古き日々のおしまい⑤ これからの解答
◆ 伊理戸水斗 ◆
今となっては若気の至りとしか言いようがないが、僕には中学二年から中学三年にかけて、いわゆる彼女というものが存在したことがある。
学校で出会い、気持ちを通じ合わせ、恋人となり、イチャイチャして、些細なことですれ違い、ときめくことより苛立つことのほうが多くなって、卒業を機に別れた――
――そして、家族になった。
結女と由仁さんが引っ越してきた日の夜は、上手く眠れなかったのを覚えている。結女が同じ家に住む、という出来の悪い夢みたいな状況の非日常感や、これから過去の関係を上手く隠していけるのか、という不安。それらがぐるぐると頭の中を駆け巡り、僕が眠りに逃げるのを許さなかった。
何よりも僕を落ち着かなくさせたのは、結女の外見だ。
変わりすぎだろ。
眼鏡を外して髪を下ろしただけだから、別に劇的な変化ってわけではないはずなのに、僕が付き合っていた綾井結女とはまるで別人のように見えた。
付き合っていながら会っていなかった頃も、なんか背が伸びてるな、とか、胸大きくなってないか? とか、思わないことがないわけではなかったものの、ああしてイメチェンを加えて見せつけられると、なかなかに当惑する。そこに、一応はかつて付き合っていたとは思えない毒舌が加わるんだから、尚更に僕の認識を幻惑した。
顔合わせのとき、よく一目で綾井だとわかったものだ。
そのくらい、彼女の顔は近くでたくさん見てきたからか――いや、違うな。僕が見てきたのは彼女の顔ではなく、顔色だ。見てきたのではなく、窺ってきたのだ。
恋愛というやつは、言ってみれば互いの腹の探り合いみたいなもので、相手が何を考えているか、何を欲しているか、何を望んでいるか、勝手に予想して想像して解釈し続ける必要がある。それを曲がりなりにも、大体八ヶ月くらいは大過なくクリアできていたのだから、綾井結女の顔色を窺うことにかけて僕の右に出る者はいないのだろう。
だけどそれは、飽くまで綾井結女の話であって――
――んあっ!?
翌朝。ろくに眠れもせず、春休みだというのに午前に起きてしまった僕は、洗面所で歯磨き中の結女に出くわした。
歯ブラシを口に突っ込んだそいつは、なぜか僕の顔を見て驚いて、一歩後ずさる。
――……? おはよう
――お……おはよふ……
折良く洗面台の前が空いたので、僕はそこに移動する。あわよくば二度寝したいなと思って、顔は洗わないことにした。代わりに歯ブラシと歯磨き粉のチューブを手にする。
そして歯を磨き始めた僕だったが、不審に思うことがあった。
鏡に映った結女が、歯ブラシを咥えたまま、じっと僕を睨んでいる。
何をしてるんだ? 歯を磨くでもなく……。終わったんなら、さっさと口をゆすげばいいのに。
僕が歯磨きを終え、コップに水を溜めて口の中をゆすぎ終わると、そいつは依然として僕を睨んだまま、
――ん!
と、顎で洗面所の入口を指した。
どうやら、退出を促されているらしい。
――なんだよ。君に顎で使われる謂れはないぞ
顎で使うってこういう意味だったか?
――ん!
――口を洗って言葉で言えよ。どうしたんだいきなり
――……んん~~~っ!!
結女は不満そうに唸ると、自棄になったような乱暴な足取りで洗面台に飛びつき、グチュグチュペッ、と手早くうがいをした。
それから、タオルで口元を拭きながら、拗ねたように言う。
――……あなたの前でうがいをするのに、抵抗があったのよ。悪い?
――……なんで?
――口から水吐き出すなんてはしたないでしょ!? なんでわかんないの馬鹿っ!
そう言い捨てるや、結女は怒り肩で洗面所を出ていった。
……いや、わかるかよ。
言われなきゃわかんないよ。
いくら僕が君の顔色を窺うプロフェッショナルだからと言って――
――そう。言わなきゃわからないし、言われなきゃわからない。
思えば、僕たちは終始、言葉少ななコミュニケーションだけを取ってきた。どっちかがどっちかの心境を勝手に慮り、まるで競うように察し合って、まともに話し合うこともなくその時々の問題を――問題意識を――解決してきた。
そんなことは、いつまでも続かないのだ。
せいぜい続いて、八ヶ月。
八月の終わりに始まれば、四月頃には綻び始め。
三月の終わりに始まれば、十二月頃には限界が来る。
夏休みにお祭りに行けば?
クリスマスにプレゼントを用意すれば?
バレンタインにチョコをやり取りすれば?
そんなIFでさえ間違っている。そんなことを期待する前に、僕たちにはやるべきことがあったんだ。
行間だけの小説はない。
文字がなければ、それはただの空白だ。
僕たちはまず――話し合うべきだった。
答えがあるとすれば。
それだけが唯一にして絶対の、完全なる解答だった。
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