06
以来、ヴァレリーはテネブラエを早駆けさせるエリシュカに、なかば強引に付き添ってきた。こうしてふたりで早駆けに出かけるようになってもう一年にもなろうかというのに、とヴァレリーは小さなため息をついた。彼女とはいまだに手を繋ぐことさえできていない。
ふたりきりの時間を過ごすことができる好機は月に一度か、多くても二度。エリシュカは多くの勤めを抱えてはいるが、ほとんど休みのたびごとにテネブラエを連れ出しているのだから、本当はもっと機会があるはずなのだが、エリシュカは決して自分からはその
もうこれ以上待つことはできそうにないな、と嘯いたヴァレリーは、ルナの背に乗せていた敷物を降ろして、木の下に設えた。あわせて持ってきた大ぶりの籠には、チーズやハムや野菜を挟んだサンドイッチと、エリシュカの好きな茶が用意してある。
ヴァレリーが、ふ、とひとつ大きな欠伸を終えたとき、草を踏み拉くテネブラエの足音が聞こえた。ルナがぶるりと鼻を鳴らすと同時に、地面に降りる軽い足音が響いた。
「アランさま」
背の高い草に邪魔をされて、地面に腰を下ろしたヴァレリーの姿が見えなかったのだろう、己を呼ぶエリシュカのやわらかな声につい笑みこぼれてしまっていたヴァレリーは、慌てて口許を引き締めてから、ここだ、と返事をした。
草を踏みつける軽い足音がいくつか聴こえたあとで、侍女の仕着せでもある濃茶色の外套を羽織ったエリシュカが姿を見せた。冷たい空気のなかを疾駆する馬の背に乗ってきたせいだろう、白い頬も小さな耳も、可愛らしい鼻先までもが真っ赤に染まっている。その様子に思わず微笑んでしまい、あの、とエリシュカに声をかけられる。
「ああ、すまない」
笑いを止めたあとで、ヴァレリーは軽く籠を持ち上げてみせた。炭火懐炉を入れておいた籠のなかはとても温かく、サンドイッチはほかほかと手に馴染む。二重にした金属で保温効果を持たせた魔法瓶には、まだ熱い茶がたっぷりと入っていた。
「朝食だ。つきあってくれ」
エリシュカは素早く瞬きを繰り返して、しかしなかなか頷こうとしなかった。アランさまとはこれまでに何度も早駆けには出かけたが、こんなことは一度もなかった、とエリシュカは怯える。
「おいで、エリシュカ」
籠を膝のすぐ傍に置き、敷物の中央に陣取ったヴァレリーはあろうことか自分の外套の裾を持ち上げてエリシュカを手招いた。もしも彼の仕種のままに従うのだとすれば、エリシュカは厩番頭の脚のあいだに座って、そこで朝食をともにすることになる。なんの冗談なの、とエリシュカは思った。
「早く。冷えてしまう」
ヴァレリーは満面の笑みでエリシュカを誘う。夏空色の瞳には一片の曇りもなく、それでもエリシュカはどうしても彼の傍に寄ることができなかった。
焦れたヴァレリーは腰を浮かせて両膝を突くと、おいで、と腕を伸ばしてエリシュカの手を取った。ぽすん、とごく軽い音ともにエリシュカの身体はヴァレリーの広い胸に受け止められる。ヴァレリーは外套のなかにエリシュカの冷えた身体を包み込むと、そのまま腰を落とし、自分が思い定めたとおりの体勢でエリシュカを腕のなかに抱き込んだ。
小さく震えるその身体は思ったとおりに華奢で薄くて、ヴァレリーはうっかりすると哀れみさえ覚えそうになる。びっくりしすぎて身じろぎもできずにいるエリシュカの手に、ヴァレリーは温かいサンドイッチを持たせてやった。
「早く食べろ、冷めてしまう」
あまりのことに言葉を見つけることもできずにいるエリシュカの頭をひと撫でしてから、ヴァレリーは、まず自分が、とばかりにサンドイッチに齧りついた。自分の身体を背後から片手で抱いたままの男が、もう片方の手で食事をしている、というありえない事態に硬直したままのエリシュカをさらにありえない事態が襲う。
「食べさせてほしいのか」
ヴァレリーの手がエリシュカの手からサンドイッチを取り上げ、口許へ寄せてきたのだ。
男と触れあう経験などまったく持たぬエリシュカは、この異常事態にほとんど泣き出しそうになった。ヴァレリーの外套にふたりでくるまっているおかげで温かくなっていた身体が、いまでは熱でもあるのかと思うほどに熱く感じられる。
「だ……」
「だ?」
まともに言葉さえ発せられぬエリシュカを笑うように、ヴァレリーは云った。
「だ、大丈夫です。……あの、自分でいただきます」
そうか、とヴァレリーは云って、エリシュカの手にサンドイッチを返してやった。もう二度とあんなことをされてはかなわない、とエリシュカはヴァレリーの片腕にしっかり抱き締められていることも忘れ、大慌てでサンドイッチを口のなかへ押し込んだ。
「そう急がなくてもいい。ゆっくり食べろ」
ついさきほど、早く食べろ、と云ったその舌の根も乾かぬうちに、ヴァレリーは甘ったるい声でそう云った。はじめて腕のなかに抱き込んだエリシュカの熱を手離したくないと思っているからだった。
「茶もあるからな」
はい、と答えるエリシュカの声はすっかりうわずっている。先ほどまでは冷たさゆえに赤く染まっていた頬は、いまは恥じらいと緊張とぬくもりのために上気していた。
「可愛いな、おまえは」
ひとつめを食べ終えると同時にふたつめのサンドイッチを渡され、エリシュカは腹よりも胸がいっぱいになって、もう食べられない、と思った。与えられる食べものを拒否するなど罰当たりにもほどがあるが、この異様な状況に胃の腑もすっかり縮み上がってしまっているのだろう。
「どうした?」
もう食べないのか、とヴァレリーはエリシュカの顔を覗き込んだ。瞬きの音さえ聞こえそうなほどの至近距離から見つめられて、エリシュカは声も出せない。
見目麗しく逞しく、そしていつでもエリシュカにやさしい厩番頭のアランは、彼女にとってひそかな憧れの存在だった。多少強引なところはあるにしても、彼はいつでもエリシュカの味方だったからだ。
手綱を引く指先同士がちょっと触れてしまっただけでも頬を染めて恥じらうほどに初心なエリシュカが、こんなふうに急に距離を縮められて怯えないわけはない。ヴァレリーにはそのこともなんとなくわかってはいたが、これ以上の時間をかけるつもりは彼にはないのだった。
「茶もある。飲むだろう」
飲み物ならばなんとかなるかもしれない、とエリシュカは大急ぎで頷いた。魔法瓶の蓋にもなっているカップに茶を注いだヴァレリーは、それをエリシュカに手渡し、自分はとうとう両腕でエリシュカの身体を抱き込んだ。
エリシュカは何度も何度も素早い瞬きを繰り返しながら、それでも震える手を叱咤しつつ茶を飲んだ。
「喉が潤えば、それも食べられるだろう」
ヴァレリーは云って、エリシュカの手からカップを取り上げた。軽く抱き込む以上のことをヴァレリーがしそうにないと気配で感じ取ったエリシュカは、そのあたりでようやくほんの少しだけ落ち着いて、ずっと手にしたままだったサンドイッチを齧りはじめた。
そうやってエリシュカがサンドイッチを食べはじめると、ヴァレリーは蕩けそうに甘ったるい眼差しでそんな彼女をじっと見つめる。エリシュカは落ち着いてなどいられずに視線を彷徨わせては俯き、顔を上げては瞬きを繰り返しながら、それでもどうにかこうにかサンドイッチを食べ終えた。
「まだあるぞ」
エリシュカは大慌てで首を振った。もうとても食べられない。
「頭が取れそうな勢いだな」
云いながらヴァレリーはエリシュカをさらに抱き寄せた。背中にヴァレリーの胸の温かくしっかりした感触を得たエリシュカは身体を強張らせて俯いた。
「なにもしない。大丈夫だから、エリシュカ」
少しのあいだだけこうしていてくれ、とヴァレリーは努めて穏やかな声を出す。
「こうしていれば暖かいだろう」
そう云ったのち、ヴァレリーは黙ってしまった。エリシュカはヴァレリーの腕のなかで俯いたまま草原を吹き渡る風の音を聴き、じっとこの夢のような時が過ぎるのを待っている。夜が明けたばかりの早朝の凍えるような寒空の下、こうして誰かの腕のなかに庇われることが、こんなにも暖かく穏やかで、泣けるほどに満ちたりた気持ちになるということをはじめて知ったエリシュカは、涙を堪えて幸せを噛みしめていた。
ヴァレリーには腕のなかのエリシュカの身体の強張りが、時間が経つにつれてゆっくりと解けていくのがわかった。急に距離を縮めたことに怯えていた彼女が、少しずつ自分の体温に慣れてきてくれたことがとてつもなく嬉しかった。
これだけ引き寄せてもなお、おれに凭れかかるでもない彼女とは、このぶんではくちづけのひとつもできそうにない。だがそれでも、エリシュカとの距離を縮めるという目的は果たせそうだ、とヴァレリーはなんともいえぬ甘くあたたかな気持ちを抱く。
ひときわ強い風が吹きつけたのを合図に、ヴァレリーはふと思いついたかのように口を開いた。
「エリシュカ。おまえの家族はどのような者たちだ」
家族、とエリシュカはどこかぼんやりとした瞳で草原を眺めながら呟いた。
「そうだ、家族。父や母、兄弟はいるのか」
はい、とエリシュカは小さく頷いた。
「両親と兄、それに妹がおります」
「息災なのか」
「おそらくは」
おそらく、とヴァレリーは問い返した。手紙のやりとりなどしているのではないのか。
エリシュカはしばらく迷ったのちに小さく首を振った。目を細めて揺れる銀色を見ていたヴァレリーは、そうか、と答えた。
「すまない」
自身の妃であるシュテファーニアや彼女付の侍女たちが、始終国許の家族や友人らと書状を取り交わしていることをヴァレリーはもちろん知っている。いずれは国へ帰る姫のこと、場合によっては間諜まがいの真似をしないとも限らないと、その内容にまで徹底した監視の目を光らせてもいる。
賤民であるエリシュカに、そうした私信の自由は与えられていないのか、とヴァレリーはひそかなため息をついた。
「会いたかろうな」
エリシュカは小さく、はい、と答えた。どのような問いを投げかけられても――それがたとえ、己が心を深く抉るようなものであっても――、エリシュカはヴァレリーの問いかけを、否、ほかの誰の問いかけをもなかったものとすることはできない。
聡いヴァレリーは、むろんそうしたエリシュカの心理に気づいている。エリシュカはきっとこう考えているに違いない、と彼は思った。己は賤民であり、賤民の身はそれを所有する主のものである。主に対し秘密を持つような奴隷は存在してはならない、と。
そうやってエリシュカの――この、いまやはっきりと愛しいと思う者の――心を支配する身分制度を、ヴァレリーは心の底から憎悪した。
「答えたくなければ、なにも話さずともよい」
おとなしく腕のなかに囲われたままのエリシュカが、首だけを捻って背後にいる自分を見上げてくる。なにを云われているのかわからない、とでも云いたげな薄紫色の瞳が愛しくてならないヴァレリーである。
「家族のところへ帰りたいか」
夏空色の瞳をやわらかく撓ませ、ヴァレリーは尋ねた。
「はい」
エリシュカははっきりと応じ、深く頷いた。ヴァレリーは知らず喉を鳴らす。
「この国にとどまる気はないか」
今度こそはっきりとエリシュカは身体を捻った。自分の身を緩く囲う腕をどうあっても解こうとしないヴァレリーの胸に縋りつくような姿になりながら、エリシュカはそれでもなお男の顔を見上げようと首を逸らす。
「この国で暮らす気はないか、と訊いている」
エリシュカは緩く、しかしはっきりと首を横に振った。
「故郷で家族が待っておりますゆえ」
「家族をこちらへ呼べばよい」
いいえ、とエリシュカは首を振った。形のよい眉を寄せ、どこか苦悶の表情にも似た訝しげな色をその可愛らしい顔に浮かべる。
「それはできないのでございます」
「なぜだ?」
「わたしは、」
エリシュカはそこでほんの一瞬、言葉を途切れさせ躊躇った。
「……賤民でございますゆえ」
仄かな憧れを抱くこの男が、いまの言葉のせいで自分を蔑むのではないかとエリシュカは思った。――賤民だと、穢れた女が傍へ寄るな。
だが、エリシュカが思い描いたような言葉をヴァレリーは口に乗せたりはしなかった。
「賤民?」
「賤民は、主の許しなしにどこへなりとも赴くことは許されません。わたしのこの身も王太子妃殿下の仰せのままにこの国へ参り、また去るものと定められております」
あれがはじめから国へ戻るつもりでいたことを知っていたのか、とヴァレリーは驚いた。であれば、エリシュカは故郷へ帰ることを前提にこの国へ来たことになる。ヴァレリーの胸が厭な感じに重苦しく塞がれた。
「去る、とは……?」
エリシュカはっとして口を噤んだ。
「お許しください」
「エリシュカ」
少し強い口調で名を呼んだあと、お許しください、となおも云う彼女の耳元にヴァレリーは唇を寄せた。
「案ずることはない。王太子夫妻が白い夫婦であることは有名だ。それが婚姻の当初からの約定であったこともな」
ひゅっと喉を鳴らして黙り込んだエリシュカに、ヴァレリーはやさしく笑みかけて言葉を重ねた。
「だから案ずるな」
厩番頭とて王城の一員だ、そのくらいのことは当然耳に入っている、とヴァレリーは重ねて云った。
「王太子妃はいずれ故国へ帰るのであろう。そなたもそれについて帰ると、そういうことか」
唇の端を震わせて暫し逡巡していたエリシュカは、やがて静かに頷いた。
「わたしの身は常に姫さまとともにあらねばなりません」
「なぜだ」
「姫さまはわたしの主にございます」
主、とヴァレリーの声に険が混じった。
「そなたの主はそなたであろう。王太子妃が国へ帰っても、そなただけはここへ残ればよい。国へ帰れば虐げられる身であるのなら、ここへ残り家族を呼び寄せればよい。それともそなたは、主が死ねと云えば死に、生きろと云えば生きるのか」
ヴァレリーがなにを云っているのかわからないエリシュカは、ひたすら瞬きを繰り返して、自分を腕に抱いたままの男を見上げている。
「ここへ残ってはもらえないか、と云っているのだ」
ヴァレリーはほとんど狂おしいほどの想いを乗せてそう呟いた。こうして腕のなかに囲ってさえ、ひたすら遠いエリシュカ。きっとここでくちづけても彼女の心は手に入らない。そう思って軽はずみな振る舞いはするまいと必死に自分を抑えてはいるが、言葉までをも抑えることはできそうになかった。
エリシュカはしばしのあいだ眼差しを泳がせ、しかしやがてきっぱりと首を振った。
「申し訳ありません。わたしはわたしの身を定めることはできないのです。おっしゃるとおり、姫さまが生きよと仰せであれば生き、死ねと仰せであれば死ぬことがわたしの務めでございます。それに……」
奥歯を噛みしめてエリシュカの言葉を受け止めるヴァレリーは、自らの身分を明かす言葉を叩きつけたい欲求と必死に戦っている。――おれはこの国の王太子だ。おれに望まれても、それでもなお帰ると、そう云うのか。
「わたしは家族のもとへ帰らなくてはなりません」
そうか、とヴァレリーはそのまま勢いよくエリシュカを抱き寄せた。
「ではこうして会えるのも、そう何度もないと、そういうことなのだな」
掻き抱いた腕のなかでエリシュカの身体が大きく震えた。逆らうこともできぬまま、しかしエリシュカは、はい、と小さく答える。
「家族が待っているというのでは、文句も云えない」
帰らねばならぬのであろう、とヴァレリーは云った。
「そなたが帰らねば、家族が罰を受ける。違うか」
エリシュカは答えなかった。その無言こそが答えであると悟ったヴァレリーは、それ以上重ねて問うことはしなかった。
本当は云ってしまいたかった。手前勝手な都合で他国へ遣ったくせに、ご丁寧にも帰らねば家族を殺すと脅すような主に、なぜそこまで義理を尽くす、と。
だが、ヴァレリーはそこまで恥知らずな男ではなかった。
彼は己をよく知っていたのだ。自分が口をきわめて罵ろうとしている神ツ国の教主と同じことを、否、ある意味では彼らよりもずっと非道なことを、これからエリシュカに対してなそうとしている己を。
「わたしたち家族は、特別なのでございます」
ヴァレリーの腕のなかでエリシュカが小さく云った。
「特別?」
問い返すヴァレリーに、はい、とエリシュカはかすかに頷いた。
もともと神ツ国の賤民は、家も家族も持たぬものとされている。己の財となるものをなにひとつ持つことを許されず、ただ主の意志の赴くがまま生涯をひとつところで使われるか、売られ買われて流されていくかのいずれかである。帰る場所を持たないがゆえに厳しい暮らしを強いられても逃げ出すことも叶わず、また主に仕える以外に生業を持つことができない。
「父の父、つまりわたしの祖父は、それはそれは優秀な厩医であったと聞いております。当時の教主さまの愛馬の危機を幾度も救ったとか。そのために祖父は賤民としては異例ながら、心に想う相手を妻とすることができました。祖母です」
ああ、とヴァレリーは頷いた。
「想いあう夫婦のあいだに生まれた父は、自分のことを、誰よりも幸せなこどもであった、とよく申しておりました。賤民の子は、親の顔を覚える前に主の顔を覚えるのが普通ですが、父は違いました」
ヴァレリーは肩越しにエリシュカの顔を覗き込む。やや顔を俯けたままのエリシュカは、伏せた眼差しを上げようとはしなかった。
「祖父に倣い厩医となった父もまた優秀でした。教主さまは、父にも家族を持つことをお許しになったのです。父は母を娶り、わたしたち兄妹が生まれました。父はわたしたちにいつも云っていました。家族は宝だ、ほかのなにものにも替え難い宝だ、と」
わたしが東国へ赴くことが決まったとき、とエリシュカはそこでふと顔を上げた。
「父はわたしにこう云ったのです。気をつけて行ってくるんだよ、と」
帰るあてなどあるはずのない道行であったはずだ。本来であれば、輿入れしたシュテファーニアが国へ戻ることなどあるはずがない。エリシュカは生涯を東国で過ごすことになるはずだったのだ。
おれたちの婚姻が短いものに終わることは、神ツ国では賤民でさえもが知る事実であったのだろうか、とヴァレリーは思った。そうだとすれば、この東国も王室も、おれ自身もずいぶんと莫迦にされたものだ。
ヴァレリーの怒りの気配を感じ取ったのか、エリシュカは慌てて付け加えた。
「父はなにも知りませんでした。父はただ、家族に別れを告げたくなかっただけのことなのです」
互いにその身が果て、亡骸が朽ちても、魂は同じところへ帰る、それが家族というものだ、というのが父の口癖でした、とエリシュカは云った。
「死してなお帰るべき場所は家族のもとなのです。生きて故郷へ帰ることができるというのであればなおさら、わたしはそれを果たさなくてはなりません」
エリシュカたち家族は、賤民たちにとってあるいは希望であったのかもしれぬ、とヴァレリーは思った。己には許されぬ宝は妬ましくも羨ましくもあっただろうが、その美しさはなによりの希望であったのかもしれぬ。
エリシュカの父はそれを知っていたからこそ、別れの言葉を口にしなかった。己が家族の別離は、自分たちだけではなく賤民すべての希望を挫くものだと知っていたからだ。
「わたしたち家族が生きてふたたび相まみえることは、わたしたちだけではなく、わたしたちと境遇を同じくするすべての者たちにとっての希望なのです」
血の繋がりさえも奪われる異国の賤民たちの悲哀を、なにもかもに恵まれたヴァレリーが理解することはできない。ただ、心の底から絞り出すように悲痛なエリシュカの声には胸が痛んだ。
決して幸せになどなれぬとわかっている場所へ戻ってまで、誰かに希望を与える必要などないのだ、と教えてやりたかった。そなたはそなた自身をこそ、なによりも大切にしなくてはならない。
不意にヴァレリーはエリシュカを抱く腕に強い力をこめた。驚いたエリシュカが身じろぎしようとすることさえ許さず、きつくきつく抱きしめる。
それは、一瞬にして燃え上がった激情だった。
誰かの希望になどなる必要はない。このおれの希望となってくれるのであれば。
家族のもとになど帰る必要はない。このおれの帰る場所となってくれるのであれば。
――おれのものになれ、エリシュカ。
「アラン、さま」
苦しげな声にヴァレリーは慌てて腕を緩めた。
「すまぬ」
耳元で囁けば、エリシュカは慌てて首を振った。白い首筋と耳朶を真っ赤に染める彼女の様子に、ヴァレリーはたまらないものを感じる。エリシュカは深く俯いて小さく続けた。
「ですから、わたしはなんとしても帰らねばならないのです」
その言葉が終わるか終らないかのうちに、エリシュカの身はふたたびヴァレリーの腕に強く強く抱き込まれた。呼吸さえままならぬほどの強い抱擁に、エリシュカの混乱は極みに達する。
「アランさま?」
動揺して幾度も自分の名を呼ぶ声がしても、今度こそは腕を緩めることなく、ヴァレリーはただただエリシュカを強く抱きしめ続けた。
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