14
重たい目蓋をゆっくり持ち上げたエリシュカの視界に、白い世界が広がった。窓から射し込む眩い陽光。真っ白なシーツと身体を包む羽毛の上掛け。広い寝台はやはり白っぽい天蓋に覆われており、足元のほうだけ天幕が避けられていて外の世界と繋がっている。
ヴァレリーの姿はなかった。
エリシュカは上体を起こそうとして身を捩り、全身を貫く痛みに低く呻いた。声を上げた喉までもが沁みるように痛んで、エリシュカは身体を丸めて苦痛を堪えた。
痛みを感じると同時に、ひどい夜の記憶が否応なしに蘇ってくる。
ヴァレリーはエリシュカがはじめて誰かと共寝するということを知っていた。それにもかかわらず、いっさいの遠慮も気遣いもないような激しさを彼女に強いた。
これはなんの罰だろう、とエリシュカは幾度となく考えた。最初で最後の夜だからと、たったひと夜のことだからと、淡く憧れていた男の腕のなかでふと甘い気持ちになってしまったことを咎められているのだろうか。あるいは、卑しい身分の女が高貴な男にわずかばかりの情けを期待したことを嘲笑われているのだろうか。
最初のくちづけのときまではヴァレリーもやさしかった。額を合わせるようにして覗き込んでくる彼の夏空色の瞳は、その真心を示すかのように揺れていた。
エリシュカ、と名を呼んでくれる声はいつものように穏やかで、いつもよりずっと甘くて、熱くて――。
そう、厩番頭のアランはもういないけれど、ひそかに憧れていたアランさまはここにいるのだ。ここにいてわたしを見つめてくださっているのだ。
そのことに気づいたエリシュカはうっすらと微笑み、ほっそりとしたしなやかな腕をヴァレリーの背中へと伸ばした。今宵限りであるとはいえ、はじめて淡い想いを向けた男に抱かれているのだ。自分にしてみればあまりにも過ぎた幸せだと云えるのかもしれない。
だが、夢のような時間はそこまでだった。唇を合わせたそのあとは、わけもわからぬままひたすら翻弄され、乱され、狂わされて、最後は血の滴るような笑みを浮かべたヴァレリーと眼差しを交わすことすらままならなくなって、エリシュカは気を失うように眠りに落ちた。
あれは本当にわたしの知っていた厩番頭のアランさまと同じ方なのかしら、とエリシュカは思った。目蓋を閉じると、昨夜のうちに涸れ果てたかと思っていた涙が溢れてきた。
睫毛を濡らし、頬を濡らし、エリシュカはしゃくりあげた。たった一度きりの夜を越えた朝がこんなに苦しいものだとは。
姫さまの代わりにここへ寄越されたわたしは、ヴァレリー・アラン・ラ・フォルジュ王太子殿下――そうとは知らぬままに慕ったはじめての男の人――の怒りを買い、罰を受けて死ぬはずだった。
だが、現実はこの身を貪られただけで命は
「お目覚めでございますか」
不意に声をかけられて、泣きじゃくっていたエリシュカはぴたりと声を止めた。あまりにも驚いたために、上掛けのなかで身体を丸めた姿勢のまま目を見開いたきり、動くこともできない。
「失礼いたします」
落ち着いた女性の声はそう云うなり、エリシュカが頭までをもすっぽり覆い隠すようにして引き上げていた上掛けをいきなり剥がし取った。
びくりと身を竦めるエリシュカを見下ろすのは、昨夜、部屋まで案内してくれた際にも穏やかにエリシュカを見守ってくれていた榛色の瞳だった。デジレと名乗ったその侍女はすでに熟年を迎えているのであろうが、髪に白いものが多く混じっているほかは、ほっそりとした身体つきにも穏やかな眼差しにもいささかの衰えも見られない。
「お湯浴みのご用意が調っております。すぐにご案内いたしましょう」
そう云って、痛いほどに力強い手つきで、エリシュカの身を起こしてくれた。そのせいでそれまでエリシュカの身を覆っていた上掛けが肩からするりと滑り落ちる。
エリシュカはそこではじめて自分がなにも身に纏っていないことに気がつき、潰れた喉で悲鳴を上げると掌で胸元を覆い、寝台の上に蹲ってしまった。
明るいなかで一瞬目にした自分の身体は、恥ずかしいほどに傷だらけだった。赤や紫の小さな痣が全身至るところに散らばり、ところどころには噛みつかれたような痕まである。
エリシュカは気づいていないが、ヴァレリーが残した数多の情痕は、彼女の背中や臀部にも散らばっている。羞恥に震える華奢な背中を痛ましげに見つめていたデジレは、やがてよくよくほぐされた柔らかな
「おひとりでお立ちになれますか」
エリシュカは慌てて幾度も頷いた。そうだ、こんなところにいてはいけない。早く自分の部屋へと戻り、仕事に出なくては。すぐに殺されたり、牢に放り込まれなかったりしたことは幸いだが、もうすでに陽も高く昇ったこんな時刻まで寝過ごしてしまったのだ。殺されるよりもひどい罰を受けるかもしれない。
デジレの手から麻布を受け取り自分の身を包んだエリシュカは、軋む身体を叱咤しながらどうにかこうにか寝台を降りた。まるで雲を踏むように足元が覚束ずにふらついて、すぐにデジレに支えられた。
「ご無理はなりません」
なかばデジレに寄りかかるようにして、三歩、四歩と歩みを進めるうちに、ぐらぐらと眩暈がしてくる。睡眠と水分が足りていないせいで軽い貧血を起こしているのだが、エリシュカ本人もデジレもそうとは気づかなかった。
とうとう軽い吐き気まで催し、エリシュカはとうとうその場にしゃがみ込んでしまった。
デジレは低い声で部屋付きの下女を呼んだ。浴室の扉を開けて姿を見せた大柄な彼女は、麻布に包まって蹲るエリシュカの傍に素早く歩み寄ると、いきなり横抱きに抱え上げた。驚いて暴れ出しそうになるエリシュカをデジレの声が叱りつける。
「お静かになさいませ」
下女の手によりなにやらよい香りのする熱い湯が張られた浴槽に沈められ、デジレからは柑橘水の入ったグラスを手渡された。
「お飲みください」
逆らうことなど思いもよらず、喉を潤す。人心地つくまもなく、そのままエリシュカは下女の手によって全身を丁寧に清められた。
涙やらなにやらでごわごわとしていた顔も、無残な有様を晒す身体も、縺れて絡まった髪も、すべてが丁寧に洗われ、労わられ、解されていった。空になったグラスはいつのまにか下げられている。
誰かに身体を洗ってもらうことはおろか、湯を張った浴槽につかることさえも、エリシュカにとっては昨日がはじめての経験だった。当然慣れてなどいるはずもなく、寛ぐどころか、身体を触れられることには嫌悪感さえ覚える。
エリシュカはどうにかやめてもらおうと、必死になって懇願した。
しかし、下女はなにを云ってもエリシュカの面倒をみることをやめない。あげく、厳しい声で苦情さえ訴えられ――後生でございますから、私の仕事を取り上げないでくださいますか――、根負けしてすべてを委ねてしまった。そもそも自分で自分の身体を支えられないほど、全身が怠く重たいのだ。ひとりで入浴などできるわけがなかった。
エリシュカの顔が腫れた目蓋や唇を除いて本来の美しさを、縺れ絡まった髪がもとどおりの艶やかさを、哀れな身体がいつもどおりの清潔さを、それぞれ取り戻すと、下女はまたなんの躊躇いもなくエリシュカを抱え上げ、浴槽から引き上げてくれた。
もうそのころには抗う気力さえなくなっていたエリシュカは、人形のようにぐったりと身を預けるばかりである。されるがままに着心地のよいガウンに包まれ、髪を
部屋のなかではデジレが立ったまま待ちかまえている。下女の首に縋りつくようにして横抱きにされていたエリシュカは、なにを叱られるかと怯えて顔を伏せた。
「そちらの寝台に」
デジレに云われたとおりにエリシュカの身体を寝台の上に下ろした下女は、言葉を発することもないまま丁寧に一礼すると浴室へと姿を消した。
寝台の上に座り込んだきりのエリシュカは、あまりの気怠さに身を起こしていることがやっとの有様だった。本当はいますぐにこの部屋を飛び出していき、仕事に戻らなければならないとか、自分よりずっと身分が上であろうデジレに、素肌にガウン一枚羽織っただけのふしだらな恰好で相対することがどれだけ失礼にあたるかとか、そういったことをいっさい考えられずにぼんやりとしていた。
「お嬢さま」
それが己に対する呼びかけだとは気づけずにいたエリシュカは、やがてデジレが、エリシュカさま、と躊躇いがちに名を呼んでくれるまで、ただただ茫然としていた。
「僭越ながら侍医を呼ばせていただきました。お身体を失礼いたします」
咄嗟にガウンの襟元を掴んで身を庇ったエリシュカだったが、間をおかずに現れた侍医とその助手である医官の手によってあっというまに身ぐるみ剥がされ、痛みと羞恥とに小さく呻き続けながら診察を受けることとなってしまった。
いまここにはいない男の、身勝手な征服欲と独占欲の証に埋め尽くされた小さな身体を隅々まで検診した医師はやがて、問題はいっさいございません、と落ち着いた声で云った。彼は診察のあいだじゅう、完璧な職業的無表情を保っていたが、最後に傍らに控えていたデジレに蓋のついた小さな広口瓶を渡すときだけは、ほんのわずかな同情の笑みを浮かべた。
「傷口に塗る軟膏です。痛みを抑える効果もございます。どうぞお大事に」
デジレは失礼にあたらない程度の笑顔を浮かべ、侍医を部屋の外へと送り出す。寝台の上で慌ててガウンを羽織り直したエリシュカは、その勢いで寝台から降りようとしたところを振り返ったデジレに見咎められてしまった。
「お嬢さま」
なりません、と駆け寄ってきたデジレは、そのほっそりとした姿に似合わぬ力強さでエリシュカを寝台の真ん中へと押し戻し、さらには軽い上掛けを重ねかけてきた。エリシュカは痛む身体を必死に動かし、デジレの動きを拒もうとする。
「いったいどうなさったというのです?」
「戻らなくては……」
哀れに掠れた声でエリシュカは懇願した。
「どうか戻らせてください。仕事があるのです」
「お嬢さま」
どうにかこうにかデジレの手を逃れたエリシュカは寝台の縁までたどり着くと、よろめきながらも床に立ち上がってみせた。おまけにその場に跪いて蹲ろうとする。
「なにをなさるのですっ!」
デジレの声はほとんど悲鳴だ。それにかまわずエリシュカは床に膝をついて頭を下げた。
「数々の非礼はこうしてお詫びいたします。どうか、どうかお許しを……」
「お嬢さまッ!」
おやめください、お嬢さま、というデジレの叫びを聞きつけたのか、部屋の扉が外から強めに叩かれる。どうかなさいましたか、デジレさま、入ってもよろしいですか。複数の声がするなかから誰かを選んででもいたのだろうか、少しの間を置いたのち、モルガーヌだけお入りなさい、とデジレは云った。
失礼いたします、と低い声が響き、背の高い若い侍女――デジレに呼び入れられたモルガーヌ――が部屋へと飛び込んできた。利発そうな光を宿す黒い瞳を室内に走らせ、床に蹲る少女の姿を目にした彼女は、躊躇うことなくエリシュカに近づいた。
エリシュカの傍に膝をついたモルガーヌはデジレの顔を仰ぐこともなく、ふたたび、失礼いたします、と声をかけてからエリシュカの身体を抱き起して寝台の縁へと腰かけさせた。乱れたガウンの裾と顔にかかった髪を素早く整える手つきは、いかにも聡明で有能な侍女にふさわしいものだった。
エリシュカはただぶるぶると震えて怯えていた。
昨夜のわたしは、姫さまの代わりに王太子殿下の寝所へ赴き、怒りを買って殺されるはずだった、とエリシュカは冷静になるために事態を整理しようと考えた。
王太子殿下の正体がひそかに憧れていたアランだと知って、ひと夜の相手となれることに小さな喜びを覚えはしたが、彼は少しもやさしくしてはくれなかった。はじめての夜伽の恐怖に泣き叫ぶエリシュカを押さえつけ、ひどく痛めつけた。
朝になって目覚めてみれば彼の姿はすでになく、自分の身体は惨めなほどに傷だらけでおまけに動くことさえままならない。それでもなんとかして仕事に戻ろうと試みてはみたが、入浴させられ、診察を受けさせられ、いまはデジレともうひとりの侍女とに睨まれている。
いったいどんなお叱りを受けるのだろう、とエリシュカは俯いた。いかに姫さまのご命令だったとはいえ、たった一度のこととはいえ、異国の賤民であるわたしが、この国の王太子のお相手をするなど不敬きわまりないことだったのに違いない。この王城の侍女である彼女たちの怒りはもっともなものだ。
「お許しください」
どうかお許しください、とエリシュカは何度も何度も繰り返した。
デジレとモルガーヌは、どうしたものか、とばかりに顔を見合わせた。
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