19

 考えごとは終わったかい、とオルジシュカに問われ、エリシュカははっとしてわれに返った。オルジシュカの隣からはフェリシアーノが冷めた瞳を向けてくる。

「す、すみません」

「いいけどね、別に」

 あんまり気を抜かれるとこっちが心配になるよ、とオルジシュカは笑った。すみません、ともう一度云って、エリシュカは頬を真っ赤に染める。

 恥ずかしかった。己の愚かさが、堪えようもなく恥ずかしかった。

 フェリシアーノは、こっち、と短く云って再び歩き出した。

 エリシュカの目の前にはいつのまにか、いくつもの天幕が点在する集落が広がっている。草原の中にふたつ、三つと塊を作った天幕の集合は、ざっと数えても二十を下らなかった。少なくとも百人以上がともに生活している計算になる。

 海猫旅団、というフェリシアーノの言葉を思い出した。ここはその旅団とやらの本拠地なのだろうか。

「エリィ」

 はい、とエリシュカはオルジシュカをまっすぐに見上げた。すぐ傍らに立ってみると、オルジシュカはエリシュカよりも頭半分ほども背が高かった。

「これからこの海猫旅団の団長に挨拶をする。アルトゥロっていうやつでね。あたしの古い知り合いだが、ちょっと面倒な男だ。余計なことは云わずに、話を合わせるんだよ。わかってるね?」

 はい、とエリシュカはもう一度頷いた。

 エリシュカはオルジシュカとともに、数ある天幕の中でもひときわ大きなひとつに足を踏み入れた。明るい陽光に溢れた外界と内側とを隔てる紗幕をかきわけるようにしたオルジシュカは、アルトゥロ、と天幕の主に声をかけた。

「早かったな、オルジシュカ」

 まあね、と答えるオルジシュカの背後に立ったエリシュカは、親の背に隠れる幼子のように、自分がいまいる場所の様子をそっと窺った。

 太い柱に支えられて円錐型を作る天井からは、厚手の紗幕が落ちている。足元にもしっかりとして厚みのある絨毯が敷き詰められ、昼間だというのに油を使った洋燈ランプが煌々と灯されていた。

 いくつもの灯りが掲げられている天幕の中はとても明るい。その中央には人がふたりほども腰を下ろせるような、丈が低く背凭れのない円形の大きな椅子がいくつも置いてあって、そのうちのひとつに大きな男が腰を下ろしていた。

 まさに、大きな男、としか云いようのないその男が、オルジシュカがアルトゥロと呼ぶ、この天幕の――つまりはこの海猫旅団という謎の集団の――長なのだろう、とエリシュカは思った。

「変わりはないか?」

 男の声は低く太い。大柄な体躯に見合ったその声は、低い割によく響いた。

「相変わらずだよ」

 アルトゥロの問いに淡々と答えるオルジシュカは、彼の眼差しが自分の背後に立つエリシュカに注がれていることを感じ取っていた。アルトゥロがすぐにエリシュカについて問い質してこないのは、彼がまだエリシュカの検分を終えていないことを意味している。

 藪を突いて蛇を出すこともないだろうからな、とオルジシュカは思った。アルトゥロのやつがなにを云いだすか、それを待ったって遅くはない。こういうときは先に口を開いたほうが劣勢に立たされるものだ。

「フェリシアーノは大きくなっただろう」

 アルトゥロはそう云って、珍しい黄金色をした瞳を細く眇めた。彼は、フェリシアーノに似た褐色の肌に、白にも近い薄い金色の髪、黄金色の瞳をしている。

 アルトゥロと顔を合わせるたびに感じる同族に対する憐れみを押し殺しながら、オルジシュカは、そうだね、と答えた。身に纏う色が珍しいことは、その者にとって決して幸いなことではない。

「そうだね。いくつになった?」

「十五だ」

「もう立派な大人じゃないか」

 あんたみたいな男に子育てができるとは思わなかったよ、とオルジシュカは笑った。そうだな、とアルトゥロは頷き、それから、ひたり、とオルジシュカに眼差しを据えて、ところで、と云った。

「その娘は誰だ?」

「この子かい」

 オルジシュカは自分の背に隠れるようにしていたエリシュカを、ぐい、とばかりにアルトゥロの前へと押し出した。エリシュカはよろけるように二、三歩進み出て、戸惑いを隠しもせずに視線を彷徨わせた。

「エリィってんだ。あたしの客分だよ」

「おまえの?」

 アルトゥロはいささか大げさなほどに目を瞠ってみせた。黄金色の虹彩に鈍い光が宿った。

「珍しいこともあるもんだな、一匹狼のオルジシュカ。オレんとこに来るのに一度だって連れなんかあったためしがないってのに、いったいどういう風の吹き回しだ」

「珍しいだけの理由があるんだよ、アルトゥロ」

「理由だと?」

 そうだ、とオルジシュカは頷いた。オルジシュカと言葉を交わしながらもアルトゥロの視線はまっすぐにエリシュカに注がれていて、エリシュカは彼から目を逸らすことができない。下手に動揺を見せれば、オルジシュカまでがまずい立場に立たされると悟ったエリシュカは、腹の奥と足指に力をこめてぐっと踏ん張った。

「この子はね、人でなしのあんたの弟が、商売のための囮に使った娘だ。あいつのせいで、危うく犯されて刻まれて売っ払われるところだった」

「なんだと?」

 適当なこと抜かすな、とアルトゥロが唸った。

「適当なことなんか云うはずがないだろ。嘘だと思うなら確かめてみりゃあいい。シルヴェリオのやつもじきにここへやって来る」

 アルトゥロは黄金色の眼差しを、オルジシュカとエリシュカとに交互に据えた。皮肉げに唇を歪めたオルジシュカと、どこか怯えた風情を見せるエリシュカとをしばらくそうやって観察したのち、アルトゥロは、それで、と云った。

「おまえはなんでまたこの娘を連れになんてしようと思った?」

 犯されそうになった同類に同情でもしたか、とアルトゥロは云った。

「同郷の血が懐かしくなったか?」

「あんたにゃ関係ないことだ」

 そうはいかない、とアルトゥロは云った。

「おまえはこの海猫旅団に出入りする故買屋であると同時にオレの客分だ、オルジシュカ。そのおまえが連れ歩く娘は、おまえの客分であると同時にオレの客分でもある。その娘が何者かわからねえうちは、好き勝手させるわけにはいかねえ」

 オルジシュカはすうと紅い瞳を細め、奥歯を噛みしめた。アルトゥロの云うことは正しい。

「怪しい娘じゃないよ。保証する」

 疑うつもりはねえけどな、とアルトゥロは云った。

「この旅団はオレにとっちゃ家族みたいなもんよ、わかるだろ。オレはオレの家族を守らなくちゃならん。いくらおまえの連れであっても、得体の知れねえ女を身内に抱え込むわけにはいかねえんだよ」

 美人は不吉だと昔っから相場が決まってるしな、とアルトゥロは笑った。

「わかったらとっとと吐け」

 オルジシュカは大きく舌打ちをしてアルトゥロから視線を逸らす。だからこの男は面倒なのだ、と彼女は思った。

 自分から話など聞くまでもなく、アルトゥロはエリシュカに関するすべてを把握しているはずだ、とオルジシュカは確信している。

 賞金稼ぎのシルヴェリオは、このアルトゥロの腹心の部下であり、実の弟である。彼らの絆は非常に固い。

 旅団から離れて仕事をすることの多いシルヴェリオは、自分の任務の逐一についてアルトゥロに報告しており、それは今回のエルゼオの捕縛に関しても同じであるはずだった。王城から内密に手配がかけられているエリシュカの存在についても、だからきっとアルトゥロは承知しているに違いないのだ。

 にもかかわらずオルジシュカ自身に口を割らせようとするのは、自身の権威の誇示にほかならない。旅団に属していないオルジシュカに対し、自分たちと行動をともにするあいだは、このオレに逆らうな、とアルトゥロは云っているのである。

「この娘の名はエリシュカ。王城から逃げてきた神ツ国の娘だ」

 アルトゥロとオルジシュカが交わす言葉の裏に隠されている暗黙の凌ぎ合いを察することなど到底できないエリシュカは、突然そう云われて心底驚いた。――黙っていてくれると云ったのに。

 たとえ一瞬でもオルジシュカを信じようと思ったのは間違いだったのだろうか、とエリシュカは思った。わたしはまた騙されたのだろうか。

 やはりそうか、とアルトゥロは云った。そしてあらためてエリシュカに黄金色の視線を向けた。

「で、なんだってその厄介な娘を拾う気になんてなったんだ」

「そいつは云いたくない」

「頑なだな」

 好きなように云え、とオルジシュカは云った。

「なんと云われようともエリィはあたしの客分だ。そいつが気にくわないなら、あたしごとここから叩き出せばいい」

 オルジシュカの声は鋭く尖り、あたりの空気を切り裂くように冷たく響いた。しかし、それで、と続けたアルトゥロの声にはいっさいの動揺も滲んではおらず、彼がオルジシュカの怒りをものともしていないことは明らかだった。

「オルジシュカにここまで云わせて、当のおまえは知らん顔か、エリシュカ」

 突然に名を呼ばれ、エリシュカは肩を震わせた。オルジシュカに対するものとは異なる響きが、その声には含まれている。それがアルトゥロの苛立ちであるとは、すぐにはわからなかった。

「なにか云うことはないのか」

「云う、こと……?」

「王城で高貴な男に愛されていたおまえには、おまえの身を案じる者の気遣いなどどうでもいいのか」

「そんなことは……!」

 弾かれたように言葉を返したエリシュカに、アルトゥロは、そうかな、と冷たく応じた。

「おまえのことを庇おうとオルジシュカが必死でいるというのに、当のおまえはただ薄らぼんやりと結論が出るのを待っているように見えたがな」

 ふたりの云い合いのいったいどこに口を挟む隙があったというのか、とエリシュカは思った。だいたいわたしは、アルトゥロという男が何者であるのかさえ知らされていないのだ。

「オレが何者かわからなければ、言葉を返すこともできないのか」

 まるで思考を読んだかのようなアルトゥロの言葉に、エリシュカはますます顔を強張らせた。

「おまえは相手によって自分を変えるのか」

 言葉を選ぶというのはそういうことだぞ、とアルトゥロは云った。それが当然ではないのだろうか、とエリシュカは思った。

「相手が王であれ賊であれ、それがおまえにとってなんだというのだ。おまえはおまえだろう。違うのか」

 アルトゥロの黄金色の瞳は炯々としてエリシュカの胸の真ん中を貫いた。殺されないよう、傷つけられないよう、奪われないよう、これまでただそれだけを考えて言葉を選び、態度を決めてきたエリシュカにとって、アルトゥロの言葉は誹謗にも等しい暴言だ。

 なんにも知らないくせに、とエリシュカは奥歯を噛みしめた。わたしのこれまでをなんにも知らないくせに。

「云いたいことがあるのなら自分で云え。オルジシュカに甘えるな」

 わたしは、とエリシュカは云った。

「わたしは神ツ国の賤民です」

 自分でもいったいなにを云い出すつもりでいるのか、と驚くエリシュカは、己の背後でオルジシュカが紅い瞳をこぼれんばかりに見開いていることには気づかなかった。

 エリシュカと向かい合っているアルトゥロは、むろんオルジシュカの動揺を視界の隅に捉えていたけれど、とくになにを云うでもなくエリシュカに続きを促した。

「主の機嫌ひとつ、都合ひとつで生かされたり殺されたりするような暮らしをずっと続けてきたのです。わたしにとって言葉を選ぶことは生きることです。自分を変えることは生き延びることです。なにも知らないあなたに、勝手なことを云われる筋合いはありません」

 アルトゥロはまっすぐにエリシュカを見ていた。これ以上ないほど、まっすぐに。

 エリシュカもまたアルトゥロをまっすぐに見返していた。薄い紫色の瞳に、これまで込めたことがないほどに強い力を込めて。

 エリシュカは憤っていた。

 なにも知らないくせに勝手なことを云うアルトゥロに。そんなアルトゥロの前に連れてきたオルジシュカに。オルジシュカと出会うきっかけを作ったエルゼオとシルヴェリオに。ふたりのもとへ自分を導いたジーノに。

 憤りは時を遡り、過去にまで向けられた。

 わたしを東国へ連れてきた姫さま、ツェツィーリアさま、教主猊下。ひどい扱いをされはしたけれど、しかし同時に帰郷の希望でもあった姫さまからわたしを引き離したアランさま、モルガーヌさま。

 誰も彼もが勝手な都合でわたしを利用し、踏みつけ、嘲笑った。

 わたしが彼らになにをしたというのだ。

 顔を伏せ、言葉を慎み、ただひっそりとそこにありたいと思っていただけなのに。家族のそばで、テネブラエの近くで、穏やかに働き暮らしたいと思っていただけなのに。

 エリシュカは己の中に燻る怒りを、このときはじめて自覚した。――そうか、わたしはこんなにも憤っていたのだ。

 エリシュカの手が、まだ身につけたままだった外套をぐっと握りしめた。そうでもしなければ、じりじりと肚を焼く怒りの炎にわれを忘れてしまいそうだったからだ。

 固く握り締められたエリシュカの拳に目を遣って、オルジシュカは小さなため息をこぼした。先ほど覚えた驚きはすでに落ち着いていた。

 だから面倒なやつだと云ったんだ、とオルジシュカは思った。わざと怒らせて揺さぶって、相手が見せたがらない真の姿を白日の下に曝け出させようとする。それがアルトゥロのいつものやり方であることを、オルジシュカはよく知っている。

 アルトゥロはエリシュカを試そうとしている。自らの懐に入れるべきか者どうかを見極めようとしているのだ。

 あたしもやられたことがあるからね、とオルジシュカは静かにエリシュカの背中を見守った。挑発に乗るのも躱すのもあんた次第だよ、エリシュカ。

 だけど気をつけたほうがいい。アルトゥロは甘くない。気にくわないとなれば相手が誰であろうとも、そしてその相手がどれほど困窮していようとも、決して手を差し伸べたりはしない男なのだ。

 彼はそうやって自分と自分の家族――この海猫旅団のみな――を守ってきた。

「なにも知らない、ねえ……」

 アルトゥロは肉厚な唇の端をぐいと歪めてみせた。エリシュカは眉間に皺を刻んで口許を震わせたが、怯むことなくアルトゥロを見つめ続けた。

「あたりまえだろう、そんなこと。莫迦なのか、おまえは」

 直截な物云いに、エリシュカはなおいっそう目を見開いた。

「オレはおまえを知らん。はっきり云って興味もない。だが、おまえを連れてきたのがオルジシュカである以上、そうも云っていられない」

 おまえにとってははじめて訪れたどうでもいい場所だろうが、とアルトゥロは続ける。

「この海猫旅団はオレにとっては大事な家族だ。ほんの一時でもここの客として迎え入れる以上、おかしな真似をされたら困る。わかるか」

 どういうことですか、とエリシュカはオルジシュカを振り返った。途端に、どこを見てる、とアルトゥロが怒鳴った。

「オレが話してるんだ」

「……アルトゥロ」

 男の大声に身を竦ませたエリシュカに代わり、オルジシュカが声を上げた。

「そう大声を出すな。エリシュカになにも知らせずここへ連れてきたのはあたしだ。質問があるならあたしが答えるし、この子が不始末をしでかすならあたしが責任を取るよ。だからいまは勘弁してやってくれないかな」

「そうはいかない」

 アルトゥロ、とオルジシュカの声に非難が混じる。

「ならばそんなふうにエリィを試すような云い方をするな。もう少し……」

「悪い癖だな、オルジシュカ」

「……なにがだ」

 オルジシュカの紅い瞳が眇められ、隠しようもない不機嫌がその表情に滲んだ。

「そうやって誰でも彼でも甘やかす。シルヴェリオが焦れるのも無理はない」

 いかにも愉快そうにアルトゥロは笑い、しかしすぐに笑いをひっこめると、黙ってろ、と引っ叩くように低い声で云った。

「どんな事情があるにしろ、このオレの前に立っている以上、そいつはオレが検分し、オレが見極める。それがこの海猫旅団の掟だとわかっててここへ連れてきたんだろう、オルジシュカ。そいつを匿え、というのがどれほど厄介なことなのか弁えているつもりなら口を出すな」

 怒りに曇ったエリシュカの頭にアルトゥロの声が響いた。

 そうか、とエリシュカは遅ればせながらようやく気づいた。オルジシュカはわたしを助けてくれようとしているのだ。わたしが王城に追われていることを知って、少しでも身を隠しやすくしてくれようとしているのだろう。

 この海猫旅団が何者であるかはわからないが、もしもうまくここに匿ってもらうことができるのなら、あるいは王城からの追手を躱すことができるのかもしれない。

 エリシュカは深い呼吸を二回、三回と繰り返した。新しく厩にやって来た馬にはじめて話しかけるときのように、深く落ち着いた声を出せるよう腹の底に力をこめる。

「アルトゥロ」

 自分を庇うように立っていたオルジシュカに並ぶように、一歩前へと進み出たエリシュカは、硬い表情ながらできる限りやわらかな眼差しをアルトゥロへと向けた。

「先ほどの非礼はお詫びいたします。そのうえで、どうかわたしの話を聞いていただけませんか」

 アルトゥロは、ほう、と顎を上げてエリシュカを見つめた。

「お願いします」

 アルトゥロは黄金色の瞳をわずかに撓ませた。エリシュカは表情を崩さず、真摯な眸で目の前の男を見つめ続ける。

 ここが勝負どころだと悟ったのか、とアルトゥロはにやりと唇の端を持ち上げた。――思ったよりは見どころがあるのかもしれない。

 人の悪い男は、しばらくのあいだエリシュカを試すように表情を変えずに黙っていたが、やがて、いいだろう、と頷き、聞かせてもらおうか、と鷹揚な仕種で客人に腰を下ろすように合図した。

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