげに間を空けてそう返信し、


あかつき☆

〈そろそろ頃合いじゃない?〉

- 21:33


Yume

〈何が?〉

- 21:33


イザナミ

〈何がですか?〉

- 21:33


あかつき☆

〈元々さ、好感度はいいわけじゃん。あの孤高の伊理戸くんが友達だって大っぴらに言うくらいだから。問題は女子として認識されてないってことだけで。それが揺らいだ今、条件は揃ったんじゃないのって思うんだよね~〉

- 21:34


Yume

〈もったいぶるの好きなの?〉

- 21:34


あかつき☆

〈いや、だからさ〉

- 21:35


 暁月さんは告げた。


あかつき☆

〈もう告白しちゃえば?〉

- 21:35






「むりです」


 翌日。

 落ち合った放課後のファミレスで、東頭さんはぶんぶんと首を振った。


「まだです。むりです。告白なんて。こんなにすぐ……!」

「いやいや、だいじょうぶだいじょうぶ」

「だいじょばないです! ぜったい無理ですー! むりむりむぅーりぃーっ!!」


 テーブルに突っ伏して、いやいやと首を振る東頭さん。まるで駄々っ子のようだったけど、気持ちはわかる。


「……暁月さん。本人の言う通り、まだ早いんじゃない? だって、出会ってまだ2週間くらいじゃない。スキンシップ作戦を始めたのも1週間前だし」

「スキンシップ作戦? あんななんちゃって恋愛工学で彼氏なんてできるわけないじゃん。できたとしても身体目的だよ」

「えっ」

「えっ!?」


 私は固まり、東頭さんはガバッと顔を上げる。

 当の暁月さんは、素知らぬ顔でジュースをちゅーっと飲んだ。


「あのねえ。本当に彼氏が欲しかったら、やることなんて三つしかないの。話す。遊ぶ。告る。以上。本来はそれだけでいいんだよ? 伊理戸くんはちょっと特殊だったから余計な工程挟まなきゃだったけど」

「な、なるほど……」


 確かに私も、それ以外のこと、何にもやってない……。


「で、でも、告るにしたって、ほら、その、心の準備とか……」

「それは今して」

「ええっ!?」

「あのねえ、心の準備なんてもんは、今できなきゃ一生できないの! 未来の自分に過度な期待を寄せるな! 明日やろうは馬鹿野郎だよ!」


 暁月さんはダンッとコップをテーブルに置いて、


「告白っていうのはね、後回しにするほどやりにくくなるの。関係が固まっちゃうっていうかさ。長いこと友達としか見てなかった子といきなり恋人になれとか言われても困っちゃうじゃん。だからできるだけ早いうちに告っちゃったほうが、まだしも成功率は高いんだよ」


 初対面で告白するのは論外だけどね、と暁月さんは言う。

 なんとなく、今までで一番重みのある言葉だと思った。

 彼女にも、あったのだろうか。長年続いた関係を変えたいと思ったことが……。


「それを考えたら、2週間っていうのはむしろちょうどいいくらいだよ。2週間で告れない人は半年経っても1年経っても告れないって。そうでなくたって、恋愛って大体、早い者勝ちなんだしさ」


 ……もし私が、最初の1ヶ月、中学2年の夏休みの間に告白できていなかったらと思うと、暁月さんの言葉にも確からしさを感じた――ああ、きっと私は、告白なんて大それたことは一生しなかっただろう。

 最初の1ヶ月。

 浮かれているうちでなければ、おかしくなっているうちでなければ、告白なんてしようとは思わないのだ。

 恋愛なんて、冷静になった途端、泡のように弾けてしまうものなんだから。


「む……むむむ……。確かに、ラブコメのごとくぐだぐだもだもだやった挙げ句に告白する勇気は、わたしにはないかもです……」

「でしょー? 現実の恋愛は漫画みたいに何年も続かないよー」

「……あの。それだと、もし付き合えたとしてもすぐ別れるって言われてるみたいなんですけど」

「イッテナイヨー」

「言ってるじゃないですか! ……ゆ、結女さん! そんなことないですよね!? 何年も続く恋愛だってありますよね!?」

「……ア、アルワヨ」

「目が泳いでる!!」


 2年も保たなかった人間に訊かないで!


「まあ二人の仲が何ヶ月続くかは置いといて」

「ヶ月! ヶ月って言いました!? 年じゃなく!」

「勝算はかなりあると思うんだよねっ。伊理戸くん側に断る理由ないもん。東頭さん可愛いし、気も合うし、伊理戸くんフリーだし」

「そんなこと……」


 くしくしと前髪を伸ばすように擦って、東頭さんは肩を縮こまらせた。


「……わたし、暗いですし……めんどくさいですし……おっぱいだけの女ですし……」

「そこの自信だけは揺るがねーなこんにゃろう」


 暁月さんはニコニコ笑顔で怒気を放って、


「……結女ちゃんはどう思う? 東頭さんの勝算、どんなもんだと思う?」


 私はテーブルの表面を見つめて、少し考えた。

 あの男のこと。

 過ごした時間。

 私と一緒にいるときの顔。

 言葉。振る舞い。


「……あの男は、女の子をスペックとかでは見ないから」


 そして、東頭さんと一緒にいるときの水斗を思い出す。


「東頭さんと一緒にいるときのあいつは、楽しそう。……だから、もっと一緒にいたいって言ったら、……断られるはずは、ないと思う」


 もし東頭さんが、本当に昔の私とまったく同じ人間だったなら、わからなかった。

 けど、彼女は私とは違う。

 あの男とは本当に趣味も気も合う。他には考えられないってくらい。だから何も誤魔化さなくていいし、何も気兼ねする必要がない。

 気が合う振りをして、その実、いろいろと気を遣い合っていた私とは、本当に大違い。

 自分に自信がないところだって、あの男ならうまく付き合ってくれるだろう――何せ、それに関する実績だけは、確かだから。


 考え得る限り。

 伊理戸水斗の恋人に相応しい人間は、東頭いさな以外に有り得ないのだ。

 私という存在は、何かの間違いだったと思えるくらいに。


「……本当、ですか……?」


 不安と期待をない交ぜにしたか細い声で、東頭さんは呟いた。


「わたし……水斗君の彼女に、なれますか……?」


 今にも折れてしまいそうな、けれど必死に前を向こうとするその姿に、かつての私がまた重なった。

 でも、それは、かつての私そのものじゃない。

 余計なことを言って何もかもを台無しにする、愚かな綾井結女じゃない。


 彼女に重なって見えたのは。

 まだ失敗していない――最後まで幸せでいられるかもしれない、私だった。


「なれるわ」


 だから、背中を押さずにはいられなかった。

 私が見られなかったものを、彼女なら見られるかもしれないのだから。

 胸の奥に疼く痛みも、その希望の前では何の意味も持ちはしない。


「――元カノわたしが、保証する」






 それから私たちは、具体的な告白の方法について話し合った。


「やっぱり、ラブレターとか、ですか?」

「えー? 古臭くない? 深夜のノリで書いた平静さゼロのポエムみたいな文章を、あろうことか目の前で読まれたりするわけでしょ? そんなのあたしなら生きていけないよー」

「うぐぅっ……!」


 出来心だったの……若気の至りだったの……あんな恥ずかしい文章にするつもりはなかったの……。


 そんな一幕があったりしつつ、告白はシンプルに校舎裏に呼び出して行うことになった。

 それからは南暁月教官による告白練習だ。


「リピートアフターミー。『好きです。付き合ってください!』」

「すっ、すきでしゅっ! ちゅっ、付き合って……あぅ……」

「噛むな! 恥ずかしがるな! 堂々とはっきりと聞き取りやすい声で! それでいてたどたどしく!」

「無理難題です!」


 そんなこんなで1日を費やし――


イザナミ

〈おくりました。5じにこうしゃうらです〉

- 22:48


イザナミ

〈はきそう〉

- 22:48


あかつき☆

〈おつかれ~! 呼び出しメッセージ送るだけで2時間かかったね〉

- 22:49


Yume

〈吐くなら今日のうちにしたほうがいい。酸っぱい匂いのする口で告白する羽目になりたくなければ〉

- 22:49


あかつき☆

〈結女ちゃんも吐きそうだったの?笑〉

- 22:50


Yume

〈ノーコメント〉

- 22:50


 私はラブレターだったから、目の前で読まれている最中に吐き気と腹痛のダブルコンボが来たのだ。さすがにここでトイレに行くとわずかな希望も消滅すると思って耐えたけど。


あかつき☆

〈5時だったらちょい時間あるね。髪とか眉毛とか整えてあげるよ。授業終わったら集合ね〉

- 22:51


イザナミ

〈ありがとうございます〉

- 22:51


 東頭さんは緊張のせいか、短文しか送ってこない上に漢字変換までできなくなっている。

 それを見ているだけで、なんだか私まで緊張してきた。


あかつき☆

〈どうする? 結女ちゃんに偵察してもらう? 伊理戸くんも今頃動揺してるかも〉

- 22:52


イザナミ

〈どうころんでもふあんになるきしかしません〉

- 22:53


Yume

〈もう今日は寝たほうがいいかもね〉

- 22:53


イザナミ

〈ねれるきもしません〉

- 22:54


あかつき☆

〈アホな動画でも見て頭空っぽにしなよ。オススメ教えたげる〉

- 22:54


 暁月さんが動画サイトのURLをいくつか貼ると、東頭さんは〈ありがとうございます〉と定型文を打って沈黙した。

 目の下に隈を作って告白する羽目にならなければいいんだけど……。


 我が事のように心配していると、不意にスマホが通話の着信を知らせた。

 暁月さんだ。

 応答して耳に当てる。


「もしもし?」

『いやあー、こっちまで緊張してきちゃうね』


 笑い混じりの言葉に、私も笑いながら「わかる」と答えた。それから、


「……結局、私は大した協力はできなかったわ。ほとんど暁月さんのアドバイスで……」

『そんなことないよ。あたしだけだったら、東頭さん、とっくに諦めてたんじゃないかな』

「そうかしら」

『そうだよ』


 何か根拠でもあるのか、暁月さんの声は確信に満ちたものだった。


『どう、結女ちゃん? 義理の弟に彼女ができちゃう気持ちは?』

「……成功、すると思う?」

『するんじゃない? 自然に考えれば』

「自然に?」

『よほど心証が悪いんじゃなければさ、告白って、する勇気さえあれば成功率結構高いと思うんだよねー。だってさ、好かれてるっていう事実それ自体が、好きになるのに充分な理由だと思わない?』


 それは……確かに、そうかもしれない。自分を好きになってくれる人を好きになる。それは自然な心理だと思う。


『まあ「興味のない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものはない」って名言もあるけど。あたしは正直そっち派』

「ちょっと!」

『裏を返せば、すでに友達として仲良くやれてる東頭さんは大丈夫ってことでしょっ? 気が合わないってことはないし、断ったら関係がギクシャクするかもって心配もあるし、何よりうなずくだけで彼女ができる。だから、たとえ恋愛感情がなかったとしてもさ、これから好きになることだってあるかもしれないわけだし、とりあえずOKしておくっていうのが、割と自然な流れだと思うんだよね~、あたしは』

「……かもね」

『でも、……伊理戸くんは、不自然な人なんだよねえ』


 少しだけ陰りを帯びた声で、暁月さんは言う。


『懸念があるとしたらそれかなあ。今のは、彼女っていう存在――概念って言うのかな? そういうものに、価値を感じてる人の話。でも、伊理戸くんって、たぶんそうじゃないよね』

「……そう?」

『そうだよ。伊理戸くんは、彼女なんかいなくたって生きていける人だよ。恋人なんて言葉、ステータスには、これっぽっちも価値を見いだしてないよ。……だからね、それでもあえて彼女を作るとしたら――』


 そして続いた、暁月さんの言葉が。

 私の中に、息を忘れるほど強く強く、響いていった。


『ま、全部あたしの妄想だけどねっ!』


 暁月さんはおちゃらけて誤魔化したけれど、私の頭の中では、さっきの言葉がまだぐるぐる回っている。

 だとしたら。

 だとしたら、それは――


『おやすみ、結女ちゃん。明日は頑張って見守ろうねっ』

「え、あ、うん。……覗き見するのが当たり前みたいになってない?」

『相談に乗った者としての義務だよ~』


 このとき私は、少し憂鬱になっている自分を見つけた。

 なんでだろう?

 その謎に答えを出す前に、私は通話を切って布団を被った。

 眠りは、なかなかやってこなかった。






「――ん。オッケー!」


 暁月さんは櫛を仕舞うと、東頭さんの顔を女子トイレの鏡に向けた。


「どうですかお客さん? 我ながらいい仕上がりだと思いますよ~?」

「…………この鏡おかしくないですか? 違う人が映ってるんですけど」

「これ、キミだから! 見違えただけだから! 今こそ使うべきだよ、あの台詞を! さんはい、『……これが……わたし……?』」


 いつもハネまくっていた寝癖を直し、眉毛の形を整え、薄く化粧をしただけで、東頭さんは見違えるほど綺麗になった。

 というか、普段がいい加減すぎるのだ。リップクリームさえ使わない女子高生初めて見た。

 まあ、それを差し引いても、今の東頭さんの美少女度はかなりの高レベルである。身長が高めで、スタイルも物凄いのに、顔つきはあどけない雰囲気で……なんというか、グラビアアイドルにいそうな感じ。


「ちゃんとすると見違えるところまであの男に似てるとはね……」

「へえ~、伊理戸くんもちゃんとしたらカッコ良くなるタイプなんだ~? 写真とかないの結女ちゃん?」

「ちゃ、ちゃんとしてる水斗君……見たい……見たいです……」

「……い、いや~……残念ながら、写真は~……」


 さすがに私のスマホ内に眠るブロマイドみたいな画像を見せるわけにはいかない。

 これから告白なのだ。

 余計な誤解を生んでしまっては具合が悪い。


 女子トイレを出ると、校舎内には人気がなかった。

 吹奏楽部や運動部が練習する音が遠くから聞こえてくる程度だ。

 進学校なのもあって、ウチはあまり部活動に力を入れていない――私たちも含めて帰宅部が多いから、授業が終わって1時間もすると学校にはほとんど人がいなくなる。

 告白をするには、絶好の環境だ。


「じゃ、そろそろ行こっか。練習通りにね、東頭さん。あたしたちは陰ながら見守ってるから!」

「が、がんばりまふ……」


 無表情のままガチガチに緊張している東頭さんを見てられず、私はその肩に優しく手を置いて、できるだけ力強く告げた。


「あなたなら、できるわ」


 だって、私にできたんだから。

 あなたにできない道理はない。


 スマホみたいにぶるぶる震えていた東頭さんは、徐々に落ち着きを取り戻して、すうはあと深呼吸をした。


「……いって、きます」


 声にも顔にも、まだ強張りは残っていた――けれどしっかりとした足取りで、東頭さんは告白場所である校舎裏へと向かった。

 私たちはその背中を黙って見送る。

 暁月さんが、しみじみとした声音で言った。


「恋は人を変えるって、ほんとなんだねえ」

「なんだか他人事みたいだけど」

「……あー、まあ、あたしはね。悪い方向に変わっちゃうタイプだから」


 気まずそうな顔をして呟くと、暁月さんは誤魔化すようにとててっと軽い足取りで歩き出す。


「あたしたちも早く行こうよ、結女ちゃん。責任持って結末を見届けないとねっ!」

「……そうね。見届けないと」


 あったかもしれない別の結末を。






 私と暁月さんは、告白場所となった校舎裏の、すぐ横に当たる教室の窓の下に身を潜ませた。

 窓からそっと外を覗くと、東頭さんが一人でそわそわと、意味もなく髪をいじったり意味もなく小石を蹴飛ばしたりしている。あの男が来る気配はまだなかった。


 私の隣では、窓際の床に座り込んだ暁月さんが、何やら忙しそうにスマホをいじっている。


「何してるの?」

「人払い」


 教室は無人だ。廊下もまた無人だ。そして両隣の教室からも人の気配を感じない。

 いくら部活に力を入れていないとはいえ、不思議なくらいの人気のなさだった。暁月さんが何か手回しをしたということだろうか。だとしてもどうやって……?

 高校になってからできた一番の友達に、ちょっと計り知れないものを感じていると、ザッと新しい足音が外から聞こえた。


「(来た)」


 私が囁くと、暁月さんはスマホをいじる手を止めて、窓の外を覗き込む。

 ちょうど、東頭さんの前に、水斗が立ち止まるところだった。


「……来たぞ、東頭」


 少し固く感じる声で、水斗は言った。

 その声音からわかる。

 さすがのこの男も、呼び出された意味をなんとなく察しているのだ。

 ただそれだけでも、この1週間の頑張りが無駄ではなかったことを、私たちに教えてくれた……。


「あ、あの……ご、ご足労いただき、あ、ありがとう、ございます……」

「ああ」


 練習の成果はどこへやら、噛み噛みの東頭さんに、水斗は優しく相槌を打つ。


「そ、その……ですね。わ、わたし、水斗君に、は、話したいことが……」

「うん」

「日頃の感謝、というか……感謝って言ってもまだ2週間くらいなんですけど、それでも……ああぅ、違う違う、そうじゃなくて、えっと、えとえと、えっと…………」


 東頭さんは、完全にテンパっていた。

 せっかく整えた髪をくしゃりと掴んで、うーうー唸りだしてしまう。

 暁月さんが「うああ……」と呻いて、見てられないとばかりに顔を覆った。


 だけど、私は目を離さない。

 この程度でダメになったりしないって、わかっているから。


「言いたいことを、言いたい順に、ゆっくりと話してくれ」


 東頭さんのテンポに合わせるように、ゆっくりした口調で、水斗が言う。


「整理はこっちでする。普段、本ばっかり読んでるのは、伊達じゃないからな」


 珍しく冗談めかして、水斗は微笑んだ。

 ……ああ、これだ。

 東頭さんが好きだと言った伊理戸水斗は、これなのだ。


 東頭さんはかすかに目線を上げて、安心したように息をつく。

 そして。

 ぽつりぽつりと、さっきに比べれば幾分か要領を得た言葉を、連ね始めた。


「……図書室で、ぶつかったとき。水斗君から、話しかけてくれましたよね」

「ああ」

「わたし、嬉しくて……同じ趣味の人に出会えたっていうのもそうなんですけど……わたしの言うこと、面倒くさがらずに聞いてくれたことが……。わたし、中学時代から、いえ、もっと前から、変な子だ、偏屈だ、面倒臭い子だって、ずっと言われてて……」

「うん」

「わたしが好き勝手に話しても、ちゃんと聞いてくれる人……それどころか、ちゃんと答えてくれる人……初めてで……嬉しくて……本当に、本当に、楽しくて」


 そのとき、地面に落ちていた東頭さんの目が、初めて、水斗をまっすぐに見据えた。


「もっと、一緒にいたいんです」


 かすかな震えと共に、言葉が響く。


「ずっと、一緒にいたいんです」


 寄る辺を探すように、居場所を求めるように。


「だから――わたしを、水斗君の彼女に、してください」


 そして、続いた最後の言葉は。

 まるで、心からするりと零れたように紡がれた。




「好きです」




 たった4文字の言葉が、しかし幾度となく、沈黙の中に響いていく。

 伝わらない、はずがなかった。

 これほどに純粋で、これほどに真摯な言葉を、私は他に知らなかった。


 息も忘れて、私は水斗の顔を見る。

 彼はしばらく、東頭さんの視線を受け止めると、ふっと緊張を緩めるように微笑んだ。


「……この前はあれだけ、友達だって主張してたのにな」

「あっ、あっ……あれも、嘘じゃないです! 友達としても本当に……!」

「僕も、君といるのは楽しいよ、東頭」


 ひゅうっと、風が吹いた気がした。

 でも、木は靡かない。髪も揺れない。

 冷たい風に似た、けれど別の何かが、私の中だけを撫でたのだ。


「こんなに気の合う、気兼ねしなくていい相手は、生まれて初めてかもしれない。だからきっと、君と僕が付き合ったら、これ以上ないってくらいうまくやっていけるだろう。時には喧嘩だってするだろうけど、僕と君なら、新刊のことでも話してるうちに忘れてそうだ」

「……あ……」


 私は目を瞑った。

 さっき、東頭さんがテンパったときには、目を離さずにいられたのに。

 今はなぜか、見ていられなかった。


 この先に続く言葉を、私は知っている。


 彼は今まで見たことがないほど柔らかに笑って。

 どこか気恥ずかしげに、でも目をしっかりを見て。

 こう告げるのだ――――




「――――




 ……え?

 私は目を開けた。

 耳に届いたのは……私が知っているのとは、逆の言葉だった。


「ごめん。君と付き合うことは、できない」


 それが礼儀だとでも言うかのように、水斗はもう一度繰り返す。

 私も。

 暁月さんも。

 そして、東頭さんも。

 誰もが呆然としていた。


「な……なんで、ですか……?」


 理解を拒むかのような空っぽの表情で、東頭さんが震えた声で尋ねた。


「わ、わたしの、こと……やっぱり、女の子として、見れない、ですか……?」

「いや、そんなことはないよ――この前ははっきりと、君のことは友達だって思ったんだけどな。可愛いと思うことだって、あれから結構、増えたんだ。僕はどうも、君ほど友情と恋愛を切り離して考えられないらしい」

「……だ、だったら……!」

「僕もさ、落ち着いて考えたんだよ」


 水斗の口元に、困ったような苦笑が滲む。


「自分の中身を、感情を見つめ直してみたんだ。そしたら――席が、もうなかったんだよ」


 水斗は、自嘲するように言った。


「僕は狭量な人間でさ。本気で向き合えるのは、どうも一人が限度らしい――そのたったひとつの席を、そんな権利もないくせにまだ占有してる奴がいるんだ」


 ……あ。


「そして僕は、そいつのことを――そんな義理もないのに――まだ、泣かせたくないと思っているらしい」


 言葉が胸に染み込み、じわりと視界が滲む。


「だから、ごめん。――僕は、君を彼女にはできない」


 そのとき、私の脳裏にリフレインしたのは、昨日の暁月さんの言葉だった。




 ――……だからね、それでもあえて彼女を作るとしたら――


 ――たとえ価値なんかなくても、自慢にならなくても、どうしてもどうしても傍にいてほしい……そう思った相手だけなんじゃないかな




「……ぁ……」


 膝から力が抜ける。

 窓に背を向けて、壁に背中をつけて、ずりずりと座り込む。


「……ぁ、あ……ぁぁ……!」


 どうしてよ、馬鹿。

 幸せになれるかもしれないのに。

 私なんかと違って、うまくいくに決まってるのに。

 私はもう、あなたにとって、ただの義理のきょうだいでしかないのに。


 どうして、まだ。

 彼女じゃなくなった人間を、まだ。


 ――あなたの傍に、いさせてくれるのよ。


「……あーあ」


 暁月さんの、呆れたような声がした。


「どっちにしろ、泣かせちゃうんじゃん」

「泣い、で、な゛い゛いぃぃぃ……っ!!」

「よっぽど好きなんだねぇ」

「も゛う゛、ずきじゃ、な゛い゛いいぃぃぃ……っ!!」


 もう好きじゃない。

 好きじゃないけれど。


 まだ私は、彼の傍にいる。


 それがどうしてか、こんなにも嬉しい。


「……変だよ、二人とも」


 暁月さんが呟いた。

 気のせいか、どこか拗ねるように。


「変だよ」




※※※




 結局、その日はそれ以降、すっかりわけがわからなくなってしまった。

 東頭さんが水斗の返事にどうリアクションを取り、どういう形でその場が収まったのか――私は、見届けることができなかった。

 暁月さん曰く、泣き出した私を慰めているうちに、二人ともいなくなっていたそうだ。


 ……東頭さんに申し訳ないと言ったらなかった。

 焚きつけたのは私なのに、私はあのとき確かに、彼女がフラれたのを喜んだのだ――あの男が私を理由に彼女をフッたのを、泣くくらい喜んでしまったのだ。

 どれだけ性根が腐っているのだろう。東頭さんには、引っぱたかれたって文句は言えない。


 合わせる顔がなくて、翌日になっても私は、LINEで連絡を取ることさえできていなかった。通知が来ないところを見ると、東頭さんのほうからも連絡は来ていないらしい。

 失恋のショックで塞ぎ込んでいるのだろうか。……慰めてあげたいとも思うけれど、私にそんな権利があるのかどうか……。

 そんな風に悶々としながら授業を過ごし、放課後。


「残念会やろうよ」


 ちょうど校舎を出たところで、暁月さんがそう言った。


「あたしたちにも責任はあるしさ。それに……東頭さん、伊理戸くんが唯一の友達だったのに、あんなことになっちゃったら、ほら……ね?」


 それを聞いて、私はますます暗い気分になる。


「……そう、ね。今まで通りじゃ、いられないわよね……」


 私たちが煽らなければ、東頭さんは水斗という友達を失わずに済んだはずなのだ。

 このまま知らんぷりしていることなんて、私にはできそうにない。


「代わりにはなれないけどさ、けしかけた者として、アフターケアもしっかりやらなきゃって思わない? 遊んで慰めて傷を舐めて……そんでさ、友達になろうよ、改めて」

「ううん……。でも、私、どう接すればいいか……」


 フラれた原因がまさに私にあるのに、どう慰めればいいのか……。

 暁月さんはにっこりと笑った。


「それは大丈夫! 主に伊理戸くんのフり方の下手さについてディスってればいいだけ!」

「なるほど……! それは全面的に同意できるわ!」

「あとはあたしたちが東頭さんにディスられたらいいだけ!」

「……それも全面的に同意できるわ」


 甘んじて受け入れるしかない。東頭さんは完全な被害者なのだ。無責任に焚きつけた私たちと、オブラートに包むということを知らないあのクソ野郎の。もうちょっと当たり障りのないフり方あったでしょ。


「じゃあ通話飛ばすよ。覚悟できた?」

「……ええ。大丈夫」


 暁月さんがスマホを操作する。

 私は深呼吸を繰り返しながら、できるだけ顔を上げた。俯いていると無限に気分が落ち込んでしまう。こういうときは無理にでもいいから顔を上げて――


 ん?


 ……これは、どうしたことだろう。

 私の目に、有り得ないものが映っているような。


 校舎3階の、一番端。

 図書室の窓。


 私は、見間違いであってほしいと思いながら、そこを指差す。


「……あ、暁月さん……あれ……」

「うん? ……ううん?」


 私の指の先を見て、暁月さんもまた表情を凍らせた。

 当然の反応だ。

 だって――


 図書室の窓際に。

 隣同士に寄り添って。

 楽しそうに談笑している。


 ――伊理戸水斗と、東頭いさなの姿があるのだから。


「……………………」

「……………………」


 私たちが無言になっているうちに、窓越しに見える東頭さんがスマホを取り出して、小走りに窓枠の外へ姿を消した。

 少しして、暁月さんのスマホから声が聞こえる。


『はい。もしもしー?』

「「ちょっとツラ貸せや」」

『ええええっ――――!?』






「「なんでやねん」」


 残念会は尋問へと姿を変えた。

 いつも集まるのに使っているファミレスで、東頭さんはちゅーっとストローを吸いながら首を傾げる。


「何がですか?」

「なんで昨日の今日で当たり前のように仲良くしてるのよ!?」

「昨日フラれたよねっ!? 結構ひどいタイプの失恋したよねっ!? 何なの? あたしたちの見てないところでどんなどんでん返しがあったのっ!?」

「ひどいタイプかどうかは知りませんけど、失恋はしましたよ?」

「だったら!」

「なぜ!」

「ええ……何を怒られてるのかわかりません……」


 困ったように眉根を寄せる東頭さん。

 何なの!? 私たちが説明しないといけないの!? 説明してほしいのはこっちなんだけど!


「あたしたちはね、責任を感じてたのっ! あたしたちが焚きつけたせいで、東頭さんと伊理戸くんが友達じゃいられなくなっちゃったってさ!!」

「友達じゃいられなくなる、ですか? なんでです? それって逆じゃないですか」

「「は?」」


 失恋直後の巨乳少女は、当たり前の常識を語るように言う。


「きっぱりフラれて、さっぱり脈ナシになったんですから、ってものじゃないですか?」


 私たちは絶句した。

 おびただしい戦慄が全身を駆け巡る。

 目の前できょとんとしている女の子が、どこか遠い異世界から来たエイリアンみたいに見えてくる。


「……わ、わからない……。最近の若者がわからないよ、結女ちゃん……!」

「大丈夫、落ち着いて! 私もさっぱりわからないから!」

「ご心配おかけしたようですみません。人生初失恋は、確かになかなか堪えましたけど、今ではこの通り平気です。

「「どういうことーっ!?」」

「『落ち着いて考えろ。高校生の頃に作った恋人より高校生の頃に作った友達のほうが長い付き合いになる確率が高いじゃないか』って言われて、『確かに!』と思いまして」

「もう頭がついていかないよ!!」

「これ以上私たちの常識を壊さないで!!」


『私にそんな権利あるのかどうか……』って悩んでた私はなんだったの!? 一番権利ない奴に慰められてるんだけどこの子!!

 もう会話が通じる気がしない。価値基準の断絶が凄すぎる。私たちはもう一人の当事者を問い詰めることにした。


『……もしもし?』

「もしもし。昨日あなたがフッた女子のことについて聞きたいんだけど」

『……いや、なんで僕が東頭に告白されたの知ってるんだ、君』

「それは今いいから」

『良くないんだが』

「……失恋して傷付いた東頭さんを、フッた当人のくせして慰めたって本当?」

『……その件か。誰から聞いたか知らないが、安心してくれ』

「何を!?」

『僕も、なんでああなったのか、全然わからない』


 困惑がありありと滲んだ水斗の声を聞いた私と暁月さんは、揃って東頭さんを見た。難しそうな顔をして、メニューと一緒に置いてある子供向けの間違い探しを睨みつけている。

 どうやらやはり、おかしいのは私たちではなかったらしい。


「……異世界人」

「異世界人だね」

「あれ? どうしてわたし、いきなり異世界転生してることにされたんですか?」


 世の中には、決定的に価値観が違う人間がいる。

 それを身をもって学んだ私だった。


 ――と、そのとき。

 水斗に繋ぎっぱなしだったスマホから、低い声がした。


『…………伊理戸…………?』

「げっ!」


 どこかおどろおどろしいその声を聞くや、暁月さんが『マズい』という顔をする。

 今の声は……川波くん? 水斗ではなかったから、そのくらいしか思い当たらないけど。


『今……告白されたって聞こえたんだが……一体、どこの誰にだ……?』

『ん? そういえば君には言ってなかったか? 東頭のこと――』

「わーっ!! だめだめだめっ!! 伊理戸くん、そいつには東頭さんのこと喋っちゃダメーっ!!」

『おい誰だその女! 伊理戸さん以外の女なんて――』

「あーもうっ! 今までうまいこと隠してきたのにいっ!!」


 暁月さんは大慌てで荷物を抱えて立ち上がった。


「ごめんっ! ちょっと面倒臭い変態を宥めてくるからこれで!」


 テーブルにドリンクバー代を置くと、暁月さんは私たちを置き去りにしてファミレスを飛び出していく。

 その後ろ姿を呆然と見送って、私は口の中で呟いた。


「……案外、誰もが誰もにとって、異世界人みたいなものなのかもね……」

「おお? 深いですね。たとえ異世界に転移転生したとしても、人や世界との関わり方は根本的には変わらないみたいな話ですか?」


 同じ人間は二人といない。

 同じ恋もまた二つとない。


 初恋は終わり、そうではない何かがまだ続く。

 その何かに、私は未だ、名前を付けられないでいた。

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