東頭いさなは恋を知らない〈上〉


 友達ってなんだろう。

 開口一番、いかにも友達のいない奴っぽい問いを投げかけてしまったけれど、実際のところ僕は、友達を作った経験が皆無に等しい――小学校、中学校と周囲との交流に興味を抱かなかった僕は、だから生きるのに必要最低限の『知り合い』しか作ってこなかったように思う。

 高校に入って話すようになった川波小暮にしても、同士、仲間、あるいは被害者の会みたいな側面が強く、ヤツ自身は友達を名乗るだろうが僕的にはどうにもそんな感じじゃあない。


 それじゃあ、友達ってなんだろう。

 どうなれば友達ってことになるんだ?


「おっと、友達の定義の話ですか、水斗君? これは不肖、この東頭ひがしらいさな、数少ない得意テーマと言えますよ」


 図書室の窓際空調の上に体育座りをする女、東頭いさなは言った。


「人間関係のグラデーションの中で、友達判定のボーダーをどこに引くかという話でしょう? 名前を知ってれば友達なのか、話したことがあれば友達なのか、LINEのIDを交換すれば友達なのか――興味深いテーマじゃないですか! 根掘り葉掘り議論を深めましょう!」

「このテーマでそんなにテンションを上げられる奴を僕は生まれて初めて見たよ、東頭。それと『根掘り葉掘り』ってそれで使い方合ってるのか?」

「だって考えてもみてくださいよ。友達ボーダーをどこに設定するかによっては、今朝方わたしに提出物の進捗を確認してくださった日直の方も友達ということになるかもしれないんですよ?」

「友達ボーダーの恣意的運用を即刻やめろ」

「仲のいい子がイジメの標的になったときも無理なく『あんな子、別に友達じゃないし』と言い張ることが可能です。なんと。これは革命ですね!」

「君みたいな奴に友達はできないよ!」


 友達の定義がわからない僕でも確かに断言できる唯一の事実を教えてやると、東頭は表情に乏しい顔を抱え込んだ膝に乗せた。


「それは矛盾というものですよ、水斗君。クレタ人のパラドックスって知ってますか?」

「知ってるよ。ちなみに悪魔の証明もヘンペルのカラスも知ってるからな」

「ひいい、わたしの論理学ウンチクが先んじて全部潰されました」

「僕相手にライトノベル由来の知識でマウントを取れると思わないことだな。で、嘘つきを名乗る嘘つきの話がなんだって?」

「わたしに友達ができないって言うなら、今こうして楽しくお喋りしている水斗君はなんなんです?」


 東頭はきょとりと小首を傾げて、隣の僕を見た。


「まさにそういう話をしていたつもりだったんだけどな。僕にとって君は、君にとって僕は、一体なんなんだと思う?」

「わたしは友達だと思ってますよ? もし水斗君がイジメられたら、きっと一緒にイジメられてあげると思います」

「助けろや。頼りにならない奴だな」

「それほどでもー」


 表情筋を動かす代わりに、ゆらゆらと身体を左右に揺らす東頭を眺めて、僕は思う。

 僕がイジメられても他人の振りをしない――むしろ苦しみを分かち合ってくれるというこいつは、ならば親友というやつではないのか、と。


 ――さて。

 そろそろ説明が必要な頃合いかもしれない。

 いきなり出てきて僕と楽しくお喋りをしているこの女は、一体どこの誰なのか、と。


 まあ、実際のところ、今更説明することなんて何もない――今し方、東頭自身が言った通り。

 東頭いさなは、僕の友達だ。

 ただし。

 僕の人生において、最も意気投合することのできた、友達である。


 きっと僕は、彼女以上の友達に出会うことは一生ないだろう。

 彼女もまたきっと同じだ、と断言することに、一切の躊躇がないくらいには。




※※※




 元より足繁く通っていた図書室は、ここ最近になって完全なる行きつけになった。

 授業を終えて教室を出た僕は、意識するまでもなく自然に、図書室の方向へ足を向ける。


 放課後の図書室はいつも人気がない。

 今日も読書スペースには人っ子一人おらず、カウンターの中で眼鏡の図書委員が静かに読書をしているのみだった。テスト期間中のごった返し具合が嘘のような無人ぶりだ。

 とはいえ、無人なのは入口から見たときの話である。

 入口から見て対角。本棚によって死角となる図書室の隅に、僕は移動した。


 図書室の窓際には、建物と一体化する形で設置された空調設備がある――まるで棚のように内側にせり出したそれの上に、女子が一人、堂々と体育座りをしていた。

 学校指定のローファーを床に置き、丸めた靴下をその中に突っ込んで、その女子は裸足になっていた。空調設備の角に踵を置いて、白い指をくにくにと動かしている。スカートで体育座りなどしては下着が見えてしまいそうなものだが、そこは慣れたもので、うまく足でスカートの裾を押さえていた。

 猫のように背中を丸めて自分の膝に顎を乗せ、ぼーっとした目で眺めているのは1冊の文庫本だ。表紙を見て一目でわかった。『涼宮ハルヒの消失』である。


「よう、東頭。今日はハルヒの日か」


 話しかけながら、僕はその裸足体育座りの女子――東頭いさなの隣に浅く腰掛けた。東頭のように、本来座るためのものじゃない空調設備に全体重を預けるのは、なんとなく気が咎めるのだ。


「違いますよ、水斗君。今日は長門の日です」


 ぺらりとページをめくりながら、東頭は言う。


「小柄な眼鏡っ娘に慕われたい気分なのです。『消失』の長門は何度読んでも最かわですね。こういう彼女が欲しいです」

「自分で眼鏡をかけたらいいんじゃないか?」

「はあ~……やれやれ、まったくわかってませんね、水斗君は。それは恋愛ゲームをやってる人に、『画面が暗くなったときに映る自分の顔だけ眺めてれば?』と言うのと同じですよ?」

「そう言われると血も涙もない意見だが、それ本当に同じか?」


 同じですよ? と言われたら、反射的にそうかぁ、同じかぁ、と思ってしまうけども。


「水斗君は思ったことないんですか? 健気でちっちゃっくて眼鏡な彼女が欲しいって。人間性を疑います」

「疑うな。君の中では眼鏡の彼女を欲しがらない人間はサイコパスなのか」

「そうです」

「そうなのか……」


 そうらしい。

 ちっちゃくて眼鏡と言うと、僕の脳裏には南さんの変装モードが思い浮かんだけれど、健気で、という条件を付加すると別の顔に切り替わった。

 ……まあ、だとしたら、欲しくなったことがないと言うと、嘘になってしまうな。どうやらサイコパス認定は免れたようだ。


「というか水斗君って、キャラ萌えの話、全然しませんよね。恥ずかしがらなくていいんですよ? わたしにだけは教えてください、初恋の人はアスナだって」

「恥ずかしがってないし、アスナにガチ恋したこともない」

「え? 御坂美琴? なるほどそっちで来ましたか……」

「なんでそこまでラノベキャラで初恋させようとするんだよ!」


 普通にリアル人間だったっつの!


 今更言うまでもないと思うが、東頭いさなはライトノベル読みである。

 女子にしては珍しい――かどうかは知らないが、少なくとも僕は、こいつほどライトノベルを読んでいる女子を他には知らない。


 月に100冊から出版されるライトノベルのうち1割くらいは読んでいる! と豪語する彼女は(学生の財布では月10冊くらいが予算の限界なのだ)、根っからの濫読派たる僕と非常に相性が良かった。

 バトル、ラブコメ、SFにミステリ――ライトノベルってやつは様々なジャンルを闇鍋的に包含するものなので、ひとつのジャンルに留まらない読み方をしている僕の話にも、ある程度ついてこられるのだ。


 例えば、僕がラヴクラフト作品の話を振ると『ニャル子さん』の話で返してくるし、太宰治の話を振ると『「俺ガイル」ってラノベ界の「人間失格」だと思うんですよねー』と返してくる。

 完全にミステリの――それも本格ミステリの話しかできなかったどっかの誰かとは大違いだった。


 東頭とこの図書室で出会ってからまだ数日だが、僕らは他に趣味の合う読書仲間がいなかったのもあって、毎日放課後に顔を合わせて一緒に本を読んだり、スマホでどうでもいい雑談をしたりする仲にまでなったのだった。

 そんなに打ち解けているのになぜ敬語なのかといえば――


「だって、敬語で喋らなきゃいけない人とタメ口で喋っていい人がいて、ややこしいじゃないですか。だったら誰に対しても常に敬語で喋ったほうが楽じゃないですか?」


 ――とのことだ。

 ややこしくなるほど喋る相手いないくせに、結構な効率主義である。


 出会い頭には多少言葉を交わすものの、僕と東頭は基本、互いに無言で本を読んで過ごす。

 そもそも図書室は私語厳禁だしな。隅っことはいえ自重は必要だ。

 たまに『おっ』と思う文章やイラストを見つけたりすると、これこれと共有したりすることもあるが、まあ基本的には、読書家――というかオタクが二人、隣同士に座っているだけなのであった。

 そうしているうちに、下校時間が迫ってくる。


「……あ。もうこんな時間ですか」


 んしょっ、と東頭は、窓際空調の上に体育座りをしたまま、床に置いた靴と靴下にぐぐっと手を伸ばす。が、


「……届きません。やれやれ。わたしのおっぱいがもう少し小さければ……」

「自己顕示欲を抑えろ」


 体育座りをしている今は膝に半ば押し潰される形になっている東頭の胸は、なるほど確かに、自称フェミニストに難癖をつけられそうなくらい立派なものだ。他に自慢できることがないからか、東頭は自分の巨乳をやたらと鼻にかける傾向がある。


「水斗君、靴と靴下履かせてください」

「今日もかよ」

「苦しゅうないです」

「味を占めやがって……」


 催促するように素足をくねくねさせやがるので、僕は東頭に靴と靴下を履かせてやった。まるで幼児の相手をしているようだが、東頭的には執事に世話をされているようで気分がいいらしい。

 東頭は数時間ぶりに床に足をつけると、


「じゃあ、帰りましょー」 

「ああ」


 僕の隣に並んで歩き、一緒に図書室を出た。

 途中まで通学路が同じなので、そこまでは同道するのが恒例なのだ。


「どうして片目隠れ巨乳美少女に心を惹かれるようにできてるんですかね、わたしたちは。これはDNAのセキュリティホールじゃないでしょうか」

「勝手に僕を含めるな。僕は片目隠れ巨乳美少女などにうつつを抜かしはしない」

「またまたご冗談を」

「やめろ! 片目を隠すな巨乳女!」


 自己申告によると驚異のGカップだと言う東頭は、歩きながら前髪で片目を隠してみせてくる。この女、自分のスタイルをネタにすることに1ミリも躊躇がない。

 と、そんな風にしょうもない話をしながら、昇降口までやってきたときだった。


「「……あ」」


 見覚えのある二人が、僕たちを見て声を上げた。

 黒髪ロングの優等生ぶった女子と、ポニーテールの小動物ぶった女子だった。

 伊理戸結女と南暁月である。


「伊理戸くんじゃーんっ! いま帰り~?」


 南さんが明るい声を上げ、てけてけっと軽い足取りで近付いてくる。


「図書室にでも居残ってたのっ? ……って、そっちの子は……?」


 南さんに視線を向けられるなり、東頭はさっと僕の背中に隠れた。


「よ、陽の者です……! 陽の者ですよ、水斗君……!」


 まるで天敵に出会ったリスか何かだ。体格は小柄ってほどでもないくせに(160センチは超えているだろう)、南さんよりもよほど小動物っぽい。

 僕も陰の者の端くれだから、彼女の気持ちもわからないではない。ぎゅっと僕の制服の背中を掴む彼女をそのままにして、南さんに言う。


「彼女は東頭いさなだ。最近知り合って、気が合ってさ。クラスは……3組だっけ?」

「は、はい……1年3組です……」

「まあ、見ての通りの人見知りだから、距離感を慎重に見極めてくれ」

「……最近知り合って、気が合って? へえ~……」


 南さんが僕の背中を覗き込むようにすると、東頭はその目から逃れるように僕の側面に回った。その態度はさすがに失礼じゃないか?


「伊理戸くんがそんな風に言うって、珍しいね? よっぽど仲いいんだ?」

「そうかもな」

「結女ちゃんにはもう紹介したの?」

「あいつにはまだ――」


 遠巻きにこっちを見やる結女に目を向けると、


「…………ふううううう~~~~ん…………」


 結女はすっと目を細め、さらりと黒髪を翻して、背中を向けた。


「……早く行きましょ、暁月さん。校門閉められちゃう」

「ん、あー、そうだねっ! それじゃあ伊理戸くん、また明日っ!」


 南さんはまたてけてけと結女のもとに戻り、二人連れ立って去っていった。

 その後ろ姿が小さくなってから、東頭はようやく僕の背中から顔を出す。


「……あの高嶺の花系の美人さんはお知り合いですか、水斗君?」

「僕の妹だ」

「妹さん?」

「義理のな」

「義理の!?」


 なんで義理のほうがリアクションがデカいんだ。


「あわわわ……主人公……ライトノベルの主人公がここにいます……」

「そう思ったことがないかと言ったら嘘になるから否定しづらい……」


 そのうえ元カノだと言ったらどういう反応をされるんだろうな。

 東頭は鼻息を荒くして、ずいっと詰め寄ってきた。


「ぜひいろいろお聞きしたいです。義理とはいえ妹ですから、やっぱりブラコンなんですか?」

「歪んだ価値観を常識のように押しつけるな。妹とブラコンはイコールじゃない」

「そうなんですか?」

「ブラコンというのは伝説上の生物だ。ウィキペディアにも載っている」

「そうなんですか!?」


 てしてしとスマホで調べ始める東頭を放置して、僕は靴を履き替えた。


「載ってないんですけど!」

「[要出典][独自研究?][どこで?][誰に?]のタグが付いてたからさっき消された」

「編集者の妄想じゃないですか!」


 そんな感じで、僕たちは帰宅の途に就いた。






「……ねえ」


 夕食後の弛緩した一時。リビングのソファーに座って文庫本を読んでいた僕に、後ろから結女が声を掛けてきた。

 何かを押し殺したような、平静を装ったような声に聞こえたけれど、まあ考えすぎだろう――僕はページをめくり、


「あん? なんだ?」


 と、ぞんざいに答えた。この女に話しかけられて、平和な結末に終わったためしがない。多少は刺々しくもなろうというものだ。

 そして案の定、結女がおずおずと口にしたのは、恐ろしく面倒臭い発言だった。


「……あなた……あの子に、下の名前で呼ばれてるのね?」


 僕は文字を追う目を止める。

 座ったまま、ぐるりと背後に首を回す。

 そこにいた義妹の顔を見上げると、ふいと視線を逸らされた。


「……東頭のことなら、確かに呼ばれてるが、それが、なんだ?」

「…………いや、べつに……」

「何か文句があるんじゃないのか」

「……べつに……」


 その声に、少しだけ拗ねたような響きがあるのを、僕は聞き逃さない。

 ……やれやれ。

 何を言いたいのか全然わからない――というのであれば、まだ楽だったんだけどな。

 僕は溜め息をついた。


「君だって呼んでるだろうが。『水斗くん』って」

「それは、だって……ただの演技だし……」

「大体、君だって南さんからは名前呼びだろう。僕はそれに文句を付けたことが一度でもあったか?」

「いや、それは……! 南さんは同性じゃない! あの子は異性でしょ!?」

「……はあ」


 僕はもう一度、目一杯嘆かわしげに溜め息をついて、リビングに父さんたちの姿がないことを確認する。


「君の言いたいことはなんとなくわかる。遺憾ながら、そこそこ長い仲だからな。……要するに、付き合ってた君とはついぞ苗字呼びだったのに、出会ったばかりの東頭はいきなり名前呼びってのが気に食わないんだろ。めんっどくさい奴だな。付き合ってるならともかく、別れた男をそこまで束縛するか、普通?」

「…………それじゃあ」

「あ?」

「あなたは、私が、いきなり出てきた知らない男に、私が下の名前で呼ばれてても……気にならないの?」

「……………………」


 不安と不満がない交ぜになった問いに、反射的に、言われた通りの状況を想像してしまった――結果、僕は軽く舌を打つ。

 卑怯者。


「……わかったよ……」

「え?」

「やめてもらえばいいんだろ?」

「えっ……い、いいの?」

「もう議論をするのも面倒臭いよ」


 ソファーから立ち上がった僕を、結女は半眼になって睨んだ。


「……あなた、人のこと言えないでしょ」


 ジト目、声音、口元のかすかな緩み。

 それらには明らかに、勝ち誇ったものが滲んでいた。

 僕はムカついた。


「……なんだったら、君とも今から名前呼びにするか? それでバランスが取れるだろ」

「え……」

「――結女」

「ひあっ……!?」


 口にした瞬間、結女は耳を押さえて僕から間合いを取った。

 僕は逆に距離を詰めながら、


「どうした、結女? 風邪でも引いたのか、結女? 顔が赤いぞ、結女?」

「ちょ、ちょ、ちょおっ……や、やめっ……背筋がくすぐった……っ!」


 背中に虫でも入ったかのようにくねくねしながら逃げる結女に、僕は勝ち誇った笑みを向けてやった。


「おかしいなあ。どうして逃げるんだ? それとも君は、南さんに呼ばれたときにも毎回そうやって逃げるのか? ん?」

「こ、こ、このっ……!」


 結女の顔が屈辱と羞恥で真っ赤に染まる。ははは! 首を洗って出直すがいい!

 上機嫌のまま勝ち逃げしようとした僕だったが、その前に結女のほうが、ずんずんと近付いてきた。

 あれ、マズい。

 これまでの経験から本能的に危機を察知したが、背中を向ける寸前に、服の裾を捕まえられた。

 結女は囁く。


「――水斗」

「んげっ……!」

「どうしたの、水斗? きょうだいを呼び捨てにして何かおかしい、水斗? 逃げないでよ、みーずーとっ」


 耳から背筋に、ぞわぞわとした感触が幾度となく駆け回る。

 服を掴まれているから逃げることもできず、それでも少しでも離れようと足掻いているうちに、足がもつれてぼすんとソファーに腰が落ちた。

 結女が僕を見下ろし、ふん、と鼻を鳴らして勝ち誇る。


「これでおあいこね」

「……痛み分けだろ、どっちかといえば」


 苦々しく言って、はあ、とまたしても溜め息をついて天井を仰いだ。


「……このくだりは、できればもう少し早くやっておきたかったな」

「……本当にね」


 付き合っていた頃に名前で呼び合っていれば、こんな面倒な言いがかりはつけられずに済んだのだろう。

 だけど、実際には僕たちは苗字呼びを貫いた。

 そして、そのうち片方は、もはやすでに存在しない。


 ――うまいものだ、本当に。

 神様ってやつは、皮肉ってものが。






「――というわけで、できれば苗字で呼んでほしいんだが」


 翌日の放課後。

 いつものように図書室の隅で東頭と顔を合わせた僕は、忘れないうちにその旨を伝えた。

 まあ、およそ読書のこと以外では何も考えていないこいつのことだ、『え、はい。いいですよー』と簡単に聞いてくれると思ったのだが――


 右にこっくり。

 左にこっくり。

 ゆっくり順番に、東頭は大きく首を傾げた。


「ええっと……整理させてください」

「ん? ああ」

「水斗君の義理の妹である結女さんが、なんとなく、義理の兄がわたしに名前呼びされるのが嫌だと?」

「……そういうことになるな。正直、別の理由をでっち上げようかとも思ったんだが、まったく思いつかなかった」

「……あの、ええと……それって……」


 東頭にしては珍しく、困惑を露わにした目で僕を見つめる。

 僕は非常にばつが悪くなったが、こう言うしか仕様がなかった。


「……すまん。ブラコンは実在した」

「んん……んんんんー……それ自体は、わたし的には朗報なんですけど……」

「マジか」


 人差し指を自分のこめかみにぐりぐりと押し当てながら、東頭は難しそうに眉間にしわを寄せた。

 なんだ? 何を難しく考えることがあるんだ?

 しばらく、「んー」とか「むー」とか唸った後――東頭は、驚くほどはっきりとした声で告げた。


「ごめんなさい。納得しかねます」

「ん?」


 それは、いつもぼーっとしたこいつらしからぬ、歯切れのいい答えだった――それゆえに、僕は咄嗟に頭がついていかなかった。

 東頭は僕をまっすぐに見つめて言う。


「それって要するに、わたしが女だからダメなんでしょう? もしわたしが男だったら、妹さんはそんな文句を付けなかった。違いますか?」

「そ……それはまあ、そういうことになる……な」

「それっておかしいですよね。おかしいでしょう?」


 顔はいつも通り、表情筋がないんじゃないかって思うようなそれだ。

 しかし僕は、その瞳の中に、出会って初めてのそれを捉える。

 憤然とした輝き。

 東頭いさなは、怒っているのだ。


「要するにそれって、わたしたちの関係が、っていうかわたしが疑われてるんでしょう? わたしが水斗君に色目を使ってるって思われてるんでしょう? ただの友達で終わるわけないでしょって決めつけられてるんですよね? その一方的な決めつけで、わたしの呼び方が一方的に変えられようとしてるんですよね? それっておかしいですよね?」


 淡々とまくし立てられる言葉の数々に、僕は圧倒されていた。

 威圧感とさえ呼んでもいい。

 いつもは存在感さえ希薄な彼女が放つプレッシャーに、僕は何も言うことができなかった。


「すみません。そういうのはわたし、ちょっと許せないみたいです」


 東頭は無表情のまま、しかし不満感だけは毅然と表明する。


「ご本人を呼んでください。わたしと水斗君は本当にただの友達だってことを、ちゃんと説明します」






「ええと……本日はお日柄も良く……」

「……曇ってるけど」

「あわっ、あわわわわ……」

「テンパるな。さっきの毅然とした人間はどこに行った」


 ピーチ姫が攫われたときのキノピオくらいわかりやすくテンパっている東頭の前には、結女が座っている。

 学校からちょっと歩いたところにあるマクドナルドの中だった。

 4人がけのテーブルには、それぞれが注文したポテト、ポテト、ポテト、そしてポテトが置かれている。誰もバーガーを注文しなかった。

 ポテトが4つあるということはもちろん、メンバーは僕、東頭、結女の3人だけではなく――

 東頭はびくびくしながら、隣の僕の腕をぎゅっと握った。


「だ、だって……聞いてないですよぉ……陽の者が二人も来るなんて……!」

「どうもー☆ 陽の者でーっす♪」


 陽の中の陽、南暁月が、結女の隣でニコニコとピースした。

 陽の中の陽って、それは陰陽図で言うところの黒い点の部分ではないだろうか、それ陽に隠れ潜んだ陰じゃないのか――などと考えつつ、僕は南さんに不審者を見る目を向ける。


「……なんで君もいるんだ?」

「なんか呼び出されて怖いからって結女ちゃんが」

「ちっ、ちがっ……! 暁月さん!」

「えー? 違ったっけー?」


 結女にぐいぐいと腕を引っ張られ、南さんは嬉しそうにへらへらと笑う。


「いやあ、この3人だけだと話まとまんなそうだなって思ってさー、僭越ながら出しゃばることにしたんだよっ。ほら、正直全員、自分の気持ちとか話すの苦手なタイプでしょ?」

「「「……………………」」」


 陽の者の的確な指摘に黙る陰の者3人。


「まああたしは、話がよくわかんなくなったときだけ口出すからさ、気にしないでよ。ねっ。えーっと……東頭さん?」

「ひえっ。1回会っただけなのに顔と名前と性格を覚えられてます……。これが陽の者の力……」


 陽の者っていうか、それは南暁月個人のスキルだけどな。コミュ力が詐欺師と同レベルだから。


「……じゃあ、まあ、本題に入るけど」


 南さんは飽くまでオブザーバーのつもりらしいし、僕が議事進行を務めざるを得ない。


「東頭の意見を要約して言うと……君の勝手な思い込みで自分の呼び方を変えなきゃいけないっていうのが、納得できないそうだ」

「……勝手な思い込みって?」

「僕と東頭がただの友達じゃなくて、恋愛的な関係にある、ないしは将来的に発展するだろうっていう思い込み……だな」


 できる限り色気のない言い方を心がけたが、自分に絡んだそういう話をするのは、何とも面映ゆいな。

 結女は困惑するように眉をひそめた。


「男女が一緒にいるんだから、そういうこと……じゃ、ないの?」

「違います!」


 強く声を上げたのは東頭だった。


「わたしと水斗君はただのお友達です! くだらない邪推でわたしたちの友情を全否定されるのは我慢なりません! ね、水斗君!」

「いや、悪い。僕は友情とか真面目な顔して言えないタイプだ」

「あううっ! まさかの裏切り……」


 結女のほうから何か言いたげな気配が伝わってきた。でも何も言ってこないってことは、なんとなくわかっているんだろう、自分の要求が無理筋だってことが。


「……んー、まあ、話を聞く限り……結女ちゃんが変だよねえ」


 オブザーバー・南暁月も、東頭の肩を持った。

 意外だな。何が何でも結女の肩を持つかと思ったが。

 その隣で、結女が少し縮こまる。


「ごめんね、結女ちゃん? でもまあ、ただの義理のきょうだいに、友達の呼び方変える権利はないと思うなあ……。でも、一番変だと思うのはさ、伊理戸くんだよね」

「……僕?」


 急に水を向けられて、僕は当惑した。


「だってさ、普通、あなたの友達の呼び方変えさせてって言われて、はいわかりましたとは言わないでしょ」

「……いや、僕も一応、苦言は呈したんだが」

「でも最終的には聞いちゃったわけでしょ? めちゃくちゃ変でしょ。付き合ってるとかならともかく――」

「いや、付き合っててもおかしいです」


 空気をぶった切るように、東頭が口を挟んだ。

 無表情のまま、数学の公式を読み上げるように彼女は言う。


「たとえ恋人だったとしても、友達の呼び方を変える権利なんてないです」


 南さんは一瞬、ぱちぱちと目を瞬いたが、すぐに東頭に反論した。


「いや、確かに権利はないかもだけどさ、彼女的には不安になるものでしょ?」

「なんでですか? 友達なんですよ?」

「って言っても、男と女なんだから――」

「男と女だったら恋愛しなきゃならないんですか? 友達になっちゃダメなんですか?」


 憮然とした東頭の言葉に、彼女以外の全員が押し黙った。


「皆さん、なんだかおかしくありませんか? まるで男友達の彼女には気を遣うのが当たり前みたいな――恋愛関係って、そんなに無条件で優先されるものなんですか? 恋人より友達を優先したらダメなんですか? そこに上下なんてあるんですか? 女友達が男友達の彼女に対して気を遣わせたら、どうしてダメなんですか?」


 ある意味純真な、曇りのない目が、僕たちを見回した。


「きっと恋人と同じくらい、友達だって大事じゃないですか。異性でも同性でも、それって変わらないじゃないですか。大体、別に男女じゃなくても、男と男、女と女でカップルになる人もいますよね――だったら同性の友達でも、そういう疑いをかけるのが筋じゃないですか? どうしてそうしないんですか? どうして異性の友達にだけ、あらぬ疑いをかけても許されると思うんですか?」


 理路整然とした物言いだった。

 少なくとも直感的には、東頭の論旨には瑕疵が見つからなかった。

 だからこそ僕は、自己を省みる。


 僕は、自分でも無意識のうちに、結女のことを優先して考えていたのか?


 そうすべき理由は、そうしなければならない根拠は、そう、考えてみれば何もない――結女が不満を持つ謂われなど、何をどう考えてもどこにも見つからない。

 なのに僕は、結女の言い分を聞き入れて、東頭に配慮してもらうことを、当たり前のことだと考えていた……。


 考えてみよう。

 もし川波が僕のことを名前で呼んだとして、結女はこんな言いがかりをつけてきただろうか。

 いいや、つけてはこまい。南さんが結女を名前呼びするのに、僕がケチをつけないように。


 突き詰めれば、東頭が文句をつけられた理由は、たったひとつしかないのだ。

 ――女だから。

 たった、それだけ。


「今回の場合は彼女じゃなくて妹さんですけど、それにしたって、わたしのほうが一方的に、問答無用で遠慮しなきゃいけないって、まるで当たり前みたいに要求されたのが、すっっっっっっっっっっっごく頭に来ました」


 乏しい表情のまま、東頭は全霊で憤懣を表明した。

 そして、何も答えられないでいる僕たちに、幾度目ともしれない問いを投げる。


「わたし……何か、間違っているでしょうか?」


 僕はしばし、瞑目した。

 数秒間待ってみたが、誰からも、何の反論も上がらなかった。

 軽く息をついて……僕は言う。


「……東頭、君は間違ってない」


 瞼を開けて、隣の東頭を見た。


「間違っていたのは僕だ――すまない。そこまで説明されて、ようやく間違いに気が付いた……」


 そう言って頭を下げると、東頭は驚いた風に目を瞬いた。


「びっくりしました……。わたしがこういうこと言って、すぐに謝った人、初めてです……」

「ああ……。君、それで友達いないのか」


 そりゃあできなかろう。

 正論を言うことに躊躇がない奴ほど、付き合いにくいものはない。

 生きづらそうな性格をしている――僕も人のことは言えないけど。


「いや、ちょっと待って。二人で勝手にわかり合わないでよ伊理戸くん」


 僕と東頭の間で一件落着の空気が漂いかけたとき、南さんが固い声と表情で割り込んできた。


「東頭さんの言い分はさ、確かにわかるよ? 間違ってないと思う。でもさ、不安になるものは仕方なくない? じゃん。誰しもが東頭さんみたいに理屈で考えられるわけじゃないよ。ね、結女ちゃん?」

「……え、ええ……そうね」


 結女が我を取り戻したように曖昧にうなずいた。


「男と女が一緒にいるからって必ずしも恋愛関係じゃない。それはそうだよ? その通りだと思う。男女だからってそういう関係だって勘繰るのは一方的な決めつけだよね。

 友達より恋人が偉いわけじゃない。これもわかるよ。仲の良かった友達が彼氏できた途端に雑な扱いしてきたりすると、あたしもちょっとムカつくもん。

 ――でもさ、それはやっぱり理屈だよ。残念ながら、人って大体はバカだからさ。感情でしかもの考えらんないんだよ」

「……水斗君、水斗君」

「ん?」


 ふうむ確かに南さんの意見にも一理あるなあと思っていたら、東頭がちょいちょいと僕の制服の袖を引っ張った。

 そして小さな声で言う。


「女子高生がマックで世の中に鋭い指摘をしています……『マックの女子高生』実写版です……」

「ぶふッ!」


 僕はテーブルに突っ伏した。


「ちょっと今真面目に話してたんだけどっ!?」

「す、すみません……。つい思いついて……」


 ま、マックの女子高生……! ツイッター上の架空存在じゃなかったのか……! やばい、ツボに入った……!

 もう南さんの真面目な話を真面目に聞くことはできそうになかった。


「え、えーと……理屈上、男女の友情は成立はずだとしても、そうは思えない人はどうしてもいるって話ですよね?」

「そーそー。実際、浮気相手のことを『ただの女友達』って言い訳する男もいるわけでしょー?」

「むう。明らかに付き合ってるくせに『ただの幼馴染みだ』って言い訳する幼馴染みみたいなものですか……」

「いや、それは本当にただの幼馴染みだから」

「?」


 どうにか顔を上げると、東頭が南さんの強い否定に首を傾げたところだった。


「えっと……その件が、本題の本題なんです」

「本題の本題?」

「妹さんには、わたしと水斗君がそういう関係ではない、ということをしっかり証明して、安心していただこうと。わたしはブラコン妹の味方ですので」

「誰がブラコン妹!? ちょっと! この子にどういう説明したのあなた!?」

「それ以外にどう言えって言うんだよ!」

「いやまあ結女ちゃん、あたし的にも、そこを否定するのは難しいと思うなあ……」

「恥ずかしがらなくても大丈夫だと思います。妹は兄の彼女に嫉妬するものですから」

「ごめん東頭さん。その認識、『男女の友情は成立しない』の5倍くらいおかしいと思うよ、あたし」

「というか別に私、嫉妬なんかしてないんだけど!」


 結女の抗議は無視された。

 僕も無理筋だと思うので聞かなかったことにした。

 南さんが仕切り直すように言う。


「とにかく、ただの友達だって証明したいわけね? 具体的にはどうするの?」

「ええと……そうですね……これが難しい問題なんですけど。わたしたちが友達であることを証明することは非常に難しいです。そもそも友達の定義がよくわかんないので。だから背理法を採用するしかないです」

「えっ。なんか小難しい話になってきた」

「『わたしと水斗君は友達である』の逆――つまりこの場合、『わたしと水斗君は恋愛関係である』を仮定してみて、そこに矛盾が発生すれば、わたしと水斗君がただの友達であることを証明できると思います」

「ははーん。なんかよくわかんないけど、確かに、友達だって証明をするよりは、恋愛感情はないよーって証明するほうが簡単かもねえ」

「はい。ですけど、その……わたし、そういう経験がないので、どうやったら恋愛感情の有無を測定できるのかわからないのです。何かアイデアありませんか?」

「「ううーん」」


 南さんと結女が顔を見合わせて考え始める。

 その間に僕は東頭に尋ねた。


「東頭、それ、なんで先に僕に訊かなかったんだ」

「え? だって、水斗君は恋愛とか疎いでしょう?」

「決めつけるな」

「違うんですか?」

「…………まあ、そうだな」

「ほらやっぱりー」


 これ以上話すとボロが出そうなので引いておいた。

 結女と南さんとの間で、こそこそと会議が続いている。


「あたしか結女ちゃんが伊理戸くんとイチャついてみせるとか?」

「でもこの子、嫉妬しなさそう……」

「あーそっか」

「頭撫でるとかは? もし好きだったら――」

「えー? そんなんで喜ぶ女子リアルにいないよー。いくら好きな人でも不躾に髪触られたらムカつくでしょー」

「え゛っ。そうなの……?」

「……結女ちゃん?」

「な、なんでもないわ! そうよね! 髪とか触られたくないわよね!」


 しばらくの間、目の前で秘密会議が続いたが、やがて結論が出たのか、南さんが代表して僕たちに告げた。


「抱き合ってみて」


 は? 僕は眉をひそめる。


「抱き合うって……ハグしろってことか?」

「そ。少しでもそういう感情があったらさ、恥ずかしがるなり嬉しがるなりするはずでしょ?」

「それはそうだろうが……」


 僕は渋い顔をする。東頭と抱き合うのか……。

 結女が半眼で僕を睨んだ。


「なんで嫌がるわけ? ハグくらいで。……やっぱりそういう気持ちがあるってことじゃないの?」

「いや君、男女という枠をいったん取っ払って想像してみろよ。僕が川波にハグしてみろと言われたとして、やったぜ喜んでと抱きつくと思うか?」

「……むむ」

「おおー、なるほど! 気色悪いねっ!」


 友達に抱きつくというのは、基本、気色の悪いことなのだ。東頭だって同じはず――


「いいですよ」


 と思いきや、東頭はあっさりと承諾した。


「……いいのか?」

「別に? ほらまあ、女子は結構、友達同士で抱きついたりするじゃないですか。わたしも一応、生物学的には女なので」

「インターネット古代言語が似合う奴だな、君は……」

「へへへー」

「今のは貶したんだ」

「ショックです!」

「こらこら、イチャつくなー――って、こういうこと言うのがダメなんだっけ? あれ? でも男同士でも、イチャイチャすんなとか冗談で言うよねえ? こんがらがってきた。男女とは……性別とは……」


 南さんが答えの出ない問題に囚われて戻ってこられなくなる前に、ちゃっちゃと済ませてしまうことにした。


「どうぞー」


 東頭が僕に軽く身を寄せて平然と言う。

 すると、対面にいる結女と南さんがじっと僕たちに注目し始め、僕はにわかに緊張した。


「……なに緊張してるのよ。ただの友達なら緊張することなんてないでしょ」

「人は見られてたら自然と緊張するもんなんだよ!」


 女性経験が皆無というわけでもなし、このくらいに平然と済ませないと、僕との友情とやらを大切に思ってくれているらしい東頭に失礼というものだ。


 僕は遠慮がちに、東頭の背中に腕を回した。

 ゆっくりと力を込めてみれば、華奢な結女とはまったく違う感触が、腕と胸の中に広がった。

 あいつは小柄だったから、すっぽりと胸の中に収まるような感じだったが、東頭はなんというか、大きな抱き枕を抱いているような、全体的に柔らかな感触で――

 何より、胸に押し当てられた恐るべき質量のことを、意識しないでいることは難しかった。


「ふっふっふ。感じます感じます。わたしのクジラおっぱいに集中する水斗君の意識を……」

「煽るな。そういう風にならないことを証明する趣旨だろうが」

「あとでライトノベル1冊奢ってください。役得代として」

「……文庫本な」

「いえ、でっかいほうで。そう、わたしのおっぱいのように!」

「君もう二度と自分に自信のない根暗ネガティブ女ですみたいなツラすんなよ!」


 ――やっぱり、こいつは友達だな。

 改めて、僕は思った。

 そりゃあ、こうして抱き締めてみれば、本能的な心地よさがあることは否定しない。柔らかな胸の感触に多少はドキドキもするし、女子特有の甘い匂いに誘惑される感じもある。

 だけど。

 かつて感じたような、脳が痺れるような多幸感は……全然、感じないのだ。


 僕は、東頭から身を離した。

 名残惜しさは少しもなかった。

 東頭の顔も、赤みの欠片もない、平然としたものだった。


「……どうでしたか?」


 東頭が問いかけると、結女は複雑な顔で南さんを見て、南さんは苦笑いを結女に向けた。


「結女ちゃんからどーぞ」


 結女は溜め息をつくと、少しの間を置いて。

 頭を、下げる。


「……ごめんなさい。私の言いがかりでした」


 ふんす、と東頭が汽車のように鼻息を噴いた。


「どうやらわたしたちの友情パワーの勝利のようですね!」

「そのワード、抱き合うより恥ずかしいからやめろ。友達やめるぞ」

「ふええ~~~っ! 捨てないでください~~~~っ!! 教科書忘れたら誰に頼ればいいんですかぁ~~~~っ!!」


 冗談めかしてまた抱きつこうとしてくる東頭を、ぐいぐいと手で押しのける。

 そんな僕たちを見て、結女がふっと、ほのかに口元を緩ませるのが見えた。




※※※




 私たちは4人揃ってマクドナルドを出た。


「水斗君水斗君、CV高橋李依だと誰が好きですか?」

「めぐみん」

「わ~お、ロリコ~ン」

「……じゃあエル君」

「わ~お、ショタコ~ン」

「どうしろっつーんだよ!」


 私と暁月さんの前で、水斗と東頭さんがよくわからない雑談をしている。

 その後ろ姿を眺めながら、私はさっきの、東頭さんが水斗に抱き締められたときのことを思い出した。


 彼女には、本当に、これっぽっちも、恥ずかしがったり嬉しがったりする様子がなかったように見えた。

 もし。そう、もしの話だけれど、中学時代の私がああいう風に抱き締められたとしよう――たぶん、とても平静を保てなかったと思う。あまつさえ、その状態で平然と会話するなんてこと……。


 ……なんでだろう。意外なくらい、ほっとしている私がいる。

 まあ実際? 東頭さんがこの男の彼女になろうがなるまいが、私の知ったことじゃないんだけど?

 ……でも、なんというか――そう、かつてあの男は、私に友達ができただけのことに嫉妬した。そういう風に、私はならなかった。それが嬉しいのだ、きっと。うん。


「あ、わたしはこの辺りで」


 分かれ道に行き当たったところで、東頭さんが言った。

 私たちはめいめいに別れを告げる。変に疑ってしまったことをもう一度謝ると、彼女は「いえいえ、大丈夫ですよー」と大きな胸の前で手をわたわた振った。

 ちょっと変わったところはあるけど、悪い子ではないのだろう。


「なあ、東頭」


 そんなとき、水斗が真剣なトーンで言った。

 東頭さんが「はい?」と小首を傾げると、水斗はその目をまっすぐに見て続ける。


「これからも、思ったことがあれば空気を読まずに言ってくれ。その程度で鬱陶しがったりはしないから」

「……あ……」


 瞬間、東頭さんは目を軽く見開いて。

 視線を横に逸らし。

 あちこちに彷徨わせ――

 ――またちらっと水斗を見た。


「…………はい」


 そして、か細い声で答えながら、小さくうなずく。

 ……ん?

 んんんんん?


「じゃあな。また明日、図書室で」

「は、はい。図書室で……」


 東頭さんはお腹の前で小さく手を振ると、くるりと背中を向け、少しだけ弾んだ足取りで歩き出した。

 私は、暁月さんと顔を見合わせる。


「……見た?」

「……見た」


 ほのかに口元を緩ませ、視線を揺らしたあの表情。

 ほんのわずかにトーンの上がった声。

 あれは――


 私は暁月さんとうなずき合った。

 そして水斗に告げた。


「「ちょっと野暮用が」」

「は?」


 水斗をその場に捨て置いて、私たちは全力疾走で東頭さんを追いかける。

 その肩を、二人で捕まえ。

 その耳に、両側から口を寄せ。

 稀代の大女優に、同じ言葉を囁きかけた。


「「(ちょっとツラ貸してもらおうか。恋する乙女さん)」」

「ええええっ――――!?」

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