運命の相手③ 運命の相手
◆ 伊理戸結女 ◆
「……ん。まあいいんじゃない?」
水斗のコーディネートを見て、私は軽く肯いた。
白いYシャツにシンプルなジャケット、カジュアルだけどカジュアル過ぎない――変に背伸びしてるようにも見えないし、我ながらちょうどいい出来栄えなんじゃなかろうか。
水斗は軽く溜め息をつき、
「人を着せ替え人形にしておいて、なんだその上から目線は……」
「あなたが何も考えないから悪いんでしょ?」
「ただご飯を食べるだけだろ。何を考える必要がある?」
「お洒落なレストラン予約してもらってるんだから、使い古しのフリースとか着ていくわけにはいかないでしょ!」
期末テストも無事に終わり、ついにお父さんとの会合の日がやってきた。
お母さん伝いの連絡によると、駅前で集合した後、何やら大人がデートで行くような高級なレストランに連れていってもらえるらしい。今まであんまり詳しく聞いてこなかったんだけど、私の遺伝子上のお父さんって、もしかしてお金持ちなの?
そういうわけでTPOを弁えて、私も透け感のある大人っぽい冬物のワンピースを用意した。お母さん曰く、費用はお父さんに請求するらしいので、私的には儲けものである。
「道中気を付けてね、二人とも」
お母さんが、玄関に立った私たちに言う。
「本当は、わたしも一緒についていくべきだと思うんだけど……」
「『旦那さんに悪いから』って言われたんでしょ?」
「まあねぇ。正しいから何も言えなくなっちゃうのよね、あの人の言うことって……」
お母さんは困ったように笑った。
仮にも何年も夫婦だった相手に対して、こうも気を遣えるなんて、私には想像もつかない。もし水斗に新しい彼女ができたとしたら、私は同じように配慮できるだろうか。複雑な気持ちになって、とても冷静でいられそうにない。
「それじゃあ行ってくるから」
「うん。水斗くんも、困るとは思うけど、ご飯は美味しいはずだから楽しんできて」
「はい」
二人で玄関を出る。
時刻はまだ夕方と言ってもいいけど、空はほとんど黒く染まっていた。十二月の寒風が頬を刺す。私はワンピースの上に着込んだコートの襟をずり上げ、隣を歩く水斗の様子を見た。相変わらず、何を考えてるかわかんない顔。
「緊張してる?」
そう訊くと、水斗は視線も寄越さずに返してくる。
「そっちこそどうだ」
水斗に緊張している様子はなかった。顔色も普通、声色も普通。歩く速度もいつも通りで、ぎこちなさは少しもない。一方の私はといえば、
「ちょっとしてる……かも」
お父さんに会うなんて、いつぶりのことだろう。
小説やドラマでは、別れた妻や娘と定期的に会っている父親がたくさん出てくる。だけど私は、そんな会合をした覚えがない。
だから私は、お父さんは私に興味がないんだと思っていた。
そして、それは正直、私のほうも同じこと……。お父さんと同じ家に住んでいたのは、もうほとんど覚えていないくらい昔のことで。たまにお母さんから話を聞いても、何だか知らない人のことみたいだった。
小学校で『お父さんからお話を聞きましょう』みたいな宿題が出て、困ったことはあるけど――父親という存在に、さほど思い入れがあるかと言えば、それほどでもない。
だから正直、今日この日が何のためにあるのか、わからない。
今更私に、水斗に、どんな用があるっていうんだろう。それが全然わからないから、妙に身構えてしまって、緊張する。
うっかり東頭さんに対抗して、外堀を埋めようとか考えてしまったけど……そんな打算は、とっくに吹き飛んでしまっていた。
会話らしい会話もないまま、私たちは集合場所に辿り着く。
街は早くもクリスマスムードに包まれていて、どこからともなくクリスマスソングが鳴り響いている。どこか浮き足立っている気もする人並みの向こうに、スマホを見下ろして時間を潰している、何人かの人が見えた。
着いたら、スマホで連絡を入れる手筈だった。けどその前に、私は気付いた。
銀色の太い柱に背をもたせかけた、スマートなコートを着こなした男性。
その姿を見た瞬間、するすると記憶が蘇った。
「お父――」
「――慶光院さん?」
私が呼びかける寸前、水斗が唖然とした風に言った。
え?
コートの男性がスマホから顔を上げて、こちらを見る。
そして、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
私のお父さん――慶光院涼成が。
「だから言っただろう? 水斗くん」
◆ 伊理戸結女 ◆
お父さんに案内されて、私たちは近くのビルの上階にあるレストランに入った。京都の街や京都タワーが一望できる、いかにもインスタ映えしそうなレストランだったけど、私の頭の中は混乱でいっぱいだった。
なんで水斗とお父さんが知り合いなの?
その疑問に、お父さんはコートを脱いでテーブルに着いてから答えた。
「水斗くんとは先日、大学の講演に行った際にたまたま会ってね。名前を聞いたら、結女の義理のきょうだいになった子と同じで、僕も驚いたよ」
「大学の講演って……?」
「ん。そういえば、結女には僕の仕事を話していなかったか。僕はゲーム会社でプロデューサーをやっていてね。たまに芸大なんかから講演の依頼が来るんだよ」
ゲーム……。何かコンテンツ系の仕事をしてたっていうのは、なんとなくわかってたけど……。
私は隣で素知らぬ顔をしている水斗に目をやる。
「ゲームなんて……興味あったの?」
「……いさなの付き添いだよ。テスト勉強の息抜きだ」
水斗は不承不承といった感じで説明する。
え? ちょっと待って? それって……水斗だけじゃなくて、東頭さんもお父さんと会ってたってこと? こっちの外堀も埋まってるってこと!?
一瞬、混乱が加速したけど、いやいや、落ち着こう。そもそもほとんど会わないお父さんが、東頭さんのことを水斗の何だと思ってたって関係ない。外堀と言うには遠すぎる。
「そうだ、水斗くん」
お父さんはおしぼりで手を拭きながら、水斗に声をかける。
「そういえば三枚目のイラストが上がっていたね。一枚ごとに画力が上がっているのを感じるよ。テスト期間だというのに大したものだ――きみのマネージメントのおかげかな?」
「あいつの才能ですよ。僕はせっついているだけです」
……え? 何? マネージメント?
「ど……どういうこと? 東頭さんと何かやってるの?」
「それは……」
「彼は、友人の創作活動をサポートしているんだよ」
水斗が口籠った瞬間、お父さんが言った。
「才能を見る目も確かなら、その育成方針も見事なものだ。とても高校一年とは思えない」
「……家庭教師じゃなかったの?」
じろっと見つめると、水斗はしらっと目を逸らした。なんとなく、気まずそうに見えた。
「……それは凪虎さんに頼まれた。マネージャーのほうは、僕が自主的にやってる」
「そう……なんだ」
東頭さんが絵を描いているのは知ってたけど、そこまで本格的なものとは知らなかった。確かにもし、東頭さんがそういう活動をするんだったら、誰かの――水斗のサポートが必要となるのは、自然な流れに思える。
だけど、水斗の声色や態度からは、私に対する罪悪感のようなものが垣間見えた。東頭さんとそういう活動をしてるって、私には知られたくなかったのかな。どうして……?
「さて、まずは好きなものを注文してくれ。値段は気にしなくていいよ。今日は僕の都合で呼び寄せたんだからね」
メニューに書かれた値段に恐々としながら、私と水斗は注文を済ませる。お父さんだけがワインを頼んだ。
ウェイターが注文を受け取って去っていくと、私はおずおずと切り出す。
「……えっと。……今日はなんで……って、訊いてもいいの?」
父親に敬語っていうのも変だけど、タメ口の仲でもない気がして、少し迷った。
お父さんは気にした風もなく、柔らかに笑って、
「そうだね。まずはそれを話しておこう」
テーブルの上で緩く手を組んだ。指輪の跡は、どの指にもなかった。
「四月頃だったか。由仁から――いや、伊理戸さんから新生活の報告を受けてね。養育費はもう要らないという話のついでだったんだが……そのときに、結女に同い年のきょうだいができたことを知ったんだ。多感な時期のはずだが、思った以上に仲良くやってくれている、とね。しかし――」
お父さんは軽く首を傾げて、
「正直に話そう。きみたちは賢い。下手な誤魔化しは通じないだろう――しかし、そこで僕はこう思ったんだ。『多感な高校生の男女がいきなり同居して、最初から仲良くできるなんて不自然だ』、と」
私はドキリとして、束の間、呼吸を止めた。
水斗も瞬きをやめて、唇を結んでいた。
「仲良くできるにしても、『いきなり』ということはないだろう――どう足掻いても、最初の頃は探り探り、ぎこちない間柄になる。しかし、伊理戸さんからそういう話は聞かなかった。僕は仕事柄、こういう不自然さを自動的に勘繰ってしまうところがあってね――伊理戸さんの話が本当だとすれば、考えうる可能性は何だろうか、と考えてみた。結果、浮かび上がってきたのは三つ――」
三本の指を立てて、お父さんは言う。
「一つ、『二人は以前から知り合いだった』」
薬指を折る。
「二つ、『相手の男の子がかなりの変わり者』」
中指を折る。
「三つ、『その両方』」
人差し指を折る。
まるでミステリの名探偵のような振る舞いは、だけど、完全に図星だった。私たちは以前から知り合いだったし、水斗はかなりの変わり者だった――だからこそ私たちは、最初から仲のいいきょうだいとして振る舞えた。
当事者であるお母さんや峰秋おじさんは、きっと安堵から、私たちのこの不自然さを疑わなかったのだろう。だけどお父さんは、部外者だからこそ冷静に分析できた――私と水斗には、ただの義理のきょうだいではない何かがある、と。
ちょうどこの辺りで、ウェイターがドリンクを持ってきた。私の前にはアイスティーが、水斗の前にはウーロン茶が置かれ、お父さんはワイングラスを受け取る。
お父さんはグラスに注がれた紫色のお酒を軽く揺らし、
「いずれにしても、興味深いと思ったのさ」
唇を濡らすように、グラスを傾けた。
「今更父親ぶるつもりはないけれど、実の娘が同居を許すような変わり者の男の子というのは、一体どんな子なんだろう、とね。単純な興味だよ――本当は、文化祭で少し様子を見て済ませようと思っていたんだが、生憎、僕がクラスに行ったときは二人とも空けていたみたいでね」
「えっ? 文化祭にも来てたんだ……」
「友人に招待状をもらってね。ちなみにそのときも、たまたま水斗くんと東頭さんに会ったんだよ。まさか目的の男の子本人とは思わなかったけどね」
私が驚いて隣を見ると、水斗は「僕も君の父親とは思わなかった」と言った。東頭さんと、ってことは、三人で一緒に回ってたときかな……。私だけトイレに行ったタイミングがあったけど、もしかしてあのとき?
「そういうわけで、直接会うことにしたんだよ。なかなか時間が作れなくて、二ヶ月もかかってしまったけどね」
……なるほど、ね。
なんとなく、腑に落ちた気がした。
お父さんは再び一口、ワインを口に含むと、無言でウーロン茶を飲む水斗に一瞥をくれてから、私のほうを見て微笑んだ。
「彼は面白いね、結女。高校生離れした冷静さを持ちながら、それに相反するような情熱をも持ち合わせている。リアリストで、かつロマンチスト――手前味噌だけど、自分に近しいものを感じるよ」
その評は、水斗の芯を突いているような気もするし、上辺をなぞっているだけのような気もした。
少なくとも、私が心を決めたあのときは――花火を見上げて静かに泣いていた水斗を見た、あのときは――そんな感想は抱いていなかった。
「伊理戸さんが安心するのもわかる。結女は、新しい家族が彼であったことに、感謝しなくてはならないね」
「……うん」
「結女には、将来の目標はあるのかい? ずいぶん成績が優秀だと聞いているが」
「んー、特に決めてない……。今は生徒会が楽しいから」
「それはいいね。選択肢を広く持てるのは学生の特権だ。存分に楽しむといい」
態度にも声色にも出ていない。だけど、なんとなくわかる。
お父さんはやっぱり、私には大して興味はない。
私のほうも同じだ。そのことに拗ねたくなる気持ちは、全然湧いてこない。
お父さんが興味を持っているのは水斗のほうで、私にとって今一番大事なのは水斗との関係だった。
本当に、奇妙な話。
本来は一番の部外者のはずなのに、この場の視線は全部、伊理戸水斗に向いているのだ。
◆ 伊理戸水斗 ◆
「ちょっとトイレ行ってくる」
しばらく会話を重ねながら食事をした後、結女が席を立った。
僕だけが、慶光院さんの正面に残される。
本来なら互いに気まずくなりそうなものなのに、慶光院さんにそういう気配は一切なかった。相変わらずすべてを見透かしたような笑みを浮かべながら、僕の顔を見据えている。
そして、
「きみは、結女のことを好いているみたいだね」
当たり前のように、そう言うのだ。
フォークを持つ手が一瞬固まり、それから、僕はテーブルの真ん中辺りを見ながら返す。
「……どうしてそう思うんですか?」
「余計な詮索をするつもりはなかったが……きみが相手だと、どうにも口の回りが良くなりすぎてしまうな」
慶光院さんは困ったように言って続ける。
「推理とも言えない、ただの憶測さ。『多感な高校生の男女が、いきなり仲良くできるなんて変だ』――『もしかすると、その仲の良さは演技なのではないか?』――『だとすると、二人は仲の良さをアピールする必要があるくらい、本当は仲が悪いのかもしれない』――『にも拘わらず、口裏合わせができる程度にはコミュニケーションできる関係性とは何か』――これ以上必要かい?」
「……いえ」
本当に、何もかも見透かしたような人だ。
一緒に住んでいる父さんや由仁さんでさえ、まだ気付いていないことを……こんな短い時間で、看破してしまうのか。
「その様子だと、今はもう、ずいぶんと関係が改善していると見るけれどね。もしかすると、よりを戻したのかな」
僕は手に持った食器を、静かに皿に置く。
たぶん、今日の本題が始まった。
「あなたは、いさなが僕の恋人だと認識しているんだと思ってましたが」
「最初に会ったときはそう思った。けど、先日会ったときに考えを改めた。きみが彼女を見るときの目は、女性を見るときのそれじゃない――才能を見るときのそれだ。……あるいは、こう言い換えようか。自分の人生の、主を見るときの目だ、と」
「……………………」
「水斗くん。きみと僕はよく似ている。同じ種類の人間だと言ってもいい。僕たちみたいな人間は、自分が主人公の物語なんか求めてはいない。主人公になりうる人間を見出し、その物語を限界まで面白いものにすること――それを一番に考えている。そのためなら、自分自身の人生はどうでもいい――自己犠牲でもなく、他者依存でもなく、ある意味で最高の、エゴイストだ」
「……………………」
「わかるだろう? 水斗くん――君はもう、東頭さんの才能を育てること以外のことは、どうでもよくなりつつあるんじゃないか? そう――自分の感情でさえもね」
結女のそばにいたい。
結女にそばにいてほしい。
僕にはそれ以外ありえない。君以外は隣に置けない。その気持ちに、変わりはない。
だけど、それ以外が変わってしまったんだ。
……いや違う。気付いていなかったんだ。いさなのあの絵を見る瞬間まで、自分という人間がどうしようもなく、自分自身を視界に入れていないということに、気付いていなかったんだ。
今はまだ、揺れている。
いさなのプロデュースは、まだ結果が出ていない。勝利の味を知っていない。
でも、もしそれを知ってしまったら。
もう戻れなくなる。
他のすべてが下位になる。
僕は本能で、それを知っている。
「……ここからは僕の自分語りになるが」
慶光院さんは皮肉げな口調で語り始めた。
僕の未来を、予言するかのように。
「結女が生まれたときのことは、よく覚えている――手放せない仕事があって、直接顔を見たのは出産から何日か経った後だった」
そのときの話は、以前に父さんから聞いていた。
由仁さんは、旦那さんが子供の顔を見に来てくれなくて、不安がっていて――
「僕より先に結婚した友人が何人かいてね、彼らは口を揃えて言ったものだ――『生まれた子供の顔を見たら、ここから先の人生は全部、この子のためにあるんだと感じてしまう』と。生物としてはそれが正しいと僕も思うし、自分もそうなるはずだろうと期待していた。僕は――妻の出産に立ち会うことすらできない甲斐性なしのくせに――自分が、普通に家庭を営める人間であることを、願っていた」
――その先は、知っている。
でなければ僕と結女は、恋人同士になることも、家族になることもなかった。
「まるで他人事だったよ」
慶光院さんは痛みに耐えるように目を細める。
「あのときばかりは、……反吐が出るほど、自分のことが嫌になったね」
いつも見透かしたように微笑んでいる慶光院さんの、それが初めて見せた、生の感情だった。
「およそ褒められたものじゃない自分の人格について、僕は否応なしに考えさせられた。水斗くん――人にはきっと、使命を感じる瞬間があるんだ。『自分の幸せの形はこれだ』と、確信を得る瞬間がね……。多くの人々にとっては、きっとそれが、子供が生まれた瞬間なんだろう」
使命。幸せの形。
シンプルな言葉が、僕の漠然とした感覚に輪郭を与えていく。
「しかし僕は、その瞬間がすでに終わってしまっていた。決まりきってしまっていたんだよ。ゲームで言うところの、メインストーリーがね。そのせいで子供ができるという出来事が、サブストーリーに追いやられてしまったんだ」
それは、どうにもならないことなんだろう。
心掛けでどうにかなる問題じゃない。そういう人間として、そういう人生として、確定してしまっていた。それを基準に発生する感情を、自分の意思では制御できない。
そりゃあ、誰だって。
子供が生まれたら、いい親になりたいはずだ。
思わないはずがない。願わないはずがないんだ。たとえ現実の自分が、どんなに酷い親だったとしても。
情けない言い訳にしか聞こえなくても、それはどうしようもない、事実なんだ。
「自分がそういう人間だとわかってから、僕はできるだけ、家族に負担をかけまいと考えた。育児には専門家を雇い、食事一つ取っても由仁の手は煩わせまいとした……。しかしそれは、由仁が考える、由仁が求めていた家庭像とは、まったく食い違っていたんだ」
慶光院さんは寂しげに自嘲する。
「僕と彼女では――幸せの形が、まったく異なっていた」
慶光院さんの理想の未来は、仕事の先にあったのだろう。
しかし、由仁さんの理想の未来は、家庭の中にあったのだ。
ウチでの由仁さんを見ればわかる。由仁さんは仕事も忙しいのに、僕たちの弁当をよく作る。そういう、普通の母親っぽいことに、喜びを見出している面がある。母の日にプレゼントを贈ったときの感激っぷりだってそうだ。由仁さんはたぶん、家庭というものに対して憧れを抱いていたのだろう。
慶光院さんは、その憧れに応えられなかったのだ。
「これ以上、彼女の人生を空費してはいけないと思った。僕は早くから決意していたが、言い出したのは由仁のほうだ。僕はすぐに離婚を受け入れたが、そんな僕を見て、由仁はそれまでで一番、悲しそうな顔をしたよ。……今でも罪悪感が拭えない」
僕は結女と別れたときのことを思い出した。
お互いに重荷を下ろしたような、ほっとした顔だった。だけど、心のどこかでは考えていたはずだ。自分がもう少しできた人間だったら、こんな結末にはならなかったんじゃないか、って。
「僕に父親を名乗る資格はない。それで結女の籍は、由仁のほうに入れることにした。そして僕は、粛々と養育費を払うことにしたのさ。それが、彼女たちを僕の不出来に巻き込んだ、せめてもの償い――お金で解決なんて無粋でみっともないが、僕にはそれくらいしか、責任の取り方がわからなかった……」
しばし瞑目してから、慶光院さんは真剣な目で僕を見据える。
それは、大人の目だった。
一人の人間が、一人の人間と対峙するときの目だった。
「こんなに赤裸々に白状したのは、人生で初めてだよ。……水斗くん。どうして僕が、こんな話をきみだけにするのか、わかるかい?」
わかる。
わかりすぎるほどに。
「きみが結女の隣に居続けようと思うなら、そこには責任が生じる。普通の高校生なら考えなくてもいい責任だ……。きみたちの特殊な環境は、きみたちの失敗を簡単に許してはくれない。きみたちの恋には、きみたちの家族の人生がかかっている。だから由仁のためにも、僕は心を鬼にして、きみに覚悟を問わなければならない」
わかりたくなかった。
気付かないままでいたかった。
「きみは結女を、由仁と同じ目に遭わせてしまうかもしれない」
だけど、東頭いさなの絵を見た瞬間に、すべては決定してしまった。
「水斗くん――きみは、自分の幸せの形がどういうものか、すでに気付いてしまっているのではないかな?」
◆ 伊理戸結女 ◆
「……………………」
私は……すべてを聞いていた。
トイレから帰ってきて、二人が話をしているのが聞こえて、咄嗟に気配を殺して。
全部……聞いてしまった。
思い出したのは、もう半年も前のこと――東頭さんが告白したときの、暁月さんの言葉。
水斗は、恋人なんて関係にはまったく拘泥していない――だから付き合うとしたら、本当に一緒に居たいと思った人だけ。
だけど、それはかつての私のことであって。
かつての彼のことであって。
彼はもう――誰かと一緒にいたいと思うことさえ、なくなるかもしれなくて。
選択肢を広く持つことを楽しめ、とお父さんは言った。
まるで、選択肢を広く持てない人間が――
すでに選んでいる人間が。
――他に、いるかのように。
「……………………」
ああ、もうすでに証明済みだ。
彼だけが孤高を貫き、私は変わることを選んだ。
そのせいで喧嘩して、別れたんじゃないか。
私たちの幸せの形が――理想の未来が――はっきりと、食い違っていることなんて。
とっくに、わかっていたことだ……。
◆ 伊理戸水斗 ◆
「では、伊理戸さんによろしく言っておいてくれ。気を付けて帰るんだよ」
そう言って、慶光院さんは夜の街に消えていった。
しばらくその背中を見送った後、結女が言う。
「帰ろ」
「……ああ」
クリスマスムードの街を、同じ家に向かって、僕たちは歩く。
僕たちは、義理のきょうだいだ。
男女である前に、同じ屋根の下に住む家族だ。
だから、考えなしにはなれない。取り返しのつく子供ではいられない。
家族のことを考えて、将来のことを考えて、行動しなければならない。
ずっと、考えていたことだ。
ただ、答えが出ていなかっただけで。
「……ねえ」
少し後ろを歩く結女が、不意に言った。
「将来って、どうするか、考えてる?」
ちらりと振り返った。
何かを求めるように、結女は僕の顔を見上げていた。
「どうした、急に」
「さっきお父さんに、そんなこと訊かれたでしょ。だから、あなたも」
僕は横に目を逸らし、それから夜空を仰ぐ。
吐く息が、少しだけ白く凍っていた。
「わからない」
白い息が夜気に溶けていくのを見上げながら、僕は言った。
「正直さ、今やっていることが面白すぎて、未来のことなんかどうでもよく思えるんだ」
「……今やっていること?」
「いさなの才能を、育てること」
今まで躊躇っていたのが嘘みたいに、するすると白状する。
「あいつの才能は本物だ。まだちゃんとやり始めて二週間程度なのに、本当に見る見る上手くなってる。ネットでの評価も、徐々に広まりつつあってさ。それが嬉しくて、面白くて、仕方がないんだよ」
イラストSNSでの固定ファンが付きつつあるのを見て、すでにツイッターのアカウントを開設している。
フォロワー数はまだ微々たるものだが、毎日確かに増え続けていて、最初のイラストなんかもう『いいね』が100以上も付いている。
目に見えて表れる結果に、僕は確かな手応えと、興奮を感じていた。
「こんなに自分から、何かを『やりたい』と思ったのは、初めてなんだ」
ずっと、自分を探すかのように、本を読み続けてきた。
だけど、いくら誰かの人生を吸収しても、僕の中から湧き出てくるものはなかった。
そんな僕から、初めて湧いて出た願望。
東頭いさながどこまで行けるのか――それを知りたいと、僕の心は叫んでいる。
「だから――まだちゃんと決めてないけど――そのために役立つ道が他にあるなら、京大には行かないかもしれない」
僕は努めて、軽く言う。
「君の進路は京大だろう? 洛楼で、学年首席で、しかも生徒会役員までやってたら、ほとんど既定路線だよな。そのときはもしかすると、別の大学になるかもしれない――ようやく、ってところか」
皮肉を感じて、僕は笑った。
元々、結女と別の学校になるために受けた高校だった。それがお互いに同じことを考えていたせいで、こうなって。
今度は、別々のことを考えているから、当たり前に別の学校になる。
二年も先の、遠い未来の話だけど。
選択肢を広げる彼女と、選択肢を決め打ちしている僕とでは、同じ道は歩きえないんだ。
――ああ。
否応なく、腑に落ちる。
納得してしまっていた。得心してしまっていた。それも仕方がないと、理解してしまっている自分がいた。
その物分かりの良さが証明している。慶光院さんが言っていたことの正しさを。
僕の幸せの形は、もう決まっている。
僕はすでに、使命を帯びてしまっている。
僕には、結女のことが好きだという感情はあれど、彼女との家庭を成功させようというモチベーションはない。
もう少しだけこのままで。
自然と、そう願っていた理由がわかった。
これ以上進んだら、気付いてしまうからだ――僕では、結女を幸せにすることができない、ということに。
凍った息が溶けていく。
一緒に、子供の夢も消えていく。
神様が仕掛けたトラップに、僕たちは翻弄された。
けれど、ようやく今になって、はっきりした。
僕たちはお互いに、運命の相手じゃない。
「――やだ」
右手が掴まれた。
冷たく凍えた細い指が、ぎゅっと子供のように、僕の手を捕まえていた。
「やだ。そんなの……やだ」
幼い言葉だった。
だけど、確かな言葉だった。
結女は必死な顔で、僕の目を見つめていた。
「私と、一緒にいてくれないと……やだ」
「……君……」
それは、決定的な発言だった。
これまで冗談に包んで、思わせぶりに誤魔化してきたことに、決定的な意味を与える発言だった。
なのに、結女はふるふると首を横に振る。
「言わない。言ってあげない。今度は……あなたから、言わせてやらないと」
前も、君からだったから。
「だから」
僕の腕を全力で抱き締めて、凍った息を僕に流し込むように、間近から結女は告げた。
「絶対に……逃がさないから」
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