本気のおまえを見せてみろ⑤ 勇気
◆ 伊理戸結女 ◆
塔の上から謎の奇声が響き渡ってきた後、数分して、先輩たちは降りてきた。
なぜか亜霜先輩が、星辺先輩の肩を借りて、覚束ない足取りで。
「どっ……どうしたんですか、先輩?」
怪我でもしたのかと思って声をかけると、亜霜先輩は星辺先輩の肩にしがみつきながら、
「こ……腰、抜けたぁ……」
「えっ……? な、なんで……?」
「人間ってのは、心の底から驚くとこうなるらしいな」
星辺先輩がくくっと笑う。その表情は前よりも柔らかく、なんというか――亜霜先輩に対する、慈しみがあるような気がした。
これは……まさか!
「愛沙……もしかして……」
紅会長が恐る恐る尋ねると、亜霜先輩はにへらと笑う。
「えへ。えへへ。えへへへぇ~~~」
「気色悪い笑い方してないではっきり言え」
「仕方ないなあ~。そんなに聞きたいかあ~。なら仕方ないなあ~。うんうん」
亜霜先輩はようやく自分の足でしっかり立つと、星辺先輩の左手をぎゅっと掴んで、その手をレフェリーみたいに高々と掲げた。
「ご紹介します! わたくし、亜霜愛沙の彼氏の、星辺遠導センパイですっ!」
「どんな紹介だよ」
呆れたように言う星辺先輩は、けれど否定しなかった。
逆転勝利だ。
今日この日、最後のチャンスと言っていい十数分で、見事、亜霜先輩は想い人を口説き落としたのだ。
――と、同時に。
私と紅会長は、今、目の前の光景に驚いていた。
「……星辺会長……」
「肩……大丈夫なんですか?」
亜霜先輩に左腕を頭上まで持ち上げられているのに、星辺先輩はけろりとしていた。
あれ……? 反対側の肩なんだっけ?
「ああ、これな」
星辺先輩は自分の左肩を見て、
「なんだかんだあったんだよ。なんだかんだ」
「え? 何がですか、センパイ? 肩って?」
亜霜先輩が不思議そうな顔をする。その反応に、私たちはさらに驚いた。
「ちょっと待った。愛沙――キミ、先輩の肩のこと、知らないのかい?」
「え? え? 何のこと? マジでわかんない」
「星辺先輩は、怪我で肩が上がらないんですよ!」
私が言うと、亜霜先輩は「え!?」と目を剥いて、慌てて星辺先輩の手を放した。
「うっ、嘘っ!? そうなんですか!? 今の痛く――あれ? でもあのとき……」
「いいんだよ。気にすんな」
星辺先輩は亜霜先輩の目をまっすぐに見つめて、自分の左肩に軽く触れる。
「これはもう――お前が、治してくれたんだ」
「え……? えぇ……?」
戸惑うばかり亜霜先輩の手を掴み直すと、そのまま手を引いて、星辺先輩は歩き出す。
「そろそろ昼メシにしようぜ。腹減ったわ」
「あ、そうですね! あたしも言われてみれば……」
「あたし? おい小悪魔キャラ、『愛沙』はもういいのか?」
「ちょっ、からかわないでくださいよ! ……もう名前を言わなくても、覚えてくれてるでしょう?」
「それもそうだな、愛沙」
「ひぇあっ!? いっ、いきなり呼ばないで~っ……!!」
堂々とイチャつきながら歩いていくカップルを、私たちは後ろから見つめる。
亜霜先輩だけ――知らなかったんだ。
それって――
「――弱味を見せたくないと、思うものなのかな。好きな女の子には」
会長がこぼした呟きに、私はくすりと笑った。
お似合いじゃないですか、先輩。
◆ 川波小暮 ◆
……ああ、見せてもらった。
見せてもらいましたよ、先輩。
だったら、焚きつけた以上は――後輩も、ちゃんと倣わなけりゃあ、な。
「――よっ」
階段に腰掛けていたオレに、そいつは軽く手を挙げた。
「何やってんのー? 一人で、こんなところでさ」
野外劇場みたいに弧を描く短い階段を、暁月は屈託なく、軽い足取りで上がってくる。
そう、逃げているのはいつもオレだ。
昨夜の温泉でも。病室で別れたときも。胃に穴が空いて倒れたことだって、オレがはっきりと物を言わなかったのが原因だとも言える。
「顛末を見届けてたんだよ。ほら、ここからだと、屋上がちょっと見えるだろ?」
そう言って、オレは後ろを振り返る。そこには白い煉瓦で組まれた塔があり、さっきまで星辺先輩たちがいた屋上も、ここからなら少しだけ覗くことができる。
「うわー、ほんとだ」
ぴょこっと軽く背伸びして塔の屋上を見上げながら、暁月は言った。
「こういう場所、どうやって見つけんの? もはやストーカーでしょ」
「お前に言われたらもう終わりだぜ。別に、周りをふらふら歩いてたらたまたま見つけただけだ」
話は、聞こえなかった。
たまに亜霜先輩が叫んでたのはわかったが――オレからわかったのは、二人の大雑把な動きだけ。
それでも、充分にわかった。
あの人たちが、本気で話し合っていたことを。
本気で――向き合っていたことを。
……まったく、参るよな。
あんなのを見せられたら、考えねーわけにはいかねーじゃん。
オレは、このままでいいのか?
自分の体質に、過去の傷に、恐れて、怯えて、見て見ぬフリをしたまま――そうやって、一生生き続けるのか?
暁月は、先に向き合う覚悟を決めたのに。
オレだけが、なあなあに誤魔化して作った逃げ場所で、安穏としていてもいいのか?
……余計なことを考えてるよな。
逃げたっていいじゃねーか。誤魔化したっていいじゃねーか。それを悪いことだと思うのは、きっとガキの間だけ。暁月につらいと言い出せず、結果、入院する羽目になったあの頃と何も変わらない。
でも、お前が踏み出しちまったなら、オレも付き合わなきゃならねーんだ。
だって、この傷は、オレだけのものじゃない。
お前のものでも――あるんだから。
「――なあ。改めて、聞かせてくれよ」
あーちゃんが正面から、オレの顔を見つめた。
彼女は一段下に立ち、オレは一段上に座り、いつもの身長差は、どこにもない。
「なんで、オレの体質……治そうと思ったんだ?」
本気の問い。本気の声。本気の言葉。
たった一つ、この質問をするだけのことに、どれだけの壁があっただろう。
知ったら戻れないかもしれない。
始めたら終われないかもしれない。
あーちゃんの意図に、心に、領域に、自分から踏み込む。それは不可逆の選択だ。今までのようになあなあにはしておけない。それを、オレからも彼女からも、互いに合意してしまう選択だ。
何よりも、この体質が――もはやオレの意思からさえ独立している、オレの心の傷が、怖い怖いと叫んでいる。
――また、なにもさせてもらえなくなるかもしれない。
――また、ペットのようになってしまうかもしれない。
――また、あーちゃんのことを、きらいになってしまうかもしれない。
その怖さを、怯えを、不安を、拒絶を。
全部乗り越えるのに――本気の覚悟が必要だった。
その覚悟の名を、……きっと、勇気と呼ぶんだろう。
「……ん」
オレが振り絞った勇気を、何かから気取ったのだろうか。あーちゃんは手遊びに自分のポニテの先をいじって、少し、迷うように視線を彷徨わせた。
「……このまま放っておくと、あんたが、たくさん女の子を泣かせることになるから――っていうのは、もう言ったよね」
「ああ。それを防ぐのが、自分の責任だっつーんだろ?」
「そう……それも一つ。だけど、もう一つは――」
ぎちりと心臓を緊張させたオレを、あーちゃんは様子を窺うように見つめた。
「……ねえ。あんた、エチケット袋持ってる?」
「は? ……いや、オレ乗り物酔いしねーし」
「おっけ。一応用意しといてよかったなあ」
あーちゃんはごそごそとハンドバッグからエチケット袋を取り出すと、
「はいこれ。広げて。持って。使い方わかる?」
と、一方的に押しつけてきて、顔の下で広げさせる。
なんだこれ? 車に乗ってるわけでもねーのに――
「――もう一つはね」
あーちゃんは、氷が溶けるようにはにかんだ。
「いつかもう一回、堂々と好きだって言いたいからだよ、こーくん」
堂々と。
もう一回――
「――うぐッ……!!」
膨大な吐き気が腹の底から込み上げる。思わず背中を丸め、エチケット袋の口に顔を埋めた。ぞわぞわと蕁麻疹が全身を覆う。身体に火が点いたように熱が上がった。あっという間に脳髄が思考能力を放棄し、ぐちゃぐちゃの不快感だけがオレの中を支配する。
――けど。
だが。
それでも……!
「……ぐッ……、……ッ……、…………ん、はッ!」
吐かずに、エチケット袋から顔を上げた。
歯を食い縛り、込み上げる吐き気を嚥下する。脳細胞の中身をいったん空っぽにし、押し寄せる不快感に気合いをぶつけた。
あーちゃんは驚いた顔をして、
「の……飲んだの?」
「……昼メシの前で良かったぜ。……へへ」
喉の奥が少し酸っぱくなったが、それで留められた。
ウザったいアレルギーに……オレは耐えた。
――なんだ。できるじゃねーか。
「ああ――今、身に染みたぜ」
エチケット袋を暁月に突き返しながら、オレは無理やり口の端を上げる。
「確かに、この体質を放っておくのはだりーな。……いつまでも、お前にイニシアチブを取られっぱなしになる」
「そんなこと? 一応あたし、今あんたに告ったんだけど」
「今更だろ? お前が未練たらたらの激重女だってことはよ」
暁月は不服そうに唇を尖らせて、
「なに他人事みたいに言ってんの? 昨夜、あたしに超興奮してたくせに」
「そうだな。そのくらいは認めてやるよ。お前の身体は意外とエロい!」
「……釈然としなーい……」
恋愛は綺麗なことばかりじゃない。欲も本能も密接に絡む。
だが――この体質に抗えたのなら、そのくらいは、きっと御せるはずだ。
欲に溺れることなく。本能に負けることなく。
清濁併せ呑んで。
向き合っていけるはずだ――勇気を持って。
「昨日は悪かったな、逃げ出したりしてよ。今度は隅々まで拝んでやるから心配すんな」
「開き直んなヘタレ! イニシアチブはまだあたしが持ってるってこと忘れないでよね!」
「だから謝ってんじゃねーか。勘弁してくれよ。さすがに今は、これ以上耐えらんねーぞ」
吐く。今度こそ吐く。どばどば吐く。
ふうん、と暁月は薄っすらと笑った。
嫌な予感がしたとき、暁月は階段を一段昇り、王様みたいにオレの顔を見下ろした。
「心配しなくても、下手に体調悪くさせたりしないよ。そこは安心して?」
「お、おお……じゃあなんで近付いて……?」
「――ちなみにぃー」
暁月が軽く腰を折った。
中腰になって、間近からオレの瞳を見つめた。
シャツの襟元が垂れ下がり、なだらかな胸元が少し覗いた。
「実験の結果、あんたがあたしにときめく分には、どうやら大丈夫みたいなんだよね」
暁月は悪魔のように小さく笑う。
「どう? そのへん? ……正解?」
腹立たしいことに――
――心臓がむやみに加速するばかりで、吐き気も蕁麻疹も、やってはこなかった。
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