元カップルは帰省する④ ファースト・キスが布告する
今となっては若気の至りとしか言いようがないけれど、私には中学2年から3年にかけて、いわゆる彼氏というものが存在したことがある。
本当に、楽しい時間だった。
ええ。もう意地になって否定したりはしない。
伊理戸水斗の彼女であった時間――少なくとも中学3年の夏休み前まで、私は本当に、幸せだった。
そのピークは――思い返してみれば、きっとあの日。
クリスマスでもない。バレンタインでもない。何も特別な日じゃない。
何でもない平日。
いつものように別々に教室を出て、わざわざ学校の外で合流して、一緒に下校した日。
付き合い始めて日にちも経ち、手を繋いで歩くのにも慣れ始め――次のステップを、意識し始めた頃のこと。
『最初のキスはいつくらい?』
ゆうべ、ネットで見た記事の見出しが、私の脳裏に絶えず浮かんでいた。
●回目のデートとか、付き合って×ヶ月とか、そんな信用に耐えるかどうかもわからない曖昧な数字を思い返しながら、手を繋いで歩く彼氏の顔を、ちらちらと窺っていた。
そろそろ……なのかも、しれない。
ネットの記事に書いてあった条件は、大体クリアしているし。
そろそろ……しても、いいんじゃ、ないかなぁ?
歩き慣れた通学路のはずなのに、緊張して仕方がなかった。
手汗や力の入れ方で、手を繋いだ彼に気付かれてしまうんじゃないかって冷や冷やした。
それと同時に……この気持ちに気付いて、察して、彼のほうから切り出してくれることを、期待してもいた。
だけど、私はわかっている。
いかに愚かな私といえども、この頃になればさすがにわかっている。
伊理戸水斗は、自分からキスしようなんて、絶対に言わないだろう、ってことに。
ってことは、私から誘わなきゃいけないのかな……?
でも、そんなの、どうやって……?
そうしてまごまごすること十数分、いつも別れる場所まで来てしまう。
いつもなら、寂しいなんて思わない。
家に帰ってからもスマホで話すし、明日になればすぐに会える。
だけど、この日は――
――それじゃあ、また明日
伊理戸くんは軽く手を振って、背中を向けた。
その瞬間。
完全に無意識だった。
私は咄嗟に手を伸ばし、伊理戸くんの腕を掴んだのだ。
――ん?
不思議そうに、伊理戸くんが振り返る。
私は……結局、何も言えなかった。
じっと。
じっっっっっ……――と。
彼の目を見つめ続けることしか、できなかった。
気付いて。
気付いて。
気付いて。
そう祈りながら――意を決して。
目を瞑り、んっと、顎を上げたのだった。
もう、これでスルーされたら、死ぬしかない。
まさに背水の陣である。
心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち、身体が石になりそうなくらいガチガチに固まった。
その数秒よりも長い時間を、まだ私は知らない。
目を閉じたのを失敗したと思った。
せめて目を開けていれば、伊理戸くんの様子を窺いながら待てたのに、と。
でも、今更目を開けたら、きっとダメになっちゃうし。
あああ、どうしよ、どうしよ! 伊理戸くん、いるよね? 腕掴んでるもんね。大丈夫だよね!? 私、一人で取り残されたり、してな――――
ふわりと、唇に暖かいものが触れた。
瞬間、全身を縛っていた緊張が、ほどけるように消えて。
暴れくるっていた鼓動が、穏やかなリズムになって、全身を包む。
コツッと、歯が当たった。
それで、自然と、私たちは唇を離した。
私はようやく目を開けて――夕映えに赤く染まった、彼氏の顔を見た。
――……い
私は、心地のいい熱が顔に上るのを感じながら、唇をそれとなく手で隠し、
――意外と……難しい、ね
それから誤魔化すようににへへと笑うと、彼もまた、ほのかに微笑んでくれた。
――……これから、上手くなろう
この瞬間だ。
私の人生において、一番幸せだったのは。
これから、この人と、何度でも、いつまでも、こんなことができるんだ。
そう思うと、こんな気持ちがあっていいのかってくらい、心がふわふわしたのだ。
私は家に帰ると、その日の日付を、スマートフォンのパスワードにした。
そうすることによって、この最高に幸せな気持ちが、永遠に続くような気がしたのだ。
……そんなわけないのにね。
あらゆる物事には、絶対に終わりがあるのに。
ある意味これは、象徴的なエピソードだった。
私という人間は、自分がしたいと思ったことでさえ、人任せにしてしまう。
そんなだから。
あなたは、一人で夏祭りに来ることになったのよ――綾井結女。
※※※
「結女ちゃん……いいッ!」
浴衣を着た円香さんが、私の身体を爪先から頭の上まで舐め回すように見て、興奮した目つきで言った。
「この細さ、まるで和服を着るために生まれてきたかのようなスタイル……! いい! 完璧! 大和撫子っ!! ねえ、今度、大正浪漫っぽいのも着てみない!? コスは用意できるから!」
「い、いえ……浴衣で充分です……」
私は円香さんの勢いに若干引きつつ、姿見に映った自分を見た。
水斗との初デートは夏祭りだったのだけど、あのとき着ていった浴衣は、紺色を基調とした落ち着いた色合いのものだった。
けれど今回、半ば強引に円香さんに選ばされたのは、白い生地に赤い花柄をあしらった派手な浴衣だった。
「まさに地上に咲いた花火! こりゃあ今年の花火大会は大失敗だっ! みんな結女ちゃんを見ちゃうからねっ!!」
「いや、あの、……馬鹿にしてます?」
「素直な気持ちなのになぁ……」
唇を尖らせる円香さんは、反対に紺色の生地の、夜闇に溶けてしまいそうな浴衣だった。曰く、「わたしは黒子に徹するよ!」らしい。
「さあさあさあ。行こう行こう行こう。水斗くんが待ってるよ~?」
「なんで水斗が出てくるんですか……」
「オーケーオーケー。結女ちゃんがどう言おうと、わたしが反応を見たいから行く!」
着付けを手伝ってもらった手前、強く拒否することもできず、私はぐいぐいと円香さんに背中を押されて、玄関を出た。
門の外で車が待っている。
お祭りは駅のほうの街でやるので、峰秋おじさんが車を出してくれることになっているのだ。ついでにお母さんとデートするらしい。
その手前で、水斗と竹真くんが待っていた。
玄関を出てきた私たちを、二人が振り返る。
円香さんは二人の前まで私を押し出すと、私の肩越しに顔を出して、にまあっと笑いながら水斗に視線を送った。
「どうかな? どうかな? 綺麗でしょ~?」
水斗は、いつもの眠たげな目で私を眺めた。
私の浴衣姿を値踏みするように――
――ねずみ色の浴衣姿で。
「……しゃ、」
「ん?」
怪訝そうな円香さんに構わず、私は浴衣を着た水斗に向かって、ふらふらと近付く。
「しゃっ、写真っ……写真撮ってもいい!?」
浴衣似合う――――――っっっ!!!!
何っ? 何なのこの男!? 和服を着るために生まれてきたの? 細身な骨格や撫で肩、身体のラインのすべてが、シンプルな無地の浴衣を美しく見せている! き、記録しないとっ……私のスマホの中で保護しておかないと……!!
水斗は目を眇めて、一歩私から距離を取った。
「……なんかキモいから嫌だ」
「なんでよ! 全然キモくないでしょ! この世に並ぶ者なき格好良さじゃない!! たとえあなたでも、あなたの浴衣姿をあんまり馬鹿にすると考えがあるわよ!!」
「君の話だよ! キモい以外の形容があるか!!」
罰当たりな奴! もう勝手に撮るから!!
巾着袋からスマホを取り出す私の背後で、円香さんが苦笑いした気がした。
「わたしのこと全然言えないじゃん、結女ちゃん……」
「じゃあ、僕らは車を駐めてくるから」
「みんな、気を付けてね~!」
私たちを降ろすと、お母さんと峰秋おじさんを乗せた車は満車寸前の駐車場へと入っていった。
私は改めて、辺りの様子を見回す。
「人口が変わってる……」
「ねー。ビビるよね。あの限界集落からたった数十分でこの人口」
元々、駅周りは割と都会だなと思っていた。
商業施設の入ったビルが目立つし、人通りだって少なくない。だけど、それにしたって、ここまでではなかった。
歩道を埋め尽くす人、人、人。
一様にある方向に動く人波には、通り抜けられる隙間さえもない。
一体どこにこんなにたくさんの人がいたんだろう。
「ここのお祭りは、ここらでは割と有名なほうだからねー。電車に乗って来る人もいっぱいいるから。もちろん京都のお祭りほどじゃないけど」
「花火が上がるんでしたっけ。そんなにすごいんですか?」
「なかなかのもんだよー? それに、縁日やってる神社のご利益がご利益だからねえ」
「ご利益?」
円香さんは「にひ」と意味ありげに笑った。
「え・ん・む・す・び♪」
「…………私には関係ありませんね」
「え~? 縁結びって、別に恋愛成就だけじゃないんだけどな~? 誰との何を想像して関係ないって言ったのかな~? お姉さんに教えて教えて~?」
「……うぐ……」
だ、だんだんウザくなってきた……。
「にひひ! まあそういうわけで、この辺じゃ数少ないデートスポットになってるんだよね。別にお参りしなくちゃいけないってわけでもないし、普通に縁日を楽しんだら?」
言って、「ほら、竹真」と円香さんが竹真くんに手を差し出した。竹真くんは素直にその手を握る。
「はぐれたら面倒だからね?」
薄く笑いながら、チラッと私と水斗を見る円香さん。
意図は明白だった。
水斗が軽く溜め息をついて、
「はぐれるほど子供じゃないよ。万が一はぐれたら勝手に帰――」
言い切る前に、私が水斗の左手を掴んだ。
水斗は掴まれた手を見て、私の顔を見て、
「……どういうつもりだ」
「弟が迷子になったら姉の責任だもの。ね、円香さん?」
「その通り!」
私は円香さんと顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。
この程度のことで意地を張り合う段階は終わったのよ、水斗くん?
水斗はばつ悪げに視線をそっぽに向けて、
「……わかったよ。繋いでればいいんだろ」
「素直に言うこと聞けてえらい」
「うるさい……」
私はくくっと忍び笑いを漏らしながら、水斗と肩を並べて歩き出す。
昨日、水斗の前で大泣きしてからというもの、心が軽くなった気がしていた。
余計に背負っていたものを降ろせたというか……以前より屈託なく、水斗に接することができるようになった気がする。
元恋人という属性を外して捉えれば、この男も単なる、からかい甲斐のあるコミュ障だ。
案内役の円香さんと竹真くんを見失わないようにしながら、私は隣の水斗に小さく尋ねる。
「今日、どうして一緒に来たの? こういう人混み、大嫌いなくせに」
「好きな奴はいないだろ。……毎年、円香さんに無理やり連れてこられるんだよ。今はもう抵抗するのを諦めてるだけだ」
「ふうん……」
私の浴衣が見たかったんじゃないの? というからかいの言葉を、私は飲み込んだ。
浴衣と夏祭り。その二つに関する最後の記憶は、苦々しいものだ。
中学3年の夏休み。
その前に喧嘩をしたことによって、私たちの関係はギクシャクし、せっかくの休みなのに何も予定を立てられなかった。
それでも、私は……一縷の望みにかけて、浴衣を着て、あるお祭りに行ったのだ。
その日のちょうど一年前、この男と初デートをしたお祭りに。
もしかしたら、彼も来ているかもしれないと――そして私を見つけ出してくれるかもしれないと、そんな、おめでたい希望を抱いて。
結果は、わかりきっていた。
お祭りが終わるそのときまで、私は一人きりで過ごした。
きっと、この男は何も知らない――それが最後の、浴衣と夏祭りの思い出。
あの日の寂しさ、心細さ、終わりを感じた悲しみ――未練は消化できても、その傷だけは、一生、癒えないかもしれない。
人波に乗って神社の参道らしき場所に入ると、煌びやかな夜店がずらりと並んでいた。
たこ焼き、わたあめ、キュウリの一本漬け、チョコバナナ、お好み焼き、キュウリの一本漬け、焼きそば、唐揚げ、キュウリ、キュウリ、キュウリ――
「キュウリ多くない?」
「なぜか多いんだよね~、毎年」
円香さんがけらけら笑いながら言う。
棒に刺したキュウリを何本もザルに並べているお店が、なぜか何件も目に付いた。たこ焼きや焼きそばのお店と同じくらいある。そんなに需要あるの?
「二人とも、何か食べたいものある~? お祖母ちゃんから軍資金もらってるんだから、遠慮なく使っていきな~!」
「夜店って、明らかに高いんだよな……。これならコンビニでも行けば、って気分になる」
「心配ご無用! この街は言っても田舎なので、意外とコンビニが見つかりません! にひひ!」
高いことは否定しないんだ……。
まあ、こういうのは喫茶店のコーヒーと同じで、場所の雰囲気代が含まれているのだ。夜店で買うたこ焼きとフードコートで買うたこ焼きとでは、やっぱり種類が別物だろう。
「迷うなら、わたしの知り合いのお店行こっか。今年も出してるといいんだけど」
「え? 知り合い? ……円香さん、1年に1回しか来ないのよね? この辺に住んでるわけじゃないのよね?」
「よく目に焼き付けろ。あれが本物の陽の者だ」
「私が偽物みたいな言い方やめてくれる?」
「事実じゃないか」
「だからやめてってこと!」
「臭いものに蓋をしても仕様がないぞ」
こちとらその戦法で高校生活過ごしとるんじゃい!
円香さんの先導に従っていくと、やがてある一つの屋台に辿り着いた。
「おっす~! 今年もやってるね~!」
「オ~、マドカチャン! アイカワラズベッピンサンネェ!」
「にひひ~、どうもどうも」
……怪しいインド人だった。
わざとなんじゃないかってくらいベタベタの片言で話す、インド人のおじさんだった。
いや、肌が黒いっていうだけでインド人なのかどうかわからないんだけど……その人が円香さんと話しながら掻き混ぜている鍋の中身が、カレーだったから……。
「ここのカレータンドリーチキン、美味しいんだよ。二人もどう?」
そう言う円香さんの横で、竹真くんが小さな手を伸ばして、小銭を謎インド人に渡していた。
「オ~、チクマクン! アリガトネェ! ウチノカレー、インドデタベルヨリオイシイヨ~!」
なんだこの日本人が考えるステレオタイプが実体化したようなインド人は……と思う私をよそに、竹真くんは特に物怖じすることなく、カレーに浸かったタンドリーチキンを受け取っていた。どうやら慣れているらしい。
「じゃあ……せっかくなので」
「オッケ~! おじさん、二人分おくれ~!」
「リョウカイヨ~!」
勝手に水斗の分も追加されていたけど、本人から特に文句が出なかったので、大丈夫なんだろう。
程なくして、私たちの手元にもカレータンドリーチキンが来た。
浴衣を汚さないよう、気を付けて囓ると、チキンの食感と共にスパイシーな風味が口の中に広がった。
「……あ、おいしい……」
「でしょー!? 出すものは美味しいの! 言動は怪しいけど!」
「アヤシクナイヨー!」
円香さんも怪しいって思ってるんだ……。
私の隣では、水斗がもぐもぐと無言でタンドリーチキンを頬張っている。表情がまったく読めない。
「おいしい?」
「……まあ」
「はっきり言いなさいよ」
「……………………」
かえって黙り込んでしまった。そんなに私の言うことを聞くのが嫌か。
「うわっ、竹真。口の周りベタベタ。動かないでね。いま拭くから」
「じ、自分で……むぐっ」
円香さんが竹真くんの口をティッシュで拭く。竹真くんは恥ずかしいのか、じたばたと抵抗していた。バーベキューのときは私が拭いてあげたっけ。
ぼーっと眺めていると、円香さんがチラッとアイコンタクトを送ってくる。
……ハッ。
私ははたと振り返り、水斗の口の端にカレーがついているのを見つけた。
「水斗――」
「……………………」
私がティッシュを取り出そうとした瞬間、水斗はぐしっと指で頬を拭ってしまう。
くううっ、遅きに失した! 川のときは成功したのに!
「何のゲームをしてるんだよ、君は」
「だって、円香さんと同じことをすれば、私が姉ってことになるじゃない」
「ならないよ」
「なるの!」
今まで一人っ子だった私は、きょうだいというものを手探りでやっていたところがあった。
だけどどうだ。円香さんというお手本がある今なら、姉的行動を簡単に取ることができる!
そうすれば、自然と周りが私を姉だと思うだろう。手本のいない水斗に同じことはできまい。ふふふ……。
「……にひ。なるほどねー……」
謎インド人のお店を離れて、参道を道なりに進んでいく。
人混みは自由に身動きが取れないほどで、それがずーっと先まで続いていた。先頭が見えない。
「あ、ほらほら竹真。射的あるよ。やるー?」
円香さんに言われ、竹真くんは射的屋さんのほうを見た。奥の棚に並んだ景品を見やり、「あっ」と小さく声を上げる。
おそらく、一番の当たりと思しき上の段に、ゲームソフトの箱が置いてあったのだった。
……まあ、ああいうの、当たらないようになってそうだけど。
「や……やる……」
「よおーし! お姉ちゃんと一緒に大当たり狙おう!」
お金を払って銃をもらうと、竹真くんはぐっと身を乗り出して、銃口をゲームソフトの箱に向ける。
だけど、その銃身はふらふらと揺れていた。腕の筋力が足りないらしい。
あれじゃ当たりもしなさそうだなあ、と思っていると、
「あーもう。ほら、もっとしっかり持たないとー」
笑い含みに言いながら、円香さんが後ろから抱き締めるような格好で、竹真くんの腕を支えた。
「お、お姉ちゃ……一人で、できるよ……」
「遠慮しないで! ほらほら、しっかり狙ってー?」
……きょ、姉弟って、あんなに距離が近いものなの?
あんな、胸が、すごく当たってるし、耳に、息を、吹きかけるような距離で――あ、でも、そうか、姉弟だから、そんなの気にするわけが――
ポンッ、と竹真くんが持つ銃から弾が出た。
けれど残念ながら、それはひょろひょろと横に逸れて、何の景品にも当たらずに、地面に転がった。
「あー、ざんねーん」
「……うう……」
「うーむ。このままでは終われないなあ。……というわけで、水斗くん!」
いきなり指名された水斗が、ぴくっと眉を上げる。
「竹真の仇討ち、よろしくぅ! ……結女ちゃんもサポートしてあげてね? あ・ね・と・し・て♪」
にひ、と笑う円香さんの顔を見て、私は嵌められたことを悟った。
ま、円香さんっ……私がお手本にしてるって聞いて、わざと……!
「……仕方ないな。じゃあ一回だけ」
水斗は気付いていないのか、残念そうな竹真くんをちらりと見て、射的屋のおじさんに小銭を渡してしまった。
銃を手に、屋台に身を乗り出す水斗。
その後ろで固まっていると、円香さんがすすっと寄ってきて、耳元で囁く。
「(どうしたのかなー、お姉ちゃん? 弟を助けてあげないとー)」
「(やっ、でもっ、あれはっ……!)」
「(あれぇ? おかしいなぁ? た・ん・な・る、弟に、後ろから抱きつくだけのことなのに、結女ちゃんは何を気にしてるのかな~?)」
ま、円香さん……性格悪い!
退路を断たれた私は、渋々ながら、水斗の背中に近付いた。
何の心配もなさそうならサポートの必要はないと言い訳も立つけれど、やはり運動不足のモヤシ男、竹真くんと同じくらい銃口がブレブレである。
このままでは竹真くんの仇は討てそうにない。
そ、そう……竹真くんのために……。
私は意を決して、後ろから手を伸ばして、水斗の腕を支えた。
「えっ……おい!?」
「こ、こら、こっち見るな! ちゃんと狙いなさい!」
振り向こうとする水斗を前に向き直らせる。
と同時に私は、浴衣の袖から伸びた水斗の手首に、そっと自分の手を沿わせた。
……細いけど、筋張ってて……やっぱり、女の子とは違う。
この男も、同じように思うのかな。
私に触れたとき……男とは違うな、って。
「ちょっと右にズレてない?」
「そんなことないだろ」
「ズレてるわよ!」
「うるさいな。これでいいか?」
「左に行きすぎ!」
そんな一悶着もありつつ――ようやく、照準が定まる。
あとは引き金を引くだけ。
……なんだけど……。
私は、屋台のカウンターに突いた腕が、ぷるぷると震えるのを感じていた。
極力、身体が――特に胸が、水斗の背中に当たらないよう、腕を突っ張っていたんだけど……存外、照準を定めるのに時間がかかったせいで、力が……。
「よし……」
水斗が息を詰めて、指に力を込めた。
その瞬間だった。私の腕に限界が来たのは。
「あっ」
――先に言っておこう。
確かに私たちは中学生の頃、それはもう発情期の猿みたいに隙あらばキスしていた。それは事実だ。
だけど、誓って、それ以上のことは――つまり、その……触ったり……触らせたり……そういうことは、まったく、まったく、したことがない!
思わず肘が曲がり、姿勢が下がり――
――ふにっと、水斗の肩甲骨の辺りに、私の胸が、触れた。
「!?」
瞬間、水斗の身体がびくりと跳ねて。
直後、ポンッと銃口から弾が飛び出した。
本来の狙いよりだいぶ上に逸れた弾は、ぴゅーっと緩い山なりの放物線を描く。
「あー」
後ろで円香さんが残念そうな声を上げた。
み、ミスったぁ……。これは私のせいだ……。
と、思ったのも束の間。
ポスンッ、と。
山なりに飛んだ弾が、狙ったゲームソフトの下の段にあった、白いウサギのキャラクターのぬいぐるみに当たった。
ぽとりと、ぬいぐるみが棚から落ちる。
「おっ、当たったねぇ!」
射的屋のおじさんがぬいぐるみを拾って、「ほい!」と水斗の銃と交換する。
私たちはその、スポーツ少年みたいな雰囲気のウサギのぬいぐるみを、しばらく無言で見つめた。
「……最後の、わざとか?」
水斗がぼそりと言う。
「わ、わざとなわけないでしょ……! 腕が疲れて……」
「そうか。義理のきょうだいが痴女じゃなくて安心したよ」
「痴っ……!? そ、そっちこそ、何を反応してるのよ……! このくらい……東頭さんで、慣れてるはずでしょ……!?」
「……君とあいつじゃ違うだろうが」
「へ?」
「東頭は何とも思わずにくっついてくるけど、君は緊張が伝わってくるんだよ。少しは落ち着け!」
「なっ……! そ、それじゃあ、私が東頭さんより男慣れしてないみたいじゃない! あなたが敏感になりすぎなんでしょっ、ムッツリスケベ!」
「はいはい、二人とも。お店の前じゃ邪魔だからね~」
円香さんに背中を押されて、いったん参道から外れる。暗がりになったそこでは、しゃがみ込んでたこ焼きや焼きそばなどを食べている人が何人もいた。
私は改めて、ウサギのキャラクターのぬいぐるみを抱えた水斗を眺める。
「似合わなっ……」
「いちいち言わなくてもいいんだよ。心の中に留めるってことができないのか君は」
「ぷすっ。いいんじゃない? ちょっと親しみやすくなるかも」
「持ち歩きはしないだろ! 心に闇を抱えてるタイプのロリキャラじゃあるまいし!」
その例えはよくわからなかったけど、まあいずれにせよ、水斗とぬいぐるみの取り合わせが悪い。東頭さんも、水斗の部屋にこんな可愛いのが置いてあったら、『え? ギャップ萌えですか? あざとすぎません? 今時そんなベタなの流行りませんよ』とでも言うだろう。
と思っていると、竹真くんが水斗の腕の中のぬいぐるみをじっと見つめていた。
そういえば、元々は竹真くんの仇討ちだったっけ?
でも、男の子がこんな可愛いぬいぐるみ、喜ぶのかな……?
「ん?」
その視線に気付いた水斗が、目を細めてぬいぐるみの顔を見直した。
「ああ……あれか」
そしてそう呟くと、
「ん」
と、竹真くんに、ぬいぐるみを押しつけたのだった。
竹真くんは反射的にぬいぐるみを受け取って、大きな目を瞬きながら、水斗の顔を見上げる。
「あっ……えっと……」
「僕はいらないから、もらってくれ」
ぶっきらぼうに言われて、竹真くんはぎゅっとぬいぐるみを抱き締めた。
「あ……ありがとう……」
うーん……似合う。
男の子とはいえ、竹真くんは可愛らしい顔をしているから、ぬいぐるみが物凄く似合う。
それに、緩んだ口元を見るに、本当に欲しかったようだった。
私はこっそりと水斗に尋ねる。
「(なんでわかったの?)」
「(あのぬいぐるみ、ゲームのキャラなんだよ)」
「(え? そうなの?)」
「(ポケモン。竹真がやってるのを見たことがある)」
ああ……言われてみれば。
嬉しそうな竹真くんから、仏頂面の義弟に視線を移す。
「(意外とよく見てるんだ。全然喋らないくせに)」
「(……あの性格だと、苦労するだろうからな)」
水斗は別に人見知りではないけれど、集団には馴染めないタイプだ。
私が竹真くんに親近感を覚えるように、この男もまた、竹真くんを気にかけてはいたんだろう……。
だったら、ちゃんと話しかけてあげればいいのに。
実は竹真くんに尊敬されてるって知ったら、こいつ、どういう顔をするだろう?
「(あなた、お兄ちゃんとしても不器用なのね)」
「(『も』ってなんだ。僕がいつ不器用なことをした)」
「(ますます私の兄をやらせるわけにはいかなくなったわ)」
「(君に姉をやらせるよりはマシだろう)」
ホント減らず口。少しは竹真くんの素直さを見習ってほしい。
不機嫌ぶって鼻を鳴らす水斗の横顔を見て、私はくすりと笑みを零した。
「花火って何時くらいに上がるんですか?」
その後も、円香さんに連れられて夜店を回った。
たこ焼きやわたあめといった食べ物系はもちろん、金魚すくいをしてみたり、自動手相占い機なんて怪しさの塊に手を突っ込んでみたりもした。恋愛運絶好調とか抜かしやがったので、あの機械、ポンコツだと思う。
ゆっくりとだけど、神社の本殿にも近付いていて、どうやらお参りもできそうだ――縁結びの神様には、やっぱり用はないけれど。むしろ一発殴りたい。
ただ、この人出だと、先に場所を取っておかないと花火がまともに見えないんじゃないかなと思って、円香さんに尋ねてみたのだ。
「んー。確か8時くらいだったと思うけど」
円香さんはポップキャンディーをちろちろと舐めながら、
「場所取りは頼んであるから、心配しなくても大丈夫だよ」
「頼んである?」
「あ、おじさんたちだ」
唐突に円香さんが言ったので、私はその視線を追う。
と、社務所らしき建物の前で、お母さんと峰秋おじさんが、誰か知らない大人の人と話していた。
お母さんたちは確か、水入らずでデートするって言ってたはずだけど……。
「誰と話してるんでしょう?」
「誰だったかなー、あのお婆さん。ほら、ウチって一応、昔は地元の名士ってやつだったから。大人の付き合いが多いんだよねぇ」
じゃあお母さんが挨拶してるのかな。あるいは、たまたま顔を見かけて話し込んでるだけかも。私も行ったほうがいいのかな……?
「――あっ、結女ー! 水斗くーん!」
お母さんが私たちに気付いて、手を振った。
私は繋いでいた水斗の手をさりげなく離す。さすがにお母さんたちの前では面倒なことになる。
円香さんや竹真くんと一緒にお母さんたちに近付くと、
「ちょうど良かった! 祁答院さん、娘の結女です」
「あらあら。可愛らしいお嬢さんだこと。浴衣がとてもお似合いね。最近の若い方には珍しい……」
「あ、ありがとうございます。伊理戸結女です……」
紹介がなかったから結局どこの誰なのかわからなかったけど、どこか上品な物腰のお婆さんだった。なんかセレブっぽい。
「嫁のもらい手に困らなそうで羨ましいわ。ウチの孫娘ったら、もう30近いのにまだフラフラして……」
「えー? 今時30なんて全然若いですよー! 大丈夫大丈夫!」
ついさっき『誰だったっけ?』と言っていた相手に臆さず切り込んでいく円香さん。よく言えば勇敢だけど、悪く言えば無神経だった。でもその性格、ちょっとだけ分けてほしい。
「水斗くんにも、お父さん以外の家族ができたのね」
上品なお婆さんは、柔らかく微笑んで私を見つめた。
「他人事ながら、夏目から話を聞いて心配していました。あなたも環境が変わって大変でしょうけれど、水斗くんをよく見てあげてくださいね」
「……はい」
うなずきながらも、少しだけ、違和感があった。
まるで水斗が、誰かの支えがないと生きていけない、可哀想な生き物みたいだ、と。
私の知る伊理戸水斗は、周囲とは絡まないけれど、その分、何でも一人で片付けてしまうタイプの人間だ。
可哀想な人だと思ったことなんて、一度もない。
本当に同じ人間のことを語っているのか、わからなくなった……。
「種里家の皆さんには、よく花火が見える場所を取ってあります。ご案内致しましょう」
「毎年ありがとうございます」
「結女や円香ちゃんたちはどうする? 花火まではもう少し時間があるけど――」
どうしようか、と思って、後ろを振り返った。
そのとき、気付く。
すぐそこにいたはずの水斗が、いつの間にかずいぶん離れていて。
すうっと――人波に溶けるようにして、いなくなったことに。
「……あ……」
逃げた、わけじゃない。
疎んだ、わけじゃない。
まさに――溶けた。
私にはそう見えた。
最初からいなかったかのように、水斗は世界から消え去った。
「あー……またいなくなっちゃったかぁ」
円香さんが遅れて気が付いて、困ったように眉尻を下げる。
「どうしてかな……。水斗くん、いつも花火の直前になると、一人でどっか行っちゃうんだよね」
そのときだ。
私の脳裏に、ここ数日のことが一気に蘇った。
――初日。
水斗が宴会を辞するとき、峰秋おじさんは『ありがとう』と言った。
今ならわかる。きっとあれは、『付き合ってくれてありがとう』という意味。
あの宴会が、水斗にとっては楽しくない場であることを、実の父親であるおじさんだけは知っていたから。
――二日目。
水斗は徹頭徹尾、自分からバーベキューに参加しようとはしなかった。
ずっと、本の世界にのめり込んで、顔を上げることさえなく。
私が絡みに行ってようやく、その重い腰を上げた……。
――三日目。
水斗は竹真くんと話している私を見て、明らかに不機嫌になっていた。
まるでオモチャを取られた子供のよう。
だけど、竹真くんを悪く思っていたわけじゃない。だって――
――今日。
水斗は、親戚の人たちを無視していたわけじゃない。
事実、竹真くんのことをよく見て、気にかけていた。まったく無関心だったなら、ぬいぐるみを渡すなんて思いつきもしなかったはずだ。
まだだ。まだ思い出す。
――母の日に、実のお母さんの仏前で見せた無の表情。
――水斗の中にある自分の居場所が失われることを、何よりも怖れていた東頭さん。
――その東頭さんを水斗がフッた理由、『席が埋まっている』。
そして。
――綾井
――……いや……
――実は、そろそろ、スマホの充電がヤバくてさ
あのとき、充電ができない環境にいたんだとしたら。
私はスマホを見た。
8月12日、午後7時26分。
そうだ。
そうだ、そうだ、そうだ。
私は知らなかった。あの頃の私は知らなかった。
二年前の私は。
この時期の彼が田舎に帰っていて、地元の夏祭りに足を運んでいたことなんて、知らなかったんだ。
――『ぼくは、あなたに引き留めてほしかったのです。』
ただのクラスメイトだった頃。
彼女だった頃。
そして、家族になってからのこと。
いろんな立場で見た、いろんな伊理戸水斗が。
パズルのピースのように連なって、繋がって――立体感のある像を、結んでいく。
私は知らなかった。
恋人になった程度じゃ、わかるはずもなかったんだ。
人の在り方は、きっとすべてが、あるべくしてそのようになる。
彼にはどうしようもなかった。
すべては、自然の成り行きだった。
周囲がそう捉え、そう求め、そう語り。
自身さえもそれを認め。
伊理戸水斗という人間ができあがった。
だから、きっとそれは、抵抗だった。
往生際の悪い足掻きだった。
綾井結女というよすがが、彼にとって、唯一の武器だったのだ。
何と戦うのかって?
決まっている。
神様のトラップ。
すなわち、運命である。
「……私」
だから。
彼と一緒に、その天敵に翻弄されてきた私は、自然と口にしていた。
「行ってきます」
それを聞いた円香さんは、すぐににひっと笑ってくれた。
「ん。行ってらっしゃい」
あのときの着信履歴は、まだ、このスマホの中に残っている。
◆ 伊理戸水斗 ◆
物心ついた頃から、実感がなかった。
何をしても他人事で。
何を見ても絵空事で。
人が人生と呼ぶもの、そのすべてが、モニターを一枚隔てた向こう側にあるように感じられた。
別に『人間失格』を気取っているわけじゃない。
もちろん被れたことはあったし、『これは僕だ』と感じたこともないではなかったけど……当然、僕と太宰治は別の人間であって。
ただ、共感ができなかったんだ。
クラスメイトが喜んだり、悲しんだり、怒ったりしているときに、それを我が事のように感じることができなかった。
たぶん、知っていたからだろう。
よかったね。
可哀想だね。
そんな言葉をかけても、ただただ空虚でしかないということを。
だって、僕は何度も何度も聞かされてきた。
無事に生まれてこれて、よかったね。
お母さんがいなくて、可哀想だね。
何度も――何度も――何度も何度も何度も何度も。
知ったことじゃない。
僕には、本当に、知ったことじゃない。
ただ、普通にここにいるだけなのに、息をしているだけなのに、どうして褒められたり、憐れまれたりしなくちゃいけないんだ?
わからない。
わからないから、僕の中にはただ、何もない穴が広がっていくばかりだった。
その穴の中を、見たもの聞いたもの、そのすべてが、音もなく素通りしていくのだ……。
そんな中……唯一、リアルに感じられたのが、文字の世界だった。
ひい祖父さんの『シベリアの舞姫』を読んだときの衝撃は、今でも忘れられない。
全部白黒の文字なのに、そこにはどんな大作映画よりも色鮮やかな人生があり、感情があり、人間がいた。
何を見ても共感できなかった僕は、文字に変換された世界に触れて初めて、心を満たすものを知ったのである。
『舞姫』で人の弱さを知り。
『羅生門』で人のエゴを知り。
『山月記』で人のプライドを知って。
そして『こころ』で、人の心を知った。
現実と虚構の関係は、とっくに転倒している。
僕にとっては、虚構の世界のほうが本物で、現実の世界のほうが偽物だったんだから。
だから……綾井結女のことだって、最初は成り行きだったんだ。
話しかけたのは気紛れで。
図書室で会うようになってからも、ずっと、モニター越しに話しているような感覚で。
だけど……そう。
決定的だったのは、やっぱり、初デートで夏祭りに行ったとき。
鈍臭いあいつがはぐれて、迷子になって、スマホ越しに泣き言まで言い始めて。
心底だ。
心底――イライラした。
こんなに弱い人間がいるのか。
他人がいないとまともに呼吸もできなさそうな、こんな人間が。
きっと僕が見捨てたら、彼女は誰も知らない暗がりの中で、ずっと泣き続けているんだろう。
ああ――
――なんて、可哀想なんだろう。
そのとき、ようやく、……自分に向けられていたものの正体を知った。
綾井が鈍臭いことも、弱々しいことも、誰かがいなければ何もできないことも、元から全部知っていたけど――でも、それはただの情報で。
小説を読んだときのように――否、それよりも強烈に、僕の心に焼きついたもの。
それが君だったんだよ、綾井。
僕にとっては、君だけが、リアルに感じられる人間だったんだ。
わかってる。
きっと一時の気の迷いだ。
脳が起こした錯覚だ。
すべてが終わった今なら、はっきりとそうわかる。
だけど――
――なぜか、あの頃の感覚がまだ、この魂に焼きついているんだ。
どうしてだろう。
元に戻るだけなのに。
どうしてだろう。
困ることなんか何もないのに。
どうしてだろう。
昔の恋が、終わってくれない――
◆ 伊理戸結女 ◆
参道から外れたところに、細い分岐ルートがあった。
確証があったわけじゃない。
ただ、直感に衝き動かされて、私は人波を抜け、その道に足を踏み入れた。
一応、最低限、石畳で舗装されてはいる、森の中の小道。
慣れない草履でそれを抜けると、そこには、小さめの社があった。
辺りは、暗い。
縁日の明るさが嘘のように、狭い境内は闇に包まれている。古い灯籠があったけれど、使われている形跡がない。
代わりに、空から射す月明かりが、バスケコート程度の境内を照らしていた。
境内の中心を貫く、参道の先。
拝殿に上がる階段の中ほどに、伊理戸水斗は腰掛けていた。
水斗は、何をするでもなく、ぼーっと夜空を見上げている。
だから私は、自分の存在を主張するように、草履で石畳を踏み叩きながら、彼に近付いた。
「よっぽど暗いところが好きなのね」
たっぷり嫌味に。
今の私らしく。
「もやしの生まれ変わりか何かなの? さっきもオモチャの銃で腕プルプルしてたものね」
水斗の視線が夜空から私に降りると、その眉がかすかにひそめられる。
そうだ、こっちを見ろ。
疎んでもいい。嫌ってもいい。
だって私は、もうあなたの彼女じゃない。
「……わざわざ嫌味を言いに来たのか? 親戚にすら馴染めない寂しい奴だって」
「まさか。そんなの、とっくの昔にわかっていたことだもの。口に出すだけ時間の無駄よ」
「ふん」
一歩、二歩、三歩。
近付くごとに、彼の吐息を、匂いを、温かみを、強く強く感じてゆく。
身体の弱いお母さんから、無事に生まれてこられたことが奇跡だなんて、私は思わない。
それは単に、頑張ったからだ。伊理戸河奈さんが、頑張って頑張って頑張って、子供を産んだから。生まれただけのこいつに、褒められる謂れはない。
母親という存在を知らないことが可哀想だなんて、私は思わない。
確かに、父親のいない私は可哀想かもしれない。だって、知っていたから。家族が全員揃っている生活を知っていて、それが突然、失われてしまった。そのときの悲しさを……知っていたから。
でも、最初から知らないのは別だ。
彼は母親がいる生活を元から知らない。それを奪われたわけじゃない。
だとしたら、母親がいないから可哀想だなんて、そんなのは価値観の押しつけだろう。
恋を知らない人間に、恋したことがないなんて勿体ないと、上から目線で言うのと同じ。
自分が知っているものを知らないからと、一方的な憐憫を押しつけているだけだ。
『よかったね』も『可哀想だね』も、全部、彼にとっては他人事。
自分の中から湧いてきたものじゃない。
人格にも量子力学のような観測者効果があるのだとしたら――他者の視線が、人を形作るのだとしたら。
押し着せられた『母親のいない可哀想な子』というキャラクターは、彼の中で、巨大な虚無と化しているに違いない。
――ただ……なぜか、最後まで読めた
――生まれて初めて、自分の力だけで読み切った、物語だ……
とある作家が言ったという。『小説が書かれ読まれるのは、人生がたった一度しかないことへの抗議だと思います』。
その通り、抗議だったんだろう。口下手な私が、すらすらと論理立てて推理を語る名探偵に憧れたように。彼は、勝手に虚無で埋め尽くされた自分の人生に抗議するために、自分以外の人生に魅了されたのだ。
伊理戸水斗は、何も持っていなかった。
よそからの借り物で、ひたすらに空白を埋め続けていた。
最初から知らないのは、可哀想じゃない。
悲しくも、寂しくもない。
何も持たない以上、何も失うことはできない。
けれど、たったひとつ、彼が失ったものがある。
それこそが唯一、彼にとっての奇跡であり、可哀想なこと。
だって、そうよね、水斗。
――失ったはずの
「……二年前」
拝殿の手前に座った水斗に歩み寄りながら、私は言う。
「夏祭りが、初デートだったわよね。私が迷子になって、通話で泣き言を言って……」
「は……?」
当惑する様子の水斗に、でも、私はもう恐れない。
「その何日後だったかしら。……夜に突然、あなたから通話をかけてきたことがあったわね」
風が吹き、ざざあっと葉擦れの音が広がった。
「覚えてる。声の後ろからかすかに、木が揺れる音がした。……ここ、だったんだ」
あのときもあなたは、この人気のない社で、独りでいて。
でも、その年に限っては……私に、通話をかけてきた。
「あなた――」
くすりと、私は、二年前にはできなかった笑い方をする。
「――私のこと、本当に好きだったのね?」
今の今まで、告白したのは私からだと思ってた。
だけど……それは、間違いだったのね。
だって、いつも一人だった場所と時間に、私だけを招き入れようとしたんだから――その行為が告白じゃないのなら、いったい何が告白なんだという話だ。
水斗は、何も言わなかった。
仏頂面でそっぽを向く彼の前で、私はちらりとスマホを見て時間を確認する。
午後8時、って言ってたっけ。
私は水斗が座る階段に足をかけ、彼の隣に腰を下ろす。
距離感は、拳二つ分。
これが、今の私たちの、適正な距離。
「ねえ、覚えてる?」
星の光が散らばる空に視線を投じながら、私は口を開いた。
「付き合い始めて、初めて登校した日。私が恥ずかしがって、バラバラに学校に入ることになって。……あのとき、開き直って二人で教室に行ってたら、何か変わったのかしら?」
「……………………」
「ねえ、覚えてる? 初めて休みの日にデートしたときは、私がミニスカートを穿いていったわよね。妙にリアクションが薄いと思ったら、ふふっ、別れ際になって、外では露出を控えてほしいとか言って。意外と可愛いところもあるんだなって思ったわ」
「……………………」
「ねえ、覚えてる? 体育のサッカーでは、驚天動地の運動音痴ぶりを晒していたわよね。彼氏の活躍を楽しみにしていたのに、ひどくがっかりさせられたわ。まあ、親近感を覚えた部分もあったけどね」
「……………………」
「ねえ、覚えてる? 中間テストの前には、一緒に勉強したわよね。隙あらばイチャついて、全然身が入らなくて。私があなたの消しゴムを保存したのもこの頃だったっけ……」
「……………………」
思い出が、とめどなく湧いてくる。
誰に押しつけられたわけでもない。
誰からの借り物でもない。
私たち自身が作った、思い出が。
「11月だったっけ? あなたが風邪を引いた私をお見舞いに来たの。今にして思えば、あなた、私のパジャマ姿が見たかったんでしょ? 本当にムッツリなんだから」
「……………………」
「期末テストで、中間のリベンジをしようとしたのよね。だから人の目がある図書館で勉強して……なのに結局、我慢できなくて……ああもう、あのときは本当にどうかしてたわ。子供とはいえ、まさか人に見られるなんて……」
「……………………」
「クリスマスには、恋人らしいデートをして。でも、肝心なところで人見知りを発揮して、プレゼントを渡せなくて……。あなたが夜に家に来てくれたときは……うん。本当に、嬉しかった……」
「……………………」
「確か、春休みだったかな。あなたが、私を部屋に呼んだのは。私、すごく緊張したのよ? でも、あなたは全然平気そうで……結局、最後まで何もしないし。そういう目的で私を連れ込んだくせにね。今思うと、よくあの頃の私にそんな気持ちになったわよね。自分で言うのも何だけど、完全に幼児体型よ?」
「……………………」
「その他にも、古本屋巡りをしたり、席が隣同士になったときは人目を忍んでメモを渡したりしてたわよね。あれ、ちょっとドキドキして楽しかったな……」
「……………………」
「ねえ」
物言わぬ元カレに、私は問う。
「初めてキスしたの――いつだったか、覚えてる?」
私は、覚えてる。
夕焼けに染まる通学路で、幸せな気持ちでいっぱいになった、あの日のこと。
たったの一度も、忘れたことはない。
隣を見る。
水斗は、茫洋とした瞳で、夜空を見上げている。
その唇が――小さく開いて。
「…………10月の、27日」
星空に投じるように、そっと呼気を吐いた。
「付き合い始めて……ちょうど、2ヶ月のときだな」
「やっぱり、覚えてた」
「わかってたのか?」
「だって、川で私のスマホのパスワード、解除したでしょう?」
「……日付をパスワードにするの、やめたほうがいいぞ」
「そんなこと言って。あんなにすぐ『1027』って入れたのは、自分でも使ってたことがあるからじゃないの?」
水斗は黙秘権を行使した。もう、その沈黙は、答えているようなものだ。
「そう、ちょうど2ヶ月だったわね。その機を逃すと、3ヶ月になるまで待つことになりそうな気がして、ちょっと焦ってた」
「僕はてっきり、雑誌かネットの胡乱な情報を鵜呑みにしたのかと思ったよ」
「う。……ま、まあ、参考程度には見たけどね。参考程度には」
「でも、どうせ君のことだから、そういうマニュアルでもない限り、あんな大胆なことは一生できなかっただろうな」
「悪かったわね、マニュアル人間で! 彼女の健気な努力を褒めなさいよ!」
「えらいえらい。キス顔もいっぱい練習したんだな」
「なっ……なんで知ってるの……?」
「見ればすぐにわかったよ。君が初めてであんなに綺麗にできるわけがない」
「失礼ね! 私でもたまには、アドリブが上手くいくときもあるんだから!」
「そういうときは大体、僕がフォローしてやってただろ」
「あー、恩着せがましい。そういうのはあえて言わないのがいい男なんじゃないの?」
「今さら君にいい男ぶって何の得があるんだよ」
「それもそうね。何のメリットもなかったわ。これ以上幻滅しようもないし」
「まったくもってこっちの台詞だな」
詰まることなく、止まることなく、すらすらと言葉が重なる。
私たちの、私たちだけの、誰に押しつけられたわけでもない言葉が。
「言い返したいんだけどな。初めて君がデートでミニスカートを穿いてきたときのこと」
「ああ。あなたがみっともない独占欲を剥き出しにしたときのことね」
「それだよ! あれは単に、君にミニスカートが似合ってなかっただけであって――」
「あー、はいはい。私のパジャマ見たさに家まで押しかけてきた人が何か言ってますねー」
「いや、あれはだな、一応は彼氏として見舞いに行っただけで」
「ふうん? その割には今でも、パジャマで歩いてると視線を感じるんですけど?」
「それは本当にただの自意識過剰だろうが!」
「あっ、『それは』って言った! 『本当に』って言った! やっぱり私のパジャマが見たかったんじゃない、ムッツリスケベ!」
「誰がっ……」
「あーあ。ヘタレな彼氏を持つと苦労するわよね。あなたがムッツリだったせいで初体験チャンスも逃すし」
「……あんなお互いにガチガチの状態でやろうとしても、どうせ失敗したよ」
「あっ……!? 言ったわね!? 言ってはならないことを!」
益体のない会話。
クラスメイト同士が教室でするような。
家族同士がリビングでするような。
なのに、ここまで辿り着くのに、私たちはどれだけかけたんだろう。
彼はどれだけかかったんだろう。
「ねえ」
「なんだ?」
「どうして、私を彼女にしたの?」
会話の継ぎ目に放り込んだ。二年間、ついぞ訊けなかった質問を。
水斗は少し考える間を置いて、
「たぶん、君じゃなくてもよかったんだろうな」
「はあ?」
「こんなのは結局巡り合わせ、ただの偶然だろ? もし仮に、君よりも先に東頭と出会ってたら……君と付き合うことは、なかったんだろうな」
「……そうね」
だって、必要がない。
先に東頭さんがいたなら、私が入り込む余地なんてありはしなかった。
「でも、現実には――僕が出会ったのは、君だった」
確かな声音で、水斗は告げた。
「単純な椅子取りゲーム、早い者勝ちの原則だ。理由があるとしたら、たぶんそれだけだ。……満足したか?」
「……うん」
椅子取りゲーム、早い者勝ち。
たまたま早く出会っただけ。
大いに結構。上等だ。
だって――きっとそういうのを、運命と呼ぶんだろうから。
「そろそろね」
「ん?」
「二年越しの、悲願でしょ?」
そして、私にとっては一年越しの。
去年の夏休み、希望的観測に縋っていた私のもとには、彼は現れなかった。
だから今度は、私から来た。
あのとき、待っているだけじゃダメなんだって、よくわかったから。
きっと誰も疑わない。
伊理戸結女が、綾井結女を超えたことを。
午後8時00分。
スケジュールに遅れはなかった。
夜空の真ん中に、光の花が咲く。
どんっという鈍い音が、全身を震わせる。
私が、水斗が。
極彩色の輝きに照らされて、とりどりに色づいた。
続けざまに弾ける花火は、思った以上の迫力で。
なるほど、この古い社は、水斗しか知らない穴場だったのだろう。
どこよりも花火を綺麗に見られる場所を知っていながら、誰にも伝えることなく、毎年一人でこの壮麗な空を眺めていたのだ。
でも――ああ、ざまあみろ。
貸し切りは今年でおしまいだ。
「やっと――二人で見れたわね?」
極彩色に照らされる横顔に、私は悪戯っぽく言ってやる。
ホントに、本当に、わかりにくい。
面倒で厄介で意地っ張り。
こっちで察してあげないと何にもわからない。表情にも出ないし、言葉にも出さないし。本当に、こんな奴に彼女がいたなんて信じられない。
長続きしなくて当たり前だ。
一年ならよく保ったほうだ。
家族にでもならなくちゃ――こんな男のそばにい続けるなんて、できるはずもなかった。
「…………ああ…………」
でも、そのおかげで。
この男と出会ってから、一度だって見たことのなかった顔を、見ることができた。
「……………………ああ……………………」
呻くような声は、花火の轟音で掻き消える。
同じように、花火の閃光が、境内の闇を、彼の表情を、強く強く塗り潰す。
だから――ここじゃないと、わからなかった。
一緒にこの場所にいて。
拳二つ分の距離を開けて、隣同士に座って。
間近からその横顔を見られる、ここじゃないと――
――水斗の頬を伝う雫に、気付けなかった。
ああ、思い出す。
私は果たして、何度彼の前で泣き言を吐き、みっともなく涙を流したか。
それに対して、彼の泣き顔を、一度でも見たことがあったか。
だから、私の胸を訪れたのは、初めての気持ちだった。
ドキドキと胸が高鳴るわけじゃない。
ポワポワと幸せが湧き起こるわけでもない。
緊張で身体が強張るわけでも、顔を赤らめるでもなく、ただただ平常心のまま。
まるで抱き締められるように、暖かな熱が全身を巡っていく。
穏やかに、欲が疼いた。
そう、これは欲だ。人類の本能だ。
だから。
確かめないと。
花火はそう長いものではなかった。
夜空を彩る光が消えて、境内に闇が戻ってくる。
輝きに慣れた目は、闇をいっそう深くして、間近にあるはずの彼の姿さえおぼろげにした。
だから、前とは違って、声で言う。
「ねえ……こっち見て」
「ん?」
彼の頭のシルエットが動く。
ああ――ダメじゃない、そんな無防備に。
そんなに油断したら……取って食われても、文句は言えないわよね?
私は両手で、水斗の頭を固定した。
「っ!? ちょっ――」
続きは、言わせない。
大丈夫。
暗くても、あなたの唇の場所なら、よくわかってる。
私の唇に、懐かしい感触が復活した。
顔は、右に少し傾ける。
歯が当たるなんて下手は、もうしない。
3秒に1回の息継ぎも、今回ばかりは必要ない。
だって、あなたを逃がしたくないから。
4秒――失った時間を、取り戻す。
5秒――1年前、連絡を取らなくなってから、今までの。
6秒――8月、9月、10月。
7秒――誕生日、クリスマス、お正月。
8秒――バレンタイン、ホワイトデー、卒業式。
9秒――義理のきょうだいになっちゃって。
10秒――別れたはずなのに、振り回されて。
唇を、ゆっくりと離す。
あったはずの時間が、埋まりきる。
私は現在に追いついて――
――なのに胸が、穏やかに鳴っている。
欲は、充分に満たされた。
できなかった期間の分は、完全に取り戻した。
あの頃の関係が続いていればと……そんな未練は、もうどこにもありはしない。
暗さに目が慣れた。
驚いて固まった水斗の顔が、間近に見えた。
そうだ。驚け、戸惑え、悩み抜け。
あなたにとっては、まだ未練でしかないのかもしれない。
終わった恋をいつまでも引きずる、みっともない感情でしかないのかもしれない。
今はそれでもいい。好きなだけ過去と戯れていればいい。
でも。
たとえあなたが、どれだけ綾井結女を好きだったとしても――
――
今のキスは、宣言だ。
綾井結女ではなく、伊理戸結女として。
生涯二度目のファースト・キスが、あなたに宣戦布告する。
東頭さんをフッたときに言った、あなたの中の一人分の席――
――そこに居座っている女を、必ず蹴落としてやる、と。
私はくすりと笑うと、固まっている水斗を置いて、階段から腰を上げた。
それから、今まで背にしていたお社に目を向ける。
まさか、同じ男を二度も好きになるなんてね。
これも神様のトラップ――すなわち、運命か。
神様、てめえ。
……今は少しだけ、感謝してます。
「帰りましょ、水斗」
座りっぱなしの水斗に手を差し出すと、彼はぱちくりと目を瞬いて、自分の唇にそっと触れた。
「え? いや……」
「早く! お母さんたちが心配するじゃない!」
まごつく水斗の手を取って、無理やり立ち上がらせる。
そのとき、後ろのほうでガサッと草が揺れた気がするけど……今は、珍しく狼狽する水斗を引っ張るのに、夢中だった
「――あ! 二人とも帰ってきたーっ!」
最後にみんなと別れた社務所まで戻ってくると、円香さんが待ってくれていた。
その背中の後ろには竹真くんの姿もある。……? なんでかわからないけど、浴衣の裾に葉っぱが付いてる。
「あー、よかったー……。二人まで迷子だったらどうしようかと」
「え? 私たちまで……って?」
「実はさっきまで、竹真が迷子になっててね――いたっ!?」
竹真くんが、何か抗議するように円香さんの背中を叩いていた。珍しい。あの大人しい竹真くんが暴力に訴えるなんて。円香さんも「何? どしたん竹真?」と戸惑っている。
首を傾げつつも、円香さんは私と水斗をささっと見比べると、すすっと私の耳元に口を寄せてきた。
「(もしかして、上手くいった?)」
「(……第一歩は踏み出せたんじゃないかと思います)」
「(おおっ! やるぅ! 何かあったらいつでも連絡してね! わたしは応援して――)」
そのとき、竹真くんが円香さんのふくらはぎをげしっと蹴った。
「いたっ!? ちょっ、何よ、どうしたの竹真!? 反抗期!?」
竹真くんは、私と水斗をちらりと見ると、ぐっと唇を引き結びながら俯く。
どうしたんだろう……? 何か嫌なことがあったのかな?
そんな弟の様子を見て、円香さんは「あ」と口を開けた。
「え……? マジ? そういうこと?」
竹真くんは俯いたまま、浴衣の袖でぐしぐしと目元を擦り始める。
「あ、あ~……それはなんというか、ご愁傷様というか……」
さすがお姉さん。竹真くんの意味不明の行動のわけがわかったらしい。
円香さんは弟の身体を抱き締めると、赤ちゃんにそうするように、ぽんぽんと背中を叩いた。
「大丈夫だよ~、竹真。そういう経験がいい男を作るんだからね。わたしの彼氏みたいなダメ男にならなくて済むよ!」
静かに泣き続ける竹真くんを、辛抱強くあやす円香さん。
私はこっそりと、隣の水斗に質問した。
「(ねえ、何があったのかしら? なんで竹真くん泣いてるの?)」
「(さあ……?)」
どうやら私たちは、本物の姉弟には遠く及ばないらしい。
まあ、今の私にとっては、そのほうが好都合なんだろうけどね。
※※※
別れは簡単なものだった。
「じゃーねー! また遊ぼうねーっ!! ほら、竹真も」
「……………………」
「いつまで不貞腐れてんの。ここでちゃんと挨拶しなかったら、連絡も取れなくなっちゃうかもよ?」
種里邸の門前で車に乗り込む前に、竹真くんはお姉さんに背中を押されて、おずおずと私の前に進んできた。
そして、ちらりと窺うように私の顔を見上げてはすぐに目を逸らすのを繰り返し、
「あ、あの……」
「うん。なに?」
「……そ……相談とか、しても、いい……ですか……?」
人見知り同士、相談があったら聞くと言ったことを思い出す。
私は迷うことなく、笑顔を浮かべて言った。
「もちろん。いつでも待ってるよ」
すると竹真くんは緊張からか、顔を真っ赤にして、
「あっ……ありがとうっ、ございます!」
珍しく大きな声を出してぺこりと頭を下げ、円香さんのところに戻っていった。
「おー、頑張った頑張った。……でも、脈がないのに引きずるとつらいぞ~……?」
「……うう……」
「あ、ごめんごめん! まだ生傷だった! しばらくいじるのやめるね!」
姉弟はそんな風に騒がしくしながら車に乗り込み、駅へと去っていったのだった……。
それから私たちも、種里家の御先祖様への墓参りを済ませた後、種里邸を発つことになる。
「ホンマにありがとうなぁ、結女ちゃん。水斗のこと、よろしゅう頼むで」
別れ際、微笑みながらそう言った夏目さんに、私も微笑んで返す。
「彼は、意外と強い人ですから。私がいなくても大丈夫ですよ」
「んん? さよか?」
「でも、頼まれてはおきます。……意外と寂しがりみたいなので」
後半は水斗には聞こえないように小さな声で言うと、夏目さんはにっこりと笑った。
「そら安心やなぁ」
そして車の近くに行くと、待っていた水斗が怪訝そうな顔で訊いてきた。
「祖母さんと何を話してたんだ?」
「なんだと思う?」
ん~? と顔を覗き込みながら訊き返してやると、水斗は仰け反りながら一歩引く。
「君……なんか、おかしいぞ」
「そんなことないわよ。情報が古いんじゃないの?」
「はあ?」
そこで、車の中から峰秋おじさんが声を上げた。
「そろそろ出発するぞー!」
はーい、と返事をしながら、私は車のドアに手をかける。
ドアを開くその前に、私は振り返った。
元カレにして、義理のきょうだいにして――好きな人に。
たっぷり嫌味に笑いながら。
「心配しなくても、私たちは義理のきょうだいよ、水斗くん」
「……当たり前だろ。結女さん」
過去が戻ってくることはない。
あの頃の幸せが、蘇ることはない。
けれど、新しく紡ぎ上げることはできる。
例えるなら――そう。
続編、制作決定。
詳細は続報をお待ちください。
◆ 東頭いさな ◆
リビングに戻ると、水斗君だけがソファーで寝息を立てていました。
あれ? とわたしは首を捻ります。
今日は水斗君の家で、一緒に映画――『君の名は。』を観た日。
観終わった後、水斗君が眠りこけてしまったわけですが、わたしの記憶が確かならば、水斗君は結女さんの太腿を枕にしていたはず……。
はてさて、わたしがトイレに行っている間に、結女さんはどこに行ってしまったんでしょう?
首を捻りながら、わたしはソファーに近付いて、その上で穏やかに眠る水斗くんを見下ろします。
このシチュエーションは、やっぱり白雪姫を連想しちゃいますよね。
毒で倒れたはずの白雪姫が、なんでキスが目を覚ますのか、子供の頃から謎でした。
御伽噺史上最大の謎とも言えるこの問題に、学校の作文で考察したことがあるくらいです。それを読んだ先生は、子供の割に高い文章力を褒めるべきか、作文に変なことを書くなと叱るべきか、決めあぐねる顔をしていました。
そのときのわたしの結論はこうです。
別に白雪姫じゃなくても、王子様じゃなくても、眠っているところにキスなんかされたら誰でも起きるでしょう、と。
毒は自然治癒力で何とかなったんでしょう。そもそも即死させられなかった時点で、女王が用意した毒リンゴは凶器として生温すぎます。
おっと、閑話休題。
つまり、わたしはこのとき思ったのです。
今、キスをしたら、水斗君もすぐに起きるのかな、と。
一度は結女さんに注意されてやめました。
けれど、その結女さんも今はいません。
ブレーキ不在です。
内から湧き上がる衝動を抑えるものは、どこにもいません。
……ダメじゃないですか、水斗君。そんなに無防備にしちゃ。
そんなに油断してたら……取って食べられたって、文句は言えませんよ?
まさか、誘ってるんですかね?
フッた手前、自分からは言えないから、間接的にわたしに手を出せって言ってるんですかね?
まあ、そうじゃないのはわかってます。
これは言い訳です。欲望を堪えきれない言い訳……。
だって、こんなの、我慢できるわけないじゃないですか。
水斗君の唇は薄くて、柔らかそうで、女の子みたいに綺麗で――
わたしが、いくらダメだって言い聞かせても、顔が吸い寄せられていくんですから――
薄い呼気が、唇に当たります。
心臓がバクバクと鳴って、今にも破裂しそうです。
もしかすると、告白したときよりも緊張しているかもしれません。
褒めてください、水斗君。
舌は我慢しますから、褒めてください。
そして、お願いですから。
あと一秒だけ、起きないでくださいね――
――そうして、わたしは、人生で初めてのキスを
「――なーんちゃって!!」
わたしは急激に恥ずかしくなって、タブレットPCに打ち込んでいた文章を消しました。
ふはー、と息をつきながら、自分の部屋の天井を見上げます。
うむむ……。さすがに
あの日の『やれたかも』という気持ちがあまりに尾を引いたので、小説にしたためてみようと思ったんですが、どうやらこれは禁じ手のようです。
そうです。ヘタレと笑わば笑ってください。
確かにわたしは、あの日、結女さんがいないうちに、リビングに戻りました。
けれど、眠る水斗君に口を近付けようとしたその時点で、『あっ無理』と思ってあっさり身を引いたのです。
わたしの人生で初めての――もしかしたら最後かもしれない――キスするチャンスだったのに!
……でも、眠ってる相手はダメですよね。はい。普通に犯罪です。
「……はあ……」
水斗君、早く田舎から帰ってきませんかねー。
会いたくて会いたくて震えます。……おっと、これを言うと『年齢バレるぞ』ってフォロワーさんに言われちゃいます。バレませんよ! 上の世代のおじさんたちが同じネタを延々とネットで使ってるのが悪いんです!
「……水斗君……」
わたしは抱き枕を抱き締めて、ベッドの上で転がります。
水斗君。わたしの友達。
あなたのことを考えるとワクワクします。明日は何を話そう。あの本読んだかな。あの話は気に入ってくれるかな。
この気持ちは、確かに恋だと思います。
でも、どうでしょう。結女さんや南さんに協力してもらって頑張っていた頃に比べると、彼女という肩書きにはさして魅力を覚えません。
友達と恋人って、大して変わんなくないですか?
友達でも一緒にいられるし、遊べるし、楽しいし、嬉しいし。
恋人と違って別れることもないし、デメリットといえばエロいことができないくらい。人によってはエロいこともやっちゃいますよね。
わたし、気付いたんです。
結女さんや南さんには申し訳ないですけど……水斗君の彼女になろうって頑張ってたあの頃より、今のほうがずっと楽しいんです。
だって、彼女になるには好かれなきゃいけないじゃないですか。
取り繕って、装って、自分を良く見せなきゃいけません。
疲れるんですよ。
その点、今の気楽さと言ったら!
一緒にいても緊張しませんし、お化粧軽くミスっても大丈夫ですし!
水斗君にその気がないのはわかってますから、性別にも気を遣わなくてOK!
その上――好きなままでいいんです。
いつか告白しないとってプレッシャーもなく、片想いをし続けられるんです。
永遠に片想いができるなら、わたしは両想いになんかなれなくても構いません。
だって、すごく楽しいですから。
いろいろ妄想したり、横顔を盗み見たり、不意の接近にドキドキしたり。
失恋ネタでからかったらちょっと狼狽えてくれたり。
そんな風に、推しが無限に供給されるんですよ? 楽しいに決まってるじゃないですか!
わたし、たぶん、失恋してません。
恋を失ってなんかいません。
たぶん、この片想いこそが、わたしに一番合った恋の形なんです。
ああ――わたし、最高にリア充です。
神様、お願いします。
叶うなら、一生、水斗君と友達でいさせてください。
水斗君に彼女ができたって一向に構いません。
きっと、誰かを好きになった水斗君も尊いに決まっています。
だから――神様。
わたしの片想いを、永遠に終わらせないでください。
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