元カップルのゴールデン・メモリーズ 5月3日(木)
傑作に当たった。
私は読み終えたばかりのその本をぱたりと閉じると、しばらく表紙の装丁を眺めてから、胸の中に抱き締める。
はあ、と溜め息が漏れた。
ベッドに寝転がって見上げる天井に、本の中のシーンがいくつも重なっては消えていく。そのひとつひとつを順番に、宝物のようにして胸の中に仕舞ってゆく。至福の作業だった。
誰かと語り合いたい。
この気持ちを誰かに聞いてほしい。
そして願わくば、同じ気持ちを共有してほしい。
でも、高校でできた友達に読書をする子はあんまりいなかった。ネットで感想を漁るという手もあるのだけど、私はあまり好きじゃない。以前、好きな本の感想を調べて嫌な気分になったことがあるからだ。
本の感想は、面と向かって語り合うのが一番いい。
こういうとき、前はどうしていたんだっけ……。
ぼんやりと霞がかった記憶の中に浮かんだのは一人の男の顔だった。ああ、そっか。あの頃は感想相手に困ることなんてなかったのだ。なんて贅沢な――と思いかけて、はたと気がつく。
そいつ、今まさに、同じ屋根の下にいる。
「……い……致し方なし……」
他に選択肢がなかった。純然たる消去法で、私はそうすることにした。うん、消去法で。
部屋を出る。
一度は隣室に目を向けたものの、1階のリビングから人の気配を感じて、階段を降りた。
リビングのソファーに、探していた男がいた。
ぐだっと背もたれに沈むようにして、面白くもなさそうにテレビを眺めている。珍しい。極めて暇そうだった。
「……何、してるの?」
持ってきた文庫本をなんとなく後ろに隠しながら訊く。水斗はちらりとこっちを見た。
「手持ちの本、全部読み終わったんだ。買いに行こうかと思ったんだが、風が強くてやめた」
今もリビングの窓がガタガタと鳴っている。台風ほどではないけど、びゅうびゅう鳴るほどの強風なのは確かだ。
このくらいの風で……。電車なの、この男は? まあ私も、髪が乱れるのが嫌で家に籠もることにしたんだけど。
……あれ?
これって、もしかしてチャンス?
この男が読む本がなくなって暇そうにしていることなんて、1ヶ月に一度あるかどうかだ。この機を逃せば、この男は私が薦める本なんて触れようともしないだろう……。
い……今しかない……!
「ふ、ふう~ん……? そうなんだ……」
私は気のない風を装いながら、水斗から少し離れた位置に座った。
水斗がこっちを見た。怪訝そうに眉根を寄せている気がする。私は本を持っていないほうの手で髪先をくるくるといじり、無関心を装った。落ち着いて……何気ない風に……。
呼吸を整えて、私は言う。
「そんなに暇なら……1冊くらい、貸してあげてもいいけど?」
カンペキ!
完全に自然! 違和感の余地なし! 主演女優賞受賞!
水斗はますます眉間にしわを寄せた。
「……何を企んでるんだ?」
「な、なんにも~……?」
私は顔が見えないように逸らす。細かいことは気にするな!
水斗はやはり怪訝そうではあったけれど、
「まあ、手持ち無沙汰のままよりはマシか……」
「そ、そうよ。せっかくの休みだし!」
「じゃあ何か適当に1冊――」
「これ!」
と。
私は自分の身体で隠していた文庫本を、水斗に突きつけた。
「これ! これが面白かったから!」
「お、おう……?」
水斗は反射的に文庫本を受け取った。ちょっと強引かもしれなかったけど、受け取らせられたからオッケー!
水斗は表紙を眺めたあと、引っ繰り返して裏表紙のあらすじに目を通した。
「パッと見、よくある推理小説だけど……」
「あのねっ……!」
思わず勢い込んで語りそうになり、慌てて口をつぐむ。
は、話したい……! 何がすごいのかすごく話したい! でも、何も情報を入れずに読んでほしい……! そっちのほうが絶対面白い! でも面白いところを伝えないと読んでもらえないかも……!
「……っとにかく、読んで!」
ジレンマに苛まれた結果、私にできたのは顔を伏せてそう叫ぶことだけだった。うううう、人類はまだ開発できないの!? こういうときの対処法を!
水斗は怪訝げに私の様子を見つつ、
「なんだかよくわからんが……まあ、わかった」
文庫本を開き、その中身に目を落とした。よしっ……!
男にしては細い指がページをめくっていく。ミステリには付き物の登場人物一覧を抜けて、プロローグへ。
文字を追い始めた義弟の顔を、私は横からじっと観察した。
視線がちらりとこっちを向く。
「……読みにくいんだが?」
「あっ……ご、ごめん。離れてるから!」
私は慌てて距離を取った。邪魔はしないようにしないと……!
1メートル以上の距離からじーっと見つめていると、水斗は苦笑の出来損ないみたいな表情を浮かべた。
「…………まあ、いいけどさ」
再び視線が本に落ちて、指がページをめくる。
その横顔を、私はずっと見つめ続ける。
目の前にいる男が、しかしどんどんと本の中に潜っていくのがわかった。それに釣られたように、私も息を止める。自分で読んだときのことを思い出して、彼が思い描く景色を想像する。
あっという間に、ページは3分の1ほどが右側に移った。
「……っ……」
かすかに、水斗が息を呑む。
第一のどんでん返しだ。
さらに一段、深く物語に潜り込んだ横顔に変わる。
私は口元を緩ませた。
瞬間、水斗の目がちらりとこちらを見た。
私は慌てて口を手で隠して、無言でふるふると首を振った。
水斗は再び本に目を落とすと、膝に肘を置いた前傾姿勢になる。
窓の外は、夕焼けで赤く染まっていた。
ぺらり、ぺらり、ぺらり。
ページが1枚1枚、さっきに倍する速度で手繰られてゆく。
その間、水斗の姿勢は少しも変わることがなかった。
自分の肉体のことなんて、すっかり頭の中からなくなってしまったかのように。
いつしか、ページは右側のほうが厚くなっていた。
半分を越えて、残りは3分の1ほど。
そのとき、本が開かれてから初めて、リビングにページをめくる以外の音が響いた。
「……あっ」
小さく、水斗が声を上げたのだ。
その目はかすかに見開かれ、瞳には得心の輝きが宿っている。
彼の視界の外で、私はこくこくと何度もうなずいた。
この辺りで、作者の意図がわかってくるのだ。
休みなく、水斗はさらにページをめくっていく。
残り4分の1ほどまで来たときだった。
そろそろ解決篇に入り、すべての真相が明かされる頃だ。
水斗が、ページをめくる手をピタリと止めた。
「……?」
私が不思議に思っていると、水斗はぺらぺらとページを前に戻し始めた。
……何してるんだろ?
彼はいくつかのシーンを確認するように読み返すと、前傾姿勢だった身体を持ち上げ、ソファーの背もたれにゆっくりともたせかける。
そして、天井に向けた目を瞼で閉じて、口の中で何か、ぶつぶつと呟き始めるのだった。
それを見てピンとくる。
かっ……解決篇前に推理してる~~~っ!!
推理小説を本当にそうやって読む人を、私は初めて見た。付き合っていた頃でも、1冊の本を読み始めてから読み終わるまで、横でずっと観察したことなんかなかったし……。読書スピードは私のほうが速いと思っていたけれど、もしかしてそれは、このプロセスを毎回挟んでいたからなんだろうか。
「あれがこうなって……だから――あっ!」
たぶん、10分くらいだっただろうか。
水斗はパッと目を開くと、また前のページに戻って何かを確認し、こくこくと何度もうなずいた。答えが出たらしい。
そうしてようやく、最後の4分の1へとページが進む。
私は唇が緩みそうになるのを我慢した。
もうちょっとだ。もうちょっと進むと――
「――え?」
目が点になった。
という言葉の実例が、そこにあった。
「あっ……あっ、あっ!? あ~……ああああ~~~!!!」
納得だか悲鳴だかよくわからない声を上げて、頭を抱え始める水斗。
最大のミスリードが綺麗に決まったのだ。
ぼんやりとした推理ですら裏切られるようになっているのに、きっちりと考えをまとめた上で読めば、その切れ味はさぞ爽快なものになっているだろう。羨ましくなるくらい、彼は『やられた』という顔をしていた。
さらに読み進めるにつれ、水斗はにわかに無言になっていく。
最後の数ページは、息さえ止めているようだった。
名残り惜しむように、ゆっくりとページをめくり……。
きっちり奥付にまで辿り着いて、ようやく、ぱたんと本を閉じた。
脱力したように背もたれに沈み込んで、茫洋とした目で天井を見上げる。ほう、という溜め息が、その唇からこぼれた。
「……どうだった?」
聞くまでもなかったけれど、一応、私は控えめにそう訊いた。
水斗はずっぷりとソファーに背中を沈ませたまま、文庫本の表紙を眺める。
「傑作だ……」
余韻を込めた断言だった。
「なんだこれ? こんなタイトル、ネットでも見たことないぞ……。これが話題になってないって、世間はどうかしてるのか!?」
「でしょ!? でしょ!?」
「ストーリーもキャラもトリックもロジックも、全部が結末のために丁寧に仕上げられてる……。文章にもダレるところがない。するすると読まされる。なのに後半になるごとに、窒息しそうになるような密度が……」
「そう! そう、そうっ!」
私はソファーの上を跳ねるようにして水斗に近寄った。
「前半から後半に向かって、シームレスに印象が変わっていくの! 読み終わった後は、前半の軽妙な文体どころか、この超平凡なあらすじすら変わって見えて……!」
「そうだよ、このあらすじ! こんなどこにでもあるようなあらすじから何でこんな話が出てくるんだよ!?」
「ね! 私も最初は全然期待してなかった!」
「最初のさ、伏線があっただろ。プロローグの……」
「あ、うんうん!」
水斗が本を開いて話し始めたので、私も肩を寄せてそれを覗き込む。
「えっと……これでしょ? 犯人の心理描写の……」
「そう。それもあるんだけど、その次の行のこの文章」
「……えっ? あっ、これそういう意味!?」
窓の外は夜になっていたけれど、もう私たちの意識には入っていなかった。
それからお母さんたちが帰ってきて、夕食やお風呂を挟んでからも、私たちは1冊の文庫本を一緒に覗き込んだ。
何度か解散したけれど、そのたびに新しいことを思いついて、あの男のところに飛んでいくのを繰り返した。
その日は結局、二人で2回も同じ本を読み返して、眠ったのは午前2時を過ぎた頃だった……。
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