元カップルの日常スナップショット 慣れた頃が一番危険
人間は慣れる生き物だ。
地獄のような同居生活も2ヶ月が経って、僕たちもそれなりに生活に順応してきた。住めば都……とはまた違うが、さしたる緊張感もなく、元恋人と一つ屋根の下というこの異常な環境下で過ごすことができるようになってきたのだ。
それが間違いだった。
何事も、慣れた頃が一番危険である――全人類が肝に銘じておくべきこの金言を、僕たちは迂闊にも失念してしまっていたのだ。
もし僕たちが、この生活が始まった頃の緊張感を、今も維持できていたのなら。
あんな悲劇は、決して起こらなかったことだろう……。
6月には珍しく、その日はよく晴れていた。
――のは、夕方の午後4時までだった。
スマートフォンをちょっと覗けば一時間単位で天気がわかる現代にあっても、完全なる予知というやつは未だ見果てぬ夢のようだ。科学技術の予想を裏切って降り注いだ夕立に、だから僕は何の対抗手段も持っていなかったのだった。
土砂降り。
ずぶ濡れ。
袖から裾から髪先から、ありとあらゆるところから雫を滴らせた状態で、僕は玄関のドアをやっとの思いで潜り抜ける。
「……あー。くっそぉ……」
思わず悪態をつきながら、胸元に抱えていた通学鞄の中をそっと確認する。持参していた本が濡れていないか心配だったのだが、案の定、角のほうが少し濡れていた。ぐぬぬ。傘を準備しなかった僕の責任とはいえ、舌打ちのひとつもしたくなろうというものだ。
……とにかく、着替えだ。
下着まで濡れてしまったから、ついでにシャワーも浴びてしまおう。
僕は廊下にぽたぽたと水滴を垂らし、ああ後で掃除しないとな、などと思いつつ洗面脱衣所に向かい、扉に手を掛けて――
ノックもせずに。
――開いた。
「……………………」
「……………………」
そして、目が合った。
扉の向こうにいた、一人の女と。
長い黒髪を湿らせた、一人の女と。
一糸纏わぬ姿の――一人の女と。
「……………………」
「……………………」
凍りついたような時間の中で、僕は助けを求めて視線を走らせた。
下着はちゃんと着けていた、とか。
湯気でよく見えなかった、とか。
そういうオチを期待して、状況をよく確認した。
裏目だった。
結果として、僕の行為は目の前の女が全裸であることと、視界が明瞭であることとを証明してしまい。
太股とお尻の間の丸い段差や、そこから腰にかけての曲線や、薄く浮いた肋骨や、意外と大きな膨らみに伝う水滴に至るまで、しかと目に焼き付けてしまい。
ぺたん、と、その女が――伊理戸結女が、その場にへたり込んだ。
僕は、無言のまま、ぴしゃりと洗面脱衣所のドアを閉め。
ずりずりと、やはりその場にへたり込んだ。
……瞼の裏に、ほのかに上気した白い肌が焼きついている。
小振りなお尻が、細い腰が、お椀型の膨らみが焼きついている。
しかし、僕の胸に去来するのは、興奮なんかじゃなくて。
喜びでも、申し訳なさでもなくて。
――――ついにやらかしたあああ――――っ!!
……という、深い後悔だけだった。
我が家の洗面脱衣所には、とある取り決めがある。
誰かが入浴するときは、ドアに掛けてあるプレートを『入浴中』に裏返すこと。
年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすための、最低限必要な取り決めだ。それは僕とあの女にとっての自衛行為でもあった。
中学のときならともかく、今更、こいつに裸なんか見られたくない。
何より、そんなベタなラブコメみたいな展開にだけは陥りたくない。
川波小暮のニヤニヤ笑いが目に浮かぶようだ。いやはや、漫画の影響力というのは馬鹿にならないもので、僕たちが同居していると知った連中は必ず『着替えに遭遇したりしないの?』と訊いてくる。そういう連中の期待に添うのだけは御免こうむりたかったのだ。
なのに。
だというのに!
自室に逃げ帰った僕は、今更のようにふつふつと怒りを沸き立たせる。
さっき見たが、洗面脱衣所のプレートは『入浴中』になっていなかった。
あの女も僕と同じく急な雨に降られて、一刻も早く風呂に入りたかったのだろう。そのせいで裏返し忘れたに違いない。
だとすれば、この事故はあの女のほうに責任があるのでは?
僕のせいではないのでは?
確かにノックはしなかったし、玄関にあの女の靴があるのにも気付かなかったが、僕がこそこそ逃げ隠れるようなことではないのでは!?
「――水斗くーん? いるー?」
コンコン、と部屋がノックされて、僕の継母――由仁さんの声がした。
僕はビクッと肩を跳ねさせつつ、平静を装う。
「由仁さん、今日は帰るのが早いですね……?」
まさかあの女、由仁さんに助けを求めたのでは……? 僕に着替えを覗かれたとかデマを吹き込んで、自分の過失をうやむやにしようとしているのでは……?
そんな警戒をする僕に、由仁さんは朗らかな声で言った。
「今日は早く終わったの~♪ それでね、ケーキが安かったから買ってきたんだけど、下で一緒に食べない? あんまり置いとくと痛んじゃうから」
「ああ、はい。わかりました……」
僕は内心安堵する。この様子なら、あの女が告げ口したということはなさそう――
「結女も一緒だから、早く降りてきてね!」
去り際に由仁さんが残した言葉に、僕は全身を硬直させた。
……結女も一緒?
由仁さんがいる場で?
…………これから?
「………………………………………………」
僕ら……この状態で、仲良しきょうだいのフリするの?
そういえばずぶ濡れのままだったので部屋着に着替え、濡れた制服を事故現場――もとい脱衣所の籠に叩き込むと、僕はリビングに入る。
瞬間、ダイニングテーブルに着いていた女がビクッと震えた気がした。
視線を送っても、目を合わせようとしない。
ドライヤーをかけたのか、長い黒髪に湿り気はもはやなく、もちろんというか、身体には部屋着のニットワンピースを纏っていた。顔が少し赤く見えるのは風呂上がりだからだ。そうに違いない。そういうことにしておく。
「来た来た。水斗くんはケーキ、何が好き~?」
結女の隣で、由仁さんがほわほわとした独特の雰囲気でケーキの箱を開く。しかし僕の意識は色とりどりのケーキ各種ではなく、空いた二つの席に向いていた。
……僕の定位置は結女の向かい側だ。
できれば今はそこに座りたくない、が……いつもと違うところを見せれば、僕らの間に何かあったのかと由仁さんに勘繰らせてしまうかもしれない。
「……ケーキの好みは、特に。余ったのでいいです」
と答えながら、僕は極めて自然と、結女の対面の席に座ることに成功した。
ちらりと正面に視線を送る。
今度はバチリと目が合った。
その女の頬に差した赤みが、いっそう色濃くなった気がした。
動揺する自分を噛み殺す。思い出すな、思い出すな、思い出すな。僕は覚えてない。こんな女の裸なんぞに割く記憶容量など1バイトもない。だから重ね合わせるな! ついさっき脱衣所で見た光景と、正面にいるニットワンピの女を! 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経……。
「結女はチーズケーキよね?」
「う、うん……」
「じゃあわたしはショートもらおうかしら。水斗くんはチョコでいい?」
「はい。大丈夫です」
「あ、お湯湧いた。お紅茶入れてくるわね!」
席を立ってキッチンに向かう由仁さんを見送りつつ、僕は一息つく。
この調子だ。視線は合わせず、言葉は最低限。ケーキを食べるだけならこれで充分。後はそれぞれ、とっとと自分の部屋に退散してしまえばいい。
「……………………」
「……………………」
取り残された僕たちの間に、居心地の悪い沈黙が漂った。
別に敵意を送っているわけじゃない。どころか目すら合わしていない。
しかし、視界の端に、結女が自分の身体を抱くような格好で、右手で左の二の腕を掴むのが見えた。
あるいはそれは、本能的な自衛意識の発露なのかもしれないが、結果としては胸の膨らみを強調する形になっている。
いや、まさか、この女、わざとか。いつだかにバスタオル1枚で誘惑してきたときのように、僕の反応を楽しんでいるのではあるまいな。
疑心暗鬼になって、ただ表情を固まらせることしかできなくなっていると、由仁さんがポットとティーカップを持って戻ってきた。
それに安堵している僕がいる。さっきは由仁さんがいることに緊張していたのに、いなくなったらなったで二人きりの空気に耐えられないとは。あっちも地獄こっちも地獄。前門の虎後門の狼。ダブルバインドのデッドロック状態だ。
ここは三十六計逃げるに如かず。
生まれて初めてのケーキの早食いと洒落込む他にない!
「そういえば二人とも、学校はどんな感じ?」
決意と共にフォークを握り込んだ僕の機先を制するように、由仁さんがゆっくりとした口調で言った。
僕らの前に湯気の立つティーカップを置き、
「進学校ってどんなところ? わたし、高校は普通の公立だったから気になって~」
自分のティーカップを両手で持ち、にこにこと笑う由仁さんを見て、僕は絶望感に包まれる。
これは……完全にお喋りモード。
僕たちの話の聞き手に回ろうという体勢!
僕はちらりと正面に目配せする。
同時、その女も視線を送ってくる。
冗談だろ? この状態で何を話せと?
くっ……! しかし、由仁さんの前では仲のいいきょうだいを演じなければならない。ただでさえ中間テストのときにド派手に喧嘩してしまっているのだ。今は僕ら二人して、必死にあの件を誤魔化している最中なのだ。
「し……進学校って言っても、別に普通だと思う、けど。ねえ?」
口火を切った結女が、早速僕に水を向けてくる。
僕はチョコレートケーキにフォークを入れて意識を逸らしつつ、
「そう……だな。テスト期間の本気度は、中学とは段違いだったけど」
「そうね。あのときは学校中ピリピリしてた」
「生徒も、真面目な奴もいれば川波みたいなのもいるし」
「川波くん、あの髪でなんで怒られないの? 茶色いし髪先遊びまくってるけど」
「怒られてもやめないだけじゃないか?」
「ある意味尊敬するわね、その胆力……」
少しぎこちないながらも、何とか和やかな会話を続けることに成功する。やればできるじゃないか、僕もこの女も。
全身に籠もっていた力が少し抜けた。リラックスしようと、テーブルの下の足を前のほうに伸ば――
「テスト期間といえば暁月さんが――ひゃんっ!」
――すと、裸足の指先に何かが触れた。
……それは、他人の足だった。
持ち主はたぶん、正面に座っている女。
急に変な声を上げた結女は、テーブルに突っ伏してぷるぷる震える。
……す、素足が当たったくらいでなんだよその反応は……。
このくらい、今までだっていくらでもあっただろ!
「どうしたの結女? 大丈夫?」
「……だ、大丈夫……。あ、足を、足の指を、椅子の脚にぶつけただけ……」
俯けた顔は、風呂上がりゆえとは言い切れないほどに赤くなっているように見えた。
それは、なんというか、足が触れたことそのものというよりは、たかが足が触った程度のことに過剰に反応してしまった自分に恥ずかしくなっているような雰囲気だった。
……ふうん?
なんだろう。その様子に、じわじわと込み上げてくるものがある。
これは……もうちょっと、確認してみなければ。
「それで、南さんがどうしたって?」
言いつつ、僕はテーブルの下で足を伸ばす。そして、正面に座る奴の足を再び見つけ出すと、その指と指の間を、親指を使って撫でた。
「…………っ!?」
ピクッというかすかな反応に抑え込みながら、結女は僕の顔を睨む。
僕は表情を変えないまま頬杖をついた。
それで僕の意図を悟ったか、結女は顔を上げる。
「自習室の席が取れなかったときに、暁月さんがどうやってか理科準備室の鍵をもらってきて――」
平然とした顔を繕って話を続けながら、結女は足を自分側に逃がそうとした。
それを読んだ僕、相手のふくらはぎに足の甲を引っかける形で阻止。
「そういえば川波の奴も、どっかから部室棟の空き部屋の鍵持ってきたことがあったな」
ならばと結女はもう一方の足まで戦線に送り出してきた。
僕もまた2本の足で対抗する。ローキックを繰り出してきた足を捕まえて、足の裏をくすぐってやった。
「――っ。……あ、あの二人、ほんと顔広いわよね。入学したのは同じ日なのに、何が違うのか……」
「僕に言わせれば君も充分顔が広いけどね、学年一の才色兼備さん」
「も、もう……からかわないで、水斗くん?」
にっこりと笑いながらガスガスと蹴ってくる結女。
本気の怒りを感じたので、ここらで退いておくことにした。
「二人とも、楽しくやってそうで何よりね! 勉強も大事だけど、どうせなら楽しくなくちゃ!」
あなたの娘は今、これっぽっちも楽しそうじゃありませんが。
「それじゃあわたし、そろそろお夕飯の準備するね。二人とも、何が食べたい?」
「……魚」
「……お肉」
「おおっと真逆。どっちが残ってたかしら……」
由仁さんが背中を向けるなり、僕はケーキの残りをバクバクと食べ、冷めかけた紅茶を飲み干し、席を立った。
三十六計逃げるに如かず。
足早にリビングを出たが、階段の一段目に足をかけたところで、後ろからどたどたと追いかけてくる音がした。
「ど、どういうつもりよっ……!?」
案の定、提灯みたいに赤い顔をした結女だった。
テーブルの下でちょっかいをかけたことを言っているのだろう。
僕は「あー」と壁のほうを見ながら、
「なんか……面白かったから?」
「はあ……!?」
「まさか君が、あんなに敏感に反応するとは思わなくて……だから……ええっと……」
言葉を探しながら、僕は口の周りを手で覆う。
「……なんか、スイッチ入った」
僕に裸を見られた君が、僕に触られて、どういう反応をするか――もっと見てみたかった。
……っていうのは、ちょっと誇張表現だな、うん。
希少ないびりチャンスだから逃したくなかった、っていうのが本当のところだ。
「あっ……うう……!」
結女はしばらく、耳まで真っ赤にして口をぱくぱくさせた。しかしやがて、
「わ……私だって……わけわかんないわよ……」
蚊の鳴くような声で呟く。
「服、着てるのに、着てないみたいで……頭がわーってなって……いてもたってもいられなくて……触るたびに、そこのとこがビリビリして……だから――」
一歩。
距離としてはわずかだが、その一歩には大きな意思が籠もっているように見えた。
意図せずして裸を見られた女が、意図せずして裸を見せてしまった男に、自ら距離を近付ける――その行為に、勇気が不要であるはずがなかった。
「――……見られたのが、あなたでよかった」
小さく小さく抑えられた声を、しかし僕は聞き逃さない。
一瞬、頭が真っ白になって、僕のお腹の辺りに向いた彼女の目を見て、
「……はあ?」
と言った。
そう言う他になかった。
瞬間、結女はハッと我に返ったような顔をして、慌てて二歩三歩と僕から離れる。
「い、言い間違えた……! マシ! あなたでマシだったってこと! だって、ほら、あなたが一番どうでもいいから!」
わたわたと手を振って言い逃れをする女を、僕は数秒、矯めつ眇めつ観察して、
「……あっそ」
溜め息をついた。
「まあ、僕も君の裸なんかどうでもいいから、お互いノーカンだな」
「はあ!?」
僕と同じ反応だった。
なので、僕はスルーした。
くるりと背を向け、階段を上っていく僕の背中を、声だけが追いかけてくる。
「あ、謝るくらいしなさいよ! 私がどれだけ――」
「……悪かった」
「え?」
肩越しに振り返り、階段の上から見下ろして、
「もう二度と見ないよ、君の裸なんかな」
そう言った。
言ってやった。
結女の顔に――というか頭に、見る見る血が上っていく。羞恥なのか、怒りなのか、彼女ならぬ僕には与り知らないことなので、無視して階段を一段上がった。
「あ、当たり前よっ、バカっ―――!!」
僕は心の中で高笑いをしながら、自分の部屋に向かった。
裸を見せたくらいでマウントを取れると思わないことだな。
――その夜。
「…………貧相な身体」
「!?」
風呂上がりに覗き魔が現れて一悶着あり、僕たちはまたしても両親の心証を損ねた。
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